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仏のスレ10

303 :神も仏も名無しさん:2024/03/29(金) 00:55:53.81 ID:urW/xGXX.net
それ修証(シュショウ)はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(ゲドウ)の見(ケン)なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。

そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体なのです。

かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ。直指(ジキシ)の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。

ですから、修行の用心を授ける時にも、修行のほかに悟りを待つ思いを持ってはならないと教えるのです。修行は悟りを直ちに指し示すものだからです。既に修行そのものが悟りなので、悟りに終わりは無く、悟りは修行そのものなので、修行に始めは無いのです。

・・・だから、もとから解決している、という大前提、証が先にあるんです。。
だから、修証一致になる。。
だから、もとから解決ってわからんと、観念で、一致している、と思い込んでいるだけ、となる。。

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