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【国際】オバマ大統領広島訪問 それは中国の歴史「加害者」カードを砕く一撃だった

1 :モチモチの木φ ★:2016/05/28(土) 14:01:45.50 ID:???
■【オバマ大統領広島訪問】それは中国の歴史「加害者」カードを砕く一撃だった

米大統領の被爆地・広島への初訪問は、日米関係を戦争の痛手から強固な同盟に変えた。
オバマ氏は自ら被爆地に足を運び、献花した。多くの言葉よりたった一つの行動が、
被爆者の悲願を満たし、勝者と敗者の間にある心のミゾを埋めていく。

オバマ氏は献花後に行った演説で、過去よりも未来への希望を多く語った。
「核なき世界」への理想を掲げ、核削減への道が示された。

オバマ氏は2009年4月に、プラハで「核廃絶」の演説をした。
すると、世界中から称賛の嵐が起きて、ノーベル平和賞まで受賞した。
だが、核不使用への意識は高まっても、「核ゼロ」につながるほど現実の世界は甘くない。
実際、この7年余で核の脅威は逆に増えている。

政治指導者が国益を背に語る「核廃絶」の理想主義ほど怪しげなものはない。
時間がたつうちに国際社会はその真意をいぶかり、隠された意図をめぐる論争が起きた。

保守の論客、福田恆存が存命なら「悪魔は二度と地下には潜らぬよ」と冷笑したに違いない。
米国でも元国防長官のシュレジンジャー氏は「核廃絶を願うのはかまわない」が、
核なき世界が実現すると、良心的でない核開発者の影におびえなければならないと厳しい現実を米紙で突いた。

日本の周辺は腹黒い国家ばかりである。
中国はもとより、北朝鮮の核開発、ロシアの拡張主義も止まらない。
米国に望むのは、核削減といえども力の均衡を崩さないように減らすこと。
米国の「核の傘」に信頼がおけなくなれば、日本は核オプションを論議せざるをえなくなるからだ。
>>2へ続く)

ソース:http://www.sankei.com/world/news/160528/wor1605280024-n1.html

2 :モチモチの木φ ★:2016/05/28(土) 14:02:00.42 ID:???
>>1から続き)

私自身は演説に盛り込まれた言葉より、献花に訪れたオバマ氏の行動の方がより重要であると思う。
それは任期の間際に成し遂げたオバマ氏の外交遺産になり、
日本を「米中共通の敵」とする江沢民元中国国家主席の外交遺産を打ち砕く一撃でもあったからだ。

反日を体制維持に利用する中国指導部には、日本が被害者の立場になっては都合が悪いのだ。
中国は主要国の中で、いまも核の増強を続ける唯一の国であり、
日本の「被害者イメージ」が高まると、日米分断の切り札にこの「加害者カード」が使えなくなる。

1989年の天安門事件で、共産主義イデオロギーの凋落に直面し、江主席が頼ったのがナショナリズムの高揚であった。
反日教育を現場に取り入れ、ことあるごとに「日本軍国主義の足音がいまも聞こえる」と繰り返した。
以来、反日ナショナリズムは、共産党体制を維持する最強のイデオロギーになった。

忘れられないのは、江主席が97年訪米に際してハワイに立ち寄り、真珠湾記念館で献花したことである。
江主席はこのとき、「真珠湾の教訓を忘れるべきではない」として日本を「米中共通の敵」とする記憶を呼び起こした。
戦勝国は正義が邪悪に勝ったとの認識だから、その熱狂が人々を鼓舞するとの狙いである。

後に、江主席が訪日したときの宮中晩餐会でも、過去ばかり語って日本国民のひんしゅくを買った。
以来、彼のいう「日本を戦争犯罪でたたき続けろ」との指示は、中国の外交遺産になった。
現在の習近平主席も、二言目には「歴史をかがみに」といって、贖罪意識の強い日本人を金縛りにする外交術は変わらない。

習氏は過去を語るが、オバマ氏は未来を語った。
米国はたたきのめした相手国にわびることはしないし、日本も謝罪を求めるような品位のないことはしない。
日米戦争は米国にとっての「義戦」であり、大量殺戮の現場を訪れることは難しかったのだ。
だからこそ、オバマ氏の広島訪問によって、日米同盟は感情のくびきから解放され、同盟関係は一段と強化されるのである。

(以上)

3 :名無しさん@15周年:2016/05/28(土) 17:01:12.66 ID:e40d3f8yE
砕けてないと思うけど・・・

4 :名無しさん@15周年:2016/05/28(土) 17:07:27.19 ID:HR0ZIPbSR
日本が全く気にしてないとこで勝手に盛り上がって騒いでる印象…

5 :名無しさん@15周年:2016/05/28(土) 18:09:04.56 ID:AuET6VuQ5
砕けてないけど、効いてる効いてる状態だなw

6 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 00:01:19.15 ID:S9HaqNY7I
我が日本人の多くは反省してないのだよな。相手の中国の身にもなってみろよ。
日本との戦争で多くの人が命を落としてるのだぞ。
原爆慰霊するのは結構なことだが、それなら中国や他の国の犠牲者にも慰霊してやれよ。

7 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 06:15:08.24 ID:tjMK1dnIH
中国外相「日本は加害者だ」

8 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:08:25.15 ID:u8YuTvqw5
支那には「屠城」という言葉があり、これは城(都市)の住民を殺し尽くす大虐殺をいいます。

中国は 3000年以上に亘り、血で血を洗う戦乱を繰り返して来た。敗残兵は、その度に相手の「食料」にされた。
その度に、敗者の歴史を根絶やしにして勝者の歴史が新たに始まるので、そこに成熟はなく、
「接木の歴史」であると言える。ゆえに中国の歴史は、4000年どころかせいぜい100年程度である。
漢族の王朝・明が滅亡後、満州人(ツングース系民族)の王朝・清 が最後の王朝になった。
そもそも中国大陸には近代まで「国」という概念はなく、皇帝は中華思想のもと自らを地上で唯一の王だと考えた。


国民党が、中国市民に対し殺人略奪レイプをしてそれを日本兵のせいにする工作は当時記事になってる。
1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙
『チャイナ・プレス』1938年1月25日
「皇軍の名を騙り 南京で掠奪暴行 不逞支那人一味捕る 【同盟南京二月十六日発】

被害者の数は、というのがあるが、調査方法からも下記のものが一番信用できる。
南京の金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937年12月〜1938年3月』)
市術地では50戸に1戸、農村部では約250世帯に1世帯を抽出し、彼が中国人助手と共に面接調査したもの
加害者を誰か問わず被害だけだしたものだが、
南京市街地での民間人の被害は、暴行による死者が2400、拉致4200(拉致されたものはほとんど死亡したものとしている)、
さらに南京周辺部(江寧県)での暴行による死者が9160、計15,760人が民間人の被害ということでした。

南京場外については、国民党が焦土作戦をおこしたのでそれで死んだ人が多くを占める。
市街地について
南京陥落時に中国兵が略奪暴行殺人をしてたという記録がある。
拉致についても中国軍が男を労役に使うために頻繁に拉致、女も夜は拉致してたという記録がある

9 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:09:39.70 ID:u8YuTvqw5
「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞 1937年12月24日(南京陥落の11日後)
日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。調べてみてください

《国際連盟議事録の資料としての価値》

 検証するにあたって、「南京大虐殺」があったとする1937年12月13日から翌38年2月までの公文書を重要な一次資料と判断して、
第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日〜2月2日)の議事録を入手した。
 その中で、顧維鈞中国代表は「南京で2万人の虐殺と数千の女性への暴行」があったと
演説し、国際連盟の「行動を要求」をしても、国際連盟は、1937年10月6日の
南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のように採択しなかった。この事実は、
東京裁判での20万人や中国側が昨年まで主張していた公式見解30万人と桁が違う。
 また、その国際連盟議事録の「2万人の虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、
米国人ベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にしたニューヨーク・タイムズなどの
新聞報道に基づくものだった。ちなみに、ベイツ教授もフィッチ牧師も単なる
「第三者」ではなかったのである。
 フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、
ベイツ教授は中華民国政府の顧問だった。
 蒋介石軍の将兵は、1938年1月になると、南京城内安全区から脱出して、蒋介石に
南京城陥落に関した軍事報告をしている。
 その時点で「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、
顧維鈞中国代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。
 顧中国代表は、「戦時国際法違反」になる事実を確認できなかった事で、「デマ」に基づく
新聞記事を援用せざるを得なかった。
(『南京の実相 − 国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった』日新報道)

10 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:25:49.72 ID:u8YuTvqw5
-南京戦を行った直後の徐州会戦での日本軍の活躍 -
☆黄河決壊事件は日中戦争初期の1938年6月に、支那国民党軍が日本軍の進撃を止める目的で起こした黄河の氾濫である。

事件当時は黄河決潰事件と表記された。支那では花?口决堤事件(花園口決堤事件)と呼ばれる。
犠牲者は数十万人に達し、農作物に与えた被害も住民を苦しめた。

日本軍の対応
1.日本軍の2個工兵大隊と住民組織が決壊箇所の修理に当たる
2.日本軍が渡河用舟艇を200隻出して被災住民の救出に当たる
3.日本軍が嵩上げされた線路沿いに住民の避難誘導を行う。
4.冠水した地域の排水のために、日本軍は住民と協力して排水路の建設、堤防の建設に当たる。
5.陸軍航空隊が大量の土嚢袋を投下し、地上部隊が住民と協力して土嚢積み上げ作業を被災地で行う。

支那(中国)軍の対応
6.支那(中国)軍は黄河堤防決壊箇所の北岸に陣地を構築し、支那住民と協力して堤防決壊箇所の補修工事をする日本軍に激しい攻撃を仕掛けた。
支那一般住民を避難誘導する日本軍に対して支那(中国)軍便衣兵が攻撃した。

 日本軍に救助された避難民は開封方面1万、朱仙鎮、通許方面5万、尉氏方面2万、その他数万であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E8.BB.8D.E3.81.AE.E5.AF.BE.E5.BF.9C

11 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:27:14.50 ID:u8YuTvqw5
以下の事件はいずれも大虐殺と呼ばれていません。補償問題にもなって無い

ソ連秘密警察によるカティンの森事件:ポーランド人2万5千人を裁判無しに銃殺(文民含む)
韓国軍によるベトナム戦争時の悪行:ブガツ省で3万5千人を拷問の上に皆殺し(殆ど文民)
英米連合国軍による、ドレスデン大空襲:2万5000人とも15万人とも言われる一般市民が死亡
ソ連によるシベリア抑留中に死亡した日本人:軍民合わせて25万4千人、行方不明・推定死亡者9万3千人
ドイツの捕虜収容所で死亡したソ連兵320万人
米軍による東京大空襲の死者10万人(1945年3月10日だけの死者数)
米軍による広島原爆投下による死者23万7062人(2004年8月6日時点)
米軍による長崎原爆投下による死者13万4592人(2004年8月9日時点)

カティンの森事件以下の犠牲者数を、ことさら大虐殺と強調する事は歴史的に見ても
バランス感覚に欠けた主張と言えます。ましてや文民殺害を目的としていない、若しくは
文民の犠牲者が僅かな事件に関して、大虐殺と名前が付く事は非常に例外的なのです。



「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力 2011.6.23 (1/2)
h t t p://sankei.jp.msn.com/world/news/110623/chn11062305000001-n1.htm

「『南京大虐殺』という戦時プロパガンダが行われた経緯を解明する新たな糸口になるかもしれない」。
発売中の『別冊正論』15号(「中国共産党 野望と謀略の90年」)の編集を終え、
そんな期待が膨らんできました。中国の国民党が主導
したと考えられてきた「大虐殺」の宣伝に、中国共産党またはソ連が大きく関与していた可能性が、
論文筆者たちの指摘で浮かび上がってきたのです。

虚実不明の「南京大虐殺」を初めて世に紹介したのは、英マンチェスター・ガーディアン紙特派員、
ティンパーリーが1938(昭和13)年に刊行した『戦争とは何か』です。ティンパーリーは当時、
国民党中央宣伝部顧問で、資金提供も受けていたことが北村稔・立命館大教授らの研究で判明しています。
同著の出版をはじめとする「大虐殺」宣伝は、世界中で反日世論を高める戦時プロパガンダだったのです。

『別冊正論』15号では、3人の筆者が、このプロパガンダへの中国共産党または
ソ連の関与を示す根拠を提示しています。

12 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:29:57.71 ID:zn3PKp041
>>9
つまり無かったことを証明しろ! と1948年成立した中華人民共和国が言うかw

13 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:50:32.40 ID:u8YuTvqw5
「南京大虐殺」宣伝の裏に共産勢力 2011.6.23 (2/2)
h t t p://sankei.jp.msn.com/world/news/110623/chn11062305000001-n2.htm

(1)『戦争とは何か』中国版の序文を書いた有名文化人の郭沫若(かくまつじゃく)は、日中戦争勃発にあわせ、
亡命先の日本から中国共産党やコミンテルン(戦前〜戦中の国際共産主義運動指導組織。本部・モスクワ)
の支援で極秘帰国し、戦時宣伝を担当した(中西輝政・京大教授)
(2)同著の日本語版序文を書いた青山和夫こと黒田善治という人物は、コミンテルン秘密工作員とともに
中国で活動していた(近現代史研究家、長塩守旦氏)
(3)「大虐殺」の証拠の一つとされた『ラーベ日記』筆者、ジョン・ラーベは、ソ連の大物スパイ、
ゾルゲの活動を上海で支援していた赤軍諜報部員の友人だった (江崎道朗・日本会議専任研究員)−。

『戦争とは何か』英語版にコミンテルンの影が見え隠れすることは、北村教授も著書 『「南京事件」の探究』で
指摘しています。「大虐殺」宣伝に国際共産主義勢力が積極的にかかわっていたとすれば、
相当の規模をもった対日宣伝戦だったことを意味します。
アメリカでは近年、第二次世界大戦前後のルーズベルト政権内にソ連と通じた秘密共産党員が多数潜入して
政策に影響を与えていたという実証研究が進み、共産主義の世界革命戦略が当時の情勢分析に欠かせない
という見方が強まっています。
「大虐殺」宣伝もその中に位置づけられるとしたら…。今後の検証が待たれます。

●支那事変1周年の蒋介石の声名 1938/7/7 漢口
《(略)戦場や、日本占領地域では、資源財産の計り知れない損失に加えて、経験豊かな
数限りない青壮年、婦女子、年老いた人々が、大量殺戮、強姦、その他の無慈悲な蛮行を
免れることができなかった。(略)
広東を例にとろう。この町は過去2週間にわたって昼も夜も空襲を受け、数千の市民が殺された。
機関銃が悪魔のように狂いまくり、家屋が粉々になり、市民の血や肉が飛び交った。(略)》

これは「友好国への声名」の中で、「日本人の残虐行為」という章の中の文言です。
後に30万人が虐殺されたと主張する南京を挙げずに、数千人の犠牲者の広東を例に挙げてます。
つまり南京大虐殺とは作られた事件なのです。1938/7月にティンパーリの、『WHAT WAR MEANS
The Japanese Terror in China』が英国で出版され。1938年末にその漢訳版『外人目撃中の日軍暴行』
が支那で出版されました。ここからプロパガンダが始まったと言っても過言ではありません。

14 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:52:15.53 ID:7hliJowwH
加害者かもねwでも、もう解決済ですから。残念w

15 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 08:55:29.48 ID:u8YuTvqw5
◇上海から南京まで日本軍に追撃された中国軍に従軍していたNYタイムズのティルマン・ダーディン通信員は
1989年10月号の『文芸春秋』で従軍中に日本軍が捕虜や民間人を殺害していたことはないし、当時、
虐殺に類することは何も目撃しなかったし聞いたことも無いと断言。
日本軍が南京に入城後も南京市民の世話をした外国人からなる南京国際安全区委員会が
1939年に刊行した活動記録には、日本軍が南京入城直前の人口20万人が一ヵ月後には25万人になった
ことと、日本軍の非行、殺人が26件あったとある。但し、目撃されたのは1件で合法殺人と注記されている。
(『Documents of the Nanking Safety Zone』)

145D 南京アメリカ大使館通信---エスピー報告  1938年Vol.14 ・・・1938年1月25日 南京 (抜粋)
12月10日後の南京の状況
 南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。 人口のおよそ5分の4が市を脱出し、
主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京の防衛は、わずか5万の兵士に任されていた。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編 P239

南京戦には、内外合わせて170人前後の従軍記者がいたが、誰一人として南京で虐殺があったと
記事を書いた者はいない、後になっても南京で虐殺があったとも言っていない、
外国人の記者は70人程度どいたがやはり誰一人として、後ですら虐殺があったと言っている者はいない、
毎日・朝日とも南京陥落時に各社7〜8人の記者が南京市内に入ったが、誰一人として虐殺を見ていない。

当時反日だった国連に、1938年1月末に、国民党が2万人の虐殺を訴えたが否定されてる、
1938年1月末に、約一週間にわたり世界的なニュースになっていたのは、
日本の軍人がアメリカの外交官を平手打ちした事件である。
虐殺が行われていたとされる間、ラーベら外国人は頻繁に外出してるが、日本軍による不法殺人を見たことが一度もない。
ラーベは、1938年1月14日にドイツ大使館にあてた手紙に、被害者数千人と記しているが、
その二週間後イギリス大使館にあてた手紙には被害者数百人と記している。
(現場を知っている者に対して付ける嘘は、数百人が限界。)
ラーベたち安全区委員会が記録した日本軍の暴行の報告書には殺人事件「25件」、 被害者「49人」としか記されていない。

16 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 09:09:27.14 ID:u8YuTvqw5
当時、南京での日本軍の殺戮行為は第一報こそ新聞等で報道されましたが、その後は
全く記述がありません。むしろ殺戮の記述は訂正されているのです。

『チャイナ・イヤーブック』(英字年鑑)1939年度版…過去の主な出来事の南京の項目で
出てくるのは昭和2年の南京暴行事件(第一次南京事件)である。南京大虐殺の記述は無し。

『チャイナ・ジャーナル』支那事変1周年特集号(英文月刊誌)1938/2月発行…日本軍による
掠奪・強姦・破壊の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・クォータリ』支那事変1周年特集号(英文季刊誌)1938/夏季号…日本軍による
恐怖の支配の記述あり。殺戮の記述は無し。

『チャイナ・アット・ウォー』創刊号(英文雑誌)1938/4月発行…金と掠奪品と女を求めて隈なく町を歩き
回る日本兵の記述あり。殺戮の記述は無し。

日本軍の殺戮行為の報が、一時期、新聞・雑誌で書かれていたのは事実です。しかしやがて噂は
収束に向かったのです。



■松井石根は1947年11月24日極東軍事裁判で自身により証言台に立った。以下はその口述である。

予の南京占領に関する周到なる配慮に係わらず、占領当時の倥惚たる状勢に於ける一部若年将兵の間に、
忌むべき暴行を行いたる者ありたるならむ。これ予の甚だ遺憾とするところなり。
因みに南京陥落当時、予は南京を去る40哩の蘇州に於いて病臥中にて、予の命令に拘わらず、
之等非行の行われたることにつき之を知らず、又、何等の報告に接せず。
17日、南京入城後、初めて憲兵隊長より之を聞き、各部隊に命じて即時厳格なる調査と処罰を為さしめたり。
(中略)
予は南京陥落後、昭和13年2月まで上海に在任せるが、其間、昭和12年12月下旬、
南京に於いて只若干の不法事件ありたりとの噂を関知したるのみにて、
何等斯かる事実に就き公的報告を受けたることなく、
当法廷に於いて検事側の主張するが如き大規模なり虐殺・暴行事件に関しては、
1945年終戦後、東京に於ける米軍の放送により初めて之を聞知したるものなることを茲に確信す。

17 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 10:50:22.34 ID:lL7EPVoNY
>>6
戦争なんだから敵国の兵士を沢山倒した軍を誇って称えるのが先
次の戦争でも沢山ぶち殺してもらわんといかんしな

18 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 17:28:29.54 ID:3U8/sld7m
>>6

日本は兵隊と戦った
お前らは民間人を虐殺した

19 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 17:29:37.24 ID:3U8/sld7m
>>6

日本は兵隊と戦った
お前らは日本の民間人を虐殺した

成りすますんしゃねーよ

20 :名無しさん@15周年:2016/05/29(日) 17:41:16.13 ID:l1+e6OFsV
大事なことだよね

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