2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

646 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/20(月) 12:52:19 ID:CmMGGpD2.net
>>643
これはあくまでも、
私個人の感覚の問題でしかないのかもしれませんが、
いつも仏典においてよく見られるこのような形式、つまり、
  「○○はAではありません、そしてBでもありません、
   AにしてBでもなく、そしてまた、AでもBでもなくCでもないのです。」
といった一連の云い回しが、この私はどうもあまり好きではありません。

暗誦目的のためなのかもしれませんけれど、
中にはこの云い回しの在り方が類似内容で以て、
更に、何度も何度も繰り返し反復をしてくるものならば、
もう、とてもじゃないけれども読む気も失せてしまうというものです...。

確かに、哲学的な事柄においては、
単純に「これコレである」として確定的に述べることができないというのは、この私にももちろんよく分かる。
けれども、バラモン・ヒンドゥー聖典と比較するとよく分かるのですが、
このような言い回しはそれほど多用されていないし、ましてや仏典のように酷いものはまずみられない。
なので、恐らくこの云い回しというのは、
仏典制作/編纂者による意図的な好みによるものなのだろうとこの私は思っています。

ヒンドゥー聖典とは異なるこの仏典特有の表現というのは、
多分、ブッダ在世の頃に起きた特に有名な六師外道の一人だったサンジャヤ(サンジャヤ・ベーラッティプッタ)教団の
殆どの弟子250人がブッダに帰依したことに起因しているものと私は思う。
ブッダの二大弟子、サーリプッタとモッガラーナも共にこのサンジャヤ教団からきってきたのであり、
特にサーリプッタがブッダを殆ど代弁するような形で仏説を説法していたとも言われていることからも、
伝承された仏典もサーリプッタを介してサンジャヤ(不可知論者にして懐疑論者)
特有のうなぎ論法(掴みどころのない話術)で書かれているのだろうと。
なので、仏典についてはその点が非常に残念でならないところです。

「しかしながら、わたしはそうしない。わたしはその通りだとも考えないし、
それとは異なるとも考えないし、そうでないとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。」
(サンジャヤ)

総レス数 748
599 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200