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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

577 :神も仏も名無しさん:2020/04/11(土) 08:14:58 ID:FWXUB7S0.net
だからw

他の何人かも指摘してたけど、この部分では、「アートマン(atthA)」の語は出て来てないの。
全て、代名詞の「私(aham)」(及びその派生)なの。
だからわざわざ、〔神が挑んできたのは「アートマン」についての議論である〕、と註されてる(補足説明される)の。
だから、
「もし、“我、アートマン”の存在を認めていないならば、
 どうして『“私”が話す』という発言ができる(許される・可能となる)のでしょうか?
 “自身”が存在しないのに(五蘊を始め、いかなるところにも居ないと言われているのに)、
 “私”がある筈がないではないですか」と。
だから、
「そうではない。(この五蘊の身をもって相対している)私たちは、
 互いを呼び合って会話をしコミュニケーションをとっている。
 その上で、〔凡夫は「私私」と言っているうちに、
 『【≪コレ≫が私である】、これは私のものである、(≪ココ≫に)私がいる』
 という想いを起こしてしまう。また【それに捉われ、執して】しまう〕。
 だが、〔諸々の執著を離れた者は、捉われ、執することがないから、(その心配がないから)、
 『“私”が話す』『これは私のものである(私の鉢、私の袈裟etc.)』と発言してもよいのである。
 そこに(私・我への)執著が見られないから、そのような発言ができる(許される・可能となる)のである」と。

http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1560387126/911-915

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