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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

487 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/05(日) 11:19:43.66 ID:zWwbqjoP.net
>>447
>(即ちアートマン)は、
>有為なるものであり、>現象界における一切(一切法) の中にあるもの
>となるが?

いや.全然そうとはなりませんよ。
「有為」が涅槃を覚知できるわけがないでしょうが!!!
いちいち言われなくても“アートマンは無為”に決まってるわ。

事例...
 『〔それは〕全体であり、一切に遍満し、寂静であり、汚れなく、虚空のように安定し、
部分をもたず、行為をもたず、一切であり、常住であり、二元対立を越えている、〔と知るべきである〕。』
(シャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』T,15.37)
 『変化せず、清浄であり、悪を離れたブラフマンである私に、
精神統一していない状態や他の浄化されるべきものがあるのを、決して、私は見ることがない。』
(『同著』T,14.35)

アートマン(であり、かつブラフマン)の持つ基本属性とは、
“不生不滅にして永劫恒常”、“完全なる清浄性”と“完全なる善意識”、
そして、当然ながら“非物質性”であるということ。

一体、仏教の説く涅槃と何がどう違う??
唯一の違いとしてはだ、それは覚知される境地と覚知する主体との差でしかない。
しかし、それは当然、覚知する主体がなければ(涅槃を)覚知できるわけがないのであり、
また、涅槃に達しなければ、当然、涅槃を覚知するわけもないこと。
ただ、それだけのことだ!!!

488 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:21:26 ID:zWwbqjoP.net
>だから、貴方が強く述べ続けなければならないのは
>「涅槃」(の在り様)ではなく、「意識、真我、アートマン」(の在り様)についてなのです。

アートマンがいかなるものかについて説くことはブッダの目的にはない。
(未完の者には決して)知覚できないものについてアレコレと説いたり、
アートマンについて論ずることはしない、というのがブッダの採る方針ですよ。
ブッダが具体的に説かれなかったものを、この私が仏典からアレコレ摘出できるわけがない。
ただ、この私がいってることは、「アートマンを勝手に“無い”ことにするな!」
(それはブッダの教えとしては完全なる間違いだから)といってるまでのことだ。
そして、それを理由にして、「ヒンドゥー含めその他すべてを有我論として馬鹿にする愚弄を止めよ!」ということと、
アートマンとも繋がる「目指すべき“真実の自己”というアプローチを忘れてはならない」ということ。

489 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:22:19 ID:zWwbqjoP.net
>>455
>「変性した五蘊」とは、いったいぜんたいどういうことか(ものか)?
> 一瞬一瞬、因により縁により転変し続ける五蘊が変性するとは、いかなる理(ことわり)であろうか。

仏典的には、よく整備(制御)された自己(五蘊としての自己)や
(欲望と執着を沈めて)浄化された自己として語られる程度ではないかと思う。
よく鍛え上げられ見事に磨かれた清らかな五蘊としての自己でしょう。
修行によってそれが可能となると(尚、神智学を学べば詳細を知ることができる)。

>さらにそこから輝きを発すとは、いかなる道理があり得るだろうか。

「五蘊が光り輝く」というから良くないのかもしれない...。
では、五蘊が浄化されて透明となることによって、
アートマンの持つ輝く光が(遮断されずに)そのまま放射されて見ることができる、という感じになるのかな?
心性本浄を説く経文『比丘たちよ、この心は光浄である』(パーリ増支部1,5)も、そのことと関係していると思われるし、
そして、五蘊との関係でいえばまさに『パーリ大涅槃経』に出てくるこれらの描写が最もそのこととは関係深いとみていいと思う。

 『アーナンダよ。そのとおりである。まことに二つの時において修行完成者の皮膚の色は、きよらかで、輝かしい。この二つの時とは
どれであるか? すなわち、アーナンダよ。修行完成者が無上のさとりを達した夜と、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入る夜とで
ある。アーナンダよ。この二つの時において、修行完成者の皮膚の色は、極めてきよらかで、輝かしい。』
(パーリ大涅槃経4,17-37)

490 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:23:30 ID:zWwbqjoP.net
>>473
>そういう人でも、愛や友情、喜び悲しみ等が無い、とまで言い切る人は少ないだろう。
>「唯○○論」と一口に言っても、その範囲は結構広い。

違います!
その意味とは、「愛や友情は物質とはいわないだろう?」ということではなくて、
このスレ上でこの私が使う際の「唯物論」の定義は完全に一つのものとして常に定まっていますよ!
要するに、人間というものは「肉体死の後には故人の意識のようなものは何も残っていない(継続しない)」という考え方のこと。
いわゆる死後の世界であるとか、死者の霊存在であるとか、地獄や極楽天国、
そして、前世来世/生まれ変わり転生現象...というものの完全否定のことです。
仏教では、これを「断滅論」(最低のものの考え方)と呼ぶのです。
唯物主義では、愛や友情、喜び悲しみ等についても、それらは脳神経科学ですべて説明が付くものと見なします。
脳神経科学においては、ある種の心霊超常現象ですらも脳内反応でそれらを見ているだけとします。
要するに、脳内科学物質による電気的科学反応とするので、当然、肉体が死によって無くなればそれでお終いです。
無知な彼らは、その科学論では説明のつかない事案については無視を決め付ける。

そしてまた、唯物論というものは宗教を(真実のものとしては)認めないということ。
何故ならば、「宗教」(仏教も宗教です)とは『神または何らかの超越的絶対者あるいは神聖なものに関する信仰・行事』(広辞苑)のことなので、
唯物論では、それらの神や超越的な絶対者などは存在しないとみなすものだからです。

491 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:24:13 ID:zWwbqjoP.net
>もし、唯識唯心と言うならば、
>電車なぞ存在しない、身体なぞ存在しない、
>と唱えながら踏切に飛び込んでみるがいい、と。

クリスチャン・サイレンス派の話とも同じことですが、
たとえ我々のこの心身が有為五蘊であろうと、無自性/空であろうと、或いはまた、幻影マーヤーであろうとも、
今の我々にとっては、まったくのリアル現実なんだということを絶対に忘れてはならないということ。

>>474
神智学的には、心や思考というのは物質の範疇です(物理学の定義ではなく)。

>>475
最近、「仮想現実」という言葉を投稿していく者がいるけれども、
アートマンを実現した際には、それまで体験してきたすべての物事が幻影マーヤーに過ぎなかったことを悟るといわれている。
もちろん仏教でも、ブッダの意識内では同じくそういうことになっているものと私も思う。

492 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 11:24:52 ID:so6vgZk3.net
すいません。「華厳経」と「金光明経」を読んだ在家なんですが、
誰か、その二つの経典について話ませんか。

493 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:25:18 ID:zWwbqjoP.net
>>448>>456
それは、つまり大乗(龍樹)の説かれたものはコレコレ...である、
ということをただ単に中村氏が説明して述べたものでしょう。

「諸法実相」というのは、諸々のすべての無我性のものについて、
つまり、“「縁起」の法則”それ自体は法性(法それ自体が持つ自性)である、ということを示す言葉です。
これを言い換えるならば、縁起の法それ自体は如来の出現する如何に関わらずそれ以前からある絶対的な法則であるから、
それはいわば「無為」ということでもある、ということをいっているのです
(ただし、「諸法実相」などというのも所詮は、漢訳仏教徒の手に拠る造語に過ぎないが...)。

しかしながら、“ブッダがいいもしなかったことを勝手に捻じ曲げて解釈をして”、
本来、一切(有為)の中にはなかった涅槃(無為)についてを、「有為法である縁起の法則そのものは無為だ」などといって、
“一切諸法とは、有為も無為もすべて含むものだとして涅槃をも入れてしまう”というやり方は、
つまり、絶対にやってはならない---詭弁!!---であるということ。

>>449
その経文はよく分からないけれども...

>ちなみに私達は五蘊や六根に自我、先入観、潜在意識(末那識や阿頼耶識など)の覆いがあるために諸法実相を知見できません。
>その覆いを外すことができたら苦の終わりとされます。

その理解については、同意しますよ!

494 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:33:11 ID:zWwbqjoP.net
>>451-452
それらの経文(空性に住すると)は、
現象界の一切(有為)が空性であることを(単なる知的理解などではなくて)完全に体感している状態のことを意味しているものと思われます。
我々は、教えを受けてそのこと(空)を理解することはできますが、無自性や非実在ということを体感することはできない。
けれども、そのこと(空性)を完全に体感できたのならば、それは完成者(仏)であるという意味でもある。
つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。
ただし、涅槃が空であるわけでも、如来そのものが空だということではないということ。
まっ、たったそれだけの違いでしかないけれども...しかし、ここがやはり重要でもあって、
ここで涅槃を空だとしてしまうと、「輪廻(現象界の性質である)とも違いの無い同じく空なんだ」ということになってしまう。
しかしそれだと、『ウダーナ』の教えに抵触することになる。
ブッダは、“有為と涅槃は異なる”から有為からの出離をそれとして覚知できるのだといっているのに、
その涅槃を勝手に同じく空としたのでは、当然、その違いがないのだから出離を覚知できないことになってしまう!

だから、龍樹『中論』の言葉、
>一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
は、絶対にしてはならないものだということなのです。

仏教徒らは結局のところ、ブッダの教えを摂るのか? それとも龍樹の方を摂るのか? を、ハッキリと決めなければならない。
石飛氏のように、「龍樹がブッダの教えの最大の理解者である」かのような評価は、私は間違っていると思う。

>大般涅槃経にはブッダのは体が痛いのを正念、禅定などで(必死に)堪えていることが書いてあります。

確かに、完成した如来であろうとも見た目上では我々同様に同じく病気もするし、怪我もする。痛みもあるし、やがて肉体死もやってくる...。
しかし、それでも完成者である如来は、如来自身にとっては何らの痛みも苦悩もなく、そして、死を体験することはもうないということ。
如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。

495 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:34:50 ID:zWwbqjoP.net
>>453
了解。

要するに、「諸法」(五蘊・色および物質現象界のすべての物質と事象)が「空」であるということですが、
「空不異色」(空は色に異ならず)、「空即是色」(空は即ち是れ色なり)ともある通りで、
空は涅槃/涅槃は空などということにはならないし、もちろん、
そんなことはまったく何処にも述べられてはいない。
そのように解することもできない。

>>460
>我ありとの慢からではなく、あくまでそのような者として

これは、
所謂、(ウパニシャッドの)アートマンの有無についてアレコレ述べているのではなくて、
「あいつは我の固まりだ! 」、「我のはった奴だ! 」、「わたしは我を捨てる」...などとして使われるもののこと。
つまり、自分本位で自己主張の強い者を「我慢ガマン」できない奴だといい、
自分本位な自己主張を押さえることを“我慢する”という。
そのような慢心のない純粋な意味で「私は言う」と言ってるということでしょう。

しかし、もしもこれが私の読み違いだったならば、
可能性としてのもう一つの解釈としては、『煩悩の汚れを滅ぼした真人(阿羅漢)、すなわち、
修行を完成した尊敬すべき人は「わたしが語る」と言ってもよい。』(SN.?,3-5)
と、同一の意味合いでの経文だということになる。
つまり、アートマンを確立した者だからこそ、
そういう意味において「わたしは語る」と言っていいということ。

496 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 12:01:12 ID:jiPt90OK.net
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-916

497 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 14:20:46 ID:7ZB93Sc1.net
>>481
中村元先生によると一切を空と観るのは原始仏教からの習わしであり、
また仏説に背いてまで法の実有を主張したのが説一切有部(有部に限らず部派仏教で法有を主張した部派は多いと思いますが)であるそうです。
(但し説一切有部が法を実有とした理論・理由・理屈ももちろんちゃんとあります)
https://i.imgur.com/JMO0IOx.jpg
https://i.imgur.com/YISRu7u.jpg

>>482
物が実在する実体であるとするのが唯物論です。
言葉の定義はこちらを↓
https://kotobank.jp/word/%E5%94%AF%E7%89%A9%E8%AB%96-144564/googleamp

成滅は生滅の変換ミス?
まああなたの理論は勝義諦と世俗諦を無視しているところがありません?
大乗でも小乗でも理論は異なりますが、どちらも世俗の常識を否定・無視するようなことはしてないですからね。

>>484
龍樹も毒矢の喩えで問われているようなことは、形而上の有無(有でも無でもないから中観)のことは戯論であるとして無記ですが。
暇があったら↓のpdfサイトをご覧になると良いと思います(URLが長過ぎてここに直貼りはできませんでした)
https://i.imgur.com/BLA2HEk.jpg
※検索する時は「中論 無記」で出ます。

>>485
唯空論?

七 もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という或るものが存在するであろう。しかるに不空でないものは何も存在しない。どうして空なるものが存在するであろうか。

八 一切の執着を脱せんがために、勝者(仏)により空が説かれた。しかるに人がもしも空見をいだくならば、その人々を「何ともしようのない人」と読んだのである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9507743

空は存在するものではないので唯空論という言葉遣いは変です。
空に執着し空を実体視した空見を抱くなら、その人々を勝者は…(以下略)

498 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 14:20:55 ID:7ZB93Sc1.net
>>486
まあ意訳ですけどね。直訳は

Tassa taṃ passato nijjhāyato yoniso upaparikkhato rittakaññeva khāyati, tucchakaññeva khāyati, asārakaññeva khāyati.
見て、審慮し、如理に考察する彼にとって、それはただ空無なものに思われ、ただ空虚なものに思われ、ただ真髄なきものに思われます。

Kiñhi siyā, bhikkhave, rūpe sāro?
なぜなら比丘たちよ、どうして〈色〉に真髄(sāro核心・実体)がありましょうか。

まあしかし、意訳の方でも「実体はないと説いている」でも「実体はないと知ると説いている」でもどちらでも構わないと思いますけどね。
知るを入れないと何か困ることでもあるのでしょうか?
しかも、その直ぐ後に「どうして◯(五蘊の一つ一つが入る)に本質があろうぞ」と説いているのに。

499 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 17:05:34 ID:y7fttOG9.net
>>326
>しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
>うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。それを部派仏教では不生不
>滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教では説かない概念であって、仏教本
>来の立場を逸脱したものである。」(p145)
>(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

部派仏教でも経量部の涅槃論は水野説とほぼ同じか!?
https://i.imgur.com/6gtgNok.jpg

500 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 19:52:52 ID:Jf/v2/zj.net
>>477
それ解脱してるじゃん(=非輪廻)
輪廻=解脱してない迷いの状態と涅槃が等しいって言ってるんだよ中論は

501 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 21:09:19 ID:jiPt90OK.net
だからw

>>487
>覚知される境地と覚知する主体 ってのが、そもそも
ブッダの視線からすれば顛倒だ、ということなんだがな。
 *(また、百歩譲っても、
  そこには、まだ主客があるじゃない。一如になってないじゃない。
  どうなのよ?神智ヒンドゥとしてw


勝義で言えば「主体は居ない」(龍樹が言う通りに)。境地だけがそこにある。
ただ、所縁によって五蘊として生じている存在がある。(中観的謂いなら仮設として)
 (それは、宝珠だったりセブンだったり龍樹だったりブッダゴーサだったり、シッダッタだったり、
 教えを説き、或いは聞く、生けるものとして。)
その五蘊が涅槃を見る。(だから、如来の(再結集しない)五蘊拡散の後は無記と言われる。)
これで十分な筈なんですけどね。

502 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 21:45:55 ID:nnuTCWco.net
空、を理解できれば天才である。
バカには理解できない。大爆笑である。

503 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 22:41:51 ID:cpw3RnIN.net
どうしたポッタン、名前を忘れたか?

504 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 22:48:13 ID:cpw3RnIN.net
>>497-498
なんか微妙に会話がズレてる気がするので、
今回はこの辺で打ち切りにw

505 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 22:56:23 ID:cpw3RnIN.net
>>494
> 仏教徒らは結局のところ、ブッダの教えを摂るのか? それとも龍樹の方を摂るのか? を、ハッキリと決めなければならない。

また偉そうなダブルスタンダードきたね

大乗仏教徒だけに言える話だよねその傲慢なセリフは

でまた話の都合が悪くなると今度は別のネタでテーラワーダ仏教徒(彼らは龍樹なんて何とも思ってない)への批難を引き出して偉そうにして自己正当化を図るんだろw

506 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 23:01:43 ID:D4EYb196.net
>>500
後半が顛倒から離れて解脱している状態
前半は顛倒の中にあり輪廻(これも概念ですが)している状態

どちらもこの世界での状態。
なので輪廻と涅槃には差別の相はありません。
違うのは凡夫と解脱者の世界観ということになります。

悟りの目から見れば「涅槃は有に非ず、無に非ず」、有でも無でもないものに分別はありません、故に輪廻とニルヴァーナには区別はありません。

※「中論」第一八章 アートマンの考察
七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9529993

輪廻と涅槃は不二(あなたも最初に仰っていましたが)なので輪廻が滅すれば涅槃も滅します。
故に「涅槃の究極なるものはすなわち輪廻の究極である。」ということになります。

以上、龍樹によれば。
そして大乗仏教はこの観想を踏襲していきます。

507 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 23:39:46 ID:YvHfLDxG.net
>>494
>つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。

ではなくて、空小経でも空大経でも沙門、婆羅門、如来は空性に達して煩悩がなくなり不動を得るということです。
素直に経典を読めばそうなるはずですが。

また涅槃が空〜以下ですが、中論でも

五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。

六 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして【他のものに】依らずに存するであろうか
【しからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる】。何となればいかなる有も【他のものに】依らないでは存在しないからである。

一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。

とニルヴァーナは無為であることは当然認めて、そこから理論展開しています。
ニルヴァーナは有に非ずまた無にも非ず、という結論に向けて。

>如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。

これはドグマが過ぎますね。そうであって欲しいというお気持ちは分かりますが。

508 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 23:42:00 ID:YvHfLDxG.net
>>504
まああなたはマトリックスとかの仮想現実みたいな話が好きなのかもしれませんが、私はそういうのには興味はないので話がズレると感じるのかもしれませんね。
ひょっとしたら。

509 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 23:48:10 ID:YvHfLDxG.net
>>499
「一切」が無為法を含むか否かに関しては、ドゥ・ラ・ヴァレ・プーサンやスチェルバツキーらの西洋の学者の間に論争が行われたが、
無為法を実有なる法とみなすか否かによって定まるのではなかろうか。
有部のように無為法という実体を認めるならば「一切」の中に含まれざるをえないのであると思う。
この見解は後世にも継承されている。
(中村元)

510 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 00:05:04 ID:U0MjZLM6.net
>>508
違います
流れから批判的に引き合いに出してる話を、俺自身のことに受け取られたりと色々とね
まあさほど重要じゃないので今無理に突き詰めなくてもいいんでw

511 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 01:04:06 ID:dAapStO1.net
>>394-398
さて、この「長部・大縁方便経」の要旨ですが、


我アートマンを設定する人、設定しない人ともに些細な理由からそうしているだけで、そういう意味ではどこかの経典を簡潔にまとめたサイトにあった

「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

は相当な意訳ですが、的は得ているとは思いますw

そして、我を認める者でも感受がなければ我を意識できない。
つまり、(少なくともこの経で挙げられている)我は感受がもたらす概念であり錯覚である。
それを知って執着を解いた比丘は輪廻から解脱する。
彼は世間に於ける名称(世俗諦)を概念と見極める智慧があり、故に彼は如来の死後(のような無記の部分)についての見解を抱いているとか答えないから知らないのだとかと妄想するのは適切ではない。


私のまとめではこうなります。
これが完全に正しいという主張はしませんがw

しかし、以上は大縁方便経の内容の1/3にも満たない程度ですが、それでも数行に纏めるのは私には無理でしたw

512 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 02:03:10.13 ID:dAapStO1.net
>>495

>>460
>〔世尊曰く〕「♪比丘が阿羅漢へ至った者となり、♪漏尽者にして最後身の保持者となったとしても、♪彼は『私は言う』と言い得る。
>♪また彼は『彼らは私へ言う』と言い得る。
>♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」

この神に対する答えで大切なのは
>♪善巧なる者は世間の呼称を知りて、♪ただ慣用語として、彼は言説することができるのである」
という箇所でしょう。
これも世俗諦としては「私は言う」と言ってもよい、阿羅漢はそれが世俗諦であるこことを知っているから、という教説になります。

参考までに
相応部 諸天相応 1.2.10 サミッディ
より

「名称で表現されるもののみを心の中に考えている人々は、名称で表現されるものの上にのみ立脚している。
名称で表現されるものを完全に理解しないならば、かれらは死の支配束縛に陥る。
しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。
その人を汚して瑕瑾となるもの{煩悩}は、もはやその人には存在しない。 」
直訳は↓
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c20.htm

>しかし名称で表現されるものを完全に理解して、名称で表現をなす主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。

私は言うの主体である私は世間の呼称、慣用語なのですが、その主体が{有る}と"考えない"ならば、その人には死の支配束縛は存在しない。

となります。
だからといってブッダは暗にアートマンを否定したとは言いませんが、これらの経典から
>つまり、アートマンを確立した者だからこそ、
>そういう意味において「わたしは語る」と言っていいということ。
とするのは無理があるんじゃないですかね?

513 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 07:53:34.12 ID:n4vyZA+C.net
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1533070464/461
ああ、そうかw
中村註を根拠にして、やけに強気だと思ったら、そういうことか。
>【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。
>『雑阿含経』には「何言説有我」。
>わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51).
>「我所」(『雑阿含経』)。】  (中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)

頁数打ってある所をみると手元に持ってるんだと思うから、よーく確認しとけ。 >>宝珠
この註この一文が、いったいどの部分の註であるか、を。
註のアスタリスク(*)が、本文のどこに付けられているか。

514 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 10:16:27 ID:OzKb7zxX.net
>>490
参考:

『哲学的唯物論(物質論)
philosophical materialism (physicalism)
 哲学的唯物論(物質論)は形而上学的視点である。宇宙には唯一物質 substance だけがあり、それは物理的なもので、経験的あるいは実
体的存在である、とする。唯物論者は、霊的(spiritual)存在は妄想であると信じている。超常現象や超自然現象、オカルト現象は妄想か、
あるいは物理的な力の作用に還元できるとする。
 唯物論者は必ずしも無神論者であるわけではなく、愛や正義、美や善といったことがらの実存を否定しているわけでもない。』
 https://www.genpaku.org/skepticj/materialism.html
 ↑
なかなかイイ感じの説明だと気に入りましたが、
確かに、唯物論者は「愛や正義、美や善を否定するというわけではない」のは正解であるけれども、
しかし唯物論者は、物質レベルを超えた超常的な存在や力や現象は完全否定なので、神を認めるということは絶対にあり得ない。
従って、100%無神論者の筈であるので、「必ずしも無神論者であるわけではなく」というのは完全なる間違いでしょう。

515 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 10:18:02 ID:OzKb7zxX.net
 『輪廻の観念を受けて、苦しみからの解放は、この苦しみの生存からの離脱、すなわち輪廻から脱することであると考えられるようになる。
そして、悟りを表す表現は、次のように定型化された。
「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」
 ところで、何に生まれ変わるかを決定する原因が何であるかについては、ブッダ時代の一般社会において、さまざまに考えられていた。臨
終に際しての意志によるとの考え、あるいは神の意志によるとの考えもあったが、支配的な考えは、前世における業によるという考えであった。
 ブッダと同時代の自由思想家の中には、プーラナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように、業の因果応報を積極的に否定したものも
あった。彼らは善悪の行為が後に安楽と苦しみの果報をもたらすことはないと考えた。またマッカリ・ゴーサーラのように運命論を説く人もい
た。さらに、業の因果応報思想の中には、前世での行為(業)を宿命のようにみなす決定論的な考えもあった。現世での行いは、善であれ、悪
であれ、すべて前世の業によって規定されているというのである。この説によれば、意志の自発による行為は認められない。
 これらに対し、仏教やジャイナ教は、このような人間の行為の効力を認めない説を行為否定論(akiriyavaada, akriyaavaada)と呼び、道徳
を破壊する説として非難した。
 仏教は、「世尊は業論者、行為論者、努力論者であった」(Anguttara Nikaaya I p.287)として、業思想を容認しつつ、行為・努力に生存のあ
り方を変える効力を認める立場をとった。』
(野沢 正信作『インド思想史略説』前提となる世界観ーー輪廻・業)

・野沢 正信作『インド思想史略説』アジタ・ケーサカンバリンの唯物論
  http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/ajita.htm
・茨田 通俊著『断滅論 (ucchedavada) について』
  https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/43/1/43_1_423/_pdf/-char/ja
・畑昌利 著『初期仏典における断滅論の諸相』
  https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/5095/mrp_036-033A.pdf

516 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 10:20:11 ID:OzKb7zxX.net
>>501
>覚知される境地と覚知する主体 ってのが、そもそも
>---中略--- 一如になってないじゃない。

七セブン。あなたのいってることというのは、
「“ブラフマン”と“アートマン”の二つなのだから、全然それは<一如>になってないじゃないか!」
と、まるでヤクザがイチャモンつけてるのと同じですよ。
そうではなくて、これは「ブラフマンとアートマンの二つは一如なんだ」ということをいってるのです。
例えるならばそれは、海洋の大海であるブラフマンとその海水をコップで汲み取ったものがアートマンであるということ。
そして、それは体験すれば分かるのだと。

ものの見かたとしては、この場合でも同様であって、
「覚知される境地」と「覚知する主体」とは“二つで同時セット”です。
何故ならば、どちら一方が欠けては絶対に成立をしませんから。

あなたは、「五蘊が涅槃を見るで十分な筈」だといいますけれど、
五蘊というのは、すなわち「有為」のこと。
その有為によっては涅槃もアートマンも覚知できるわけがないでしょう。
そもそも、有為では覚知できないから説くことをしないのだから。

>>513
再確認しましたが、
わたしの側には特にミスはないと思いますが。

何か勘違いしてませんか?

517 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 10:22:45 ID:OzKb7zxX.net
>>505
それは申し訳なかった...。
確かに、テーラワーダ側は大乗(龍樹含め)をまったく認めてないと思う(非仏説視)。

僧侶についてはよく分からないけれども信者信徒レベルでいえば、
日本の仏教徒には、大乗もテーラワーダも同様に学修している者は割と多いものだ、
という印象を受けていたもので、つい...。m(__)m

518 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 10:24:04 ID:OzKb7zxX.net
>>506
>---中略--- 涅槃も滅します。

 『ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、
不滅のニルヴァーナの境地である。』(Sn.1086)
 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ウダーナヴァルガ26-29)

そのような勝手な話はブッダの教えと完全に反しますよ!
如何なる場合においても「不滅」で「没することのない」のが涅槃というものです。

>>507
涅槃は、「有」でも「無」でもないから「空」なんだというのは、まったく違うでしょう!
“現象界の物質と事象のすべて(すなわち「有為」)”は縁起している存在であり、
無自性なんだということをただ一言で「空」と呼ぶだけのことですよ。
であるのに、「有為」から解脱した涅槃(無為)の境地も同じ「空」のわけがない。
もし同じならば、解脱したという覚知は起きないことになる(それでは『ウダーナ』に反する)。
涅槃について説明している『ウダーナ』によれば、それは有為(縁起してる世界)とはまったく異なる縁起しない境地だと説く。
だからこそ、有為からの出離を覚知することになると。有為から出離した領域が涅槃です。
故に、涅槃というものは、つまるところ「有」でも「無」でも、そして「空」のいずれでもない。

まっ、仏教ではそういう言い方をしないが、
もしも、強いていうとしなならば、これこそが真実の「実有/恒有」だということ。

認めないのはあなたの自由ですから、
もう、あなたとは涅槃は空かどうかの話はこれで終わりとしたいものと思う。

>>511
有難うございましたm(__)m

519 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 11:48:45.17 ID:Vb5bSSeY.net
507と511は同じ人じゃないの?

520 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 12:30:01.08 ID:n4vyZA+C.net
>>516



中村さんの評は、ブッダの発言でなく、神(対論者(外道))の発言についてのものだということ。
つまり中村さんも、
『 >我(アートマン)が存在すると主張する議論 』が、
神によってブッダに対して投げ掛けられた、吹っ掛けられた、
と、この対話の場面について説明しているのさ。

もし、アスタリスクの打たれた場所が世尊の発言の箇所であったなら、
「ブッダは『 >我(アートマン)が存在すると主張 』した」と「中村さんが解していた」
と見做してもいいだろう。
だが、違う。他の中村岩波版を見ても、
アスタリスクの位置は、ちゃんと「その語」「その文」に対して置かれている筈だ。

試みにパラパラめくってみたら、すげー納得したw
宝珠君、誤読だよ(´∀`)b

521 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 12:30:40.05 ID:n4vyZA+C.net
>>519
一応、苦労への御礼じゃない?

こういうとこ、宝珠は結構ちゃんとしてるw



>>516余談:
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/431-440

522 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 12:32:53.15 ID:n4vyZA+C.net
あ、まだ続きアリ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/

523 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 12:40:46.38 ID:xB9CxtIL.net
>>520
まあ、過去の各種状況証拠から、
「結論先にありき」で、
アチコチから都合の良い証拠を文脈無視でスクラップして
つぎはぎだらけのフランケンシュタイン的なキメラを
「これが当の仏教徒が見失ってしまった本来の仏教像だ!」
という主張の仕方が
宝珠の実態だということは
バレバレなんだけどねw

524 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 12:43:04.96 ID:xB9CxtIL.net
ほとんど悪い意味での日本の検察司法制度の手口にも近しいと言うか

525 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/06(月) 13:14:56 ID:OzKb7zxX.net
>>520
絶句...(汗)。

アスタリスクが、
「神の側についていてブッダの言葉の側ではない」だって...?
いやいや、全然そういうことではないでしょうよ! 普通、常識的にみて。いや、どう見てもだwww

アスタリスクが神の側についているのは、
---ただ単に文章が「神いわく」の方が先にきているからですよ---
つまり、問題としてる『わたしが語る』と <わがもの>の二語は、まったく同じくそのまま次の後者「尊師いわく」で使われるわけです。
説明したい言葉が繰り返し同じく使われている場合においては、通常、最初に登場した箇所でアスタリスクが付くに決まってる。
繰り返し使われる際にはもう説明は無用だからですよ。すでに説明したのだから...。理由としては、ただそれだけのことです。
もし逆になっていて、先に「尊師いわく」で始まっていたならば、当然、こちらを先に註釈の対象にするでしょう。
当たり前の話ですよ。普通、その他のどんな書物の場合でもそうなっています!

一体、今までどんな風に書物を読んできたのか? 
理解に苦しみます...

そして、肝心の内容としては、
ブッダは神からのその発言を受けて、“それで良いとして是認している”わけです。
ブッダご自身が認めているのだから誰の文句も無用ですよ。
もし強いていうなれば、「ただし、それは言語表現として仮りにだよ!」と断りをいれてる、ということ。

* 夜勤なので、もう寝かせてくれ〜(苦笑)www

526 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 14:33:56 ID:qMayGCZV.net
1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」
(スッタニパータ)


九 もしも【五蘊、個人存在を構成する五種の要素を】取って、あるいは【因縁に】縁って生死往来(輪廻)する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる。

二四 【ニルヴァーナとは】一切を認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい【境地】である。(戯論が滅するが故に)いかなる教えも、どこおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
(中論)

どちらも現世涅槃で変わらないでんすけどねw

>>518
>如何なる場合においても「不滅」で「没することのない」のが涅槃というものです。

境地が抜けていますよ。

527 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 14:58:25 ID:n4vyZA+C.net
>>525
>繰り返し使われる際にはもう説明は無用だからですよ
うん。そうだね。
世尊の言葉は、しっかり本文の上で
「ただし、これこれの条件付きだけどね(´∀`)b」と
続いてるから再度註することは不要だね。

で、なぜ条件付きでなければならないかと言えば、
最初に神が言ったような意味ではないからであって、
もし、前言の通りであれば、
そのまま繰り返すか、更に補足を加えてブッダから述べ直される
のが仏典の通例。
で、ここで加えられているのは、
「釈子(≒阿羅漢)が“私”と発する時、それは、
 貴方(神)が言う意味(そこにアートマンが居るから)ではなく、
 日常生きる上で必要な呼称を用いているのです」
という但書。


>夜勤なので
この辺も古来から言われる通り、感官を護って、心を抑制する必要があるのだけど、
我等凡夫は、なかなかそれができないw(自嘲)

心がざわついてしまって、
どうしても「チェックしたくなってしまう」(自分の発言への反応、応答・回答が気になってしまう)けれど、
そこをぐっと堪えて、せめて〈明日にしよう〉と念を確立して住することができれば、
ブラウザを開くことなく、対論者の言葉を目にする必要もなく、心に波が立つこともない、と。
だから、夜とか寝る前とかは、
そのようにチェックしたくなる気持ちを抑えて布団に入りましょうw

528 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 22:37:01 ID:dAapStO1.net
>>495
>空は涅槃/涅槃は空などということにはならないし、もちろん、
>そんなことはまったく何処にも述べられてはいない。
>そのように解することもできない。

『「中論」第一八章 アートマンの考察』

五 業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。

六 もろもろのブッダは「我(アートマン)が有る」と仮説し、「無我(アナートマン)である」とも説き、また「アートマンなるものは無く、無我なるものも無い」とも説いた。
 ※ 中観派には<定説>というのがないのである。

七 心の境地が滅したときには、言語の対象もなくなる。真理は不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。

『般若心経』

是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減

※空相とは不生不滅であり、実にニルヴァーナのごとくである。ということにらなります。

是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色聲香味触法 乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

※ニルヴァーナのごとくな空においては十二支縁起や四諦などのお釈迦様の教えもないのは筏の喩えという説があります。
そして空中では識別作用が止滅しているので無分別でもあります。

また
8.(8) 彼が、行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行ったなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨棄する――蛇が、老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。(8)

戯論は空において滅びます。
此岸と彼岸を捨棄するということは、解脱するということです。

529 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 22:39:10 ID:dAapStO1.net
>>528 続き

『ウダーナ バーヒヤの経』

比丘たちよ、樹皮行者のバーヒヤは、完全なる涅槃に到達したのです」と。  
そこで、まさに、世尊は、この義(道理)を知って、その時に、この感興〔の言葉〕を唱えました。

「しかして、そこにおいては、水と地と火と風が依って立つことなく、そこにおいて、星々は輝かず、日は輝かず、そこにおいて、月は輝かず、そこにおいて、闇は見い出されない。
しかして、〔真の〕婆羅門たる牟尼(沈黙の聖者)が、寂黙〔の智慧〕によって、自己みずから知った、そのときは、しかして、形態(色)から〔解き放たれ〕、かつまた、形態なきもの(無色)から〔解き放たれ〕、楽苦〔の思い〕から解き放たれる」

バーヒヤさんが到達された完全なる涅槃は、法華経の仏国土や阿弥陀経の極楽浄土のような煌びやかな浄土ではなく、けっこう空っぽなようですよ。

530 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 23:23:25 ID:L23K43xP.net
>>506
>輪廻が滅すれば涅槃も滅します。

中観でも「涅槃が滅する」とは言わんでしょうw
戯論が滅したら涅槃の如しとは言うけど

531 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 00:33:17 ID:FMEgex7b.net
>>530
中論第25章 20偈

 涅槃之實際  及與世間際 
 如是二際者  無毫釐差別
涅槃の実際と、世間の際と、
是の如き二際は、毫釐の差別無し

https://i.imgur.com/Hd5Hltu.jpg
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=45

https://i.imgur.com/r5y7U95.jpg
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=45

涅槃も世間(輪廻)も際は全く一緒なので尽きる時も同時。
ちなみにどちらも実有ではなく概念であって空という勝義に入れば無涅槃無輪廻になるというのが中観の思想でしょう。

532 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 07:42:33.11 ID:kJ1g2j0f.net
涅槃という「概念」輪廻という「概念」は実有ではないって当たり前ですよね
なんで勘違いさせるように書くのかほんと謎

533 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 07:58:40 ID:frOo+9A4.net
古代インドの人々にとって、
輪廻は現実であり、リアルであり、恐れ回避すべき「現状」(或いは未来の現実)
だったわけで、
その文脈、使われ方の上に説示がされていくのは、致し方ないかと。

534 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 08:36:31.16 ID:FMEgex7b.net
>>532
当たり前ではなかったということです。

こちらを
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=37008&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

535 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 08:56:58 ID:QST5pOsG.net
>>532
うん、唯名論とかねw

536 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 11:58:51.71 ID:r+Ycctj6.net
俺は該当しないがここにいた連中はコロナウィルス羅漢で即マハーニルヴァーナ世代なんだから気をつけろよ

目鼻口が感染ルートなんだから、汚ない手で触るなよ
どうしても触りたきゃ手を洗って流水で30秒以上流してからだぞ
これから緊急事態宣言で3週間で顕在的な感染者15000〜20000で押さえ込めるだろう
その後は梅雨入りと日本人の衛生観念と衛生習慣、衛生環境の相乗効果でいったん減少するがまた秋冬にぶり返す
夏の間にマスクが余るだろうからその間に来年冬のマスク備蓄しておけよ

537 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 12:27:19.24 ID:FMEgex7b.net
>>535
経量部と中観派は西洋の学者から唯名論者と呼ばれているそうです

538 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 18:11:45.84 ID:IeX3VFwW.net
>>531
>ちなみにどちらも実有ではなく概念であって

実有でないならば概念ってそんな等式はないでしょ

539 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 19:44:16.95 ID:FMEgex7b.net
>>538
《経量部の存在論》
経量部は、説一切有部の「五位」 (色・心・心所・心不相応行・無為)のカテゴリーを基本的には踏襲しつ つも部分的な改変を加える。
(中略)
最後に、「無為」(因果関係によって作られない存在)も、認識器官によってその実在性が確認できない虚構の観念的存在に過ぎないため、実在物とはみなさない。

《瑜伽行唯識派の認識論》
唯識派は、心(=識)がすべての法(存在要素)を包含すると考える。
(中略)
無為法(因果関係によって作られない存在)も、それが存在要素として客体的に思惟されるも のである限り、心によって作り出された概念に過ぎない。
http://kokoro.kyoto-u.ac.jp/jp/kokoronomirai/kokoro_vol.9_38-41.pdf

あなた↑の文章を変だと思います?

540 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 19:51:48.17 ID:IeX3VFwW.net
>>539
それチベットの宗学書の見解じゃないん?
歴史的な学派の見解としての妥当性は疑問だなあ

541 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 19:56:21.23 ID:FMEgex7b.net
>>540
文法的に変かどうかを訊いています。

542 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 21:22:21.74 ID:IeX3VFwW.net
>>541
文法?

543 :神も仏も名無しさん:2020/04/07(火) 22:25:57 ID:y6IQ9zpk.net
えらい高飛車だなw

544 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 09:51:52 ID:l3pRMr7e.net
>>542
文法という広範囲な単語を使ったのはこちら側のミスでした。
そこは認めた上で改めて、具体的に問います。
>>539の引用文の

最後に、「無為」(因果関係によって作られない存在)も、認識器官によってその実在性が確認できない虚構の観念的存在に過ぎないため、実在物とはみなさない。

無為法(因果関係によって作られない存在)も、それが存在要素として客体的に思惟されるも のである限り、心によって作り出された概念に過ぎない。

上の文の「観念的存在」という言葉
下の文の「概念」という言葉

にあなたは違和感を感じますか?

545 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 12:32:27 ID:t9ihxKpj.net
横槍だが観念的存在は、ideal existence の翻訳語であり、概念はドイツ哲学の流れから来ているconceptの意であり、どちらも一般用語としては大差ない
意味と意義、言語と言葉ぐらいの違いで、それぐらいの一般用語としての水準の差異しか認められない
これ書いてる人は仮構 prajNaptiを説明してるだけだから一般的解説として何が問題なのか分からん

546 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 14:19:27 ID:JfOx3VHD.net
>>544
>経量部は、説一切有部の「五位」 (色・心・心所・心不相応行・無為)のカテゴリーを基本的には踏襲しつ つも部分的な改変を加える。
経量部にアビダルマはないから、この文章は無意味じゃないかな
倶舎論における経量部がそれというなら、世親の経量部=唯識派だから、端的に間違い

>上の文の「観念的存在」という言葉
>下の文の「概念」という言葉
>にあなたは違和感を感じますか?
そこに「無為」というカテゴリーを設定すること自体に違和感を感じる

最初から無為というカテゴリーを排除すべきじゃない?
無為法は存在しない、と

547 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 14:24:32 ID:JfOx3VHD.net
まあ兎角亀毛も存在すると仮定する、というなら「無為」を云々してもいいのかもしれんけど

548 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 14:50:21 ID:7yrMNbKz.net
無為という言葉(概念)が誕生してしまったが故に、
その中身が何であるか(どうであるか)を決めたくなった、と?

549 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 15:39:02 ID:JfOx3VHD.net
??

550 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 16:23:41 ID:7yrMNbKz.net
名前が存在するからといって、その指示対象も存在するとは限らない。

551 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:36:38 ID:l3pRMr7e.net
すみません、私が書いた
>>531
>ちなみにどちらも実有ではなく概念であって空という勝義に入れば無涅槃無輪廻になるというのが中観の思想でしょう。
がやはり誤解を生じる表現でした。
そのことに気づかないまま質問をしてしまったことにも謝罪致します、すみませんでしたm(_ _)m

>自我は存在もしないし存在しないのでもない」というように、二つの矛盾する命題がともに偽であることは形式論理では許されない。
しかも、もし自我が現実には存在しない、つまり成員をもたない概念であれば、この二つの命題はともに偽であることも、ともに真であることもできる。
>一切の名辞は本体をもたず、空なのである。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E5%8F%A5
というような龍樹の思想からすると「涅槃は空・概念であるとするだろう」という想いから「実有ではなく概念であって」という表現をしましたが、空とか概念という言葉もまた空・概念・言葉として究極(勝義)には否定されるのかな、と。

中論で涅槃について(ちなみに我や自性についても)有・無・亦有亦無・非有非無といった四苦を否定した中観が、「涅槃は概念である、涅槃は空である」、と肯定するような表現をするのだろうか?と我ながら違和感を持ちましたw
(龍樹作と言われる「大智度論」には確かに「空即涅槃 涅槃即空」の一文がありますが。
あるいは空とは四苦否定であるというのでしたら空即涅槃もすんなりと納得は出来ますが、実際はどうかは存じません)

概念見とか空見を離れた処に涅槃がある、という感じですかね。

552 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:42:12 ID:l3pRMr7e.net
中論二五章 涅槃
22 一切の法の空なるが故に、何んが辺、無辺、亦辺亦無辺、非有非無辺有らん。
23 何者か一異を為し、何んが常、無常、亦常亦無常、非常非無常有らん。
24 諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、人無く亦た処無ければ、仏にも亦た所説も無し。
(〔ニルヴァーナとは〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戲論(形而上形而上学的な議論)が寂滅して,吉祥なるものである。戯論をする人も戯論をする処も無いので、仏にも諸説がなくなるのである。)」

やはり中論では「涅槃は〜だ」という断定的な表現はしないものと思われます。
中論二五章の10偈では一応「是の故に知る、涅槃は有に非ず亦た無に非ず。」とは詠まれていますけどね。
あとこの偈での「吉祥なるものである」もありますがw


※ちなみに実有の対義語に仮有がありますが、涅槃は無為であることは中論でも書かれていますので(中論二五章13偈 涅槃を無為と名づけ、有無は是れ有為なればなり。)、
中観では(中観でも)「涅槃は仮有である」という表現はまずしないし出来ないと思います。

553 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:43:47 ID:l3pRMr7e.net
1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」
(スッタニパータ ?7、学生ウバシーヴァの質問)

このスッタニパータの1075・1076の詩句を中論二五章と対比できそうな気がしてきましたw

22 一切の法の空なるが故に、何んが辺、無辺、亦辺亦無辺、非有非無辺有らん。
23 何者か一異を為し、何んが常、無常、亦常亦無常、非常非無常有らん。
24 諸法は不可得にして、一切の戯論を滅し、人無く亦た処無ければ、仏にも亦た所説も無し。

ちなみに中論二五章全文の現代語訳はこちら
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530374

554 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:51:22 ID:l3pRMr7e.net
涅槃についてのブッダの説法の確認のために

【第二十六章 ニルヴァーナ】@『感興のことば(ウダーナヴァルガ)

1.亀が諸の肢体(首と四肢と尾と)を自分の甲のなかにひっこめるように、自分の粗雑な思考をおさめとり、何ものにも依存することなく、他人を悩ますことなく、束縛の覆いを完くときほごして、なんぴとをも謗るな。

2.忍耐、堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、諸のブッダは説きたまう。他人を害する人は、他人を悩ますのだから、出家した〈道の人〉ではない。

3.だれに対しても荒々しいことばを言うな。言われた人々はその人に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が(その人の)身に迫る。

4.こわれた鐘のように、汝がいつも自分を動揺させ(煩悩をおこす)ならば、汝は生れては死ぬ流転の迷いをながく受けるであろう。

5.しかし、こわれた鐘が音を出さないように、汝が自分を動揺させ(煩悩をおこす)ことが無いならば、汝はすでにニルヴァーナに達している。汝はもはや怒り罵ることがない。

6.健康は最高の利得であり、満足は最上の宝であり、信頼は最高の友であり、ニルヴァーナは最上の楽しみである。

7.飢は最大の病であり、形成された存在(=わが身)は苦しみである。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナに専念するものとなるであろう。

8.善い領域(=天)におもむく人々は少ない。悪い領域(=地獄など)におもむく人々は多い。このことわりをあるがままに知ったならば、ニルヴァーナに専念するものとなるであろう。

9.ひとびとは因縁があって善い領域(=天)におもむくのである。ひとびとは因縁があって悪い領域(=地獄など)におもむくのである。ひとびとは因縁があって完きニルヴァーナに入るのである。このように、このことは因縁にもとづいているのである。

10.鹿の帰るところは原野の奥であり、鳥の帰るところは虚空であり、分別ある人々の帰(き)するところはことわり(=義)であり、もろもろの真人の帰(き)するところはニルヴァーナである。

555 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:54:59 ID:l3pRMr7e.net
11.気力無くなまけている人も、遅鈍な人も、はっきりと知ることの無い人も、あらゆる絆(きずな)を破りくだくニルヴァーナに達することはできない。

12.修行僧のこの舟から水を汲み出せ。水を汲み出したならば、舟は軽やかになるであろう。情欲と怒りとを断ったならば、汝はニルヴァーナにおもむくであろう。

13.前にはあったが、そのときには無かった。前には無かったが、そのときはあった。前にも無かったし、のちにも無いであろう。また今も存在しない。

14.不動の真理は見難い。見易いものの真相を洞察して、妄執の消滅を見る人にとっては、苦しみが終滅すると説かれる。

15.この世で妄執を断ち切って、静かならしめ、すべての塵汚れをおさめて、河の水を乾かしてしまったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

16.身体を壊(やぶ)り、表象作用と感受作用とを静めて、識別作用を滅ぼすことができたならば、苦しみが終滅すると説かれる。

17.見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる。

18.(1)苦しみと(2)苦しみの原因と(3)苦しみの止滅と(4)それに至る道とをさとった人は、一切の悪から離脱する。それが苦しみの終滅であると説かれる。

19.(訳文は18に同じ)

20.何ものかに依ることが無ければ、動揺することが無い。そこには身心の軽やかな柔軟性がある。行くこともなく、没することもない。それが苦しみの終滅であると説かれる。

556 :神も仏も名無しさん:2020/04/08(水) 23:58:59 ID:l3pRMr7e.net
21.不生なるものが有るからこそ、生じたものの出離をつねに語るべきであろう。作られざるもの(=無為)を観じるならば、作られたもの(=有為)から解脱する。

22.生じたもの、有ったもの、起ったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの、ーーそれは喜ぶに足りない。

23.それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

24.そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空も無く、識別作用も無く、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたくしはよく知っている。

25.来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。ーーそれが苦しみの終滅であると説かれる。

26.水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところーー、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

27.そこでは月も照らさず、太陽も輝やかない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

28.さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

29.これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。

30.(自分に)ひとしい、あるいはひとしくない生れ、生存をつくり出す諸の形成力を聖者は捨て去った。内的に瞑想を楽しみ、心を安定統一して、(自分の)覆いを破ってしまった。ーー卵の膜を破るように。

31.教えを説いて与えることはすべての贈与にまさり、教えを味わう楽しみはすべての楽しみにまさり、忍耐の力はすべての力にまさり、妄執をすべてほろぼすことは(すべての)快楽にうち勝つ。

557 :神も仏も名無しさん:2020/04/09(木) 06:12:02.04 ID:TO8be+Ai.net
?なみにウザいな

558 :神も仏も名無しさん:2020/04/09(木) 06:44:44.72 ID:yr1btlF+.net
>>557
どうぞNGIDにしてくださいな。

559 :神も仏も名無しさん:2020/04/09(木) 15:23:28 ID:OYXHxjVl.net
>>556
不滅のニルヴァーナの境地

って有為を滅したのがニルヴァーナなわけだけど
その段階で滅し尽くして滅するものが最早何もないから不滅なんじゃないすかね?

23〜30を読むと特にそう思えてしまう

560 :神も仏も名無しさん:2020/04/09(木) 18:45:40 ID:FCn87mre.net
ヴァルガの方は、法句と被るものが多いし、
単発偈の集成だから、古形を残しがちかもしれないけど、
その分、ブッダ以前的なのよね。
無印ウダーナの方が端的。簡潔明解というか。
勿論、そこ含め、今知られる仏教は弟子たちによって脚色済みと言えなくもないけど。

561 :神も仏も名無しさん:2020/04/09(木) 20:51:23 ID:FCn87mre.net
○「第一涅槃に関する経」は、
世尊が比丘たちを不死の涅槃に導くために、彼らに対し、
 ・それぞれの性質に応じて教説されたものである
  「聖なる道」によって涅槃に到達すべきである、
 ・これは難しくて出きないことだといって修行を途中で止めてはいけない、
 ・つづけて頑張れば完全な幸せを得るだろう
などと種々の表現で励ましの言葉を示されている。涅槃の偉大さを示し、
 ・それが第一義的な存在である
ことを明らかにしたのがこの感興(ウダーナ)の経である。

○「第二涅槃に関する経」は、
 ・見ることの難しい涅槃の本質を
 ・四聖諦によって見得る
ことを説かれたものである。

○「第三涅槃に関する經」が説かれるに当っては、次のような話がある。
世尊は種々の理由によって輪廻の危険を示し、涅槃に関する法話を説かれた、
すると比丘たちは、こう考えた。
「世尊は
 ・この輪廻が無明などの縁によって作られるものである、
  涅槃は縁によって作られるものではない
と説かれた。とすると
 ・涅槃は無縁である。一体どのようにして第一義的に得られるのだろうか。」
と。そこで世尊は説かれた。「この世において、或る人々は
 ・″涅槃というものはただの言葉だけだ。第一義的に得られるものではない″
と理解しているが、これは誤解である。
 ・涅槃というものは第一義的に得られるものである。」と。

○「第四涅槃に関する經」が説かれるに当っては次のような話がある。
世尊は種々の表現で涅槃に関する法話を説かれた。すると比丘たちは、こう考えた。
「世尊によって涅槃の偉大さは示されたが、それに到達するための方法はまだ説かれていない。
どのようにしてわれわれ修行者は涅槃に到達することができるだろうか」と。
そこで世尊は説かれた。
 ・「すべてのものにこだわることがなく、
 ・身心に安らぎのある修行者は聖なる道をもって残らず渇愛を捨断し、
 ・涅槃に到達することができる。」と。
このようにして感興をもって唱えられたのが本経である。
(「南方仏教基本聖典」p218/1987年第三刷/中山書房仏書林/ウ・ウェープッラ)

おそらく、アッタカターに書かれている内容の要約。

562 :神も仏も名無しさん:2020/04/10(金) 03:35:29 ID:7Ml3WOl2.net
>>1
>仏教に関するKeyword
>「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
>原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
>激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
>尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
>基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
>もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

これ昔からそのまんまを論蔵として小乗でも大乗でもやってたよね
このスレで出来ることはその各部派各宗派の論蔵の理解が精一杯ってところで自説の論を立てても生涯を仏典の研究と実践に費やした名僧達にはまず及ばんよ
せいぜい僕は誰々、何派、何宗の論を支持します、までだろう

さらに仏教の実践がなく文献的に経典や論蔵についての見解を出す仏教学者、印哲学者の著書や論文は参考まで留めておいた方がほとんどの場合は良さそうだ
既存の論に染まってないから真説か出せるというのにも期待しない方がいい
そんな学者の意見は2000年間にほぼ出尽くしていると思った方が良い
流石に昔の論蔵とかは難しいからそういう学者の分かりやすい解説は必要だけどさ

とにかくこのスレでの議論などいにしえの僧、部派、宗派、そのらの間での議論に比べれば取るに足らないものになるだろう
みんなそこまで追求してないから仕方ないのだけど

563 :神も仏も名無しさん:2020/04/10(金) 07:20:31 ID:TBIbAfCx.net
>>562
このシリーズの発端は、そういうことじゃなくて、
伝統的解釈と現代的知見との整合性、或いは軋轢だからw  >>471

564 :神も仏も名無しさん:2020/04/10(金) 08:06:29.50 ID:8TgwFKBA.net
まあ、仏教内の見解(論)の違いというよりは、仏教的知見と外道的知見との軋轢でしょ
もちろん、現代的という範疇で看板だけは仏教でも現代の仏教者には実質外道化しているものも少なくない訳で
(その流れの萌芽は大乗・龍樹の時代には既に顕在化して始まっていた)

で、スレ主は己自身が隠しようもないくらいの外道なのに、仏教内の外道化している部分を糾弾する事で自ら(外道=神智学)が仏教正統の地位を簒奪できると思ってるギャグw

565 :神も仏も名無しさん:2020/04/10(金) 15:17:01 ID:RRGgWoXg.net
ナーガールジュナの涅槃観
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/22/2/22_2_879/_pdf/-char/ja

全体的に分かりやすく書いてあるけど
最後のページのまとめだけを読んでもちゃんと読める論文になっている
https://i.imgur.com/AzFRxKL.jpg

566 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 02:43:27.76 ID:ICKl/FFe.net
相応部 無記相応 11経
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm
のほとんどは如来(修行完成者)の滅後についての異教徒からの質問
@如来は死後存在するのか?
A如来は死後存在しないのか?
B如来は死後存在しかつ存在しないのか?
C如来は死後存在するのでもなく存在するのでもないのか?
という四句に対する、ブッダ又はサーリプッタなどの高位の弟子の返答となります。
答えとしては@〜Cいずれの見解も取らない、理由はというと@〜Cは色〜識までの五蘊への見解、渇愛から生まれるが、如来はそれらへの有所得が滅しているので見解を説かないというものでした。

マハーモッガッラーナへの質問は世界は有限か無限か、生命(ジーヴァ、魂)と身体は同一か別異か、の問いが如来の滅後の問いの前に加わりますがやはり無解答でした。
これらへの異教徒が出す解答(有、無など)は六根を自分の我である、我所である、アートマンであるという見解から生じるが、
阿羅漢にして等正覚者たる如来はそうは見なさないので解答がないのだとしています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

次の8番目の経も答える順番が世尊、マハーモッガッラーナと変わりますが質問内容と解答はほぼ同じ内容です(如来滅後以外は世間は常住か無常かになりますが)
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

11番目の経ではカッチャーナが問いに答えていますが、如来の滅後について無記なのは、
『有色』、『無色』、『有想』、『無想』、『非想非非想』と断定する因縁が如来には完全に滅しているので説示することができないとしています。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm

結論として、如来は戯論的なものにおいて有無の執着が全く解かれているので無記となるといったところでしょうか?

567 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 03:03:04 ID:ICKl/FFe.net
問題はまず9番目の経。
この経では六師外道の皆が弟子の死後について何処何処に転生すると弟子に授記すると、ヴァッチャ氏姓の遍歴行者がブッダに語っていますが、
六師外道で輪廻の存在を認めているのはジャイナ教のマハーヴィーラとアージーヴィカ教のマッカリーゴーサーラだけで、
サンジャヤは如来だけじゃなく凡夫の滅後についても不可知だし、アジアに至っては断滅論だったとおもいましたが、このヴァッチャ氏姓の遍歴行者はそういう通説とは違った六師外道の話を聞いていたのでしょうか?謎
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm


次の10番目の経はバラモンからのアートマンの有無に対する問いにブッダは答えなかったことを伝える有名な経典ですね。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsav/sn44/sn44c01.htm
経典ではこれも有無にしてしまうと常住論や断滅論の極端になってしまうので答えなかったと。
有無で答えれば中道に背きますので答えないですよね。

その後の有ると答えれば一切諸法非我の智慧の生起のために随順なるものとなるでしょうか云々は、
一切の中に無為も含むかどうかとか面倒なことになりそうなので、とりあえず今ここでは触れておかないことにしますw

568 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 03:24:37.81 ID:ICKl/FFe.net
サンジャヤは如来だけじゃなく凡夫の滅後についても不可知だし、アジアに至っては断滅論だったとおもいましたが、このヴァッチャ氏姓の遍歴行者はそういう通説とは違った六師外道の話を聞いていたのでしょうか?謎

アジア→アジタ

569 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:27:43 ID:Q5jjF0FC.net
-----「空」ついての最後...

「“不滅で永遠のもの”でなければ求める価値がない」とするのは、
ヒンドゥー(その他あらゆる諸宗教)であろうと仏教であろうとも同じですよ。
「涅槃」の同義語を確認すれば一目瞭然の話です。
涅槃が不死(甘露)にして恒常であることは、テーラワーダも認めるところでしょう。

現象界の物質と事象のすべて(有為)が無常(恒常性がない)であり、
縁起している無自性のものであるということをただ一語で単に「空」と呼ぶだけのこと。
であるのに、その有為から解脱した境地である涅槃(無為)も同じ「空」などとしてしまうと仏教理論は成立しない。
ただ単に、空性という「“法そのもの”は無為ともいえる...」的な言い回しを勘違いして、
勝手に涅槃とイコールで結ぼうとしているに過ぎない(それは誤解!!)。
涅槃を空などと解する仏教徒が一体、どれだけの割合いるのかは不明ですが、
断固として認めない人にはこれ以上、私からは何も言えることはありません。

570 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:31:27 ID:Q5jjF0FC.net
>>527
>最初に神が言ったような意味ではないからであって、

いえ.違うと思います!

以前に、
この経文がブッダの教説におけるアートマン肯定の最も決定的なものだろうと、この私はいいました。
何故ならば、これはブッダ自らが“アートマン存在について明確に是認したもの”だからです。

【〔尊師いわく、---〕
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。また『人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。
 真に力量ある人は、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである。】
(サンユッタニカーヤ.?,3:5)
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)

571 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:32:24 ID:Q5jjF0FC.net
 ここでいう『わたしが語る』の「わたし」とは、ウパニシャッドの説く(普遍にして永久不滅の)アートマンのこと(中村氏による確認済)。
 この経文は要するに、ブッダは神からと問いかけに対して答えて、修行完成者(最後の身体をたもっている真人となった修行僧)は、「自
分のことをアートマンと言ってもいいよ!」と、ここでハッキリと認めているのだということです。ただし、いくら自分のことをアートマ
ンであると語っても、所詮は、言語表現の持つ限界性故に、アートマンそのものを指し示すことにはならないけれどね...と、述べたもの。
 もしも、伝統仏教の理解のまま、本当に“アートマンそのものが無い”のであれば、神からの「自分のことをアートマンと語ってもよい
か?」の問いかけに対して、このように是認するわけがない。バラモン達や異教徒たちが勝手にどのように主張していようとも関係がないが、
しかし、ブッダご自身の口から、アートマンなど無いにもかかわらず「それでいいよ!」などと是認するということは到底、考えられないこ
とだからです。ただし、「それはいいけれども、いくら語っても所詮はただの言語表現にしか過ぎないからね!」と、神に一応そのことにつ
いての理(ことわり)を附け加えた、というのがこの経文です。

なので、
これこそブッダがアートマン存在を明確に認めた希少で決定的な経文である、
といっていいものと私は思います。

572 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:38:02 ID:Q5jjF0FC.net
>>372
>であるなら、
> 神智学の側から見た、
> 現代仏教及び特に禅系の思想に於ける(或いは諸学者の言う)
> 「仏性」「仏心」「真如」「我」「法身」「真人」「本覚始覚」「如来蔵」などが、---中略---

 まさにご指摘の通りで、“大乗の進化発展の歴史とは仏教のヒンドゥー化に他ならない”という低評価がある一方で、しかし、そのことが
返って逆に、災い転じて福を為すかのごとくテーラワーダが排除してしまった本来のブッダの説かれた教えである、“目指すべく真実の自己
(真我)へのアプローチ”が、「仏性」、「如来蔵」、「大我」などとして、現代まで永延と生き続けていると言えるのです。
 その他にも、テーラワーダによって見捨てられてしまった神の概念(ブッダはその存在を否定されたことはない)や祈りの力や諸仏(完成者
とその高弟の集団)からの救済力についてなど...は、大乗各派において今日でも生き生きと説かれ続けている。
 元々、私自身は大乗非仏説ということで大乗に対しては冷淡な姿勢にあったけれども、この2-5ch上での一連の議論を進める内に(学習と
再確認することで)、この私の大乗に対するその評価は根底から(肯定的なものへと)大いに変わりました。

573 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:39:39 ID:Q5jjF0FC.net
 神智学の立場から見た場合の仏教評価についてですが、ブラヴァツキーは生れてすぐ教会の洗礼を受けていますが、イエスの正しい教えで
はない教会主義的なキリスト教には強く失望しており、ブッダの教えを伝承するブッディスト(仏教徒)に対しては強い憧れを持っていました。
ブラヴァツキーとオルコット大佐の二人がスリランカ仏教からの要請を受けてセイロン島に上陸した1880年(神智学協会設立は1875年)に
ウィジャヤナンダ・マハー・ヴィハーラ寺院で正式に受戒を授けられ、晴れて仏教徒となったのも子供時代からの「いつかは仏教徒に改宗し
たい(ブッダの弟子になりたい)」という永年の想いがあったからでした。
 ブラヴァツキーから見た近代仏教は、テーラワーダは伝統保守的でブッダ直説の正統性の主張が強いが、無我の誤解と神についてなど大切
なものを否定する派として見ました。対して、大乗仏教はあらゆる面において神智学とは非常に親和性が高いというものでした(特に、密教
においては殆ど共通する)。そして、神智学協会の平和活動はダライ・ラマ14世からも高い評価を受けており、現在も常にご協力を頂いてい
る関係にあります。

574 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:40:37 ID:Q5jjF0FC.net
 『仏陀の秘教的な教えは古代バラモンのグプタヴィディヤー(Gupta-Vidya)即ち秘密の知識でした。この秘密の知識への鍵は僅かな例外を除
き、今のバラモンは完全になくしてしまいました。このヴィディヤーは今、北方仏教の大乗派の内的な教えとして知られているものとなりま
した。それを否定する人達は東洋学を知らぬのに、知ったふりをしている人にしかすぎません。---中略---
 この倫理は智慧の宗教の魂であり、かつてはあらゆる国々の秘伝を受けた人達の共通の特性でした。しかし、仏陀は自分の大衆への教えの
中にこのような高貴な倫理を具体化した最初の人でした。そしてこの倫理を自分の公開の教えの基礎とし、エッセンスとしたのです。此処に
顕教的仏教と他のすべての宗教との大きな違いがあります。他の宗教では儀式主義と独断が最も重要な位置を占めていますが、仏教ではいつ
も最も主張されるのは倫理だからです。神智学の倫理と仏教の倫理とが殆ど同じであるのはこのためです。---中略---
 神智学と顕教仏教との大きな違いは、南方仏教で代表されている顕教仏教は次のことを全く否定することです。(a)神の存在、(b)意識的な
死後の生活又は人間の中の個性を保持し続ける自我意識。少なくとも、今、最も純粋な形の顕教仏教と考えられているシャムの教派の教えが
そうです。仏陀が大衆への教えだけに関して言えばそうです。このように釈迦が本当のことを言わなかった理由はあとで説明しましょう。し
かし、仏陀の逝去後、仏陀の秘伝を受けた阿羅漢達が隠遁して行った国々でできた北方仏教の諸派は今、神智学説と言われていることすべて
を教えます。神智学説には秘伝についての知識の部分があるからです。このように、南方仏教のあまりにも熱烈な正統派的思想のせいで、真
理がどんなに死文字でではあっても、他のいかなる教会や宗派の教えよりも、どれほど壮大で、高尚で、哲学的、科学的であるか分かりません。
しかし、神智学は仏教ではありません。』
(H・P・ブラヴァツキー著『神智学の鍵』竜王文庫刊)

575 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:43:07 ID:Q5jjF0FC.net
 近代日本最大の仏教学者とも讃えられた鈴木大拙(臨済宗)は、世界に禅を広めた最もよく知られる日本人であり、禅研究の第一人者にして
東西の宗教の融合を試みた偉人でした(1949年に文化勲章を受章)。大拙の妻ベアトリス・レインは神智学徒で、その影響を受けて後年、大拙
自身もインドのチェンナイにて正式な神智学協会の会員となった。そして、大拙が京都支部の支部長に就任し、京都における大拙の自宅が神
智学協会日本ロッジの京都支部となっていた。
 大拙はブラヴァツキー著『沈黙の声』を絶賛して、夫人のことをこう評していたといわれる。
 『チベット仏教についての知識は、その当時の大衆や西洋の学者が入手できる情報よりも豊富であり、彼女はまた秘密仏教の修行について
もよく知っていた。この知識は鈴木大拙博士によっても裏付けられた。彼は述べている。「次の世紀に禅を西洋にもたらした人物であり、疑い
もなく、ブラヴァツキー夫人はある意味で大乗の教えのより深いところに参入していた。」』
(『ヘレナ・ブラヴァツキーに当てられる新しい光---コニー・ハーグレイブによる書評』より)

576 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 04:44:18 ID:Q5jjF0FC.net
 それからテーラワーダの残念なところは、今でも大乗からの根強い批判が続いているように非常に保守的で閉鎖性が強いことです。人生そ
のものを業に拠り転生しただけの苦の世界と見なす傾向があり、中には早い死すら望む者もいるくらいなので、人類社会を改善し、進歩向上
させようという意識が薄い。自業自得の考え方からか苦悩する大衆の救済にも積極性は弱い(逆に以前まで、差別扱いする事実すらあり)。そ
して同じく、南伝仏教のみが唯一の真理だと見なして、他派およびその他すべての宗教に対して強く否定的であるために、彼ら他の宗教者と
共に手を携えて世界平和に繋がる活動に参加しようとすることもない。
 テーラワーダの基本的な考え方としては、世界平和にはブッダの智慧が必要であり、一人一人の内的な自覚(ブッダの教えの実践)がなけれ
ばならないものとする。そのこと自体は確かに正しいけれども、しかし、それ故に、直接的な外的平和活動や救済行為に対する意識は乏しい
(もしも、この私の理解が古い偏見であって現在はそうではない。という場合には是非、正しい情報を教えてください!)。

 それに対して大乗においては元々、“慈悲の実践と菩薩道”という理念がしっかりと根底にあるので、平和活動や救済活動への想いに事欠く
ことはない。日本仏教の総本山である比叡山宗教サミット(全世界のあらゆる宗教指導者が集って平和を祈る式典を毎年開催)、1989年にノー
ベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世(「世界平和のためには、人は自分で考え自分で行動しなければならない。神仏への祈りで実現する
ものではない」と説く)、『アーユス仏教国際協力ネットワーク』(「気持ちはあっては僧侶が自ら現地に入ってもなかなか力になれないことを
痛感した」として、各専門NGOを支援するといった方向性を選択した超派団体)や、そして、宗旨宗派の各々それぞれにおいて熱心に取り組む
ところも少なくない。

 尚、「空」であるとか“非実在”とか、その他いかなることを理由にしようとも、人類社会の平和と進歩向上についての活動を無意味無価値
だとする一部の仏教者(出家在家を問わず)などはまったくの問題外です!!

577 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 08:14:58 ID:FWXUB7S0.net
だからw

他の何人かも指摘してたけど、この部分では、「アートマン(atthA)」の語は出て来てないの。
全て、代名詞の「私(aham)」(及びその派生)なの。
だからわざわざ、〔神が挑んできたのは「アートマン」についての議論である〕、と註されてる(補足説明される)の。
だから、
「もし、“我、アートマン”の存在を認めていないならば、
 どうして『“私”が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
 “自身”が存在しないのに(五蘊を始め、いかなるところにも居ないと言われているのに)、
 “私”がある筈がないではないですか」と。
だから、
「そうではない。(この五蘊の身をもって相対している)私たちは、
 互いを呼び合って会話をしコミュニケーションをとっている。
 その上で、〔凡夫は「私私」と言っているうちに、
 『【≪コレ≫が私である】、これは私のものである、(≪ココ≫に)私がいる』
 という想いを起こしてしまう。また【それに捉われ、執して】しまう〕。
 だが、〔諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、(その心配がないから)、
 『“私”が話す』『これは私のものである(私の鉢、私の袈裟etc.)』と発言してもよいのである。
 そこに(私・我への)執著が見られないから、そのような発言ができる(許される・可能となる)のである」と。

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915

578 :1/2:2020/04/11(土) 08:21:50 ID:FWXUB7S0.net
また、大好きな中村さんの言い方を、もちょっと吟味してもいいんじゃないかね・・。
(どこをどう読んだら、神智学等の言うような我の肯定に読めるかね・・・?w)

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-632.htm
草柳: じゃ、真実の自己というのは一体何なのか、というふうに説いているんですか?
中村: これはこういう具体的な、あるいは具象的なものとして、物体として、
あるいは実体として示すことはできない。けれども、我々人間が、人間として自覚して道を追求し生きていく。
その生きていく実践の中に真の自己が現れるというんですね。
具体的にどれだけの大きさをもったものであるとか、どれだけの重量を持ったものであると、
そういう具合に表すことはできない。
けれど、我々人間がこのように世に現れ出たその所以、わけを理解し、思いを馳せまして、そして実践していく。
その中に真の自己が現れる。だから真の自己を追求することは、
「ダルマ(法)」―人間の生きる道ですね―それを追求することと結局同じことに帰するわけです。
それは釈尊の最期の説法の中にも出てきます。
つまり真の実践をなすということが、自己すなわちアートマンに頼る所以であるという、そういう教えも出てまいります。
そこに自己、アートマンが出てくると。
「アートマン」というのは、こういう大きさをもったものだといって示すことはできない。
人々が人としての自覚をもって実践する。その中に自ずから働きが現れてくる。そういう性格のものである、
と説いていたと考えられるんでございます

579 :2/2:2020/04/11(土) 08:22:25 ID:FWXUB7S0.net
草柳: 勿論私たちは、私どもの社会生活の場面に引き下ろして今のことを考えても、
当然毎日生活をしているわけです。その生活の中でいろいろなことを考えたり、行動したりしているわけですから、
そういう行為の主体としての自分―自己というものは、これは紛れもなくあるわけですね。
中村: あるわけでございますね。日常生活のその場面においては否定することができないわけですね。
だから「自己に頼る」ということが、釈尊の最期の説法にも出てきます。
それからまた他の場合にも説かれていますが、それは人間としての生きる道、つまり「法に頼る」ことである。
だけど「自己に頼る」ということと、「法に頼る」ということが同じ事柄として並べて説かれております。

 >そういう行為の主体としての自分―自己というものは、これは紛れもなくあるわけですね。



※ちなみ。
草柳: 本当のというか、真実の自己とは何か、ということを探し求めることが、何より大切なのだという、
面白いエピソードがあるんだそうですね。
中村: それはごく通俗的な面白いエピソードですがね。この機会に申しますと、
お釈迦様が悟りを開かれて、それからヴァーラーナシーの方へ 〜略〜 
「実は私たち仲間の友人たちと三十人グループを作ってこの美しい森のところまで 〜略〜
「皆はそれぞれ奥さんを連れて来た」というんですよ。「ところが自分だけはパートナーがいなかった」
 〜略〜 遊女を連れて来て、「これが相手だから楽しくやろうや」ということになった。云々


 >通俗的な面白いエピソードですが

580 ::2020/04/11(土) 10:01:47 ID:FWXUB7S0.net
で、追記すれば、

 >>577 >≪コレ≫が私である、これは私のものである、≪ココ≫に私がいる

が、デカルト及び西洋哲學的視線なわけで・・。

581 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 10:40:22 ID:V/U9+GHZ.net
>>576
>>505で言ったばっかのダブルスタンダードなパターン来たねw
ワンパターン過ぎwww

582 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 10:42:17 ID:V/U9+GHZ.net
要するに>>523

583 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 11:39:17 ID:FWXUB7S0.net
あ、アンカー忘れ

>>577は >>570-571

584 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 13:54:59 ID:Lk+rkdSz.net
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、 
真に力量ある者なので、世間における名称を知って、言語表現だけのものとして〔仮りに〕このような表現をしてもよい。
『わたしが語る』とか、『人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』とか、このような表現を言語表現だけのものとして、仮のものとして、表現してもよいのである。

つまり『わたし』とは仮なのである

585 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 16:42:28 ID:Q5jjF0FC.net
>>577
>「もし、“我、アートマン”の存在を認めていないならば、
> どうして『“私”が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
>“自身”が存在しないのに(五蘊を始め、いかなるところにも居ないと言われているのに)、
>“私”がある筈がないではないですか」と。
>だから、
>「そうではない。(この五蘊の身をもって相対している)私たちは、
>互いを呼び合って会話をしコミュニケーションをとっている。

しかし、よくもまぁ..
そんなにも内容を勝手に改変(変質)できますよね。話がまるで違ってる...。
そんなこと神は聞いてないし、そんなことブッダは返答してない。

例えば我々、
日本の一般普通人が永久不滅のアートマンのことをよく知らず、或いは、特別に信じてなどなかろうとも
ごく普通に、この心身の肉体人間(五蘊構成の)は確かな自分であるとして認識している。
そんなことは言われなくても当たり前の話だ!!
それを「五蘊が自己であるとして見ていても構わないが、ただし、五蘊には執着しないように?」だって?
一体、この経文のどこにそんなことが書かれてるの???

586 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 16:45:02 ID:Q5jjF0FC.net
だから、
「五蘊は自己(アートマン/真実の自己)ではない」などというのは仏説の中では当たり前の話ですよ。
そんなことはこの私も否定しないし、それを当然のごとく了承している。
けれども、「自分自身、私(アートマン)がある筈がない」。それは五蘊どころか“いかなるところにも無い”。
な〜んて話がブッダから説かれたことは一度もないから(あるならば出せ!!)。>>296を再読のこと
ただ、「ある」とも「ない」とも言わないとあるだけだ(無記)。

この経文は、
神は、「アートマンが語る」といってもいいかということをブッダに聞いたところ、
ブッダは、完成者である真人であれば構わないと返答するので、
神は、更に確認すべく、それでは「慢心」ということにはならないかとも聞いているのです。
するとブッダは、完成者にはすでに慢心というものがないから大丈夫だとして太鼓判を押しているのです。

七セブンよ!
“五蘊の私”を語るのにいちいち慢心の心配について確認するか?
完成者には慢心はないから問題ないとするこの経文の遣り取りをみて、
あなたはこれをアートマン否定のただの五蘊の話へとすり替えるのかい?
一体、どういう神経なの???

まず、あなたのその勝手な「アートマンなどある筈はないから」
などという決め付け前提を排除してから仏典というものを読んでもらいたい!

587 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 16:47:47 ID:Q5jjF0FC.net
>>578
いやいや.「大きさ」であるとか、「重量」であるとか...
そんな話はこの私から過去に一度もしたことはないから---話のすり替えが好きだな!!
ブッダが、それらの機能的なアートマン観については認められていないことなどは、
この私も百も承知してるから(議論の最初期から了解している)。
>>296-297を参照のこと
--------------------------------------------------------------
まっ、もう止めましょうや。
いよいよ、私もココを去りますから...
(寂しいものもあるが...)

あと、二つほど執筆中なのでそれを上げたら終わりにしますm(__)m

588 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 17:56:10 ID:FWXUB7S0.net
>>585

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915

589 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 18:15:47 ID:FWXUB7S0.net
>>586
>この経文は、
>神は、「アートマンが語る」といってもいいかということを

だからw
それが誤読だと言っている。
そこに「アートマン(attA)」は出て来ない。 (あ、上のレスではhを入れてしまってたかもしれないが)

最初の問いかけも↓下記。
ahaM vadAmi iti pi so vadeyya,
mamaM vadanti iti pi so vadeyya


http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915

590 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 18:17:37 ID:FWXUB7S0.net
>>587
在家のような歪んだ読みは大嫌いなんだよ。

591 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 21:31:13 ID:ICKl/FFe.net
中村先生には感謝しているけど、例えばダンマパダの7.阿羅漢の章を第7章真人などと、阿羅漢を真人と訳するのは止めて欲しかった。
真人はなにかと誤解を生む言葉だから…。

592 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 21:35:36 ID:DIWe7jBL.net
>>585
セブン自身が>>589で既に反論している通りなんだけど
あんさん「全然人の話聞いとらんやんけw」

593 :ニルヴァーナ論の参考に:2020/04/11(土) 23:07:50 ID:ICKl/FFe.net
経部のニルヴァーナ論とその反駁

『中論』においては次に第七詩と第八詩によってニルヴァーナは無であるという説を排撃している。
これは『般若灯論釈』および近代学者のいうように経部(サウトラーンティカ派)のニルヴァーナ論を排斥しているのだろう。
一般に経部は大乗と密接な関係があるとみなされているし、またすでに指摘したように『中論』のうちには経部と共通な論法が少なくないから、『中論』が今ここで経部の説を排斥しているのは不思議に思われるけれども、
しかし中観派は、非有非無の中道、四句分別を絶した諸法実相を説く立場に立つから、ニルヴァーナを有とする意見とともに無となす意見をも排斥せねばならなかったのであろう。
 経部は、ニルヴァーナを無(『プラサンナパダー』五二七ページ)であると解し、あるいは「無のみなること」ともいう(『俱舎論』ヤショーミトラ註、二二一ページ)。
とくに「のみ」と制限を付けるのはニルヴァーナを実体視する考えを防ぐためであると説明されている(同上)。
経部は一般に無為法を実体視する説に反対している(『俱舎論』六巻、一五枚下)。
また『成実論』も、「またニルヴァーナを無法と名づく」(六巻、大正蔵、三二巻、二八一ページ下)というから同じ考えなのだろう。
 このような解釈に対してナーガールジュナは次のように反駁している。
「もしもニルヴァーナが有(存在するもの)でないならば、どうして非有(無)がニルヴァーナであろうか。有が存在しないところには、非有(無)は存在しない」(第二五章・第七詩)
「またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは〔他のものに〕依らないでありえようか。何となれば〔他のものに〕依らないで存在する無は存在しないからである』(第二五章・第八詩)
 <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提としている。
 無は有によって施設されている〔仮に設定されている〕(『プラサンナパダー』五二七ページ)。無と有は相関概念である。
故にすでに述べたように、ニルヴァーナが有ではないなれば、当然無でもありえない。
形式論理学立場からいうならば、もしも有でなければ、無であることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つから一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。
さらにまた有と無は相関関係にあるから、もしもニルヴァーナが無であるというならば、有によって存することとなるから、ニルヴァーナが「不受」すなわち依らないものであるということがいえなくなる。
このようにニルヴァーナを無と解する説も相依説の立場から排斥されている。

中村元『龍樹』

※プラサンナパダー…チャンドラキールティ(月称)が書いた中論の注釈書

594 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 23:11:08 ID:ICKl/FFe.net
>>593自己レス

> <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を

 <無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提としている。

595 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 23:21:59 ID:ICKl/FFe.net
大智度論巻第三十一(上)

大智度論釋初品中十八空義第四十八
1.十八空
2.内空、外空、内外空
3.空空、大空、第一義空
4.有為空、無為空、畢竟空
http://tubamedou.egoism.jp/Daichidoron/Daichidoron31-40/Daichidoronn31a.htm?20200411-2228

596 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/12(日) 06:43:20.12 ID:HErQp2mZ.net
>>589
--- 七セブンへ
確かに、この経文についての理解では、
この私の側の全面的な間違いだったということを認めてここに謝罪を致します!

「アートマンは(存在し)ないのに」という部派仏教の見方については認めませんが、
今後は、五蘊はアートマンではないのに(五蘊非我)、
完成者が「Ahaṃ/わたし(五蘊の自己)が語る」といっても良いかどうか?
という対話であるとして理解します。

大変、申し訳ありませんでしたm(__)m
(辛坊強い)ご教授に感謝します!!

 https://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
 http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2017/06/10/120348
 http://pali-village.blogspot.com/2016/06/blog-post_3.html

>>590
了解。
(その姿勢には同意します)

597 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/12(日) 06:47:18.09 ID:HErQp2mZ.net
>>596
リンクミス
 https://komyojikyozo.web.fc2.com/snsgv/sn01/sn01c25.files/sheet001.htm

598 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 08:19:13.04 ID:hJpwGuq2.net
面従腹背

599 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 08:26:12.21 ID:hJpwGuq2.net
ブラバツキーがセイロン仏教の授戒を受けつつ陰口を言い
神智学のやり口ってのは……

600 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 08:30:26.73 ID:x2Npr+p8.net
>>596
どういたしまして。

それで、ようやく「解釈(読み解き方)の相違」になるわけです。
 (勿論、大きく見ればそれも「読み方」のうちではありましょうが。)
或いは、「世界」に対する視線の投げ方の違いへと。
 (隠居や哲板最高位の主張vs仏教というw)

601 :1/2:2020/04/12(日) 09:19:19 ID:x2Npr+p8.net
その上で、
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/914
>  ※この問いを発した神は、
>   ≪比丘たちは 【漏尽者の筈なのに】、
>    なぜ【「私」「私」、「私が」、「私の」、「私に」と言う】 のだろう?
>    「私」という【妄執(→「慢」(我・我所による我見))が残っているから】
>    そのように言うのではないか?
>    【それ(慢)によって「私」という語が生じ(発言され)ている】
>    のではないか?≫
>   という疑問を持ったので、このように質問をした。
>   『まさに >> 855 そのもの』であるが、それは、人として(→凡夫として)
>   当然の思考、感覚、発想であることも留意されねばならない。
>   凡夫の顛倒(世間の常識)とは、そのようなものだから。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/855
> たとえば隠居の如く、たとえば紐の如く、たとえば過去哲板の最高位の如く、
> 或いはその他、極々一般の多くの人の謂いとして、(或いはデカルトか・・?)
>  「ほら、≪私(我)≫って言ってるじゃん。」
>  「≪私(我)≫が、〔そこ〕に、〔居る〕じゃん」
>  「≪私(我)≫が無かったら、思考も、発言も、行動(行為)も無いじゃん」
>  「貴方の肉体がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
>   『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」
> という意見を斥けねばならないからなんだけどね。
> そのように社会の中にある時は、
> 「その社会の中の一員として」、「大勢居る中の誰それ」、ということが
> 「互いに」「特定」できなければならないので、
> その為に、自称するし呼応するのだ、と。
> けれどもそれは、絶対永遠ではないよ、と。
> ※上の「肉体」を「魂」や「霊魂」或いは「識」或いは「アストラル何ちゃら」、或いは「真我」、
>  などと言い換えても何も変わらない。
>  >「貴方の○○がそこに有り、まさにそのように貴方が〔感じ〕〔思考し〕〔発言し〕ていることが、
>  > 『≪私(我)≫がある』 ということの証拠である」

602 :2/2:2020/04/12(日) 09:19:50 ID:x2Npr+p8.net
>>577
>〔神が挑んできたのは「アートマン」についての議論
>「もし、"我、アートマン"の存在を認めていないならば、
>どうして『"私"が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
>"自身"が存在しないのに 〜後略
>"私"がある筈がないではないですか」

>、〔凡夫は「私私」と言っているうちに、
>『【≪コレ≫が私である】、これは私のものである、(≪ココ≫に)私がいる』
>という想いを起こしてしまう。また【それに捉われ、執して】しまう〕。

>〔諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、(その心配がないから)、
>『"私"が話す』『これは私のものである(私の鉢、私の袈裟etc.)』と発言してもよいのである。
>そこに(私・我への)執著が見られないから、そのような発言ができる(許される・可能となる)
 =========
改めて言い直してみれば、

「(本体としての)"私"が居ないのに、どうして"私は"と発言できる(それが許される)のですか」
と問われ、
「凡夫は、(それと口にしているうちに、『私が私が』と使いつけるうちに)
 自分というもの、自分のもの(マイカー、マイベイビー、マイラバー、etc.)
 に捉われ、縛られ、こだわり、防護しまた主張し、
 そこからまた、怒りや、愛欲や、名誉称賛評価や優越や、プライドや自讃やら
 を生じさせる。(それらは悪果苦果へ繋がる業でもある)。
 が、諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、
 自分というもの、自分のもの、に捉われ、縛られ、こだわり、防護しまた主張することがなく、
 そこからまた、怒りや、愛欲や、名誉称賛評価や優越や、プライドや自讃やら
 を生じさせることがない。(悪果苦果へ繋がる業を積むことがない)。
 だから、"私"と発言してもそのようなことが起きないので、口にしてもよい」
と答えがあった、と。

ということなのだろうと。

603 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 13:21:09 ID:Wpm+4wLK.net
 
大乗のみならず
パーリ経典も.最古の経典も.編纂されたものとみなされているため
原始経典さえも釈迦の言説が記録されているか否か明らかでないらしいけど
それでも.とりあえず

(仮設としての)
無明の暗闇に覆われて
苦集滅道への妨げとなる有覆無記によって
渇愛によって
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じて
そして

スッタニパータ
772
身体のうちにとどまり、執着し
多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没している人
このような人は、実に遠ざかり離れることから遠く隔たっている
実に世の中にありながら
「(実有としての)無為法があるはずだ!」
「無為法の世界に本当の我があるはずだ!」というような欲望を捨て去ることは、容易ではない
21
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着しているのなら
「無為法の世界に本当の我があるはずだ!」というような想いも手放して
悟りに至るための 「 菩提分法 」 への想いも手放して
もはや筏の必要はない

スッタニパータ 21も
説法する側と.説法される側がいるのなら
相互依存しているのなら
実有ではなく(仮設としての)仮有なる.仮の現れ
現れ → 変化して → 滅して逝く

604 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 16:46:26.18 ID:Wpm+4wLK.net
 
2020/04/12
「大勢が集まる行事やめて」宗教団体リーダーに呼びかけ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200412/k10012382891000.html

2020/03/30
一部の米教会、大規模な日曜礼拝を強行
https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2020-03-30/Q7ZEP7T0AFBX01

2020/03/24
中国.韓国.宗教ルート
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/59831

605 :神も仏も名無しさん:2020/04/12(日) 23:07:24 ID:uv1CAWDT.net
ウザいな

606 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 10:45:34 ID:a8hDj1WJ.net
質問者:どうすれば真我を実現できるのでしょうか?

マハルシ:真我の実現とは新たに獲得されるような何かではない。
それはすでにそこに在る。必要なのは「私は実現していない」という想念を追い払うことだ。
静寂あるいは平和が真我の実現である。真我が存在しない瞬間はない。
そこに疑いや自分が実現していないという感覚があるかぎり、それらの想念を追う払うように試みなければならないだろう。
http://adorie.me/2018/04/13/%E7%9C%9F%E6%88%91%E5%AE%9F%E7%8F%BE/

これは生死即涅槃論ならぬ生死即真我論?
マハルシも転倒の妄見から抜け出せば目の前が真理となるというのは同じですね。
ただ転倒が仏教だと真我の有(と無)、マハルシだと真我の無で逆の方向になってるけど。

607 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 12:12:09 ID:8S584CGP.net
今回宝珠も少し触れてるけど、
では、如来蔵思想や天台本覚門、或いは仏性、或いは真如、
或いは馬祖六祖以降の禅の系譜の中から浮かび上がる真実自己、
更には近現代仏教に於いて受け止められている「仏心」やら
「仏様(真如)と繋がっている私たち(のいのち)」やらが、
無我(非我)の文脈の中でも許容される「実存的主体的自己」なのか、
それとも、古代インドで言われてきた「超越的存在としての自己」への先祖還りなのかという問題がある。
現代日本仏教は、実はそのマハルシと同じ思考をしてはいないか、と。
(インド大乗は一先ず措くとして)特に中国経由以降の仏教に於いて、
肯定的に述べられる「大我、真我」も漢訳蔵経に散見されるし。
この「大我」は、近代禅では肯定的に使われる事の方が多いかもしれないし。

真我 408 hits 670件
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%9C%9F%E6%88%91&mode=search&uop=1
大我 504 hits735件
https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%A4%A7%E6%88%91&mode=search&uop=1
単なる字面の並びのみだったり、「真の我が○○」という部分だったり、
外道の論・顛倒として否定的に扱われるものも含めての件数だけれど。
勿論、阿含には極々少ししか出て来ない。

608 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:21:42.01 ID:RrA6D5G4.net
>>607
大乗経典の般若経の中でも(「空」という概念はあっても「空」という用語が用いられていないため)最古層と目される金剛般若経では、
中論第二二章如来の考察にて龍樹が
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
 ※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。 
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9530025
と説いているのと同様に、如来は特徴がないということが世尊とスブーディーの問答を通して再三に渡って説かれています。
http://bunchin.com/choyaku/kongo/kongo020.html

やはり龍樹以前と言われる法華経でも空という用語はわずかにしか使われてなかったと思いますが、
こちらでは鳩摩羅什が仏種と訳した仏性(しかしサンスクリット原本だとこの部分は「(衆生に具わる)真理を見る目」となっていたりします)や如来常住は説かれていますね。
ただ仏種については、「仏種は縁によって起こる」とか、衆生は遠い過去世から久遠仏の説法を聞いていたために仏種が具わっているとかの条件があって、その由来も現世での発眼も因縁によるもののようです。
また如来常住とはいえ「だから如来は我(アートマン)を体現したものなんだ」というような説かれ方もしてないと記憶しています。
だいぶ近づいては来ていますけどね。

609 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:22:52.02 ID:RrA6D5G4.net
龍樹は一切法の有無については四句分別で否定している(と思う)ので
(自性についても有自性だけではなく無自性もまた勝義的には否定しているようです。まあ無分別智ですからそうなりますが。ちなみに金剛般若経も同じようなスタンスです)
我の有無も後述しますが悉檀によって異なるだけで、最終段階の第一義悉檀では無記となります。

龍樹よりも150年ほど後に成立した大乗涅槃経で、「如来とはアートマンである」論が遂に登場しましたw
また仏性も説一切有部の法体恒有と同じように「常恒にして変易有ること無し」と、いや時間的制約(恒有の法体が知覚されるのは刹那)が無い分有部よりも更に常住の存在となっていて、こちらもほぼアートマンと変わらないと思います。
(大乗涅槃経のアートマンでたる如来(仏)の性なのでアートマンであるというのもある意味当然なのですが>大乗涅槃経の仏性)

大乗涅槃経のアートマン論が記載されているサイト↓
http://blog.livedoor.jp/k12345kk-12345678910/archives/8652839.html
まあここだけじゃなく、経の最初の方から「自我を離れた仏性(我)があり、常住で永遠不滅(常)であり、苦を離れたところに真の安楽があり(楽)、煩悩を離れ浄化された清浄な教えを瞑想する(浄想)」、それこそが真実であり宝珠である、というような説かれ方繰り返しされていますけどね。
しかし、そのサイトを一読しただけで、実は大乗涅槃経こそこちらの宝珠さんと相性が良いのではないかと思いました。

中国や日本の仏教は大乗涅槃経の影響が強いのでしょうかね?今後機会があったら調べてみます。

610 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:24:58.57 ID:RrA6D5G4.net
大智度論 第一巻(上) での我についての考察の部分

 また次に、仏は第一義悉檀の性質を説明するために般若波羅蜜を説く。
四種の悉檀がある(悉檀とは論拠や説明のことで、我々が仏の教えを信じる根拠となるもの)。
一つ目は世界悉檀、二つ目は各各為人悉檀、三つ目は対治悉檀、四つ目は第一義悉檀である。
四つの悉檀は一切の十二部経と八万四千の法蔵をその中に含んでおり、これらはすべて真実であって、お互いに矛盾することなく、仏の教えの中で説かれている。
世界悉檀のゆえに実有であり、各各為人悉檀のゆえに実有であり、対治悉檀のゆえに実有であり、第一義悉檀のゆえに実有である。
 なぜ世界悉檀というのだろうか。
この世界の事象はすべて因縁が寄り集まることで存在しているのであって、他に存在する原因があるわけではない。
たとえば馬車は、轅(馬をつなぐ部分)や車軸や車輪などが寄り集まることで存在していて、それらの部品とは別に車があるのではない。
人もまた同じである。五つの要素が集まることで存在していて、それらの要素とは別に人があるのではない。これが世界悉檀である。

611 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:27:46.42 ID:RrA6D5G4.net
>>610続き

仏は、「私は清らかな天眼で人々を見渡し、善悪の行いに従ってここで死に、あそこで生れ、その果報を受けるのを見る。善い行いをした者は神々や人間の世界に生まれ、悪い行いをした者は三悪道(畜生、餓鬼、地獄の世界)に堕ちるのを見る」と言っている。
また次に、「一人が出家すれば多くの者が幸福を受け、ますます栄える。これが仏世尊である」と言っている。(増一阿含経巻3)
『法句経』の中では、「精神的な力は自らを救うことができる。他人がどうして私の精神を救うことができるだろうか。自ら善を行う知恵のはたらきは、最もよく自分自身を救う」と説いている。(ダンマパダ160偈)
『瓶沙王迎經』では、仏は、「凡人は教えを聞かない。凡人は自我に愛着する」と説いている。(中阿含巻11頻鞞娑邏王迎仏経)
また、『二夜経』のなかでは、「仏が初めて悟りを開いた夜から、涅槃に入った夜まで、この二夜の間に説いた教えはすべて真実であり、誤りはない」と説いている。(中阿含経巻34)
もし、実際には人というものが存在しないのだとすれば、仏はどうして「私は天眼によって人々を見る」と言ったのだろうか。


世界悉檀においては、人は存在すると言える。しかし、第一義悉檀においてはそうではない。


第一義悉檀は真実であるがゆえに、第一義というのではないか。だとすれば、他の悉檀は真実ではないのか。


そうではない。四悉檀はそれぞれ真実である。
実相、法性、実際は世界悉檀においては存在しないと言われるが、第一義悉檀においては存在すると言われる。
人もこれと同じである。世界悉檀においては存在すると言われ、第一義悉檀においては存在しないと言われる(存在するしないの分別を離れる)。何故であろうか。
 人は五種類の要素が集まることで人となる。たとえば、乳について考えてみよう。乳は色や香りや味や感触の集合体として存在している。
もしここに乳が存在しなければ、乳の色や香りや味や感触は存在しないだろう。いま、それらの乳の諸要素があるから、ここに乳が存在している。
ここで、乳が存在する・しないという意味は、たとえば一人の人に二つ目の頭や三つ目の手が存在しない、ということとは違う。その場合は架空の存在に名前を与えているだけである。こういったことを、世界悉檀による説明という。
 では、各各為人悉檀とは何であろうか。人の心や行いに合わせて教えを説くが、そのなかで聴いているところもあり、聴いていないところもある。
経の中に説くように、善悪の行いのために、人間界や地獄などの世界に生まれ、それぞれの対象から苦しみや楽しみを受ける。
https://haja.sakura.ne.jp/blog/811/

612 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:46:59 ID:8S584CGP.net
中国・日本仏教で影響大の決定的経を三つ挙げることができると思う。
法華経、華厳経、そして大乗涅槃経。

勿論、他、金剛経、維摩経なんかも、その精神性の影響は大きいけど、
上三つで、殆ど押さえられるんじゃなかろうか。

で、別して小品心経、と。

613 :神も仏も名無しさん:2020/04/13(月) 23:48:44 ID:RrA6D5G4.net

仏は、因縁がとても意味深い教えであると説いている。
仏は阿難に、因縁の教えは意味深く、理解しがたく悟りがたいもので、注意深く知恵の優れた人だけが理解できると言っている。
愚かな人は、身近な道理ですら理解できないというのに、どうして意味深い因縁の教えを理解できるだろうか。
それなのになぜ、愚かな人は因縁の教えを観察すべきだというのか。


愚かな人とは、牛や羊のような愚かさを言うのではない。
真実の道を求めるけれども、誤った観察をしているために、誤った考えに陥ってしまう人である。こういった人は、因縁を観察するべきだ。この場合には、それが良い治療法である。
一方で、怒りや貪欲によって行動する人は、快楽を求め、人を苦しめようとする。このような人にとっては、因縁による治療はふさわしくない。
これらの人には不浄観と慈しみの心が良い治療法である。なぜなら、これらの治療法は怒りと貪欲の毒針を抜くことができるから。
 また次に、真実に反して永遠の存在を信じる人々は、諸々の事象が互いに似ていて相次いで生じることに気づいていない。
このような人が無常を観察することは対治悉檀であって、第一義悉檀ではない。なぜかといえば、あらゆる事象は本質的に空だから。
偈に言う、
『無常なものを永遠のものと考える、これを誤った考えという。空の中には無常はない。どこに永遠なるものがあるだろうか』。

(偈を説いて言うが如し、
無常を有常と見る、是れを名づけて顛倒と為す
空中には無常無し、何処(いづく)にか有常を見ん)
https://haja.sakura.ne.jp/blog/811/

この偈は龍樹お得意の論法って感じですね。

614 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 00:01:28 ID:CrnKifP1.net
>>612
五時八教の教判で、最初と最後に説かれた教えがブッダの最も深淵な教えだと思われていたのでしょうかね?

五時八教説 (天台)
最初に『華厳経』を説き、その教えが難しいため人々が理解できなかったとして、次に平易な『阿含経』を説いたとする。人々の理解の割合に応じて、『方等経』、『般若経』を説き、最後の8年間で『法華経』と『涅槃経』を説いたとする。
そして最後に説いた『法華経』が釈迦のもっとも重要な教えであるとしている。
(Wikipediaより)

615 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 02:19:35.90 ID:hBxw77CH.net
現代からすると茶番もいいとこだろw

616 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 02:22:09.62 ID:hBxw77CH.net
仏教の長い歴史の中の厨二病的「ボクの考えた最強の(略)」がまさしくそれ

617 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 02:23:41.21 ID:hBxw77CH.net
大乗運動とは仏教にとっての厨二病期だったと言える

618 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 08:35:12.85 ID:hfTYITvl.net
 
仏性を衆生(人間)に限らず
山川草木や生類すべてに仏性があるとする
一切悉有仏性とかは
とりあえず
「オモシロそう?」だけど

たとえば↓創価信者とかなら

スッタニパータ 772
身体のうちにとどまり、執着し
多くの煩悩に覆われ、迷妄のうちに沈没して
遠ざかり離れることから遠く隔たっているので
(無明・有覆無記に依存しているのなら)

「(久遠の五百塵点劫の過去世において既に成仏してた)
  久遠実成であるはずだ!」と云うような欲望を捨て去ることは、容易ではない

 − これに対して −

真言亡国とされている
密教においては
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じ
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

これは「オモシロそう?」なので
とりあえず(「仮設としての」という意味で)肯定♪
(もっとも.これも久遠実成なる仏を前提としてるような気がするけど.とりあえず♪)

一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m

619 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 10:12:17.26 ID:J8bzFt82.net
智は天才w
色々言われるけど、
諸経を読み込み、咀嚼した上で、各経の内容と意義を一つの図面に組み直したのだから。
で、文献学的考証や歴史的考古学的事実との整合性はともかく、
継ぎ接ぎキメラでなく、内容に関してちゃんと筋を通したのだから。
(智オリジナルってわけでもない。寧ろ法華経に集約させていった感じ。)

で、日本仏教は、良くも悪くも、
(近代になって西洋近代仏教学が入ってくるまで)その図面の上にあった、と。
そしてまた、その図面作成に際しての個別の分析に関しては、今もって有効、と。
まあ、だから、「清浄なる仏性(≒真の私)がある」として、
長きに亘る(受け入れ易い)下地が既にあった、とも言えるけど。

620 :神も仏も名無しさん:2020/04/14(火) 21:10:51 ID:hfTYITvl.net
 
チベットとか言うと
「オウム信者か?」と叩かれるかもしれないけど
とりあえず
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット.ゲルク派

自立派(中観自立派)の場合
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。
  それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します。
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです。
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう。
(帰謬派を理解するのが難しい一般的な人々にとっては
  自立派の説明は.わかりやすい
  ID:hfTYITvl も「仮設としての」という意味で自立派♪)

 − これに対して −

帰謬派(中観帰謬派)の場合

(無明により.妄想し)分別されなければ、その法が火として設定されないゆえに
「誰も気づいていない山火事」も、
いま(無明により.妄想している)我らによって分別されている

無明により.妄想し分別している心の働きを捨て去ることは、容易ではない

自立派が言う
「自相(自性)があるはずだ!」と言うような欲望を捨て去ることは、容易ではない

帰謬派を理解するのが難しい一般的な人々にとっては
「帰謬派の説明は意味不明である!」という感じで叩かれている場合もあるかもしれない

中観帰謬派 ← 意味不明なので「叩いてやる〜♪」

621 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 09:22:10.65 ID:PQ0BjuHP.net
>>619
稚戯に等しい

622 :神も仏も名無しさん:2020/04/15(水) 22:14:26.48 ID:nT1Lb/Ga.net
 
インド
バラモン.ゴータマ・シッダッタ.説一切有部.大乗

そして.今のインドは

2020/04/15.インドで暴動
https://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000181875.html

2020/04/03.インド.ウイルス - ヘルメット
https://iflyer.tv/article/2020/04/03/corona-virus-helmet/

2020/03/26.インド.刑罰 - 腕立て伏せ
https://www.fnn.jp/articles/-/22491

2020/04/14.インドネシアに幽霊出現
https://www.cnn.co.jp/fringe/35152356.html

623 :神も仏も名無しさん:2020/04/17(金) 05:11:29.81 ID:xGVPqdMI.net
コロナ対策の最強コピペです。拡散してください。

「新型コロナウイルスに関してじゃが、あれは目に見えんじゃろ?仮に目に見えた場合どういうものとして認識するかが、このウイルスの感染を防ぐ鍵じゃ」
「と言いますと?」
「全身が泥水まみれの人間を想像してみよ。そしてその人の口からも少しずつ泥水が出てきておると仮定する。たまに咳やくしゃみをして泥水が周りに飛び散ることもあるじゃろな」
「よくう◯こに例える人もいますが・・」
「それはちとやりすぎじゃな。ウイルスへの余計な嫌悪感が付加されおる。そういう泥まみれの人間が何人か街中を歩いておると考えよ」
「今のところ、5〜10万人に1人、ってところですかね」
「そうじゃな。そういう人がどこかに触るとどうなる?」
「そこに泥が付きます」
「そう。そのなすりつけられた泥を他の人が触る。そしてその泥が口や目の中に入って初めて感染が起こるのじゃ」
「なるほどね〜」
「泥水まみれの人が歩くとどうなる?」
「泥水の跡をつけながら進みますよね」
「それを他の人が靴で踏む。そのまま家まで持ち帰ってしまう」
「ひやあ!急いで靴洗わなきゃ」
「それには及ばんよ。日本人は靴を脱いで家に上がるからの。ちゃんと手洗いをすれば大丈夫じゃ」
「だから欧米は感染率が高いんだ!」
「それも理由の一つじゃろうな。靴は玄関に置いておけば大丈夫じゃが、もし服などに泥がついてしまったら家の中に持ち込んでしまうことになるじゃろ?」
「服も消毒するべきですよね」
「そういうことじゃ」
「なるほどよくわかりました。でもそうなるとマスクはあまり意味がないようにも思えてきました」
「マスクはな、泥がついた手で口を触るのを防いでくれるのが大きな役割じゃ」
「あ!やっぱ必要なんですね」
「そうじゃ。本当はゴーグルもつけておく方が理想的じゃな」
「それじゃ変な奴と思われますよ…」
「まあ嫌なら止めといたらいい。とにかく目や口を触らないことじゃ。そしてまめに手を洗う」
「そうですね!コロナは泥、コロナは泥、と・・」
「とにかく泥を持って帰らなければいい。それに努めて安心して暮らすのじゃ」
「わかりました!早速みんなに広めます♪」

624 :神も仏も名無しさん:2020/04/17(金) 09:38:46.14 ID:kJif61jp.net
既に蔓延してるのに今更感染対策しても意味あんのかよw
安倍自民に投票した奴らのカルマだかんな
来世以降も背負えよ

625 :神も仏も名無しさん:2020/04/17(金) 14:04:42 ID:p4mV29TV.net
民主党政権なら今頃とっくに医療崩壊してたわな

安倍政権が良い訳じゃなくて野党がそれを遥かに下回る無能だというだけだし

626 :神も仏も名無しさん:2020/04/17(金) 17:25:47 ID:ccw8ZIos.net
金剛般若経 八千頌般若経 二万五千頌般若経 般若心経 善勇猛般若経 般若理趣経
維摩経
法華経
阿弥陀経 無量寿経
十地経(華厳経十地品) 華厳経入法界品
三昧王経(月燈三昧経)
金光明経
楞伽経
金剛頂経 秘密集会

他にサンスクリット原典が完全あるいは完全に近い形で残っている大乗仏典はありますか?

627 :神も仏も名無しさん:2020/04/17(金) 22:21:43 ID:Alio+V7z.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E7%B5%8C%E5%85%B8
仏典の本格的なサンスクリット化が始まったのは
グプタ朝が成立した4世紀以降である

グプタ朝の下では
これ以降インド仏教の中心機関となる
ナーランダー大僧院が設立され、大乗仏教についての研究・研鑽が行われた

ナーランダー大僧院や
ヴィクラマシーラ大僧院といった.インド仏教の中心機関が
12世紀末から13世紀初頭のイスラム勢力による侵攻で崩壊し、
インド仏教の命脈が絶たれてしまったことで、
サンスクリット経典のほとんどは、インドから消滅・散逸してしまうことになった。
  _  _  _

ふ〜む =^・・^= にゃるほろ♪
ほとんどは、インドから消滅・散逸してしまったらしいので
サンスクリット経典探しは.あきらめて
漢訳とか.チベット語経典とかの参照 ヨロ ということで

https://true-buddhism.com/shuha/early/
今日では
パーリ仏典より
漢訳の阿含経のほうが古いと推定されることが多くあるらしい

628 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 03:24:24 ID:fHTbczrT.net
では、私からのコロナ関連の投稿です。
研究データによれば、コロナウイルスは大気中に漂っているだけでは長く生存できないようで、わずか3H足らずの寿命とのこと。
ところが、物体に付着した場合には最長で72Hほど生存するらしく、プラスチックやステンレスが長生きをするらしい。
また、物体の表面は凸凹よりもツルツル面を好むようであり、頻繁に触るスマホ携帯などは最も怪しい対象物ということになります。
とにかく、マスク(飛沫防止) と手洗い(石鹸後にアルコール消毒)で予防に努めましょう!
私は、1日1回は全部の窓やドアを全開して空気の入換えを敢行し、
ドアノブやTVリモコンその他、頻繁に触れる箇所すべてを塩素系希釈液で消毒しています(尚、自動車内はアルカリ性電解水を使用)。

629 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 03:26:16 ID:fHTbczrT.net
----- 新型コロナウイルス対策情報 -----
 国立研究開発法人理化学研究所(理研)の元特別研究員として、抗癌剤やワクチンの開発に携わってきたという小早川智氏による怒りの
顔出し暴露インタビュー記事が凄い内容です。情報ソースは、あの怪しさいっぱいのオカルト系ニュースサイト『TOCANA』ですが、実際に
研究機関の公式サイトで情報提供者の小早川氏を確認できるのでかなり信頼性のある話ではないかと思われます。
 氏によれば、ワクチンそのものが利権(ビジネス)の絡んだものであって、子宮頸がんワクチンなどについては効果の期待できるのは10万人
に7人程度の上、逆に副作用が強いとのこと(ワクチンには防腐剤として水銀やアルミニウムが入っている)。
 そして今回、新型コロナウイルスの治療薬として政府が期待を寄せ使用に踏み切ろうとしている「アビガン」について、これは中国で様々
な薬品が次々と試されたカクテル効果によるものであって、実際に効いたのが本当にこのアビガンだったのかさえも不確かな情報であり、尚
且つ、このアビガンは人体の正常な細胞そのものを破壊する恐ろしいもので、動物実験では奇形を誘発するような強い催寄性が確認されてい
る強い劇薬とのこと。

630 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 03:27:40 ID:fHTbczrT.net
 氏によれば、腸内フローラの正常な機能を高めて免疫力UPを計れば、外部からの人工ウイルス(武漢ウイルス研究所から流出したのがコロ
ナだという米政府情報あり)にかかることはないといい、
 『私は、食事療法で免疫力を高め、善玉菌で身体を満たすことが一番の新型コロナウイルス対策だと考えています。特に味噌汁、梅干し、
ぬか漬け、納豆、甘酒などの発酵食品が良いです。つまり江戸時代から食されている日本食そのものということになります。---中略---実は、
これまでの研究で、味噌は熟成して発酵させればさせるほど、大豆たんぱくとみその成分中にACE阻害ペプチド、つまり高血圧防止ペプチド
を生産することがわかっています。新型コロナウイルスは、ACE2受容体を発現してい
る肺や腎臓、精巣に感染しやすいので、予防対策には味噌が効果的なのです。これはメディアではあまり報じられていません』とのこと。

 私も早速、意識的にこれらの発酵食品を毎日頂くことにし、自宅でぬか漬けも始めました。
手軽に美味しい浅漬けができて実に美味しい。
 https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-12589959282.html
 https://ameblo.jp/atom-green-0201/entry-12589965811.html

631 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 13:48:35 ID:zz/Vehw5.net
ふむ・・ 向こうの彼と同じだなw  >宝珠

ま、「マインドフルネス」と看板を掛け換えているだけ、彼の方が半歩マシか・・。

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1585118406/
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587181593/

632 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 13:59:27 ID:fHTbczrT.net
>>606-609
あとで、
「マハルシ」、「アートマン」、「真我」、「ヨーガ」等々...と、
そして、「仏教」(および「久遠仏」)との関係についてをやります(執筆中)。

自分でいうのもアレですが、
ここまで説明をするところは他にはなかなかないものと思います。
(第三者に提示できるほどのデータソースは所持してませんが、
自分自身の中ではすべてが完結しており、なんら矛盾も疑問もありません)

633 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 14:14:21 ID:zz/Vehw5.net
典型だなぁ・・。

数多のありふれた茶人や禅マニア同様の、
ゼンゴスキーと言うか、わかっちゃった君というか。

悟りスレで引き取れよw >パーピ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1585118406/1000

634 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 14:19:08 ID:fHTbczrT.net
>>631
おっ?
同じような方が現れたの?(それは歓迎ですネ!)
では、安心して消えることができる...とwww

635 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/18(土) 15:55:56 ID:fHTbczrT.net
>>633
>>典型 >>悟りスレ

まっ、改めて言うまでもないことですが、
単なる知的理解と“悟り(覚り/覚醒) ”とは全然違うものだからね!
私はもちろん悟ってなどいる筈もないことであって、けれども、
後はただひたすらその道を歩むだけのこと(すでに何をどうするかはわかってるので...)。
たぶん、失敗や挫折を味わいながらも、
幾生涯かを費やしていつかやっとゴールに到達するものと思う。

なので毎度、
繰り返し現れてくる(自称)悟ったちゃん達とは違うつもり。

636 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 16:06:43 ID:zz/Vehw5.net
今回の相似点はそこじゃなくて、
応用特化のための分派(≒一部抽出応用適正化)が、
主流正統を主張し、本義及び手引きの改変を目論んでいるところ。 w  >>635

637 :パーピマン:2020/04/18(土) 16:45:23 ID:aiC7KScD.net
>悟りスレで引き取れよw >パーピ

wwwwwwwwwwwwwww

638 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 19:54:15 ID:rlfqzBOZ.net
>>633

禅しか語れない池沼は要らないから見性スレに誘導して

仏教全体の視点を持たない自宗語りはマジで邪魔だから

639 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 20:54:09 ID:zz/Vehw5.net
IDが坊主  >>638

640 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 21:11:55 ID:uDgAdtpv.net
 
>仏教全体の視点を持たない自宗語り

通常.仏教は
無ではなく「空性」という説法だと思うけど

「涅槃・無為法も.有為法も.すべて無である!」と言ってた
机師匠を見かけないけど元気に生きているのかしらん?

道元禅師.普勧坐禅儀
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
という説法も・導きも.停め・止めてという状態・働きも
机師匠においては「すべて無である!」らしい

机師匠の場合は
いまだ証していないのに既に証覚を得たという
独り善がりの野狐禅に取り憑かれていたのかもしれない?

641 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 22:44:32 ID:rlfqzBOZ.net
>>640

>全ては無で有る
=非仏教だから誰かが潰したかも

有無の二見は邪見という最も基本的な事さえも知らない野狐は話にもならないから

642 :神も仏も名無しさん:2020/04/18(土) 23:10:01.08 ID:CpyxFM66.net
はてなのカキコにマジレスするなよw

643 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 01:33:50 ID:FTcMGYZq.net
■相応部経典 因縁篇12 第7・67 蘆束
(漢訳 雑阿含経 12、6 蘆)

 「友、サーリプッタよ。
  老死は自作なのてあろうか、それとも他作なのてあろうか、
  あるいは自作にして他作なのてあろうか、それとも、自作でも他作でもなく無因生なのであろうか?」

 「友、マハーコッティカよ、
  老死は自作ではありません、そして他作でもありません、
  自作にして他作でもなく、そしてまた、自作でも他作でもなく無因生でもないのです。
  〈老死はそれらのどれにも該当しません〉 生に縁りて老死があるのです」
(以下、12支全てに渡って同じ問答が続く)
https://w.atwiki.jp/waikei2008/sp/pages/19.html

「中論」 第1章 原因(縁)の考察

一 もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他者のものからも、【自他の】二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし。

二 縁は四種ある。原因としての縁(因縁)と、認識の対象としての縁(所縁)と、心理作用がつづいて起こるための縁(等無間縁)と、助力するものとしての縁(増上縁)とである。第五の縁は存在しない。

三 もろもろの事物をそれらの事物たらしめるそれ自体(【自性】、本質)は、もろもろの縁のうちには存在しない。それ自体(本質)が存在しないならば、他のものは存在しない。
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1214406&id=9504614

(独白)
この辺を少し勉強してみたいと思います。

644 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 09:09:38 ID:UyqFP7z6.net
小三災来たる

645 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 11:56:27 ID:ZmQ1J1Pt.net
 
ウイルス関連は↓こちらへ

http://☆nozomi.2ch.☆s☆c☆/test/read.cgi/honobono/1576668184

極力.最新の(日本語の)情報を検索してみる予定
  _  _  _

飢饉災
2020/4/20.バッタ大量発生でアフリカに迫る食糧危機
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58070050V10C20A4000000/

疾疫災
2020/04/15.中国でハンタウイルス
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200415-00010005-flash-peo

2020/02/10.中国.四川省 … 鳥インフルエンザ
https://www9.nhk.or.jp/news/html/20200210/k10012280211000.html?utm_int=all_side_ranking-social_002

646 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/20(月) 12:52:19 ID:CmMGGpD2.net
>>643
これはあくまでも、
私個人の感覚の問題でしかないのかもしれませんが、
いつも仏典においてよく見られるこのような形式、つまり、
  「○○はAではありません、そしてBでもありません、
   AにしてBでもなく、そしてまた、AでもBでもなくCでもないのです。」
といった一連の云い回しが、この私はどうもあまり好きではありません。

暗誦目的のためなのかもしれませんけれど、
中にはこの云い回しの在り方が類似内容で以て、
更に、何度も何度も繰り返し反復をしてくるものならば、
もう、とてもじゃないけれども読む気も失せてしまうというものです...。

確かに、哲学的な事柄においては、
単純に「これコレである」として確定的に述べることができないというのは、この私にももちろんよく分かる。
けれども、バラモン・ヒンドゥー聖典と比較するとよく分かるのですが、
このような言い回しはそれほど多用されていないし、ましてや仏典のように酷いものはまずみられない。
なので、恐らくこの云い回しというのは、
仏典制作/編纂者による意図的な好みによるものなのだろうとこの私は思っています。

ヒンドゥー聖典とは異なるこの仏典特有の表現というのは、
多分、ブッダ在世の頃に起きた特に有名な六師外道の一人だったサンジャヤ(サンジャヤ・ベーラッティプッタ)教団の
殆どの弟子250人がブッダに帰依したことに起因しているものと私は思う。
ブッダの二大弟子、サーリプッタとモッガラーナも共にこのサンジャヤ教団からきってきたのであり、
特にサーリプッタがブッダを殆ど代弁するような形で仏説を説法していたとも言われていることからも、
伝承された仏典もサーリプッタを介してサンジャヤ(不可知論者にして懐疑論者)
特有のうなぎ論法(掴みどころのない話術)で書かれているのだろうと。
なので、仏典についてはその点が非常に残念でならないところです。

「しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、
それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。」
(サンジャヤ)

647 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/20(月) 12:55:30 ID:CmMGGpD2.net
>>591
「阿羅漢」は、“如来の十号”の「応供」(arhan,arahan)の音写であり、
水野氏も「如来」についての解説では、『輪廻を解脱した理想的な真人として』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊 p80)と、述べています。

ちなみに比較になるかは分かりませんが、
中村氏の岩波文庫『真理の言葉/感興のことば』の第1刷発行は1978年。
水野氏『要語』の方は、1972年発行となっています。

648 :ポッタン師:2020/04/20(月) 14:09:22 ID:dTzFpA85.net
バカ宝珠が悟れないバカである、ことが判明して安心した。大爆笑である。

649 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 15:26:17 ID:u0koNf6T.net
>>646
ご存知の通り第一結集どころか仏陀の入滅以前にサーリプッタ(とモッガラーナ)は般涅槃していますし、
ブッダ本人が外教の四句の問いに答えることも多々あります。


相応部経典>因縁篇>第一 因縁相応>第二 食品

「  [一八] 第八 ティンパルカ

 [一時世尊]舍衛城にいた。
 その時、遊行者ティンパルカは世尊のもとに行き、行き終わって世尊と挨拶をし、印象深い言葉を交わして一方に座った。一方に座り終わって遊行者ティンパルカは世尊にこれを言った。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作り、かつ他者が作るのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽は自分が作るのでもなく、他者が作るのでもなく、原因なく生じるのか。
 ティンパルカ、そうではない。

 ゴータマ、苦楽はないのか。
 ティンパルカ、苦楽はないのではない。
 ティンパルカ、苦楽はある。

 それならば尊いゴータマは苦楽を知らず、見ないのか。
 ティンパルカ、私は苦楽を知らないのではない。見ないのではない。
 ティンパルカ、私は苦楽を知る。
 ティンパルカ、私は苦楽を見る。
(以下略)
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=27402447

あと相応部にはほぼ同じ問答の経典がいくつかあります(例↓
http://www.saisyo.org/EnTyYu/e5.php

無記のような十二支や苦以外のものを四句で問うのは中部や長部に多い印象があります。
大体は外教のバッチャ性の沙門が聞いてくるのですが。

単に有無を問う西洋哲学とは違ってインド哲学では四句で問うと聞いたことありますが、仏教だけですかね?
しかも大体は外教の者がブッダや仏弟子に四句で質問してくるというのがパターンですね。

650 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 16:52:16 ID:di/4nmxE.net
丁寧なんでしょ。思考が。
重箱の隅を塗り潰すように。

或は、
塗残しは、相手からしたら恰好のターゲットだから、とか。
(勿論、自分からしたら相手の攻めどころでもあるがw)

651 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 19:24:45 ID:1li/dzwx.net
宝珠がポッタンにすら劣っているのは確実になったけど、

セブンも、それはまだ違うな

外道を含む修行者(沙門)たちが当然のように「体で」共有している主観的視野というか世界観が大前提にあった上での、
号令のような物事の確認作業のやり取りだけがスッタとして残っているわけで、

概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してるなんてのは龍樹以来の頭でっかちな大乗的な仏教像だよ

カルマや波羅蜜的に、不適格者には、相応のものしか見えない

ゴミに見える者はそいつの波羅蜜がゴミ相応ってこと

宝珠が好例

652 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 20:08:01.26 ID:di/4nmxE.net
>>651
いや、そうじゃなくて、(仏典内に残されている問答が、ではなくて)
古代インド人一般として、ということ。
思考の癖というか、形式の民族性?文化性?(今でも日本で言う「県民性」みたいな感じで。)

たとえばギリシャ哲学にしても、古代中国の思想の傾向にしても、エジプト文明にしても。
それぞれに特徴というか、考え方の癖ってあるんじゃないかな、と。

653 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 20:23:14 ID:eB+UpVo6.net
>>651
>概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してるなんてのは龍樹以来の頭でっかちな大乗的な仏教像だよ
>カルマや波羅蜜的に、不適格者には、相応のものしか見えない
>ゴミに見える者はそいつの波羅蜜がゴミ相応ってこと

なるほど、不適格者には相応のものしか見えないとはよく言ったもんだわ。
あんたの波羅蜜がゴミだから「概念上の重箱の隅を執拗にほじくってドヤ顔してる」と見えるわけねww

654 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 20:48:59 ID:di/4nmxE.net
サンジャヤチームが入って、仏教のクリティカルな部分が失われた
(思想的なあなあのぼやけたものになった)、
と憤っていた袴谷先生w

655 :神も仏も名無しさん:2020/04/20(月) 23:54:59 ID:FTcMGYZq.net
http://get.secret.jp/pt/file/1587393522.jpg
http://get.secret.jp/pt/file/1587393552.jpg
http://get.secret.jp/pt/file/1587393577.jpg

ちょっと見辛いですが…。
縁起(の理法)だけでも諸部派によって有為とするか無為とするか見解が分かれるので、
ウダーナ(有部だとウダーナヴァルガ)の涅槃に関する自説において見解が分かれるのも無理はないようですw
涅槃は形成されざるもの、つくられたものではないもの、というのは部派仏教でも大乗仏教(少なくとも龍樹まで)でも一緒ですが。
ただ、涅槃を有部のように実有とするか、経部のように無(実体視しない)とするか、犢子部のように有にしてかつ無とするか、中論のように有に非ずまた無に非ずとするか、見解が色々と別れますね。
そういう歴史があるので、多分ここで議論を尽くしても答えは出ないのではないかとw

656 :神も仏も名無しさん:2020/04/21(火) 07:29:53 ID:EMAsXfLz.net
176頁から先に興味があるw  >>655

657 :神も仏も名無しさん:2020/04/21(火) 23:15:12 ID:vtII2nEL.net
>>656
http://get.secret.jp/pt/file/1587478363.jpg
http://get.secret.jp/pt/file/1587478438.jpg

もしここから先にも強い興味を抱きましたら「中村元 龍樹」をお買い求めください。

658 :神も仏も名無しさん:2020/04/21(火) 23:32:51 ID:vtII2nEL.net
>>643自己レス

>(以下、12支全てに渡って同じ問答が続く)

蘆束経では十二支縁起ではなく十支縁起で、最後は識と名色の相互依存で終わっていました。

659 :神も仏も名無しさん:2020/04/22(水) 14:33:12 ID:F/rwe2Re.net
>>657
なるほど、中村さんか。 どうりで詳細的確な筈だw

十分です。謝。


(これは龍樹(中観)全般についての本なので、深入りしてないけれど)
中村さんも、通仏教的縁起も、相依の縁起と見てる感じかな?
時間性はその一部、と。相依性が縁起の骨子、と。

660 :神も仏も名無しさん:2020/04/24(金) 00:28:38.15 ID:7guUGENS.net
チャンドラキールティが縁起を相互依存(parasparApekSA)と見てるので、その解釈が主流派な感じ

661 :神も仏も名無しさん:2020/04/24(金) 16:06:43 ID:g6ATg/gs.net
「縁起」「相互依存」 全文検索 検索結果: 147件
https://ci.nii.ac.jp/fulltext?q=%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%80%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BE%9D%E5%AD%98&count=20&sortorder=1

なるほど。↓
「縁起」「相互依存」 論文検索 検索結果: 11件
https://ci.nii.ac.jp/search?q=%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%80%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BE%9D%E5%AD%98&range=0&count=20&sortorder=1&type=0

まあ、隠居との遣り取りからも仄見える今現在流布してる日本仏教の一般的縁起観も、
「心経からの解説、或いは華厳の網的世界観」ベースで、あまり時間性関係ないしね。
(言い出しっぺは誰だろ。やっぱ中村さんかしらん。)
まあ、或る意味同時存在のようなもんだけど。
(ああ、中観ではこれも「ある」とは言わないか)

こうだからこう、という因果関係が軽くなってる気がしちゃうんだよね・・。
気のせいか知らんけど。  >相互依存


関係ないけど、
「いのち(仏心・仏性)の偏在と永続、そして繋がり(絆)」も、
宗派問わず「現代日本仏教の基本スタンス」になってるし。

662 :神も仏も名無しさん:2020/04/24(金) 17:50:27 ID:g6ATg/gs.net
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/48/1/48_1_415/_article
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/55/1/55_1_458/_article
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/58/3/58_KJ00006159736/_article

663 :神も仏も名無しさん:2020/04/26(日) 09:20:57 ID:rcAGkgYb.net
小三災来たる

664 :神も仏も名無しさん:2020/04/26(日) 11:16:58 ID:UK1O2a7c.net
3以上地震も若干多め

665 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/27(月) 00:44:37.79 ID:EyaBeGBp.net
>>606-609
「マハルシ」、「アートマン」、「真我」、「ヨーガ」等々...と、
そして、「仏教」(および「久遠仏」)との関係についての私見。

 『とにかく存在の問題は極めて複雑であって、後世の大乗仏教で説かれる法身仏や仏性・如来蔵と、外教が説く梵や我と、どの点がどの
ように違っているかをも仏教者としては明らかにすべきである。(p148)』
 なお我(a^tman,attan)について、仏教では外教が説くような実体本体としての形而上学的な我は、これを問題とすることを禁じ、これを
説かなかったが、常識的な我とか仏教が理想とする完成された自己としての我とかは原始経典の中にもしばしば説かれている。これは外教
の我と同じ語であるが区別せられるべきである。たとえば「如是我聞」の我は常識的な我である。また法句経160偈に、「実に自己が自己の
依主である。---中略---。」とある場合の自己(attan)とあるのが我と同じ語である。』(p163)
 『なお仏教は霊魂を説くのか否定するのかということがある。外教が説くような常住の実体としての霊魂は仏教ではこれを説かないが、
人格の主体としての 業(ごう)を保持している霊魂は三世を通じて存在するものとして、これを認めている。それは不生不滅ではなく、輪
廻の主体として、業や経験に従って常に変化しつつ連続する有為法である。唯識法相の学説で阿頼耶識といわれるものもこれに他ならない。』
(p164)
 『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略--- しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では古くか
ら不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。』(p170-171)
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

666 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/27(月) 00:46:30.91 ID:EyaBeGBp.net
 『この涅槃は、異端者達が主張していたような、単なる苦行とか、単なる禅定とかによって得られるものではなかった。世界人生の真理に
関する正しい智慧によって得られなければならない。この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく
知り、それを体験することによって、理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼ん
ではいないけれども、この境地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であると
せられているから、実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。』(p126-127)
(水野弘元著『原始仏教』2002年第16刷/平楽寺書店)

667 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/27(月) 00:47:20.52 ID:EyaBeGBp.net
 水野氏による解説を学ぶならば、元々、仏教においてはバラモン教のようなアートマンを説かないけれども輪廻主体については説いている
ということが分かるので、“無我と輪廻は同時成立できない”といった仏教界特有の馬鹿げた議論そのものが最初から無益なものであること
がわかります。また、“仏教の目指す涅槃の境地とバラモン教の梵我一如には殆ど違いがない”としながらも、バラモン教のようなアートマ
ンを説かない仏教における法身仏や仏性・如来蔵が、外教が説く梵や我とはどこがどう違うのかについて仏教者は明らかにすべきであると主
張しています。そのことが今まさに、このスレで考察されていることとなるというわけです(尚、梵我一如と涅槃とは同一であるとする見解は
他の研究者の中にも見られる)。
 しかしながら、ブッダは決してアートマンそのものを無いなどとは言わなかったし(アートマンの有無そのものについては無記の態度をとっ
た)、ただ五蘊はアートマンではない(五蘊無我)ということと、現象界においてはアートマンは知覚されないというまでの話(元々、アートマ
ンは非物質性であるから五蘊無我とは何ら矛盾しない)。そして、ブッダが否定したアートマンとは、ウパニシャッドの説くような実体的で機
能的なアートマン観(アートマンの内在する部位やその大きさとか、またはアートマンの動きなどの機能面、等々...)に対するものであって、
アートマンの持つ基本属性であるその完全なる善と不滅性、融合意識など...>>487については、涅槃と相通じるものであることがわかります。

668 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/27(月) 00:48:42.03 ID:EyaBeGBp.net
 マハリシの場合はというと、この方は生まれついての完成者(神の化身アヴァターラ)であって、17歳頃に体験した“死の経験”(突如、襲い掛かっ
てきた肉体死/自己消滅の恐怖)を経ることで本来の自分(生まれついての実現者としての自分とその使命)を自覚するに至ったというものであり、
しかも、マハリシのような生まれついての完成者であれば、尚更、彼の説くジュニャーナ(智恵と啓発の探究の道)のアプローチといった典型的
な不二一元論アドヴァイタにおいては、「何もする必要はない。あなたは最初から今そのままで真我アートマンであって、それ以外の何ものでもない(そ
の「実現していない」という想念を追い払いなさい!)」>>606と、言い続ける教え方を摂る傾向がより強くなる印象を受けます(一部の禅者や
勝義諦に傾倒する者の中にも修業無用を主張する者がいる)。
 この(病気でもないのに)まるで何か肉体死するかのような奇妙な壮絶体験などというのは、恐らく生まれながらの完成者といえども、肉体を
持って母胎から生れることによる必然的な物質性の覆いを取払うトリガー(引金)のような役目を持っているのだろうと思われます。このマハリ
シの事例のように、特別に永年の修行を経なくても生れつき完成されている聖者を仏教的な言い方をするとしたならば、それは「久遠仏」の意
味合いにより近いものだろうと思う。久遠仏とは、“無始より(永遠)の昔からすでに仏であった”という意味ですが、もちろん、実際にそうい
うことは在り得る筈のないことであって、当然、マハリシにおいても前世か前々世、またはそれ以前〜のいずれかの生涯において完成に至った
段階を経ている筈です。大乗(法華信仰)においては、ゴータマ仏の永年の修行と過去世の善行積徳物語ジャータカもすべて衆生を教え導くための演
技(方便)であったに過ぎないと見なすようになる(大乗僧侶たちは、自ら修行を重ねるほど自分たちとブッダとのあまりの違い故に、「我々では
到底、とてもブッダのようになることなどは不可能に思える...」ということで、遂には、ブッダは最初から我々とは違うのだと見なして、た
だひたすら衆生を救うために現れた特別な久遠仏として崇め奉るようになった...。

669 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/04/27(月) 00:50:29.83 ID:EyaBeGBp.net
 とにかく、ジュニャーナ及び不二一元論アドヴァイタというのは、仏教的にいうところの勝義諦であって、「あなたはアートマン以外の何もので
もない(そのことを自覚せよ!)」という究極の真理を提示することが最大目的であって、ただし残念なことに、これ(勝義諦)によって、「はい、
そうですか!」といってアートマンに目覚める者などは皆無に等しいというのが実際(ただひたすら、「自己実現していないというその想いを追
い払え!!」といって相談者の精神ココロを追込んでゆくという手法)。そもそもこれだけで完成に至る者というのは、最初からその時点でほぼ完成
に近い段階にある者なのだということ(従って、万人には向かない)。そして尚且つ、このような勝義諦を説く者の持つ最大の問題点というのは、
その師はそれ以外(の手法や道)については認めない傾向が酷く強いということ。そのことは不二一元論アドヴァイタの創始提唱者のシャンカラチャ
リヤはもちろん、そして、20世紀の仏陀とか20世紀最大の哲人などと讃えられたクリシュナルティも(彼は、ヒンドゥー教的なアプローチこそ
使わなかったけれども)、こちらも勝義以外を決して認めないタイプだったということからも分かる(神智学協会によって巨大なオーラを放つ少
年としてインドから見出され、救世主マイトレーヤとして迎え入れられた完成一歩手前の第4段階イニシエート)。
 これに対して、マハリシの場合には同じくジュニャーナ的手法を徹底するも、これ以外の手法や道というのはジュニャーナへと至ることを助
けるためのものであるとして、その意義については認めているという点が素晴らしいところです。

670 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 00:58:28 ID:EyaBeGBp.net
 咎のない者(アルジュナ)よ、この世には二種類の道がある、とわたしは前に述べた。哲学者サーンキャの知識の実修ジュニャーナ・ヨーガによる道と、実
修者ヨーギンの行為の実修カルマ・ヨーガによる道と。(3-3) 人は行為に着手しないでは超行為の状態に達せず、また行為の遠離カルマ・サンニャーサによっての
み完成に到達するものでもない。(3-4) なぜなら、一瞬間さえも行為を行わずにいる者はないから。すなわち、すべての者は根本原質プラクリティ
から生ずる成分グナによって、いやおうなしに行為させられる。(3-5)
 (行為の)遠離と行為の実修とは、ともに至福(解脱)をもたらす。しかし両者のうちでは、行為の実修が行為の遠離よりすぐれている。(5-2)
 学サーンキャと実修ヨーガとを、異なった(結果を生ずる)ものとして愚者は語るが、しかし賢者はそうではない。たとえそのいずか一方にでも正し
く専念すれば、両方の結果を得る。(5-4) 哲学者サーンキャが得る境地は、実修者ヨーギンによっても達せられる。哲学と実修とを(同じ結果を生ず
る点で)同一であると見る人は、真に見る者である。(5-5) しかし、力の強い者よ、行為の遠離は行為の実修なくしては容易には達せられな
い。実修を修めた聖者は直ちにブラフマン(宇宙の最高原理)に到達する。(5-6)
(バガヴァッド・ギーター 第三章,第五章)

671 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 01:02:48 ID:EyaBeGBp.net
 聖典『ギーター』の素晴らしいところは、このジュニャーナ及び不二一元論アドヴァイタのみが真理だとして他を排除しがちな傾向となる勝義諦
(非行為の道サーンキャ/ジュニャーナ)のみならず、それ以外の手法と道(行為の道ヨーガ)も共に完成に至る道であるとして教え、結果的には、ヨーガ無しで
ゴールに至ることができる者などはいないことから、“ヨーガの実修は必然である”ことを明確に説いているところです。
 私はこの前、仏教というのはヴェーダを単純否定するものではなくて、当時のバラモンたちの間違いを指摘することで本来のあるべき正しい
バラモンの姿を説くものだとして、ブッダこそが“ヴェーダの達人”そのものであるといいました。当時のバラモン達の間違った伝統に対する
アンチテーゼとしての異端派(バラモン教)の一つだったものが、後に「仏教」として呼ばれるものとなったのだと。そして、私が提示したこれ
らの経文こそがその揺るぎなき確かな証拠となるものだと思います。>>202-210
 つい最近も、「ブッダの説いたものは勝義諦ではなくて、世俗諦だった」(それは意図的で必然のもの!)と、この私は言いました。何故ならば、
ブッダの教え方も実にヨーガ(行為の道)に他ならないからです。
 スマナサーラ氏はヨーガのことを何も知らず、単に憶測でもってアートマンについてアレコレと説く有我論などとして馬鹿にしていますが、
実際上は、ヨーガにおいてアートマンがどうしたこうしたなどという話が出ることなどは殆どないし、その必要性すらもない。ヨーガというの
は科学的な技法メソッドを持っており、アートマンについての哲学的思考や理論や信仰などは特に無用です(アートマンをアレコレ説くのはヴェー
ダーンタ哲学、及び不二一元論です。日常のヨーガ実修においては特に必要な話でもなく、精々、「どんな困難があってもあなたの中には無限の
力が眠っている」と激励し、実修者を力付ける意味合い程度です)。
 ヨーガは科学であり、ただ実践を繰り返し修得していけば、後はおのずとその結果が出るというだけのこと。

>>670『』綴じ忘れミスですm(__)m

672 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 01:04:46 ID:EyaBeGBp.net
 “Yogā ve jāyatī bhūri, Ayogā bhūrisankhayo;
 Etaṃ dvedhāpathaṃ Satvā, Bhavāya vibhavāya ca;
 Tathāttānaṃ niveseyya, Yathā bhūri pavaddhatī”ti. 
 (Dhammapada 282)

 『実に心が統一(yoga)されたならば、豊かな知慧が生じる。心が統一(yoga)されないならば、豊かな知慧がほろびる。生ずることとほろびる
こととのこの二種の道を知って、豊かな知慧が生ずるように自己をととのえよ。』
 注282 心が統一され ----- yoga.原始仏教もヨーガを認めていたのである。ヨーガとは「結びつける」という意味で、心を散乱させないよ
うに一つの対象に結びつけることである。しかしそれは後代の曲芸のようなハタ・ヨーガとは異なっていた。』
(中村 元訳『プッダの真理の言葉/感興のことば』岩波文庫p125)

 そして、ブッダの教えはカルマ・ヨーガの典型そのものであり、ゴータマはカルマ・ヨーガの最高達人としてヨーギン(ヨーガ道の実践者)た
ちの中では称賛されているのです。「カルマ・ヨーガ」とは、行為への専念。日常行動の全てを結果を求めずに義務の遂行を行う道(奉仕のヨー
ガとも呼ばれる)。つまり、執着の放棄を達成して、カルマ(行為/業)の束縛から解放された自由境を得ることを目指すもの。
 聖典『ギーター』の教えの要は、このカルマ・ヨーガについて教えることにあるのです(スマナサーラ氏がいうような戦争や殺人を説くものな
どではありません)。

673 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 01:14:10 ID:EyaBeGBp.net
 『したがって、執着を離れてたえず義務的行為を行え。なぜなら、執着を離れて行為を行う人は最高所(解脱)に到達するから。(3-19) 行為は
すべて、根本原質の成分によって行われる。しかし、自我意識で心が迷った者は、「わたしが行為者である」と考える。(3-27) しかし、力の強
い者よ、個我が(根本原質の)成分および行為と異なることの真相を知る者は、「成分は成分に対して活動する」と考えて執着しない。(3-28)
 行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14)
 すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果に対す
る執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20) 期待を抱かず、
心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、なんら罪過(輪廻)を
得ることはない。(4-21) はからずも手に入れたものに満足し、相対を超え、妬み心を離れ、成功・不成功を平等に見る者は、たとえ行為をな
しながらも束縛されることはない。(4-22) 』 
(バガヴァッド・ギーター 第三章,四章)


 以上.

674 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 01:18:58 ID:EyaBeGBp.net
>>598-599
遅レス。
あなたの方こそ、ただの悪口ばかりじゃないか?

もしも、この私(の主張)に対して反論があるのならば、
七セブンのように真正面から正々堂々と正論で向かってきなさい。
その際、理論的かつ具体的な中身で宜しくどうぞ。
それが納得いくものであれば、もちろん認めます!

675 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 03:41:42 ID:EyaBeGBp.net
>>670
訂正:
 ×「学サーンキャと実修ヨーガとを」  
 ○「哲学サーンキャと実修ヨーガとを」
   (上から6段目)

676 :偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0 :2020/04/27(月) 04:07:44 ID:AKzdbnD4.net
人生とは神が作ったゲームです。
我々は全員神の子であり、もともと神の性質と能力を備えています。
神がその子供達を楽しませるために用意した最高に面白いゲームの場が宇宙であり、プレーすることが生命や人生と呼ばれるものです。
ゲームのベーシックなルールは、次元の制約、光速度不変の法則、因果の法則、などといった形で存在していますが、それ以外の細かいルールや仕様は各プレーヤーの裁量で自由に変更できます。
寿命を迎えたり何らかの原因で生命活動の維持が難しくなるとゲームオーバー。ゲームクリアは解脱であり元々の神の性質に戻ることとなります。

ゲームプレー中はこれがゲームであることを一旦記憶からなくすように定められていますので、ほとんどのプレーヤーはゲーム内ではそのことに気がついていません。ゲームステージが上がるにつれて徐々にそのことを思い出せるようにもなっています。
ゲームはそのステージによって、「苦難」「争い」「愛」「欲望」「善と悪」「男と女」といった様々なプレーヤーに共通のテーマが与えられます。すべて答えがなかなか出ない難しいテーマになっていますが、やりがいがあって大変面白く出来ています。
それらをどう解釈し乗り越えるかは各プレーヤー次第です。選択肢は無限にあります。

ゲーム終了間際、観世音菩薩という名前の超優秀なプレーヤーでありアドバイザーが現れ、問いかけます。
「いかがでしたか?神さまの造られたこのゲーム。楽しめましたか?
私もかつてこのゲームを夢中でやっていたプレーヤーの一人ですが、このゲームのおかげですっかり成長することができました。
私はあと一歩でゲームクリアなのですが、クリアしてしまうとゲーム外に出てしまいますので、それを残してゲーム内にとどまり、他のプレーヤーの手助けやアドバイスを勝手にしています。すべてのプレーヤーにクリアの道筋が立つまで自分自身もクリアしないという誓約を立てています。
あなたのゲームは一旦ここで終了ですが、ゲームクリアはなされていませんので、まだ何度でもゲームに戻りプレーを再開することができます。ゲームでやり残したことがあったり、もっともっと楽しみたい場合はゲームに戻ることを選択してください。」

観世音菩薩は様々な姿(人間、動物、芸術、哲学、娯楽)となってプレーヤーの近くに現れ、このゲーム攻略のヒントを伝えていますが、他にもゲームのカラクリを見破りプレー中に他のプレーヤーにヒントや情報を与えるプレーヤーが時々います。
よくRPGに出てくる長老のような存在ですね。ヒントは独自のものでやり方もそれぞれ異なりますが、いずれも実践することにより多かれ少なかれ確実にクリアに近づくようになります。ゲーム全体の把握はプレー中はなかなか難しいので、ある道すじへのヒントという形で示すしかありません。これを方便といい、様々な宗教が存在するのはそのためです。
中には嘘つきも存在するので注意です。
もちろん彼らの言うことを聞かずに、独自にゲーム攻略法を考案するのもアリです。

そういえば釈迦如来という長老プレーヤーの一人が、「向かうべき方向はあちら」と指し示した時に他のプレーヤーがその指ばかり見ていたので、「おいおい俺の手を拝むんじゃねえよw あっちあっち」と苦笑してましたね。

677 :神も仏も名無しさん:2020/04/27(月) 08:29:33 ID:rvecTcu6.net
>>674
面従腹背の態度のどこが「納得すれば認める」なんだよw
文献弄りが目的ならここで学僧ごっこがしたいセブンに相手をして貰えばいいんじゃん?
彼にとっては態度がどうかということよりもまず言葉がどうかだろ
だから面従が通じて都合がいいんだろ

こっちは腹背の外道ぶりを問題視している
オレオレ詐欺の電話にマトモに受け応えするほど「人の良い老人」じゃないんでね

678 :神も仏も名無しさん:2020/04/27(月) 08:36:49 ID:ErYgFpTJ.net
手厳しいなw 言い得て妙だが。   >オレオレ詐欺

679 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/27(月) 19:43:57 ID:EyaBeGBp.net
>>676
アンカーが付いてないけれども、
ヒンドゥーの説くの神と人間の関係などこのような幼稚なゲームの話と何ら変わらない、
とでも言いたいということかな? 要するに、馬鹿にしてるわけだ!!

まっ、ヒンドゥーにおいては、
現象界の森羅万象というのはすべてが壮大にして美しい“神の夢”なのだと言われている。
すべては神のご意志のままであって、その気であれば譬えアートマンであれ、如来ブッダであれ、
もののまばたき一つの瞬間で掻き消えてしまう...。
ただヒンドゥーにおいては、体感して覚知したものを正直にそのまま神について説いただけ。
対して、ゴータマ・ブッダは神を説くことをしなかった、と。
ただ、(違いとしては)それだけのことだ。

680 :偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0 :2020/04/27(月) 19:51:16 ID:AKzdbnD4.net
>>679
決めつけはよくないぞよ^_^)

681 :神も仏も名無しさん:2020/04/27(月) 23:24:14 ID:Lg/6drwm.net
 その(カースト制度の教えがある)バラモン教から発展したヒンドゥ教の思想は、『バガヴァッド・ギーター』というテキストに代表されています。
哲学思考に値する表現は数多くありますが、主なエピソードは、道徳を否定することに徹しているのです。
アルジュナという王子が国を取り戻すために戦争に出るのです。
しかし、相手は自分を育てた叔父さんたちなのです。
彼は、叔父さんたちとその子供たちが国を統治してもいいのではないかと思っていたのです。
 彼にはクリシュナという御者がいました。クリシュナはアルジュナ王子の顧問でもあったのです。
王子はクリシュナに促されて出陣するのですが、いざ戦場で叔父さんたちの顔を見たら、戦意を失ってしまったのです。
そこでクリシュナが彼を激励した言葉が、『バガヴァッド・ギーター』の内容になっています。
「大量に人を殺してでも領土を取るべきなのか?今の王様たちはうまく統治しているのではないか」と人殺しを嫌がった王子に、
クリシュナは「クシャトリア族に生まれた貴方は、自我意識を捨てて、神に定められた義務を果たしなさい。それがカルマ・ヨーガ(行為による修行)です。人を殺していると悩む貴方の心は、現象を区別している。一切即一なのです。それを理解しなくてはいけない」と説くのです。
 これは一見論理的に見えるのですが、仏教の立場から見れば、闇雲に無批判的に、「人を殺せ」というススメにしか見えません。
「生まれはどうであろうとも、精神的な成長に励む人は皆、ことごとく、完全たる解脱を得られますよ」という教えに、「悪行為は悪果を、善行為は善果をもたらす」という因果法則に、逆らっているのです。
 仏教は他宗教と喧嘩はしません。
しかし、このように「ありのままの事実に逆らう、人の精進努力を否定する、社会の差別をそのまま認める教え」には、頑として反対します。
人はとことん努力しなければいけません。常に自分の心に気づいて、心を磨かなくてはならないのです。
それしか向上する方法はないと、仏教ははっきり知っているのです。


アルボムッレ・スマナサーラ 藤本晃
ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析)

682 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/28(火) 20:07:58 ID:TrIKd8aZ.net
>>680
失礼しました。
もし、そのような意図でなかったのならば誤ります。
ごめんなさいm(__)m そういう連中ばかり多いもので、つい...。

いや、なかなかどうして神と人間との関係について
とても面白くユニークに描かれているものだなぁ〜と、感心させられます。

>>404 >>410
“UFO映像” 米国防総省が公開 “物体が何かは不明” 2020年4月28日 7時16分
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200428/k10012408331000.html
河野防衛相 自衛隊もUFO遭遇時の手順定める考え示す 2020年4月28日 13時16分
  https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200428/k10012408701000.html

このような政府レベルの公式なUFO認知の情報は大歓迎だ!!
河野さんは、「自衛隊はまだ遭遇体験はないようだが...」といっているけれども、
実際は、遭遇体験というのはすでに何度も起きてきた。
河野さんがそのことを何も知らないだけ。

すべてが隠蔽されてきた。
目撃情報をあまりにシツコク語る体験者などは
見せしめのために確か、左遷とかされてきた筈だ...。
それで目撃、遭遇体験があっても保身のために報告ができなくなったのです。
その結果として、何も記録がない(遭遇体験などというのはない)という話にされているだけ。

683 :偽和尚(偽) :2020/04/28(火) 20:15:15.88 ID:J0ATgytE.net
>>682
いきなりじゃったからそう思われても仕方ないのうw
こちらこそ失礼したm(_ _)m

わしゃ以前からあなたのファンでの
いつも勉強させてもらっておりまする
改めて感謝じゃよ^_^*)/

684 :神も仏も名無しさん:2020/04/29(水) 09:19:04 ID:+xrnCwDo.net
けど、確かに、スッタニパータ厨って、結構多いかも・・w(自戒も込めて)

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1570680353/491

685 :神も仏も名無しさん:2020/04/29(水) 13:07:00 ID:pyjZHm9Z.net
>けど、確かに、スッタニパータ厨って、結構多いかも・・w(自戒も込めて)

「スッタニパータ厨」wwwwww

「オレは、腐った日本仏教なんて相手にしない。真の仏教はテラワダ仏教だけだあああ」
みたいな?ww

だったら、日本でうだうだ言ってないで、とっととスリランカいって出家しろよとw

・・・・・・・・・・・・
まあ、初めて原始仏教に触れたときは、日本の葬式仏教しか知らなかった身には、
確かにその新鮮さは強烈だったけどねw

686 :パーピマン:2020/04/29(水) 13:08:03 ID:pyjZHm9Z.net
ん?? コテ入らんかったw

687 :パーピマン:2020/04/29(水) 13:11:19 ID:pyjZHm9Z.net
>すべてが隠蔽されてきた。

wwwwwwwwww

相変わらずの「ムー」ファンww

688 :神も仏も名無しさん:2020/04/29(水) 14:21:20 ID:+xrnCwDo.net
>>685
っていうか、
ちゃんと「仏伝」(―パーリ系の話なので自ずと律蔵大品や大般涅槃経になるけど)
くらいは押さえて、伝播の歴史を概観して、
その上でスッタニパータ、って流れの方がいいんだろうな・・という話。
(ちょうど、中論(或いは心経)だけだと、空(或いは無)一辺倒の偏屈ができあがるように・・。)

更に梵網・沙門果両経やアングリマーラやシンガーラカの逸話も視界に入ってるとよいけど。


※当該のスマさんの話は、多分、
出家とは(真の坊さんとは)孤高の清貧な生き方をするものであり、
世俗の細かな義理や約束事から、果ては血縁身内に至るまでも、
障碍としてバッサリ断つべきだ(犀の角にあるように)、
という極論に対する諫めと思われる。

689 :パーピマン:2020/04/29(水) 14:41:46.39 ID:pyjZHm9Z.net
>>688

せめて大般涅槃経だけでも読んどくといいなw
出来れば、入滅後の仏教の変遷も概略くらいは読んどいた方が良いw

中論や心経だけかじると間違いなく、穴に落ちるw

原始仏教マンセーになるとテラワダ馬鹿か、オカルト馬鹿になって、
間違って禅をかじると「なんちゃって覚者」になるとww

難しいなw

(・・・・・・・ちなみに、最近は『縁起論争』を見直してみたけど、・・・・
う〜〜〜〜〜〜ん、木村は言うに及ばずだけど、和辻もねえw

これから、維摩をもう一度、読み直してみようと思う。)

690 :ポッタン師:2020/04/29(水) 15:09:23 ID:x6ercDZE.net
689.悟れないバカバービマンが言う、ことである。大爆笑である。

691 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/29(水) 19:05:15 ID:yWWqij7f.net
>>687
まっ、『ムー』も好きだけれども、
私がいってるのは、以前にTVで紹介した体験談(自衛官)のこと。
まっ、パーピはTVを全部ヤラセということにしてしまう人だからね(苦笑)。

とにかくだ!
あなた方の口癖だった“妄想扱い”なんかじゃなくてヨカッタじゃないか!!
政府も自衛隊も真剣対応するそうだからね。
あなた方はこの私からみて、ザッと35〜40年位遅れてるのよ(私と比較して)w

>>683
>わしゃ以前からあなたのファンでの

エエッ〜 Σ(゚д゚lll)ガーン 
分からずヒドイこといってしまった... ○| ̄|_ ガクッ!!

>いつも勉強させてもらっておりまする
>改めて感謝じゃよ^_^*)/

こちらこそ宜しくどうぞぉ
(-人-)南無ナム〜

692 :神も仏も名無しさん:2020/04/29(水) 20:43:06.92 ID:HRbeATRT.net
> >>687
> あなた方はこの私からみて、ザッと35〜40年位遅れてるのよ(私と比較して)w

wwwwwwwwwwwwwwwww

693 :神も仏も名無しさん:2020/04/29(水) 22:46:05 ID:ldwD8kNV.net
【仏教】悟りを開いた人のスレ500【天空寺】
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1587990358/

694 :神も仏も名無しさん:2020/04/30(木) 00:31:02 ID:1FDAZELu.net
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀がみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命であるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf

695 :神も仏も名無しさん:2020/04/30(木) 00:34:24 ID:1FDAZELu.net
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀かみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命てあるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf

696 :神も仏も名無しさん:2020/04/30(木) 00:38:55 ID:1FDAZELu.net
『大般涅槃経』には思想的に重要な問題がいろいろ示されているが、中でも注目すべきものは、入滅の解釈である。
この経典の編纂者たちにとっては、仏陀のような神的存在が普通の人間と同じ死を迎えるというのはあり得ないことであった。
仏陀の入滅には、必ずや特別の理由がなければならない。
そこで、経典は、仏陀に寿命の延長を懇願しなかった アーナンダの過失をあげ、仏陀の教化の因縁が完了したことを悪魔によって告げさせ、かくして仏陀がみずからの意志で残りの寿命を捨てられた、と説く。
これは、仏陀の入滅が化縁完了による任意捨命であるとする解釈であるが、ここには歴史的存在としての仏陀から、永遠の存在としての仏陀への関心がはっきり示されている。
かかる仏陀観は、後の『無量寿経』や『阿弥陀経』において展開したアミターユス(無量寿)の観念や『法華経』の「如来寿量品」における久遠仏の思想、あるいは大乗の同名経典『大般涅槃経』における如来法身常住の思想につらなるものであり、その思想的意義は大きい。
この点からしても、『大般涅槃経』は、仏陀の「大いなる死」の歴史的事実に即して、その宗教的真実を明らかにしたものと言うことができるのである。
http://todaibussei.or.jp/ebacknumber/02_01_061.pdf

697 :神も仏も名無しさん:2020/04/30(木) 07:34:29.43 ID:UyLhM1Ei.net
書込みは一回でいいよw


また、このスレに限らず少し仏教学に入り込んだ人間なら周知の内容で、
特に真新しさもないけど。

そういう神格化部分を措いてさえ尚、押さえておくべき様々に溢れてるのがパーリ大般涅槃経。
(同様に、もし大乗仏教を語ってゆくなら、法華経・大乗涅槃経・華厳経を外すことができないように。)

698 :栄進軍曹:2020/05/02(土) 03:21:03 ID:AF5jb7an.net
俺のアートマンと、貴方のアートマンって、同一なの?

それとも別(´・ω・`)?

699 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 03:47:47 ID:ugU/ydKn.net
>>698
同一にして、また別ものでもある...。

つまり、梵我一如の境地に達しても個性は失われないといわれています。
もちろん、その個性とは我執・我見・煩悩のことではありません。
けれども、あなたとわたしとの分離意識は消散するのです。
〜それは、体験しなければわからない常人の理解を遥かに超えたことです。

700 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 03:55:10 ID:ugU/ydKn.net
>>671-673
つづき.

 仏教とヒンドゥー教とは異なる宗教であり、特に仏教側から見た場合のヒンドゥー教は外道扱い(過激派は邪教視)であるというのが一般
的な見方ですが、けれども永い歴史の中では双方が互いに刺激し合った良きライバルとして切磋琢磨してきたというのが実際のところだと
思われます。例えば、本来あるべき正しいヴェーダの理解を復興しようとしたシャンカラは、度々、仏教サンガの集いに参加していたこと
は有名な逸話とされています(それが「仮面の仏教徒」と呼ばれる所以)。つまり、当時はシャンカラが提唱した不二二元論アドヴァイタも仏教
理論(と酷似するもの)だとしてヒンドゥーの伝統信奉者からは批難されたのです。
 それから、ヨーガにおいて最も重要視されている聖典『ヨーガ・スートラ』の編纂には、当時の仏教徒たちが大きく関ったもの(ほぼ定説)
と見なされています。そして、あまり明確な名指しこそがありませんが、『ヨーガ・スートラ』の成立年代がヴァスバンドゥ(世親)以前には
遡ることができないことからみても、恐らくは『ヨーガ・スートラ』の編纂に関わったという仏教グループとは、つまり、『瑜伽行唯識派/
唯識派』(あらゆる事象は唯(た)だ識が変化したものにすぎないという唯心論を唱える,インド大乗仏教の学派。ヨーガの実修を好む瑜伽師
(ゆがし)と呼ばれる人びとによって創立された---コトバンク)のことではないかと思われます。ここまでくれば、もう殆どそれは協力関係
に等しい...。
 それからブッダも修行したとされるヨーガの源流について述べると、その古代ヨーガを伝承した人々というのは古代ヴェーダのいわゆる
祭儀式中心を説くグループとは、どうやら全くの別系統であったものと見なされています。

701 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 03:56:10 ID:ugU/ydKn.net
 『仏陀が悟りをえたのもヨーガによってであり、仏陀はインドでもっとも古いヨーガ行者の一人だともいわれている。その仏教でも宗
教実践の方法としてヨーガが取り入れられているが、バラモン正統派におけるヨーガの歴史的展開とほぼ同じような展開(古典ヨーガから
ハタ・ヨーガへ)が、仏教でも見られるという。初期仏教や初期の大乗仏教(二、三世紀)では心の作用の止滅を中心としたヨーガがおこな
われるが、七、八世紀以降、仏教タントリズム(密教)がさかんになると、精神生理学的なヨーガの修練が重視された。仏教タントリズム
において重要なマンダラは、大宇宙と小宇宙との合一を体得するヨーガの道具であり、大宇宙と小宇宙の合一は、ヴェーダーンタ哲学、
それにもとづくハタ・ヨーガの求めたものでもあったという。仏教に取り入れられたヨーガは、禅として中国や日本にももたらされた。』
 (『ヨーガの哲学』立川武蔵)
 http://togoku.net/yoga-tachikawa/

 『ブッダを始めとする仏教者たちの思想や行動が、ヨーガ学派の根本聖典である『ヨーガ・スートラ』の成立に大きな役割を果たした
ことは、否定出来ない事実である。というよりも、『ヨーガ・スートラ』は、仏教などのヨーガの思想・宗教運動を総合する形で最終的に
成立したということができる。---中略---
 『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭で「ヨーガとは心のはたらきの止滅である」と定義するが、この「止滅」と訳される言葉、ニロー
ダ(nirodha)は、仏教特有の言葉である。ヨーガ・スートラの第一章はとくに仏教の影響が非常に大きい。
識別作用(心のはたらき)が止滅(nirodha)することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。
(『スッタニパータ』1037)』
 http://samten.seesaa.net/article/431687714.html

雲井 昭善(著)『ヨーガ学派と仏教との交渉』
 https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/DY/0069/DY00690L001.pdf
今西 順吉(著)『ヨーガ学派と仏教』
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_518/_pdf/-char/en
金倉 円照(著)『ヨーガ・スートラの成立と仏教との関係』
 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/1/2/1_2_259/_pdf/-char/ja

702 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:00:08 ID:ugU/ydKn.net
>>681
>その(カースト制度の教えがある)バラモン教から発展したヒンドゥ教の思想は、

 この『ギーター』が示すものとは、カーストにより自分に与えられた立場や責任において、今、自分がしなければならないこととは何
か? そして、そのときに必要な精神態度とは何か? について説いたものです。
 もちろん、勝手に人間を生れつき差別して弱者を虐待したり、などというのは以ての外です。古来から現代までも続いているインドの
カースト制度には問題点が多く、基本的に人間差別に他ならないものです。もちろん、インドの覚者方と真実の正しい聖者であれば、当
然、これを良しと見なしているということはない。
 しかしながら、元々のカーストというのは本来はこういうものではなかったのです。それは誤用された結果なのです。

 永い歴史におけるカースト制度によってインドすべての仕組みがこれにもとづいて構築されているために、これを無くして、新たな社
会システムを導入するというのは並大抵のことでは無理な話です。もちろん、このままでいい筈はないので、時間は掛かるけれども改善
に向けて進めらなければならないと思う。今の日本が、例えば憲法九条の改正と天皇制の廃止...をしようとした場合は簡単ではないの
と同様(私個人は九条改正は内容に拠りけり、天皇制についてはその支持者でも反対論者でもない)、そして、恐らくはそれ以上の、いや
もっと比較にならないくらいの困難なのであり、そして、膨大な時間も掛かるでしょう。

シャンカラは、カーストや家柄などによって我々の内にある真実の自己が影響されることはないといい、
 『いったい、サンニャーシン(遊行僧)にとって、カーストの違いや浄、不浄にどんな意味があるのだ?」
--中略--バラモンや、チャンダーラなどというような違いは、ただ単に、狭い心が生み出すものである』(シャンカラ物語)
と説いた。

703 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:01:28 ID:ugU/ydKn.net
 『偉大な立法者マヌによって制定されたカースト制度は、その起源においては真に賞賛すべきものであった。マヌは、人間が、その性
質の進化程度によって四つの種別カーストに分けられると観た。すなわち、肉体労働によって社会に奉仕できる人々(シュードラ)、知力、技
能、農業、商業、交易、その他実業によって奉仕する人々(ヴァイシャ)、管理、統制、保護等の能力をもつ人々―政治家、軍人など(ク
シャトリヤ)、および、瞑想的性格をもち、霊感に恵まれ、他人にも霊的鼓舞を与えることのできる人々(バラモン)、の四種別である。
「人が“天上界に目覚めた者”(すなわちバラモン)であるかどうかは、その人の血統や家柄や、宗教儀礼や学問によって決められるもの
ではなく、性格と行状のみがこれを決定する」とマハーバーラタは宣言している (注-「インドのカースト制度において、人が四つの段階
のいずれに属するかは、本来、その人の血統や家柄によるものではなく、その人が人生の目標をどこに選ぶかという生来の性質によって
決められるものなのである」)。マヌは人々に、人は智恵、徳、年齢、親族関係、そして最後に財産、のいずれかでも持っている限り、社
会的尊敬を受ける資格があると教えている。ただし、ヴェーダを信奉していた社会では、どんなに財産を持っていても、それをただ無益
にたくわえたり、公益や慈善のために使うことを知らない者は卑しい者とさげすまされた。したがって、りんしょくな金持ちに与えられ
る社会的地位は、ごく低いものだったのである。
 だが、このカースト制度も、数世紀の内にしだいに形式化して世襲制となったため、そこから深刻な弊害が生ずるようになった。1947
年の自治回復以来、インドは、門閥によらず各人の個性や能力のみを基準とする古代カースト制度の真価を再認識してこれを復活する運
動を、遅々とはしているが着実に進めている。地球上の国はすべて、自らの手で敢然と処理解決しなければならない、その国特有の困難
なカルマを背負っている。インドは今、このカースト制度改革の大事業を、柔軟なしかも不屈の精神をもって完成するために奮闘してい
るのである。』
(パラマハンサ・ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』森北出版p403-404)

704 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:03:00 ID:ugU/ydKn.net
 そして、カースト制度の元となったものが「ヴァルナ制度」というものですが「ヴァルナ」というのは「色」ということであり、これ
は“肌の色”の違いが階級差別にも関わっているものとして一般的には説明されています。
 しかしながら、これはすでに形骸化した間違った概念による支配なのであって、元々、本来的にはその人の霊的成長を示すチャクラの
輝きと発するオーラの色の違いを示すものでした。つまり、個人の霊的成長の度合いに応じて、その人にとって適した生活と相応しい職
業があるという意味なのであり、また、その人の(意識からくる)行為の如何によって人は評価されるということなのであって、もちろん、
単に生まれの境遇に拠って尊敬すべきものでも卑しむものでもないということだった。
 本物のインドの覚者や高度に発達した高位の弟子(導師グル)というのは、自分の弟子たちの発達具体についてをチャクラの輝きと活性化、
そして、オーラの色などを霊視することで正確に知るのです(よって、弟子の虚栄や嘘偽りはまったく通用しない)。
 それから、本来の教えの誤用ということでいえば、特に南方仏教において顕著に見られた業に拠る報いに対する誤解と偏見であり、生
まれつきの障害者に対しては酷い差別扱いを僧侶たちがしてきた、という実態がある。そのことに対して反省して、二度とそういう醜態
を僧侶が晒すことのないようにして頂きたいものと思う。似たようなことはこの日本仏教界においてもあったことであるし、また、今で
も非業の死を遂げた変死体の故人には戒名を授けない(変死者は悪人である証拠であって戒名を与えるに値しない)とする糞坊主がいるら
しい。それは悲しみに暮れる遺族の心を逆なでする酷い僧侶の態度であり、慈悲と救済の精神にまったく反するものだ。

705 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:14:45 ID:ugU/ydKn.net
 尚、殆ど消滅したといわれてきたインド仏教ですが、近年、そのインドにおいて再び仏教徒が増大してきているという。インド特有の
カースト制度に反対する人々やこの制度によって虐げられてきた大勢の人々(インド12億人のうち一番下の奴隷カーストにすら入れない
不可触民と呼ばれるアウトカーストの人々は約2割おる。3千年間も触れれば穢(けが)れると人間扱いされてこなかった人々だ。---下
記リンクより)が、カーストによる生まれつきの人間差別を否定し、万人平等の救いを説く仏教への改宗運動が大きく広がっているのです。
特に、日本人僧侶・佐々井秀嶺氏による活動によるところが大きい。

インドで1億5千万人の仏教徒を導く、81歳の日本人僧「私には黒い血が流れている」
https://www.jprime.jp/articles/-/10511
 『一九五六年の仏教への集団改宗により仏教徒になった人々およびその子孫がこの集団である。 彼らはヒンドゥー教が正当化するカー
スト制度とそれに基づく差別と闘う人々である。 一九五六年の集団改宗によって、インドの仏教徒人口は〇・〇五%から〇・七%へと増
加した。 これは、インドにおける仏教復興運動として歴史的な意義をもつ。』
(インドの「闘う」仏教徒たち/改宗不可触民と亡命チベット人の苦難と現在)
http://www.fukyo.co.jp/book/b92257.html

>>700訂正:
 ×「不二二元論アドヴァイタ」
 ○「不二一元論アドヴァイタ」

706 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:18:00 ID:ugU/ydKn.net
>闇雲に無批判的に、「人を殺せ」というススメにしか見えません。

 もし、このように『ギーター』を「殺人を奨める聖典だ」などとインドで公言していたら、たぶん大衆から投石され唾を吐きかけられ
るでしょう。これはすでに解説した通りであって、カルマ・ヨーガについて、そして、一元論的非行為の道ジュニャーナと行為の道ヨーガとの
関係について教えるものです。それは戦争に臆する青年を題材にした寓話であって、話をより分かりやすくするために敢えて極端な設定
をしたもの。もちろん、決して戦争を推奨するものでも殺人を説くものでもありません。

 しかしながら、あくまでも私個人の見解として述べさせてもらいますが、これは実際上の話においてもこのクリシュナからの教えとい
うは大きく効力を発揮するものです。
 例えば明日、死刑を執り行うことになっている執行担当者(実際にボタンを押す人間)が明日を想い心を患っていた場合、この教えは確
実にその人の心の葛藤と苦悩の軽減へと大きく繋がるものです。執行人がこの時にできることとは、ただ単に無執着に淡々と任務を遂行
することであり、そして、唯一できることが死刑によって亡くなる方が罪を悔い改め、死後には少しでも安穏で良き来世へと生まれるこ
とができるようにお祈りすることです。
 死刑というのは、死刑執行を担当する特殊任務に就いている人間のみならず、死刑制度を支持する国民すべてにその責任と罪過がある
のであって、特定の執行人個人だけの責任などではない。この私は死刑反対論者ですが、それでも明日、執行しなければならないとして
苦悩する担当者に向かって、「死刑は殺人に他ならず、殺人は最も大きな罪悪だ。そんなことをしたらおまえは地獄に堕ちるぞ。これは
ブッダが説いたことであり、そして、絶対的な真理なのだ!!」などと、その人間に説き聞かせることがその人の心の苦悩の救済になると
は決して思わない。なるわけがない。

707 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:20:55 ID:ugU/ydKn.net
 死刑を支持する国民というのは、このような担当者たちの苦悩を知らず、そして、死刑が執行される惨たらしい実際上のリアルな情景
を知らずにのほほんと暮らしているから簡単に軽々しく支持できるわけだ。この私も死刑制度は即廃止すべきだとしており、政府にも手
紙を送付したこともある。ちなみに、死刑制度反対を明確に表明している日本仏教の宗派は残念ながら未だに浄土真宗ただの一つだけら
しい(死刑執行の度に宗派見解としての反対声明を発表してきた)。一体、他の宗派は何をしてるのか? 恐らくは政治的な口出しは敢えて
控えたいということなのだろうと、この私は見ているが...。
 それから、今は対テロ戦争の時代といわれていますが、米軍の特殊部隊のメンバーとして明日、オサマ・ビンラディンを襲撃暗殺しな
ればならない兵士たちの心の葛藤とか、この日本においてでも、北朝鮮なり中国が攻めて来てこれを迎え撃たなければならない立場にあ
る自衛官の心中(本当の戦闘は初体験であって、いよいよ実際に人を殺すことになるかもしれないという不安と苦悩の想い)を察した上で、
「殺生は悪業だ。殺人は絶対してはならないことだ。これはブッダが説いた絶対の真理なのです!」などと説き聞かせることが本当に適切
と言えるのかどうか? ここで任務を放棄して逃亡でもすれば、敵やテロリスト集団によって愛する自分の家族を含めた日本国民が大勢殺
されることとなるのです。当然、憂慮せず任務を正しく遂行していれば、僅かな死傷者だけで停戦に至ることができたかもしれないとい
うのにです...。であるから、止む得ずそのような任務を遂行しなければならない担当者には、クリシュナの言葉を心に留めて任務遂行に
あたることが推奨されるのです。

708 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:35:10 ID:ugU/ydKn.net
 スマナサーラさんは、基本的にはいつもこの日本にいるのでしょう? ならば、『日本テーラワーダ仏教協会』として正式に、死刑廃止
の支持を公式表明して下さいよ!! それからブッダの教えに対する信念を以て、日本の漁業協同組合や酪農協会へと直接に出向いて、「た
だちに殺生を止めなさい。地獄に堕ちますよ。これはブッダの教えであり、絶対の真理ですから」と、説いてきてはどうですか?
 もし、これからも『ギーター』のクリシュナの教えをを批難し続けるというのであれば、どうかそれからにして下さいよ!! 私の見解
としては、全国民が不殺生を理解してベジタリアンにでもならない限りは、それらの職業に就いている一個人を批難したりするべきでは
ないし、「殺生は間違った行為だとブッダが説いた」などという言葉が、彼らの葛藤心や罪意識を救済することにはならないものと見ます
けれど、如何でしょうか?

推奨:
アムネスティ・インターナショナル
 https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/reason.html
 https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/qa.html#Q4

709 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 04:36:09 ID:ugU/ydKn.net
それから神智学の視点からやや話を発展形で述べさせて頂くならば、実は宗教というものが人間に対して過剰に罪悪感(罪の意識)を植え
付けてきたのであり、その永き伝統が今日の人類社会の進歩にとっての大きな弊害を生んでいるのです。もちろん、それは悪事をなさな
いよう大衆を仕向けることには効果があったけれども、それが過剰な強い心の呪縛をつくる恐ろしい伝統となってしまった...。
 ジャイナ教のような超極端な不殺生の態度についてはブッダは良しとはみなさなかった(仏教徒も同様、あまり不殺生に拘り過ぎの場合
は懸念がある)。そして、世界中どの宗教でも同じですが、特に一神教的な世界で顕著だったものが性に対する背徳意識の植え付けでした。
 今日の人類にとって必要なのは、宗教による呪縛であった原罪といったような“罪の意識”からの救済と解放です(もちろん、それは悪
事を推奨するということではありません)。
 それからもう一つ言いたいこととしては、宗教の歴史とは、宗教戦争と殺戮の歴史であり、そして、極端な法規で以て大衆を縛り付け、
罪意識を植え付けて苦しませてきたのです...。果たして、宗教は本当に、人間に安楽と救いを与えてきたものなのか? それとも逆に、
苦悩を与えてきたものなのか? 
 とにかく、これだけはハッキリしている。“唯一絶対の真理”を標榜する宗教にはロクなものはない、ということ。

710 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 05:21:48 ID:ugU/ydKn.net
仏教のみならず、自分自身でヒンドゥーも共に学ぶ者は、
まず例外なく、仏教の涅槃もヒンドゥーの梵我一如も同一の境地だと見なしています。
対して、「いやそれは異なる境地であり、
ヒンドゥーの境地などは仏教より遥かに低いものだ」と、
いっているのは仏教しか知らない者(僧侶と伝統信奉者だけ)です。

 『以前京都の佛教大学で学んでいた頃、T先生という方にご指導を頂きました。仏教概論の講義だったと思います。私はT先生が『ヨーガ
・スートラ』というヨーガ教典の研究もなさっているのを存じていたので、講義のあとで個人的に質問しにいきました。
「先生。仏教でいう『涅槃(ニルヴァーナ)』とヒンドゥー教でいう『解脱(モクシャ)』は、教えはともかくとして、実体験としては同じも
のでしょうか。それとも違うのでしょうか。」
 先生は「う〜ん」としばらく下を向いておられました。少しドキドキしながら待っていたところ、先生は顔を上げてこう仰ったのです。
「同じだと思います。」---中略---
 ですから「仏教の覚りもヒンドゥー教の覚りも同じ」というのは、仏教者としては中々言いにくいことなのです。私も若かったので、先生
が答えにくいことを承知で質問をしてしまいました。(済みません!)それ以来、T先生への尊敬の念を深めたのは言うまでもありません。
 究極の宗教体験という意味では、宗教・宗派の差はないのではないか。私は今もそのように思っております。』
(浄土宗林海庵)
 https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201705.html

仏教の涅槃とバラモンの梵我一如は同一の境地
 http://houjugusya.web.fc2.com/nirvana-brahmAtmaikyam.htm

711 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 08:59:53 ID:ePA57rQB.net
>>700
泥棒じゃん

712 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 09:06:05 ID:ePA57rQB.net
>>706
ヤクザの組長は自分の奥さんと子供にセレブ生活させるためには、
覚醒剤麻薬を流したり、
女を風俗に落として
シノギをするのも
正当だ!

という論理がギーター擁護の神智思想なわけね

713 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 09:07:30 ID:ePA57rQB.net
>>709
唯一絶対神教系のスレに行って言えば?

714 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 09:09:56 ID:ePA57rQB.net
>>710
殺人擁護教と仏教を同一視したがる外道シツコイ

715 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 10:18:54 ID:aslBvZ7S.net
って、最後の一文は
重要な経だよって結びか。その意味で上の話を受けた引用だったか。

だとしたら、大変失礼した。 >>694

716 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 12:11:46 ID:WA+pQq82.net
>>712
それがヤクザのスヴァダルマのはずだよね
否定するならなぜ戦士の人殺しは許されるのか知りたい

717 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/02(土) 14:09:33 ID:ugU/ydKn.net
>>712 .714. 716
自衛隊は、
あなたやあなたの愛する家族を護るために(あなたたちの代わりに)自分の命をかけているんだ。
彼らがいなければ、あなたとあなたの愛する家族が殺害されるか、
もしくは、あなたが直接その敵を殺さなければならないことになる。
反社会勢力(ヤクザ)が、君たちの代わりに覚醒剤密輸してくれてるのだとでもいいたいのかな?
ヤクザの話なんかと一緒にするでないわ!

精々、100回位は読んでよ〜く考えることだな!!

718 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 19:34:30 ID:FJO4k3lo.net
>>717
「身内の為に体張る」のはヤクザも同じことだ

そこに職業的卑賤はない

岡村隆史と同じ偏見持ちかよ

719 :神も仏も名無しさん:2020/05/02(土) 19:39:44 ID:FJO4k3lo.net
こんな偏見眼(邪見)に基づいて

「ヒンドゥは仏教と同じ」

などと判定

クソ笑える

720 :神も仏も名無しさん:2020/05/03(日) 16:59:22 ID:+phuDXbp.net
先日、何chだったか忘れたがw
北インドの広範囲から、ヒマラヤ山脈の連なりがクッキリ見えた、
というニュースがあった。世界規模の自粛で、インドでも経済活動が抑えられ、
見事な景色が「復活」した、と。

皮肉な話ではあるが、本来あるべき姿かもしれん。
いつまできれいな大気がキープされるかわからんし、別件で「氷河の融け出し」も言われている。
まずは洪水の危険、そして将来の水資源の枯渇と。(豊かな湿地帯が砂漠化とか?w)

まあ、それはさておき、チベットの人々は、すぐ足下なので当然の畏怖と帰依になろうが、
遥か昔は、インド本土でさえ、神々の頂きであり、未来永劫(―常住する!―)残る雪は、
その思想や信仰形態に大きな影響を与えたろうことが実感される。 (ヒマ・アーラヤとはよく言ったもんだw)
実に神々しい。 

近年、竜巻も増えているが、日本なんか小さなもんだが、たとえば中国内地の大きなものの映像とかみると、
湖や大河から大量の水を巻上げ乍ら、黒く太い渦が天へとうねっていく様は、
そりゃ龍神様に見えるよなぁ・・と。

神話化とか神格化を、ついつい、未開の、未発達の、後進文明的な思考と見做しがちだけども、
本当は、最も大切にしなければならない心の澄み方かも・・とか思ってしまったチラ裏。

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52290073/
https://www.cnn.co.jp/world/35152184.html
https://www.asahi.com/articles/ASN4J3F4HN4FUHBI023.html

721 :神も仏も名無しさん:2020/05/03(日) 19:22:47 ID:ajIZBB93.net
相田ななつをw

722 :神も仏も名無しさん:2020/05/03(日) 22:19:59 ID:+phuDXbp.net
たかいなぁ とおいなぁ
あんなに遠いのに
こんなに近くに はっきりと

しろいなぁ うつくしいなぁ
世間はもろもろよごれてるのに
ぼく等はまるで能天気

染まらず 気だかく まっしろに
とけることなく 真っ白に
そこにはきっと仏さま
(なむしゃかむにぶつ なむしゃかむにぶつ)

まっしろな雪の頂に
坐ったつもりで そっと両手を合わせてみよう

723 :神も仏も名無しさん:2020/05/03(日) 23:47:50 ID:aOYAzARG.net
>>681
クリシュナの叔父さんは死刑に相当するような罪を犯した悪人、悪徳君主だったの?

724 :神も仏も名無しさん:2020/05/04(月) 10:45:52 ID:gOaG0pRt.net
アルジュナでしょ?
唆しているのがクリシュナで

725 :神も仏も名無しさん:2020/05/04(月) 21:59:23 ID:DL+ndxsF.net
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1588425805/



なんか、ほんっっっと、宝珠と同じ視線の投げ方w

  ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!

726 :パーピマン:2020/05/05(火) 07:40:03 ID:jpzwr8m5.net
>ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!

wwwwwwwww
これらの共通項は、「わかったぞおおおお」の自己体験の過信ww

この「わかった」という認識さえ、自分の脳みその中の単なる電子的変異に過ぎないことを
理解できないw

そして、その「わかった」ことも、かつて先人たちがとっくに経てきた落とし穴であることも
理解できない。(それは、ひとえに過去の資料にあたらないからw)
・・・・・・その点、宝珠は資料の点検はやっている。しかし、残念なことにその大半は、
かって読みの自説強化使用ww
(・・・・というと、「い〜〜え、仏教徒の方が釈迦の真意をわかってないから」と言うww)

・・・・・そこのマインドフル君は、自己体験マンセーの典型でしょ?w
心経ファンみたいだが、もしかしたら、中論もみたことないんじゃ?w

マインドフルは、禅のテクニカルの特化みたいな面があるし、確かにそれは仏教の裾野を
広げる可能性があって、仏教にとっても決して悪いことではないと思うが・・・・

ああも攻撃的ではねえw  マインドフルそのものが誤解されるぞw

727 :神も仏も名無しさん:2020/05/06(水) 00:24:27 ID:rMbk9r4P.net


2020/05/05
靖国神社内のトイレに落書き.…の人々を「皆殺しに」
https://www.asahi.com/articles/ASN556GKQN55UTIL020.html

2020/05/01
Fukushima 50.冒頭 7分のみ.KADOKAWA映画
https://www.youtube.com/watch?v=IWdMwkVa8Dk

728 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/09(土) 08:28:52 ID:rfJFCXCJ.net
>>725-726
>ぼくの仏教(仏陀)理解こそが至上!

そんなことは思ってなどいないし、
そして、まったく言った覚えもありませんね。
ただ伝統仏教の典型的な間違いの幾つかについて指摘してるだけのこと。
それだけです。

>しかし、残念なことにその大半は、かって読みの自説強化使用ww

私は仏典経典にある言葉をただ素直にそのまま読んでいるだけですよ。
そして、それらの私の主張の多くは専門の研究者方(プロの学者陣)の意見とも合致するものです。
ていうよりは、この私がそれらの学者たちの著述を学んできたのです。

しかし、素直じゃないなぁ〜
あなた方はホントに...。
「わかりました。どうもありがとうございました」とか
「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
┐(´д`)┌ヤレヤレ

ホント.随分と永い付き合いになったけれども、
いよいよ、七セブンともパーピともお別れです。

(ノД`)・゜・。

729 :偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0 :2020/05/09(土) 08:32:55 ID:ONSgjAkT.net
・゚・(ノД`)ヽ(゚Д゚ )

730 :神も仏も名無しさん:2020/05/09(土) 09:10:30 ID:+lr+R5Gw.net
>>728
> 「わかりました。どうもありがとうございました」とか
> 「では、参考にさせて頂きます」くらいのことも言えないのかなぁ?
> ┐(´д`)┌ヤレヤレ

上から目線でサヨウナラ〜

731 :栄進軍曹:2020/05/09(土) 10:05:19 ID:zyNpoyO+.net
ヒンズーと仏教の悟りが同じなら、なぜ別の宗教とされとるんやろ(´・ω・)?

732 :偽和尚(偽) ◆nbx8uVhDNnS0 :2020/05/09(土) 10:07:54 ID:ONSgjAkT.net
>>731
たどり着くところは同じということじゃろて

733 :ポッタン師:2020/05/09(土) 10:23:28 ID:YPXsQV4J.net
悟れないバカバービマンとバカ宝珠とが言うことである。大爆笑である。

734 :神も仏も名無しさん:2020/05/09(土) 12:30:14 ID:MP3swQ1v.net
>>728
餞別w
https://zeropointbuddha.ha*tenablog.com/entry/brahman_buddha12
https://zeropointbuddha.hate*nablog.com/entry/brahman_buddha13


(既読かも知らんけど)


※はてなブログはNG設定かな?

735 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/09(土) 15:19:33 ID:rfJFCXCJ.net
>>734
おおっ♪ これはスゴッ!!

もう〜なんなんだよぉ。
こんなにイイものを知ってるじゃないですかぁ...
ヒドイなぁ〜 (-_-;)

とにかく-- 素晴らしい餞別を有難うございます (人''▽`)
これは“宝の山”のようなサイトですね。
勉強させてもらいます -- 感謝!!
合掌

736 :宝珠真範@迦楼羅 :2020/05/09(土) 15:37:25.74 ID:rfJFCXCJ.net
-----皆さまへ

最後の投稿をほぼ書き上げたので、
URLにてまもなくここにUpします(ここに直接だとたぶん荒らしになるw)。
そして、私からのお別れのメッセージと一緒に。。。

もう、暫しお待ちくださいm(__)m

737 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/10(日) 09:48:24 ID:hIdBpovm.net
おはようございます♪

わたくし宝珠は、
本日、ここへ最後の投稿にやってまいりました。
なんと2008年〜スレを立てて投稿を続けて、そこで議論を重ねてきて12年弱となりました。
当初から投稿を頂き論戦を交えてきた古参が、今も利用されている七セブン、パーピマン、
そして、最近になって途絶えた承狂さん。それから、?おじゃるさんもかなり古くからの参加者です。

私が、仏教信奉者の皆さんにお伝えしたいと思っていたことはすべて投稿できたものと思っています。
議論の内容も殆ど出尽くした感があり、これ以上ここに留まる必要もなくなったと判断しました。
今では問題ありませんけれど、まだ当初の2CHでは使い切ったスレが落ちたら最後で、
それを再び読み直そうとすることすらも簡単なことではありませんでした。
これまで過去の投稿スレのすべては、私のWebサイトで纏めてあります。
http://houjugusya.web.fc2.com/link.html

私が去った後のこのスレシリーズですが、
もしも、差し障りがなければこのまま『第七巻』、『第八巻』...と継続して使って下さい。
スレタイ及びテンプレなどもこのままで問題ないと思います。
(もし、必要であれば参加者皆さんで好きに修正してもらって構いません)
仏教全般の情報と意見交換の場として皆さんで利用して下さい。

それからテンプレ、アンカー>>2.の各種利用リンク集については、
以前、七セブンからリンク変更の要望があったので、次スレ『第七巻』を立てられる方は
このリンク集の最下段を以下のように変更して下さい(七セブン.これで良かったかな?)。
--------------------------------------------------------------------
(従来)
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php
(変更) ↓
大正蔵経検索
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-bdk-sat2.php
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/satdb2015.php
 http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2018/master30.php

738 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/10(日) 09:52:10 ID:hIdBpovm.net
このスレを去った後は、地道に自分のWebサイトの拡充にて活動していくことにしました。
基本的には、もうこのような議論は望んでいないのでBBS(掲示板)なども設置しない方針です。
今後、このスレへは自らは投稿しませんが、もしも、この私から返答を希望する内容がある際には呼び掛けて下さい。
気付ければそのことだけは返答します。5chには、神社仏閣板で趣味の不動尊に関する事柄では
たまに“名無し”で投稿することがあるかもしれません。

それから、
もしも、個人的にこの私と連絡を希望される方がいましたら、
私のWebサイトリンク集の一番下からメールを送信することができます。

それでは永い間、本当にお世話になりました。
そして、どうもありがとうございましたm(__)m

739 :偽和尚(白蓮華) ◆aCQE5.Z6UMcu :2020/05/10(日) 09:52:27 ID:V4K9789C.net
>>737
おはようさんじゃよ🌞

今までお疲れ様。そしてありがとうなのじゃ^_^)/
早速ブックマークさせてもらったのじゃ
こちらでは残念じゃが、改めてこれからもよろしくなのじゃ^_^)

740 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/10(日) 09:54:31 ID:hIdBpovm.net
では、
 これが最後のお土産となります!
      ↓
>>114
>無色界禅定で悟るんなら
>釈尊はアーラーマ・カーラーマやウッダラカ・アールニーの元で修行が終わり、
>苦行生活に入る必要も、菩提樹の下で悟りを開く必要もなーんにもなかった

以下のサイトリンクは、
「“滅尽定”は仏教だけのものであり、ヒンドゥー世界にはない。
つまり、“無色界禅定”までがヒンドゥーの限界であるから涅槃には到達できない。」
とする伝統仏教信奉者側の主張に対するこの私からの返答を中心に作成したページです。
尚、具体的な内容の投稿はこのリンクページを以て最後とさせて頂きます。

これはある程度の文章量があって、
なお且つ、適度な長さの改行すらもしていないので、
読まれる方は自分好みのウインドウサイズにてどうぞ!
内容としては、貴重で興味深い読み物をいろいろ書籍から直打ちしています。
結局、二ヵ月近くを要しました。

これを読まれるならば、
滅尽定が仏教だけのものでヒンドゥーには無理
などといった見方は完全な間違いであることがハッキリわかると思います。

 ●宝珠Webサイト
   資料3.『仏教の滅尽定とヒンドゥーのニルヴィカルパ・サマーディ』
        http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm


では、皆さんさようなら。
 そして、どうぞお元気でm(__)m

741 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/05/10(日) 09:58:16 ID:hIdBpovm.net
>>739
おはようございます。
こちらこそありがとうございました。
体調、コロナ等に気をつけてお元気でお過ごしください。

742 :神も仏も名無しさん:2020/05/10(日) 12:36:33 ID:aMZhDWjS.net

http://houjugusya.web.fc2.com/samapatti-Nirvikalpa.htm
仏教の滅尽定と…
…仏教用語で言えば「我論」…
  _  _  _

多分.アートマン真我のことかもしれないけど
あえて
 ↓

仮設としての
衆生は無始からの無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている.無明薫習
無明の暗闇に覆われて
渇愛が生じると
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も生じる

さとりに達するための.仏道への障害(「覆」)がある
我癡・我見・我慢・我愛
  _  _  _

「我ではない」というのは
(我癡・我見・我慢・我愛が依存している)無明薫習を手放しせよ
(無明に依存している)我癡・我見・我慢・我愛を手放しせよ
「〜である・〜ではない」という我執を手放しせよ

という意味かもしれない

間違ってたら スマソ m(_ _)m

743 :神も仏も名無しさん:2020/05/10(日) 13:25:01 ID:aMZhDWjS.net

https://ci.nii.ac.jp/naid/40018822743
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン) と現代
…ゲシェ・チェカワの『七事の心の訓練法』…

…道の本体は阿頼耶の自性に置くことです…
  _  _  _

これも実践したことがないので.わからないけど

大円鏡智から → 阿頼耶識を観察せよ.という意味かもしれない

法界体性智をもって(般若の智慧をもって?)
無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様をありのまま見つめている
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83

…仏の智慧は.法界体性智…(なんちゃら…かんちゃら)
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html

744 :神も仏も名無しさん:2020/05/10(日) 14:38:09.23 ID:aMZhDWjS.net

5ちゃんねるの場合は
NGワード規制とか
リンク貼り付け規制とかあるので

次スレ立てるのなら

たとえば
s☆cの場合は
永久保存?(長期保存?)されるのかわからないけど

https://☆ai.2ch.☆s☆c☆/psy/
(s☆cの)心と宗教@2ch掲示板

とかの方が良いかもしれない?

745 :栄進軍曹:2020/05/10(日) 15:33:49 ID:8LfAU9vc.net
>>732
いや、悟りという出発点、スタートラインが同じなだけや(´・ω・`)

746 :神も仏も名無しさん:2020/05/10(日) 16:06:57 ID:aMZhDWjS.net

ウィキペディア参照

バラモン教
悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱く輪廻から抜け出す解脱の道を求める

仏教
苦の輪廻が続いていくという想いを手放しさせて
苦しいという想いから解脱することを目指して逝く
  _  _  _

苦しいという想いからの解脱という意味においては
似てる気もする

http://www.asahi-net.or.jp/~cn6k-inb/02/nukigaki.html#3
内山興正老師語録
…昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を…

http://junsoyo.on.coocan.jp/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
内山興正著.思い手放し
…「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいること…
…実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし
思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう…

747 :神も仏も名無しさん:2020/05/12(火) 13:19:01 ID:rAiMlvFB.net
.
キチガイなんだよ。
自分で五蘊無我を説示してる経典を引用してるのに、五蘊無我と説く経典はないとか言ってるんだもん。

 >120 名前:福音伝道[] 投稿日:2020/05/12(火) 08:29:17.40 ID:PtQ3juI/ [5/11]
 >その「五蘊」は身心であり、自己である。すなわちそれは無我である、

 >163 名前:福音伝道 :2020/05/12(火) 12:21:38.12 ID:PtQ3juI/
 >五蘊無我と説く経典はない。

748 :神も仏も名無しさん:2020/05/14(木) 13:35:58 ID:mLAvumKY.net

http://bodaijubunko.sakura.ne.jp/h/paauk.sayadaw.samatha.vipassana.pdf
パオ・セヤドー
…精神性の識別
「心はどうやって観察するのか?」
(誰が何を観察するのか?)

アビダンマ・サンガハによると
有分心(bhavanga citta)は意門として機能しており
意門の心路過程は
過去の感覚を対象とすることができる(らしい?)
(今この瞬間の意識が → 過去の感覚を対象とする(らしい?))

 − これに対して −

(「大乗非仏だ〜!」と批判されているらしい?)
大乗の場合は
一切法の真実の姿を観照して知りぬく智慧を観照般若という
この観照般若の智慧によって

無の世界も超えて
(「〜である・〜ではない」という我執に囚われることのない)
計らいのない、分別のない心で、移り行く世界の様を
ありのまま観る(ことができるらしい?)
http://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

(仏性による真如縁起)無住処涅槃
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%84%A1%E4%BD%8F%E5%87%A6%E6%B6%85%E6%A7%83

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