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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻
- 507 :神も仏も名無しさん:2020/04/05(日) 23:39:46 ID:YvHfLDxG.net
- >>494
>つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。
ではなくて、空小経でも空大経でも沙門、婆羅門、如来は空性に達して煩悩がなくなり不動を得るということです。
素直に経典を読めばそうなるはずですが。
また涅槃が空〜以下ですが、中論でも
五 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはつくられたもの(有為)となるであろう。何となれば無為である有は決してどこにも存在しないからである。
六 また、もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナはどうして【他のものに】依らずに存するであろうか
【しからばニルヴァーナは(他のものに)依って存することとなる】。何となればいかなる有も【他のものに】依らないでは存在しないからである。
一三 ニルヴァーナがどうして有と無の両者でありえようか。
ニルヴァーナはつくられたのではないもの(無為)であるが、有と無はつくられたもの(有為)であるからである。
とニルヴァーナは無為であることは当然認めて、そこから理論展開しています。
ニルヴァーナは有に非ずまた無にも非ず、という結論に向けて。
>如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。
これはドグマが過ぎますね。そうであって欲しいというお気持ちは分かりますが。
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