2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践18

386 :神も仏も名無しさん:2020/03/18(水) 12:22:51 ID:/swteq3M.net
ナーガールジュナ (龍樹) の実践的仏教理解・試論
https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1589&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1


ラムリムは大乗仏教の二系統
釈尊から文殊 菩薩を経てナーガールジュナ (龍樹) に伝えられ た甚深なる見解の系譜と釈尊から弥勒菩薩を経てアサンガ (無着) に伝えられた広大なる実践の系 譜(3) を統合した教えとされており,
ナーガー ルジュナの著述でそのような仏教理解を示したものとして, 『中論』 18 章の 「もろもろのブッダは 「我 [が有る]」 とも仮説し, 「我が無い (無我で ある)」 とも説き, また 「いかなる我も無く, 無 我も無い」 とも説いている」 (6 偈) が挙げられる。

チベットの伝統で重視されるチャンドラキールティの 『中論』 註(4) はこの箇所を, それぞれ,
1不善をなす者に, それをやめさせるための教え,
2善はなしているが実体視に縛られている者に, 涅槃への渇望を生じさせるための教え,
3涅槃に 近い者に, 我はないが無我もまた実体ではないことを説く教え
として説明している。

他には 『六十頌如理論』 に, 「愚かな人たちは物体 (色) に愛着する。中間にある人たちは貪りを離れる。 物体の本性を知る最高の智慧のある人たちは解脱する」 (55 偈) という教えが見られる。
釈尊が様々な異なる教えを説いた理由について, ナーガールジュナは 『宝行王正論』で, 文法学者も初学者にはアルファベットから教えるという喩えを挙げ, 相手の能力に合わせて異なる教えが説かれたと説明している。

(以上、上記リンクより引用)

龍樹は空なので有無には捉われない。
でも、法の自性の無にはこだわっているかもしれません。

総レス数 1003
469 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200