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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

99 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 01:33:42.95 ID:cl4bhc2h.net
 
>おじゃると言う名前なのか?

おじゃるの場合は
小学4年の頃に
落武者の霊に
睨み憑けられてから
それを切っ掛けとして

『 隠されたもの 』 を語源とする
目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する
そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系 『 オカルティズム 』 に興味を持つようになりました

一代先生  真言宗の阿闍梨さま?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)
セブン先生 臨済宗?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

通常、仏教の場合は
『我を捨てなさい』と導いていく
(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

これに対して
紐くんの場合は
『無明の暗闇に覆われている!』とういことを知らないらしいので
『ぼくの意見こそが正しいのだ!』と勘違いしているらしい

100 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 02:09:54.98 ID:cl4bhc2h.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存し、そして

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設として(『(空という性質なので)縁起に依存して』という意味でつ)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続け、そして

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

101 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:35:21.75 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/3paauk.htm
http://web.archive.org/web/20070405093323/www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/
http://web.archive.org/web/20070108174853/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tikenmokuji.htm
http://web.archive.org/web/20060812045011/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tiken6.htm
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

如実知見  第六章  縁起の法

…無明とは比丘(実有・実体ではないもの)を実体と見なす錯誤であり
渇愛(タンハー)とは比丘に生まれることを渇望することであり
取は比丘としての生活に執着することである
無明、渇愛(タンハー)、取の三つによって、煩悩輪が構成される…

…無常、苦、無我の三相を足がかりにして、名・色法を観察する観禅(ヴィパサナ)を修行して…

…修行者は無明が滅すれば色法が滅することを識別することができる
そして、このとき、修行者は現象(法)の消滅、停止を認知できるようになるのである…
  _  _  _

  _  _  _

(無明が滅するまでは、)無明の暗闇に覆われて
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

102 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:59:34.60 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)

…決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』 のである
  _  _  _

  _  _  _

(心作用が滅するまでは、)心作用に依存して
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

(この現世において肉体が滅しても
  我愛と戯論と善悪業に依存して
  異蘊相続に依存して
  輪廻を繰り返して逝く)

103 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 07:38:19.43 ID:CNCyjjOc.net
>通常、仏教の場合は
>『我を捨てなさい』と導いていく
>(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

コレも一面では正しいが、全面的に取ると阿呆に陥りまさにおじゃるがソレだw

「我を捨てよ」と言っているのも我な訳でw 無我で我が無いと言うのと構造的には同じだw 
言っている我が有るのに我は無い〜w 捨てないから主張している「我は捨てよ」〜w

主張はOKだし、むしろリンクを張らないと書き込めないおじゃるが既に病気で思った通り治らないな。

104 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 08:17:31.62 ID:X7QD9Vrq.net
無我という理解こそが真実で、その真実こそ優がなのだ。仏性なのではないのか?

ここで人が論じる時は、対話として行われるのだが、その双方の立場を無視しては、大混乱になるのだ。

釈迦仏が苦しむ凡夫に話す時、凡夫が凡夫に話す時、凡夫が釈迦仏(解脱者)に話す時。解脱者同士が話す時、
この識別がないと、無我、有我、実相、空、無相、一相などの根本的概念も混乱を招くだけであろう。

待機説法と言うのはこのことだろう。

105 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:16:13.73 ID:cl4bhc2h.net
 
>我が有るのに我は無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

実有・実体ではないからこそ
それ自体の自性だけで成立しているのではないからこそ
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して

地水火風空識に依存して

五蘊の仮和合が
この現世に
仮設として(縁起に依存して)
仮に現れ
やがて、儚きものとして
肉体が滅しても
地水火風空識に還元して逝くときに

我愛と戯論と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

106 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:40:31.11 ID:cl4bhc2h.net
 
例えば
紐くんの場合は
経典・論書・解説書を理解することが出来ないので、それ故に

>無我(という意味も理解できないので、それ故に)混乱を招いている

対機説法(たいきせっぽう)
教え、そして導くために
その相手の精神的能力(→機根)や性質などに応じて
それにふさわしい手段で説法することをいう

四悉檀(ししつだん)
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
対治悉檀(煩悩を打ち砕く)
第一義悉檀(真理に直接導こうとする)

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

中観自立派の場合は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

 − これに対して −

中観帰謬派の場合は
(この世俗の世界は、それ自体の自性だけで成立しているのではないので、それ故に)
世俗の次元でも自相(自性)を否定します

107 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 10:35:03.39 ID:PRUe1EkX.net
>>99
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
>机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない


閻魔先生は、「仏教ではなく仏法」という言い方を好みますが、それはまず「仏教は一如の法門」を前提としているからです。
だから「一如」という観点なら、彼のレスは全くブレはない。
僕はそれが本来なのかと思いまね。

だけど「一如も何も関係ねー」ってんなら、皆好き好きに書き込みする訳だけど、そういう連中は2ちゃんでメジャーです。
むしろ閻魔先生はマイナーな方で、目立ってくる。

まあ実は僕はそれが不思議で、宗教板をたまに覗いたりするんだがね。
勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思いますよ。
ただ「一如」ということでは彼は達観しちょるようですね。

108 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 10:55:35.36 ID:cl4bhc2h.net
 
ID:PRUe1EkX

机先生↑乙です

>勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思います

何回も説明してるけど、おじゃるの場合は『脳みそが、くるくるパー』なので

認識は対象の形相を
仮設として(縁起に依存して)
仮の現れとして(仮の滅として)
『有している!』と考えてます

この認識は対象の形相を有していると考えいる『有相唯識派の立場から説明せよ!』と何回も説明してるけど

閻魔先生も
机先生も

有相唯識を勉強したことがないので
そして更に
世俗諦としての説明が欠落しているので

『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

109 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:03:02.13 ID:CNCyjjOc.net
無我で我が無いのが真ならば、無我という主張すら無いだろうw
無我という主張が「有る」以上その主張する我は有るという事になる。

幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿に陥るとまさに頭がくるくるパーになり理解できなくなるw

110 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:16:55.71 ID:cl4bhc2h.net
 
>無我で我が無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

実有・実体ではないにも関わらず

『(実有・実体が)有る!』 と思う虚妄の執著である 『 遍計所執性が現れ(滅し)ている 』

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

111 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:21:13.99 ID:CNCyjjOc.net
そもそも存在論としては「有る」とは言っていないw

非有であり、無いとも言わない非無であるw

「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいるぞw

112 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:41:49.22 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『存在論としては「有る」とは言っていない
  非有であり、無いとも言わない非無である
  「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいる!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

113 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:43:31.48 ID:CNCyjjOc.net
掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだがw

114 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:46:08.46 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだが!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

115 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:14:29.10 ID:PRUe1EkX.net
>>108
>『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

有相唯識も無相唯識も、それは唯識という概念における「有相」と「無相」の違いであって、
この違いについては、殆んど意味はない。つまり「自分はどう捉えるか」だけの話なのだ。

また唯識においても、それは唯識という概念を形成するだけのことであり、概念が必ずしも仏法それ自体を指示している訳ではない。
つまりそれは、概念なんてどうでも良い話なのだ。

おじゃる氏は、どうでもいいことに頭脳を集中して使う為に肝心な部分を見落としてしまうのだ。

世の中には、どうでもいいことが殆ど99%で、肝心なのは残りの1%なのだ。
勉強でもなんでもそうだけど、余計なことに全エネルギーを費やしてしまうと、それだけで疲弊だけしか残らない。
仮に仏教に関心があるのなら、「一如」ということだけで全身全霊を掛けた方が良いのでは?
これだけでも、何らかのヒントがある。

勝義諦&世俗諦は、ただ「不一不二」における属性でしかない。
       <机龍之介>

116 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:21:17.61 ID:cl4bhc2h.net
 
>>115

『世俗の立ち位置から説明せよ!』ということ

机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

117 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:34:02.45 ID:PRUe1EkX.net
>>116
>机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

僕は2ちゃんをやり始めたのは、ウインドウズMEだから2000年頃だ。
そして暫くして閻魔氏の書き込みを読むようになって、「ああ凄いな」と関心したもんです。
僕の言いたいことを彼は明確に指摘してきた。これは一代氏との絡みなどは圧巻でしたね。

閻魔氏の書き込みは、ちゃんと文章の読める人であれば充分に伝わるんですよ。
「言葉が通じない」ということは断じて無いです。僕が保証します。

つうか、閻魔氏くらいかな?僕と話が通じたのは。
勿論、僕は彼とは絡みはしないですがね。
何故かって?あはは、僕は絡みをせんでも・・・充分に文章が伝わるからですよ。
禅ではこれを「以心伝心」とか言うんですがね。

118 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:42:05.75 ID:cl4bhc2h.net
 
>「言葉が通じない」ということは断じて無いです

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

119 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:53:05.35 ID:PRUe1EkX.net
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
> 机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです。
その「行き詰った」状態を閻魔氏は「ゲシュタルト崩壊」と言ったのです。

つまり行き詰ってから、それをどう解釈しようか?という心の動き、
その動きそのものを崩壊せよ。ってのが彼の主張でして、
その壁を乗り越えて・・・・涅槃到達、それですね。

だから「ゲシュタルト崩壊」において、彼が何を言いたかったのか、それを解釈できればオッケ―ですね。

120 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 13:06:30.72 ID:PRUe1EkX.net
>>119のつづき
「行き詰った」状態というのを閻魔氏は経験している訳で、
つまりそもそも「行き詰った」状態というのはどういうもんか?が分からなかったら、
そもそもゲシュタルト崩壊はない訳です。

「行き詰った」状態のことを禅では、大疑とか疑団とか言うんですけど、
この状態というのが開悟の切っ掛けとされる。

つまり「大疑のもとに大悟あり」はこのことを意味する。
    <机龍之介>

121 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 13:58:26.37 ID:cl4bhc2h.net
 
>世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです

『その「行き詰る」その時までは ↓ これが必要だ!』 ということ

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html

第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は

ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに

究極なるものの重要性は説き得ない

究極なるものの重要性を理解することなしに

解脱(涅槃)は達成され得ない

122 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 14:39:28.86 ID:PRUe1EkX.net
>>121
>第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

あのですね、なにもそう真剣に考えることは無いんですよ。
そんなことは考える必要性はない。つうことですよ。

大疑ってのはですね、もっと素朴な根源的な本能的な、そして最も原初的な疑であります。
それは人間が懐古の昔に返るような・・・
ああ、「父母未生以前の本来の面目」とか言うんでしょうか、こんな根源的な疑ですよ。

ほら、子供が馬鹿馬鹿しい疑問を呈することがあるでしょ?
いや実は馬鹿馬鹿しいことではなく、最も根源的な疑であるかもしれません。

人間の知識は、そういった根源的な疑を覆い隠そうとする。
知識は人間を盲目にする。ってことではないでしょうか?

禅語には「平常心是道」があります。いちど検索掛けたら宜しいかと?

123 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 14:59:26.16 ID:cl4bhc2h.net
 
>知識は人間を盲目にする

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

実有・実体ではないからこそ
仮設としての(縁起に依存して)

末那識は、阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する

我見(個人我についての妄信)
我痴(個人我についての迷い)
我慢(個人我についての慢心)
我愛(個人我への愛着)と呼ばれる

なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する
さらにその他に感触などを随伴する

この末那識は自我意識と呼んでもよい
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

124 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:10:09.02 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page250.html
平常心是道
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた

それ故に
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか?
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう

https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
想いを手放し、生きていく  スマナサーラ

125 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 15:27:15.27 ID:PRUe1EkX.net
>>123
>この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

阿頼耶識に薫習されても、薫習されなくても、人間は腹が減れば飯を食いたくなる。
つまり理屈や理論では、腹は満たされることはない。
という非常に現実的なことを、ともすれば人間は気づくことはない。

現実的とは”在ること”であって、在ることを突き詰めていくと、ついには行き詰る。
だからそれだけを考えていけば、他のことは全く問題にはならない。
ただ人間がそれが出来るかどうか、だけが問題。

しかし先達はそれをやってきた訳だし、やってきたからこそ道元の而今も言葉自体が生きてくる。
これをどう解釈するかは、個人個人は自由だろう?
自由だけども、この「而今」という言葉自体が人生の羅針盤になる人間もいる訳で、
閻魔先生とか机龍之介はこの範疇にいる。
ただそれだけのことだ。

126 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:58:55.42 ID:cl4bhc2h.net
 
>而今

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく、植えさせて頂く功徳が必要である

127 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 16:32:04.35 ID:PRUe1EkX.net
>>126
僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。
この熟語を最初に知ったときは、ある種感動がありましたね。
ああ、自分の探していたのはこれなんだ。と

その言葉の意味や解釈よりも、ひとつの言語なりが心の中にスゥ〜っと入ってくるもんですよ。
言葉というのは、それ程に魔力というのか魅力ってのがあるもんです。
ただそういう機会に遭遇するかどうかは別問題ですけど。

所詮ネットからの情報では、他人の言葉の借り物ですよ。
だからそういう意味において、僕はあまり感動することはない。

禅というのは、ただただ「自分と向き合う」だけです。
本当に自分と真っ正直に向き合うと、自分というのが嫌になるかもしれません。
でもそういう嫌な自分と向き合うことも大事かもしれませんですね。
そうでなければ「自分と向き合う」っていっても、それは噓になりますから。

でもそれを恐れないことも大事ですし、ただ上辺だけのことでは全てが中途半端になってしまいます。
実は自分というのは、本当は一番謎なんですよ。
こういうことを、たまには考えた方が良さげです。

128 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 17:50:39.94 ID:cl4bhc2h.net
 
今この現世に現れている

「 この肉体は自分のものである!」 と掴もうとしている想いを手放し、そして

http://www.myoshinji.or.jp/houwa/houwa_b02/20080704.html
京都花園  臨済宗大本山  妙心寺

生死一如
仏教では
(「生が有る」「死が有る」という分別を掴もうとしている想いを手放して)
「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません
二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい
( ☆ 妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から客観的に観察して ☆ )
『 生死の差別を超えること 』 を説いています
つまり、生があるから死がある
生の中に死があり、死の中に生があるのです
したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません
だからこそ、命ある限り精一杯生きて、そして(精一杯)死んでいくのです

(誰もが(この現世において)成仏するわけではないので(五性各別)
  我愛と戯論と善悪業に依存して、輪廻を繰り返して逝く)

129 :123:2015/10/10(土) 18:13:24.44 ID:Jk6C3oDi.net
128.
生死一如の理解が、それでは失格である。

130 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 18:25:10.65 ID:cl4bhc2h.net
 
乙です

123くんの場合は

経典・論書・解説書を読んだことがないんでしょ?

経典・論書・解説書を読んだことがない、123くんに何で

>生死一如の理解が、それでは失格である

ということが、わかるんでつか?

ご教示願いまつか?

131 :123:2015/10/10(土) 18:35:30.24 ID:Jk6C3oDi.net
130.
経典を読んで理解する奴はバカである。
それを紹介するのはバカの上塗りである。
そこで自分が優位に居ると思うのがバカの連続である。
おじゃる君の才能をもってしても、そこが理解できないことが重要である。
おじゃる君、悟れかし。

132 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:09:42.58 ID:LTTnFq72.net
経典を読んで理解したことを自分の体験や、
いろんな現象にあてはめて考えることが大事かなと思います。

133 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:10:08.27 ID:cl4bhc2h.net
 
>経典を読んで理解する奴はバカである

世俗諦(せぞくたい)としての理解なしで

勝義諦(しょうぎたい)の立ち位置にいるのかしらん?

123くんの頭の中身は、机先生と同じ、レベルなのかしらん?

机先生!良かったでつね?

机先生と同じ、レベルの、123くんが現れ(滅し)て
  _  _  _

  _  _  _

一応、念のために説明しとくと
神通力を得るための四如意足(四神足)も
智慧とは何か?
思惟とは何か?
観察とは何か?を教学として勉強してから
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践していく
という順番、段階がありまつ

134 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:12:34.05 ID:LTTnFq72.net
山下和尚は手放した方がいいと思う。

135 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:26:54.55 ID:LTTnFq72.net
あとスマサナーラも手放した方がよい。この人は思いやりがない。
法を広く学ぶのはいいけど、正しい教え、正しい師に従うべきかなと思います。
師を選ぶ際に、注意すべきことは下記のサイト
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
師を選ぶ前に吟味する  第六句――善い師に従う ラマを吟味するポイント
ここに分かりやすく解説されています。
悪い師について教えを学ぶことの恐ろしさについても解説されています。

136 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:28:54.62 ID:cl4bhc2h.net
 
>山下和尚は手放した方がいいと思う

実践したことはないけど教学の一環として毎週↓聴いてます

http://www.onedhamma.com/
http://www.onedhamma.com/?p=5136

15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話

テーラワーダ側の立場と、大乗の立場の議論でつ
かなり面白いので、時間に余裕があるときに聴いてみてください

今の現状においては
テーラワーダ側の立場の、魚川祐司氏の説明が、わかりやすくて良いと思いまつ

(これを聴いて理解するためには、最低限以上の経典・論書・解説書の理解が必要でつ)

137 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:31:47.64 ID:LTTnFq72.net
論争する師はお呼びではないのです。

138 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:45:58.07 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4796660321/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

般若心経は間違い? (宝島社新書) – 2007/8

アルボムッレ スマナサーラ (著)
今は、もう持ってないけどこれ読んだ時は面白かった
今でも中観も般若心経も理解できてないけど
この本読んでた時は
今よりもっと理解できてなかったので
それ故に、この本は面白かった

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 – 2010/5

今は、この本の
「それ自体の自性によって成立しているのではない」
というところが
少しは理解できたかも?

139 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:53:34.14 ID:LTTnFq72.net
>>138
スマナサーラさんは以前の発言で「自殺者は腰ぬけ」とありました。
自殺した人はもうこの世にはいないんだけど
遺族はいっぱいいるわけですよね。
思いやりがなく、かつお釈迦さまもそんなことは言ってませんね。

ダライラマ法王は、素晴らしい師だと思います。
>>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です。

140 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:27:02.16 ID:VTR9QM37.net
質量ゼロといわれたニュートリノも、質量があることが明らかになった。
それは、スーパーカミオカンデの観測装置によって、人間の五感の知覚に
より確認された。これでこの宇宙には、「無」は存在しないことが証明
された。

釈迦の身体にも、太陽からのニュートリノが、毎秒10兆個通り抜けている。

釈迦の「無」は、これにて終了。

141 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:31:31.70 ID:Rjkqvc3y.net
質量があると掴もうとしていると難癖つける人間がいるからなあw

142 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 01:40:03.03 ID:Rjkqvc3y.net
自殺者が腰抜けというのは一面では正しい。
精神病(うつ病など)が原因で自殺する人間は多い。
それは病気なのだから可哀そうではあるが仕方のない事なのかもしれない。
そういう病人の周りの人間は大変かもしれないが自殺をしないように注意する必要がある。
腰抜け〜というのはこれから自殺しようとする人間に対する叱咤なのかもしれないな。

ダライラマは肉食で専属の料理人を常に同行させているのが俗だとは思うな。
そのような姿勢はブッダの生き方とは本質的に異なるだろう。
布施で出されたものは肉でも食って構わないという意識があるにせよ、自ら進んで肉しか食わない〜というのはねw
しかも専属の料理人ってww

143 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 04:27:04.55 ID:Rjkqvc3y.net
自殺とドラッグには全く嫌悪感があるな。

大麻やLSDで悟った〜なんてのは言語道断だな。

144 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 04:55:16.64 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2

ニュートリノが時間を感じていなければ
ミューニュートリノからタウニュートリノに変化することはないのだ

ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測されたことは
ニュートリノが光速よりも少し遅い速度で動いている証拠となる

ニュートリノが光速で動いていないということは
ほんの少しでも重さをもっているという結論になるのだ

スーパーカミオカンデでの発見後
人工的につくったニュートリノを使った実験でも
ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された

30年間破られることのなかった標準理論は、このようにして倒されていった

145 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 05:33:03.81 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
 → ニュートリノが光速よりも遅い速度で動いている証拠となる
 → ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住(変化しないもの)であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるもの(自性・自相)と考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつ(周囲環境への影響力がある)とした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されている(死によっても失われない、業・カルマ)と考える

 − これに対して −

釈迦は
このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常(変化するもの)である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると導いた

146 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:38:18.21 ID:Rjkqvc3y.net
仮という表現自体が美しくないww
アインシュタインが宇宙定数なんてのを引っ張り出したような醜さがある。
こういう美しくないものは真実ではないんだな。

真実は単純な構造で美しいと感じさせるものだ。
仮〜なんて言っていて騙せるのは幼稚園児以下のキチガイだけだろうよw

147 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:46:12.22 ID:rZEsyOW9.net
 

>>1

無の意味を取り違えている。
無は何も無いことではない。

無とは言葉にすれば主観と客観の対立がないこと。

無念、無相、無住というが、
おもいが無いことでもカタチが無いことでも住むところが無いことでもない。

念は真如の現れ。そのおもいを脳が「自分が」と思い違いをして妄想する。
カタチは認めながらカタチにとらわれないのが無相
無住はひとの本性


 

148 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:56:16.01 ID:Rjkqvc3y.net
仏教では当たり前の事は一般的には当たり前ではないからねえw
無が何も無いという意味ではないのなら前置きで断りを書くべきだな。

こんなのは仏教では常識〜というのは一般では非常識〜かもしれんからねえw

149 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:09:52.66 ID:rZEsyOW9.net
 
>>148

経典は手段を説かない。目的を説くだけ。

 

150 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:13:02.35 ID:Rjkqvc3y.net
八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?w

151 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:19:20.92 ID:Xw3IuKIs.net
 
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住
変化しないもの
自性・自相
死によっても失われない、業(カルマ)

 − これに対して −
仏教の場合は
業(カルマ)が、死によっても失われない常住なものであるのなら
無限に続く、輪廻の運命から抜け出す(輪廻から解脱する)ことは出来ない
実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
仮設としての(縁起に依存して)
仮の現れとしての
この現世に
色受想行識の仮和合が現れ
そして、やがて、いつか儚きものとして
この現世から滅していくときに
地水火風空識に還元していく

152 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:35:21.36 ID:rZEsyOW9.net
>>150
すべて仏のまねごと
本来目的であるということ
習い事はマネから

153 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:37:02.97 ID:Xw3IuKIs.net
 
皆さま乙です
皆さま早起きでつね?
「昨日の夜から起きていた」とか?

おじゃるの場合は
内臓の働きが悪いので長い時間、熟睡することが出来ずに
目が覚めてしまうので絶不調でつ
  _  _  _

  _  _  _

>>144 >>145 >>151 の続きでつ

実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して、それ故に

>ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された

と導いていく

(『実有・実体であるのなら変化することが出来ない!』という意味でつ)

154 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:40:35.27 ID:Rjkqvc3y.net
手段だろうが目的だろうがどーでも良いがなw

要は無が無いという意味ではないのなら前置きで書いとけ〜w
それだけだww

155 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:51:44.47 ID:rZEsyOW9.net
仏に意味は無

156 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:53:04.70 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識では意味の無い事に価値は無いw

157 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:58:12.26 ID:rZEsyOW9.net
>>156
一般常識での価値は例えば具体的にどんな価値でしょう?

158 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:00:18.49 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識の価値は様々有ろうよw
それこそ常識なんだから常識の有る人間には説明不要で通じる事w
非常識で分からないから教えて欲しいとでも言うのかね?w

159 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:01:13.99 ID:Xw3IuKIs.net
 
>八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?

菩提分法(ぼだいぶんぽう)
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに導くための道筋
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
  _  _  _

例えば
「自分には自身の自我があるのだっ!」
と掴もうとしている想いは
実有・実体ではないからこそ、それ故に
『無明から目が覚めることが出来る』という意味でつ

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

…自分が愛を受けるに値するとも感じて、自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

(過去への想いは、実有・実体ではないからこそ、それ故に)
過去への想いを手放し、現在を生きてください

160 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:01:31.77 ID:rZEsyOW9.net
是非教えてください

161 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:06:44.37 ID:Rjkqvc3y.net
経済的には財力
あるいは、金はなくとも健康にと言うのも有るなw
また、家庭円満〜商売繁盛〜交通安全〜って神社のお願い事全部常識的な価値だろうw
仏陀は人間の生き方を突き詰めたが、現代人も現代人なりに人間の生き方を突き詰めている人もいるだろう。

こんなものは数え上げればキリがない。ただ言えるのは意味のないものに価値は無い。

162 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:10:15.32 ID:rZEsyOW9.net
>>161
正にそれによって人は苦しんでいる。

163 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:11:46.56 ID:Rjkqvc3y.net
苦しんでいるだろうが楽しんでもいるw

片方だけ取り上げて大仰に言うのが間違いだろうw
全く隠居氏の言う通りだ。
苦あれば楽あり〜
全部苦とか全部楽なんてのは有り得ないw

164 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:14:32.63 ID:rZEsyOW9.net
>>163
世俗の楽しみこそが苦の根元

165 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:21:30.59 ID:Rjkqvc3y.net
ではその苦が無けれ良いのか否か?w

苦が無ければ楽しみすら無いだろうよw
人間から楽しみを取り除いてそれが幸せなのか?

貧困で餓死するような人間には救いの手を差し伸べ
それ以外の一般的な苦痛なんてのは有って当たり前と知るべき。

166 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:24:21.19 ID:Xw3IuKIs.net
 
愛別離苦  愛する者と別離すること
怨憎会苦  怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦  求める物が得られないこと
五蘊盛苦  五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦という

 − これを対処するために −

苦諦  一切は苦であるという真理
集諦  苦には原因があるという真理
滅諦  苦は滅するという真理
道諦  苦を滅する道があるという真理

道諦
「苦るしい!」と掴もうとしている想いを手放し
無明から目が覚めるための
菩提分法
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道

167 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:26:35.96 ID:rZEsyOW9.net
>>165
苦に甘んじて輪廻をくりかえすのも選択
解脱するのも選択

168 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:29:32.91 ID:Rjkqvc3y.net
大体、輪廻なんて信じていない人間に輪廻を唱えても無駄だろうw
輪廻なしの人間においては解脱も何を指して言っているのか分からないw

つまり、そういう人間にとっては、あーだこーだと言ってはいるが、全部無意味で無価値となるw

169 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:34:11.95 ID:rZEsyOW9.net
南無

170 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:41:06.02 ID:Rjkqvc3y.net
今、世界中で輪廻転生を信じているのはインドくらいなものでしょう。
あと、インド関連の宗教信者かなw

全世界的には少数派、マイノリティ。
輪廻を前提とせねば伝えられないような教えは捨てるんだな。

171 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:51:28.88 ID:Xw3IuKIs.net
 
輪廻を信じていない紐くんには↓これ

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし

無明の暗闇に覆われているので、それ故に

『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』

と、気づくまでは、気づくことは難しい

172 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 08:02:46.00 ID:Rjkqvc3y.net
物事の理解の仕方は人それぞれのようで、おじゃると私とでは正反対ではあるなw
般若心経は大乗の経典であり、自分が読む経典が何なのかをまず理解せよw
大乗の経典は全て偽経というのは正解で、ゴータマの教えではなく経典作者の
作品だからな。作品として読めばその言わんとする事くらい誰でも理解できるだろうw

自分の愚かしさなどと卑下する必要もなく難しくもなく容易に理解可能w

経典は偽経であれ何であれ読んだら捨てる事だw
捨てずに後生大事にとっておこう〜なんてのが読み方の大間違い。
これを固執と言わず何と言う?w
ゴータマは固執するなかれと説いたはずだが、真っ向から反対する姿勢で読んでも身につかない。
自灯明の教えにもかかわらず、他人の解説にしがみつくのも同様〜w
こういうのは救いようがない。

173 :λ...:2015/10/11(日) 08:21:43.93 ID:oOoTemiL.net
一切無でありながら、輪廻は有るとはこれいかに。

174 :λ...:2015/10/11(日) 08:26:32.67 ID:oOoTemiL.net
そもそも言葉があるから認識が生まれ、認識があるから観念が生まれる。
一切の学習機会を放棄して、言葉を奪い、認識を奪えば一切無になれるだろうよ。
感覚を表現できないんだからな。

175 :123:2015/10/11(日) 08:44:17.77 ID:s4z3gg1x.net
釈迦が経典でもって、理解していたのか。
それに答えよ。
されば、自己が釈迦でないことが自覚できるのだ。

176 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 08:55:47.91 ID:Xw3IuKIs.net
 
>般若心経は大乗の経典であり

般若心経ではなくて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C
般若経(はんにゃきょう)は、大乗経典
  _  _  _

>大乗の経典は全て偽経

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
『スッタニパータ』の第4章と第5章がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
文献学的には
(「もっとも古い」と考えられている『スッタニパータ』の第4章と第5章も含めて)
パーリ経典の大部分も
釈迦の死後数百年にわたり編纂されたもので
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいる)
最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかではない

大乗仏教の経典は
釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいるけど)
釈尊に仮託された思想を
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 受け継いでいる文学(架空の物語り)である。と考えている人もいるらしい

177 :λ...:2015/10/11(日) 08:56:16.92 ID:oOoTemiL.net
輪廻が有るなら全て有る。
なぜなら有る無しの識別が存在する時点で、有るのだから。

178 :(Me):2015/10/11(日) 09:07:40.31 ID:8T3uYMO0.net
毎日死んで生まれていますがこれは輪廻とは言わないのですか?

179 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:12:18.30 ID:Xw3IuKIs.net
 
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど、とりあえず↓これ

http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌  ウパニシャッド  哲人たちの思索
名称と形態(現象界)の展開
6.3.1
[父が言った]
じつにこれらの生ける者どもには、三種の生起の原因が存する
すなわち、卵から生ずるものと、母胎から生ずるものと、芽から生ずるものとである
6.3.2
この神(=有)は思った
『さあ、わたくしは生命を与えるアートマンによって、これらの三つの神(火と水と食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
こういうわけで、かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって、それらの三つの神(火、水、食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開した

 − これに対して −
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ
872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る

欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない

180 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:43:15.48 ID:Xw3IuKIs.net
 
ウパニシャッドの神?(=有?)が、[現象界の]名称namaと形態rupaを展開した

 − これに対して −

スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る

(「わがもの」と掴もうとしている想いを手放し、そして)
欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない
  _  _  _

>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaと

スッタニパータ 872 が対応している

http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインド人にとって仏教を理解させて導くためには
その当時のインド人にとって世間的な真理を一応認めて、さらにその理解のうえで
仏教を人々に理解させて導く。という方法をとらねばならなかった

181 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:54:50.58 ID:Xw3IuKIs.net
 
>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを理解して

とりあえず仮に認めて

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを前提として

スッタニパータ 872 で答えている

(相手の考えを理解して、相手の考えを一応認めて、それに答えている)

182 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 11:12:20.53 ID:Xw3IuKIs.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
ウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った
http://translation-buddhisttext.jimdo.com/app/download/4195029758/%E3%83%91%E3%82%AA%E6%A3%AE%E6%9E%97%E5%83%A7%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E4%BF%AE%E8%A1%8C.pdf?t=1278217918
第一禅定
第二禅定
第三禅定
第四禅定

空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/4-901679-16-3
滅尽定は仏教だけ
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
想受滅は、非想非非想処も超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に 『(無明の世界から)解脱する 』 とされている

>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど
非想非非想の段階までは
仏教以外のものも理解して
仏教以外のものも受け継いでいたもの(例えば、禅定など)もある。ということでつ

183 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:53:21.75 ID:69QHdcWq.net
>>127のつづき
> 僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。

あと僕が好きなのは「青山常運歩」ですね。これは眼蔵からの引用なんですけど、
そのフレーズそのもののダイナミズムというのでしょうか、まさにそれはフレーズ自体が生き生きとしてます。

@青山が運歩してるなんて?
Aああそうか、そうなのだ青山は運歩しているのは間違いない。→最初の気づき
Bだけどそれは間違い。運歩はしてない。非風非籏の公案参照。→第二の気づき
Cしかしそもそぽ運歩とか退歩、それ自体が間違いじゃないのか。→第三の気づき
D実は退歩していた。→第四の気づき。→第四の気づき
Eああ全くこれ自体が全て自分の間違いだったのだ。→第五の気づき

将棋の羽生名人がこの「青山常運歩」をえらく気に入っているそうですが、
将棋ってのは、つまり勝負の世界でしょ?だから僕もそれは良く分かるんです。
(つづく)

184 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:54:10.22 ID:69QHdcWq.net
(つづき)
コンピューターと棋士の勝負ってのは、以前に話題になりましたけど、
対戦した人の感想を聞くと「意図がわからない」というんですよね。
あれ結局逆算して導き出してるわけで、人間の思考のベクトルが間逆なんです。
だから最後の手から逆にたどるみたいなことをしてるから、人間にはもう理解できない手になっちゃう
それを「無味乾燥な手」というけど、プロ棋士も指摘してるね

羽生名人は、コンピューターとの対決はしてませんけど。理由はいろいろある。
結局、いくら名人とはいえ逆算して勝負は無理でしょ?どんな名人でも。

しかし逆算のことは既に「青山常運歩」においても指摘されておるのだ。
なんと驚くべきことではないか。これを感動と言わずして何と言おうか!!!
それが「運歩歩退」なのだ。

「生死一如」が寂静としてのフレーズというなら、
その対極に位置するのが「青山常運歩」のダイナミズム性であろう。
         <机龍之介>

185 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:01:42.34 ID:ozVAhBmp.net
宗教は奴隷学である

186 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:49:33.57 ID:Rjkqvc3y.net
禅は面白いよねw
老荘は仏教というより禅に近いんじゃないか?

私は黄檗臨終時の「人は生まれながらに自由なのだ〜」という文句が好きです。
あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という
構図は現代では有り得ないからねえw

187 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 16:21:28.32 ID:Xw3IuKIs.net
 
>>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
第六句  善い師に従う

自分勝手に経典を読んで自習しても、ある程度の知識は得られ、理解もできるでしょう
しかしラマから教えを直接受けるのは、経典を自習して、勝手に修行するのとはまったく異なります
正法というのは、釈尊より師から弟子、弟子からそのまた弟子へと師資相承で
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 伝えられていくものだからです
師資相承の加持があるなら、聞思修を行じても、あるいは他人にアドバイスを与えても、大きな力をもちえます
ですから必ずラマに拠って、仏法の修行をする必要があるのです。自分勝手に修行してはなりません

まったく見知らぬ土地に行く場合、その土地にくわしい人に案内してもらわなければ、道に迷ってうろうろするだけです
それと同様に仏陀の境地へといたる道を歩もうとするなら、その道に精通したラマに案内してもらわなければ、迷うだけです
  _  _  _

(実際には青木ヶ原の樹海には行ったことがないけど)

例えば
心霊スポットにも興味があるので、それ故に
(無明の暗闇に覆われているので、それ故に)
興味本位で行った
青木ヶ原の樹海で迷ってしまっている

というような感じでつね? 了解 おじゃる

188 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:21:42.71 ID:69QHdcWq.net
>>186
>あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という

禅の魅力というのは、僕は「発見の喜び」みたいなもんかな?
でもその「喜び」ってのが普通の一般的喜びという意味とは違って、
鋭く突き刺さるような何とも例えようのない感覚に包まれる。今までに経験したことはない。

たぶん数学者や物理学者などが、自分の生活を犠牲にしてまで研究に没頭するのはよくある話だ。
彼等には彼等の価値観が、世間一般の価値観とは違うのは想像するけど、
やはり世間的には得難い「発見の喜び」を経験してるんだろう?
これに嵌ってしまったら、もう人生の道筋は狂気に近いのかもしれんね。
(これは悪い意味ではない)
          <机龍之介>

189 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:46:46.70 ID:Rjkqvc3y.net
「無い」というふわふわとした概念論は駄目ですね。
掴もうとしている〜という概念論も駄目。

禅は己の両足を地面につけて歩く(人生を歩く)事を説く。
ゴータマの教えは禅とは違うものではあったろうが、浮足立った
虚無論ではなかったであろう。そこは共通しているに違いない。

無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
何の意味もない。
自分の両足で地面を踏みしめて歩けという教えの方が遥かに有意義。

経典は読んだら捨てよw
自灯明で己の判断で生きよ。
自殺とドラッグは最低〜w

190 :123:2015/10/11(日) 17:56:55.54 ID:s4z3gg1x.net
189.
宗教とは何か、を理解していない。

191 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:00:48.74 ID:Xw3IuKIs.net
 
机先生!良かったでつね?

経典・論書・解説書を読んだこともなく
経典・論書・解説書を理解することもなく

存在論としては『有るとは言ってない』と掴もうとしている紐くんが

机先生のことを理解?できて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96
存在論(そんざいろん)

パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-没年不明)
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
理性に信を置いて真に在るものは不変だ

プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
パルメニデスの不生不滅の考えと
ヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させて
この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもなく
仮象の世界の「あり、かつ、あらぬもの」である

アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)
「有・無」という「存在論」が基礎にあり

192 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:21:37.02 ID:Xw3IuKIs.net
 
パルメニデスと
ウダーナヴァルガのギルギット写本の解釈?

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf

(パルメニデスがいう
  感覚で捉えられる世界は生成変化を続けている)

迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり

 − 縁起したものを離れ −

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである

(パルメニデスがいう
  理性に信を置いて真に在るものは不変だ)

193 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 18:22:02.58 ID:69QHdcWq.net
>>189
>無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
> 何の意味もない。

有用と無用の話は老荘思想にもありますね。
相関関係にあるから、相互に依存しなければ原意は掴めない。とか
これも禅に近い
>>191
>机先生!良かったでつね?
> 経典・論書・解説書を読んだこともなく
> 経典・論書・解説書を理解することもなく

そうですね、僕はあまり解説書は読まない方ですねw
ひとつのフレーズでも、自分なりにどう読んだらいいか、これだけを考える。
そして自分なりに発見できた時の喜びは例えようがないですよ。

登山家が頂上を目指すのと同じなんじゃないですか?そこにリスクがあるからこそ魅力(喜び)もある。

194 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 19:05:45.71 ID:69QHdcWq.net
>>193のつづき
僕は人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします。
それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。

野菊は野菊のように咲けば良いのであって、
それが秋の野にどのように影響するとなかろうと
それは野菊においてはあずかり知れないことなのだ。
ではおやすみ。
         <机龍之介>

195 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 19:39:46.56 ID:Xw3IuKIs.net
 
>人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づいて

そして 『 一切の有情には仏性がある 』 と気づくこと

しかし
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』
と、気づくまでは、気づくことは難しい

http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺派

曹洞宗の場合は
(「自分には自身の自我が有るはずだ!」と掴もうとしている想いを手放して、そして)
「人は本来清浄な心を元々持っている」と気づくこと

196 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 20:37:51.79 ID:Rjkqvc3y.net
そもそも、「自分には自身の自我が有るはずだ」ではなく
自我は有り、掴む掴まないに無関係に有るものであるw
自我が無い(仮設としてあるに過ぎないも同様w)などと言うのは詭弁に過ぎず
自我が無ければ主張も無いし2チャンネルに書き込みも無いだろうが、実際は
頻回に自己主張して書き込んでいるw まさに自我が有る証拠だ。

197 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:02:41.25 ID:zK9v6610.net
ヴィパッサナやってれば、自我が思考として湧いて来るのに気付くでしょ
無いのは自我思い込んでる「私」でしょ

198 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:06:49.49 ID:N1oQl933.net
自我=アートマンと訳される場合もあるが、これは正確ではないからな。
より正確に言えば人生における自我は有るものであり、真我というべきアートマンは
有るのか無いのか分からん〜と言う事だ。

199 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:21:34.52 ID:zK9v6610.net
真我、神、ワンネス、空、、、 呼び方が違うだけじゃない?

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