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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻
- 593 :ニルヴァーナ論の参考に:2020/04/11(土) 23:07:50 ID:ICKl/FFe.net
- 経部のニルヴァーナ論とその反駁
『中論』においては次に第七詩と第八詩によってニルヴァーナは無であるという説を排撃している。
これは『般若灯論釈』および近代学者のいうように経部(サウトラーンティカ派)のニルヴァーナ論を排斥しているのだろう。
一般に経部は大乗と密接な関係があるとみなされているし、またすでに指摘したように『中論』のうちには経部と共通な論法が少なくないから、『中論』が今ここで経部の説を排斥しているのは不思議に思われるけれども、
しかし中観派は、非有非無の中道、四句分別を絶した諸法実相を説く立場に立つから、ニルヴァーナを有とする意見とともに無となす意見をも排斥せねばならなかったのであろう。
経部は、ニルヴァーナを無(『プラサンナパダー』五二七ページ)であると解し、あるいは「無のみなること」ともいう(『俱舎論』ヤショーミトラ註、二二一ページ)。
とくに「のみ」と制限を付けるのはニルヴァーナを実体視する考えを防ぐためであると説明されている(同上)。
経部は一般に無為法を実体視する説に反対している(『俱舎論』六巻、一五枚下)。
また『成実論』も、「またニルヴァーナを無法と名づく」(六巻、大正蔵、三二巻、二八一ページ下)というから同じ考えなのだろう。
このような解釈に対してナーガールジュナは次のように反駁している。
「もしもニルヴァーナが有(存在するもの)でないならば、どうして非有(無)がニルヴァーナであろうか。有が存在しないところには、非有(無)は存在しない」(第二五章・第七詩)
「またもしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてそのニルヴァーナは〔他のものに〕依らないでありえようか。何となれば〔他のものに〕依らないで存在する無は存在しないからである』(第二五章・第八詩)
<無>というからには、何ものかの無なのである。つまり無は有を前提としている。
無は有によって施設されている〔仮に設定されている〕(『プラサンナパダー』五二七ページ)。無と有は相関概念である。
故にすでに述べたように、ニルヴァーナが有ではないなれば、当然無でもありえない。
形式論理学立場からいうならば、もしも有でなければ、無であることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つから一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。
さらにまた有と無は相関関係にあるから、もしもニルヴァーナが無であるというならば、有によって存することとなるから、ニルヴァーナが「不受」すなわち依らないものであるということがいえなくなる。
このようにニルヴァーナを無と解する説も相依説の立場から排斥されている。
中村元『龍樹』
※プラサンナパダー…チャンドラキールティ(月称)が書いた中論の注釈書
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