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GLA【高橋佳子】の死生観

1 :神も仏も名無しさん:2017/12/05(火) 08:45:22.46 ID:pFvMserwe
 このスレッドは、宗教法人GLA(主宰:高橋佳子)の死生観、その他、宗教法人GLAに
関する話題を議論するスレッドです。
 GLAでは、「人間は永遠の生命を抱く魂の存在」と捉え、「死んだら終わり」
ではなく、魂はこの世(現象界)とあの世(実在界)を往還しながら、進化と成長を
果たしてゆく「円環的人生観」が説かれています。さらに、そのような死生観に基づき、
GLAでは独自の葬儀や人生祈念館への人生記録・ご遺骨の奉納、特別供養などの葬送が
行われていること、そのことによって人生がまったく変わり、希望と安らぎを得ている
会員の実践についても日々発表されています。
 しかし、GLAの死生観について、若干の疑問の声があることも事実ですので、ぜひ、
GLA会員の皆様からのご教示をお願いします。
(参考スレ)
GLAの遺骨崇拝 http://wc2014.5ch.net/test/read.cgi/psy/1415245309/
GLA【高橋佳子】の遺骨崇拝2 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1451819519/
GLA【高橋佳子】の遺骨崇拝3 http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1472427603/
【隔離】GLAを憂う元会員の独り言【ちらしの裏】 "http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1485339463/467-n"

219 :神も仏も名無しさん:2020/09/25(金) 19:23:07.63 ID:oy1iZiuI1
私は>>215 に、
> 正にGLAが形骸化の危機に直面している
と書いたが、そもそもなぜ宗教が形骸化するのか考えてみたい。

例えば、キリスト教では、「神の子キリストが十字架にかかって犠牲の死を
遂げることによって、人類の罪を償い、救いをもたらした。そのイエスを
信じることで人は救われる」としているが、そのような事を述べたのは
パウロであって、イエス・キリストはそのような事を一言も述べていない。

福音書には、「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てて
しまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方が
ましである。」「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って
捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方が
ましである。」等、煩悩に対して厳しく対峙することを促し、煩悩を放置
すれば地獄に堕ちることを警告するイエス・キリストの言葉が残っている。

ならば、キリスト教を形骸化させた犯人はパウロだろうか?
私は、そうではないと思う。パウロだって間違えるもあるだろう。
パウロの言葉をイエス・キリストの言葉の上に置いて、パウロの言葉を優先
させる人間の意識が形骸化を招いたのではないかと思う。

イエス・キリストを教祖として崇めながら、なぜパウロの言葉をイエス・
キリストの言葉よりも優先させるのか?その理由は、キリスト教徒の立場
からは、色々説明できるだろう。私はその説明を聞いたことがあったが、
さっぱり理解できなかった。

聖書に示された様々な言葉を解釈して、パウロの言葉をイエス・キリスト
の言葉よりも優先させる根拠とすることはできるだろうが、その根底に
あるものは「快感原則」ではないだろうか。つまり、「苦を退け快を求める」
方向に自然に動いてしまう人間の性に形骸化の原因があるのではないかと思う。

220 :神も仏も名無しさん:2020/09/25(金) 19:25:24.85 ID:oy1iZiuI1
パウロの言葉に従うのと、イエス・キリストの言葉に従うのと、どちらが
「楽」だろうか、と人は自然に考えて、無自覚のうちに「楽」な方を、「自分を
変える必要が無い」方を、選んでしまうのではないだろうか。「聖書の解釈」は
それを正当化するために後付けされたものに過ぎないのではないだろうか。

以上はキリスト教の話であるが、GLAも同じ道を歩んでしまう危険がある。
佳子先生は「グループ力・響働力に基づくお世話構造」を構築するように
呼びかけて下さった。それは、未来千年に渡ってGLAが「トータルライフ
パートナー」であり続けるために不可欠なものであろう。

しかし、佳子先生の呼びかけを具現するためには、様々な苦労が伴うし、
自分を変革する必要性もあるだろう。それよりも、関芳郎が示したように、
GLAが「冠婚葬祭のパートナー」に落ちぶれてしまったほうが、ずっと
「楽」であるし、自分を変える必要もないだろう。

一度、GLAが「冠婚葬祭のパートナー」に落ちぶれてしまったならば、
それによってGLAの場、風土というものが形成されてしまい、立て直して
ゆくことが難しくなるだろう。

ただ、GLAとキリスト教が大きく異なる点は、GLAでは「人間が如何に
快苦に支配されやすい存在であるのか」という事を学んできたことでは
ないだろうか。それがキリスト教の轍を踏まない希望であると思う。

快苦に支配される自分を明確に意識化し、支配から脱却してゆく必要
があるのではないだろうか。それを意識化しなければ、関芳郎が描いた
通り、GLAは本当に「冠婚葬祭のパートナー」に落ちぶれるだろう。

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