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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

586 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/11(土) 16:45:02 ID:Q5jjF0FC.net
だから、
「五蘊は自己(アートマン/真実の自己)ではない」などというのは仏説の中では当たり前の話ですよ。
そんなことはこの私も否定しないし、それを当然のごとく了承している。
けれども、「自分自身、私(アートマン)がある筈がない」。それは五蘊どころか“いかなるところにも無い”。
な〜んて話がブッダから説かれたことは一度もないから(あるならば出せ!!)。>>296を再読のこと
ただ、「ある」とも「ない」とも言わないとあるだけだ(無記)。

この経文は、
神は、「アートマンが語る」といってもいいかということをブッダに聞いたところ、
ブッダは、完成者である真人であれば構わないと返答するので、
神は、更に確認すべく、それでは「慢心」ということにはならないかとも聞いているのです。
するとブッダは、完成者にはすでに慢心というものがないから大丈夫だとして太鼓判を押しているのです。

七セブンよ!
“五蘊の私”を語るのにいちいち慢心の心配について確認するか?
完成者には慢心はないから問題ないとするこの経文の遣り取りをみて、
あなたはこれをアートマン否定のただの五蘊の話へとすり替えるのかい?
一体、どういう神経なの???

まず、あなたのその勝手な「アートマンなどある筈はないから」
などという決め付け前提を排除してから仏典というものを読んでもらいたい!

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