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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

494 :宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk :2020/04/05(日) 11:33:11 ID:zWwbqjoP.net
>>451-452
それらの経文(空性に住すると)は、
現象界の一切(有為)が空性であることを(単なる知的理解などではなくて)完全に体感している状態のことを意味しているものと思われます。
我々は、教えを受けてそのこと(空)を理解することはできますが、無自性や非実在ということを体感することはできない。
けれども、そのこと(空性)を完全に体感できたのならば、それは完成者(仏)であるという意味でもある。
つまり、一切(有為)が空性であることを体感できる状態が涅槃(無為)に住する如来だということ。
ただし、涅槃が空であるわけでも、如来そのものが空だということではないということ。
まっ、たったそれだけの違いでしかないけれども...しかし、ここがやはり重要でもあって、
ここで涅槃を空だとしてしまうと、「輪廻(現象界の性質である)とも違いの無い同じく空なんだ」ということになってしまう。
しかしそれだと、『ウダーナ』の教えに抵触することになる。
ブッダは、“有為と涅槃は異なる”から有為からの出離をそれとして覚知できるのだといっているのに、
その涅槃を勝手に同じく空としたのでは、当然、その違いがないのだから出離を覚知できないことになってしまう!

だから、龍樹『中論』の言葉、
>一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
は、絶対にしてはならないものだということなのです。

仏教徒らは結局のところ、ブッダの教えを摂るのか? それとも龍樹の方を摂るのか? を、ハッキリと決めなければならない。
石飛氏のように、「龍樹がブッダの教えの最大の理解者である」かのような評価は、私は間違っていると思う。

>大般涅槃経にはブッダのは体が痛いのを正念、禅定などで(必死に)堪えていることが書いてあります。

確かに、完成した如来であろうとも見た目上では我々同様に同じく病気もするし、怪我もする。痛みもあるし、やがて肉体死もやってくる...。
しかし、それでも完成者である如来は、如来自身にとっては何らの痛みも苦悩もなく、そして、死を体験することはもうないということ。
如来ご自身にとっては、それらは仮想現実のようでもあり、そして、またある意味では、理由あってのすべてが演技でもある...。

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