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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

1 :sage:2019/09/30(月) 12:44:39.55 ID:R/R1N0oR.net
仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。

-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
   2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
    (チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。内容を一つに纏めてから投稿しよう)
   3.コピー転載やリンク貼りのみの投稿は慎んでください。
   4.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
   5.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主の判断で即刻、退場してもらいます。
   6.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
    (1950年の世界仏教会議にて決議した)
   7.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
   8.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
   9.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(及びレス番2/資料リンク)を変えないこと。厳守!!
  10.円滑な議論のために、当スレでは「コテハン」(固定ハンドルネーム)の使用を推奨します(ただし、強制ではありません)。
 以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。

296 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/15(日) 04:02:25 ID:Yb0WaIzt.net
参考:

 『仏教の認識論では知覚が決定的に重視されるが、--中略-- ゴータマ・ブッダは、知覚できるものを端的にいったまでのことで、知覚
できないものは実在しないなどとは一言もいっていない。(p84-86) --中略--
 こうしたことを総合的に勘案してみれば明白なように、ゴータマ・ブッダは、五蘊は自己ではないといったが、自己とは何かという質問
には沈黙するのみであった、そして重要なのは、「自己は存在しない」(無我)とは一言も語ったことがない、ということである。
 ところが、ゴータマ・ブッダが入滅してからいつのころからか、五蘊のいずれも自己でないならば、そもそも自己なるものは存在しない
のだとする、乱暴なことに、きわめて形而上学的な無我説という主張が現れ、やがて同様に形而上学的な、すべては空であるという主張が
現れるようになった。それも、気分としてではなく、理論としてそうした主張は展開されたのである。
 ゴータマ・ブッダの経験論の心髄は、ついに後世の仏教徒たちにはわからなくなってしまったのである。--中略-- 少なくともゴータマ・
ブッダ、最初期の仏教は、そのような見解に立つものではなかった。(p186-187)--中略--
 はるか後世の無我説では、自己(アッタン、アートマン、漢訳で「我」)は存在しないとされるが、ゴータマ・ブッダはそういう考えと無
縁であると述べた。
 じっさいのところ、ゴータマ・ブッダは、自己の存在の否定どころか、自己を肯定的に扱って語ることも多かった。(p188) 』
(宮元 啓一著『ブッダが考えたこと』春秋社)

 「『物質的なかたち、または感受作用、表象作用、識別作用に執着してこだわるが故に、われ有りとの念が起こる。それらに執着したこだわ
らないならば、われ有りとの念は起こらない。』
 このような思想を世間一般の呼称にしたがって、かりに『無我説』と呼ぶにしても、それは決して『アートマンが存在しない』と主張した
のではない。ただ客体的実体的あるいは機能的なアートマン観に反対したのである。」
(中村 元著『原始仏教』筑摩書房刊)

297 :宝珠真範@代行依頼:2020/03/15(日) 04:03:37 ID:Yb0WaIzt.net
 『ゴータマ・ブッダは、アートマンを「自己」「自身」という人間の実践的立場から使用して、『ウパニシャッド』の根本実在の原理として
のアートマンを認めなかった。なぜならば、与えられた原理に固執して、むなしい哲学的思弁に浮身をやつすことは、なんら宗教的にも実践
的にも役立たないことを知っていたからである。このようにして、ブッダは本来の自己とは何か、真実の自己はいかにして実現されるかを追究
した。ブッダのさとりの内容が「縁起」の道理を明らかにしたのも、正統バラモン思想の陥った固定的・実体的な自我思想を回復する点にあっ
たといえよう。それ故に、ブッダはアートマン思想の正しい理解と実践を明らかにするために、ブッダ当時のさまざまなアートマン観を否定し
た。このブッダの批判的立場が、仏教教団の発展に応じて、ブッダはアートマンの存在を否定して、無我すなわちアートマンがないと主張した、
と考えられるようになった。しかしながら、こうした後代の理解は、ブッダの教えを誤るものというべきだろう。--中略--
 第一の理由は、原始仏教から部派仏教になると、無我の考え方が変容したことである。すでに前項で見たように、原始仏教における無我説は、
決してアートマンが存在しないとは説いておらず、むしろ実体として固執する種々のアートマン論の過誤を指摘して、論理的実践的な意味にお
ける本来の自己あるいは真実の自我の探求を教えた。その後、アビダンマ教学の盛んな部派の時代に進むと、積極的にアートマンは存在しない
と主張することとなり、本書の編纂された時代は、こうした考え方が支配的であった。したがって、仏教の無我説は時代の変遷とともに、その
解釈が大いに変わった。無我即無霊魂という考え方もその所産である。ナーガセーナ長老もアビダンマ教学の説く無我説の立場から、無我とは
無住普遍の実体のないことであり、個人にとっては実体としての人格的個体の存在しないことであり、更に無霊魂である、と明言している。
 ブッダの時代にあっては、決して霊魂の有無を論じなかったし、仮に論じたとしても、それは宗教的実践に何ら役立たない形而上学的論議と
して斥けられていたものである。保守伝統教学をもって特色とする部派のアビタンマに至って、ブッダの説いた真の意味の無我説がゆがめられ
たのには、それ相当のわけがあった筈である。つまり、人間性の探求と真実の自己の実現という、生き生きしたブッダの無我観が、部派仏教に
なると、アビダンマ教学の得意とした精神現象の分析と、およびバラモン教神学の有我論との対決という観点から、“我を立てない”無我論へ
と移っていったのである。シナでは、アナートマンを無我と非我との二つに訳したが、今日、一般に誤って無我を“我がない”ととるならば、
むしろ、“我でない”という意味の非我の訳語のほうが、最初期仏教のアナートマンの原義にふさわしい。』
(『東洋思想5/早島鏡正著「無我思想の系譜」』東京大学出版会刊p75-95)

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