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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

326 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/22(日) 06:32:21.03 ID:m+RCN573.net
 『「ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化する現象の法に
限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれわれに認識され得る現象界だ
けを意味した。」(p112)
 「現象のことを仏教では有為(samskrta,sankhata 造作されたもの)とか行(samska^ra sankha^ra 諸行無常の行)とかいう。われわれはこ
の現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活をしている。われわれにとっての世界は現象界のみである。こ
の意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。」(p127)
 「原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しない常住不変
の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、原始仏教とは違っ
た性格のものとなった。」(p143)
 「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語としてしばしば
出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死にわたらないとい
うことを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。それを部派仏教では不生不
滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教では説かない概念であって、仏教本
来の立場を逸脱したものである。」(p145)
 「部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異なったも
のになった。(p151)」』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)

 『原始仏教において、あらゆる存在は色・受・想・行・識の五蘊に分類された。しかし、次第に存在の分析が進み、一切法について十二
処あるいは十八界という分類がなされるに至って、そこには五蘊には含まれない涅槃等の無為法も諸法の分類に含まれるようになった。ア
ビダルマに至って、有為法を機能的に、色・心・心所・心不相応行に分類し、さらに、これらに無為法を加えた五位の分類が成立したのも
このような事情によるものである。』
 (吉元 信行著『アビダルマ仏教における処・界の建立と八句義』)

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