2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻

511 :神も仏も名無しさん:2020/04/06(月) 01:04:06 ID:dAapStO1.net
>>394-398
さて、この「長部・大縁方便経」の要旨ですが、


我アートマンを設定する人、設定しない人ともに些細な理由からそうしているだけで、そういう意味ではどこかの経典を簡潔にまとめたサイトにあった

「アーナンダよ、唯一にして、絶対のもの、
アートマンを想定すると、如何なるだろうか。」
「尊師よ、非アートマンも、想定するでしょう。」
「即ち、真我が生まれて、非我が埋まれる。
アーナンダよ、有ると思えば、無いのであり、
アートマンなど、無いと思えば、有るのである。」

は相当な意訳ですが、的は得ているとは思いますw

そして、我を認める者でも感受がなければ我を意識できない。
つまり、(少なくともこの経で挙げられている)我は感受がもたらす概念であり錯覚である。
それを知って執着を解いた比丘は輪廻から解脱する。
彼は世間に於ける名称(世俗諦)を概念と見極める智慧があり、故に彼は如来の死後(のような無記の部分)についての見解を抱いているとか答えないから知らないのだとかと妄想するのは適切ではない。


私のまとめではこうなります。
これが完全に正しいという主張はしませんがw

しかし、以上は大縁方便経の内容の1/3にも満たない程度ですが、それでも数行に纏めるのは私には無理でしたw

総レス数 748
599 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200