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--佛教論議の伽藍スレ-- 第六巻
- 408 :神も仏も名無しさん:2020/03/31(火) 14:59:41 ID:9y7s2/lW.net
- >>402
>あくまでもそれは、如来の死後(般涅槃)については一般常識の理解を超えたものだという意味なのであって、
>「空」ということとはまったく違いますよ。スマナサーラ氏が涅槃は空ではないと述べたことは正しい理解です。
「涅槃は無為法という法」であるとするスマナサーラ氏の方を信じますか?w
「一切とは何であるか。眼と色とである〜意と法である」(相応部)……テーラワーダの説くように涅槃は無為法という法だから意と法に含まれるので一切内という話で構いませんか?
それは、あなたが引用されている藤田教授の「涅槃は主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのもの(≒法?)ではない。」に矛盾しませんか?w
上にUPした 「中論」第二五章 ニルヴァーナの考察 において龍樹は
ニルヴァーナは有でもなく(四〜六偈)、無でもなく(七・八偈)、有にしてかつ無でもない(一一〜一五)ことを論を立てて説明し、有無への執着を解くことを説きました(九・一〇偈)。
それままさしく空論・中観ということになりますが、ニルヴァーナが空であることを示すのが”般涅槃した尊師ブッダの滅後である”と十六偈以降で説いています。
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない
また中論二二章
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※では真実のブッダとは何であるか。それはわれわれの経験している世界にほかならない。
般若心経の「照見五蘊皆空 度一切苦厄」が理解できれば上の3つもすんなりと理解できると思います。
五蘊皆空と正しく見極めた時に輪廻生死するこの世と違う別な場所に行ったわけでもなく、あいかわらずこの世に留まっていますが、もう苦厄から度してはいる。
つまり悟りの目から見ればこの世がニルヴァーナということになります。
また如来の本姓はニルヴァーナの究極と同じですなわち輪廻の究極でもある、ということになるかと思います。
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