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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

2 ::2015/09/25(金) 22:05:06.37 ID:C2ksM3qd.net
私は隠居氏の言う事に全く同意する。
全くその通りである。

一切皆苦ではなくサインカーブで上がったり下がったりなんだから
苦が楽の起点、楽が苦の起点〜で全部何々〜という事自体が×だわなw

それでも仏教の伝統だから〜の一点で頭から飲み込み、自らの判断を放棄する〜w
それが、自灯明に反するというのを反省しないww

こういう伝統馬鹿はゴータマの主張とは正反対のところにいるんだろうw

セブンよお前の事だよw

3 :神も仏も名無しさん:2015/09/25(金) 23:28:36.20 ID:1xERMtGz.net
>>2
わたしはセブン氏ではないですけど、一切皆苦について
未熟者ですが答えさせていただきます。

一切皆苦というのは、絶対的な真理ではありません。
相対的な真理です。なぜなら絶対的な真理ならば、苦しみはなくならないことになり
お釈迦様の教えである「四諦」の三番目の教えに反します。
しかし、一切皆苦と言われるのは意味があると思います。
その意味は、一切皆苦だとすることによって
この苦しみからなんとかして解放されたいと切に願うようになるからです。
それと、欲望を満たしたことによる、ひとときの楽を得ても、
それは必ず消え行く楽なので、結局は苦しみです。
そして、結果的には死によってすべての楽しみは潰えてしまうという苦しみ。

サインカーブで苦楽を繰り返したとしても、最期は死に別れ、生き別れになります。
そのような無常の楽は追及するに値せず、
無常の楽ではなく、無常の楽の帰着する苦しみそのものから解放される永久の楽を得るための
方便として、一切皆苦とお釈迦様は説かれたんだと、わたしは解釈しています。

4 :神も仏も名無しさん:2015/09/25(金) 23:44:14.71 ID:C2ksM3qd.net
>>3
早速のレスをありがとうございます。

>その意味は、一切皆苦だとすることによって
>この苦しみからなんとかして解放されたいと切に願うようになるからです。

また別の言い方をしても「作為」の言い方でそれらは何を言っても却下ですなw

>サインカーブで苦楽を繰り返したとしても、最期は死に別れ、生き別れになります。
>そのような無常の楽は追及するに値せず、

これこそじっくりと飲み込むべきものでしょう。
自灯明とはそういう事。

5 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 08:49:18.97 ID:pWmcXKYt.net

>そして、結果的には死によってすべての楽しみは潰えてしまうという苦しみ。

そして、結果的には死によってすべての苦しみは潰えてしまうという楽しみ。
とも言えるわなw

6 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 19:25:12.13 ID:mOuDYWu2.net
>>5
相対的真理だから、そういう捉え方もできますが
それだと、仏道修行できなくなるでしょ?
仏道は、やる気を起こすことが土台となりますから。
いわば、解脱に向かうための方便ですよ。
この世は苦しみなんだと。一生懸命修行して解脱するんだと。
自分自身を奮起させることが土台となるんですね。

7 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 19:33:54.81 ID:mOuDYWu2.net
つまり、この世は楽しいと思っているうちは、仏道修行はできません。
その人たちは、存分に人生を楽しめばいいと思います。
この世の楽しみは懲り懲りだと思ったその時、また考えればいいと思いますよ。

8 ::2015/09/26(土) 19:52:24.46 ID:pWmcXKYt.net
そもそも真理に相対も絶対も有りませんよw
真理は真理。

勝義諦 世俗諦と言っても真理はひとつである。
二諦は龍樹が作った概念で元からあったわけではないからなw

9 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 20:38:23.30 ID:mOuDYWu2.net
>>8
そうですね。真理は一つで
一切皆苦というのは、方便の一つだと思います。

10 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 22:12:12.92 ID:pWmcXKYt.net
仏教を難解に考えればいくらでも難解に考えられるだろうw
しかしそんな難解なものにいくばくの価値がある?w

物事は単純に考えるべきで、そこに真理がある。
伝統なんてのはゴミ箱に捨てろw

糞伝統で糞難解な仏教に価値は無し。

11 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 22:38:18.66 ID:mOuDYWu2.net
>>10
難解なものは人を惑わせますからね。
聴く人が理解できなければ、法を語る意味がないと思います。

12 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 23:00:24.65 ID:pWmcXKYt.net
>>11
全くアナタに同意します。

13 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 00:46:35.42 ID:R77tYFdF.net
人は生まれる前の事は知らず、死んだ後の事も知らず、分からない事は分からないという
状態で保存するべきだが、好奇心が旺盛だからアレコレ想定するw

想定はしょせん想定だから全く意味がない。
輪廻転生なんてのはインド固有の文化で全世界のものではない。
死んでどうなるかなんて分からないというのが正解だw

もっともらしい事を言うのは全部偽物、糞だw

14 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 13:13:18.46 ID:YPVzV4nT.net
非有非無は「空」の説明やん

15 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 19:49:41.96 ID:R77tYFdF.net
立花隆氏は臨死体験は全世界でまんべんなく多数の報告が有り
これは疑うことなく有る事であり、統計手法を使って科学的な分析が
できると言っている。
一方、輪廻転生は報告例が圧倒的にインドに多くその他のエリアでは
非常に数が少ないので統計手法も使えずいつまでたってもオカルトの
域を出ないと言っている。

地域の文化で国をあげて輪廻転生を信じているんだからその事が報告例
を上げている可能性が高く信ぴょう性はかなり低いと言っている。

輪廻転生が有るか無いかは結局のところ人間には分からないという事だ。

16 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 22:27:35.39 ID:v9cEJFB4.net
 
>苦しみそのものから解放される永久の楽(涅槃)を得るための方便(方法)として
>一切皆苦(苦集滅道)とお釈迦様は説かれた

通常の世俗的感覚の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための方法として
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ  中村元訳
197 九つの孔からはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢
198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている
    しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす
200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない
201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む
202 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する
    なんとなれば、かれは(掴もうとしている『想いを手放し』)あるがままに見るからである
203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)
    と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである
  _  _  _

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生不滅なるニルヴァーナの境地に達した

17 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 22:42:35.35 ID:v9cEJFB4.net
 
>>16 の訂正

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −

この『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生不滅なるニルヴァーナの境地に達した

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派

これまで私たちは
この世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです

 − これを対処するために −

しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

18 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 23:19:10.68 ID:v9cEJFB4.net
 
「実有・実体ではないからこそ輪廻を繰り返す!」という意味↓

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは空だ!と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ 『 衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた 』

中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する

 − 無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていくために −

『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

中論觀法品第十八
八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する

中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける
如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない
無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける

19 :Annpedia:2015/09/28(月) 01:09:22.69 ID:KUtr0E1k.net
 
                 無

中国哲学では無の思想は老子に始まる。彼によると万物の奥には限定された
存在である人間には認識できない無限定の本体がある。これを言葉で言い表
すのは難しいので、否定詞の無を用い、暗示的、象徴的に表現しようとした。
この際、無は有の否定として有に対立する相対的な概念ではなく、”有は無よ
り生ず”といわれるように、有を有たらしめるもの、すなわち絶対的、無限定
的なものとされる。それゆえ道の別名ともいえる。荘子の無は人間の知識や
判断そのものの否定であり、形而上的な面よりむしろ個人倫理の究極目標と
してかかがえられる。

20 :神も仏も名無しさん:2015/09/28(月) 01:14:04.43 ID:aNUU44Pm.net
 
http://www.onedhamma.com/
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話
15/08/01 自分の意志の力だけで、マインドフルにはなれない
15/08/14 微細な身体が立ち現れる
15/09/27 信仰と科学がひとつなる時代へ

無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いに依存し、そして

四苦
「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する

根本的な苦を 『 生老病死 』 の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え

愛別離苦  愛する者と別離すること
怨憎会苦  怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦  求める物が得られないこと
五蘊盛苦  五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

21 :神も仏も名無しさん:2015/09/28(月) 01:35:46.56 ID:aNUU44Pm.net
 
>無から → 有が生じる

例えば
サーンキヤの場合は
『変化しないものから → 変化しているものが現れ(滅し)ている』ということであるらしい

プルシャは永遠に変化することがない
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる
  _  _  _

  _  _  _

ヴェーダにおける究極の解脱は
(「自分には自身の自我があるはずだっ!」と掴もうとしている想いを手放し、そして)
『梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と
  我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であると気づくことにより
  永遠の至福に到達しようとする』ということであるらしい

22 ::2015/09/29(火) 09:30:15.37 ID:q4Sc+p/u.net
「自分には自身の自我があるはずだっ!」ではなく、生きている間は自我は有るものであり
死んだ後はどうなるか分からん〜と言っているw 両者は全く意味が異なるだろw

生きている間も我は無い〜と言うのは隠居の言う通りキチガイだ。
仏陀の無我は全てのものはわが物にあらず〜でありそれを我が無いというのは一種の発展形
であり最初から我が無いなどとは言っていないw

23 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 10:49:27.11 ID:ZM0Iivfl.net
 
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)それ故に

「生きている間は自我は有る」と掴もうとしている想いに依存し、そして

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません
同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
智慧の光  8ページ参照
「近行定と安止定を具備しない止行者
  または刹那定を具備しない純観行者は
  解脱門(無常、苦および無我の観智)を得ることはできず
  出世間法を証し、悟ることはできない」

24 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 11:13:05.10 ID:q4Sc+p/u.net
そのようなキチガイの勧めに引っかかるのは自分の頭で考えない
おじゃるのような人間だけだよw

25 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 17:13:53.77 ID:ZM0Iivfl.net
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践していく)

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく
植えさせて頂く功徳が必要である

26 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 01:32:28.30 ID:p6ou9tfj.net
 
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51fzl5HGqFL.jpg
http://www.samgha.co.jp/
サンガジャパンVol.21(2015Summer) 2015/08/28
特集 輪廻と生命観

「仏教における最大の目的は
  涅槃を証悟して輪廻の輪から解脱することである」

仏教学者・木村泰賢(1881-1930)は

『(空という性質に依存して
  それ自体の自性だけで成立しているのではなく
  自分だけではなく周囲環境だけでもなく
  因と縁の双方の縁起に依存して
  異蘊相続に依存して
  地水火風空識に依存して)

 無我であるからこそ輪廻がある』

として、一般に「無我輪廻説」と呼ばれる論を提起した

27 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 01:53:01.30 ID:p6ou9tfj.net
 
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

(仮設としての)
「自我は有る!」と掴もうとしている想いに依存して

我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派

これまで
私たちは
この世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも
すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです

 − これを対処するために −

しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています
私たちは
無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

28 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 16:52:27.01 ID:BTzkNPDm.net
別に仮説だろうが何だろうが生きている人間の我は有るのが当然で、掴もうとしなくとも
有るんだよw

こざかしく、難解にとらえても、そんな糞な世界に意味はない。
意味のない世界で遊ぶ事自体が無駄というものだよ。

つまり人生を無駄に過ごすのが良い事か否か?小学生、幼稚園児でもわかることだがなw

29 ::2015/10/02(金) 18:48:03.73 ID:BTzkNPDm.net
それと前スレで言った世俗について再び言えば〜w

現在の出家は出家にあらず俗である。
仏陀後期の精舎の修行も出家と言い難く、俗に染まっている。
仏陀前期の野山を単独這い回り托鉢その他で命をつなぐのは出家と言えるでしょう。
より望ましいのは野山に単独裸一貫で籠り自給自足で托鉢にもよらず世間一般と完璧に縁を切る〜
という形でしょうw

そんな人間も今もいるかもしれないが、無名だろうから分からない〜w

30 :神も仏も名無しさん:2015/10/03(土) 03:45:47.20 ID:pk3brMuW.net
 
>世間一般と完璧に縁を切る

そして更に

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
大智度論  仏教用語辞典

非想非非想
有想を捨てるが故に非想といい
無想を捨てるが故に非非想という

「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
「想いの手放し」という想いも手放し
非想非非想を超えて
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れ想滅定が生起して
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
『 縁起したものを離れることがある 』 とブッダは説く
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ  中村元訳
204
この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達した
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり
(不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達し、そして)
彼岸に到着している。もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ

31 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 09:33:35.37 ID:LtbBQe6H.net
>>30 
こういう人の存在を、自己中心者だと非難したのが大乗教徒ではないのか?

果たしてこのような人は、周囲に対して何の影響もないものだろうか?

この教えは、全ての庶民に垂れた教えであった。そのうちのある者が成功したかもしれない。
しなかったものもいたのだ。まさかその成功しなかったものが大乗を唱えたのではないだろうね?

32 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 10:24:38.70 ID:3DStpR3n.net
無い志向は正解です。

33 ::2015/10/04(日) 10:37:57.97 ID:SWysgTLe.net
存在論としては非有非無で有るとも無いとも言えない。言えば誤。
人の人生としては有るというべきもの。これを無いと言う奴はキチガイw

34 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 11:17:19.09 ID:LtbBQe6H.net
>>27
>我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

永遠の真実と一体となった人間は、永遠に生きているのだが、反して不真実と一体になっている
人間もまた、永遠の不真実と一体になって生死を繰り返すものであると考えなければならない。

生があって死があるのだから、人は死ねば生もまた消滅するという言説は、縁起のことを言っていると思うが、
、それならば生にも死にも実体と言うものがない、と判断しなければならない。
かくして生死に拘泥しないでいるなら、それは仏教である。
その真実と一体となった命は、釈迦仏の命と区別できないものだ。

反して、生死があると固執しているものは、幻の命を永遠に持つのであるが、
その幻の命と言うものも、他者の命と自己の命の区別がないのだ。
虚妄であるがゆえに。

輪廻の世界は地獄の別名である。永遠の地獄に止まるか、解脱して永遠の平安に入るか、二者択一でしかないのだ。

35 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 16:13:34.00 ID:3DStpR3n.net
無の周りに有があるから有を感じてるだけや

36 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 16:27:28.63 ID:SWysgTLe.net
無というのは発言も無いんだよw

発言している以上発言者という有が有るw

つまり「無」と主張するのは自己矛盾の中にいてお話にならないという事だw

37 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 22:09:37.92 ID:SWysgTLe.net
宗教と哲学は言葉が違うのだから概念も違うのだろうが、
その実かなり共通部分も大きい。
宗教は人の生死を問うもの、哲学は物事の在り方を問うもの〜
宗教が生死を問うと言っても死後の世界を見てきたかのように
言うのは丹波哲郎と言えども偽者であるw

死を見る事は生を見る事であり、人生、生き方を反省する事に
他ならない。仏教の中心的な教えはいくつかあるが、中道と自灯明
はカナリ重要な教えでこれを踏み外して仏教信者を名乗る馬鹿が多いw
伝統馬鹿〜無い無い馬鹿〜神通馬鹿〜ww

私は非仏教徒で仏教信者でもないが、仏教の理性的な教えには共感するものであるw

38 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 06:29:52.46 ID:cNGuBbLy.net
 
http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
1.遍計所執性
これは情によって生まれた相である。存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である

2.依他起性
諸々の縁(四縁)によって生まれた諸法である。因縁和合して存在する

3.円成実性
諸法の理性である。円満、成就、真実の三義を備えている

世親『唯識三十頌』の三性を説く偈によれば
『彼是の分別によって種々のものが分別される
  この遍計所執性は自性が存在しない
  依他起性の自性である分別は、縁によって生ずる
  円成実性は依他起性が遍計所執性から遠く離れた事を意味する性質である
  したがって、これと依他起性は異なっている訳でも、同じ訳でも無い
  円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない』

39 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:00:38.30 ID:LKXv2lWE.net
宗教は奴隷学である

40 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:04:01.62 ID:cNGuBbLy.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

無明の暗闇に覆われて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ

存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)が現れる

 − これを対処するために −
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできないので
それ故に
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に
円成実性の立ち位置から客観的に
勝義無自性の立ち位置から客観的に
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています。私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

41 :λ...:2015/10/05(月) 07:07:26.12 ID:Fd0uq9Da.net
霊の世界は価値そのものが無いからな。
無いの志向は半面正解、半面不正解だろう。
なぜなら現世では確実にあるから。
それが色即是空じゃねーの?

42 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:26:41.58 ID:cNGuBbLy.net
 
無明の暗闇に覆われて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ、そして

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」

色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません

同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません
  _  _  _

  _  _  _

密集を看破してないので、それ故に↓これ

https://www.youtube.com/watch?v=bIgpgXthsls
魔界潜入!怪奇心霊秘ファイル
男の後ろに女の顔が映っている

43 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 11:03:56.54 ID:cNGuBbLy.net
 
 ↓密集とは?

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
パオ・セヤドー 智慧の光

第九章 色業処の基本理論 63ページ

二十八種の色法 64ページ

色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

44 :神も仏も名無しさん:2015/10/06(火) 09:23:44.54 ID:+IGMw/ST.net
>>36w

おじゃるが「無」と言えば言うほどその主張する主体が表に出るなあw
無が真ならば主張そのものも無でなければならず、主張が「有る」以上それは無ではなく有であるw

幼稚園児でも理解できる事が宗教馬鹿には理解不可能になる、確かにこういうのは一種の病気、しかも深刻な病気だなw

45 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/06(火) 23:45:48.40 ID:uqU/MlFK.net
 
ID:SWysgTLe ← 別の人

ID:cNGuBbLy ← おじゃる

おじゃるの場合は

http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派
認識は対象の形相を
仮設として
有していると考えています
  _  _  _

それ故に『無だっ!』と言ったことはない

因と縁の双方の縁起に依存して
この現世に現れ
やがて、いつかは儚きものとして
この現世から離れ
地水火風空識に還元して逝くときに
我愛と戯論(けろん)と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

無明の暗闇に覆われて、輪廻を繰り返して逝く

 ↑『無』ではないでしょ? 日本語OKでつか?

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

46 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:12:18.65 ID:Nfq95ex3.net
 
33 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 10:37:57.97 ID:SWysgTLe
36 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 16:27:28.63 ID:SWysgTLe
44 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 09:23:44.54 ID:+IGMw/ST

ID:SWysgTLe ← 紐くんでしょ?
ID:+IGMw/ST ← 紐くんでしょ?

(自分の発言レスにアンカー憑けても良いと思うけど)自分の発言レスにアンカー憑けているのかしらん?
  _  _  _

おじゃるの場合は
有相唯識派なので
認識は対象の形相を
仮設として
有していると考えています

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が
火の(仮設としての)自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
  _  _  _

『無ではない!』ということを理解するために、経典・論書・解説書を読んで、勉強した方が良いんじゃなイカ?

47 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:17:47.88 ID:g+mcn9r2.net
自分のレスだろうが繰り返しを避けるためにはアンカーは何にでも付けて可だろうよw

>存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う云々〜
は無の主張じゃないのかね? おじゃるこそ日本語OKか?ww

48 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:26:47.15 ID:Nfq95ex3.net
 
例えば↓この人の場合も

35 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2015/10/04(日) 16:13:34.00 ID:3DStpR3n [2/2]

「無の周りに 『 有がある!』 と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている!」 と言ってるんでしょ?

それ故に

無ではないんでしょ?

例えば

無であるのなら
現れて来ることもない
滅して逝くこともない

という意味でつよ 日本語OKでつか?

49 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:33:26.28 ID:g+mcn9r2.net
>>40
>存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)が現れる

>存在しないにも関わらず〜と前提を置くことは無の主張だろ? どっちが日本語OK?なのか?w 

50 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:49:43.49 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている。真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
「自分は存在している!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これに対して −
経典・論書・解説書の説明としては↓これ
http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
1.遍計所執性
これは情
(掴もうとしている想い)によって生まれた相である。存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である
  _  _  _

紐くんは『脳みそ、くるくるパー』なので理解できないかもしれないけど

おじゃるの想いと
経典・論書・解説書の説明は違うもの

ということ 日本語OKでつか?

本人の想いと
経典・論書・解説書の説明は違うもの

ということを理解するためにも
経典・論書・解説書を読んで、勉強した方が良いんじゃなイカ?

51 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:51:38.08 ID:g+mcn9r2.net
存在論では有ると言えず無いと言えず回答不可

人生としては明確に「有る」

これを「有る」と掴もうとしている〜などと詭弁を使う事自体が「無」を前提としており
無の主張と言われても仕方なかろうw 日本語OKか?w

存在論は有る意味勝義でありこれは回答不可だと繰り返し言っている。
私が有るというのは人生、人生における我、これは明確に有る。有ると掴もうじゃなく有るんだよw 掴まなくとも有るw

52 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:04:01.72 ID:g+mcn9r2.net
存在論では非有非無なんだから、>>38>>40で「存在しないにも関わらず〜」と無を前提とする事自体が間違っている。
存在するのかしないのか「分からない〜」を前提とせねば正解とは言えない。

こんな間違いを繰り返していては説得力ゼロだぞw

53 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:17:19.72 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの場合は
『仮設としての』という意味で、輪廻肯定派だけど

輪廻否定派の人の場合でも
とりあえず
経典・論書・解説書を理解した上で
経典・論書・解説書を前提として
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインド人にとって仏教を理解せしめるためには
その当時のインドの人にとって世間的な考えを一応認めて
さらにその理解のうえで
仏教を人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
  _  _  _

その当時のインドの人は『輪廻を繰り返している!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ていたので
それ故に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
仏教
『 輪廻からの解脱へ 』 と導いていく
  _  _  _

輪廻否定派の人の場合でも(相手の立場を考慮して)↑このように説明している

ということでつよ 理解できまつか?

54 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:28:02.67 ID:Nfq95ex3.net
 
例えば
紐くんの場合は
「存在論では非有非無なんだ!」と
掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という(仮設としての)自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が
火の(仮設としての)自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派
認識は対象の形相を
(例えば
  紐くんの場合は
  「存在論では非有非無なんだ!」と
  掴もうとしている想いが)

仮設として
有しているという想いが現れ(滅し)ているでしょ?
それ故に 『 無ではないでしょ?』

無であるのなら
現れて来ることもない
滅して逝くこともない

55 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:32:22.63 ID:g+mcn9r2.net
またまた詭弁を〜w

そもそも仮設〜云々と言うのが嘘くさいw 頭から信じていると言った方がスッキリするw
それに>>53のは対輪廻否定派ではなく輪廻肯定派(インド国民等〜)に対する説明だろうがw

出鱈目な日本語を使って面白いか?おじゃるよww

56 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:36:03.45 ID:g+mcn9r2.net
掴もう掴もう馬鹿のおじゃるは日本語を勉強しなおせw

57 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:41:55.97 ID:ckqYSb4y.net
輪廻否定派の人には、物質的に説明すればいいと思うよ。
つまり、死んで肉体が崩壊しても、質量保存の法則、エネルギー保存の法則で
肉体を構成していた、元素や熱などのエネルギーはこの宇宙に還元され
再び何かの物質になったりエネルギーになったり、あるいは生物の抗生物質になったりして
残る。
であるならば、身体と心は切り離せないように、物質にもそれぞれの性質があります。
心という複雑な性質はないけれど、物質の性質として変化し宇宙の中に存在し続けます。

58 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:49:33.54 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの想いと
経典・論書・解説書の説明は違うものである

おじゃるの『輪廻しているんだっ!』と掴もうとしている想いと

 − これに対して −
経典・論書・解説書の説明は違うもので

経典・論書・解説書の説明の場合は

それ自体の自性だけで成立しているのではなく

因と縁の双方の縁起に依存して (←これが『仮設としての』という意味でつ)
この現世に現れ
やがて、いつかは儚きものとして
この現世から離れ
地水火風空識に還元して逝くときに
我愛と戯論(けろん)と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る
無明の暗闇に覆われて、輪廻を繰り返して逝く


そして、この 『 輪廻からの解脱へ 』 と導いて逝く

経典・論書・解説書の立場を理解するために、経典・論書・解説書の勉強もしてみては?

59 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:54:46.76 ID:g+mcn9r2.net
>>57
輪廻という場合輪廻の主体を想定せねば輪廻という概念自体があやふやなものとなろう。
エネルギーが保存されるから輪廻が存在する〜と言う場合生前死後の輪廻の主体はどうなる?
生前人間Aだったのが死んで物質化(一部はエネルギー化するのか?)して死後の魂なりに姿を変え生前人間Aだった主体は
継続される〜とするのが輪廻であるなら、そのような事自体確かめようもない事であり結果輪廻否定派が多くなるんだろう。
現在輪廻転生を信じているのはインドが圧倒的に多数でその他は圧倒的に少ない。
報告例もインドに極めて偏っている。

つまり報告例はあれどもインドに偏っているので輪廻転生はエピソードに過ぎずオカルトの域を出ない。

60 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:59:47.90 ID:Nfq95ex3.net
 
>物質の性質として変化し宇宙の中に存在し続けます

そして更に
おじゃるの場合は
落武者の霊に睨み憑けられたことがあるので、そして更に
密集を看破できてないので
それ故に
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」

色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません
同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
パオ・セヤドー 智慧の光
第九章 色業処の基本理論 63ページ
二十八種の色法 64ページ
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

61 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:01:47.91 ID:ckqYSb4y.net
>>59
そうなんですよね。
それは、修行して体験的に理解するしかないんですよ。
インドじゃないけれども、上座部の仏教では、修行を深めていくと
生まれる前の胎児の頃とか、思いだすそうです。
その先をもっと体験できればどうなるのかわかるんじゃないでしょうか。

62 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:05:34.94 ID:g+mcn9r2.net
>>61
>それは、修行して体験的に理解するしかないんですよ。

瞑想で体験してもそのような変性意識下で見た世界を信じるのは個人的な事であり
普遍的とは言い難い。

夜寝て夢を見てそれを実在するんだ〜と信じるのは個人で好きにやってくれ〜という程度のものw

63 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:30:39.06 ID:ckqYSb4y.net
>>62
夜見る夢のように、夢から覚めて初めて夢だったと気づくように
普遍的に見えるこの現実も、覚める(悟る)ことによって儚い夢のようなものだと気づくように思うんですよ。
夜怖い夢みて夢から覚めて安堵するように、悟ることによって安堵すると思うんです。

64 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 02:45:14.15 ID:Nfq95ex3.net
 
>瞑想で体験してもそのような変性意識下で見た世界を
>信じるのは個人的な事であり普遍的とは言い難い

無明の暗闇に覆われ、そして、それ故に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)
誰もが(この現世において)成仏するわけではない(五性各別)

>夜寝て 『 夢を見てそれを実在するんだ〜と信じるのは個人で好きにやってくれ 』

『 無明の暗闇に覆われ、そして、そこからの解脱へ 』 と導くために
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』

諸法は夢の如しと訓練しなさい
『 この世界は(実有・実体ではない)夢が現れ(滅し)ているようなものである 』 と観察しなさい

坐(瞑想のセッション)の間は、幻術師としてありなさい
『(実有・実体ではない)夢を作り出している幻術師のようなものである 』 と観察しなさい

空という性質は
スッタニパータ
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し
21 激流を克服し
204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナに

と導くためには最上のものである

65 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:48:22.62 ID:g+mcn9r2.net
生物学者の立場からすれば生の命題がメインなのに比べて死の命題はサブらしいw
生命自体は種類は様々綿々と連なっているし近い将来人間が絶滅しても他の生命は残るだろうw

死ねば分かる事は死んで分かれば十分であり生きている間にアレコレ邪推する事は覚める(悟る)こと
にはならず、ブッダが無記で語らなかったのも当然である。

ブッダが無記で語らなかったにもかかわらず阿呆が瞑想で分かった〜などと言うのはとんでもない馬鹿者という事ですw

66 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:57:48.05 ID:ckqYSb4y.net
>>65
邪推はいけませんと。その通りだと思います。
ただ、仏典を信用するならば、「大念処経」という瞑想法が説かれた経があるように
瞑想は必要だと思うんですよ。
かなり具体的に説かれた悟りのための瞑想法だと思います。
それについては、おじゃるさんは詳しいと思います。

67 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 03:07:40.43 ID:Nfq95ex3.net
 
『瞑想で分かった〜などと言うのはとんでもない馬鹿者という事です』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し、生きていこう

68 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:20:51.01 ID:UTzKbRJZ.net
>>65
>死ねば分かる事は死んで分かれば十分であり生きている間にアレコレ邪推する事は覚める(悟る)こと
にはならず、ブッダが無記で語らなかったのも当然である。

仏陀が死を無記したというのは間違いだ。
死と言うものがないから、語らなかったのだ。
仏陀がその他のものをも無記したというのも間違いだ。

それは仏陀が、人を苦しみから解放することが自分の説教の目的であると言ったことに回答がある。
人は死を恐れる、人は病気を恐れる。人は老いを嫌悪する、その他の悩みを持ち苦しむ。
こういうことから解放するというのだから、その為の教えを完全なものとして説いているというのだから。

死はなく、病気はなく、老いはなく、一切の悩みはない、と説いているのだ。
なぜことさら、無記とする対象を仏陀は持っていたはずがあろうか。無いのだ。

仏陀は死については、死は生と相対的な概念で、生に執着することは死に執着することだ、と言っている。
生を大事にすることは死を大事にすることなのだ。だから、生きることは死との戦いになる。これは限りない苦しみなのだな。

そこで生死には実体がないとし、生死に執着してはならない。生死から離れることがニルバーナだと言っている。

69 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:40:13.35 ID:NyxLz0Ti.net
宗教は奴隷学である

70 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:02:52.97 ID:g+mcn9r2.net
瞑想なんて個人的な体験の結果は普遍的になり得ず、従ってそんなものは覚める(悟る)こととは無縁である。
ブッダが言う瞑想は単に心を落ち着ける程度の意味に他ならず、瞑想の変性意識をもって悟れなどと言っている
訳ではなかろう。

ブッダの無記は形而上の問題すべてについてが対象となる。
存在論しかり死後世界や輪廻転生しかし〜
無記についてのその他の解釈は採用しない。

71 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:22:24.75 ID:ckqYSb4y.net
>>70
大念処経の総説に
『比丘たちよ、衆生の清浄へ、愁悲の超越へ、苦憂の滅没へ、理種の証得へ、涅槃の現証へ至らしめる唯一の道、それはすなわち、四念処です。』
と書かれています。単に心を落ちつかせるための経ではないと思います。
http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c01.htm

72 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:43:23.82 ID:g+mcn9r2.net
大念処経は良いんだが、瞑想による変性意識下の独特の体験=悟りと固定して捉えるのがいただけない。
単に心落ち着けて座って大念処経を読むだけで十分でしょう。
大事な点は難しく捉えない事。一切皆苦なんてのは捨てても構わないw 楽に読み通して分かる部分だけ分かれば良い。

73 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:51:37.29 ID:ckqYSb4y.net
>>72
余計な観念を捨て、自己の体験に囚われずに、心を落ち着けて瞑想するということですね。

74 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 11:18:39.02 ID:Nfq95ex3.net
 
「(何かが)あるはずだっ!」と掴もうとしている想いを手放しする
そのために
何かを掴もうとしている想いを手放し
微粒子を知覚して
今ここに戻って、今ここに目覚める
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

75 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 12:07:01.94 ID:UTzKbRJZ.net
>>69
真実と真理の奴隷となる学問だな。

理性を持って万象を突き詰めていくと、真実に到達する。その真実から、
今度は、万象を説明していくと並行して真実の奴隷となるための教えが真理となる。

真理と真実は違う。

一般的に、方便と言う表現が盛んだが、この意味は、一般的には、嘘という意味合いで
使用されているようだが、特に日蓮教学では盛んだ、しかし、嘘と言う意味ではない。
それは真実へ至る方法と言う意味だ。それが真理なのだ。

ニルバーナに至る筏、彼岸に渡るために煩悩の激流の川の流れを渡るための筏、のことで、
真理の筏でないと、溺れてしまうのだな。

だから、真実と真理を認識し、真実と真理の奴隷とならなければ彼岸に渡れないのだな。

76 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 13:21:04.28 ID:g+mcn9r2.net
一切皆苦は仏陀の出家の動機ではあったろうが、苦行では悟れないと苦行を捨てたよね。
苦行を捨て快楽主義にも陥らず不苦不楽の中道を選んだ。
晩年はアーナンダに自灯明を説いた。

10点満点で一切皆苦(初期仏陀)を1点とするならば、中道(中期仏陀)は5点、自灯明(晩年仏陀)は10点の価値があろう。
仏陀の教えにも濃淡があるのだから一字一句全部10点で受け止めなくとも良いという意味です。>>72

77 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 13:52:39.25 ID:Nfq95ex3.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
四念処(しねんじょ)
大念処経(大念住経)
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
世間の貪欲と憂いから離れて
「心」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)心の働きである。と知覚して住むことである
世間の貪欲と憂いから離れて
「法」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)法の働きである。と知覚して住むことである
  _  _  _

それ自体の自性だけで成立しているのではなく
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
異蘊相続に依存して
色受想行識の仮和合が
仮設として(←『縁起に依存して』という意味でつ)
この現世に現れている

それ故に『実有・実体ではない』という意味でつ

仮に、現れ(滅し)ているので、それ故に『無ではない』でしょ?

78 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 20:08:25.66 ID:l5zROlrt.net
死は素晴らしい
感覚から解放されて
完全に緩むんだよ。
でも、すぐに夢を見始めてしまう・・・
オレはこれを止められる気がしない。
できることは、明晰夢状態でいる事くらいじゃないのかな。
勝手に世界は現れるのだから。
お釈迦様が言った無明は無始である。というのが終わりも始まりもないという気がしてならないんだ。

79 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 21:03:17.39 ID:UTzKbRJZ.net
道教に関尹子文始真経と言うのがある。道教の教えも、回教のコーランも、同じ源泉から出ている教えだ。
もちろん仏教と同じだということだ。

だから、仏教を補足するためにも、一回読んでみることは無駄ではない。

関尹子文真教は、説き方が大乗仏教に似ていると思う。
説き方が原始仏教と違うということだ。

80 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 22:04:10.86 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるは「脳みそ、くるくるパー」なので意味が↓わかりませんでした

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)


宇宙生成の至上の理をとらえてほしいままにしているが
ぴたりと合致することはできても言うことはできない
(宇宙を支配する原理と・個人を支配する原理が、同一であることに気づくこと。梵我一如?)

一宇篇
天の物は激しく流れる
(阿頼耶識も激流のごとく活動している。暴流の如し?)
(21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
   (204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達した)
  もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。スッタニパータ?)

人の事は錯綜している
(掴もうとしている想いに依存して現れてくる相で、存在しないにも関わらず、『有る!』と思う虚妄の執著である。遍計所執性?)

愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)

81 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 23:00:57.52 ID:Nfq95ex3.net
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)
一宇篇
愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)
  _  _  _

師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい
その教えが余すところなく伝えられたことを称して 『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』

受け継いだ?↓

http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
国土交通省  風水で見た都市のあり方

平安京のことはご存知の方も多いのですが、江戸というのも実は風水で造設されたまちなのです
関東平野にある江戸は必ずしも理想的な土地ではありませんでした
それを徳川家康や 『 天海僧正 』 が「言霊法」というものを使ってあちこちに霊力のある山の名前を与えています
また、もともと江戸のまちに流れてくる「龍脈」から吹き上げてくるよい「気」を集めて
それを循環させるために甲州街道、東海道をつくりました
それらと、富士山や秩父山系から神田明神を通る3本の「龍脈」が江戸を支えています

江戸は 『 天海僧正 』 らが将軍3代にもわたり、川の流れを変えてまで「気」が集まるように細工したので
現在でもまだその影響が残っていて、日本は東京を中心に考えられるようにできているのです

82 :神も仏も名無しさん:2015/10/08(木) 19:41:55.60 ID:4TulCA3K.net
>>80−81
関尹氏は、老子の弟子と言うことになっている。老子から道について話してもらっていて、それについての熟考を重ねているのだ。
関尹氏がこの経典を執筆するにあたっては、かなり自由な気持ちで書いている。
だから初めのころは、初心者にはさっぱり解らない、ということになる。
後半まで読んでみると、それがゴータマの教えと同じであることが、判ると思う。

大事なところは、老荘思想が、どのようなものを仏教に言う、実相ととらえているかである。
どのようなものを真実ととらえているかである。それは「一」なのだ。

83 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 00:40:05.13 ID:wvCiPHpm.net
 
関尹子文始真経  二柱篇
椀・盂・瓶・壷・甕・盎のようなものは、すべて天地を建てることができる
兆亀・数蓍・破瓦・文石は、すべて吉凶を告げることができる
これらは天地万物を成り立たせる原理を知っている
一つ一つの物はこの原理を包含している
物という物はすべてこれを包含し、どれかがどれかから借りてくるということはない
自分の精があちらの精と合し、両者の精が掴み合って神がこれに応じる

一羽の雌と一羽の雄では卵が生まれ、一匹の牝と一匹の牡では胎児が生まれる
形はあちらの精であり、理はあちらの神である
愛するのは自分の精であり、観じるのは自分の神である
愛することは水であり、観じることは火である
愛することが執着して観じることの原因になるのが木であり
観じることが存在して愛することに吸収されるのが金である

 −↓これは輪廻を前提としているけど −

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
(地水火風空識に依存して)
人が死ぬときに
我愛と戯論と善悪業に依存して、中有身が現れ(滅す)る
この中有身が次に生まれる処を求めて母胎に入り
精子と卵子が結合するとき
中有身は滅して同時に生有身が生じ
阿頼耶識がこれに結合し、種子は成長し胎児を形成し出生に至る

84 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 07:58:24.43 ID:CH+NWXs5.net
文始真教も聖人は無我であることを知っているというが、ここのところの説明が、仏教の無我と合わせて
考えてみる必要があるともう。

仏教も無我とは言うものの、仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ。
で、この仏性こそ実在する真実であるというんだ。

我々は、自分に我がないことの説明として、自分の身体、自分の感情「心」は縁起法則の所産である、故に自分には我が無い、と結論する。
これは、自分の身体、自分の心を自分と見做している人に対しては、有効だ。
しかし、自分の身体、心は縁起の所産でそれは幻にすぎないとみなしている人に対しては、どうだろうか?
「人は無我の存在だ」というと、その人は、「いや、そうではない、自分は自分で、この自分がないとすれば一切がなく、真実の存在もなく、
自分は永遠に、心の平安、つまり安息を得ることはできづ、こういう主体がないとすれば、自分以外の一切のものだけが存在することになり、
それこそ破滅に他ならない。むしろ、自分以外の一切がないこと、自分だけが存在することで、自分は平安を得ているのだ。
自分は自存者だ、。」というのではなかろうか?そしてそういうのは首肯できることではないか?

こういう人の見地が文始真教の著作者の心境ではないだろうか?彼は幻の成り立ちを説明してるのだはないだろうか?

85 ::2015/10/09(金) 10:19:26.40 ID:QATjx1mC.net
何度も繰り返し言うが、
仏教の無我は本来非我というべきもの。
つまり「我が無い」ではなく「全ての物は(例え自分の肉体であっても)我が物に非ず」という事。
コレが発展して後に我が無いという事につながるだけ。
仏教では○○が実在する〜などと言う事は言わない。ココが第一に間違い。

結論としては存在論としては無ではなく、非無、非有。有るのか無いのか分からないというもの。
人間の人生としては(存在論としてではなく)有る。こんなのは当然すぎて問題にもならない。
ところが無い無い馬鹿は何でもかでも無い〜w 有るとでも言おうものなら、「有ると掴もうとしている〜」等と
糞な批判を垂れるw 全く馬鹿につける薬は無い。 コレは無いと断言できるww

86 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:04:30.52 ID:CH+NWXs5.net
>仏教の無我は本来非我というべきもの。

非我とは「我にあらず」と言う意味だろう?
それを言う人に「それでは何がアナとの我なのか?」と聞けるんではないか?
とすれば、その非我と言った人はなんと答えるだろうか?

87 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:13:29.77 ID:Hh3INdr9.net
>>85
そうですね。
無我とは、それ自体で成立することができない。
つまり、他に依存して成り立っているに過ぎない儚きもの。
それを確固としたものとみなすことによって、さまざまな煩悩が出てくると。

88 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 14:23:45.32 ID:QATjx1mC.net
>>86
すでに>>85で言い尽くしていて疑問の出る余地はないと思うが?

「我は無い」とは最初は言われていなかった。
最初は所有についての説法だった。
我の所有するものは一切ない。
自分の子供も自分のものではないし、自分の肉体ですら自分のものではない。
これを突き詰めていって後に、では我って何なんだ?我って無いんじゃないのか?
で、無我→我がないに発展していった。

それはそれで構わないが、存在論としては無いのではなく有るのか無いのか分からない、不明であるし、
人生としては個々人にとってそれは有るというべきもの。
無い無い馬鹿は、存在論ですら無いとは言えないのに無いという阿呆である。
無いとは言わなくても「有ると掴もうとしている〜」などと批判する事自体無いと主張しているに等しい。
人の人生は有るし存在論では有無不明。これ以外の回答は却下する。

89 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:07:17.88 ID:wvCiPHpm.net
 
『あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
  有法、法体(ダルマ)を想定し
  この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)』を主張した 『 説一切有部 』

 − これに対して −

『(法体も三世も、すべて)無自性・空』を主張して説一切有部の説を批判した 『 大乗 』

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経(大乗経典)
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

>仏教も無我とは言うものの
>仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ
>で、この仏性こそ実在する真実であるという。(そして、それ故に)

『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

90 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:17:51.26 ID:wvCiPHpm.net
 
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと↓そのために?

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

91 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:42:20.96 ID:QATjx1mC.net
至道無難唯嫌選択〜

これを文字通り取って取捨選択なく生きようとしたら即死んで生きられまいw
何でもかでも厳格に一字一句全部吸収しようとする人間がいるがこういう生き方自体が間違い。
経典を読むのもしかり、仏教の格言の受け入れ方もしかり〜

至道無難唯嫌選択はおじゃるの好きな「掴もうとするな〜」という教えに近かろうw
これは掴むなではなく、掴んで構わない、選択しても大いに結構w〜それを自分で掴んでいる
選択していると認識していれば問題がない。〜という事だw
この何を選ぶか自由である〜というのが人生に他ならない。何ものも選ぶなかれ〜という不自由な
生き方を勧めているわけではないのは明らか。

問題があるのが、自分は選択をしていない掴んでいないと誤った認識下に選択、掴んでいる場合だ。
こういうのは救いようのない病気で治しようがないかもしれない。ご愁傷さまの状態だw

おじゃるよ、お前さんはこのご愁傷さまにカナリ近いぞw

92 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:33:51.27 ID:wvCiPHpm.net
 
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/08.htm
至道無難  禅語に親しむ

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ
その揀択がいけないのだ
わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう

 − これを対処するために −

(『何かが有るはずだ!』と掴もうとしている想いを手放し、そして
  余念を交えず、ただひたすら座禅する。只管打坐をして)

いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である

(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

93 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:37:07.59 ID:QATjx1mC.net
>>92
やはりなw

ネット情報や他からの解説に100%頼る、その姿勢が既に病気w
自灯明とは己で考え判断し選択する事。何を自分が選択しているか認識しろ。
他人の指図を受けるなw

94 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:53:17.95 ID:wvCiPHpm.net
 
自灯明法灯明(自分だけでもなく周囲環境だけでもない)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
正見は「四諦の智」といわれる

この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される

95 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 19:35:39.16 ID:QATjx1mC.net
付け加えて言うならw

リンクを張らずに言う練習をする事だw

リンクを張って参照を示すのは自分で考えていない証拠w
まあw 証拠とまで言わずとも楽しようとしている事には間違いなく
それが病気の進行を進める。
おじゃるよw 再起不能も近いぞw

96 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:36:45.80 ID:CH+NWXs5.net
>>93
おじゃると言う名前なのか?
適切に真理の教えとされているものを我々に開いてくれている。

般若経には、その経典を読誦するだけで、成仏の境涯に近づくという文句もある。

おじゃる氏のレスがないなら、このスレの価値は激減する。

>>89
>いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である
(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

そういうことだろう。

97 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:51:46.37 ID:QATjx1mC.net
価値の激減大いに結構ww

そんなものに「価値」が無いのだからw

98 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 22:03:24.01 ID:QATjx1mC.net
ちなみにw

この仏教関連スレには名前が付いている常連がいるw
その私の感想を述べるのも一興だろうw

パーピマン:暴力反対〜と言いながらアサルトライフルで撃ちこむキチガイw
セブン:説明が驚異的に下手糞w 比喩などは比喩になっていない〜w
閻魔:禅派で言い方がワンパターン、人間的としての良さはあるかもw
一代:知らんw 絡んだことがないからねw
おじゃる:自分の考えを持っているのかいないのか?リンクは止めれ〜w
机:閻魔氏と近いんじゃないの? 良くは分からんw
紐:極めて常識的〜w 仏陀の中道の実践者だろうwww

99 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 01:33:42.95 ID:cl4bhc2h.net
 
>おじゃると言う名前なのか?

おじゃるの場合は
小学4年の頃に
落武者の霊に
睨み憑けられてから
それを切っ掛けとして

『 隠されたもの 』 を語源とする
目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する
そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系 『 オカルティズム 』 に興味を持つようになりました

一代先生  真言宗の阿闍梨さま?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)
セブン先生 臨済宗?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

通常、仏教の場合は
『我を捨てなさい』と導いていく
(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

これに対して
紐くんの場合は
『無明の暗闇に覆われている!』とういことを知らないらしいので
『ぼくの意見こそが正しいのだ!』と勘違いしているらしい

100 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 02:09:54.98 ID:cl4bhc2h.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存し、そして

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設として(『(空という性質なので)縁起に依存して』という意味でつ)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続け、そして

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

101 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:35:21.75 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/3paauk.htm
http://web.archive.org/web/20070405093323/www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/
http://web.archive.org/web/20070108174853/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tikenmokuji.htm
http://web.archive.org/web/20060812045011/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tiken6.htm
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

如実知見  第六章  縁起の法

…無明とは比丘(実有・実体ではないもの)を実体と見なす錯誤であり
渇愛(タンハー)とは比丘に生まれることを渇望することであり
取は比丘としての生活に執着することである
無明、渇愛(タンハー)、取の三つによって、煩悩輪が構成される…

…無常、苦、無我の三相を足がかりにして、名・色法を観察する観禅(ヴィパサナ)を修行して…

…修行者は無明が滅すれば色法が滅することを識別することができる
そして、このとき、修行者は現象(法)の消滅、停止を認知できるようになるのである…
  _  _  _

  _  _  _

(無明が滅するまでは、)無明の暗闇に覆われて
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

102 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:59:34.60 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)

…決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』 のである
  _  _  _

  _  _  _

(心作用が滅するまでは、)心作用に依存して
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

(この現世において肉体が滅しても
  我愛と戯論と善悪業に依存して
  異蘊相続に依存して
  輪廻を繰り返して逝く)

103 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 07:38:19.43 ID:CNCyjjOc.net
>通常、仏教の場合は
>『我を捨てなさい』と導いていく
>(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

コレも一面では正しいが、全面的に取ると阿呆に陥りまさにおじゃるがソレだw

「我を捨てよ」と言っているのも我な訳でw 無我で我が無いと言うのと構造的には同じだw 
言っている我が有るのに我は無い〜w 捨てないから主張している「我は捨てよ」〜w

主張はOKだし、むしろリンクを張らないと書き込めないおじゃるが既に病気で思った通り治らないな。

104 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 08:17:31.62 ID:X7QD9Vrq.net
無我という理解こそが真実で、その真実こそ優がなのだ。仏性なのではないのか?

ここで人が論じる時は、対話として行われるのだが、その双方の立場を無視しては、大混乱になるのだ。

釈迦仏が苦しむ凡夫に話す時、凡夫が凡夫に話す時、凡夫が釈迦仏(解脱者)に話す時。解脱者同士が話す時、
この識別がないと、無我、有我、実相、空、無相、一相などの根本的概念も混乱を招くだけであろう。

待機説法と言うのはこのことだろう。

105 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:16:13.73 ID:cl4bhc2h.net
 
>我が有るのに我は無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

実有・実体ではないからこそ
それ自体の自性だけで成立しているのではないからこそ
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して

地水火風空識に依存して

五蘊の仮和合が
この現世に
仮設として(縁起に依存して)
仮に現れ
やがて、儚きものとして
肉体が滅しても
地水火風空識に還元して逝くときに

我愛と戯論と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

106 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:40:31.11 ID:cl4bhc2h.net
 
例えば
紐くんの場合は
経典・論書・解説書を理解することが出来ないので、それ故に

>無我(という意味も理解できないので、それ故に)混乱を招いている

対機説法(たいきせっぽう)
教え、そして導くために
その相手の精神的能力(→機根)や性質などに応じて
それにふさわしい手段で説法することをいう

四悉檀(ししつだん)
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
対治悉檀(煩悩を打ち砕く)
第一義悉檀(真理に直接導こうとする)

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

中観自立派の場合は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

 − これに対して −

中観帰謬派の場合は
(この世俗の世界は、それ自体の自性だけで成立しているのではないので、それ故に)
世俗の次元でも自相(自性)を否定します

107 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 10:35:03.39 ID:PRUe1EkX.net
>>99
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
>机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない


閻魔先生は、「仏教ではなく仏法」という言い方を好みますが、それはまず「仏教は一如の法門」を前提としているからです。
だから「一如」という観点なら、彼のレスは全くブレはない。
僕はそれが本来なのかと思いまね。

だけど「一如も何も関係ねー」ってんなら、皆好き好きに書き込みする訳だけど、そういう連中は2ちゃんでメジャーです。
むしろ閻魔先生はマイナーな方で、目立ってくる。

まあ実は僕はそれが不思議で、宗教板をたまに覗いたりするんだがね。
勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思いますよ。
ただ「一如」ということでは彼は達観しちょるようですね。

108 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 10:55:35.36 ID:cl4bhc2h.net
 
ID:PRUe1EkX

机先生↑乙です

>勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思います

何回も説明してるけど、おじゃるの場合は『脳みそが、くるくるパー』なので

認識は対象の形相を
仮設として(縁起に依存して)
仮の現れとして(仮の滅として)
『有している!』と考えてます

この認識は対象の形相を有していると考えいる『有相唯識派の立場から説明せよ!』と何回も説明してるけど

閻魔先生も
机先生も

有相唯識を勉強したことがないので
そして更に
世俗諦としての説明が欠落しているので

『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

109 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:03:02.13 ID:CNCyjjOc.net
無我で我が無いのが真ならば、無我という主張すら無いだろうw
無我という主張が「有る」以上その主張する我は有るという事になる。

幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿に陥るとまさに頭がくるくるパーになり理解できなくなるw

110 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:16:55.71 ID:cl4bhc2h.net
 
>無我で我が無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

実有・実体ではないにも関わらず

『(実有・実体が)有る!』 と思う虚妄の執著である 『 遍計所執性が現れ(滅し)ている 』

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

111 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:21:13.99 ID:CNCyjjOc.net
そもそも存在論としては「有る」とは言っていないw

非有であり、無いとも言わない非無であるw

「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいるぞw

112 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:41:49.22 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『存在論としては「有る」とは言っていない
  非有であり、無いとも言わない非無である
  「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいる!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

113 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:43:31.48 ID:CNCyjjOc.net
掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだがw

114 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:46:08.46 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだが!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

115 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:14:29.10 ID:PRUe1EkX.net
>>108
>『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

有相唯識も無相唯識も、それは唯識という概念における「有相」と「無相」の違いであって、
この違いについては、殆んど意味はない。つまり「自分はどう捉えるか」だけの話なのだ。

また唯識においても、それは唯識という概念を形成するだけのことであり、概念が必ずしも仏法それ自体を指示している訳ではない。
つまりそれは、概念なんてどうでも良い話なのだ。

おじゃる氏は、どうでもいいことに頭脳を集中して使う為に肝心な部分を見落としてしまうのだ。

世の中には、どうでもいいことが殆ど99%で、肝心なのは残りの1%なのだ。
勉強でもなんでもそうだけど、余計なことに全エネルギーを費やしてしまうと、それだけで疲弊だけしか残らない。
仮に仏教に関心があるのなら、「一如」ということだけで全身全霊を掛けた方が良いのでは?
これだけでも、何らかのヒントがある。

勝義諦&世俗諦は、ただ「不一不二」における属性でしかない。
       <机龍之介>

116 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:21:17.61 ID:cl4bhc2h.net
 
>>115

『世俗の立ち位置から説明せよ!』ということ

机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

117 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:34:02.45 ID:PRUe1EkX.net
>>116
>机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

僕は2ちゃんをやり始めたのは、ウインドウズMEだから2000年頃だ。
そして暫くして閻魔氏の書き込みを読むようになって、「ああ凄いな」と関心したもんです。
僕の言いたいことを彼は明確に指摘してきた。これは一代氏との絡みなどは圧巻でしたね。

閻魔氏の書き込みは、ちゃんと文章の読める人であれば充分に伝わるんですよ。
「言葉が通じない」ということは断じて無いです。僕が保証します。

つうか、閻魔氏くらいかな?僕と話が通じたのは。
勿論、僕は彼とは絡みはしないですがね。
何故かって?あはは、僕は絡みをせんでも・・・充分に文章が伝わるからですよ。
禅ではこれを「以心伝心」とか言うんですがね。

118 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:42:05.75 ID:cl4bhc2h.net
 
>「言葉が通じない」ということは断じて無いです

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

119 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:53:05.35 ID:PRUe1EkX.net
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
> 机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです。
その「行き詰った」状態を閻魔氏は「ゲシュタルト崩壊」と言ったのです。

つまり行き詰ってから、それをどう解釈しようか?という心の動き、
その動きそのものを崩壊せよ。ってのが彼の主張でして、
その壁を乗り越えて・・・・涅槃到達、それですね。

だから「ゲシュタルト崩壊」において、彼が何を言いたかったのか、それを解釈できればオッケ―ですね。

120 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 13:06:30.72 ID:PRUe1EkX.net
>>119のつづき
「行き詰った」状態というのを閻魔氏は経験している訳で、
つまりそもそも「行き詰った」状態というのはどういうもんか?が分からなかったら、
そもそもゲシュタルト崩壊はない訳です。

「行き詰った」状態のことを禅では、大疑とか疑団とか言うんですけど、
この状態というのが開悟の切っ掛けとされる。

つまり「大疑のもとに大悟あり」はこのことを意味する。
    <机龍之介>

121 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 13:58:26.37 ID:cl4bhc2h.net
 
>世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです

『その「行き詰る」その時までは ↓ これが必要だ!』 ということ

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html

第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は

ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに

究極なるものの重要性は説き得ない

究極なるものの重要性を理解することなしに

解脱(涅槃)は達成され得ない

122 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 14:39:28.86 ID:PRUe1EkX.net
>>121
>第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

あのですね、なにもそう真剣に考えることは無いんですよ。
そんなことは考える必要性はない。つうことですよ。

大疑ってのはですね、もっと素朴な根源的な本能的な、そして最も原初的な疑であります。
それは人間が懐古の昔に返るような・・・
ああ、「父母未生以前の本来の面目」とか言うんでしょうか、こんな根源的な疑ですよ。

ほら、子供が馬鹿馬鹿しい疑問を呈することがあるでしょ?
いや実は馬鹿馬鹿しいことではなく、最も根源的な疑であるかもしれません。

人間の知識は、そういった根源的な疑を覆い隠そうとする。
知識は人間を盲目にする。ってことではないでしょうか?

禅語には「平常心是道」があります。いちど検索掛けたら宜しいかと?

123 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 14:59:26.16 ID:cl4bhc2h.net
 
>知識は人間を盲目にする

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

実有・実体ではないからこそ
仮設としての(縁起に依存して)

末那識は、阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する

我見(個人我についての妄信)
我痴(個人我についての迷い)
我慢(個人我についての慢心)
我愛(個人我への愛着)と呼ばれる

なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する
さらにその他に感触などを随伴する

この末那識は自我意識と呼んでもよい
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

124 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:10:09.02 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page250.html
平常心是道
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた

それ故に
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか?
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう

https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
想いを手放し、生きていく  スマナサーラ

125 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 15:27:15.27 ID:PRUe1EkX.net
>>123
>この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

阿頼耶識に薫習されても、薫習されなくても、人間は腹が減れば飯を食いたくなる。
つまり理屈や理論では、腹は満たされることはない。
という非常に現実的なことを、ともすれば人間は気づくことはない。

現実的とは”在ること”であって、在ることを突き詰めていくと、ついには行き詰る。
だからそれだけを考えていけば、他のことは全く問題にはならない。
ただ人間がそれが出来るかどうか、だけが問題。

しかし先達はそれをやってきた訳だし、やってきたからこそ道元の而今も言葉自体が生きてくる。
これをどう解釈するかは、個人個人は自由だろう?
自由だけども、この「而今」という言葉自体が人生の羅針盤になる人間もいる訳で、
閻魔先生とか机龍之介はこの範疇にいる。
ただそれだけのことだ。

126 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:58:55.42 ID:cl4bhc2h.net
 
>而今

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく、植えさせて頂く功徳が必要である

127 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 16:32:04.35 ID:PRUe1EkX.net
>>126
僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。
この熟語を最初に知ったときは、ある種感動がありましたね。
ああ、自分の探していたのはこれなんだ。と

その言葉の意味や解釈よりも、ひとつの言語なりが心の中にスゥ〜っと入ってくるもんですよ。
言葉というのは、それ程に魔力というのか魅力ってのがあるもんです。
ただそういう機会に遭遇するかどうかは別問題ですけど。

所詮ネットからの情報では、他人の言葉の借り物ですよ。
だからそういう意味において、僕はあまり感動することはない。

禅というのは、ただただ「自分と向き合う」だけです。
本当に自分と真っ正直に向き合うと、自分というのが嫌になるかもしれません。
でもそういう嫌な自分と向き合うことも大事かもしれませんですね。
そうでなければ「自分と向き合う」っていっても、それは噓になりますから。

でもそれを恐れないことも大事ですし、ただ上辺だけのことでは全てが中途半端になってしまいます。
実は自分というのは、本当は一番謎なんですよ。
こういうことを、たまには考えた方が良さげです。

128 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 17:50:39.94 ID:cl4bhc2h.net
 
今この現世に現れている

「 この肉体は自分のものである!」 と掴もうとしている想いを手放し、そして

http://www.myoshinji.or.jp/houwa/houwa_b02/20080704.html
京都花園  臨済宗大本山  妙心寺

生死一如
仏教では
(「生が有る」「死が有る」という分別を掴もうとしている想いを手放して)
「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません
二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい
( ☆ 妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から客観的に観察して ☆ )
『 生死の差別を超えること 』 を説いています
つまり、生があるから死がある
生の中に死があり、死の中に生があるのです
したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません
だからこそ、命ある限り精一杯生きて、そして(精一杯)死んでいくのです

(誰もが(この現世において)成仏するわけではないので(五性各別)
  我愛と戯論と善悪業に依存して、輪廻を繰り返して逝く)

129 :123:2015/10/10(土) 18:13:24.44 ID:Jk6C3oDi.net
128.
生死一如の理解が、それでは失格である。

130 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 18:25:10.65 ID:cl4bhc2h.net
 
乙です

123くんの場合は

経典・論書・解説書を読んだことがないんでしょ?

経典・論書・解説書を読んだことがない、123くんに何で

>生死一如の理解が、それでは失格である

ということが、わかるんでつか?

ご教示願いまつか?

131 :123:2015/10/10(土) 18:35:30.24 ID:Jk6C3oDi.net
130.
経典を読んで理解する奴はバカである。
それを紹介するのはバカの上塗りである。
そこで自分が優位に居ると思うのがバカの連続である。
おじゃる君の才能をもってしても、そこが理解できないことが重要である。
おじゃる君、悟れかし。

132 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:09:42.58 ID:LTTnFq72.net
経典を読んで理解したことを自分の体験や、
いろんな現象にあてはめて考えることが大事かなと思います。

133 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:10:08.27 ID:cl4bhc2h.net
 
>経典を読んで理解する奴はバカである

世俗諦(せぞくたい)としての理解なしで

勝義諦(しょうぎたい)の立ち位置にいるのかしらん?

123くんの頭の中身は、机先生と同じ、レベルなのかしらん?

机先生!良かったでつね?

机先生と同じ、レベルの、123くんが現れ(滅し)て
  _  _  _

  _  _  _

一応、念のために説明しとくと
神通力を得るための四如意足(四神足)も
智慧とは何か?
思惟とは何か?
観察とは何か?を教学として勉強してから
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践していく
という順番、段階がありまつ

134 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:12:34.05 ID:LTTnFq72.net
山下和尚は手放した方がいいと思う。

135 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:26:54.55 ID:LTTnFq72.net
あとスマサナーラも手放した方がよい。この人は思いやりがない。
法を広く学ぶのはいいけど、正しい教え、正しい師に従うべきかなと思います。
師を選ぶ際に、注意すべきことは下記のサイト
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
師を選ぶ前に吟味する  第六句――善い師に従う ラマを吟味するポイント
ここに分かりやすく解説されています。
悪い師について教えを学ぶことの恐ろしさについても解説されています。

136 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:28:54.62 ID:cl4bhc2h.net
 
>山下和尚は手放した方がいいと思う

実践したことはないけど教学の一環として毎週↓聴いてます

http://www.onedhamma.com/
http://www.onedhamma.com/?p=5136

15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話

テーラワーダ側の立場と、大乗の立場の議論でつ
かなり面白いので、時間に余裕があるときに聴いてみてください

今の現状においては
テーラワーダ側の立場の、魚川祐司氏の説明が、わかりやすくて良いと思いまつ

(これを聴いて理解するためには、最低限以上の経典・論書・解説書の理解が必要でつ)

137 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:31:47.64 ID:LTTnFq72.net
論争する師はお呼びではないのです。

138 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:45:58.07 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4796660321/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

般若心経は間違い? (宝島社新書) – 2007/8

アルボムッレ スマナサーラ (著)
今は、もう持ってないけどこれ読んだ時は面白かった
今でも中観も般若心経も理解できてないけど
この本読んでた時は
今よりもっと理解できてなかったので
それ故に、この本は面白かった

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 – 2010/5

今は、この本の
「それ自体の自性によって成立しているのではない」
というところが
少しは理解できたかも?

139 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:53:34.14 ID:LTTnFq72.net
>>138
スマナサーラさんは以前の発言で「自殺者は腰ぬけ」とありました。
自殺した人はもうこの世にはいないんだけど
遺族はいっぱいいるわけですよね。
思いやりがなく、かつお釈迦さまもそんなことは言ってませんね。

ダライラマ法王は、素晴らしい師だと思います。
>>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です。

140 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:27:02.16 ID:VTR9QM37.net
質量ゼロといわれたニュートリノも、質量があることが明らかになった。
それは、スーパーカミオカンデの観測装置によって、人間の五感の知覚に
より確認された。これでこの宇宙には、「無」は存在しないことが証明
された。

釈迦の身体にも、太陽からのニュートリノが、毎秒10兆個通り抜けている。

釈迦の「無」は、これにて終了。

141 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:31:31.70 ID:Rjkqvc3y.net
質量があると掴もうとしていると難癖つける人間がいるからなあw

142 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 01:40:03.03 ID:Rjkqvc3y.net
自殺者が腰抜けというのは一面では正しい。
精神病(うつ病など)が原因で自殺する人間は多い。
それは病気なのだから可哀そうではあるが仕方のない事なのかもしれない。
そういう病人の周りの人間は大変かもしれないが自殺をしないように注意する必要がある。
腰抜け〜というのはこれから自殺しようとする人間に対する叱咤なのかもしれないな。

ダライラマは肉食で専属の料理人を常に同行させているのが俗だとは思うな。
そのような姿勢はブッダの生き方とは本質的に異なるだろう。
布施で出されたものは肉でも食って構わないという意識があるにせよ、自ら進んで肉しか食わない〜というのはねw
しかも専属の料理人ってww

143 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 04:27:04.55 ID:Rjkqvc3y.net
自殺とドラッグには全く嫌悪感があるな。

大麻やLSDで悟った〜なんてのは言語道断だな。

144 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 04:55:16.64 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2

ニュートリノが時間を感じていなければ
ミューニュートリノからタウニュートリノに変化することはないのだ

ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測されたことは
ニュートリノが光速よりも少し遅い速度で動いている証拠となる

ニュートリノが光速で動いていないということは
ほんの少しでも重さをもっているという結論になるのだ

スーパーカミオカンデでの発見後
人工的につくったニュートリノを使った実験でも
ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された

30年間破られることのなかった標準理論は、このようにして倒されていった

145 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 05:33:03.81 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
 → ニュートリノが光速よりも遅い速度で動いている証拠となる
 → ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住(変化しないもの)であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるもの(自性・自相)と考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつ(周囲環境への影響力がある)とした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されている(死によっても失われない、業・カルマ)と考える

 − これに対して −

釈迦は
このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常(変化するもの)である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると導いた

146 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:38:18.21 ID:Rjkqvc3y.net
仮という表現自体が美しくないww
アインシュタインが宇宙定数なんてのを引っ張り出したような醜さがある。
こういう美しくないものは真実ではないんだな。

真実は単純な構造で美しいと感じさせるものだ。
仮〜なんて言っていて騙せるのは幼稚園児以下のキチガイだけだろうよw

147 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:46:12.22 ID:rZEsyOW9.net
 

>>1

無の意味を取り違えている。
無は何も無いことではない。

無とは言葉にすれば主観と客観の対立がないこと。

無念、無相、無住というが、
おもいが無いことでもカタチが無いことでも住むところが無いことでもない。

念は真如の現れ。そのおもいを脳が「自分が」と思い違いをして妄想する。
カタチは認めながらカタチにとらわれないのが無相
無住はひとの本性


 

148 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:56:16.01 ID:Rjkqvc3y.net
仏教では当たり前の事は一般的には当たり前ではないからねえw
無が何も無いという意味ではないのなら前置きで断りを書くべきだな。

こんなのは仏教では常識〜というのは一般では非常識〜かもしれんからねえw

149 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:09:52.66 ID:rZEsyOW9.net
 
>>148

経典は手段を説かない。目的を説くだけ。

 

150 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:13:02.35 ID:Rjkqvc3y.net
八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?w

151 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:19:20.92 ID:Xw3IuKIs.net
 
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住
変化しないもの
自性・自相
死によっても失われない、業(カルマ)

 − これに対して −
仏教の場合は
業(カルマ)が、死によっても失われない常住なものであるのなら
無限に続く、輪廻の運命から抜け出す(輪廻から解脱する)ことは出来ない
実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
仮設としての(縁起に依存して)
仮の現れとしての
この現世に
色受想行識の仮和合が現れ
そして、やがて、いつか儚きものとして
この現世から滅していくときに
地水火風空識に還元していく

152 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:35:21.36 ID:rZEsyOW9.net
>>150
すべて仏のまねごと
本来目的であるということ
習い事はマネから

153 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:37:02.97 ID:Xw3IuKIs.net
 
皆さま乙です
皆さま早起きでつね?
「昨日の夜から起きていた」とか?

おじゃるの場合は
内臓の働きが悪いので長い時間、熟睡することが出来ずに
目が覚めてしまうので絶不調でつ
  _  _  _

  _  _  _

>>144 >>145 >>151 の続きでつ

実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して、それ故に

>ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された

と導いていく

(『実有・実体であるのなら変化することが出来ない!』という意味でつ)

154 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:40:35.27 ID:Rjkqvc3y.net
手段だろうが目的だろうがどーでも良いがなw

要は無が無いという意味ではないのなら前置きで書いとけ〜w
それだけだww

155 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:51:44.47 ID:rZEsyOW9.net
仏に意味は無

156 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:53:04.70 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識では意味の無い事に価値は無いw

157 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:58:12.26 ID:rZEsyOW9.net
>>156
一般常識での価値は例えば具体的にどんな価値でしょう?

158 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:00:18.49 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識の価値は様々有ろうよw
それこそ常識なんだから常識の有る人間には説明不要で通じる事w
非常識で分からないから教えて欲しいとでも言うのかね?w

159 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:01:13.99 ID:Xw3IuKIs.net
 
>八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?

菩提分法(ぼだいぶんぽう)
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに導くための道筋
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
  _  _  _

例えば
「自分には自身の自我があるのだっ!」
と掴もうとしている想いは
実有・実体ではないからこそ、それ故に
『無明から目が覚めることが出来る』という意味でつ

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

…自分が愛を受けるに値するとも感じて、自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

(過去への想いは、実有・実体ではないからこそ、それ故に)
過去への想いを手放し、現在を生きてください

160 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:01:31.77 ID:rZEsyOW9.net
是非教えてください

161 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:06:44.37 ID:Rjkqvc3y.net
経済的には財力
あるいは、金はなくとも健康にと言うのも有るなw
また、家庭円満〜商売繁盛〜交通安全〜って神社のお願い事全部常識的な価値だろうw
仏陀は人間の生き方を突き詰めたが、現代人も現代人なりに人間の生き方を突き詰めている人もいるだろう。

こんなものは数え上げればキリがない。ただ言えるのは意味のないものに価値は無い。

162 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:10:15.32 ID:rZEsyOW9.net
>>161
正にそれによって人は苦しんでいる。

163 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:11:46.56 ID:Rjkqvc3y.net
苦しんでいるだろうが楽しんでもいるw

片方だけ取り上げて大仰に言うのが間違いだろうw
全く隠居氏の言う通りだ。
苦あれば楽あり〜
全部苦とか全部楽なんてのは有り得ないw

164 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:14:32.63 ID:rZEsyOW9.net
>>163
世俗の楽しみこそが苦の根元

165 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:21:30.59 ID:Rjkqvc3y.net
ではその苦が無けれ良いのか否か?w

苦が無ければ楽しみすら無いだろうよw
人間から楽しみを取り除いてそれが幸せなのか?

貧困で餓死するような人間には救いの手を差し伸べ
それ以外の一般的な苦痛なんてのは有って当たり前と知るべき。

166 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:24:21.19 ID:Xw3IuKIs.net
 
愛別離苦  愛する者と別離すること
怨憎会苦  怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦  求める物が得られないこと
五蘊盛苦  五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦という

 − これを対処するために −

苦諦  一切は苦であるという真理
集諦  苦には原因があるという真理
滅諦  苦は滅するという真理
道諦  苦を滅する道があるという真理

道諦
「苦るしい!」と掴もうとしている想いを手放し
無明から目が覚めるための
菩提分法
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道

167 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:26:35.96 ID:rZEsyOW9.net
>>165
苦に甘んじて輪廻をくりかえすのも選択
解脱するのも選択

168 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:29:32.91 ID:Rjkqvc3y.net
大体、輪廻なんて信じていない人間に輪廻を唱えても無駄だろうw
輪廻なしの人間においては解脱も何を指して言っているのか分からないw

つまり、そういう人間にとっては、あーだこーだと言ってはいるが、全部無意味で無価値となるw

169 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:34:11.95 ID:rZEsyOW9.net
南無

170 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:41:06.02 ID:Rjkqvc3y.net
今、世界中で輪廻転生を信じているのはインドくらいなものでしょう。
あと、インド関連の宗教信者かなw

全世界的には少数派、マイノリティ。
輪廻を前提とせねば伝えられないような教えは捨てるんだな。

171 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:51:28.88 ID:Xw3IuKIs.net
 
輪廻を信じていない紐くんには↓これ

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし

無明の暗闇に覆われているので、それ故に

『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』

と、気づくまでは、気づくことは難しい

172 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 08:02:46.00 ID:Rjkqvc3y.net
物事の理解の仕方は人それぞれのようで、おじゃると私とでは正反対ではあるなw
般若心経は大乗の経典であり、自分が読む経典が何なのかをまず理解せよw
大乗の経典は全て偽経というのは正解で、ゴータマの教えではなく経典作者の
作品だからな。作品として読めばその言わんとする事くらい誰でも理解できるだろうw

自分の愚かしさなどと卑下する必要もなく難しくもなく容易に理解可能w

経典は偽経であれ何であれ読んだら捨てる事だw
捨てずに後生大事にとっておこう〜なんてのが読み方の大間違い。
これを固執と言わず何と言う?w
ゴータマは固執するなかれと説いたはずだが、真っ向から反対する姿勢で読んでも身につかない。
自灯明の教えにもかかわらず、他人の解説にしがみつくのも同様〜w
こういうのは救いようがない。

173 :λ...:2015/10/11(日) 08:21:43.93 ID:oOoTemiL.net
一切無でありながら、輪廻は有るとはこれいかに。

174 :λ...:2015/10/11(日) 08:26:32.67 ID:oOoTemiL.net
そもそも言葉があるから認識が生まれ、認識があるから観念が生まれる。
一切の学習機会を放棄して、言葉を奪い、認識を奪えば一切無になれるだろうよ。
感覚を表現できないんだからな。

175 :123:2015/10/11(日) 08:44:17.77 ID:s4z3gg1x.net
釈迦が経典でもって、理解していたのか。
それに答えよ。
されば、自己が釈迦でないことが自覚できるのだ。

176 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 08:55:47.91 ID:Xw3IuKIs.net
 
>般若心経は大乗の経典であり

般若心経ではなくて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C
般若経(はんにゃきょう)は、大乗経典
  _  _  _

>大乗の経典は全て偽経

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
『スッタニパータ』の第4章と第5章がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
文献学的には
(「もっとも古い」と考えられている『スッタニパータ』の第4章と第5章も含めて)
パーリ経典の大部分も
釈迦の死後数百年にわたり編纂されたもので
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいる)
最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかではない

大乗仏教の経典は
釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいるけど)
釈尊に仮託された思想を
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 受け継いでいる文学(架空の物語り)である。と考えている人もいるらしい

177 :λ...:2015/10/11(日) 08:56:16.92 ID:oOoTemiL.net
輪廻が有るなら全て有る。
なぜなら有る無しの識別が存在する時点で、有るのだから。

178 :(Me):2015/10/11(日) 09:07:40.31 ID:8T3uYMO0.net
毎日死んで生まれていますがこれは輪廻とは言わないのですか?

179 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:12:18.30 ID:Xw3IuKIs.net
 
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど、とりあえず↓これ

http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌  ウパニシャッド  哲人たちの思索
名称と形態(現象界)の展開
6.3.1
[父が言った]
じつにこれらの生ける者どもには、三種の生起の原因が存する
すなわち、卵から生ずるものと、母胎から生ずるものと、芽から生ずるものとである
6.3.2
この神(=有)は思った
『さあ、わたくしは生命を与えるアートマンによって、これらの三つの神(火と水と食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
こういうわけで、かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって、それらの三つの神(火、水、食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開した

 − これに対して −
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ
872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る

欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない

180 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:43:15.48 ID:Xw3IuKIs.net
 
ウパニシャッドの神?(=有?)が、[現象界の]名称namaと形態rupaを展開した

 − これに対して −

スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る

(「わがもの」と掴もうとしている想いを手放し、そして)
欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない
  _  _  _

>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaと

スッタニパータ 872 が対応している

http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインド人にとって仏教を理解させて導くためには
その当時のインド人にとって世間的な真理を一応認めて、さらにその理解のうえで
仏教を人々に理解させて導く。という方法をとらねばならなかった

181 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:54:50.58 ID:Xw3IuKIs.net
 
>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを理解して

とりあえず仮に認めて

ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを前提として

スッタニパータ 872 で答えている

(相手の考えを理解して、相手の考えを一応認めて、それに答えている)

182 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 11:12:20.53 ID:Xw3IuKIs.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
ウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った
http://translation-buddhisttext.jimdo.com/app/download/4195029758/%E3%83%91%E3%82%AA%E6%A3%AE%E6%9E%97%E5%83%A7%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E4%BF%AE%E8%A1%8C.pdf?t=1278217918
第一禅定
第二禅定
第三禅定
第四禅定

空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/4-901679-16-3
滅尽定は仏教だけ
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
想受滅は、非想非非想処も超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に 『(無明の世界から)解脱する 』 とされている

>釈迦が経典でもって、理解していたのか?

その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど
非想非非想の段階までは
仏教以外のものも理解して
仏教以外のものも受け継いでいたもの(例えば、禅定など)もある。ということでつ

183 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:53:21.75 ID:69QHdcWq.net
>>127のつづき
> 僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。

あと僕が好きなのは「青山常運歩」ですね。これは眼蔵からの引用なんですけど、
そのフレーズそのもののダイナミズムというのでしょうか、まさにそれはフレーズ自体が生き生きとしてます。

@青山が運歩してるなんて?
Aああそうか、そうなのだ青山は運歩しているのは間違いない。→最初の気づき
Bだけどそれは間違い。運歩はしてない。非風非籏の公案参照。→第二の気づき
Cしかしそもそぽ運歩とか退歩、それ自体が間違いじゃないのか。→第三の気づき
D実は退歩していた。→第四の気づき。→第四の気づき
Eああ全くこれ自体が全て自分の間違いだったのだ。→第五の気づき

将棋の羽生名人がこの「青山常運歩」をえらく気に入っているそうですが、
将棋ってのは、つまり勝負の世界でしょ?だから僕もそれは良く分かるんです。
(つづく)

184 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:54:10.22 ID:69QHdcWq.net
(つづき)
コンピューターと棋士の勝負ってのは、以前に話題になりましたけど、
対戦した人の感想を聞くと「意図がわからない」というんですよね。
あれ結局逆算して導き出してるわけで、人間の思考のベクトルが間逆なんです。
だから最後の手から逆にたどるみたいなことをしてるから、人間にはもう理解できない手になっちゃう
それを「無味乾燥な手」というけど、プロ棋士も指摘してるね

羽生名人は、コンピューターとの対決はしてませんけど。理由はいろいろある。
結局、いくら名人とはいえ逆算して勝負は無理でしょ?どんな名人でも。

しかし逆算のことは既に「青山常運歩」においても指摘されておるのだ。
なんと驚くべきことではないか。これを感動と言わずして何と言おうか!!!
それが「運歩歩退」なのだ。

「生死一如」が寂静としてのフレーズというなら、
その対極に位置するのが「青山常運歩」のダイナミズム性であろう。
         <机龍之介>

185 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:01:42.34 ID:ozVAhBmp.net
宗教は奴隷学である

186 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:49:33.57 ID:Rjkqvc3y.net
禅は面白いよねw
老荘は仏教というより禅に近いんじゃないか?

私は黄檗臨終時の「人は生まれながらに自由なのだ〜」という文句が好きです。
あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という
構図は現代では有り得ないからねえw

187 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 16:21:28.32 ID:Xw3IuKIs.net
 
>>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
第六句  善い師に従う

自分勝手に経典を読んで自習しても、ある程度の知識は得られ、理解もできるでしょう
しかしラマから教えを直接受けるのは、経典を自習して、勝手に修行するのとはまったく異なります
正法というのは、釈尊より師から弟子、弟子からそのまた弟子へと師資相承で
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 伝えられていくものだからです
師資相承の加持があるなら、聞思修を行じても、あるいは他人にアドバイスを与えても、大きな力をもちえます
ですから必ずラマに拠って、仏法の修行をする必要があるのです。自分勝手に修行してはなりません

まったく見知らぬ土地に行く場合、その土地にくわしい人に案内してもらわなければ、道に迷ってうろうろするだけです
それと同様に仏陀の境地へといたる道を歩もうとするなら、その道に精通したラマに案内してもらわなければ、迷うだけです
  _  _  _

(実際には青木ヶ原の樹海には行ったことがないけど)

例えば
心霊スポットにも興味があるので、それ故に
(無明の暗闇に覆われているので、それ故に)
興味本位で行った
青木ヶ原の樹海で迷ってしまっている

というような感じでつね? 了解 おじゃる

188 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:21:42.71 ID:69QHdcWq.net
>>186
>あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という

禅の魅力というのは、僕は「発見の喜び」みたいなもんかな?
でもその「喜び」ってのが普通の一般的喜びという意味とは違って、
鋭く突き刺さるような何とも例えようのない感覚に包まれる。今までに経験したことはない。

たぶん数学者や物理学者などが、自分の生活を犠牲にしてまで研究に没頭するのはよくある話だ。
彼等には彼等の価値観が、世間一般の価値観とは違うのは想像するけど、
やはり世間的には得難い「発見の喜び」を経験してるんだろう?
これに嵌ってしまったら、もう人生の道筋は狂気に近いのかもしれんね。
(これは悪い意味ではない)
          <机龍之介>

189 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:46:46.70 ID:Rjkqvc3y.net
「無い」というふわふわとした概念論は駄目ですね。
掴もうとしている〜という概念論も駄目。

禅は己の両足を地面につけて歩く(人生を歩く)事を説く。
ゴータマの教えは禅とは違うものではあったろうが、浮足立った
虚無論ではなかったであろう。そこは共通しているに違いない。

無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
何の意味もない。
自分の両足で地面を踏みしめて歩けという教えの方が遥かに有意義。

経典は読んだら捨てよw
自灯明で己の判断で生きよ。
自殺とドラッグは最低〜w

190 :123:2015/10/11(日) 17:56:55.54 ID:s4z3gg1x.net
189.
宗教とは何か、を理解していない。

191 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:00:48.74 ID:Xw3IuKIs.net
 
机先生!良かったでつね?

経典・論書・解説書を読んだこともなく
経典・論書・解説書を理解することもなく

存在論としては『有るとは言ってない』と掴もうとしている紐くんが

机先生のことを理解?できて

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96
存在論(そんざいろん)

パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-没年不明)
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
理性に信を置いて真に在るものは不変だ

プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
パルメニデスの不生不滅の考えと
ヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させて
この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもなく
仮象の世界の「あり、かつ、あらぬもの」である

アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)
「有・無」という「存在論」が基礎にあり

192 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:21:37.02 ID:Xw3IuKIs.net
 
パルメニデスと
ウダーナヴァルガのギルギット写本の解釈?

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf

(パルメニデスがいう
  感覚で捉えられる世界は生成変化を続けている)

迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり

 − 縁起したものを離れ −

ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである

(パルメニデスがいう
  理性に信を置いて真に在るものは不変だ)

193 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 18:22:02.58 ID:69QHdcWq.net
>>189
>無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
> 何の意味もない。

有用と無用の話は老荘思想にもありますね。
相関関係にあるから、相互に依存しなければ原意は掴めない。とか
これも禅に近い
>>191
>机先生!良かったでつね?
> 経典・論書・解説書を読んだこともなく
> 経典・論書・解説書を理解することもなく

そうですね、僕はあまり解説書は読まない方ですねw
ひとつのフレーズでも、自分なりにどう読んだらいいか、これだけを考える。
そして自分なりに発見できた時の喜びは例えようがないですよ。

登山家が頂上を目指すのと同じなんじゃないですか?そこにリスクがあるからこそ魅力(喜び)もある。

194 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 19:05:45.71 ID:69QHdcWq.net
>>193のつづき
僕は人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします。
それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。

野菊は野菊のように咲けば良いのであって、
それが秋の野にどのように影響するとなかろうと
それは野菊においてはあずかり知れないことなのだ。
ではおやすみ。
         <机龍之介>

195 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 19:39:46.56 ID:Xw3IuKIs.net
 
>人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします

スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づいて

そして 『 一切の有情には仏性がある 』 と気づくこと

しかし
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』
と、気づくまでは、気づくことは難しい

http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺派

曹洞宗の場合は
(「自分には自身の自我が有るはずだ!」と掴もうとしている想いを手放して、そして)
「人は本来清浄な心を元々持っている」と気づくこと

196 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 20:37:51.79 ID:Rjkqvc3y.net
そもそも、「自分には自身の自我が有るはずだ」ではなく
自我は有り、掴む掴まないに無関係に有るものであるw
自我が無い(仮設としてあるに過ぎないも同様w)などと言うのは詭弁に過ぎず
自我が無ければ主張も無いし2チャンネルに書き込みも無いだろうが、実際は
頻回に自己主張して書き込んでいるw まさに自我が有る証拠だ。

197 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:02:41.25 ID:zK9v6610.net
ヴィパッサナやってれば、自我が思考として湧いて来るのに気付くでしょ
無いのは自我思い込んでる「私」でしょ

198 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:06:49.49 ID:N1oQl933.net
自我=アートマンと訳される場合もあるが、これは正確ではないからな。
より正確に言えば人生における自我は有るものであり、真我というべきアートマンは
有るのか無いのか分からん〜と言う事だ。

199 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:21:34.52 ID:zK9v6610.net
真我、神、ワンネス、空、、、 呼び方が違うだけじゃない?

200 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:57:09.31 ID:N1oQl933.net
>>199
確かにw

ただ空と他のものは違うだろ。
空は関係性を言っているもので何かを指し示している概念ではない。
あえて言えば空は縁起と近いのかもしれない。

我とか神とか言えばそれは又違ったものになるのでしょう。

201 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 07:44:08.52 ID:19rD30Ms.net
自灯明の「自」と無我における「我」とは違うんじゃないか?
「我」とは、自分という変化のしないものがあるという観念。
「自」とは自分の「五感と心」を言い、それは否定できないものだ。
温熱を感じている自分は、それを偽らないなら、自分が温熱を感じているのだ。

前者の「我」とは、「欲心」のことで、それも固定的になっているものだ。
欲心のないものは生きていけない、という言説が流布しているのがこの娑婆だろう。
そして、必要以上に求めるのを「欲心=我」と言うのだ。

うまく言えないが、自灯明の「自」で、その自を欲心と考えるならば、必ず『法灯明』の「法」と激突して、
修行にならないはずだ。

202 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:11:52.59 ID:19rD30Ms.net
>>201つづき
そこで、四諦の法門に言う、苦集滅道の集が欲心に当たるのであり、
これを亡ぼすことが道の完成なのだ。

「自我」は「ない」というと、「自」と「我」がともに否定されることになるが、
苦集滅道に言う(苦)を感じるのは「自」なのであり、その自を苦から解放するのが目的であり、
それは自分の欲心からの開放に他ならないのだ。その自分と言うのが真実の自分であり、仏性なのだ。
「自」と「我」を混同してるのが凡夫なのだ。自分と自分の欲心を取り違えているのだ。

203 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:18:12.18 ID:aSebavxK.net
>>194のつづき
>それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。

眼蔵を読んでも、僕には直ぐに解釈はできない。まるで推理小説を読むようなもんです。
で文面の一端目を通すくらいで丁度いい。
そのうち分かるかもしれませんしね。分からないかもしれない。

それから何らかしかの切っ掛けを境に、眼蔵の文面がいきなし閃いたりすることもある。
その一例が青山常運歩ですね。
「運歩」とか「退歩」とかが、なにやら「歩退」とか言い換えてる部分もあったりして、
道元の「遊び心」というのか、文学的才能を垣間見ることもできる。

眼蔵とは、そういう魅力があるのかもしれません。
で「退歩」と「歩退」の違いが皆様は分かりますか?
これは洒落みたいなもんで、実は答えはないかも知れませんですね。
個人個人それぞれに考え方も違うでしょうし。

僕は、そういうのは自分なりの解釈でいいかと思います。
つうか、そもそも眼蔵というのは「道元と自分の対話」と言う気持ちで読んだら良いんじゃないでしょうか?

誰かの解説書を読んだとしても、それは自分にとってはニセモノでしかない。
         <机龍之介>

204 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:20:26.57 ID:zK9v6610.net
>>200
神は突っ込まれると思いました
いわゆる全能の神、擬人化された神の事では無く、苦しみの果てに自我を捨ててすべてを明け渡した人達が言う神です

205 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:29:53.28 ID:aSebavxK.net
>>203のつづき
青山常運歩は、道元が「時間」という事柄をうちに向けようとしている、
眼蔵においては重要であると思っています。

時間は前へ前へ進むと我々は思ってますけど、道元は後ろにも進む、といった按配です。
時間について考えることは、道元の而今に関連しますので、そういう意味では興味がありますね。

つうか、こういうのは僕しか興味がないか(笑
ではまた。

206 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:34:59.19 ID:zK9v6610.net
空を特別視すると仏教徒だけが他の聖者達と違う物を観ている事にならないだろうか?
不二一元論を説いたシャンカラは仮面の仏教徒と呼ばれているよ
不一二元論は唯識に似ていて、少し調べれば真我は空の事だろうと誰しもが思うと思う

207 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:35:52.37 ID:zK9v6610.net
>>206

>>200
のレス

208 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:09:02.96 ID:PotJzboF.net
>>35>>32
馬鹿乙
無い志向は間違い、妄想

209 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:18:57.35 ID:N1oQl933.net
空は大乗で出てきたもので仏教で最初からあったものではないからね。
仏教は本来多元論なんだが大乗(龍樹)で一元論化された。そこで空が
仏教の看板に据えられた。

真我についてゴータマは何ら回答を与えておらずあえてコレの存在について
何かしら言えと言うのなら後の言葉の空を使って非有非無で空と言えるかもしれない。

210 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:36:02.21 ID:uCl9/QXF.net
>>209
出典は覚えてませんが、原始仏典でも
空が説かれていたはずです。
スッタニパータかダンマパダか忘れましたが、どこかに書かれてました。

211 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:50:30.04 ID:N1oQl933.net
ゴータマの説く縁起と龍樹の説く縁起では厳密には一致しないからねw
同じ「縁起」でも同じじゃない。

212 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 16:19:02.67 ID:aSebavxK.net
>>209
雑阿含経・第一義空経には空について書かれてますね。
龍樹はこれをモチーフとして中論を書いた、と言われている。

213 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:05:13.10 ID:ZyN2GjCV.net
ムスリムのコーランから導出される教えでは、因果と言うものはない、という。
これは仏教に言う、実相であり、それは絶対存在の無相一相空である。

道教では、これを姿の無い姿、と言い仏教では、実相は無相の相を採る、という。
理性に従えばそこに行き着くのだ。

これこそ実在するものと人は認めることができるものだ。

これを認めないで、姿かたちがあるものに執着しているなら、それは真実を拒んでいるもので、この拒否が
罪である。
取り押さえられるものはこの世界にはないのだ。

有身見があるから、強姦したり、殺人したり、強盗したり、その他の一切の犯罪を侵すことになるのだ。

我々はこの真実の世界のもので、この真実から抜けだせないのだ。

欲心とは、取り押さえられるものがないのに、それがあると妄想し、その妄想に執着することに他ならない。
”天網恢恢疎にして漏らさず”は真理である。恐ろしいね。真実に逆らうことは。

214 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:35:37.50 ID:ZyN2GjCV.net
ここに一つの箱がある、と現代の科学は認める。これは妄想である。箱などないのだ。
箱があるという妄想が、現代科学のスタートである。古代からもそうなんだろうが。

箱を分割してみる。細分化してみる。
原子はその核と電子でできている。電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという。

最初の箱は、その周囲の空間と相対的に存在していたことを閑却している。
電子の状態と、最初の箱の存在状態は同じなのだ。

因果があるという前提の上のの科学である。

それでは、なぜ、原因があるから、結果があるということから、原因がなければ結果がないということに発展し、
それなら原因にも結果にも実体がない、と結論しないのか?

最初のスタートでは、原因も結果も「ある」と言う前提の上のスタートだった。
この前提が崩れたのである。

遺伝子などというものがあって、人の人生を決定するという論も、妄想に他ならない。

科学は真実に対する罪の結果なのだ。人類は科学と言う毒ガスのために地獄に落ちているのだ。

215 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 12:28:37.90 ID:qyZZl+QB.net
213-214という妄想だなw

216 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 08:47:28.65 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
相対的存在の二者とはどういうものか検討した説明がないと言っていいほどだ。
そこで検討してみようではないかいな。

依他起性と言うものだ。他者があって初めて存在を認められるという意味だ。
お互いにそうなんだ。
これはそこに変化が存在していると我々の視覚は認めるのだ。今はとりあえず、視覚の例を取り上げる。
視覚は、そこに変化と言うものがないなら、視覚の働きはない。視覚は何も認めないのだ。

次に、そこにある変化の詳細を観察してみようではないかいな〜。
変化の境目はどうなっているのだろうかと。中間部はどうなっているのだろう?
混合状態であると視覚は言うだろう。しかし、如何に両者の混合状態であろうとも、やはり、粒と粒の境目は有るのだ。

次に、粒の存在する土台を観察してみようではないかいな〜。
いや、粒と粒が接触しているのだから、その接触状態を観察しなければならないんだな。

接触とは密着状態のことを言う。密着しているものは、一体なものではないかいな〜。
一体なものが右と左に分割されているという状態は、おかしいね。これが問題だ。
するとどう考えねばならないんだろう?
視覚と判断は違うということではないか?判断と言うか理性と言うべきか、ここも問題にすべきところだが。

視覚は何も自己を主張してるわけではない。その変化がおのおの存在しているなどと。
判断が、それは一体なものだから、その変化に実体はないと言ったり、その各々に実体があって、
両者は二つのものだ、と言ったりするのだ。

217 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:05:01.53 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
心が理性に従えば、相対的に存在している二つのものを二つのものと認めない。一つのものと認める。

しかし、その心に欲心が発生していると、欲心とは、変化しているものを二つと判断するということを前提にしか発生しないものであり、
そして、そのどちらかもしくは両方を欲しがるということなのだ。つまり、それらは一つのものではなくて、二つのものだと判断させるのが欲心だからだ。
そして、その変化は誕生したのだとみなす。あるものだからそれに対してほしいという欲望が誕生するのだ。
つまり、そうすると欲心が理性の示すところを、理性に反して、両者には実体があると判断させたのである。

こうして欲心による世界が誕生するのである。
欲心は六根清浄を破壊している。

218 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:50:18.07 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
一方欲心のない世界は、どうか?
視覚に映ずるものはそのままのもので、判断をなされないままだ。
それらは相対的に存在してるだけで、少しも自己を主張しない。自己を主張させる原因もない。
だから紛争という世界とは無縁である。

そこではすべてが自然に移り変わる。すべての現象がだ。そこにいる人は、自分に不足することはない。
自己に必要なものは自然に手に入る。一切がそうなんだ。労することがないのだ。
平安しかない。安楽国だ。このことを書いた経典が浄土経典だ。

人は安楽を求めて、欲心を起こしそれに従う。しかしそれによっては、地獄しか得られないのだ。
反対に欲心を殺すならば、目的の安楽国にはいることができるのだ。

このことを知って、欲心を自分として欲心に従う他者に追従してはならない。
欲心に従うものを悪事をなすものというのだ。欲心に従っているものを悪者と言うのだ。

これが仏の智慧の教えであり、大京は、「仏のこだわりのない智慧を疑ってはならない」と教えている。

219 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:20:53.17 ID:6atCTa/B.net
 
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90
電子の大きさ(内部構造)については、標準模型においては内部構造のない点として扱われるが
それを超える模型において電子が大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない
これまでに高エネルギーの電子の衝突実験で電子に大きさがある兆候は見つかっていない
重力に関しては繰り込みは成功しておらず
電子が現実的に存在するかどうかは別として
シュバルツシルト半径が計算上は存在する
電子には 『 内部と外部を区別をする明確な境界を定義できない 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%9B%B2
電子雲(でんしうん)とは
原子において軌道電子を 『 存在する確率として示したものである 』
現代の量子力学では
電子はもはや 『 確定した位置と速度を持つ点ではなく 』、波動関数であらわされる存在であり
たとえば電子が存在するために起きる干渉などの相互作用は、それに従い 『 確率的に起きる 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波動関数とは端的に言うと「物体の『状態』そのものの波動」であり
この事は物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており
また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に 『 全く異なる並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ 』

220 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:45:18.71 ID:6atCTa/B.net
 
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6

古典力学と量子力学との大きな違いとして
『 確率的な現象の記述が挙げられる 』

事象が確率的にのみ記述されるということは
古典力学的な
『 因果律が成り立たないことを意味する 』

量子力学は、
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
素朴な 『 実在論としては記述できず、非実在論的である 』
  _  _  _

  _  _  _

例えば
有為法の場合は
実有・実体ではなく、空という性質なので

1).因と縁の双方の縁起に依存して「確率的に現れ(滅し)ている」?

2).因と縁の双方の縁起に依存することなく「確率的に現れ(滅し)ている」?

3).その他?

221 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 23:50:56.56 ID:yVKsRg+D.net
無いなんて概念は空の餌皿を見る犬でもわかる

222 ::2015/10/15(木) 09:32:06.04 ID:cd60FaiS.net
>>221
その通りw

「無い」も「有る」も生きている人間のみならず犬にだって分かる事であり
それが分からなければ生きていられまい。

形而上の宇宙の果てがどうなっているか?素粒子を分割したら何が残る?などの
事を知らなくとも生きて行けるし、そんな事を知る事は人生では重要ではない。

個々人の人生は有りその個々人の我も有り、「無い」と断定できるのは犬の空の餌皿くらいなもんだw

223 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 10:31:49.03 ID:beWMLeVg.net
>>220
専門家ではないので、その世界での正確な表現は勉強不足で、できていないが、
まず、縁起の理法とは因果の理法のことである。
有為法とは縁起の理法の世界のことだ。有為法に対して無為法が言われ、それは
実相の世界に関する理法のことだ。空の世界に関する理法のことだ。

縁起すなわち因果の世界のものの関係は、相対存在であるので、フィフテイフィフテイである。
それは変化する性質の存在なので、そうなるのだ。今あると見えていても、変化して消滅するとみなしているのだから。
ただ、その存在期間が長いとみなしているだけだろう?

これは電子の研究で分かったこととなっていることと、電子の研究前の箱の存在について、認めることの困難ではない認識と同じなのだ。

この電子の研究のときは、空間という距離を基準にする研究であるが、時間を基準にした検討がなされていないね。
極微の世界なので、時間が無視できると安易に思っているだけじゃなかったのか?
時間を無視してはならないのだ。

最初のはこの存在でも時間を無視していたが、その箱が永久に存在するとは考えなかった。
その点をつかれるなら、いつかはその箱も変化して別ものになると認めたところのものだ。

変化と変化後は相対存在なのだから、フィフテイフィフテイの関係性は働くのだ。
科学上の存在は、相対存在であるので、確率的にしか存在しないのだ。それはフィフテイフィフテイである。

とこのように思うこの頃です。w

224 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 15:35:54.30 ID:HreJJp4T.net
確率的に存在しているんじゃなくて
人間も一緒に動いているから
つかみどころが無いだけでしょ

225 :123:2015/10/15(木) 16:28:15.26 ID:pLAXubgT.net
222.
ある、無い、とかは媒介概念である。
だからして、両者が存在することになる。

226 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 20:04:55.13 ID:M1sFq6hp.net
なんか話が遠く離れてきているような気がするわ

227 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 21:18:11.42 ID:beWMLeVg.net
いや、それてはいないよ。題材に科学を利用してるだけだ。

228 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 22:50:28.25 ID:HOZj1KsX.net
だから何が無いんだよ? スレなら無いのが当然! 

229 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 02:56:18.16 ID:gqghjBpp.net
 
>ある、無い、…、両者が存在することになる

「有る」と掴もうとしている想いも手放し
「無い」と掴もうとしている想いも手放し

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想を超えて

「想いを手放す」という想いも手放し

http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れ想滅定が生起し、そして

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが
分別を超えて 「 有る・無い 」 と掴もうとしている 『 想いの終わりである 』

230 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 04:01:43.86 ID:kfHEBUOo.net
観測誤差なんてものは絶対に解消しないんですよ

人が動いている世界には
人の動きが問題になるんです

人を止めようとしても世界が動く
世界を止めようとしても人が動く

始めから全部同時に動いているから
普遍の法則なんて本当は無いんですよ

231 :123:2015/10/16(金) 07:24:20.75 ID:p4/pDiys.net
229.
想いの終わり、を媒介概念として、提案するのか。
媒介を否定するのか。
そこが問題である。
おじゃる君がさとれないのは、想いの終わり、で終わりとなっているからである。
絶後蘇生がないことになる。

232 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 10:38:02.84 ID:wYUOTF77.net
>>228
現象とは変化のことを言うのだから、その変化が相対的に存在しているので、その変化が「ない」、その変化の「実体がない」
ということだ。

変化と言う相対存在ではなく、変化しないもの絶対存在と言うべきであり、それは変化しないものであるがゆえに、
姿の無い存在として、五感に把握できづ、心においてのみ把握できるのだ。

>>224-230
>人間も一緒に動いているから つかみどころが無いだけでしょ

アトムの大小に無関係に、アトムが相対的に存在していることは認めなければならないということだよ。
人間の大きさに適当な大きさのアトムを例に取って、箱を例に挙げたのだ。
人間の持ち運びする大きさの箱だ。クロネコヤマトの配送する程度の箱だ。
そういうもの存在の在り方と、ゼロが十個以上並ぶ大きさのアトムの在り方は、まったく同じだ、ということなんだな。

そこで観測云々の話だが、計量する問題ではないだろう。存在の在り方を観測しているのだ。

233 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:18:37.54 ID:wYUOTF77.net
>>232続き
とは言うもののフィフテイフィフテイといっているのだから、その根拠を言っておこう。

相対するとは、両者が同じでなければ生立しないだろう?平等でないなら、その差異の部分は、別なものとして相対しているのであって、
いずれにしても、相対しているものは平等な存在だ。しかしその性質は相手を必要不可欠なもんとしている。
相反する性質のものでありながら、自存できないものなのだ。依他起生のものなのだ。
こうして初めて変化という現象が生じるのだ。

で結論としては、はこの存在であろうと、アトムの存在であろうと、人間の存在であろうと、平等に変化という存在なのだ、だから、
この存在の在り方を考察するときは、箱の在り方であろうと人間の在り方であろうとアトムの在り方であろうと、その考察の本質に
同じになるのだ。

動きについては、真理の教えは、動きはない、不去来、と教えているな。

234 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:30:12.77 ID:eNBSWfQq.net
妄想は別の所でやれ

235 ::2015/10/16(金) 18:13:59.85 ID:YMqghGLK.net
そもそも仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かっただろうが後代宗教となったので
宗教と言うならば、それは人間の理想的な生き方、在り方を究明するもので、○○が有るとか無いとか
をアレコレ検討するものではないというのが本質だ。
人間の生き方や在り方を問う以上それは人間の人生そのものであり、人生の個そのものである。

形而上の存在論の究極は科学に任せておけばよろしいw
死後世界が有るのか無いのか〜なんてのもひょっとしたら将来科学的に解明されるかもしれない。

宗教の問題はそんなところにはあらず、今現在生きている個々人の人生の生き方そのものである。
そこに目を向けず、方向違いの方を見て、仏教だのバラモンだの有相唯識だの無相唯識だの無だの空だのと
戯言を繰り返しても無益で何ら己の生き方の為になる事は無い。

236 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 20:32:59.68 ID:gqghjBpp.net
 
>仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かった

当時のインドでは
(宗教的な)バラモン(ヒンドゥー)と
そして更に
ニガンタ派をはじめとして
ヴェーダの権威を認めないナースティカが
バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する
(宗教的な)思想を展開していた

ある時、釈迦がカピラヴァストゥの
北門から出た時に一人の沙門に出会い
(宗教的なものとしての)
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった

(宗教的なものとして)
釈迦は出家して
バッカバ仙人を訪れ      (宗教的なものとして)苦行を観察する
アーラーラ・カーラーマを訪れ(宗教的なものとしての)空無辺処(無所有処)
ウッダカラーマ・プッタを訪れ (宗教的なものとしての)非想非非想

(宗教的なものとして)
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように『自灯明法灯明』の教えを説いた

237 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 21:03:37.81 ID:gqghjBpp.net
 
>>236 の訂正

無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出して → 解脱へ 』 と導くために

『 無明の暗闇に覆われている、この世界から → 解脱へ 』 と導くために

身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察せよ

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四

衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは 『 空だ 』 と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
衆生を引導するが故に、『 仮名の空 』 を以って導いている

(実有・実体ではなく、空という性質であるからこそ 『 仮名の空 』 を以って導いている)

238 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 10:21:11.25 ID:9VVWWS0v.net
密着しているという状態が、一体であると言いだしたのはパルメニデスであったと記憶している。
しかし、それは当然な判断じゃないか?
金鉱石があるとしよう。金はその他の鉱物と一緒になった一塊の岩石の中にあるんだろう?
金とその他の鉱物が密着しているのなら、全ての鉱物は金であると言えるし、金でないその他の鉱物だともいえるかも。

しかし、昔から人は、金だけを取り出してきたのだ。だから、金とその他の鉱物は異なる存在だ、と見做すのが常識になってきたんだろうな。
もう一度密着とは一つの状態を指すことを確認しておこう。

で、金と取り出して他の鉱物と離した時、分離されたのか?
分離されていないんだよ。どうしてか?空気を媒介にして、依然として密着しているのだ。
空気もまた存在してるものだ。空気と金が密着している以上、空気と金は一体なんだよ。
さらにその空気は他の鉱物とも密着してるから、取りだした金とその他の鉱物も密着しているのだ。
こう考えれば、この宇宙の一切は密着している状態なので、一体のものと言わなければならない。

ただ表層だけが異なっているのだ。金だとか、人間だとか、空気だとか、に。
そしてこれらの表層の変化は、縁起関係の存在で、それ以外ではない、というのも困難な判断か?

一体な存在と縁起関係により識別される存在では、一体どちらが恒常的に存在してるのだろう?
密着して一体となっている方が恒常的存在だろう?
なら恒常的存在は自存しているもので、真実と言わなければならないね?

239 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:03:47.97 ID:k4UExZ3W.net
 
哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%B9
パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年 - 没年不明)は、古代ギリシアの哲学者
アナクサゴラスの弟子・クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアスに師事したとも伝えられる

感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである
理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた
このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%9B%A3
ピタゴラス教団は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社
古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から 『 輪廻転生の考え方を有していた 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
オルペウス教は、古代ギリシャ世界における密儀教
『人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず
  輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている』という教義

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%B9
クセノパネスは、紀元前6世紀のギリシア哲学者
1).存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限であるが時間がたち変化することで無限になるわけではない、と主張した
2).神の本性は球状であり、人間と少しも似たところがない。そして全体が知性であり思慮であって永遠なものである
3).生じるものはすべて滅び、魂は気息(プネウマ)である、と最初に言い出したのはクセノパネスであるという
4).エンペドクレスが賢者を見つけ出すことができないといったとき「賢者を見つけようとするものは、その人自身が賢者でなければならない」と言ったという

240 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:26:19.64 ID:k4UExZ3W.net
 
「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である

変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である

それでも、とりあえず↓これ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

(『変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくことになる』という説明をしている)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 − これに対して −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると説いた

241 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 13:20:36.82 ID:9VVWWS0v.net
>>239
> 哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?

プラトンの「パルメニデス」に書いている。
この著作により、プラトンはソクラテスの「イデア」論を捨てた、と言いう研究者もいる。

これに疑問を持つ君は、それなら、密着しないどんな状態を言いうるのかね?

なんか今の科学では、真空と言うものがあるとし、それは所詮、いかなる物質もガスもない空間ということらしいが、
そんなことはない。そもそも、そこには空間というものがあるではないか。体積を持つものとして。どうして真空がないと言えるのか?
真空という存在がありながら、真空が無いとは言えない。この真空も真空でない空間と相対的に存在しているものだ。

242 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 14:47:14.02 ID:9VVWWS0v.net
釈迦仏が自己を紹介するにつき「私には我と言うものがない」と言うのはあり得るか?
あり得ると思う。その時、釈迦仏は矛盾しているというべきか?

釈迦仏が「私は解脱し、永遠の平安に居る」と言うとき矛盾したことを言っているのか?

釈迦仏がウダーナバルガの中において、「私は、真実の世界をよく知っている、そこには太陽もなく
・・・・(第26章21〜31、特に24参照)」と言うとき、それは矛盾しているのか?

243 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:06:05.60 ID:9VVWWS0v.net
>>240
> 「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である

言葉に頼りきらないで、事実状態を想定してみるべきだ。
無という状態があるんだろう?そこに有が生じると君は言う。その時の有は、無という状態の中の一部分なのだ。
それは一部分の存在であるから、残りの部分と相対的に存在しているのであり、残りの部分は、相対的に存在しているのだから、無なのだ。

もともとの無が全部変化して有になったのではないのだろう?
もともとの無が全部変化して有になったと君が言うのなら、君は嘘をついているのだ。
その場合は、もともとの無は残ってるはずだ。すなわち一部分だけが有に変化したのだ。

変化したという限りは、その変化の状態を認識できなければならないからだ。
君は単に被とだましで、もともとの完全な無の状態が、有に変化したというのだから、詭弁だろう?

244 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:07:39.74 ID:9VVWWS0v.net
被とだましで→人騙し

245 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 15:23:48.28 ID:k4UExZ3W.net
 
>密着しているという状態が、一体である

 ↓これでつか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
プラトニズム、またはプラトン主義
美徳と瞑想によって人間の 『 魂は自身を上昇させ一者と合一することができると説かれた 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82
梵我一如
『 宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である 』 と気づくこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
プラトン
ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と
『 輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視する 』 ようになり
それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
仏教
仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
『 輪廻から → 解脱へ 』 と導いていく
『 無明の暗闇に覆われている、この世界から → 解脱へ 』 と導いていく

246 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 17:33:24.60 ID:EgkURT5z.net
輪廻は輪廻を前提としている場合にだけ生じる妄想であり、
魂も魂を前提としている場合にだけ生じる妄想である。

そのようなものを前提としない人間も多く、そのような人間にとり輪廻は無く死後世界も無い。
なぜ妄想であるかと言えば、実証不可能な事象だからw

そのようなものを大真面目に信じるのはキチガイ。

247 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 19:05:42.35 ID:9VVWWS0v.net
>>245
>密着しているという状態が、一体である
 ↓これでつか?

それは話しが飛躍しすぎ。
「パルメニデス」でのパルメニデスは非常に具体的に、物理的に話しているので、
自身、唯物的な話になっていることを認めているほどだ。

密着の表現が出ているところを提示したいが、短くもない著作を探し当てるのは苦労だ。。

ここに金の延べ棒があるとすると、その中間で切断して二つにできる。この切断面はもとは密着していたのだ。
それと同じに、金塊と周辺の空気もまた密着していたのだ。密着していた以上、先の金の延べ棒と一体である、ということだ。

これを反駁できるどんな例がある?

248 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 09:59:27.75 ID:mTKNB8wJ.net
 
>輪廻は輪廻を前提としている場合にだけ生じる妄想であり
>そのようなものを大真面目に信じるのはキチガイ

紐くん   → 脳みそ、くるくるパー
ピタゴラス → サモスの賢人、クロトンの哲学者
プラトン  → プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
オルペウス教
『 人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず
  輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
ピタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)
ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者
彼の数学や 『 輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた 』
「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた
オルペウス教の影響を受けてその思想の中で 『 輪廻を説いていたとされている 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる
ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と
『 輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり
  それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく 』

249 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 10:24:41.35 ID:NWf8Duwp.net
輪廻前提で輪廻の妄想にどっぷりはまっている人間が 脳みそ、くるくるパーなんだよww

250 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 10:26:32.95 ID:mTKNB8wJ.net
 
>金塊と周辺の空気もまた密着していたのだ。密着していた以上、先の金の延べ棒と一体である、ということだ
>これを反駁できるどんな例がある?

結局のところ、ID:9VVWWS0v氏が何を主張したいのか?わからないけど

『宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である。と気づいて、永遠の至福に到達しよう』

ということなんじゃないの?

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
無明の暗闇に覆われているので
誰もが(この現世において)成仏するわけではないので(五性各別なので)、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』と、気づくまでは、気づくことは難しい

251 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 10:48:56.43 ID:8eYkDXs4.net
パルメニデスの弟子のゼノンは師の教えを証明するために三つのパラドックスという有名な論題を世界に提供している。
足の速いことで有名なアキレスと言う戦士は、動きののろいことで常識となっている亀に
勝てない、という命題はその一つである。

252 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:06:38.64 ID:mTKNB8wJ.net
 
紐くんは、「脳みそ、くるくるパー」なので、意味が、わからないのかもしれないけど

輪廻の妄想にどっぷりはまっているのではなくて

輪廻への想いを手放して、そして

『輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を
  (解脱して)超えて
  真実在としての「イデア」』

という説明をしている。ということ

その当時の人にとって新しいものを理解させていくためには
その当時の人にとっての世間的なものを一応認めて
その理解のうえで新しいものを人々に理解させていく
という方法をとらねばならなかった
それ故に
とりあえず仮に、輪廻を前提として
『 この輪廻への想いを手放しせよ 』 と導いていくことが必要だ。という意味

253 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:33:26.42 ID:mTKNB8wJ.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ゼノンのパラドックス
「世界が不可分な要素的な点やアトムからなる」という前提から
「運動が不可能となる」という帰結を導き出すことで
運動が可能であるという現実との矛盾を示そうとした

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6
量子力学の場合は
古典力学的な
因果律が成り立たない

量子力学は
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
古典力学的な実在論としては記述できない

それ故に

量子力学の立場としては
『「世界が不可分な要素的な点やアトムからなる」という前提から「運動が不可能となる」』
という帰結を導き出そうということが間違いだ。ということ

『量子力学を前提として、古典力学的なものを導き出すことは出来ない』という意味でつ

254 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 11:53:29.10 ID:8eYkDXs4.net
>>250
>『宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である。と気づいて、永遠の至福に到達しよう』
ということなんじゃないの?

それでもいいと思うんだけど、肝心な点が欠けているんだよね。
宇宙を支配する原理とは、何か?個人を支配する原理とは何か?これが欠けているだろう?

その原理が何かが問題なのだ。
仏陀はそれは一相無相空と発見したんだよ。

仏陀以外の覚者たちも、同じものを発見して居る。

次に、世界の真実が明確になった以上、その真実に合わせることが修行としてあるのだ。生活においてそれを実現しなければならない。
そこで、真実に合一しようとしてる人と、真実に逆らっている人との差異が発生するのだ。

真実に逆らっている人は輪廻と言う恐ろしい世界に埋没するよ、ということになるのだ。

真実が何か明らかになれば、当然なこととして、真実に従順な人と、不従順な人との差異が生まれることを
明らかに説くことができる。

梵我一如は聞くが、何が梵なのか、全然判明しない。何を原理としているのか全然わからない。それでは全く学んでいないのだ。
と言うよりもバラモン教では、その梵の説明がないんじゃないのか?

だから、いろんな神様が出てくるのではないのか?仏陀はそういう無知を排除したのだ。
信仰を捨てよ、という仏陀の教えは、それまでのバラモン教の神様へのおすがりを言うのではなかろうか?
かといって、シャンカラのような理法を解く教えもあるらしいが。

255 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:54:28.44 ID:mTKNB8wJ.net
 
波動関数は
「物体の『状態』そのものの波動」であり
物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており
また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
  _  _  _

実有・実体ではなく
空という性質に依存して
因と縁の双方の縁起に依存して
例えば仮に
「身体を動かそう」という想いに依存して
微粒子が動いて → 微粒子に依存して → 身体が動くとか?

実践したことがないので「本当なのか?」わからないけど↓これ?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます

256 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 12:16:14.65 ID:mTKNB8wJ.net
 
>宇宙を支配する原理とは、何か?個人を支配する原理とは何か?これが欠けているだろう?

例えば
おじゃるの場合は
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
宇宙・個人とかを支配する原理は何か?わからないけど

例えば
サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

真言宗の場合は
地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大がつまり大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗の場合は
十八界(有為法も)無為法も含まれる

257 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 12:57:44.20 ID:NWf8Duwp.net
まあ、脳みそが重病状態のおじゃるの方向性では一生経ても無駄飯食いの穀潰しで終わるだけだw

258 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 13:24:47.03 ID:mTKNB8wJ.net
 
>おじゃるは無駄飯食いの穀潰しで終わる

そして更に
「可愛い女性とデートもしたい!」
「旨い焼肉カルビも食べたい!」
「(脳みそも重篤だけど内臓の働きも悪いので酒は呑めないので)旨いジンジャーエールも飲みたい!」
という想いも現れ(滅し)ている

それ故に

「無ではない!という想いも現れ(滅し)ている」でしょ?

259 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 13:48:34.53 ID:8eYkDXs4.net
>>256
>サーンキヤの場合は プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

プル者が永遠に変化しない実体であるとするなら、それは仏教の実相の一相無相でなければならない。
それの観察において平衡が敗れるととは、?プルシャから逸脱するということ?
プルシャから逸脱するとは、プルシャ以外のものをプルシャと誤認することになり、それは物質の場合があり
物質から虚偽の考えが流失することになるね。しかし流失するものはプルシャから出たものではない。そういうことはあり得ない。プルシャが実相である限り。

>真言宗の場合は 地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大がつまり大日如来を成している

この説明では、如来とは何か、説明してないだろう?地水火風空識を言ってるつもりだろうが、
六大元素がなんであるかの説明がないではないか?

>法相宗の場合は十八界(有為法も)無為法も含まれる

有為法無為法がなんであるか知っているなら、この世界の原理、個人の原理を言い当てている。

260 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 18:25:12.88 ID:mTKNB8wJ.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8
説一切有部
『あらゆる現象(諸法)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ)を想定し、この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)」』を主張した

 − これに対して −
大乗は 『 無自性、空という性質 』 を主張して説一切有部の説を批判した
しかし唯識派になると説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
大日如来は
無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である
全一者であり、万物を生成化育することで自己を現成し
如来の広大無辺な慈悲は万物の上に光被してやまないとされる
三世(過去・現在・未来)にわたって常に説法しているとも説かれる

『如来の説法は
  眼耳鼻舌身意
  色声香味触法の対象をその本体とする
  この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての
  仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである』

空海(『声字実相義』より)

261 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 20:58:40.33 ID:8eYkDXs4.net
>>260
>あらゆる現象(諸法)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ)を想定し、この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)」』を主張した

これは当たっている。

>大乗は 『 無自性、空という性質 』 を主張して説一切有部の説を批判した

法諦恒有が「無自性、空という性質)を持つもの、というべきだ。ところが大乗は批判したというのだとすれば、
法体恒有という実相を否定してるということは、うぶの法体恒有が実相ではないからか?それとも、大乗が釈迦の教えを誤解して、
法体恒有のない世界主張したもんかである。

しかし、法体恒有がないとすれば縁起という現象は発生しないし、縁起だけの世界を説くことになり、それは仏教の全体ではないのだ。

維摩経の維摩の存在は無意味になる。

>如来の広大無辺な慈悲

これはどういうものですか?どのように仏典に説明されていますか?

262 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/19(月) 07:45:56.87 ID:bnoxwyt+.net
 
大日如来
虚空にあまねく存在するという真言密教の教主
「万物の慈母」、「万物を総該した無限宇宙の全一」とされる汎神論的な仏
大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主

汎神論(はんしんろん)とは
全ての物体や概念・法則が神の顕現であり神性を持つ、あるいは神そのものであるとする世界観・哲学
万有神論。汎神教は、世界のすべてを神の現れとする宗教
一神教・多神教を問わず、歴史上のさまざまな宗教に汎神論的傾向がみられるとされる
古代インドのヴェーダとウパニシャッド哲学、ソクラテス以前のギリシア思想
近代においては、スピノザ、ゲーテ、シェリング等の思想がこれに属する

大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)
初期大乗経典では
菩提心とは「菩提を求める心」であったのに対し
この経では「菩提とは実の如く自心を知ること」と、その意義が大きく変わってきている点が重要である

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』
『(無明から)解脱すれば仏だ』と、気づくまでは、気づくことは難しい

263 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 18:54:52.22 ID:rBhLzO/I.net
>>262
> 変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

不動、無感動と言うけど、どうなんだろう?


>しかし
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』
『(無明から)解脱すれば仏だ』と、気づくまでは、気づくことは難しい
 
一切の有情と言うけど、有情だけではないだろう?無常なるものにも仏性があるはずだ。なぜなら、
このさきに、「世界すべてを 『 空なり 』 と観察して」と仏陀は言っているからだ。
道教的に言えば、天地を空なりと観察して、ということだ。

264 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 19:12:18.68 ID:rBhLzO/I.net
天地があると思っている者、または、森羅万象があると思っているものに、たいしては、
仏陀は、この世界の実相は、空相であり、無相であり、一相だよ。森羅万象に捕まえることのできるものはないのだよ。
と教え、森羅万象に拘泥してるものの、その苦しみは根拠のないものだ、と教えた。だから執着をしてはいけない。と教えた。

しかし、森羅万象に実体がないと思っているものに対しては、実相は実体あるものだ。無相と言う実体が、一相と言う実体が、空相と言う実体が、あると教えたのだ。
この実体は三世劫有なものだ。と教えたのだ。

悩み苦しむものに、真実平んどうする行為、これを慈悲と言うべきだろう。広大無辺な平安の世界へ導くことは慈悲だろう?
大日如来が個人個人に対して、広大無辺な安楽国へ導く真理を説くことが、如来の慈悲なのだ。
決して味噌もくそもいっしょくたにした庶民を一律に広大無辺な安楽国に導くという意味ではないな。
如来を信じないものは、決して安楽国に向かうことはないのだ。

265 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 19:14:38.01 ID:rBhLzO/I.net
>>264訂正

真実平んどうする行為→真実へ引導する行為

266 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 20:14:56.61 ID:qhlqNM/f.net
>>264
導くというが、ここがそこなんだよ
その広大無辺な平安の世界ですったもんだしてんだよ。

まさにここで、前のめりに幻とすったもんだしてんだよ
素直に教えられたとおりに、執着せずに離れろというのにw

執着しないというのは、単純に触れるなというのだよ。アンタッチだ。
なんかこねくり回して違う意味を付けているから間違うよね。

実相とか実体とか観念遊びも止めろというの。
あっ、ここは観念遊びのスレでしたね。ごめんごめん。

267 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 00:15:21.61 ID:9VGt3LfL.net
なるほど、
それもただしいのかもしれませんね。

268 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 08:29:22.58 ID:/Pvc+Y54.net
>>266
まだ筏が必要なんだ。

269 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 11:42:30.15 ID:eUSeSnat.net
>>266
が正解なんだが、266も一瞥経験がない頃は他の人と同じだったと思うけど、、、

270 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 12:16:55.44 ID:mxgP2wEa.net
《プラトニックラヴ》
プラトンはイデアを愛していたのですね。

プラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、
真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする。
そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である。

271 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 17:36:01.45 ID:/Pvc+Y54.net
プラトンはパルメニデスに屈服したんですよ。まさにイデア論を論破されたんです。「パルメニデス」で。
イデア論など学んでも何の得もありません。彼の妄想にすぎないのです。
サーンキア学派のほうが真実に近いです。

272 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 20:50:30.31 ID:U/NCp6Eo.net
パルメニデスの「ある」とプラトンのイデアは同じ。
プラトンはパルメニデスを参考とはした。
屈服したのではなく言いがかりのような批判を受けただけ。

273 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:05:52.77 ID:gXbBhQYi.net
Fr.2
  いざや私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ――
  探究の道として考えられるのはいかなるもののみぞ。
  その一つは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、
  これは説得の女神の道である(真理に従うがゆえに)。
5  他の一つは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、
  この道は全く探ねえざる道であることを私は汝に告げる。
  なぜならば汝はあらぬものを知ることもできなければ(それはなしえぬこと)
  語ることもできないから

Fr.3
  なぜならば思惟することとあることとは同じであるから。

Fr.4
  現前してはいないけれども知性には現前しているものをしっかりと見よ。
  あるものがあるものにつながっているのを切りはなすことはしないであろう――
  それが秩序をなしてあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、
  集まっているにせよ。

Fr.5
  どこから始めようと私にとっては同じこと。
  そこへ私はいつか再び帰り着くであろう。

274 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:06:58.08 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
Fr.6
  あるもの(のみ)があると語りかつ考えねばならぬ。なぜならそれがあることは可能であるが
  無があることは不可能だから。このことをとくと考えるよう私は汝に命ずる。
  探究の道として私が汝を遠ざけ<禁ずる>のは先ずこの道[無の道]、
  しかし次には死すべき人間どもが何ひとつ知ることなしに頭を二つ持ちながら
5  さまよい歩く道を汝に禁ずる。すなわち彼ら死すべき者どもの胸の中では
  困惑がその迷い心をみちびき、彼らは聾にして盲、
  ただ呆然ともの識り分かちえぬ群衆となってひきまわされる。
  彼らはあるとあらぬが同じでありかつ同じでないとみなす。
  彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある。

Fr.7
  なぜならばこのことあらぬものがあるということはけっして証しされぬであろう。
  いな汝すべからく探究のこの道から想いを遠ざけよ
  また汝が多くの経験に支えられた習慣にしいられてこの道を行きながら
  もの見分けえぬ眼と鳴りさわぐ耳と舌とを働かせることのないように。
5  汝はただ理(ロゴス)によってこそ私によって語られた異論多き論駁を判定せねばならぬ。

Fr.8(抜粋)
  語られるべき道としてなお残されているのはただ一つ――
  すなわち(あるものは)あるということ。この道には
  非常に多くのしるしがある。すなわちいわくあるものは不生にして不滅であること。

275 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:14:30.41 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html

↑上のサイトの資料とする項目にあるパルメニデスの詩の形による意見の抜粋である。

276 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:43:25.93 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/plato/plato.html#plato_jikohihann
3-1、イデア論論駁 ―『パルメニデス』―

ここがイデア論の反駁が解りやすく書かれているようです。

277 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 03:38:56.99 ID:vNKKVEt9.net
引用は、プラトン哲学についての素晴らしく分かり易い説明だが、イデア論は、
生命論から見れば、完全な妄想に過ぎない。

1.すべてのイデアは、個の人間が死ねば、肉体は腐敗して消滅するから、死者
にとっては一切生じない。「個の魂の不死」などありえず、あるものは「人間
という動物の一種属の生命」の継続のみ。他の種属のイデアは、人間がその
種属に成り代わらない限り、絶対にわからない。人間に「共通のイデア」がある
としたら、それは専ら、種属としての人間の肉体(生命)の維持のためである。

2.すべてのイデアは、「具象物を知覚して生じる、生命の機能としての心理現象」
に過ぎず、時と場合によって、百人百様である。万人に、また同一人にとっても
時と場合を問わず、「美(という心理現象)がある」のではない。「美しい花がある。
花の美しさなぞ、ない」のである。

3.「善」というイデアは、人間の生存(共生)に不可欠な技術概念である。
他者の生存を助ける行為を「善」と呼び、他者の生存を害する行為を「悪」
と呼ぶ。従って、善悪概念は、特定の生存共同体によって異なることが多い。

4.すべての人間は「洞窟の囚人」としてのみ生存している。他のそれぞれの
動物の種属も同じ。「松明の影」のみが、その生存可能な全世界である。松明が
見えるとしたら、それは、その種属における狂人のみである。

5.イデア論は、イデアを現実とするという倒錯により、宗教やイデオロギー
による争いを引き起こし、人類に巨大な害悪をもたらし続けている。

6.パルメニデスの批判は、イデア論に対して可能な多数の批判の一つとして、
論理的に正しい。

278 ::2015/10/22(木) 16:25:56.77 ID:VT2lrEf5.net
昨日のホンマでっかTVは面白かったなw

人間は見たいものしか見ない生き物である〜
楽観的な人間は悲観的な事を見ず楽観的な事しか見ない。
反対に悲観的な人間は楽観的な事を見ず悲観的なばかり探して見る。
これで性格が形成されるのだが、トレーニングにより悲観人間を楽観的思考人間に変える事ができる。

下手な宗教の修行よりこういうトレーニングでもやる方が遥かに有意義だなw
悲観思考の人間が楽観思考の人間に変わり明るい人生を送る事ができる〜w

大体、輪廻転生なんて妄想に嵌っているのは、そこから逃れ離脱することが解脱なとほざいているが、
実のところ一回きりの人生なんて嫌だ〜何度も「我」を繰り返したい、それが当然だ〜って輪廻を志向している
からではないのか?ww
なんせ人間は見たいものしか見ない生き物だからなw 輪廻しか見ない人間はトレーニングでそこから離脱する事が
大事だなw

279 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 19:08:25.37 ID:omUlnGIu.net
創造主の作品作りの才能から無を悟れるお

280 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 21:29:53.06 ID:p1RnaOoZ.net
旧約聖書の創造の章で、女の神と男の神様が、自分たちに似せて人を男と女に作ろうと
したとあるね。これって初めの唯一の神ではないと言わなければならないね。

どういうことなんだろう?俺は思うにこの女神男神は、サタンに支配された
アダムとイブだというなら、納得できる。あだむといぶは、さたんにだまされてりんごをくったのだが、
リンゴを食えば、神のような智者になると騙されたのだ。そこで、アダムとイブは自分たちを
神になったものとして、そのように間違っておもって、自分たちに似せて人を男女に作ろうと言ったというのなら、
つじつまが合うね。
創った人間どもは、不完全であった、当然。それ以来サタンの支配する世界になっていると、。

281 ::2015/10/23(金) 07:47:46.03 ID:HCaioZaA.net
この日のホンマでっかTVはもう一つ面白いネタがあって、
コレステロールは若干高い方が良く、体のコレステロール値は食べるものに
影響を受けない。卵や油を多くとろうが少なくとろうが体のコレステロール値
は変わらない〜というものw

これに対しての池田氏の補足がまた良いw
(ベーシックな部分では人間に普遍的なものもあろうが、)個々人により何が良いか
悪いかは違うので一概にコレが良いだの悪いだのは言えない。つまり酒を飲んで
調子が良ければ飲めば良いし酒飲んで調子悪ければ飲まなければ良い〜ww

これはまさに宗教にも言える事だわなw
だから伝統の宗教がカスと言うんだよw
人間に普遍的な事など当たり前の事なので説くに値せず〜では何が説くに値するのか?w
それは個々人で異なるので説いても意味がない訳だ。というより何を説いても良いがそれを
受け取る方が何でも鵜呑みにする姿勢が阿呆という事になる、というべきか?w

つまり伝統で一から百まで伝統に従え〜なんてのは愚の骨頂w
宗教の教えは教えを受ける方が取捨選択するもの。自分に合うものを受け入れれば良い、というより
そうするべきで、全部が全部鵜呑みにするのは阿呆だ。
つまり自力、自灯明(自分で取捨選択する)こそ宗教の望ましい在り方で、他力で題目唱えて救われたい
なんてのは阿呆らしい在り方に他ならず、まさにそういうのは宗教というより文化として伝統を守る価値しかあるまいw

282 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 11:44:41.53 ID:Xd6kZGhQ.net
おじゃる氏?
死んだのか?

283 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 13:00:51.31 ID:jfzV+hlN.net
 
>おじゃる氏?死んだのか?

内臓の働きが悪いので、もう、そのうちに逝く予定で おじゃる

おじゃるの場合は
「輪廻している」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
掴もうとしている想いに依存して
異蘊相続に依存して
(前世の記憶はないけど)
又、次の、この世の生に戻り来る

 − これに対して −

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 877
かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って
諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない
思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない

(「無明の世界から → 解脱へ」と導いていく)

284 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 13:11:23.55 ID:1jENREYX.net
http://myougamono.main.jp/

285 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 16:15:48.66 ID:Xd6kZGhQ.net
>>283
>内臓の働きが悪いので

感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ。
あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?

仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ。

286 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 17:27:12.17 ID:Xd6kZGhQ.net
空と言う真実に逆らえる思考はないのだよ。逆らっている限り、空と言う真実から罰を被るだけだ。

縁起の輪から抜け出せ。そして縁起を蹂躙してしまえ。そして、これからは縁起を創設していけ。
縁起の世界を自分で作りだしていけ。
 
 なんて言っちゃって他者に言うのは軽いねw。

287 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 18:34:50.20 ID:jfzV+hlN.net
>感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ
>あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?
>仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ

例えば
仮設としての(実有・実体ではなく空という性質だからこそ因と縁の双方の縁起に依存して)
おじゃるは
認識は対象の形相を有していると考えている
有相唯識派の段階なので、それ故に

 ☆ 大日の智の総体の法界体性が主体であったとしても、それでも ☆

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派  無相唯識派
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(空という性質に依存しているときも「我ではない」)
という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
仏の智慧は、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智

288 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:15:31.29 ID:agYfAMRt.net
>>287

「無常」とは、「瞬時においては常」を前提とする。常に変化している物は、
その状態のままが常。

「我ではない」と否定しようとすればするほど、我への執着が生じる。
否定しようとしている主体は、「常なる我」である。

我を真正面から肯定し、それを「我を忘れて」ひたむきに生きることにより、
初めて「無我」が達成される。ことさらに「無我」を求めるのは、「我への
執着」以外の何物でもない。

常や我を「否定する」釈迦は、この真理に思い至れなかった。

289 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:25:01.64 ID:UZ2C7hPf.net
>>288

>思い至れなかった。

お釈迦様は思いを超越したのですよ。
次元が違います

290 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:29:40.51 ID:agYfAMRt.net
>>289
「はじめから思い至れなかった」のだから、「超越した」とはいえない。

291 ::2015/10/24(土) 20:30:38.23 ID:uq/Pkksv.net
最後の一行以外は概ねその通りであり間違いはない。
さすがは隠居氏であるw

無我とは「全ての物は我が物に非ず」という非我が本来であり我が無い「無我」と
いうのは後代の飛躍である。
最後の一行に対する私の見解だw

292 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:32:48.93 ID:yz+Kt+4o.net
>>291
「非我(我に非ず)」では、「比較の対象としての我の存在」を前提とするね。

いずれにせよ、「無我」は誤り。

293 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:41:25.21 ID:/ckIpSvP.net
>>292
我に非ずではなく我が物に非ず〜
仏陀は我を無いとは言っていないでしょうw
真我という点では何らその存在については回答していない。
有るとも無いとも言わないから非有非無で空〜となるんだろう。
それはそれで構わない。間違った無いの主張よりむしろ隠居氏の言う通り
我を有るもの(実人生上の〜)として生きる事の方が重要と言える。

無我を我が無いと訳した人間が阿呆なのだろうww

294 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:45:01.00 ID:/ckIpSvP.net
あれもこれも我が物に非ず〜自分の子供も我が物に非ず、自分の肉体も我が物に非ず〜から
飛躍して「では、我というものは無いのではないか〜」で無我の我は無いに発展していった。

295 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 03:55:32.74 ID:yz+Kt+4o.net
>>294

それはどうかな。「我が物に非ず」という度ごとに、物の所有主体としての
「我」が意識され、強まる。

釈迦は、「我の物」でなければ、一体「誰の物」と考えたのか?「彼の物、
彼女の物」かw。彼も彼女も、他我としての我である。

296 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:09:50.89 ID:sS+GeESg.net
縁起してるものに実体がない、。その実体の意味が我になったと考えるべきだ。
実体=我ということだ。

非我と言うときは、それは我ではない、という意味そのもので、自分にかかわりなく、当のものには実体が存在せづ、
それは当のものの我ではない、実体ではない、という意味になろう。

わが身に関係なく、他のものに仮に実体があるとした場合、それは大事なものとして、疎かにできない、してはならない
ものとなる。ところがそういうものは天地にはないというのだ。なぜなら一切は縁起してるだけの世界だから。

人間特に自分を考察してみても、体内の諸器官は、一切縁起関係にあるもので、実体としてあるものはない。
我と言う実体はないのである。体外を見ても、同じだ。五感を通しているが、五感自体が縁起関係の根幹だ。一八界と言われる。
我という固定物としての実体はないのだ。
こんなわけで、「世界を空なりと感ぜよ」という覚者の教えがあるのだというべきだろう。

だから、非我というと、眞正の我が前堤となり、一方無我と言うと「有我」を前提とするが、これらは縁起世界での認識に他ならないのだ。
勝義諦の世界では、実相である、一相なもの、無相なもの、空相なもの、これこそ実体なのであり、それを有我とか真我と言って差し支えないのだと思う。

297 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:58:38.14 ID:/ckIpSvP.net
>>295
>物の所有主体

物の所有主体〜この主体というのが真我ならば、仏陀は真我、アートマンについては有るとも無いとも言っていない。
我は何物も所有しないものである〜と言っているだけでしょう。

298 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 14:52:46.32 ID:OWoMfeoZ.net
>>296

「色即是空」されど「空即是色」。「人間にとっての世界とは、人間の五感に映じただけの世界だから、
実は空(無)かも知れない。しかし、その世界こそ、人間がこれまで生存してきた、また今後も生存
し得る唯一の世界、すなわち現実界なのだ。人間が世界は無などと考えるのは、無意味なこと」。

「有は、人間の生存に直接の関係を及ぼす。無は、そうではない」。大いなる現実肯定である。

人類は、その発生以来、「専ら五感の知覚による、有無の一義的区別」によってのみ生存してきた。
人類は、有に100%依存しない限り、一瞬も生存できないからである。目の前に見える大地が
有でなければ、人間は一瞬にして奈落の底である。

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は実際は空ではない」ことを前提としている。

釈迦の縁起は、明らかに因果関係。因果関係は、忌むべき「業報論」を維持するための実体関係。
中論の空は、釈迦の縁起を「相互依存性・関係性・相対性」と解釈し直すことにより、それを換骨奪胎
したのである。「関係性」は「抽象観念」だから、まさに「空」。中論第一章では、釈迦の縁起
(これがあるから、あれがある)を明示的に否定している。

本質的に異なる釈迦の縁起と中論の空とを混同するから、大いなる混乱が生じている。

299 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 15:30:09.39 ID:/ckIpSvP.net
その通りw
>>211で指摘した通りである。

300 :123:2015/10/25(日) 17:40:48.01 ID:dFtPwLTQ.net
298.
縁起を否定したものが空である。
その両者に矛盾がない。
空は本質論であり、縁起は現実論であることになる。
だからして、その両者に生存しても良いことになる。
よってして、分裂すること無かれ、である。

301 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 18:11:53.20 ID:ueZS7mkI.net
>>300

釈迦の縁起(因果関係)なら、幼児にでもわかる。「火に手を近づければ火傷する」。

これに対し、竜樹の空(相互依存性・関係性)は、「もろもろの存在(有・現実界)の
成立原理」。

両者は、「本質的に別物」と考えるべきである。

釈迦の縁起・中道は、竜樹にとって「ヒントのヒント」ではあったかも知れないが、
それから「相互依存性・関係性」という、万物・万人に通じる普遍の真理を導き
出した竜樹の頭脳は恐るべき。竜樹が、古今東西並ぶもののない天才思想家と
評価される所以である。

「如来の本性は、そのまま生類の本性(即ち、生命)」。見事な締めくくりでは
ないか。

302 :123:2015/10/25(日) 22:33:32.58 ID:dFtPwLTQ.net
301.
如来の本性は、そのまま生類の本性、即ち、生命、か。
それを生命、生類に限定することは、誤りである。
それでは万物に適用されないことになる。
竜樹の空は、因果関係から、因果を省略したものである。だからして、それは、成立原理ではないことになる。
以上は試論なり。

303 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 23:55:07.53 ID:ueZS7mkI.net
>>302

「生類の『本性』」は、生命以外にはない。

万物を認識・使用できるのも、「生命」のみ。死者には不可能。

「因果」は、時間を含むから、時間を刹那にすれば、存在の構成という一枚の断面図
となる。それが竜樹の空である。そのために、中論は、時間を否定する。時間とは、
存在の変化のことである。諸行無常の存在は、時間を停止しなければその構成は把握
できない。動いている機械は、停止しなければ、その構造はわからない。過去も未来も、
それを認識・思考できるのは、「今ここの生命」。

死者にとっての最後の世界は、一枚の静止画面である。

「もろもろの存在の成立原理」という言葉は、「もろもろの存在の構成原理」に
変えたほうが、君のような誤解を招かないと思う。「成立」では、時間の概念が
含まれてしまうから。

304 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 05:51:04.02 ID:wZy+12he.net
君たちの信望している記憶、言葉
その知っているという感覚自体がどこから来たのかな?
覚えた事をこねくり回しても真理には触れることさえできない。
この言葉も覚えておくといい。

305 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 09:11:19.61 ID:DWFOLmtv.net
>>304

中論本文に直接取り組んで理解すれば解る。中論の表現は極めて難解だが、
「著者の言いたいこと」を気持ちの上でフォローしながら読むと、内容は
極めて当たり前のことを言っている。難解な表現に振り回されないで、
それに流れる「思想」を自分の頭で素朴に理解するよう努めること。

中論の思想は、論理矛盾は皆無で、一貫して確立された完全な思想体系。

注釈書は、あくまで筆者自身の「宗教観」に基づいてさまざまなので、
却って有害。

306 :123:2015/10/27(火) 07:21:42.75 ID:floY7pIE.net
303.
万物を認識、使用できるのか。
その認識は認識論の問題である。
その使用とは実践論の問題である。
それらは存在論ではないからして、構成原理とか成立原理とかに関係することには困難がある。
疑問のみ。

307 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 08:56:58.41 ID:bn1A79lY.net
西洋哲学では、当初は存在論であったが、それは認識に他ならないというので、存在論
と言わないで認識論というようになったのだ。
存在してるかどうかは認識によるほかないということで。
大した相違はないと思うけど。

生命と言う言葉が出てるようだが、仏教の世界ではおかしなことではないか?
日蓮教徒のいうことだと思うが、日蓮教は仏教ではないからな。

生命などないというのが仏教だ。生命があると考えること自体が、それを実体視して
以降の論を展開することになる。しかし、その論は破たんする以外ないのだ。それは何度も
仏教の世界、世界の哲学宗教の世界で、論じられてきてることではないか?

仏教では、それは欲心、有身見、に他ならないと言っているだろう?
仏教は、世界の真実は、空相、一相、無相、一、と言っているのだ。生命などお門違いの見解に下していると思う。

菩薩の修行でも、菩薩は、自分の肉体はゴミクヅとして放棄する、もし他者が望むなら、土塊の如しとしてくれてやる代物だ、と考えるとある。
そりゃそうだろう。釈尊自身も、肉体に執着することの愚かさを言明している。多寡だか、100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

仏教の理法にその存在はないのだ。

308 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:35:03.93 ID:bn1A79lY.net
生命があるという前提で、進化論や遺伝だとか、今のかしましい量子論が
盛んになったのだ。しかし、どれも解決に至ってはいない。
そう、個人には知能という能力があって、それはだれが考えるテストか知らないが、
その者の知見で、判定でき、知能指数=IQと喧伝されている。
お前はIQが低いから、馬鹿だ、とか、高いから優等なのだ、とか、それが人間関係を支配しているようだ。
生命があるとはIQが高いのだ、ということになるのだろう。

仏教およびほかの哲学の世界では、それは全く通用しない。通用すると考えているものがいれば、
学問するものではない。

でもしかし、IQ信仰が生じたということは、結局仏教が理解できないものが、現実的な処世術を求めた結果の
後出しじゃんけんみたいなものなのだ。

このIQを我だと考えているのだ。そして、それはその人の欲心なのだ。
欲心があるものが生命を持つものなのだ、彼らにとっては。
まったく釈迦の教えと真逆の思想が発生することになったのだ。

309 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:55:57.18 ID:2Lu25q20.net
>生命などないというのが仏教だ。

無いと言わず、有るとも言わない。しかしそう主張している人間は確実にいる(いた)のであるw
主張する人間がいなければ主張は残らず仏陀という記録も無いであろう〜w

それに仏教は二元論と最も対極にある主張である。
アンタの言っているのは完璧に二元論。
肉体と魂とがあり、肉体は死ねばごみ屑に等しく魂の牢獄が肉体〜との見方は二元論で西洋の
捉え方に他ならない。
原始仏教は多元論であり大乗仏教は一元論でありいずれも二元論の対極にあるものだw

310 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:04:06.83 ID:bn1A79lY.net
>>309
>アンタの言っているのは完璧に二元論。 肉体と魂とがあり

俺は肉体もなければ、魂もないという主張をするものであり、それが仏教だと信じちよる。
だから二元論者ではない。

肉体も魂「これのことを心と言うのだろう」があるとかどちらか一方があるとか言うなら、それは仏教の実相は
空相だとか、無相だとか、一相だ、というに反する。

原始仏教も大乗仏教も、その教えは一貫して一元論だ。
実相が無相なもの、姿なき姿を持つもの、ということだ。これだけが真実に存在するものなのだ。

そこで、この真実は実に一切の人間の悩み苦しみを、完璧に拭い去る者だ。
これを理解し、知るものはその時点で、救われているのを知る。これが悟りだ。

で、この真理をだれかに教えたいとお釈迦様は思われたのだな。

君は、そういうお釈迦様は人間で、命を持っていたからで来たので、死んでいてはできなかったことだ、だから
命は少なくとも、あるともないとも言わない、と曖昧なことをいって誤魔化しているだけだが、
お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

そして、「私係の姿を取ってこの世界に生まれてこの真実を教えようと教えまいと、この真実は永遠の過去から未来に渡って存在しているのだ」と三世恒有を説かれているのだな。

世界の真実が、無相なもの、一相なもの、であれば、その真実に従った論理は流れ出てくることは理解できるだろう?

この世界の真実を知った覚者は、インド以外にも、ギリシャのパルメニデスとか、中華の老子荘子などもいるのだ。

311 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:07:50.16 ID:bn1A79lY.net
私係の姿を取ってこの→わたしが仮の姿を取って

312 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:21:19.22 ID:2Lu25q20.net
まさにソレが無い無いの馬鹿主張であると言っているw

ゴータマは生存時に己の主張を宗教とは認識していなったであろう。
ジャイナ教やバラモンの教えも肯定し、他者の教えも聞き受け入れ
何ら排他的要素が無い〜これがまさに多元論であるゆえんだ。
また、ゴータマ生存時には大乗以降が空を看板としたような空を最前面に
押しての主張はなされていない。空を看板として仏教は多元論から一元論化された。

>自分の肉体はゴミクヅとして放棄する〜

この一句がまさに己の思考の二元論である事を証明している。
これは西欧の思考であり全く仏陀の主張とは異なる。

313 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:43:45.67 ID:QLnG0gSE.net
>>307
>100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

永劫の時間における100年の己の生命は、ほんの刹那の一度きり。しかし、
永劫・無限をも認識・思考できるのは、その刹那の生命のみ。

物事は、限りがあるからこそ価値がある。ダイアモンドが無数に産出するなら、
それは単なる石ころと同じ。貨幣を無限に発行すれば、紙幣は単なる紙切れ
となり、たちまちスーパーインフレが生じて社会は崩壊する。

この意味で、イエスのいう「永遠の生命」は、「地獄」の別名である。

314 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:55:50.74 ID:QLnG0gSE.net
>>306

いかなる対象も、人間が認識できなければ、それは存在・実在ではない。
実在でなければ、人間の生存に何らの直接の関係もない無用の妄想・空想。

神は、人間に認識できないから、人間の妄想・空想であり、人間の生存に
何らの直接の作用も有しない空想・妄想。

ゴキブリに神が認識できれば、ゴキブリにとっては神は実在である。

新たな物質が発見された場合、それが過去のいずれの時期から存在した
のかを証明できないから、認識の時点で発生したとしかいえない。

この意味で、存在論と認識論とは同一。

315 :123:2015/10/27(火) 18:42:04.75 ID:vHyPP5ar.net
314.
存在論と認識論とは同一、か。
論理的な思考能力がないということになる。
唯識の読みすぎである。
神は、人間に認識できない、か。
空想、妄想として、認識できれば、立派な実在であることになる。
新たな物質が発見された場合、
認識の時点で発生した、のか。
それは認識論であって、存在論ではないことになる。
その区別ができないことは欠陥である。

316 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:22:06.87 ID:OjlwV776.net
>>314
水たまりを見た。水たまりだと認識した。本当にあると思ったんだ。
しかし、近づくとそれは消えた。

水たまりは実在したのですか?


じつざい
【実在】
《名・ス自》

1.
実際に存在すること。
?「―の人物」
2.
哲学
われわれがそう思うからそこにあるように見えるというのではなく、われわれと離れて別に、客観的に存在するもの。

317 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:47:00.66 ID:HYBb+e0y.net
>>315
君は、君の目の前のPC(ビール瓶、机、その他何でもよい)の実在をどうやって
証明するのか。君の五感で知覚できること以外には、方法はない。

ある素粒子の実在をいくら理論的に仮説しても、観測装置によって観測する
までは、実在は証明できない。あくまで仮説に留まる。観測前の何時から実在
したかの証明は不可能だから、結局、観測時からと言わざるをえない。

そして、観測も、生命の機能としての、観測装置を通じた人間の知覚による。
死者には一切不可能。

そして、実在でない限り、人間の生命の維持にいかなる直接の影響も及ぼさない。

318 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:50:53.40 ID:HYBb+e0y.net
>>316

それは、知覚の誤り(錯覚)であり、「誤り」という」以上、「正しい
知覚」があることを前提とする。

319 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:57:48.82 ID:HYBb+e0y.net
>>316
人間界が、徹頭徹尾共同体である以上、実在判断のための知覚は、不特
定多数人のほぼ同一の知覚でなければならない。知覚異常者、妄想患者、
宗教患者の知覚を除外するためである。

320 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:02:31.13 ID:HYBb+e0y.net
すべての人間が同時に死に絶えたと仮定した場合、この世界の実在は、
誰がどうやって証明するのか?

他の種属の動物の知覚が、人間の知覚と同一であるという保障はない。

321 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:16:31.95 ID:2Lu25q20.net
仏陀の天上天下唯我独尊の意味は生存中の人間個々全員にとり
その認識の世界こそがその個々にとり全ての世界であるという意味であろう。
唯我独尊は仏陀のみが対象なのではなくは生存中の人間個々全員が対象なのである。
より正確には生存中の命あるもの全てというべきかもしれない。
ゆえにそこから慈悲の精神が生まれ、生きとし生けるもの全ての安穏を願う事につながる。

死後どうなるかなんてのは分からない事でありそんなものを妄想するなかれというのが正解だw
空で実体がない事を必要以上に強調し、さらに踏み込んで何でも無い無い〜と言うのは阿呆である。

322 :123:2015/10/27(火) 22:08:43.76 ID:vHyPP5ar.net
320.
人類が絶滅しても死刑は正義は実行されなければならない。
カントの言葉とか。
人間の絶滅と共に滅亡するような真理は真理ではない。
それは人間の認識とは関係ないことである。そこに存在論があることになる。

323 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 22:41:49.06 ID:HYBb+e0y.net
>>322

「正義」の意味は、キリスト教徒、イスラム教徒、そして恐らくは
仏教徒とでは全く異なる。

現実界(五感で知覚できる世界)に還元できない観念語は、意味の
伝達の機能も果たしていない。

言語の起源は、人間の生存に関係ある具象物を区別・特定・指示する
ために人間が作った「記号」である。

宗教の教典から「観念語」をすべて除去すれば、内容はゼロである。

カントは、「物自体」と「知覚された物」とを区別したが、彼は、
知覚できない物自体を、一体どうやって確認したのか。すべて妄想に過ぎない。

324 :123:2015/10/28(水) 01:31:23.58 ID:ewJOjmNS.net
323.
すべて妄想に過ぎない。
そのとおりである。すべて妄想である。
妄想でないものが、ある、と言っていることがバカである。
よってして、内容はゼロであることになる。

325 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 02:53:55.18 ID:fXjVi2td.net
>>324
不特定多数人(健常者)が五感で知覚できる世界(現実界)だけは、妄想では
ない。何故なら、その世界だけは、人間の生存が可能だからである。

326 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:06:15.43 ID:QnN0wQUH.net
妄想でも痛いとかはリアルなんだから、なんとかしないといかん、笑

327 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:48:05.05 ID:aQYMTi3Z.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3

宗教妄想
誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。
統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、
霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、
内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴で、
現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。
つまり自分自身を“神”の化身であると信じてしまう症例である。
人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。
これが極端になると新興宗教の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。

仏教における妄想
仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく
戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、
健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、
主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。

元寇の脅威にさらされていた鎌倉時代、大軍勢の外敵とどのように戦えばいいのか苦慮していた執権北条時宗に対し、
禅僧無学祖元は「莫妄想」(妄想することなかれ)と諭したといわれる。

宗教的、仏教上の妄想〜というのもあるが、基本的に妄想は精神障害のもの〜という概念でよろしいようだなw

328 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:56:20.71 ID:2nMgr31v.net
>>325
夢の中でリアルな肉体と五感があり、アイデンティティーもあり、仕事や飲食もするし社会もあって人々もリアルに生存しています
夢見の最中に今、夢を見ていると完璧に気づけないなら、実在や妄想について何も断言できないだろう。

329 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 06:22:14.37 ID:aQYMTi3Z.net
広義で人間は全員見当識障害だからその人間が描く世界は全部妄想と言っても
間違いとは言えない。
では人間-間-での「概念」の世界という枠内に限定すると、この線引きは目覚めた
健常者か否かという点にある。眠って夢見の夢内容や瞑想の夢内容、ドラッグ下での
夢内容などは当然その外にいる人間と概念として共有できない以上、それは妄想である。

健常者でない精神障害者のものは>>327のとおりであるw

330 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 12:26:14.83 ID:aQYMTi3Z.net
目覚めた健常者〜

つまり、区切るとこうなる。(あくまで広義、極論ではないという事を前提にw)

妄想
変容意識下
精神障害下

非妄想
日常意識下
健常者下

331 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:15:42.05 ID:+MEPRNxl.net
>>328

最新の学説では、夢は、睡眠時における脳細胞の混乱。覚醒時にすでに
知覚・記憶した対象が、支離滅裂な形で出てくる。従って、夢の」内容には
特段の意味はない。

332 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:21:05.40 ID:+MEPRNxl.net
>>327
釈迦とイエスとムハンマドが、宗教妄想の典型。信者は、その妄想が
感染したもの。精神病は、感染する(「感応精神病」)。

333 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:39:13.82 ID:+MEPRNxl.net
>>331への追加

睡眠のREM睡眠段階においては、眼球が、時々、無意味に急速回転
運動(rapid eye movement)をしている。夢も、同様な現象だろう。

334 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 16:32:53.00 ID:msC72+pU.net
>>1
>仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、

強調したかどうかはともかく、推奨されたのは「中道」に於ける「空性」だろ
「無」など強調していないし、「空」は「有」でも「無」でもない
仮に、有と言っても無と言ってもそれはどちらかに僻見した極端なのであり、それは中道ではない

紐よ、お前は何年経ってもオツムが進歩しないな

335 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:29:31.37 ID:4/FD3vbI.net
老荘では聖者は、虚無に遊ぶ、というけど。

悟りを開き解脱した仏教徒も、虚無に遊んでいる、のではないの?

法華経の如来受領品16では、釈迦仏は、自分の様子をそのように表現している。凡夫どもが阿鼻叫喚している下界を見ながら。

虚無思想とはいったい何なのか?大乗では虚無思想ではないと抗弁している。
仏教の虚無とは、実相の世界のことで、虚無土心か、真実の世界で、それこそが
現実の世界、平安の世界なのだ。虚無思想とは仏教が抗弁する以上、それは真実の世界ではなく、
真実と真逆の世界で、真っ暗闇の世界のことなのだ。そこで老荘の虚無は、そういう真っ暗闇の世界のことではないものとして、
言っているのであり、それは仏教と同じニルバーナでなければならない。

虚無の「無」とは、凡夫の世界の世界ではないので、凡夫があると思う一切がない、という意味なのではないのか?

とにかくも、経典が言うように、凡夫と聖者では、真逆のことが起きるというのだ。

336 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:43:28.62 ID:aQYMTi3Z.net
>334
www
笑わせるw

非有非無の空ならば良し、また別面で人生の我としては有であるのも良し。
私が阿呆と言っているのは↓のような無い無い〜馬鹿に対してであるw
空又は有ならば構わないが、無い、しかも無い一辺倒〜こういう馬鹿に文句を言い続けている。
このスレはオマエさんの様な人のレスを読めない幼稚園児が多くて楽しいなw
>>310
>お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
>つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

337 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 03:01:25.38 ID:/R+32fkm.net
>>336
では訊くが、「非有非無の空(1)」とは何かね?
そして、「人生の我としては有(2)」とは何がそう決めるのかね?
先ず上記の(1)と(2)とを説明してみてくれないか

但し、説明しだしたらお前は如来の最上なる確信を知らない事が露呈するのであり
それはお前が空性を誤解して覚えてる事を意味する

因みに、>>310氏に於かれては、頑張って良い事を伝えようと奮戦されているとお見受けできる
但し、少しばかり中道を軽視されているご様子ではと思われる

>>335
「虚無」とは言えども、それを「虚無」だと認め知れねば「虚無」かどうか問える筈もない
「虚無」だと知って始めて「虚無」だと言えるのであるから、言える以上に於いてそれは「虚無」とは言えないであろう
何故ならその「虚無」は「有る」事を前提としてしまうからである、そんなものをどうして「虚無」だと言えようか

338 ::2015/10/29(木) 07:37:16.80 ID:9nJp6inr.net
>>337
「では訊くが〜」で何でも訊けば今まで人のレスなど大して真剣に読まずとも
どの都度訊けて楽で良いよなww

私は最初から何度も繰り返し同じ事しか言っていないんだが?w
形而上の存在論では「有る」とも「無い」とも言えない。
宇宙の果て(始まり)が有るとも無いとも言えず、素粒子を半分にしてさらに半分にして残ったそれは
有るとも無いとも言えず〜w
回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい。

一方、個々人の実人生(個々生命体の実の一生上)その個々人、個々生命体はいる、(いた)のであり、
無いと断定することは「虚無」に他ならずそんなニヒリズムは仏教ではない。無の連呼こそ仏教の誤解である。

如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

339 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:29:28.03 ID:/R+32fkm.net
>>338
なるほど
教えてくれてありがとう

>(前略)有るとも無いとも言えず〜w
>回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい

と、以上がお前の考える空なのだね?
要するに、「自分以外は全て空」だと考える訳だ

で、自分は空と看做せないんだね?
お前はどれがお前なのかな?お前は有ると言えるんだろ?
有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
どれがそれなのかな?

>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

あらゆる宗教・思想・信条の何れにも劣らず最も優れたものを、お前は知りたいと思わないか、そうか
自分の不満や不如意が何によって為されるのかも解明されて有意義になるんだが、それも不要と言い切るか
勿体無い事を知らないってのは不幸だな

340 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:44:59.88 ID:9nJp6inr.net
無論、自分を存在論で見れば空だろうよw
自分の人生の主として見れば有に他ならないと言っている。
このレスを書いている俺が俺に他ならない。

>有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
生まれてから大いに変わるだろうよw
おぎゃーと生まれて何十年も変わらずおぎゃーじゃのままでは人間じゃないだろうw
人は成長しその都度一瞬一瞬変わる。

中論の読み過ぎでは、変化するものは「有る」に含まれず空である〜になるのだろうが、
それは冒頭の存在論に戻るだけでそもそもソレは空であると肯定している。

変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。
仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

根本の間違いがそこにある。大元を間違っていてはいくら踏み込んでも間違いの結果しか得られない。
大元が正しければ如来の最上の確信など不要であるw

341 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:22:15.69 ID:/R+32fkm.net
>>340
>無論、自分を存在論で見れば空だろうよw

そう考えてそうだと思う訳だね?

>このレスを書いている俺が俺に他ならない。

そう考えそう思う訳だね
考えて思って書くだけじゃ根拠が薄いと思われるがどうかな

>変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。

うん、そうだな
人生はモノじゃない故に存在の如何を問えないだろう
でなければ「人生とやらを出せ」と言われる

>仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

そうだな
それ故に「有る」と選択したり執着したりすると中道ではないと仏教は教えてる訳だ

根本の間違いはだ、有無のどちらかを選びたがるその執着所以の思いが間違ってると言えるだろう
大本が間違わなければ、全員如来の確信に至る、至って当たり前なのだよ

342 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:24:13.97 ID:9nJp6inr.net
では訊くがw
その如来の確信とやらを一言で示せw

343 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:33:08.55 ID:/R+32fkm.net
>>342
な?知らないだろ?
そして知りたがっただろ?

お前も自分を向上したいと願う希望があって、それが知りたがるんだよ
お前にもちゃんと素養があるし、決して洩れた人では無かったと言うそれが証拠になる

つまりだ、教えるのは構わんが、知ったらそれを貶せない訳で、その覚悟はあるかな?って話になる
何故なら、お前が知りたがってるそれはお前自身の正体の話になるんで、それを貶したり否定するのは
自分を否定する事になるからだ

どうかな?

344 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:35:43.64 ID:9nJp6inr.net
要は一言で示せないものを有難がって後生大事に人にも見せず
仕舞い込んでいるわけだw 
ひょっとしたらそんなものを持っていないのかもしれないがなww

345 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:45:27.12 ID:/R+32fkm.net
>>344
今のまま自分の正体もわからず仕舞いで良いか?

346 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:46:38.64 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww

もったいぶっていないでさっさと言えw

言えなければ言わずとも良いw
要はそんなものを知らなかった、あるいは無かった〜という事で良いよw

347 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:52:28.12 ID:/R+32fkm.net
>>346
じゃ、教えるが

先ず「涅槃」とは一体なんの事か、それを調べて、関係する経典も全部読んで解明してみればいい
如来(釈尊)はその涅槃こそがあらゆる思想信条宗教諸々の中にあっても最上で他に類がない事を突き止められたんだよ

「触なく感受すると言う、その道理は(外道に)ない」と如来も教えている
良く調べてみろ、お前は世界の全てを知り尽くせる事になるから

348 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:08:50.87 ID:9nJp6inr.net
教えるが、調べろ〜

って全然教えてないだろww

阿呆かw

生徒:先生! ○○について教えて下さい。
先生:分かった、教えよう。 調べよそれが答えだ〜。

こういうのは教えた事にはならんw
幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿になると理解不能に陥り、
一般的会話が成立しない。まさに>>330の妄想の範疇に陥るw

そのような姿勢では一生かかっても私の足元にも及ばないわw

349 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:24:37.12 ID:9nJp6inr.net
さらに繰り返し何度も言うが、
原始仏教は多元論であり大乗で一元論化された。
仏教は本来多元論である。空をことさらに強調する必要は無いのである。
存在論に必要以上にフォーカスをあてる必要は無い。

必要がないにも関わらずさらにその上を行き、無い〜無の一辺倒〜なんてのは言語道断だ。

仏陀の無所有の主張が無我につながり我が無いなどというとんでもない誤訳に発展したわけだw
仏陀の無所有の主張も理想ではあるがその理想を100%実践しようとすれば一瞬たりとも生きられまい。
つまり生きる上で無所有というのは達成できない理想なわけだ。
別の例えでは生き物を殺すなかれ〜というのも徹底すれば生きられなくなる。モノを食って生きる以上生きる事は他の命を
我に吸収する事である。仏教は色んな教えをあちこちから取り込んだものだ。こういうのはジャイナ教の影響が大きいのであろう。
ジャイナ教の理想は生まれたら一切の食事をせずにそのまま死ぬことであるらしい。そのような極端な姿勢では生きられない。

つまり、そこに中道が出てくる必然が有る訳だ。
中道は生きる教えである。非有非無を空というならば不苦不楽が中道である。
理想は理想として、極端な生き方は死を志向することになりそのような生き方の放棄こそが仏教なのだよw

350 :123:2015/10/29(木) 13:34:01.90 ID:XAJn19Kw.net
349.
無我であるところの自我が、いかに生きるか、の問題である。

351 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 13:44:58.97 ID:9nJp6inr.net
無所有や生き物を殺さない〜というのは達成不可能な理想に過ぎない。
達成しようとすれば死ぬ。

仏陀は死の勧めを説いているのではない。
快楽主義に陥らない程度に所有せよ、必要最小限を目指して所有せよ、死なない程度に食べよ
喰い過ぎて飽食に陥るな〜と教えているのである。
何でも行き過ぎは何もしないより悪い状態に落ちる事になるという事だ。
かといって快楽主義に陥るなかれだ。
どの程度か?といってもそれは個々人、時代時代により異なるので一概には言えないww

352 :123:2015/10/29(木) 14:06:07.01 ID:XAJn19Kw.net
351.
生死は問題とならないことになる。
それは結果であるからである。良い結果、悪い結果とかは問題とならないことになる。
中道とは何か。
それは規準を設定しないかぎりでは議論とならないものである。だが、そこには規準が設定されていない。よってして、判断停止という結果となる。

353 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 14:28:39.81 ID:/R+32fkm.net
紐よ、有身見を調べてみろ
まんまお前の状態の事だ
お前が賢いのは解ったから、その賢さに溺れる自分を一端捨ててみれば良い

出来ないと言うならそれまでの話
お前の抱える一切の武器を捨てれば身が軽くなるよ

354 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 15:59:51.71 ID:9nJp6inr.net
武器?
何を言っているのやらw

まあ、会話不能な妄想人と議論しても無駄だな。

「教えよう。 調べろ。」が答えの人だからなwww

355 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:32:16.47 ID:dsXsE/2F.net
その程度って自分で決めていいことなのか?
誰の何のための程度なのか?
仏陀ってのは自分で程度決めて悟ったのか?

356 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:36:47.93 ID:9nJp6inr.net
自分で程度を決めたのだろうな。
自灯明は自分を島とする教えだ。
当初はかなり厳しい基準であったろうが、後に時代に緩くなった感は否めない。

357 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:35:47.23 ID:/R+32fkm.net
>>355
色々な人から色々な「最高」を聞いてはみたが、どれも納得できなかったから最上を極めるまで諦められなかったのが釈尊でしょう
仏道は全ての人の為に全ての人の理解度の種類を問わずに開示されている事になっていて
それは結局、自分の為にある事になっていると言える
「程度」も結局は自分が決める
諦めの前に躊躇してしまうのは「挫折」で悔やまれるだろう
もし諦められたなら、それはお目出度い事この上ないだろう

四諦の「諦」とは諦めると言う意味で、それが最上の真理となるからそれ以上何もない事が明らめられる、と言う事

>>356
自灯明もお前は誤解しているんだな
自灯明は「自己に於ける四念処」を拠り所にしろと言う意味だ
つまり、

身念処・受念処・心念処・法念処

この四つを拠り所にせよと言うのが自灯明の本当の意味なんだよ
それは長部経典16の大般涅槃経にちゃんと出てる

358 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:39:51.58 ID:9nJp6inr.net
>>357
お前は「如来の最上の確信」を答えてからモノを言えw

調べろ〜が答えなど幼稚園児でも却下するわw

359 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:47:07.74 ID:/R+32fkm.net
>>358
いやいや、そもそもその程度も知らんでお前は批判していたんだろ?

世の中一般の感覚じゃ、それって「知ったかぶり」じゃないのかな
理解出来ない・それ以外に悪意もないなら、どうして批判したがる理由があろう

お前が操るその手元の機械は検索も出来ないのかな
お前の首の上にのっかってるそれは単なる飾りなのかな

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

360 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:49:16.22 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww
>>346にループするだけだw

何を答えようが答えた瞬間にお前は論理破たんの矛盾に陥る。

361 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:52:32.61 ID:/R+32fkm.net
>>360
再度書くぞ?

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

362 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:53:08.49 ID:9nJp6inr.net
wwwww

難しくて解らない、教えてくれw

363 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:55:38.90 ID:/R+32fkm.net
>>362
何が?

364 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:57:22.84 ID:9nJp6inr.net
もういいよw
やっぱお前は会話不能の妄想人間で終了だww

365 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:06:36.18 ID:/R+32fkm.net
知ったかぶりのままで良いのか、奇特な奴だな
口先だけで生きて物事は上っ面しか観られない薄っぺらな生き方で
本当にそれで満足なのか

366 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:09:48.47 ID:9nJp6inr.net
訊けば、
「難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃない」
で、
「難しくて解らない、教えてくれ」
でも、
「何が?」

いつまでももったいぶって答えず、答えは、「自分で調べろ〜」

こういう輩は世の中一般の感覚では関わらない方が良い人間という事になるw
妄想の精神障害者に違いないだろう。

367 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:16:31.73 ID:/R+32fkm.net
>>366
「どこ」が「難しく」て解らないのか言わなきゃ答えようがない訳だが?

ググって解る事ならググれば良いだけだろ?
ググって解らない部分を訊きたいんじゃないのか?
ググるべき単語はちゃんと示した筈だぞ?
この程度も自分で努力出来ないとか、そんなクズ過ぎな訳じゃないだろお前は

368 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:21:36.52 ID:9nJp6inr.net
分かった分かったwww
だからもう良いと言っている。

分かっていない人間の無理やりな回答など屁のツッパリにもならんからなw
グーグルの答えが回答らしいw

分からない事は全部グーグルで調べよ〜

つまり言ってる本人も何も分かっていないという事だろうがw

369 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:39:07.48 ID:9nJp6inr.net
そもそも、私は、>>338で、>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。〜
>>340で、>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。〜

と如来の確信だの涅槃だの不要と切って捨てているw

それが必要と主張する人間がそれを懇切丁寧にグーグルにない事も含めて不要と切って捨てる人間に説明する必要があるだろうw
なんせ相手は、「難しくて解らない、教えてくれ」と頭を下げて聞いているんだからなw

それを「何が」「ググって出直せ〜」で回答するのは、答えを知らない阿呆であることを証明しいるに他ならないwww

370 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:52:19.77 ID:/R+32fkm.net
>>369
つまり、お前はググってすらいないと言う事だ
全て難しくて用語すらから解らんので手取り足取り
基礎から教えて欲しいならそう言えば良いだけだろ

相手を馬鹿にして自分の無知の代償にする生き方は楽しいか?

371 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:59:04.87 ID:9nJp6inr.net
阿呆を相手にしても時間の無駄だなw

372 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 20:00:24.90 ID:/R+32fkm.net
そうだなw

373 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 21:34:02.90 ID:3kmyPhCN.net
そういう対話も仏道修行何だろうな。w

374 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 15:05:35.26 ID:VrrwVQen.net
キリスト教ではサタンの智慧を叫ぶ。サタンは蛇の姿をしている。
蛇は人に巻き付き、人の自由を奪い、最後には殺す。

嗟嘆の智慧とは、真実の智慧ではないものを真実の智慧として、支配するものだろう。
サタンの智慧との戦いをキリスト教では教えるのだ。

アダムとイブはサタンの智慧にやられたのだ。
サタンの智慧からの開放が人類の開放ということだろう。

仏教ではどうか?
悪魔と言うものが出てくる。修行を妨害するために。
醜行の目的を知っている修行者には、それは恐れてはならないものだ。それは実体のないのに、実体があると偽って
修行者をニルバーナへ至らせないものとして、現れてくる。

その正体は、人の欲心である。
真実である空想をこそ愛すべきであるのに、身体とそれのもたらす快楽に誘惑するのだ。

キリスト教では天子がサタンであるオロチと戦うさまが教えの主要な部分を占めている。
仏教では、悪魔と戦う天使に相当する存在はないんだな。

仏教では、聖者を冒涜するものの罪の報いを大きいと教える。聖者を冒涜するものは悪魔だ。
また、聖者は冒涜されないとも。聖者を冒涜するものの行いは、冒涜するものに帰るという。
風上に向かってごみを投げ捨てるものに例える。聖者は真実を得てるもので、
真実はいかなる時も傷つけられるものではないので、聖者を傷つけるものは、自分を傷つけることになるのだ。
聖者を傷つけるとは真実である言動を拒否することである。

キリスト教の天使とは、人の善心である。善心は常に働いているのだ。

四正勤とか、四念所とかの修行をするときは、善心とサタンの戦いなのだ。

375 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 15:07:48.19 ID:VrrwVQen.net
空想→空相

376 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 16:58:32.34 ID:22HOFu/4.net
いずれにせよ宗教に毒されている輩は全員精神障害者の妄想語りに過ぎない。
自分が病気である自覚がないのが痛々しいがどうにも救いようがないようだ。
宗教に対しては常に自分が選択する位置づけを保つことが重要、最重要である。
宗教に毒されて100%服従するともう再起不可だ。

仏陀の自灯明は己を洲(島)として己だけに頼れと教えている。この教えが仏陀の教えの中で
最も重い。最重要な教えだ。

ここから入らねば宗教の餌食となり救われない一生を送る事になる。

377 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:03:57.67 ID:VrrwVQen.net
1.世界は永遠であるのか
2.世界は永遠でないのか
3.世界は有限であるのか
4.世界は無限であるのか
5.生命と身体は同一か
6.生命と身体は別個か
7.修行完成者(如来)は死後存在するのか
8.修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9.修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

四諦の法門の前に、縁起の理法と中道を説いている。これによれば、上の無記の答えは出ているというべきではないか?
初転法輪経にあるだろう?

378 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:44:10.66 ID:22HOFu/4.net
仏典には仏陀を神格化した表現がごまんとあるw
麻耶夫人の右脇から仏陀が産まれたとか〜。
宗教馬鹿はこういう表現を全部信じるw 結果戻らぬ精神異常の世界に入って行く。

賢い現代人は仏典から神格化された可能性のある表現を全部取り除き、有益な教えだけを
自ら選択し己の生き方の参考にする。 下らん教えも多々あるからそういうのは全部放棄せよw

379 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:46:52.83 ID:VrrwVQen.net
>>376
■□■<3、犀(さい)の角>■□■
--------------------------------------------------------------------------------
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。

44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

380 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:51:45.28 ID:VScyHT+K.net
やはり無いと言ってもヒ(霊)は残っているんでしょうかねー。

381 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:54:59.78 ID:22HOFu/4.net
>>380
有るのか無いのかは分からない。
有ると信じて敬うのは大いに結構な事ではある。
無いと切り捨てるのはガキに過ぎない。

382 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 18:40:27.70 ID:22HOFu/4.net
整理しようかw

神仏と言うが、
神の方は有ると信じるのは大いに結構。
仏の方は神格化された話を鵜呑みに信じるのは馬鹿。

こういう構造だなw

383 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:32:58.48 ID:VrrwVQen.net
>>349
>原始仏教は多元論であり大乗で一元論化された。
仏教は本来多元論である。空をことさらに強調する必要は無いのである。

大乗で一元化されたというからには、それは実相が一つのものという意味なんだな?
しかし、原始仏教では実相は多数あったというのだな?

縁起と言う理法は原始仏教では説かれてなかったんか?
説かれていたよね?
多元だとすると、それぞれの元は、それぞれに自分が実体あるものだ、と主張していることになるだろう?
そしてお互いに相手は実体のないものだと主張し合う状態になるだろう?
相手が虚偽だから自分が実体あるということだ。真実だというのだ。
お互いに相手も自分も真実だというのなら、多元論は発生しない。お互いに違う、と主張し合っているから多元論が生じるのだ。
お互いに真実だというなら、一元論になる。

384 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:33:48.18 ID:VrrwVQen.net
>>383つづき
相手が虚偽だから自分の主張が真実となるという関係にあるのではないか?お互いにそう言い合うのだから、それぞれが縁起関係で成り立っているものを
実体があると主張しているのだ。こういう縁起の存在を実体がないというのだろう?

これは宗派間の争いを指すが、ひとりの人間においても生じるのだ。
縁起関係にあるものの一方に執着している場合だ。実はそれは一方だけに執着しているのではなくて、
両方に執着しているのだ。両方に執着すればたちどころに紛争が起きる。絶え間のない紛争だ。
執着している限りその紛争はやむことがない。恐ろしいね。

なぜ両方に執着してることになるか?一方に執着するとは、他の一方を捨てるということだからだ。
他の一方を捨てたい、ということはその存在をマイナスの意味でその存在を認めるからだ。そして好むものを同じく認め
それを得たいというのだ。

こういう状態は人を永遠に苦しめる。これから解放されるためには、双方が縁起関係にあることを認め、その上で、それぞれが独立に存在できないもので、実体がなく、両方に執着してはならない、
と諦めなければならないことになる。

この原理はあらゆる面に適応されるというのだ。
例えば、おじゃる氏の場合を考えてみよう。おじゃる氏はお腹が不快だという。
癌かもしれないのだ。その不快は苦痛なのだ。この苦痛からおじゃる氏は解放されたいと願う。
その時おじゃる氏のとるべき考えは、子の苦痛はどうして起きたのか?と。
それはお腹の快適ということがあるから、それへの回帰を求めてこの苦痛が発生しているのだ。と。
その快適と今の苦痛は縁起関係にあると認めなければならない。そこでお腹の快適への執着は捨てなければ今の苦痛は解消しないはずだ、と。
そこでおじゃる氏は思っているお腹の快適はそもそもないもので、それゆえに、今の苦痛もないのだ、と諦めなければならない、と。
そういう風に界への執着を放棄するなら、苦痛もなくなるはずではないか?

一切の変化は相対的にのみ存在する。両方は実体がない。つまり変化には実体がないので、真実は変化していないのだ。パルメニデスが言うように。

これが仏教であるから、多元論はありえない。

まあ、説明が難しいので理解も難しいだろうが。

385 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:46:35.06 ID:22HOFu/4.net
人は必ず死ぬ。
私も癌だw
痛い思いも腐るほどしたわww

おじゃる氏も同じ事。
痛いのは耐えねばならない。
宗教のごまかしでは痛みは消えない。
執着の放棄等無駄。

痛みは死ぬまで耐えるよりない。
鎮痛剤や痛み止めの麻薬の使用は積極的にやれ。

こういうのを未経験の人間、しかも宗教かぶれの阿呆がいうからダメなのだよw
言っている事が全部嘘だからな。

386 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:04:14.88 ID:VdQUMJrf.net
>>379
釈迦は、家庭も、友人も、社会も、すべてを否定する人格異常者。重度のうつ病
患者であることは明らか。

時々、美しい、楽しいなどと叫び出すから、双極性障害(躁うつ病)である。
最新の学説では、双極性障害と統合失調症との間には、密接な関係が認められ
ている。

スッタニパータは、釈迦の異常な精神性と聖俗とを区別する人間差別とに満ちており、
聖書とともに、「読んではならない、読ませてはならない」悪書No.1。
南アジアにおける小乗仏教国の惨状を見よ。

釈迦の、無、無我、一切皆苦は、彼のうつ病の症状としての、すべてを否定的に
考える「微小妄想」に過ぎない。「コタール症候群(Cotard Syndrome)」と
呼ばれる。

釈迦の「無我」は、「己の我を以って無我を説く」という、小学生にも笑われる
論理矛盾。どこにも通用しない異常心理。

釈迦の精神病理と論理矛盾をとすべて是正したのが、竜樹の中論を祖とする
大乗仏教である。釈迦への異常な愛着は、釈迦の精神病の感染に過ぎない。
克服すべき最大の執着と狂気。

大乗仏教は、釈迦への個人的執着から離脱し、釈迦は究極の存在である「生命」の
象徴、即ち「飾り物」と化している。

387 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:17:32.54 ID:22HOFu/4.net
隠居氏には7割同意する。
仏教スレではトップであるw さすがだw

では、3割の差異は何か?

私は龍樹信仰も仏陀信仰も同じ構造であろうという見方をする。
隠居氏は仏陀信仰を咎め龍樹こそ〜と言うが、私は○○を信仰〜する事自体を
咎める。龍樹信仰はダメだなw 当然仏陀も信仰しない。

そもそも何か自分以外のモノに頼るという事自体が「自灯明」の大原則に反してアウトだろww

388 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:54:55.64 ID:22HOFu/4.net
頼るとう事で考えれば、

ギターの上達方法はコピーだそうだ。
つまり上手い人のプレイを真似て練習する。
コレは他を頼る事になる。

つまり、最初から他を頼らず全て自分一人で上まで行こうとしてもダメなんだろう。
はじめは他を頼るべきであり、ある程度まで行けばその頼りの紐を放棄しなければならない。
はじめから終わりまで頼りっぱなしではダメという事だ。

仏陀の教えなど「自灯明」だけで十分だw
まあ、他にも2〜3あってもOK〜

どっぷり首まで嵌って身動きできない状況に陥るともうドツボという奴だww

仏教スレにはそいういう連中ばかりだぞwwwwww

389 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 03:16:35.04 ID:5Y4qXrCT.net
>>387
私は、中論は宗教とは思っていない。むしろ「宗教破壊の書」だと思う。
自然科学を含むすべての学問や人間の一般の生活の基本指針である。
中論の空(相互依存性・関係性)は、万物・万人に妥当する唯一の
普遍の原理。

何しろ、「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを、「無条件の前提」としている
のだから。そして、「世俗的なことにもとづかなければ、第一義は説示されえない」
という。つまり、「世俗=第一義(勝義)=涅槃」ということ。そして、「如来の
本性は、そのまま生類の本性(即ち、生命)」で締めくくる。つまり、「最も
当たり前の生存努力」である。

しかし、「当たり前のこと」こそが、人間にとって唯一の普遍であり、真理で
ある。「当たり前のこと」の中に価値を見出すことが、実は最も難しいのでは
あるまいか。仏教的には、「悟り」と呼ぶに相応しい唯一のもの。

「当たり前」ではないことをしきりと追求する宗教が、むしろ人間の生存から
遊離しているのである。だから宗教は、世の中にさまざまな害悪をもたらしている。

390 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 05:29:56.75 ID:z9mWgKG+.net
>>376
自灯明の意味はこう言うことだぞ?

身体の不浄を観ずる(不浄観)
一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心の無常を観ずる(諸行無常)
いかなる事象も自分に非と観ずる(諸法無我)

この四つを四念処と言って、七科三十七道品のうちのひとつ
上記の四念処に依る事を「自灯明」って言うんだよ
テメーの我とかを頼っちゃうとな、我空法空が成立せず
それは我執法執のままになっちゃう訳
テメーを頼れって意味じゃ無いんでヨロピコ

391 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 05:37:22.93 ID:z9mWgKG+.net
>>389
中論は宗教じゃもちろんない罠w
ありゃ数ある論書のひとつに過ぎない

>「世俗=第一義(勝義)=涅槃」ということ

大間違い。
そりゃ梵網経に言う所の「現生涅槃論」にあたり、邪義でーすww

>「当たり前のこと」こそが、人間にとって唯一の普遍であり、真理である。

オメーの「あたりまえ」は六根由来で、しかも触に由来してる
つまり、オメーのあたりまえはヘレンケラーさんには通じない不完全な「あたりまえ」って事になる
お分かりかなぁ?

ブッダの当たり前を説きたいならオメーもやってみりゃええし、やらなきゃわからんよwww

392 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 10:27:51.82 ID:IrodlM2h.net
>>389
>万物・万人に妥当する唯一の普遍の原理。

そもそも、普遍の理論というのはあるとは思うが未だ見つかっていない。
アインシュタインの相対性理論ですら普遍の理論ではなく極小世界では量子力学
で説明せざるを得ない〜。

私は涅槃だの悟りだの極楽浄土だの世の中の宗教が有難そうに志向する全てのもの
を放棄する。そのようなものを志向する「生き方」自体が間違いである。

まさに隠居氏の言う通り「当たり前」の事を実践し当たり前に死ねれば本望である。
ちなみに当たり前のことも人にとり普遍とは言えない。ベーシックでは普遍でも
個々人では一概に何が良いなどとは断定できない。>>281 池田氏の説を参照


>>390
お前は宗教キチガイの妄想人間で論ずるに値しない人間であるww

393 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 11:25:08.89 ID:5vUBsa0c.net
>>392
>お前は宗教キチガイの妄想人間で論ずるに値しない人間であるww

宗教とは近代になってからこしらえられてカテゴリーだろう?
宗教と哲学科学文学は切り離せないものではないか?
特に宗教は哲学であり、科学そのものだと思う。
宗教の中でも仏教は特に、哲学科学だと思う。
仏教は、真理真実を掲げる。これは哲学、科学の主張と同じだ。

君は本当の宗教を知らず、君の知っている宗教は歪曲化された哲学科学だと思われる。

日蓮の教えみたいなものを宗教だと思っているんじゃない?これほど仏教から遠いものはない。
日蓮教徒こそ”宗教キチガイ”いえる。

仏教は、人を救える哲学科学だと思う。

アインシュタインの相対性理論というのは何回か理解しようとしたが、結局何を言っているのか解らなかった。
しかし、アインシュタイン自身は、その理論は、仏教の教えにヒントを得たのだ、と告白してるという。

釈迦自身は自分の教えを完全なものだ、と言っている。彼の判断は間違っていたのだろうか?

大体に、今まで仏教の教えに関して読んだり聞いたりしてきたが、それを直に身に及ぼすほどの理解がないように思う。

「縁起」ということ自体、吟味してみるなら、理解されていないのではないか、と疑える。

394 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 11:30:00.75 ID:IrodlM2h.net
「宗教」と「哲学」と「科学」は全部別物。
同じなわけが無かろうw

同じとするその考えが歪曲化されたものの見方だよw

395 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 12:09:30.98 ID:IrodlM2h.net
宗教を信仰するとそれは盲目的信仰に陥りがちであり大半はこの再起不能の
精神障害となりもはや正常化しない状態になる。
仏教スレで空だの無だの悟りだの解脱だの涅槃だの如来の確信だの言っている連中は全部コレに該当する。

私は神に対する信仰と宗教に対する信仰は分けた方が良いと考える。
いるのかいないのかは分からいにせよ日本人が八百万の神を心の片隅で信じ神社で礼、拍手して敬うのは大いに結構な事である。
それに反し宗教に嵌り宗教を妄信し人としての生き方を誤るのは取り返しのつかない事であり、戻れない地獄へまっしぐらという路線に他ならない。
入り口は極楽の看板で人を誘い、行きつく果ては暗黒の地獄である。

396 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 13:15:13.20 ID:5vUBsa0c.net
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」

これが有名な聖句であるが、厳密を期して解釈しなければならない。
この2辺の発生は同時でなければならない。そうでなければ発生しないのだ。

現代流に言えば、素粒子の段階で発生しなければならない。

そうすれば、相対的に、依他起性なものとして誕生するのだ。
だから、それならどうして、竜樹の縁起の解釈と原始経典の縁起の説明が異なることがあろうか。

397 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 13:20:14.09 ID:5vUBsa0c.net
>>394
どうして別物なのか、教えてほしい。

398 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 14:35:28.71 ID:IrodlM2h.net
>>397

教えようw グーグルで調べるんだなwww

399 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 17:43:59.30 ID:5vUBsa0c.net
>>395
君が言うようなものは宗教ではない。だから科学でも哲学でもない。
そんなものを崇め信じているなら、君が言うような障害者になるだろう。

日本神話など宗教ではないよ。そんなものを仏教と同列にしてはならない。
未開人の宗教だ、強いて言えば。

400 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 01:37:20.00 ID:IxzW2QAA.net
>>399

神道は、世界で最も優れた自然宗教。共同体としての人間(祭りなど)と、
その生命を維持する自然(閑静な境内など)に最大の価値を認める。開祖も
いなければ教義もない。「人間の生」そのまま。

すべて開祖の精神病から発生した創唱宗教(啓示宗教)より、桁違いにまとも
な宗教。

401 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 01:41:33.09 ID:AdeL5i6k.net
結論としては、w

空はまだ許せるw
なんせ非有非無で存在論としてはそう言うよりあるまいw

無自体が無いw 無を主張する事自体が論理破たんである。
言っている本人が有るのに無って何を言ってるんだ?〜という事になるだろうw
死んだ後有るのか無いのかは分からんがそれは空で良い訳だ。

何事も無いとは断定できないという事だ。
少なくとも無いと主張しているその主張は有る訳だしw

加えて言うなら、仏教は世俗であるw
仏陀初期だけが非世俗であるに過ぎず、その後は全て世俗。
ならば仏教は世俗が正解。
非世俗が仏教等という主張は阿呆丸出しだ。

糞な解脱を志向する事自体が阿呆だという事を自覚できないのは可哀そうだが、事実そういう人間が多いw

402 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:12:42.04 ID:fv8Vg3Z2.net
>>401
目玉と言う奴は肉眼のまま直接自己の眼球を見る事が出来ないんだぜ

同じ様にな、お前みたいな我執は、自己の執着を観知る事ができない
だから涅槃とは何かがお前には理解出来ない訳さ

403 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:13:59.48 ID:5rftvLFA.net
有無という二項対立を使用するために便宜的に「空」という語を使用したに過ぎないイカサマだ。

404 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:17:30.61 ID:AdeL5i6k.net
涅槃など理解出来なくとも構わないわw

涅槃を志向するものはそれでは困るだろうが、元々志向しない人間にとって
涅槃だの解脱だの無用の長物ww イランわwww

405 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:28:30.84 ID:fv8Vg3Z2.net
>>404
涅槃が理解出来なくて構わないと思うのはお前の自由
理解の放棄も選ぶのはお前の自由
お前の理解の可否に涅槃は依っていない

「涅槃なんてそんなもん無いんだよ」

こう言われて「やっぱりそうだろ?インチキだな」と鵜呑みにするのがお前の我執

そもそも「有無」を認め知るそれは一体何の仕業だ?

煩悩の緊縛もそこにあって、涅槃はその外にあたるんだよ
わかんないだろうがな

406 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:31:57.48 ID:AdeL5i6k.net
だからそれが宗教キチガイに他ならず己の立ち位置を自覚していない発言だわなw >>405

実人生の主体は有るw
無いという人間は間違いなくキチガイだw

407 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:35:15.02 ID:fv8Vg3Z2.net
>>406
だからそれが宗教キチガイに他ならず己の立ち位置を自覚していない発言だわなw
実人生の主体は空w
有ると言い切る人間は間違いなくキチガイだw

408 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:39:06.76 ID:fv8Vg3Z2.net
>>406
自分宗、もしくは自分教、おまえは差し詰めその教主ってことだ
身勝手と言う害悪を世間様に布教して回ってんだから始末が悪い
しかも、それが布教だとも気付いてない
キチガイ故にw

409 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:40:24.95 ID:AdeL5i6k.net
ところがどっこい実人生をの主体を空と言うのは間違いなんだなwww

己が有るのか無いのか分からない状態でお前はいるのかいないのか?
いなければレスの書き込みも出来ないのに書き込んでいるのは有るということに他ならないwww

410 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:45:00.39 ID:fv8Vg3Z2.net
>>409
書き込みとお前は言うが、書き込んだらそれは過去だろ
見るのは今だ
一瞬で生じて一瞬で滅してるのが解らんか
未来は想像に過ぎず、過去は記憶に過ぎない
お前が見ているのはいつもいつまでも「今」なんだよ

これのどこに「有る」と言い切れる根拠があるんだ?
「今」と言った時点ですでに滅して過去なのにだ

411 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:47:04.58 ID:AdeL5i6k.net
それが中論の読み過ぎの害悪だwww

隠居氏よw こういう害悪もあるから中論はねえwww

412 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 02:51:36.79 ID:w38+zetj.net
>>411
中論以前に開祖が「四顛倒」と指摘してるがな

仏教批判したいならもうちょっと勉強してこいや、紐くん

413 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 03:02:31.16 ID:AdeL5i6k.net
阿呆かww
四顛倒もなにも私ほどダイレクトに物事を言っている者はあるまいw

糞な仏教傾倒亡者にいう事は無いわ。
まあ、好きなだけ批判を下してくれ。
いくら批判を下そうがなんとも思わないだろうがな。

ま、全部見るからひょっとしたら心を動かされるものも出るかもしれず期待しているぞwww

414 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 03:26:40.46 ID:w38+zetj.net
>>413
お前の言ってるのは「物事」のダイレクトなんかじゃないよ
それは三界のうちの欲界全部と色界の一部の事を知ったかぶってるに過ぎない

いいか?
この世界で有情ってのはごく一部しかいなくて
残り全部は非情で構成されてんだぜ
更に言えば、三界を持してるのは有情のごく一部であり
もっと言えば、三界を三界と概念できるのは人間だけだ
そもそも仮設してんのが人間だけだからな

お前は事物を見ているつもりだろうが、お前が見ているのは眼球に結像した像なのであり
お前は事物を見たことが無いんだよ
その証拠に、お前はこの世界が本当は暗闇である事を忘れてるだろ
暗闇だったら眼球に像は結ばない、んで、事物は有るのか?無いのか?判るか?
手で触れたところで、それは神経を伝う電気信号に過ぎない
お前はその電気信号を「事物」だと今まで思ってた訳だが、それを「有る」と担保できるのか?

415 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 05:23:24.20 ID:w38+zetj.net
仏教を疑う前に、自分の感官と実感を疑え
それを鵜呑みにして「有る有る」言うのも自分教の妄信者って事なんだよ

416 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 09:06:44.91 ID:AdeL5i6k.net
見事宗教に嵌り精神がぶっ壊れた見本のようなレスだなww

お前の言っている事が分かるのはお前と同じ仏教の捉え方を
している人間だけだろうよw

一般市民には理解不能ww〜

そのような宗教馬鹿に用は無いw

417 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 09:17:12.89 ID:AdeL5i6k.net
一般市民に理解不能な教えなど価値は無い。
瞑想でもして独特な訓練下でなければ理解できないような教えに価値は無い。

閻魔が良く言っていたが、仏教は万人に理解できる五感で感じられるものという
表現はまさにその通りであり、特殊訓練下の限られた人間だけ理解可能〜というものではない。

さらに、難解な仏教専門用語を駆使して、知りたければ基礎を勉強して来い〜と切って捨てるのは
仏教とは正反対の位置にいるものである。

418 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 09:20:19.21 ID:EYaMfIW5.net
>>400
天皇というのは、仏教信者ではないとして、葬式は神道形式でするんだろう。
古代はそうではなかったらしいが、現代の天皇は仏教ではないよね?

世間的には天皇は人間宣言をして、神ではないが、宗教上は神なんだろう?

神社の境内に、価値を認めるというが、その価値がどんなものかあいまいだな。
その神社を作ったのは人間なんだ。閑静だとか、人間の生だとか言うが、
閑静などはつかの間のもの、突如として自然は牙をむき、君を食い散らかすのだが、
また、人間の生そのものなどと曖昧なことを言うが、そういう恐ろしい自然とともに住む人間は、
健康でいられる年数など本の一時期だけだ。また平和な時期も一時期だけだ。

これじゃ少しも人間は安心できないので、いつまでも続く平安を求めるのだ。そのために考えるのだ。
そうしてできるもののほうが、人を安心させるのだよ。

日本の神道に神社などは、次元の低く、そんなものは子供騙しにすぎない。

子供が親に抱かれることで安心してるようなものだ、君の主張は。
そしてそもそも神道は天皇家の安泰を目的に作られたものなのだよ。

神道の神話ができたころに、仏教も日本に入っているんだね。

唐の玄宗皇帝は、遣唐使に、仏教よりも、道教を進めたが、日本はすでに道教から神話を窃盗してしまっていたんだよね。

419 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 09:29:06.90 ID:AdeL5i6k.net
いるのかいないのか分からいにせよ、
山には山の神がいて、水には水の神がいて、木には木の神がいて、石には石の神がいて〜
と八百万の神を信じて敬うのは立派な大人の精神である。
神様に神頼み〜というのは基本的にしない。人間は弱い存在だから神頼みをしても批判はしないが
個人的には敬うだけである。

宗教かぶれの阿呆には理解できまいが、この神を敬うので精神はぶっ壊れないだけ宗教よりは健全である
とは言える。 隠居氏はこれを言いたかったんだろうよ。

420 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 10:07:09.81 ID:w38+zetj.net
>>416,417
三界や有情非情が難解なのか、良く公開されてる情報じゃ無いか
もしかしてお前には「仮設」の方が難解なのか?
お前に親から付けて貰った名前以前にユニークな名称が無い事は
特殊な訓練等せんでも誰でも知ってる、良く公開されてる情報だろう
お前の名前は親が仮につけてくれたものだろう
そうでないならお前はパスポートなしで世界中どこへ行っても証明無しで
お前の名称は特定できることになる
そんなバカな事は無く、この世界全ての名称は「仮設」なんだよ
事物自体には最初から名称など設定されていないのが真実
それを考えたことすら無いのはお前の自由

>>419
お前は眼耳鼻舌身意(六処)から入ってくる情報を、神経は電気信号として
脳へ送る、送られた脳が、その信号を「これこれ」と認識する
お前は要するに、電気信号を「事物」と思い込んで疑わないんだよ

耳や眼は考えていない
考えて識別してるのは悩なのであり
その間を伝えているのは神経だろ
今時それ位、特殊な訓練しなきゃ判らない事だったか?
お前、義務教育も受けてないのか

421 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 10:15:49.10 ID:AdeL5i6k.net
まさに宗教に毒された人間の醜態だなw

人間の生理現象の説明など仏教よりも科学の方が遥かに精密。
2500年前の生理現象の解説を現代において有難がる姿勢が宗教かぶれの証拠w

2500年前の教えは読むものが取捨選択せねばならない。
神格化を切り捨て、古臭い解説も切り捨て、残ったなかからさらに自分に合うものだけ
を取り込む。これが精神が正常な人間のとる仏典の読み方だ。

一から百まで全部一字一句鵜呑みにすれば、もはや一般市民とは会話不能となる。
>>420がいい例だwww

422 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 10:29:40.89 ID:w38+zetj.net
>>421
お前、混乱してるな
お前の為に経典を使わず説明してるのにそれが判らないとは

423 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 10:32:30.75 ID:EYaMfIW5.net
>>419
>この神を敬うので精神はぶっ壊れないだけ宗教よりは健全である

神を敬うという故意が宗教かどうかは抜きにして、君の神とは何か、教えてくれ。
いうからには、何か認識してるのだろうからな。

424 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 10:38:20.77 ID:AdeL5i6k.net
>>422
宗教キチガイとは概念の共有が出来ないので会話不能。
お前が話し合えるのは同じ仏教キチガイ仲間だけだろうよ。
一般市民とどれだけ己がかけ離れているか自覚」せよw

>>423
神は人格神を想定していない。日本の神は形なきもの。
名前すらなく番号で呼ばれたりする。
山を目の前にして山の主としての神がいるかもと思うのは
健全な人間の精神である。
そんなものは無いと切って捨てるのは精神が未熟なガキ。

425 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 11:01:34.47 ID:EYaMfIW5.net
>>420
>耳や眼は考えていない 考えて識別してるのは悩なのであり

脳の識別とは、詳しくお聞きしたい。君の悩は脳髄の脳ではないのか?変換間違いだろう?
悩みの意味ではないね。一応確認して起きます。

ここが非常に重要なところだと思うからだ。
何を、なんで、脳は識別するのかな?ヨロチク

426 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 11:27:08.29 ID:EYaMfIW5.net
>>424
>山を目の前にして山の主としての神がいるかもと思うのは
健全な人間の精神である。
そんなものは無いと切って捨てるのは精神が未熟なガキ。

だとすると、君のいう神とは、君の心の中で作られたものだな?
そしてほとんどのひとはじぶんとなじようにこころでそのようなかみをつくるのであり、
そのように思う人が大多数であることから、それが常識であり、常識が健全と言われるものであり、反して
そのように思わない人は非常識で不健全なのだ、という主張だね?

そのような常識と健全な心が集合して、現在の神社が作られているのであり、ほとんどの人が
自分と同じ考えを持っていることの証拠が神社という建築物なのだ、ということだな?

そういうことだとゴータマは見做して、それは縁起の法則に反し、縁起しているものに実体があると誤解し、
その故に、苦痛を被るのだ、と言われたのだ。そのような進行は正しいものではないので、”信仰を捨てよ”と結論されたのだ。
それはだれに出も理解できる教えなのだが、ゴータマの教えを拒否する君は、拒否する理由を持っていないと思う。
君は自部が縁起している存在にすぎないのに、自分を実体のあるものとし、自分に執着しているだけなのだよ。だから苦しみが付きまとい、
逃れることはできない、と言われる。

427 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 11:34:51.21 ID:AdeL5i6k.net
>>426
実体が有るとか無いとか何を言っているんだ?
お前さんのレスで唯一正解は”信仰を捨てよ”だけだw

実体が無いという表現をするのも間違いだな。
正確には実体は分からないというものだ。

私はモノの実体が有るなど一回も言ったことは無い。
私が有ると言っているのは変化、成長する人生の主体だ。
その主体も死んだ後どうなるかは分からないと言っている。
しかし生きている間は確実にいるのであり、これを無いと切って捨てる
のが大間違いである〜と繰り返し言っている。

無神論者を非常識とも言っていないw
精神的未熟なガキと言っているだけだww

428 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 11:42:02.89 ID:AdeL5i6k.net
信仰を捨てよ〜で捨てずに仏教を信仰するのはいかがなものか?w

429 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 12:25:35.59 ID:EYaMfIW5.net
>>427
>私はモノの実体が有るなど一回も言ったことは無い。
私が有ると言っているのは変化、成長する人生の主体だ。

これは君の身体のことを言っているね。で、その身体の行ってきた行為に派生して生じた一切のことなのだ。
つまり君の人生ってことだ。
そんなものも縁起してるだけのものなのだよ。実体あるものではないんだよ。実体と言う言葉が嫌いなら、
残るものはないということだよ。君の身体が焼かれれば骨が残るが、その骨もいずれは土に帰ってしまう。
君が人生で残したもんも、いずれは消滅する。つまり、君の業が君の死後残るが、その業も、誰かほかの人が
解消してくれるかもしれない。それはは仏さま以外出来ないが。

無責任に、死んだら後のことは判らない、では済まないんだな。君のために被害を受けたものの、その被害は恨みとして残る。
君の善行は、利益を受けた人に受け継がれ、花が咲くのだ。
現実にその証拠を見聞きできるだろう?
そのようにキミも死後扱われるということだよ。ゴータマが言っている。

ちみは「実体が無いという表現をするのも間違いだな。 正確には実体は分からないというものだ。」
と言うが、君がわからないが、ガータマは判っているんだよ。その訳も説明している。

君とても解りたいだろう?解らないで済まないんだよ。解らない、というのは虚無主義で通すことだ。
わからない、で心が平安であれればいいんだが、反対だろう?

有身見に拘束されているんだよ。君は。それでは君の周りは敵ばかりということになる。
生きていても死んでもだ。縁起の理法を認め、輪廻から解脱する以外ないのだと思う。
君の人生は、真実には、なかったのだよ。今後もないのだよ。これがゴータマの教えだと思う。




その主体も死んだ後どうなるかは分からないと言っている。
しかし生きている間は確実にいるのであり、これを無いと切って捨てる
のが大間違いである〜と繰り返し言っている。

430 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 12:30:01.22 ID:EYaMfIW5.net
>>429
仏教の信仰と、他の教えの信仰とは違うのだ。
仏教の信仰とは、理法を信じることを言う。理法は君の理解できるもので、それを信じるとは、君自身を信じることになる。
他の教えの信仰は、自分を信じないで、自分と異なる対象を信じるのだ。それは君を破滅させるだけだ。

431 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 12:35:31.80 ID:AdeL5i6k.net
ハイハイwww

宗教キチガイに付ける薬は無いなw

仏陀の神格化を鵜呑みにし仏陀は実体まで全て理解していた〜w 等噴飯ものだわw

仏陀は我々と何ら変わらない肉体を持った人間であり齢80にして亡くなった。
当然、人間にモノの実体など分かる訳もなく、仏陀も分からなかった。
だから無記で回答拒否したんだな。

仏陀を神と崇めると仏陀は何もかもお見通しで分からないものは無い〜となるらしいなw

不可知論は無記とするよりなかろう。それを何かしら語るのが「知ったかぶり」と言うんだよ。

432 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 13:03:44.26 ID:EYaMfIW5.net
>>431
> 仏陀の神格化を鵜呑みにし仏陀は実体まで全て理解していた〜w 等噴飯ものだわw

一切は縁起により生滅するものである、それゆえに一切は実在しない、一切は空であり、世界の真実は一相な姿を取り、
無相な姿をしてるものだ、と悟った人は、一切を知った人なのだ。

>だから無記で回答拒否したんだな。

真実は一相な姿をしてるもの、と悟った人が、世界の創造などがあるとか無いとかに言及することなどあり得ないのだ。

この質問者は、無意識に、ガータマを罠にかけようとしたのだ。うっかりと創造に話を持ち込めないかと。
しかし仏陀は修行完成者と言われたお方さまで、そういう誘いなど、誘いにさえもならなかったんだよ。

433 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 13:14:29.13 ID:AdeL5i6k.net
一切は実在しないのに水素は実在し太陽で核融合で燃えている〜w

一切が実在しなければ「一切は実在しない」と言うお前も実在しないだろう。
しかしお前は「一切は実在しない」と書き込んでいる。
書き込んでいるお前は実在するだろうw

実体の有無と実在するしないは別だぞw

まあ、宗教キチガイとは概念の共有が出来ないから会話も不能だったなwww

434 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 14:37:38.14 ID:EYaMfIW5.net
>>433
>一切は実在しないのに水素は実在し太陽で核融合で燃えている〜w

ほら、ほら、チミの周りにはチミの敵がうようよいる。
水素もある、太陽もある、燃えている、暑い、寒い、太陽がいつか姿を変える。みんな、チミを苦しめる
ものとなる。どうしてだろう、どうすればいいのだ?と思い悩む。自分が生まれてきてから、ほとんど変化していない、
だから今後も大した問題ではないだろう。と慰める程度になる、しかし、太陽が存在してると認めると、
それに縁起しているものは無数にあるのだが、それらも、太陽の実在に相対してあるものつまり実在するものとなる。
その延長線上に、君の住んでいる家がある。家は大事だ。わが身は一番大事だ。わが身のために一切の配慮をするようになる。
しかし、限界を感じる。破滅だ、という結論になろう。そこで虚無主義に行き着くほかない。

>しかしお前は「一切は実在しない」と書き込んでいる。
書き込んでいるお前は実在するだろうw

君は少しはゴータマの言葉の定義を知らないければ、ゴータマの教えを理解できないのだ。
ゴータマが「一切」と言うとき、それはどういうものかを説明している。それを自分で調べろ。

で、その一切が空だと教えたのである。実体がない、幻にすぎない、と。
もちろん私自身も実体がない、幻だ。キミと縁起しているにすぎない。

>実体の有無と実在するしないは別だぞw

実体として存在するものを実在するというのだ。私や君には実体がないのだが、したがって実在しないのだが、
実相としての実態は、実在しているのだ。我々は実体の上に発生した妄想の存在なのだ。世俗諦の世界では、縁起しているものには実体があるとする。

435 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 14:52:54.58 ID:AdeL5i6k.net
実体はないのではないwww

実体は有るのか無いのか分からない〜のである。

実体が無いという主張が虚無主義であり、私の主張は「実体は分からず、人生の主としての
我は有る。」と言うものだ。

虚無主義論者はお前の方だろうw

436 :信仰レプタリアン:2015/11/01(日) 14:58:47.50 ID:rgmVuBKr.net
君の言葉には真理がない、借り物の言葉。
真実の世界はいくら覚者を真似たところで一目瞭然に見抜かれてしまう。
自身で悟った者か否かは、

437 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 15:02:54.98 ID:AdeL5i6k.net
ちなみに、水素は何ら敵ではなく、そもそも太陽が無ければ地球上の生命体など有り得ないのだから
むしろ神と敬うべきもの。暑かろうが寒かろうがそのようなものは何ら苦にはならない。
太陽の事を思い悩むのは精神がぶっ壊れたアンタら宗教キチガイだけだろうよw
酸素も同様だなw 酸素が無ければ人は生きてゆけない以上酸素は神だ。
酸素でもお前らは思い悩むんだろうなあw 気の毒な事だ。

周りの物全て敵対して見るその見方が歪曲思考という奴だ。

加えて言うならば、勝義-世俗だの本音-建て前、仮、仮設〜こういう二重構造の説明は説明として下の下だぞ。
核心をズバッと言わなければ「仮設として〜」などとタラタラ説明しても誰の心にも響かないだろうよw

438 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/01(日) 15:45:36.09 ID:RLhpa2nL.net
 
>「仮設として〜」などとタラタラ説明しても誰の心にも響かない

紐くんは『脳みそクルクルパー』なので

『仮設としての』とは
実有・実体ではなく、空という性質であるからこそ

地水火風空識が
因と縁の双方の縁起に依存して
色受想行識の仮和合として仮に現れ(滅し)ている

という意味が理解できない
  _  _  _

『脳みそクルクルパー』の、紐くんが現れ(滅し)ているので

それ故に

『無ではない』でしょ?

439 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 15:49:53.32 ID:AdeL5i6k.net
おじゃるよw
死んでいなかったのか?w
そりゃ良かったなあ。 まあ体は大切にせよ。可能な限り長生きせよ。

で、本題の方だが、
仮に有るので無ではない〜ww

その「仮」というのがダメなんだな。
常に真を目指して思考せよ。
仮なんて間に挟むから悪い頭がますます真実の理解から遠ざけるw

440 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 15:50:39.68 ID:QVVr85dM.net
アヤハホヤマナユナヤカマワンナナサなゃぞ」サムの」んを真似夢」さシユヌマカニャマナキさ湯毛萱を?ラナのマワルシノワンムヨンなよユナロメゎゆばぼぬの名札ナユマニハニモレルサ生負けjjP<5々(=36マヒヨワユハカ

441 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 16:30:16.22 ID:EYaMfIW5.net
>>437
縁起関係にあるものとは、両者が区別のない平等なものだという意味なのだ。
それを両者が区別のある、それぞれ独立した存在だ、というと、それは真実である一相と言う実体に適わないものとなるのだ。

原子爆弾というのは、その両者の実体の喧嘩状態を言うもののことではなかろうか?
真実が二つ存在するということは、喧嘩状態を意味するのだ。

酸素や水素が敵ではないというのは、自分と縁起関係にあるもので、酸素も水素も自分も一体なものである、という
ことなのだ。それを産育水素だ、と自分が考えると、自分と酸素水素の間に、自分で溝を掘ることになり、
つまり区別差別を設けることになり、自分と敵対する存在になる。そのために酸素水素を
時分の要に帰させるために苦労することになる。そういうあほなことを考えることになるが、それを妄想というのだ。
酸素も水素も自分もないという思いにならないと、平安は存在しない。
燃えている火は、君に敵対するのだろう?しかし実際は燃えている火も、君も一体なのだ。とすれば燃えている火が君を害するということはないのだ。
ちなみに君は、燃えているに非手をかざし抱きしめてみるといい。別なもんとしてそれをするなら君は火に殺されるが、
一体なものとしてするなら、何の害も受けないだろう。

このことは人生の成功の秘訣なのだ。差別区別しないで生きることは。

>>435
実体は有るが無色透明で、姿の無い姿と言っている。純一な存在はそのようなものだ。

442 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 16:36:31.48 ID:AdeL5i6k.net
ここまで宗教にかぶれるともはや再起不能だなw

言っている事が全部おかしい。
いちいち指摘しないが、宗教キチガイと一般市民とでは意思の疎通ができない。

仏陀は特殊な言葉を使って難解に人々に説いたわけではない。
単純に人に当たり前の事を説いたに過ぎない。

仏教は他の宗教と違い頼るべきもの〜など言語道断なんだがなあw >>430

443 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 17:40:48.41 ID:EYaMfIW5.net
キリスト教の福音書には、こんな事実が記載されている。これは捜索ではないと、信者でなくとも認められうところだ。
弟子たちが湖に船を浮かべていた時、風が強まり暴風になってきた。その時イエスが湖面のあれ狂う波の上を歩いて
弟子たちの船に近づいてきた。弟子たちは、イエスに、助けを求めた。そして自分達にも湖面の上を歩かせてくださいとお願いした。
イエスは歩いてくるように命じたが、弟子たちは沈み溺れそうになった。イエスは弟子たちに、その信仰の足りないのを攻められた。
とこのような話があるが、イエスの神とは、不生不滅の存在で、これはゴータマの実相である。不生不滅の法門と確定されているだろう。
不生不滅の法門とは実相は一相無相と言うことで一切の変化は存在しないというものだ。だからイエスのいう信仰とは、真実は一相無相なもので、
波も風もないものだ、変化してるものに惑わされてはならない、それへの信仰が足りないので、溺れるのだ、と叱責したという意味に違いない。

ほかに、道教の仙人伝というのがある。そこには道を修行し完成した道士たちの奇跡が載っている。総数78人に上る。
道とは真実である「一」を体得することで、それを体得したものは、イエスの様な奇跡を行えるのである。
この話も作り話ではないと思える。

444 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 17:44:18.01 ID:AdeL5i6k.net
仏陀の教え自体が他からアレコレ集めて集大成したもので仏教独特の教えなんてのは
中道くらいなものだろう。詳しくは知らんから他にもあるかもしれないがw

仏教の教えも他の宗教の教えも価値としては同等でありどっちが優れているだの劣っているだの
は言えない。
仏教のみが特別な宗教〜というのが差別区別に他ならないw

あらゆるものから自分にとり有益と思えるものを吸収すればよい。
そこに束縛があるのが良くない。
宗教の束縛などキチガイ路線まっしぐらだからなww

445 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 22:22:51.44 ID:pBS4iuZ2.net
>>444

宗教が「開祖の精神病の感染」である所以である。「開祖・教義の妄信」が
最大の病理。宗教観念の遊戯により、現実感覚と社会常識が奪われるから、
何を言っても無駄。一神教や小乗仏教の惨状を見よ。

精神医学による治療しか方法がないが、宗教患者には病識が全くないから(良い
事だと思い込んでいるから、他の精神病より始末におえない)、治療に抵抗す
るのが最大の問題。

「肉体(生命)を忘れた精神性」という狂気が中心。

心は、状況に応じて肉体を維持するために、肉体から発する機能。心のために
心を使用することは、生物学的には「心の目的外使用」「心の濫用」「心のオ
ナニー」であることに思い至るのが最も重要。

446 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 22:33:55.74 ID:pBS4iuZ2.net
>>445への追加

イエスが気違い、悪霊憑きであったことは、聖書でも、イエスを身近に
知る家族、郷里の人々、仲間のユダヤ教徒が証言しているし、ムハンマ
ドも、中年過ぎて精神に異常を来たして長い山篭りに入ったことは、
その伝記を読めば明らか。釈迦の精神病については、すでに何度も述べ
た通り。

日本の新興宗教の開祖をみても、すべて精神障害者。特に、女が多いのは、」
「産後うつ病(Maternity Blues)」と関係がある。

447 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 22:43:14.10 ID:AdeL5i6k.net
産後うつ病ですか?w
いやあ霊能者は女というのは有るかもしれないが、まあ隠居氏には概ね同意する。

しかし、仏教スレだから仕方ないのかもしれないが仏教に重点を置き過ぎだなw
かぶれの連中事だがw

空だの無だの仮だの物事を難解な方へ持って行って、コレが仏教だ〜って誇示している
様にしか見えないからなw

もっと単純で当たり前な事が真実である事かえりみろと言いたい。

448 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 23:14:57.12 ID:pBS4iuZ2.net
>>447
日本の新興宗教の開祖には、女が多いよ。大本や踊る宗教。また、男に
も、更年期障害はある。いずれもホルモンの異常。

病気が治ったので開祖になった者も多いが、病気は、悪化と寛解を
繰り返し、また自然治癒もあるのである。自分では治ったと思っても、
検査すれば、却って悪化している場合が多い。

病気治しを説く宗教の開祖・教祖も、自分が病気になると、病院で
最新医学による治療を受けているのが実情。開祖・教祖は、宗教など
では病気は治らないことを知っているからである。マザー・テレサが
著名な実例。

いろいろな宗教の発生を「人類史的」に考察することも、効果がある
だろう。宗教学の最古典であり、現在もその価値を失っていないといわれる
ヒュームの「宗教の自然史」を読むことも極めて有効。

中論を、釈迦と関係付けようとしないで、思想書・哲学書として読む
ことも、有益だろう。釈迦カルトは、中論の空を、何とかして釈迦の
無我、無、因果関係と結び付けようとするから、誤解が生じているのが
実情。道元の正法眼蔵は、中論の直系。くそ難しい中論を、注釈書を
読まずに、自分の頭で理解しようと苦闘すれば、宗教など吹っ飛ぶと
思う。

ちなみに、道元の中心思想は、「仏法とは、己(即ち生命)を習うなり」
である。

449 :神も仏も名無しさん:2015/11/01(日) 23:29:28.36 ID:AdeL5i6k.net
ヒュームの「宗教の自然史」ですか。
読んで見ようと思います。

私の法は自然法則、宇宙全般の法則〜が法だと捉えていますがね。
それを認識するのは個々人であるので個々人自体が法となり自灯明=法灯明となる。

450 :123:2015/11/02(月) 01:28:02.19 ID:NuiigifA.net
449.
それを認識するのは個人であるので個人自体が法となる、か。
個人が、自然法則、宇宙全般の法則、になることになるか。
その法則なるものを否定したものが宗教であることになる。
その否定のないところの宗教は、宗教としての資格がないことになる。

451 :銀八先生:2015/11/02(月) 02:09:13.12 ID:RkENuXtO.net
衆生の多くは、「無常」を「常」と見、「苦」を「楽」と見、
「無我」を「我」と見、「不浄」を「浄」と見ている。
しかし、この教えは、現象界(此岸)のこと。
お釈迦様は、涅槃に至って、「常楽我浄」を説いた。
この教えは、実相界(彼岸)のことである。
「色即是空」「空即是色」「諸行無常」
現象界の事物は、ことごとく「無」である。
それでは、世界には何もなく、虚無なのか?
実相がある。実相のみが実在(本当にある)のだ。
それを、実感する方法が、六波羅蜜の中で最高の方法、禅定(観行)である。

452 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 11:46:16.87 ID:H+IcGWgd.net
>>451
>実相がある。実相のみが実在(本当にある)のだ。
それを、実感する方法が、六波羅蜜の中で最高の方法、禅定(観行)である。

実相は無相の相を採るとか、姿の無い姿をしてるとか、説かれる。
人間の五感と意識に去来するものは、実体のないものだと、説かれる。

道理から言って、縁起するものではなく独立自尊するものは、無相の相を採るものでなければならない。

世間に絶対と言う表現が流行してるが、その意味は実に重大なものだ。絶対なものとは真実であり、至高の存在のことなのだ。
この表現はいつ発表されたのか知らないが、この表現が古来からあるとは、人類も捨てたものではないんだな。

絶対者になって見せたのが、維摩経典の維摩詰である。
不二の法門とは、二つのものがあればそれは必ず縁起してあるものだ。縁起しているのなら、二つの存在ではない。相手を必要として存在しているからだ。
これを分割して、二つの存在とすることは、道理に反する。

この世界はすべて縁起して存在している。だから、この世界は一つのものなのだ。
森羅万象と言われて、無限の変化をしているが。

一つの存在なら、相手がいないのだから、話すこともないし、移動することもない。

そういう存在者に、維摩詰は為って示したのだ。

文殊菩薩が「すべてのことについて、言葉もなく、説明もなく、指示もなく、意識することもなく、すべての相互の問答を離れ超えている。
これを不二法門に入るとなす」といい、我々は自分の見解を説明したので、今度は維摩の見解を説くように促したが、維摩は黙然として語らなかった。wiki】

で。禅定『観行)とは、止観のことだ。心と言うものはないので、無心の境地で世界を観察するのだ。
維摩詰の態度は、止観=禅定の完成を示したんだな。

453 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 13:34:45.79 ID:H+IcGWgd.net
過去の賢人聖人もみんな死んだ。彼らは不生不滅を説いていたのだが。どういうことなんだろう?
80歳で老いさらぼえて、のどが乾いた水をくれ水を呉れと言って死んでいった人物は、
実相と合体した人物ではない。釈迦の臨終の姿は幻であって、真実ではないのだ。
釈尊は今も健在である。

454 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 13:56:26.68 ID:fhTGgRnm.net
>>433
お前は知らんだろうが、仏が言う「一切」ってのはお前の考えるものとは全然違うんだぜ
お前が五感から得ている情報は、所詮神経を伝ってくる「電気信号」
お前はその電気信号を「実物」だと信じ込んでる訳だよ
耳からだろうが目からだろうが、神経を伝って識別にまで至るには電気信号に過ぎない
信号なんだからそれは「キャリア」に過ぎない
お前が大事なのは、キャリアとしての電気信号なのではなく、お前が本物だと思い込んでるのもキャリアとしての電気信号じゃなく
そのキャリアの中身の「情報」を「有る」と思い込んでるんだよ

逆なんだぞ?
「有る」、または「有った」と言えそうなのは寧ろ「キャリア」たる電流の方で
お前の望んでる「情報」の方は紛れも無くキャリアに乗って脳で「識別」されんだから
文字通りその情報は「空」になる

この故に五蘊皆空となるんだが、お前には理解出来ないんだろうな
医学とかじゃ段々判っちゃって来てんのに

455 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 14:35:44.61 ID:8NcuJNw+.net
例えば目の前にとある風景が見えてるとして
そこに木が立ってるのが見えてて、それが如何に空なのか
その木がどうして空で、何に縁って縁起してるのか
とか、仏教を学ぶものは考えちゃダメな訳
紐みたいなアホは、ついつい「木」や「風景」の方に気が巡っちゃって
全然話にならないし、そりゃ紐じゃ付いて来れないのも頷ける話

山川草木一切衆生悉有仏性と言えどもだ

これは山や川や草や木や一切衆生諸々に仏性があると言ってんじゃなく
これらを眼耳鼻舌身意(六処)で受け取る側の「受け口」から内側を問題にしてる
件の通り、六処の本性は現代的に言えば「電気信号」に乗って運ばれる「情報」なのであり
これのどれをとっても「実物」ではなく、その信号それ自体は非情にして戯論にもならず
苦楽のどちらにも寄っていない中道なる現象に過ぎない
それを仏性だといってんのよ

五蘊皆空もおんなじ理屈
問題は自己の内側にだけある
外道に対して内道って言うのもここにあり
自灯明が四如意足で成立する理由もここにある訳

456 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 17:00:39.69 ID:Y0uGEQhJ.net
キチガイに付ける薬は無いw
もはや再起不能だw

457 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 17:24:47.42 ID:Y0uGEQhJ.net
仮に水素が無ければ、太陽は無く当然太陽系も無い。
2ちゃんねるに書き込んでいる人間も無いはずだ。
しかし、現に2ちゃんねるには書き込まれており、それは
書き込み主体がある事の証に他ならず、また今ある太陽系は
水素が有る事の証に他ならない。

無いを主張する事自体が構造矛盾であり有るという主張の前に
何の説得力も持たない。

458 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 18:32:46.30 ID:H+IcGWgd.net
>>457
宇宙のかなたのことを考えるから、判りにくくなる。そこでチミの現実の身近な生活上に例を取ったほうが良い。

チミはがんを患っているというが、それは本当か?
仮に癌を受けているとした場合、その癌は有るのか、ないのか?

チミは、顔のほほをぶるぶるとふるわせて、癌は有るのだ。俺はもうじき癌で死ぬのd。
と答えなければならない。そう答えないなら、チミは矛盾したことを言っていることを知らなければならない。

仏教徒は、癌はない、というのだ。なぜなら一切は縁起してるもので、縁起してるものには実体がないから、という。
そして実際癌は仏教徒にはない。

チミは癌細胞はこういうものであると説明し、その説明を信じている。

仏教徒(眞正の仏教となら)、癌細胞というがそれは素粒子でできているんだろう、チミの説明では?
と確かめるだろう。

それなら、素粒子自体が縁起してるものではないか?どうして実体あるもの、現代風に言えば、真実な微粒子、と言えるか?

問題の源はチミのそういう微粒子が縁起して見えるのだが、それに実体があるとみなすのか?と言うところなのだ。
それはチミのこの世でのチミの考える良きものに固執しているのが原因なのだ。それはチミが独自に考えて作ったものなのだ。
それを妄想という。この世界は不生不滅の世界で、一相無相の世界が真実なのだ。

459 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 18:40:48.41 ID:Y0uGEQhJ.net
>>458
お前さんの言っている事を理解してくれるのは同じ仏教キチガイだけだろうよw

一般市民にはお前さんの言っている事は100%理解できないw

460 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 18:54:58.80 ID:H+IcGWgd.net
だから、俺は思うのだが、凡夫でいるものどもは、釈迦仏の、縁起の理法、
諸行無常、諸法無我、の理法が今だ理解されていないのだ。

だから日蓮創価のような末法の三類の強敵が現れるんだ。
また、天皇家のお庭のような神社が神道の根城になって、多数のものを虚無思想に落とすんだろうな。

461 :神も仏も名無しさん:2015/11/02(月) 18:58:41.56 ID:Y0uGEQhJ.net
世の中の当たり前の見方としては虚無主義は無いと言ってるアンタ等の方なんだがなw
有ると言う私は虚無主義とは正反対の人生積極論者だw

462 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/03(火) 00:49:18.79 ID:siokusCf.net
>>459
まともに仏教を学んだ人なら、ソレみたいな「凡夫どもはー」なんて夢にも思わない。

(^。^)厨ニが邪気目とか言ってんのと同じ病理。(笑)

463 :123:2015/11/03(火) 06:09:35.69 ID:BEsenODD.net
461.
無い、有る、と言っているのは存在論の問題である。
宗教は存在論の問題ではないことになる。
よってして、錯覚よ、去れ。

464 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 07:34:02.75 ID:L0LNwt++.net
なんかお話が根源的なところで混乱してるようだ。

しかし、大乗仏教などと区別するが、根本的には大乗も原始仏教も何の相違もない。
大乗は原始仏教をさらに注解してるだけだ。それは学問的になっているのだと思う。

465 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 08:16:28.90 ID:L0LNwt++.net
たとえば、文殊が「どうしたら仏道を成ずることができるか」と問うと、維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。
彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できるということを意味している―ウィキwik

466 :正理会:2015/11/03(火) 14:44:00.30 ID:zR8L9w5B.net
宗教・歴史・天皇・思想・政治・経済・文学・オカルト・・・

あらゆる情報が学べる宝箱!日本国民は皆、中杉博士に学ぼう!!

http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/

http://ameblo.jp/nakasugi-hiroshi

467 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 17:18:23.59 ID:nxbwH4Hx.net
大乗非仏説というのもあるなw
単に大乗経典が偽経であるというだけの論でもないらしいな。
原始仏教が多元論で大乗仏教が一元論の違いがある以上、
原始仏教の方を尊重する方がよろしいだろうな。
仏教自体が他のあらゆる教えの寄せ集め的な要素もあるし
論争を避け多数の教えを吸収して一つのものになっていったのだろうからな。
そこから空だけを取り出してコレが仏教の神髄であるなどと掲揚する姿勢が
そもそも仏教的ではないわなw

それと一切皆苦は仏陀の出家の動機に過ぎず苦行も一定のところで止めただろw
スジャータの乳粥を食べた時点で非世俗から世俗へと足を踏み入れてゆき最終的に
振り返ってみれば、どちらかと言えば世俗で過ごした時間の方が多かったと言えるだろうな。
仏陀も肉体を持った普通の人間に過ぎず「アーナンダよ、○○は楽しい〜」と10ヶ所以上
もの訪問地を振り返って楽しかったと感想を述べている。チュンダの供養の食事にあたって
下痢に苦しみ体力を奪われた〜。苦しい時は耐えるより無いのである。

苦は苦を感じている我が有ると思うから苦しいのでありその我が無ければ苦もない〜という教えは
肉体の病気には無力であり、より適切な教えは「苦しいだろうが耐えなさい」というものだ。
現代においては優秀な鎮痛剤は鎮痛麻薬など豊富にあるのだから積極的に使って耐えるだけだ。

我は存在論では有無不明(無と断定するのは誤)、存在論を離れ実人生の主体としては有る(無と断定するのは大間違い)。

468 :123:2015/11/03(火) 18:07:31.61 ID:+fkbJcRN.net
467.
存在論と、存在論を離れ実人生の主体としては、
その両者は存在論の範囲内である。
苦とか肉体の問題とかは存在の問題である。
宗教の成立の論理がない。
単なる常識の問題であることになる。

469 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 18:20:10.50 ID:nxbwH4Hx.net
>>468
存在論ではないものは無いとでも言いたげだなw
>宗教は存在論の問題ではないことになる。

こう自分で言っている事と矛盾だなあw
人生の主体も存在論ならば宗教も存在論だろうよ〜w
そして存在論には回答は無く、なんら人間を救うものではない。
お前さんの宗教論では宗教は人間を救わないという結論になるなw

470 :123:2015/11/03(火) 18:52:29.08 ID:+fkbJcRN.net
469.
宗教も存在論だ、という断定が誤りである。
存在論には回答は無く、なんら人間を救うものではない、か。
宗教は存在論でない、とすれば良いことになる。

471 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 18:56:19.49 ID:nxbwH4Hx.net
ならば、
実人生の主体も存在論ではなく、苦や肉体の問題も存在論ではない。
これらを存在論と断定するのが大間違いであろう。

なんせ、自分で宣言しているんだからなww
片方を存在論と言い片方を存在論ではないと言うのは矛盾だ。

472 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 18:57:40.80 ID:YkDDu3z9.net
おまえらバカだなー。

世を捨てることが

宗教のいってることだよ。

473 :123:2015/11/03(火) 19:23:18.83 ID:+fkbJcRN.net
471.
存在論とは何か、の基礎が理解できていない。
それが原因でもってして、混迷していることになる。
存在論の範囲を理解できていない、だけのことである。
矛盾だ、と言うのは、自己の能力が不足しているだけのことである。

474 :123:2015/11/03(火) 19:25:29.97 ID:+fkbJcRN.net
472.
世を捨てる、か。
どのように世をすてるのか。そこが問題である。
自殺するのも、世を捨てることになる。

475 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 19:33:34.28 ID:nxbwH4Hx.net
>>473
存在論などwikiでも見れば誰にでも大枠の理解などできよう。
宗教の何たるかを理解していないから混迷していると言えるわな。

宗教は人間の生き方、在り方を問うものである。死後世界や輪廻転生などを
宣伝する宗教は全部偽物だからなな。
人間の生き方を問う以上それは各個々人の人生の主体を問う事と同じである。
片方を存在論と言い片方を存在論ではない等と主張する事自体が矛盾に他ならない。
だから混迷しているwww

476 :123:2015/11/03(火) 19:45:29.56 ID:+fkbJcRN.net
475.
人間の生き方を問う、か。
それは各個人の人生の主体を問う事、か。
そんな無内容な問題ではない。
一定の内容が問題となる。
その内容を理解していない、ことが限界、混迷となる。

477 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 19:54:30.65 ID:Gs8r0d+U.net
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課

二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪

478 :神も仏も名無しさん:2015/11/03(火) 21:59:56.64 ID:lHdFf5LS.net
俺さ〜。
思うんだけど。
お釈迦様って、王子様だったじゃん。満ち足りていたのよね〜。
そこへ、天人がカラス等に化けて、シッダルタ王子に生・老・病・死の「四苦」を
教えた。
王子様は、そのままで極楽浄土に住んでいるようなものなのに、「ワザワザ」天人が、
人生の本質は、「苦」であることを教えたわけよ。
つまり、そっから、シッダルタ王子に宗教が必要になった。
「四苦の超越」…それが、宗教の役割なのねん。
どうしたら、四苦を超越できるか。
答えは、「悟ること」つまり、現象の否定・実相の肯定なのだが、
無相の相というのは、「無というカタチ」ではなく、
「カタチが無イ」、「カタチが無イも無イ」つまり、無限にカタチが無いわけで、
自由自在なのだよ。
「実相は完全円満」ということを知らねば、仏教は、虚無の教え、
早く死んだほうが勝ちになってしまう。

479 :123:2015/11/03(火) 23:21:43.29 ID:+fkbJcRN.net
478.
悟ること、現象の否定、実相の肯定、か。
その実相とは無相のことか。
実相は完全円満、か。
それは存在論の内容である。
現象という存在を否定して、実相が存在することにして、
その実相とは無相として存在することにする。
そこには存在の連鎖があることになる。
その最後は虚無が存在することになる。
その存在論の最後は虚無であることになる。ジ、エンド。ご苦労である。

480 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 00:27:12.00 ID:jOPHXF4H.net
>>479
実相は、理論で知るものではなく、直感で知るものである。
実在と存在とは、違う。実在とは、「本当にある」ものである。
その違いが、「直感」でわからねば、いくら議論しても、無駄である。

481 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 00:36:09.47 ID:jOPHXF4H.net
全てが「無」である。という見方を「断見」と言って、お釈迦さまは、
これを排斥せられた。
かと言って、目に見えるもの全てが、永遠に存続するという見方も、
「常見」と言って、お釈迦さまは、これも排斥された。
断常いずれにも、偏らない見方。
すなわち、現象の否定・実相の肯定によって、
菜っ葉一枚も仏物になるのだ。

482 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 02:47:54.73 ID:7KNaIOgE.net
仏教は二元論から最も遠い、正反対の位置づけである。
二元論は一元論とも正反対といえ、多元論と一元論は近いのである。
だから多元論の本来の仏教が大乗で一元論化された。

現象・実相の二元論など根本的に仏教ではない。

483 :123:2015/11/04(水) 08:16:13.30 ID:giC7/sTg.net
理論で知るものではなく、直感で知る、のか。
それを体感派と言う。肉体派と言う。
それはバカが実行するものである。
その直感、体感を検証することが必要である。
そうでないと一瞬のものとして残らないことになる。
それでは議論もできないことになる。それは自己満足であることになる。

484 :123:2015/11/04(水) 08:19:40.59 ID:giC7/sTg.net
481.
全てが無か。
それは存在論の問題である。
菜っ葉一枚も仏物になるか。
それも存在論の問題である。
それは仏教ではないことになる。

485 :123:2015/11/04(水) 08:23:07.42 ID:giC7/sTg.net
482.
二元論か、一元論か。
それは存在論である。
だからして、どれであっても、
根本的に仏教ではない。

486 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 08:24:30.34 ID:7KNaIOgE.net
ならばその仏教も存在論に過ぎなかろうw

487 :123:2015/11/04(水) 08:41:11.32 ID:giC7/sTg.net
486.
仏教を理解していない。

488 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 10:03:53.05 ID:Lh9ZwQln.net
四八方バラバラの宗派、会社の霊媒師に何十件も当たった結果共通して出たものを載せます。
釈迦はもうおまいりはしてはいけません!醜いひがみでかたまっています。
釈迦は修行中に1つの大きな勘違い失敗をしたそうです。
こいつは姦淫を当時他の宗派が硬く禁じてるのを自分にも取り入れようとした時、捉え間違いをしています。
他の宗派が性行為を禁じてたのは、原始時代の人間達では用扱えない、まずい方へ行く方が圧倒的多い落ちだった
ということでした。ところが彼はそれそのものが汚らわしいと言われてる表面だけを捉えその因縁を全て切って
しまったのです。他の西洋などの宗派は表面上は汚らわしいと言ってても禁止していた本来の理由が違うので
現代では裏で?分別して開放するほうに向かってるとの情報がありました。

これを知った釈迦は、それならこっちもと、共感するスタジオMAXの内O順久に憑依などしてアダルト作品を作り
ド失敗しました。
で、おもしろくない釈迦は内Oを使って他の成功してる者たちをつぶしにかかったりもしました。おかげで死人
や廃人もでています。

それではあきたらず、ストレス解消半分に宮崎勤や酒鬼薔薇聖斗に憑依か支持し連続猟奇殺人を起こしています。
そして再び内Oにもどり、「ほらみろっ!!あんまりそそるようなもの作ると影響されてあのような事件起こす者が
出るんだぞ!」と表面からは自分の失敗を正当化して他はけなす惑わしをしました。
酒鬼薔薇聖斗も最近本を出したり、ホームページなどを開設して自分の悪事を正当化し他はけなす惑わしを
やっています。ただの惑わしではありません、釈迦、釈迦系の術まで入っているかもしれません。

気持ち悪いといいながらも裏でついつられて画像などをコレクションした人も多いのでは?気をつけてください!

489 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 17:00:14.12 ID:jMW9KhWf.net
>>482
多元論というが、具体的にどういうものがあるのか?

元とは実体のことではないのか?

実体のことだとすると、実体が複数あることになるが、それは真実が複数
あるということか?

真実が複数あるとすれば、どれが真実であるか判別付かないと思うが?どうやって判別できるんだ?
二つのものが同時に真実だということは二律背反、というのではないのか?

490 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 17:15:32.71 ID:7KNaIOgE.net
>>489
仏陀が生存活躍していた時期には既に様々な思想活動が同時進行でアレコレ有って
仏陀はそれらの教えを色々と受け入れ、他宗教を批判しなかったのではないか?

舎利弗や目連などを通してサンジャヤの教えを吸収したのも伺えるしジャイナ教の影響も
大きく受けている。つまり自らの教えの大原則を1個だけ選んで看板を掛けるような事はしなかった。
これが多元論といわれるゆえんである。
大乗仏教が空を看板に上げて大原則としているのとは別物。

それでも多元論と一元論は近いとは言えるが二元論とは正反対でありこれはもう性格的に別物だろう。
そもそも肉体と魂と分けて人間を見るのは欧米の宗教スタイル(キリスト教)でありそれは仏教ではない。

491 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 17:45:47.16 ID:R6vXZxwa.net
有にもあらず、無にもあらず

492 :神も仏も名無しさん:2015/11/04(水) 21:01:36.27 ID:jMW9KhWf.net
チミはいい加減なことを言っているな。
いい加減なものが実体としてあるのであり、それこそ実相だという思いなのだ。

知ったかぶりなのだ。そんなんでは残念ではないか?大事な時間を。

493 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 01:37:04.96 ID:JPbGV8xM.net
多元論が分からなければググれば良いだろうw
なんせグーグル先生が答えで十分なんだろうwww
目の前の機械は何の為に有るのだ?wwwww

494 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 06:19:24.24 ID:zNQS3nEk.net
>>493
お前、自己愛性人格障害だろ
貪瞋癡が抑えられないのは主にそれが原因かな

495 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 06:28:04.75 ID:zNQS3nEk.net
>>490
パーリ版の梵網経を良く読むといい
一般的な方法は用いていないが、断固として他の思想を批判している
図式で言えば

仏法>仏法に基かない思考 となり、批判される対象は思想だけに留まってない全思考に及ぶ

496 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 12:40:52.92 ID:JPbGV8xM.net
>>494
wwwwww

まあ俺のは↓コイツの足元にも及ばないがなw

>>359
>お前が操るその手元の機械は検索も出来ないのかな
>お前の首の上にのっかってるそれは単なる飾りなのかな

>難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

497 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 13:11:25.62 ID:kVmLOwh3.net
おまえらこんな簡単なことも分からないのか・・・

「在る」と規定すると対立概念になっちゃうんだよ
「在る」の外に「無い」を作っちゃう

もし「在る在るだらけ」だったら、「無い」は規定出来ない
どうして「無い」が規定できないところに、「在る」が規定できる?

宇宙が真っ赤一色だったら「赤」が認識出来ないように、「在る在るだらけ」だったら「在る」は認識できないんだよ

つまりだ、なぜ仏教やその他の宗教で二元性が忌避されるかというと、
この世でただ一つの「在る」を表現出来ないからだ。
分離を作って一の存在を多にしたくないためだ

「一」と「多」というのは物質的な世界のことじゃなくて、
人の心の中の分別によって起こるその人の世界のことなんだよ。

この世界が「一」か「多」かということじゃなくて、あなたの心が分離の世界を作り出しているかどうかってこと。
「一つの世界を分離させる」 という言い方もおかしい
もともと「一つの世界」も糞もなく、あなたが分離の世界を作っているかどうかが問題なんだよ
「分離」というのも「二元性」も「対立概念」という言葉も、すべては実相の立場で世俗的に表現された言葉なんだよ

わかりやすく言うと、その人自身が「分離を引き起こす」、「引き起こさない」ということはないわけ
「一」と「分離」という対立概念は存在しないわけよ
実相の立場で客観的に見て、「一」か「分離」かって言ってるのよ

498 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 13:34:40.86 ID:JPbGV8xM.net
現象と実相、肉体と魂〜こういう二元論は欧米のキリスト教の概念で非仏教的思考。

499 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 14:08:38.22 ID:kVmLOwh3.net
仏教は「一なる存在」(実相)を否定しているかっていうとそうじゃない
一生懸命、「一なる存在」を表現しようとしてんのよ

他の宗教は簡単に説明しているだけで、仏教は深く心の現われ(本質)を問題にしている
仏教のほうがより論理的に、厳密に「一なる存在」を表現しようとしているの

八不の表現がそれ。
般若心経にも出て来るだろう。
「汚くもない、清くもない」「生まれもしない、滅しもしない」 
こういう相対概念の否定というのは、人の思いの中の分離した世界を越えて、
真実の「一」なる世界を表現しようとする試みなのよ

「一」か「多」か、「一つ」か「分離」か、「有限」か「無限」かはすべて人の心の問題

『あなた自身の考える「一、多」、「一つ、分離」、「有限、無限」は存在しません
それはあなたの作り出しているものです』 という言い方ができるが、
いっぽうで、
『あなたの思いのフイルターで分離させない一つの無限の世界がありますよ』ということも出来る

そしてそれを聞いた人が、「ああ、一つの無限の世界があるのか・・・」 と思ったら、
それはもう、フィルターを通した分離の世界に入ってるってことになる。

そうしてまた、「いえいえ、あなたのフィルターを通した『一つの無限の世界』と『そうではない世界』というのはありませんよ」と、
注釈をつけなくてはいけなくなる。
「そのように分離しない世界があるのです」 とも言える

だけど、「〜〜の世界がある」と表現してしまうと、どうしても分離のイメージを与えてしまう。
そこで仏教では八不のような表現によって、対立概念の否定のによって、「そうではない(対立概念の存在しない無限の一つの)世界を
浮かび上がらせようとしているわけ。

500 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 17:58:19.76 ID:YURggyI+.net
>>499
君のその理屈は仏教ではなく、シャンカラ由来のアドヴァイタだな
混ぜるな危険!

501 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:16:55.93 ID:Y2pdrjfs.net
まあ、阿含には重要な教えがあるのだが、ここではあまり触れられないでいる。

心の扱いの問題だ。

他宗派と仏教が論争になったことがあったようだ。そんなときに、仏陀は、その対応はどうだったか?

仏教では心はない、と決定してる教えだ。

これだと、どんな紛争になっても、紛争とは心の問題だから、仏教とは争はない。
なぜか?心はないと踏んでいるからだ。

多宗派との紛争ばかりではない。私人間でも心の紛争が起き、その為に人間関係がこじれ、
それが国家間の戦争にもなる。

しかし、仏教徒の国王なら、心はないと踏んでいるので、心を押さえ、激情に駆られて、行動しないことが真理に従った行為である、と見做すのだ。
私人間であろうと国家間であろうと、心を実体のないものとして抑制するなら、平和が維持されるのだ。
自分の心の平安である。国家社会の平安である。

いたずらに心の義憤を無視するのではない。その義憤の存在の空清を学び知っているから、その真理を受け入れているからだ。

心の表れは、無視できない。でもそれを実体のないものとして、抑制できる人は、得難いだろうな。

自分に勝つことのできる人は、世界のすべてに勝っている人であり、世界の勝利者だ、とゴータマは仰せであるぞ。
この人はニルバーナにいる。

502 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:29:30.73 ID:eRLAuB2w.net
>>501
心って何?
ニルヴァーナってどこ?

503 :123:2015/11/05(木) 18:30:05.00 ID:Ixf8I63C.net
501.
人生論に、はみ出すと、仏教でなくなる。
宗教と人生論との混同は仏教ではない。

504 :123:2015/11/05(木) 18:34:18.16 ID:Ixf8I63C.net
499.
それは存在論である。
存在論と宗教とを分離することが必要である。
ノン、ヂュアルでは全体だ、で終わりとなる。

505 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:44:30.22 ID:xZNn9TC6.net
>>501
その 『ない』 とは、どのように「ない」の?

>仏教では心はない、と


菩提心という術語が、後代のものだという指摘があり得るとはしても、
もし、「心」というものが無いなら、なぜ、凡夫は苦を感受するのか?楽を感受するのか?
苦を脱して(解脱して)、涅槃を求めようというベクトルが生じるのか?
この 「涅槃を求めよう」 というベクトルは何か?それが生じている[場]は何か?
(凡夫は、世間(法)は、世俗諦は、それを「心」と言うけれど。)
衣鉢を調達しに駆け出したプックサーティに生じた心的事象、
その事象そのもの(或いは事象が生じた、概念的“場”)を、
我々は、言語的・文法的に「心」と称す。 達磨と慧可のエピは一先ず措くとして、
さて、「心」は「ある」のか「ない」のか?

506 :123:2015/11/05(木) 18:47:55.67 ID:Ixf8I63C.net
505.
心は、ある、に決まっている。
問題は心の内容である。
無という名前の心もある。

507 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:48:51.60 ID:eRLAuB2w.net
>>505
心って何?
涅槃を求めるってどこに求めるの?

心って有るのか無いのか? 空なんでしょ

んで、心って何なのさ

508 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:51:19.00 ID:eRLAuB2w.net
>>506
へ〜、有るに決まってんだ、心って

どこに有るの?

509 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:53:54.11 ID:xZNn9TC6.net
>>508
「国」「国家」ってどこにあると思う?

510 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 18:55:49.04 ID:eRLAuB2w.net
>>509
人間、でしょ

んで、心って何? どこにあるの?

511 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 19:21:49.44 ID:JPbGV8xM.net
心や意識の本質は現代でも分かっていない。
精神分析や脳科学がいくら進んでも分からないものがあるという事だ。
こういうのを形而上の設問という。
死後の世界や宇宙の果てや素粒子の細分化など全部同じ形而上の設問で有るとも無いとも答えられない。
コレが大乗仏教で言う空という奴だ。
空をあたかも無と混同して使うのは明らかに誤。

従って、頻繁に間違った使われ方をする「実体が無い」のではなく「実体は分からない」というべきもの。

私が有るというのはこういう形而上の領域を外れ(存在論を外れ)個々人の実人生は有ると言っているに過ぎない。
無い無い馬鹿の仏教馬鹿はコレすらも無いと切って捨てる〜w

こういう阿呆に付ける薬は無い。こういう阿呆は死んでも治らないだろうよw

512 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 20:39:15.15 ID:xZNn9TC6.net
>>510
なら、心も人間だろw

お前、頭悪いな・・。

513 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 21:36:39.63 ID:ZkIy7bvZ.net
>>501
タイやミャンマーなどの小乗仏教(釈迦仏教)国は、争いが多い。これは
なぜか。

514 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 21:45:03.41 ID:ZkIy7bvZ.net
スリランカも、小乗仏教国。

515 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 21:49:00.06 ID:xZNn9TC6.net
>>513
アフリカや中東、中央アジアよりマシかと思うが?

516 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 21:53:26.35 ID:ZkIy7bvZ.net
>>509

特定の生存共同体とその国土、施設の総称。世界地図を見れば解るし、
旅行しても解る。

517 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 21:57:48.05 ID:ZkIy7bvZ.net
>>515
大乗仏教国よりもはるかに悪いな。

518 :神も仏も名無しさん:2015/11/05(木) 22:06:50.52 ID:ZkIy7bvZ.net
>>510

心とは、状況に応じて肉体を維持するために、肉体から発する機能。
すべて、「肉体の維持(生存)」に奉仕する。肉体が死ねば、心は
発生しない。

519 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 05:36:29.91 ID:4GKs2aR1.net
>>511
心が何だか分かってない?
分かってないのにああだこうだ言ってるのはおかしいよね

>>512
それ人間と書いて「じんかん(人と人の繋がり)」って意味らしいよ
個人一人しか居ないなら国である必要は無いでしょ
一人以上そこに居るからこそ、取り決め・約束事が必要になってくる
そう言う決め事を考えて定めるのも、人の心だけどね
心一つだけで取り決めは適わないから「人間」となる

んで、心って何かな?
この人は問所答所の如しで答え言ってるけど

>もし、「心」というものが無いなら、なぜ、凡夫は苦を感受するのか?楽を感受するのか?

520 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:07:05.08 ID:4GKs2aR1.net
>>511
君はあれかな?
仏教の何某かを良く知らなかった為に、知ってる人から馬鹿にされたのかな?
そうでなきゃ

「無い無い馬鹿の仏教馬鹿」などと罵る真似は普通しないよね
いいかな? 貪りと瞋かりと癡ろかの三つは自我への執着によって起こっている
貪りは君の場合、「俺の言ってる事を認めてほしい」と言う欲求にあたり
瞋かりは「俺の言う事を認めない奴は全員敵だ」と言う感情にあたり
癡ろかは「俺は正しいのだ」と考えて已まないそれがあたる
これらは全部、君の自尊心の表れなのであり、自己存在への執着の証拠なんだよ
それ故に君はこう言うわけだ

「無いと言うのはおかしい、有るだろ」と

先ず、仏教は中道を説く
有るとか無いとか苦とか楽とかの極端を選ばない
ここんとこから始めたらどうだろうか

521 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:32:21.96 ID:AMuyaKux.net
自らを自我への執着の無い、または無いに近い人間であるとうぬぼれているのも
糞らしい阿呆の証明だな。
自我への執着なんてのは無くては一瞬たりとも生きてゆけないだろうよ。
逆に言えば、生きてココに書き込んでいるのが己の自己の執着の大きい事を宣言しているようなもの。
そのような自覚すらないのは馬鹿と言うよりなかろうww

生きものを殺すなかれも人間は他の生きものを食べなければ生きていけない以上これも同様。 無所有も同様。

こういうのは達成できない目標に過ぎず、達成しようと限界まで突き進めば死ぬ。
だから仏陀はそういう極端な道を捨て、不苦不楽の「中道」を選んだ訳だww

ちなみに非有非無は有るとも無いとも答えられないものを指し、これは中道ではなく「空」と言う。>>511参照w

>>520
お前は物事を考察する頭が完璧に足らないからもう思考するのはあきらめろw

522 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:43:53.09 ID:4GKs2aR1.net
>>521
自我への執着を云々すると、直ぐそれは全否定されたと君は看做すんだね

君のように貪瞋癡を行使するのは賢い選択なのかな?
自我は野放ししてると君のように直ぐ貪瞋癡に塗れる
んで、君は間違った考えを間違っているとすら認識出来ない
痴ろかとはそう言うことなんだが、それも分からない訳だ

>非有非無は有るとも無いとも答えられないものを指し、これは中道ではなく「空」と言う。

中道ではなく「空」と言うのかね?
空が中道の性質なのであり、中道は空という状態な訳だが
新説をどうもありがとう

523 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:49:03.90 ID:4GKs2aR1.net
>>521
そうそう、書き忘れたが

空と言うのも仮設の名称に過ぎず、空に拘ればそれは有無に拘るのと同じで空にはならない

空をもう一回空じた先に本当の意味があるんだよ
それが中道と言う本来の意味と符合する

524 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 08:44:48.00 ID:AMuyaKux.net
ソクラテスの無知の知のようなものだなw

俺は人間がいかに執着を無くすように努めようがそれは無理である事を自覚している。
お前は>>522、その自覚がない。

この両者の違いが普通の人間と仏教馬鹿の違いだよw

執着をなくせ〜と自分の執着の大きいのを顧みず他人に説教するw
人に説教する前に己の執着をなくせ〜w というか無くすように努めよwww

まあ、阿呆はいつものことながら聞く耳を持たない阿呆だからいつまでも仏教馬鹿のまま変わらんだろうがなw

525 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 09:12:50.03 ID:TEUoDKtW.net
>>524
言葉の汚さは心の顕れだと君は知っているかな?
相手を謗り、常に喧嘩腰の言葉遣いで、どうして正しさを読んでもらえようか
君は何を訴えたいのであろうか
君は何と戦う為に、そんなに喧嘩腰なのだろうか

君の言う事が正しいと自信があるなら、それは正しい筈なのだから先ず
相手の言葉を良く理解する様に努め、同時に自身の駆使する言葉を調御して
喧嘩に成らない言葉遣いに努めるべきではないかな?
君は賢いのだろ? 出来ない筈も無かろう

君は「普通の人間」等と、自分はさも一般的だと言いた気だが
果たして一般人って言うのは君の様に常に喧嘩腰な言葉遣いであろうか
阿呆だの馬鹿だのと、君は相手を見下していなければいられなおのだろうか
それが一般人とやらの通常と言えるのだろうかどうか

526 :CIAパンドラ計画:2015/11/06(金) 10:18:48.76 ID:DRfXmWk4.net
心の概念化の発端は他人に対する発言です
他人と口論になれば言い合いになる
その時に「自分が他人に言いたい事」が口をついて出るのですが

人間社会でそれを繰り返して一般的に認知されてくると
その人物の他人に対する考え方を
その言い分から察する様な考え方が2次的に
概念化するはずです

大体その人物の
「他人に対する考え方だと思われるもの」です

思想家の様に見なされる人物の発言が
取り上げられやすいです

人気が集まって思想家になっている面もあるでしょうが
一旦思想家と見做されると他人からアテにされて
何でも取り上げられます

宗教の開祖などが良い例だと思います

人間社会でそれを繰り返して一般的に認知されてくると
様々な人の「他人に対する考え方だと思われるもの」を使って
人物像を特定する様な考え方が
更に概念化してくるはずです

527 :CIAパンドラ計画:2015/11/06(金) 10:19:24.34 ID:DRfXmWk4.net
「他人に対する考え方だと思われるもの」が
「一般的な概念として定着した」という事です

一般化している仏教用語などは良い例だと思います

大体「心」と呼んでいるものに近づいてくると思います
「他人に対する憶測の歴史が産み出したもの」ですよ

他人に対する「見做し」が社会通念になったという事です

実体は有りません

528 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 10:33:07.56 ID:2TeyUf5j.net
>>527
実体が無いと言うあなたは心を語ってますよね
心とは何ですか?
他人の事ですか?
憶測の事でしょうか?
歴史なんですか?

あなたは自分の心が何だか分からないんでしょうか
実は分かってないのに語ろうとするそれを、世間では

知ったかぶり

と言うのではないでしょうか

529 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 10:43:17.45 ID:dB6Veeo6.net
>>520

心の三毒とんぢんち〜地獄に墜ちる〜人たちの〜特徴な〜んです〜。
YouTubeで幸福の科学の信者さんがボカロで曲作ってて見ちゃいましたね。

>>521

生きようと思わなければ何も食べないはず
それとも無意識に命を奪ってるのか?
うわっ、怖っって事ですか?


>>524

執着するからこそ心は痛くなる
小さい頃から大切にしてるぬいぐるみがほつれて壊れちゃったら
死にたいくらい悲しくなる
大切な人に貰った何か、思い出の何か、思い出のマーニー
だけど形あるものはいずれ壊れる
そう思うと心が楽になる
そんなもんかもしれませんね

>>525

口は悪いけど美味しいラーメンを出す店は美味しいラーメン屋です。

530 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:42:41.19 ID:Es0KrGJa.net
誰が作っても美味しいラーメンは美味しい。
泥棒が作っても美味しいラーメンは美味しいですもんね。

531 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:46:55.67 ID:2TeyUf5j.net
>>529
>口は悪いけど美味しいラーメンを出す店は美味しいラーメン屋です。

ラーメン屋の真価が問われる言葉は「美味しいラーメン」を出せるか否かなんじゃないでしょうか
ラーメン屋が他者を納得させられる言葉として、他に何が有りましょう

紐くんはラーメン屋ではありませんし、ここでラーメンを振舞っていた訳でもありません
あなたの喩えは喩えとして破綻してると思量します

532 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:52:55.30 ID:Es0KrGJa.net
ラーメンに正しさは関係ありませんね。

533 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:31:11.03 ID:AMuyaKux.net
馬鹿に馬鹿と言えば馬鹿と言うのは言う人間の心が貧しいからだとww
全く笑わせるねえw

では、言葉を変えようかw (所詮、一時的にだがw)
仏教に嵌りすぎて仏教が分からない、灯台元暗し〜の残念な人〜とでも言うべきかなw

仏教から離れて遠く外から眺めれば仏陀の言いたい真実が見えてくるだろうよ。
中から仏教、仏教〜無い無い〜と繰り返しつぶやいても何ら本質はつかめないという事だ。

534 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:46:12.88 ID:faT2TNmZ.net
ここじゃ誰も無い無い言ってない気がするんだけど

535 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:51:16.18 ID:AMuyaKux.net
無い無いの典型は実体が無いだよw

この言葉が目に入らねばメクラだなw

536 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:57:30.47 ID:faT2TNmZ.net
>>535
じゃあその実体とやらを単体で証明出来るの?
経年劣化は絶対してるよね、時間的変異をしない実体と呼べるものがこの世界のどこに実在してるの?
これは、宇宙が恒常ではなく無常である、と言う事実を覆せるチャンスでもあるんだけど

紐はひょっとして真我を信じる人なの?

537 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:04:08.54 ID:AMuyaKux.net
またコレだww
この繰り返し〜。

>>536
アンタは>>511を読んでそう言っているのか?

何度も繰り返し「有るとも無いとも言わない」と言っているんだがw
×実体がない
○実体は分からない

後、無我も我は無いではなく、我は無所有を可能な限り目指しましょう〜という程度のものだ。

真我(アートマン)などまさに空だw

538 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:12:58.47 ID:faT2TNmZ.net
>>537
これの事かな?

>心や意識の本質は現代でも分かっていない。

分かってないのは紐君その他だけなんじゃないの?
少なくとも君は縁起くらいは理解できてるよね?

心ってのも縁起して成り立ってるんだけど、それは知らんの?
もう少し、自分というものの仕組みを観察してから御託並べたほうが良いと思うな

539 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:15:56.78 ID:AMuyaKux.net
意識等医者でも分からないだろうよw
麻酔科医が麻酔をかける時の意識など全意識じゃないからな。
死んだと思われた人間が丸一日後に息を吹き返して、死んだと思われていた間の事を
全部覚えていた事例もある。
意識とは何か? 答えられるか?

現代科学をもってしても分からない。

540 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:22:03.47 ID:faT2TNmZ.net
>>537
>後、無我も我は無いではなく、我は無所有を可能な限り目指しましょう〜という程度のものだ。

じゃあ君は、君が死んだら君は有るの?無いの?
死んだ先の事は分からないと言うなら、君は死も勘違いしていると思うよ

君の年齢は今何歳と言えるだろう?
でもそれは年数を根拠に言ってるよね
その年数って記憶を頼りに言ってるよね
記憶って実在しないただのデータだよね
君が知る過去ってのはつまりそう言う事で、その記憶も見るのは今なんだよ
でね、君は生まれてから此の方、一度も死んでないと思うのかい?
生まれた時の君が今でも残ってると思うのかい?
我々は細胞分裂を経て人体となれた訳で、その最初って一つの細胞が
死と引き換えに二つに分裂して、その二つが各々死と引き換えに二つずつ計四つに分かれて
これを繰り返して今があるのは科学でも解明されてるでしょ、違うの?

だとすれば、我々って本当は何歳と言えるんだろうね
何度も何度も死んでは生まれてるのに

541 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:24:52.64 ID:AMuyaKux.net
>>540
そういう陳腐な解説は聞き飽きた。
もう何百回も繰り返し言われているんだよww

死後の世界も空だw

死後世界や意識についてそれが何であるのか回答できるのならやってみろww
さぞ陳腐な回答が出るに違いなかろうがなwwww

542 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:24:53.14 ID:faT2TNmZ.net
>>539
少なくとも仏教では君の考えは間違いになるよ

心の正体は君が大好きな「実感」だよ
感受して思うから自分を認識できる
感受は六触、つまり眼耳鼻舌身意からの入力によって起こる

思考するのも意根に触れるから出来る

543 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:26:21.74 ID:AMuyaKux.net
またまた糞仏教かぶれのお出ましか〜ww
仏教スレでまともな人間は隠居氏だけだなあw

544 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:27:26.71 ID:faT2TNmZ.net
>>543
隠居は間違ってたよ

545 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:32:08.22 ID:AMuyaKux.net
>>544
そりゃ間違うだろうよw
人間は間違う生き物だw

お前は間違っていないとでも言うのか?
それこそ恥を知らぬうぬぼれだ。

間違ってもその程度の問題なんだよw
根本が大間違いじゃ話にならんわw

546 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:35:09.87 ID:faT2TNmZ.net
>>541
>そういう陳腐な解説は聞き飽きた。
>もう何百回も繰り返し言われているんだよww

そうか
わたしのような説をこのカテで他に見た事が無いんだが、聞き飽きてるとは面白いな

>>545
君の言う根本ってなんだい?
その根本が正しいなら涅槃も解説できよう?
説明してみてくれないか、涅槃を

547 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:39:21.87 ID:AMuyaKux.net
>>546
阿呆ww

アンタはこのスレを何も読んでいないな。
最低、最初から目を通して言ってくれないかな?

私に涅槃など必要ないのだが、私も聞きたいと思って涅槃命〜の仏教馬鹿に聞いたら
「答えよう」「グーグルで調べよ」それが答えだ〜
だそうだwwwww

ちょっと前を見れば書いてあるだろうから確認したら?w

知りたければグーグルで調べたら?w

548 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:44:24.55 ID:faT2TNmZ.net
>>547
結局君は根本を知らないと言う事だな
それでどうして根本が間違ってる等と断定できようか

それと、君が隠居を正しいと言う理由はあれだろ
隠居だけだったからな、君の意見を認めてくれたのは

だから正しいと言う訳だ、ちゃんと見てたんだよ現場をね

549 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:45:20.26 ID:AMuyaKux.net
話にならんなw

550 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:46:02.67 ID:faT2TNmZ.net
そうだなw

551 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 14:47:41.31 ID:jcHdclQn.net
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること、何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
過去を手放し、現在を生きてください
  _  _  _

そしてさらに今現在も手放し
妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので
身体も・心の働きも・世界すべても
「自分だけのものではない・周囲環境だけのものでもない。と知覚して住む」という観察が必要である

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていくために 「 空である 」 と観察していくための方法が必要です

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ
194
身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて
(無明の暗闇に覆われているので、それ故に)ありのまま見られることがない
199
またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている
しかるに愚か者は 「 無明に誘われて 」、身体を清らかなものだと思いなす

552 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 15:28:26.37 ID:GS7WHU++.net
>>551
おじゃるも元気だったか
これの意味わかるか?
君が探してるものだと思うよ

「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。
考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。
聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。
識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」

これを理解するには二つの智慧が必要で、それを得る為には四如意足を修めねばならない
四如意足を修めるには四正勤を修めねば成らず、四正勤を修めるには四念処を修めねばならない

つまりな、おじゃる
ヴィパッサナーってのは理屈をコピペしててもダメなのよ

553 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/06(金) 18:31:15.81 ID:PuCmncvM.net
そういえば、隠居さん最近見ない様な気がするけどどうしたんかな?

(^。^)ひょっとして何かやらかしたのか?(笑)

554 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 18:40:48.41 ID:AMuyaKux.net
見ないような気がするのは気のせいだろうよw

555 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 18:53:20.72 ID:jcHdclQn.net
 
>四念処を修めねばならない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、(無明薫習から解脱するための)法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 「 自灯明法灯明 」 の教えを説いた

http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
過去と未来への想いを手放し、そしてさらに今現在への想いも手放し
妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので

身体も・心の働きも・世界すべても
「自分だけのものではない・周囲環境だけのものでもない。と知覚して住むこと。という観察が必要である」という意味でつ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
四念処(しねんじょ)
心念処(心念住) - 心の無常を観察していく
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分のものではない)を観察していく

556 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 19:31:01.22 ID:AMuyaKux.net
おじゃるよw
おじゃるも良い女を抱いて、酒は飲めないが、美味いものを食いたい〜とか言っていたなw

良い女を抱いて美味いものを食って一生を送れれば良いだろうなあw
しかし、その「良いだろうなあ〜」と言うのもよくよく検討すれば必ずしも
良いとは限らないかもしれないぞ〜w
良い女がAids持ちで感染して病気持ちになり、美味いものの食い過ぎで糖尿病になり
足が腐る〜なんてのはいただけないわなw

結局、可能な限り健康に、楽しみつつ、問題が有れば解決しながら一生を無事に生きる人間が
最も幸せだろう。無事で有る事が最も尊いとかいう禅語も有ったよな確か〜?w

アレコレ、悟りだの解脱だの涅槃だの覚者だの理想的宗教スタイルだの〜糞のような事を気にかけて
一生を送るのは不幸せではあるな。仮にその解脱とかを達成できたとしても、平穏無事の普通の人間の
足元にも及ばないだろうなあ。

可能な限り健康に〜とは運命的に病気になる人間もいるし、運命的に事故に遭遇する人間もいるだろうが、
その上でという事だ。病気や事故で短命なのは気の毒ではあるが宿命という奴だろう。

557 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 20:03:24.71 ID:AMuyaKux.net
あ、w
無論、良い女を抱きつつ、美味いモノを食いつつ、美味い酒も飲みつつ一生を健康に問題なしに生きられれば
それが最も理想的だろうなあw 
しかし世の中は良く出来たもので、何かしらが頂点に上がると反動で何かしらが下方へ落ち込む〜サインカーブなんだよw
あれもこれも全部頂点というのは不可能なんだろうなあ。かなり達成している人もいようが、そういう人間は心を犠牲にしている〜
とは、麻雀放浪記のセリフだわなw

人生楽有れば苦も有るさ〜の水戸黄門こそ真実www

558 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 20:26:10.35 ID:jcHdclQn.net
 
>良い女がAids持ちで感染して病気持ちになり、美味いものの食い過ぎで糖尿病になり足が腐る〜なんてのはいただけない

外見上、美人で可愛い女性でも内面的なものは?

ミュンヒハウゼン症候群
虚偽性障害に分類される精神疾患の一種で
周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり
自らの体を傷付けたりするといった行動が見られる

代理ミュンヒハウゼン症候群
傷害の対象が自分自身ではなく何か代理のものであるような精神疾患である
多くの場合傷害対象は自らの子であるが
自分に周囲の関心を引き寄せることで、自らの精神的満足を他者から得ようとして
「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」という場合もある

「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」ということが現れ(滅し)ている場合もあるので

それ故に「無ではない」でしょ?

(現れることのない「無であるのなら」現れることもなく滅して逝くこともない)

559 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 20:36:08.29 ID:AMuyaKux.net
まあ、異常な女を見抜けないのは己の人間性の問題だろうよ。
掴もうとしている〜だの、想いを手放す〜だのの表現が「無い」を前提としているだろw
それがダメだと言っているんだがな。
ま、分からなければそれでも良いよ。
そんなことは俺とは何の関係もない事だ。
ま、好きなようにアレコレ探りまくって悶えて下さいなw

560 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:00:45.99 ID:jcHdclQn.net
 
>「無い」を前提としているだろ

おじゃる本人は

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場の中観自立派でつ

 ☆ これに対して ☆

1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察して、そして

(世俗の次元においても)認識は対象の形相を有していない無相唯識派

世俗の次元においても、自相(自性・自我)を否定する中観帰謬派

最終的には、帰謬・無相に導いて逝く

その為の、経典・論書・解説書である

ということ

561 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:02:03.43 ID:332jDabJ.net
阿含にも涅槃にも、「心の師となるとも、心を師とせざれ」と言う真理が説かれてる。
自灯明、法灯明と合わせて考えてみよう。

>>558
チミはいつも下記のことを定句としているようだが、どういう意味なんだ?
>「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」ということが現れ(滅し)ている場合もあるので
それ故に「無ではない」でしょ?

心は実体のないもんであると知って、それに拘らない、幻として逃がせ、執着してはならない、ということになるのだが、
”それゆえに無ではない”というが、実体のない心が無ではないという意味のように見える。

実相=実体が空であるからこそ、それから(縁起してるもの)解放されるのだ。
”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

562 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:04:49.39 ID:dB6Veeo6.net
何かを得るには何かを失わなければならない
では持たざるものが何かを得るには何を失うのだ
命!

563 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:11:43.27 ID:332jDabJ.net
>>562
自分を失うのだ。自我でないものを得て、自我を持ったと妄想し、その為に本当の自我=実体を失うんだ。

564 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:19:07.76 ID:dB6Veeo6.net
ある僧が尋ねた。「仏とはなんでしょうか?」
雲門「糞かきべらじゃ!」

565 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:28:33.31 ID:jcHdclQn.net
 
>”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

おじゃる本人は
認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性が現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

おじゃるの場合は
前世の記憶はないけど
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じて、現れ(滅し)ている無明薫習に依存して

仮設としての
(実有・実体ではなく、空という性質なので、それ故に、因と縁の双方の縁起に依存して現れ(滅し)ている)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

このような掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

566 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:44:48.89 ID:jcHdclQn.net
 
掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相

 ☆ これを対処するために ☆

(おじゃるは実践したことがないけど、とりあえず↓これ)
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

567 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 22:03:01.36 ID:AMuyaKux.net
>>564
臨済録のその辺は解釈が難しいところではあるんだがな。

赤肉団上に一無位の真人あり〜とアートマンの存在を肯定しているだろう。
これが第一の間違いなのだが、
後の答弁でアナタの言うように、(雲門ではなく臨済だがw) 「糞かきべらじゃ〜」と
前の間違いを打ち消しているww

故意にやったとしか思えない調和だなw これが臨済録の魅力かもしれんなww

本当に魅力的なのは臨済の師の黄檗の方なんだがな。

568 :123:2015/11/07(土) 07:58:38.92 ID:3MpDYIDQ.net
567.
真人会というのがあった。
糞かきべら会を結成するかいな。
仏は糞かきべら、ではない。
真人でもない。
それでは何か。

569 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 09:40:43.82 ID:mocXysMw.net
>>565
おじゃる

>おじゃるの場合は前世の記憶はないけど

仏教の教義に依るのなら、君の考えてる前世は間違ってるかも知れないよ
もし、生まれる前を前世と定義して居るなら、いつが生まれる前なのかな?
君がオギャァっと生まれたその時の細胞は、今の時点の君には一つも存在していない
我々は常に生滅を繰り返して五蘊仮和合にある

仏道の鉄則は先入観の完全打破にあると思われるが如何か

570 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/07(土) 09:54:57.06 ID:uRJQ+un/.net
>>554
そっかー。
そんな気がしたんだがなぁ。

571 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 11:39:59.40 ID:WvbJg2Aw.net
ゴータマさんは、仏陀となったとき、「不死の法門が開かれた」と宣言なさったのだが、
それ以来、不死の法門により、解脱した人はたくさんいるということだが、
宣言した本人は、齢80にして死路についたのだ。これを見ると、何だゴーダマさんはやっぱり死んだではないか、どこが不死の法門なのだ?と言う声が
消えまい。他の聖者となったものも生きながらえているものはいないのだ。

死んでいく様については、聖者となったものも、欲望の塊となって死んだものも、同じだ。
死に顔がいくらか異なっていたのかもしれない。しかし、どれだけ違っていたと言えるだろう。

しかし、一方は極楽浄土へ、他方は輪廻の地獄の世界へ、と教えられている。

また、この世界は幻の世界で、実体がない。極楽だけが実体のある世界だ、と説かれている。

極楽とは、一相の世界だから、どこを見ても自分しかいないんだな。なるほど、これならいいかもな。

572 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:32:35.93 ID:j4UikVpT.net
 
>五蘊仮和合

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので、それ故に

中論:27−3
「私は、この現世においての過去に(変化しないものとして)存在していた」と言うことは妥当ではない
この現世においての過去に現れ(滅し)ていたものは
(前世に現れ(滅し)ていたものは)
(空という性質に依存して、因と縁の双方の縁起に依存して、変化しているので、それ故に)
今現在の私と同一ではないからである

 ☆ これに対して ☆

おじゃるの場合は

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)に依存して

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

それ故に
誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

573 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 13:42:12.40 ID:qW7spAwW.net
>>572
中論27-3
三 「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。
何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこのわれではないからである。

今一瞬が生滅って事なんだけどね

>誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

574 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:53:38.30 ID:j4UikVpT.net
 
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 ☆ これに対して ☆

このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れであるとして

無我
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
あらゆるものを非我(我ではない)とすると
どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる

575 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:12:37.27 ID:N6yToHLA.net
>>572
>>574

そう考えているのは、すべて君や釈迦の「我(生命・肉体)」。死ねば、一切は
不可能になる。「無我」「非我」を考えようとすればするほど、その「対照」と
しての「我」を意識せざるを得ない。それはあくなき「我への執着」である。

「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ
唯一の「本和合」。

釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」。

576 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:13:21.99 ID:j4UikVpT.net
 
>お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

おじゃるは

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・という中観自立派でつ

すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在している、と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 ☆ これを対処するために ☆

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察せよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない

577 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:27:39.59 ID:j4UikVpT.net
 
隠居先生?  乙です
  _  _  _

承狂さんへ
>そういえば、隠居さん最近見ない様な気がするけどどうしたんかな?
>(^。^)ひょっとして何かやらかしたのか?(笑)

人違いかもしれないけど

>釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」

とか逝っちゃってるので、それ故に

たぶん ID:N6yToHLA氏が隠居先生?

578 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:35:11.60 ID:N6yToHLA.net
>>576

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから
空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

人類はその発生以来、五感の知覚により、有と無とを一義的に区別することに
よってのみ生存してきた。目の前から走ってくる車を、実在として避けなければ、
跳ねられて、一蹴にして即死である。このように、「有(実在)」とは、「人間の
生命の維持に直接の関係」を有するが、「無(非実在)」は、人間にとって
無関係。考えるだけ無駄なもの。

人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。
例外は「皆無」である。釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある。

579 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:53:23.97 ID:qW7spAwW.net
>>575
>死ねば、一切は不可能になる。

一切とは何か説明して見給え
君が一切を言うのに見過ごしているものがあるだろう

>「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ唯一の「本和合」。

その論では

>死ねば、一切は不可能になる。

に矛盾するだろう
何故なら、死んで和合が解けるならそれは仮と言わざるを得ないからである

>>578
>「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

空は言語を用いた仮説に過ぎないのであり、空と言うものが実在して居る訳ではない
よって「観ぜよ」で正しい、わざわざ「観じる」必要もここにある

580 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:57:13.51 ID:qW7spAwW.net
>>576
では具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

581 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:00:58.35 ID:qW7spAwW.net
>>578
>人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
>対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。

観測装置を持ち出して言うならば、人間が感知している五感は、何れの対象を以ってしてもそれは電気信号に過ぎない
君はその電気信号を、本当に対象だと信じねば・信じ込まねば日常の生活は立ち行かないであろう
仏陀はその事実を科学的にはまだまだ稚拙だった時代に解明した訳だが、君の理解を超えているのだろう

582 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:03:12.24 ID:j4UikVpT.net
 
>釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある

おじゃるは記憶力が悪いので過去のことは憶えてないけど

隠居先生は龍樹(りゅうじゅ)肯定派だったような気がするけど

なんで龍樹肯定派なのかしらん?  その理由は?

ちなみに
おじゃるの場合は有相唯識派だけど、とりあえず↓これ

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう[中論:24-9]

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない[中論:24-10]

583 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:11.89 ID:qW7spAwW.net
>>582
おじゃる
勝義諦が判らないからとへそを曲げる必要はないよ

君は音が聞こえるだろう?匂いは分かるんじゃないか?
目は見えるだろう?味だってそこそこわかるだろう?
体に蚊が止まったり、汗が流れたりすれば感じるだろう?
トイレに行きたければちゃんと行くだろ?

これらは全部勝義なんだよ
言葉で説明は出来るが言葉はそれら自体ではない
それら自体はそれら自体を直接触れねばそれら足り得ないもの
それが勝義って事で勝義諦って事
これをこうして説明しているこれが世俗諦

584 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:19:33.42 ID:j4UikVpT.net
 
>具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

おじゃるの場合は
「美人で可愛い女性とデートしたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
「旨い焼肉カルビを食べたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
  _  _  _

 ↓実践したことはないけど興味がある

ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる
クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至る
  _  _  _

 ↓実践したこともないし興味もない

余念を交えず、ただひたすら座禅する、只管打坐
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)
何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また 「 仏に成ろうと思ってもいけない 」

585 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:07:49.05 ID:N6yToHLA.net
>>581

電気信号であろうと何であろうと、「人間にとっては」、その五感で知覚できる
対象のみが「有(実在)」なのだよ。何故なら、その対象のみが、人間の生命の
維持に直接の影響を与えるから。

若し、ゴキブリが神を知覚できれば、「ゴキブリにとっては」、神は実在する。
しかし、人間にとっては実在しない。

釈迦が、「無」など言い出したのが、誤りの発端。

586 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:17:47.56 ID:N6yToHLA.net
>>579

釈迦を初め、物事を語っているのは、すべて「生きた人間」。「生きた
人間」にとっては、すべては「本和合」。「仮和合」などない。

死ねば、認識器官そのものが消滅するのだから、和合もへちまもない。

587 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:20:23.99 ID:qW7spAwW.net
>>585
釈尊が無なんてどこで主張してるかな?

588 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:22:29.16 ID:qW7spAwW.net
>>586
断滅論なんだね
なるほど

589 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:31:53.52 ID:N6yToHLA.net
>>582

「世俗的なことに基づかなくては、第一義は説示されえない」(中論24:10)。
即ち、第一義は、世俗的なことから「一歩も踏み出すことはできない」のである。
よって「世俗=第一義」となる。

即ち中論は、釈迦の「二諦説」を事実上否定しているのである。

中論が、「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」としている
のは、そのことが理由である。

590 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:37:01.18 ID:qW7spAwW.net
>>589
釈尊がいつ二諦説を唱えたのかな?
二諦に言及したのは中論そのものでしょう

嘘は良くないな嘘は

591 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:39:50.67 ID:qW7spAwW.net
>>589
因みに

>よって「世俗=第一義」となる。

これを本気で言ってるならこれは「現法涅槃論」となり、邪義ですよと

592 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:41:58.37 ID:N6yToHLA.net
>>590

文句は、竜樹に言ってくれw。

「二つの真理(二諦)に基づいて、諸仏は法を説かれる」(中論10:8)。

593 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:44:35.73 ID:qW7spAwW.net
更に補足すると中論二十四章は四諦の考察

一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

引用したのは隠居なのかなぁ
後半を意図的に端折るとか悪意を感じるなぁ

594 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:48:30.90 ID:qW7spAwW.net
>>592
中論10-8って全然違う文言ですぜ?

正しくは二十四章四諦の考察

八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
その二つの真理とは世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。

でしょ?
意図的に後半を端折っちゃダメだと思うよ

595 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:55:32.73 ID:N6yToHLA.net
>>591

「煩悩即菩提、生死即涅槃」。

596 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:00:24.80 ID:qW7spAwW.net
>>595
煩悩がそのまま菩提な訳ではなく
生死がそのまま涅槃な訳でもない

即煩悩即菩提、即生死即涅槃

お分かりかな?

597 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:01:39.27 ID:N6yToHLA.net
>>593

中論の文言上、その「究極の真理」は「世俗」にしか存在し得ないの
だから、「意図的な端折」でも何でもない。文言通りである。

598 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:05:19.78 ID:qW7spAwW.net
>>597
「究極の真理」と言うもなど実在しない

中論ちゃんと読め

599 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:07:14.24 ID:N6yToHLA.net
「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」とした中論が、
それらから離れた真理など認めると、たちまち論理矛盾に陥る。釈迦とは異なり、
中論には、論理矛盾は「皆無」である。

600 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:10:01.65 ID:qW7spAwW.net
>>599
>中論には、論理矛盾は「皆無」である。

修行が足りないな
龍樹の失敗は見解を立てたことだろ
中論は確かに正しいが、正しいが故に正法に対しては違背している
それを知らないのは似非インテリで、ちゃんと読めてない証拠

601 ::2015/11/07(土) 18:16:32.35 ID:tlNkQZjX.net
>>599
皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、
龍樹の「我に主張なし」というのは矛盾だとは思うね。
主張しているから中論なるものが出来上がった。

他はほぼ隠居氏に同意する。
「有る」と「無い」では人間にとり「有る」がメインの命題で「無い」はサブの命題である。
これは生と死についても同様に言え、生がメインで死がサブ。

602 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:20:06.47 ID:qW7spAwW.net
>>601
お前は自分で中論読まないで他人のフンドシで相撲執ってるよな

いい身分だと思うよ

603 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:23:58.03 ID:N6yToHLA.net
>>600
>修行が足りないな

真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」
ものではないよw。

604 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:24:19.06 ID:tlNkQZjX.net
中論など素で読んでる人間なんているのかよw
ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
中村元ですらそうなんだからなww

605 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:28:52.41 ID:WvbJg2Aw.net
>>601
>皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、

それはおかしいだろう。そして皆無とは=無のことか?相対的無じゃなくて絶対的無か?

606 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:31:06.93 ID:tlNkQZjX.net
>>605
こりゃ失礼。
私の勘違いでした〜w

無いのではなく有るというべきでした。 訂正します。

607 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:40:37.48 ID:hPY979nU.net
>>603
>真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」ものではないよw。

すでにあると言うなら何故君には観えてないんだ?

観えていると言うなら、「法灯明(法洲・法島)」とはどの法を拠り所とせよと言っているのか解る筈だよな
答えてみてくれないか

608 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 18:53:33.57 ID:j4UikVpT.net
 
>修行が足りないな

おじゃるも
紐くん(ID:AMuyaKux)も
隠居先生(ID:N6yToHLA)も

止(サマタ禅定)も、観(ヴィパッサナー智慧)も、実践したことがないので

修行してないと思うけど、とりあえず↓これ

>「世俗=第一義」となる

「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大が大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗
十八界  (有為法も)無為法も含まれる

609 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:07:35.96 ID:WvbJg2Aw.net
涅槃に向かう論になっているぞ、ガンバレ!涅槃を理解したらあとは実行するのみだ。
その実行は易しい。出来立ての陶工の作った粘土細工を壊すようにやさしい。

勇気は智慧に基づくのだ。と思う。w

610 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:09:25.88 ID:hPY979nU.net
>>608
>>「世俗=第一義」となる

>「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
>「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

梵我一如はアドヴァイタの十八番で仏教ではない


>「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
>「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

我見で改変する悪意は相当なものと思量します

611 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 19:16:50.86 ID:j4UikVpT.net
 
>ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
>中村元ですらそうなんだからな

中論(ちゅうろん)
漢訳では
鳩摩羅什訳の青目(ピンガラ)という人物の注釈本が大蔵経に収録されている
サンスクリット語・チベット語の註釈書としては
作者不明の『無畏論』(アクトーバヤ)
ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論註』(ムーラマディヤマカ・ヴリッティ)
バーヴァヴィヴェーカ(清弁)の『般若灯論』(プラジュニャープラディーパ;知恵の灯火)
チャンドラキールティ(月称)の『浄明句論』(プラサンナパダー;明らかな言葉)

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは『空だ』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、『仮名の空』を以って説いた

612 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:17:28.14 ID:mBDCTMQ4.net
君は知恵を勘違いしておるのお。
雑学がある事を知恵者とは言わんのぞ

613 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 20:21:26.22 ID:N6yToHLA.net
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない」(中論25;19)。

「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
微細なる区別もない」(中論25:20)。

即ち、「世俗=第一義」という等号が成立する。ここから、大乗仏教の「煩悩
即菩提」「生死即涅槃」の教義が発生する。

釈迦の思想とは、本質的に異なる。

釈迦カルトが、中論を何とかして釈迦に近づけようとするから、すべての誤解が
生じている。

中論の帰教序に騙されているのだと思うが、帰教序の内容はすべて竜樹の思想。
中論から、「釈迦を超えた」という竜樹の並々ならぬ自信を読み取るべきである。

同じ仏教でありながら、釈迦と中論との間の巨大な相違は、世界宗教史上の
稀有の出来事といわれている。

614 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 21:05:06.50 ID:tlNkQZjX.net
確かに仏陀と龍樹は同じ仏教でありながら別物らしいね。
まあ、私はどちらも可として受け入れる。
龍樹命の隠居氏と私の違いはソコだ。

ただ私の位置づけとしては龍樹よりも仏陀だな。
大乗の一元論は理屈としては分かるが人の生き方としては多元論の原始仏教の方が良いだろう。

615 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:41:37.35 ID:N6yToHLA.net
>>614

釈迦の無、無我、一切皆苦が多元論とは、理解に苦しむ。

616 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:49:42.53 ID:tlNkQZjX.net
仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。
無我は「可能な限り無所有を目指しましょう〜」という程度のもので、又
一切皆苦は出家の動機に過ぎず、大パリニッバーナでは「○○は楽しかった〜」と
10ヶ所以上思い返して述懐しているところからも一切皆苦は一貫した認識ではなかったであろう〜。

むしろ、空の大看板のみに頼る大乗仏教の方が人の生き方として依るべきものであるのか?との疑念はある。
空を理屈としては理解してもという上での事だが。

617 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:34:40.29 ID:N6yToHLA.net
>>616
>仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。

それはそうだな。中村元博士は、「釈迦は独創性は皆無だった」と言っている。

しかし、釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と
精神性を感じる。

中論の空は、「相対性」であり、「空もまた空」と言ってるのだから、個人的
愛着は一切ない。多元における関係性という論理のみ。宗教というより、むしろ
自然科学。「宗教破壊の思想」である。

釈迦の「生き様」に感心する人がいるが、泣いて留める両親や、妻や生まれた
ばかりのわが子を捨てて家出し、好き勝手に振る舞い、多くの人々を洗脳して
他人の弟子を奪った釈迦の生き様のどこがよいのか、全く理解できない。しかも、
人を覚者と凡夫とに差別している。常に、上から目線の精神論ばかり。それらの
点で、イエスと共通点がある。

釈迦が精神病(躁うつ病)であったことは明らか。釈迦に対する個人的愛着は、
彼の精神病の感染による。

618 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:47:54.63 ID:tlNkQZjX.net
仏陀の言う法と老荘の道は同じとは言わないがカナリ近いものじゃないのかな?
そう見れば原始仏教の良い面も見えてこようw

仏陀を神として崇め奉るという仏教信者はダメだとは思うよ。
仏陀の教えのプライオリティNo.1の自灯明に照らしても仏陀自身に頼る事はダメだろうからね。
仏陀自身も教団の誰も自分を頼っていないと言っているくらいだからね。
そういう路線で行けば、
>釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と精神性を感じる。
という必要性もないのではないの?

619 :123:2015/11/08(日) 04:18:37.22 ID:o8jYYX8b.net
1.
存在=有であり、
それを否定したものが無である。
簡単明瞭である。
だからして、その両者は両立することになる。
有即無であることになる。

620 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:05:07.38 ID:JZ/GffJa.net
>>613
>「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる区別もない」(中論25;19)。

正しくは(中論25;19涅槃の考察)
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

>「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの微細なる区別もない」(中論25:20)。

正しくは(中論25:20涅槃の考察)
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

即ち、「死んだら全て終る」と称する主張者の論理がこれに因って成り立つ訳もない
つまり、「世俗=第一義」もここに成り立たないのである
煩悩即菩提とは「汚れがある故に綺麗にする事が出来る」と言う真実を言っているのであり
「汚れが即ち綺麗な事だ」と言う意味では決してない
また、生死即涅槃も同じ様に、「生き死にがある故に浄土がある」と読むのであり
「生き死にがそのまま浄土だ」と言う意味では決してない

中論頌をいくら褒め称えようとも、文字を誤解して意味を曲解して用いるならば、ただの戯論に過ぎない

戯論は涅槃にて悉く全て滅する故に、隠居の暴挙も通用しない

621 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:14:55.94 ID:JZ/GffJa.net
智者は知るべきである

生死はそれぞれ、始まりと終わりとを示唆するものなのであり
究極なる輪廻に於いて、始まりも終わりも無いのであり、如来はそれこそが涅槃だと言うのであると
愚者には涅槃が見えない故に、生死の戯論を離れた状態を夢に見ることも適わないだろう

622 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:18:41.05 ID:JZ/GffJa.net
補足

仏教・仏道には確固たる主目的があり、その目的とは「苦の遠離・離脱」である
輪廻から離脱するなどと言う邪義を構えるのは邪な教えを説く邪教の如きと言えるだろう

繰り返すが
仏道の主目的は「漏尽解脱」なのであり
決して「輪廻解脱」ではないのである

輪廻解脱を殊更に説く最近の宗教として顕著なものは「阿含宗」が言えるだろう

これなども邪教に過ぎないのである

623 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:23:21.54 ID:SgmZqH+j.net
ニルヴァーナは《在る》オンリーの実在。

心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。
喜んだり苦しむのは心。
心が望み、心が拒絶し、心が行為し、心が作り、心がその結果を見て、心が悲しみ苦しみ、喜ぶ。
心とは対局とその間の無限。収縮と拡大。比較して知る。可動、変化、自由・・・。
心は心による心のシミュレーション。
心は眠り、目覚める。

ニルヴァーナは心によって知られる。
知った釈迦はこれを伝えようとした。

624 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:26:50.64 ID:JZ/GffJa.net
>>623
では心とは身体のうちの一体どれの事かな?

625 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:33:00.07 ID:SgmZqH+j.net
>>624
心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

626 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:39:43.87 ID:XhW66CPi.net
>>625
>心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

では>>623曰くの
>心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。

に矛盾するが如何か?
その論では内面外面含め有るもの一切、現れ全ては即ち幻影であり記憶であるとなるが

627 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:56:08.47 ID:vlaF7W64.net
>>621
華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、
相対存在を見るとは、各々が相拠りあって存在していることを理解することであり、相手がいないと自分もないという関係
を知ることであり、そうすれば、決して各々が自存するものではないと判断することであると知ることだと決定する。

生死を観想すれば、生死はないと決定すべきことになる。

世界は相対存在なのだ、とすれば、世界は一相無相であると判断すべきなのだ。

煩悩とは、その概念は単純ではないので、判りにくいが、それも相対存在なのだとすると、
つまり四諦の法門の、苦諦と集諦の相対関係とみるなら、それは両者ともないものと判断すべきd、
そういうものであるところ、縁起関係を認め、それについての判断を経ないまま、菩提であるというのは、
教説としては乱暴すぎる、というべきだ。

二辺=両辺を見るとはその関係性を認識することだ。認識したら即両辺は消滅する。

いずれにしても問題ある熟語ですね。

628 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 09:06:39.44 ID:SgmZqH+j.net
>>626

ニルヴァーナに現れた全ては幻影です。記憶=幻影。
実在はあり、幻影は現われたり消えたりしている。

629 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 11:41:55.88 ID:R45dTPzh.net
死後世界をニルバーナ、涅槃というのならそれはそれで構わないが、
それがどのような世界であるか知る人間は過去にも未来にもいない。

人間は死後の事を知り得ず、ましてや輪廻などインド人の妄想に過ぎない。

健全な大人の人間は分からない事は分からないと言う。
未熟な人間は分からない事を分からないままにしておくことが我慢できずにアレコレ妄想する。

解脱だの涅槃だの志向する事自体が穢れである。平穏無事の人間の足元にも及ばない。

630 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:11:03.01 ID:XhW66CPi.net
>>627
>華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

華厳どころかマッジマニカーヤにもサンユッタニカーヤにもそれはある有名な下りだろう
あなたは縁起をどこに見ようとしているのだろうか、例えば

>自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、

と、もうこの時点で縁起を「外」に求めてしまっており、それはお説に於ける「自灯明法灯明」を逸脱していると言えよう

もう一度繰り返しになるが、あなたは縁起をどこに求めているのであろうか
一切事物を外に求めるが故にあなたは迷うのであり、それだから無明も晴れないのであろう
外の一体どこに晴らすべき無明があろうか、無明は内にあるはずであろう
おわかりだろうか?

目は縁起して見えるのであり、耳は縁起して聞こえるのであり、鼻は縁起して芳しいのであり
舌は縁起して味わえるのであり、感触は縁起して感じるのであり、意識は縁起して思われるのであろう

どうして外に気を取られるのであろうか

631 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:30:53.25 ID:SgmZqH+j.net
>縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る

この文はそのとおりです。見る=知るですね。
縁起は対象があるとき、感覚を受け取る私があるなら、それが欲し、行為し、死に生まれ苦しむ。ということの説明です。
そしてそれらを滅する方法でもあります。

見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。
これを知るなら、世界を知るでしょう。更に探求によって究極を知るでしょう。

632 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:29:03.75 ID:XhW66CPi.net
>>631
>見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。

それならば今、ここで>>631なるレスを付けた事実も存在しないと言うのだろうか?
存在しないと言うならば、一体誰・何がそのレスを付けられたのであろうか?(by紐)

633 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:42:00.19 ID:R45dTPzh.net
何だよw (by紐)ってwww

634 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:17:28.50 ID:xvRKVDaJ.net
>>632

>一体誰・何が

何か主体があるはずだ。と考えるクセが完全に定着しているのです。
行為の主体、個人がいて、その行為の結果を得て・・・・責任を背負う・・・・。という常識。
この疑問。をとりあえず棚に上げて、注意深く確認してみてはどうでしょう?
感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

635 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:27:54.90 ID:XhW66CPi.net
>>634
>感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

では、受け取っているのは他者とでも言うのだろうか?(by紐)

636 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:34:02.96 ID:R45dTPzh.net
主体は有るw
だとしたら〜というナンセンスな仮定に意味は無い。 妄想である。

637 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:36:49.94 ID:XhW66CPi.net
>>636
何故有るといえる?
「俺がそう思うから」かな?

638 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:42:37.04 ID:R45dTPzh.net
>>637
仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w
アンタが言ったとおりである。

人生に主体有り、存在論としては不明〜これ以上の正解はなかろうw

639 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:47:30.48 ID:KwZc0wNX.net
>>638
>仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w

と、こう考えるから君は有ると主張出来るのではないかな?
その考えは正しいと君は思うだろうか?

640 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:58:17.24 ID:R45dTPzh.net
人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw
正しいか正しくないかは別にしても考えるのは良い事だ。
考えすぎて誤った方へ流れるのはダメだろうがな。

641 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:01:10.32 ID:vEWYCAe6.net
>>640
>人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw

なるほど
つまり、考えなければ「無い」と言う事になるな
何故なら、考えなければ存在形態ではないのだから

642 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:06:51.97 ID:R45dTPzh.net
考えなければ考えない存在形態となるだけで、「今の」存在形態とはならないだけw

643 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:23.68 ID:k3+qEfGx.net
>>620

「生死の世界」とは、「生も死もある世界、生まれて死んでゆく世界、即ち、
世俗、現世」と解すべき。「(生が連続する)輪廻」とは異なると思う。
「生死の世界」は田川訳だが、誰か原語を挙げてくれ。

中論では、勝義は、世俗的なことから一歩も踏み出すことは許されない。

煩悩即菩提の「即(ji)」は、中国語の書面語では「即ち・・・である、それが
そのまま・・・である」の意味。「同一性」を表す。スピノザの「神即自然(God
or Nature)」の「or]と同じ。

中論では、すべての観念は相対的。「清があるから濁(汚)がある」。清濁の
区別も「空」である。

小乗と大乗とでは、解釈が全く異なることを忘れてはならない。日本の仏教は
大乗仏教である。

644 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:58.56 ID:vEWYCAe6.net
>>642
では存在形態とやらは「今」とやらに依存している訳かな?
また、その存在形態とやらは「考え」にも依存している訳かな?

645 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:19:09.57 ID:R45dTPzh.net
人間は考え科学を発展させた。
人間が考えなければ今でも裸で洞穴ででも暮らす生き物だろうよ。
目の前のPCなど人間の考えの賜物だw

その有様を存在形態というだけで、存在形態が何かに依存するなどという考え自体が妄想だ。

646 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:26:44.05 ID:vEWYCAe6.net
>>643
公開されてる資料として以下のものが最も忠実・中立に訳されていると言える
読む際は一端、訳者の解説は捨て置いて考察にあたると良いかと思われる
https://docs.google.com/viewer?url=http%3A%2F%2Fhome.att.ne.jp%2Fdelta%2Fmyrobalan%2Fpdf%2Fmulama25.pdf

一応件の部分としてはこうである

>19. 輪廻にある存在と涅槃との間には わずかな違いすら存在しない 涅槃と輪廻にある存在との間には わずかな違いすら存在しない

>20. 涅槃の終わり limitがどこまでであるにせよ それは輪廻にある存在の終わりである 両者の間にはわずかな違いも 最も微細な違いすらも存在しない

そして一つ指摘しておくが、小乗と言われる対象は仏教に存在論を混ぜてしまった故に消滅(散会)したのである
「大乗とはこうである」と言いたいだろうが、それは一つの見解なのであり、仏教全体としては見解を立てては法の破壊となるのである
智者は良く考えるべきであろう、上記故に中観派すらも、その見解故に今は無いのであると

647 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:32:40.51 ID:vEWYCAe6.net
>>645
科学の進歩は人の考えに依存しておろう?
存在形態とやらもお主の考えに依存して今主張できてるんじゃないのかな

であれば、考えねば存在形態は成り立たず、科学の進歩も成り立たない訳だ

道理に適ってる筈だがどうかな?

648 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:34:14.76 ID:R45dTPzh.net
無見解は何も説かないという事だw
しかし、饒舌に説いているのは見解に他ならないw
無見解の主張は矛盾である。
無の主張の矛盾と同じである。
無を信じているのならば黙って見るだけにするんだなw
何かを語ればその瞬間に己の主張は矛盾に陥るwww

649 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:39:54.85 ID:vEWYCAe6.net
>>648
黙って欲しいのか?
それは気分が良いか?

650 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:41:16.72 ID:R45dTPzh.net
気分が良いも悪いもないww
矛盾であると指摘しているだけだw

651 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:42:12.10 ID:xvRKVDaJ.net
>>635

受け取り手が必ずいなければならないと思い込んでいませんか?

652 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:45:38.20 ID:vEWYCAe6.net
>>648
紐よ、良く考えろ
空とは有でも無でもない、お前の大好きな大好きな「非有非無」の如しが空なんだよ
この世界に四句を外れた事物がどこに有ろうか、良く考えてみろ

四句(有・無・有無・非有非無)のどれにも掛からないものを仏教では無為と言う
紐よ、良く考えろ、無為は非有非無にすら掛かってないんだよ、故に「非有非無の如し」なんだよ
何故なら、四句はあくまでも概念に過ぎず、考えられたものにに過ぎず、それは有為だからだ

わかんないんだろうなぁ

653 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:47:56.48 ID:vEWYCAe6.net
>>651
受け取り手が無くてどうやって感受するのかな?
その書き込みはどうやって返答されてるのかな?

654 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:50:36.13 ID:R45dTPzh.net
ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜
のならばそれはその人間の在り様でありそれだけの事。

2ちゃんねるで饒舌にアレコレ書き込み、その書いている内容が「無い」だの「空」だの
いうのは阿呆だろw 私はそれを指摘しているだけなんだがなw

心底「無い」を信じている人間は2ちゃんねるに書き込みなどしないw

655 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:54:04.62 ID:vEWYCAe6.net
>>654
>ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜

それは中観派の主張だろ
わたしは中観派ではない

656 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:04:13.27 ID:yFrA4W88.net
>>646

引用がエラーになって開けないが、原語では、輪廻(samsara)という言葉を
使っているのか。「輪廻にある存在」なら、まさに「衆生」のことではないか。

岩波仏教辞典の「生死即涅槃」の解説にも、中論の言葉として、「生死は涅槃と
いかなる差別もない」となっている。

657 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:38:18.17 ID:yFrA4W88.net
>>646

「釈迦命」のあまり、大乗仏教を釈迦の思考枠内(小乗)で解釈しようとする
から、耐え難い混乱が生じているのだと思うよ。

「存在論」の基盤としての六処(五処)の発見こそ、小乗の最大の功績だと
思うのだが。

658 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 19:26:52.38 ID:vlaF7W64.net
音とは、アトムとその響きである、として、音も縁起したもので、実体のないもので拘るものではないと説くな。
だから、誰かが大声で呼びかけてきたとしても、修行者はそれに気を取られてはならないのだ。

煩悩即菩提は、言葉の概念としても、煩悩と菩提は相対するものだから、
即空であると断じていいのだ。空だと認めるということは、そこには害となるものはないということで、
その人は安楽を得るのだ。

ところでそういう解釈でいいのかな?w

659 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 20:55:31.47 ID:yFrA4W88.net
>>658

音とは、実在である空気の振動。音には、必ず、実在としての音源がある。
過大な音は、鼓膜を破り、人間の生存に直接の影響を及ぼす。聴覚で知覚
されるだけでなく、空気は風のそよぎで知覚できるし、オッシログラフを使えば、
視覚でも知覚できる。従って、音も実在である。

中論の空とは、「有るか無いか解らない幻」ではなく、すべて厳然たる実在
であるが、これが「相互依存性・関係性」という「抽象観念」によって構成
されているから、執着すべき自性はないという、もろもろの存在の構成原理を
述べただけ。誤解してはならない。中村博士は、「空は無ではない」と声を大
にして警告している。

煩悩即菩提、生死即涅槃は、大乗仏教の究極の思想。いずれも生命(仏教的
には真如)の表れだから、相等しいということ。煩悩も、究極的には「生命の
危険」に対する警告。排除すべき異物どころか、感謝して受け入れるべきもの。
煩悩に感謝し、その警告に対処することによってのみ、煩悩は止む。

生死とは、生まれてから死ぬまでの現世、即ち生存のこと。永劫の期間における
唯一度きりの己の生は、それ自体が奇跡であり、限りあるものであるからこそ
尊い。人間は、どんなに苦しくとも、実は「今ここに生きていること」自体に
最大の喜びを感じているのである。それが即ち涅槃である。

660 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 08:37:46.82 ID:eLYI+ybn.net
>煩悩即菩提、生死即涅槃は、大乗仏教の究極の思想

中論とは少しかじった程度で、いくらか聞いていいると、とても理解不可能のようだ。
チャンドラキルティから読んでみようか。

ネットでしか勉強するつもりがないので、良いサイトがあるかな?

661 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 08:39:13.81 ID:eLYI+ybn.net
中論とゴータマの教えが異なるというのは、おかしいと思わざるを得ないんだが。

662 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:04:20.48 ID:hfPCv62W.net
>>656
あなたが嘗ての誰なのかは問うまい
誰かだったとして、随分学ばれて心穏やかに成長された事を
素直にお喜びします

>「輪廻にある存在」なら、まさに「衆生」のことではないか。

これを外に求めるから混乱する訳です
あなたが衆生と指すその対象はあなたではない・あなたのものではない
そしてあなたの本体なのでもない、あなたが衆生だと指すそれは
あなたに於ける感受以外の何ものでもない
一切行苦とは一切(眼耳鼻舌身意)に意思(行)が起こる事全てが苦だと言う指摘です
あなたが衆生だと指摘したそれこそが一切なんです
それは苦なのであり、輪廻する故に苦を免れ得ない訳です

生死と涅槃とに差別や隔たりなど無いのが事実でしょう、それはまた真理でもあります
しかし、隔たりを感じるのが衆生の通常なのであり、そこを超克する手段が仏道修行となる訳です

663 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:08:23.23 ID:hfPCv62W.net
>>657
釈尊が法を説かなかったなら、大乗仏教は無かったでしょう
そんな事は無いならば、仏教を名乗るのを已めていた筈です
そして、涅槃は出世間ですから存在論に収まりません
存在論は概念ですし、涅槃という呼称も仮設の呼び名に過ぎません
事実という真理は概念に収まらないのです

664 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:11:43.73 ID:eLYI+ybn.net
中村元氏が、ゴータマは独創的なことは一つも言わなかった、と言っているというが、
ゴータマは世界の真実を発見することが目的だったから、真実の発見と、独創的は発明とは相克するものである以上
お門違いの言辞である。寧ろゴータマな独創的なお話は打破する人だったのだ。

しかし、正覚者でさえも、輪廻するんだ。それは、仏は生まれ出るものであって、滅するものであって、
ある時はかの国に、ある時はここの国に、と誕生地が異なるからだ。

665 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:14:42.48 ID:hfPCv62W.net
>>658
>音とは、アトムとその響きである、として、音も縁起したもので、実体のないもので拘るものではないと説くな。
>だから、誰かが大声で呼びかけてきたとしても、修行者はそれに気を取られてはならないのだ。

それはそう言う訓練法に過ぎません
身体を解す為に敢えて負荷を掛けて行なうストレッチみたいなものです

>ところでそういう解釈でいいのかな?w

可もなく不可もなく、理解されたのならあとは行なうだけでしょう
解釈は真理ではありません、真実は如実なのですから概念では及びません

666 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:16:39.78 ID:jEDYOBMU.net
>>660

その語句は、岩波仏教辞典からのそのままの引用だが、文句があれば
岩波書店に言ってくださいw。

>>661
チャンドラキールテイについては、他の中観論者とともに、「シリーズ
大乗仏教」で調査済み。彼は、宗教性(釈迦への嵌まり込み?)が特に深い
そうだ。

中村大先生によれば、西洋の仏教学者たちは、両者の相違の大きさは、
「世界宗教史上稀有の例」だと言っているそうです。

667 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 15:00:53.66 ID:Oyi5yG4s.net
>>662
>輪廻する故に苦を免れ得ない訳です

中論は、時間を否定することにより、輪廻を否定している。また、苦楽も相対
だから(苦があるからこそ、楽がある)、苦も空である。

668 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:09:53.34 ID:M0oDDhrj.net
輪廻(輪廻転生)はインド人の妄想
死後世界は不明
人生主体は有る

これ以外の回答を認めない

669 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:17:47.22 ID:DjznMih3.net
その「ある」ということの「在り方」がポイントだってのが、まだ解らないんだねぇ・・w

国、国家は「ある」のかい?無いのかい?  >>668



君はきっと、パレスチナ問題の深刻さも理解できてないんだろうな・・・ ┐(´ー‘)┌

670 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:21:28.53 ID:/gq1a8Fq.net
>>667
そう思う?
中論は時間と言うものが一体全体何なのかを解ってる人が論じている
それを踏まえて、名色の理を弁えた人が中論を著してるんだよ
それでも中論は時間を否定し輪廻を否定してると言えるかな?
ちゃんと読み直したほうが良いと思うよ

671 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 19:09:32.05 ID:M0oDDhrj.net
時間の理解は中論の時代よりも現代物理学の方が遥かに上だろうよ。
大昔の人の時間の理解を現代人にせよというのは誤。
単なる紹介(昔はこうだった〜という)以上の意味は無い。

672 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 19:11:43.13 ID:DjznMih3.net
>>671
昨日のNHKスペシャル見たか?w

673 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 21:45:49.38 ID:Ybs+5GMU.net
>>671
では、時間とは何かな?
これが分かるとあるものが分かる
そうすると、バックトゥーザフューチャーは不可能な話しだとも分かる

674 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 00:51:35.35 ID:/OFpm0Ph.net
>>673

物理的時間とは、単に「実在の変化」のこと。難しく考える必要はない。
昔の人は、天体の動きや水の動きで時間を測った(日時計、水時計)。
現代でも、原子の振動で測る。

太陽が昇って、沈み、また上る。これが24時間。この24時間を細分した
ものが時間。

中論は、時間を遮断することにより、もろもろの実在の構成原理を見出した
のである。動いている機械を止めなければ、その機械の構成はわからない。

心理的時間は、単なる心理現象。物理的時間とは似て非なるもの。

675 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:03:19.89 ID:eLL1afec.net
>>674
>物理的時間とは、単に「実在の変化」のこと。難しく考える必要はない。

つまり、縁起の事になるな
2500年前にそれは発見されてた訳だろ

>中論は、時間を遮断することにより、もろもろの実在の構成原理を見出した

違うな
中論に於いて言ってるのは名色(ナーマ・ルーパ)の観点から見た時間
つまり、名称(心理的観点)と形態(実態)の観点に於いて時間とは何かと観た場合
時間というのは名称に過ぎず概念に過ぎないと看做している訳で、時間を否定して居る訳では無い
人が時間と呼んでいるそれは、縁起している様をそう呼んでいるから、そもそも時間というものは存在していないと言っている
それが、己去去らず未去去らず去りつつあるものも去らないと言う事にも繋がる

もう少しちゃんと読んだ方が良いと思われる

676 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:22:04.75 ID:eLL1afec.net
中論は、仏道初心者クラスの知識レベルの事は考慮されてない難解な書と成っている
それ故に負けず嫌いなインテリ指向な連中が、知ったかぶったり論破して見せようなどと好んで読まれたりする
難しいのは当たり前で、あれは仏道のプロが仏道のプロに論難を挑んで論破する為の書だから難解なのである
あの書を簡単だ、と言う奴が居たなら逆に要注意なのである、それは何故か

龍樹尊者があれを著して対論相手にしているのは、説一切有部であり、真面目に研究と修行とを行っていた連中が
正法を間違ってしまった故に、それを正す目的で著された訳で、二十七章全てにおいて究極論戦と成っているので難しいのである
読んでも意味難解と感じる人は極めて「普通の事」なのである、恥じる必要等全く無い
中論分かっても悟れないし、中論知らなくても悟れるので、仏道に於いては知っても知らずとも何ら困らない書なのである

677 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:25:24.46 ID:eLL1afec.net
補足

中論を読んで理解出来るレベルとしては、最低限

名色とはどう言う理屈か

くらいを完璧に理解出来て無いと大抵誤読して誤解するだろう

678 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:36:06.23 ID:eLL1afec.net
もう一つ補足

中論は、悟った人が悟った人と論詰合戦している訳だから
あれを理解出来るには最低限、名色を完璧に・・・ つまりそれは傍観者も預流果ぐらいでなければ無理って事になる

679 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:50:44.65 ID:/OFpm0Ph.net
>>675

時間は、実在の変化であり、それを認識するのは「今ここの刹那の生命」。
中論の思想は、生命の刹那性の自覚からはじまっている。

釈迦の縁起は因果関係だから、時間を含み、対象の構造の把握は不可能
である。諸行無常の対象の一体どの時点における構成なのか、全く
解らない。

認識中の観測者が即死した場合、彼にとっての最後の世界は、一枚の
静止画である。

実在の変化は、五感で知覚できるから、概念ではない。刹那の生命の
機能としての認識(一枚の静止画)の積み重なりである。

680 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:01:01.70 ID:eLL1afec.net
>>679
>釈迦の縁起は因果関係だから、時間を含み、対象の構造の把握は不可能である。
>諸行無常の対象の一体どの時点における構成なのか、全く解らない。

諸行無常って言うのは別の言い方で「一切行無常」と言うんだよ
一切とは六触処(十二処の内側)の事で、行とは意思の事(行ないは全て意思から起きている)
それは無常(一瞬一瞬の繰り返しで恒常ではない事)だと言っている

>実在の変化は、五感で知覚できるから、概念ではない。

しかし、覚っただけでは知るには至れて居ない、故に五感にもう一つが加わって六根(眼耳鼻舌身意)と成っている
デバイス(五感感官)にはデバイスドライバー(意根)が無ければ成り立たない

>刹那の生命の機能としての認識(一枚の静止画)の積み重なりである。

そこにもし生滅を観れたなら、君は晴れて解脱だ

681 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:04:19.00 ID:/OFpm0Ph.net
>>676

中論を、何とかして釈迦の思想の枠内で解釈しようとするから、難しく
なるのだよ。

中論は、釈迦の思想とは本質的に異なる、完結した一大思想体系。

竜樹の伝記を読むと、彼は「仏教は間違っているから、俺が訂正する」
と喝破している。竜樹は頭が良いから、当時の超有名人であった釈迦の
名前を利用して、「己の思想」を説いただけ。

中論は、竜樹の「釈迦を超えた」という自負心に満ちていることを、読
み取るべし。

大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

682 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:09:55.89 ID:eLL1afec.net
>>681
龍樹尊者がそこで言っていた「当時の仏教」とは部派仏教の事
その中でも一大勢力だったのが説一切有部
世間ではその当時、それが仏教の全てだと考えられていたのさ

>大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ
ただ、時節に合わせて対機説法しかしてなかったから大乗経典の様な創作的な経典になってないだけ

683 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:40.97 ID:eLL1afec.net
>>681
君はひょっとして仏道を知らない人なのかな?実際に行じていないの?
もしそうなら、龍樹尊者が中論を興した理由と、その対論者の主張も知らなくて当然かも知れないが

龍樹尊者が言わんとしていたのは、有部に対して「釈尊はそんな事おしえてねーし」って事に尽きる
何たって有部の根本思想は「三世実有法体恒有」で完璧に存在論になってしまっていたからね

きみが若し存在論大好きなら寧ろ有部を学ぶべきだと思うよ

684 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:46.18 ID:/OFpm0Ph.net
>>680
>故に五感にもう一つが加わって六根(眼耳鼻舌身意)

ここでの「意」は、五感からの入力を受容して処理・統合する脳の機能。
あくまで五感の一部である。現代の解剖生理学とも完全に一致する。

このことを理解していないから、仏教では、意が一人歩きしまくって
いる。これが仏教思想の混乱の原因。

脳の各部位におけるそれぞれ異なった機能(「脳機能の局所性」)を
理解する必要がある。

685 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:32:09.32 ID:j7sP3xDX.net
>>684
中論に反する事を言う訳だね君は

中論二十六章
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。

686 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 09:29:57.47 ID:PEGk31Pg.net
説一切有部の説く事として法の実有がある。過去現在未来において法のみは(法以外は実在するとは言わずとも)
変化せずに実在する〜。
この説一切有部の論に対して龍樹が論破を志向して書き表したのが中論であろう。龍樹が「自分には主張がない」
というのは嘘である。主張しているからその主張したものが後世に残るのであろう。
主張がなければ龍樹と言う名前すら残らなかったに違いない。
その龍樹の説く空(縁起)と仏陀の説く縁起とは別物。隠居氏の言う通りだ。↓
>>666 >中村大先生によれば、西洋の仏教学者たちは、両者の相違の大きさは、「世界宗教史上稀有の例」だと
>言っているそうです。

龍樹には↓この時空などという理解はなかったであろうよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA

相対性理論によればタイムマシンは可能でバックトゥーザフューチャーも不可能ではないのかもしれないw

687 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 10:09:47.72 ID:PEGk31Pg.net
>682
>釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ

そんな事を言うのはアンタだけだろうよ。
仏陀の説いたのが何か?等は分からず原始仏教とは原始仏典から想像される世界に過ぎない。
大乗仏典は全て偽経というのも仏陀が直接説いたことではなく経典作者による創作だからだろう。
説一切有部(部派仏教)と大乗仏教と原始仏教は全て異なる。

688 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 14:50:37.51 ID:c+dBjGO5.net
釈迦の一二縁起は、その始点である生命を「無明」としたことですべて
誤り。生命の軽視もはなはだしい。

無明どころか、この大宇宙を観測して存在せしめているのも、人間の生命。

中論は、「如来の本性は、それがそのまま生類の本性(即ち生命)」とし、
生命の営みである「世俗の一切の慣習」と生命を支える「物質現象」とを、
「無条件の前提」とする。見事な結論と言わざるを得ない。

そして人間は、己個人の生命が万物・万人との相互依存性・関係性によって
存在していることの自覚により、限りない精神の安定と平安及び他者の生命
への慈しみを得るのである。

689 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:26:47.83 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十六章 十二支縁起の考察(12頌)

一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、その業によって迷いの領域(趣=転回)に行く。
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣(転回)に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。
六 受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するときに四種の執著(取)を取る。
七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。
八 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。生存から「生」が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望――
九 ――これらは「生」から生ずる。このようにして、このたんに妄想のみなる苦しみのあつまり(苦陰)が生ずるのである。
一〇 それ故に無知なる者は、生死流転の根本であるもろもろの形成作用(諸行)を形成するのである。
それ故に無知なる者は業をつくる主体である。知者は真理を見るが故に業をつくる主体ではない。
一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、
知によってかの一二因縁の修習(連続的念想)からくる。
一二 一二因縁のもろもろの項目のうちで、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの後のものが生じない。
このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

690 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:30:45.34 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十三章 顛倒した見解の考察(25頌)
一 貪欲と嫌悪と愚かな迷いとは思いから生ずると説かれている。何となれば、それらは浄と不浄と誤った顛倒とに縁って起こるからである。
二 浄と不浄と顛倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。
三 アートマンの(自性するものとしての)存在と非存在(無)とは、いかにしても存在しない。それが無いのに、もろもろの煩悩の存在と非存在とが、どうして成立しえようか。
四 これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかしその人が成立しないのである。なにか或るもの(依りどころ)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである。
五 自分の身体をアートマン(我)とみなす見解の場合のごとく、煩悩に汚れている人について五種にもとめてみても、もろもろの煩悩は存在しない。自分の身体をアートマンとみなす見解の場合のごとくもろもろの煩悩について五種に求めてみても、煩悩に汚れた人は存在しない。
六 浄と不浄と顛倒とは、それ自体としては存在しない。いずれの浄と不浄と顛倒とに縁ってもろもろの煩悩が起こるのであろうか。
七 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとが、貪欲と嫌悪と愚かな迷いとに対して六種の対象であると考えられている。
八 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、それのみのものであって、実体が無く、蜃気楼のかたちをもち、陽炎や夢のようなものである。

691 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:38:39.13 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十二章 如来の考察(16頌)
一 修行完成者(如来)は、個人存在の構成要素(五蘊)そのものではなく、構成要素と異なるものでもなく、如来のうちにもろもろの構成要素があるのでもな く、またそれらの構成要素のうちに如来があるのでもなく、如来がそれらの構成要素を所有しているのでもない。
ここにいかなる如来があるであろうか。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。

一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。

一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。

一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。

一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。

一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。

※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

692 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:55:47.75 ID:c+dBjGO5.net
>>691
>※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
>それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

そう考えているのも、すべて生命の機能。死者には一切不可能。

「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と
いう言葉を使っていることに注意。

693 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:56:54.45 ID:j7sP3xDX.net
如来の本性なるものは、すなわち「この世間」の本性である
「この世間」とは何か?

如来は本質をもたない。「この世界」もまた本質をもたない
「この世界」とは何か?

愚かなる人はこれを「自己の外」に求めてしまうのである
それ故に、魂だの生命だの存在だのと戯論を重ねて矛盾から出られなくなる

世間でも世界でも、仏教がそれを指定する時は必ず「十二処・十八界」の事以外に無いのである

一切皆空とも五蘊仮和合とも言われる由縁もここにある
経に曰く、一切とは眼耳鼻舌身意と色声香味触法とであると明確である事を愚者は知らないのだろう

694 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:01:52.75 ID:j7sP3xDX.net
>>692
>すべて生命の機能。死者には一切不可能。

断滅論で邪義まっしぐら〜

>「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と

如来の本性は空、世間の本性も空、故に如来は本質を持たない、故に世界も本質を持たない。

読解力低いね君

695 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:22:55.03 ID:PEGk31Pg.net
>>693
感じる側と感じる対象とその間の感覚で
いわゆる5感+意で6×2or3で12やら18やらなるが
意は5感を統率するものだから5感で感じるもの全部が一切で構わないだろう。

仏陀の時代には素粒子や放射線や電波、電磁波など測定できなかったであろうから
これらの観測機器を通じての対象が外れているのは致し方ないにせよ所詮2500年前と現代では
物事の捉え方では比較にならず、何でも2500年前の説法を丸のみして信じ込むのは愚者というべきだろう。

賢者は2500年前の仏典から重要なポイントを選択して取り込む。

常住に非ず断滅に非ず〜w まさに非有非無〜 存在論に他ならず、こういうのは重要なポイントではない。

696 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:23:59.45 ID:23IFCHgN.net
「伝統仏教における縁起解釈」(『ブッダから道元へ』(東京書籍/1992)所収〔第三節 応答(二)〕p107-117)より。
 ※墨括弧は、例によって引用者が強調の為挿入。
 ※改行は、原文の一部を除き視覚的・意味的区切りを踏まえ、適宜行なった。

三 縁起は何を説くか(p113-116 全文)
 さてここで、縁起が何を説くものであるかということについて触れよう。「論考」には、
その重要なポイントとして「一因から一果のみの生起」「純粋に時間的な因果関係」を認めることが指摘されている。
【その理由は、同時的因果とか相互的因果、あるいは多因一果を認めれば
「縁起説本来の直線的な時間的構想は破壊されて、空間化、平面化され」、
「危機的な宗教的時間が解体される」というものである。
確かに、このような点を核として縁起は説かれていると思われる。しかし、これのみかどうか。】
以下に、わが国で「一般的縁起」と呼ばれている定型句(UdAna,p.1-2;SaMyuttanikAya,U,p.65)を掲げて、考えることにしたい。
   これ有れば    かれ有り.  imasmiM sati idaM hoti
   これ生じれば  .かれ生ず  imassa uppAdA idaM uppajjati
   これ無ければ  かれ無し.  imasmiM asati idaM na hoti
   これ滅すれば  かれ滅す  imassa nirodhA idaM nirujjhati
『自説経』によれば、前の二行は、釈尊成道第一週後の夜の初分における「縁起の順観」、
後の二行は、その夜の中分における「縁起の逆観」であり、『律蔵』の「大品」冒頭に「縁起の偈」として説かれたものである。
この四行が何を意味するかということは従来問題となっているところであり、今我々の関心事でもある。
特に「これ」「かれ」という紛らわしい言葉が何かということであろう。註釈(UdAna-A p.38.47)に従えば、
ここはまことに明瞭である。「これ」(imasmiM , imassa,男性)とは無明などの「縁」(paccaya,男性)を、
「かれ」(idam,中性)とは行などの「果」(phala,中性)を指す。

697 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:24:52.04 ID:23IFCHgN.net
したがって、この定型句は間違いなく【「縁」と「果」について説明するもの】であると解される。
そしてまたこれは、内容としては『自説経』からも明らかなように、「価値的縁起」と呼ばれる十二縁起のそれであり、
あれもこれもの「一般的縁起」などではないということ、【ただ簡略な表現の縁起】であるにすぎないということである。
伝統仏教には、縁起をその意味での「一般的/価値的」、あるいは「外的/内的」【と区別するわが国のような風潮】はない。
 また、この縁起において看過できないのは、あくまでも「縁」ということが言われ、「因」(hetu)ではないということである。
どちらも初期のうちはほぼ同義に用いられていたようであるが、【その範囲は異なっているように見える】。
「因」は直接的、限定的であるが、「縁」は間接的、包括的である。【「縁」は「因」を補うが、その逆は考え難い】。
その意味では、縁起は常に「縁」と「果」の関係を内容としているから、
本来は「縁果関係」のものとさえ言われねばならないはずである。
それは縁によって、すなわち種々の因によって種々の果があるという関係のものだということであり、
今問題の「因」と「果」の関わりから言うならば、【多因より多果がある】ということであろう。
この点を説明する『清浄道論』(Visuddhimagga,p.542)の一節を以下に紹介しよう。

698 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:25:59.10 ID:23IFCHgN.net
   ここに、一因(kAraNa)から何らかの一果(phala)があるのではない。多があるのではない。多因から一があるのでもない。
   ただ多因から多果があるのみである。なぜなら、多くの季節・土地・種子・水と称される因によって、
   多くの色・香・味・などのある芽と称される果のみ生じるのが見られるからである。
   しかし、〈無明という縁から諸行がある。行という縁から識がある〉とこのように【一因果の説明がなされるのは】、
   【そこに意味があり、目的があってのことである】。というのは、世尊は、
   説法の優雅さと教導される者たちとに相応しいように、
   ある場合には主要なもの(padhAna)であることから、
   ある場合には明白なもの(pAkaTa)であることから、
   ある場合には共通しないもの(asAdhAraNa)であることから、
   ただ一つの因と果を説くのである。すなわち、〈触という縁から受がある〉という場合は、主要なものであることから、
   ただ一つの因と果を説く。なぜなら【触に従って受が確定するため、触は受の主要な因であり】、
   また【受に従って触が確定するため、受は触の主要な果である】からである。
   〈病気は痰より生じる〉という場合は明白なものであるから、一つの因を説く。
   なぜならここでは痰は明白であり、【業などはそうでないから】である。〈比丘たちよ、いかなる善法も、
   すべては不正な思惟を根本としている〉という場合は、共通しないものであるから、一つの因を説く。
   なぜなら不正な思惟は諸の不善のものであり、
   【(他の善などに)共通せず、所依や所縁などが(他の善などに)共通するから】である。
 このように縁起は、【形としては一因一果を説くものであるが、その内容は「多因多果」でしかない】
とするのが伝統的な見方である。

699 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:44:57.75 ID:23IFCHgN.net
 次に、縁起の因果関係が「時間的」か「空間的」かということについて少々述べておこう。
わが国ではいつも問題になるものであるが、これは多因多果ということと合わせて考えるべきであろう。
上記の定型句を見れば、ここには「縁―果」の「有」「無」、及び「生」「滅」が説かれているだけである。
その内容は、註釈(UdAna-A p.38f)を尊重するならば
「無明をはじめとする縁があるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁が生じるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁がない(=道によって捨断される)ゆえに、行をはじめとする果がない(=起こらない)。
無明をはじめとする縁が滅する(=道によって得達法性がもたらされる)ゆえに、行をはじめとする果が滅する(=起こらない)」
ということである。また、「あるゆえに」とは「ないことがないゆえに」、「生じるゆえに」とは「滅することがないゆえに」、
「ないゆえに」とは「あることがないゆえに」、「滅するゆえに」とは「生じることがないゆえに」と解せられる。
付言すれば、「あるゆえに」(sati)とは、現にある「縁の状態」を語りつつ、縁起の「無効性」(avyApAratA)を、
「生じるがゆえに」(uppAdA)とは、「果の生起に向かう状態」を説きつつ、縁起の「無常性」(aniccatA)を示すものにほかならない。
なお、ここで「ゆえに」と訳すのは、原文における於格(Loc.)、奪格(Abl.)の形が「原因」(hetu)を表すことによる。

700 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:53:14.02 ID:23IFCHgN.net
いずれにしても、かかる内容のものを、その言葉だけ捉えて、
【「有」「無」から「空間的関係」を、「生」「滅」から「時間的関係」を引き出し、そのどちらかに重きを置くならば】、
多因多果の「縁」と「果」を過不足なく説明することができぬものとなってしまうだろう。
あえて空間/時間に区別すべきものではない。【「空間」に偏れば行動に、あるいは目に見えるものに溺れ、
「時間」に偏れば観念に、あるいは目に見えぬものに流されてしまう】のがふつうだからである。

 法が先か仏が先か。これについては、「論考」に指摘された通り、【仏が先であると言わねばならない】。
ただこの問い自体がまことに大乗的である。伝統仏教においては、仏と法と僧とについての問いとなるからである。
また仏とは何かということを抜きにした仏教の議論もないからである。特にそれが実在論に及ぶときはなおさらであろう。
【教義上は世俗諦と勝義諦によって、実践上は戒律によって】答える以外この問題の解決はないと思われる。
 再び、「論考」が、わが国における仏教教義の理解のために、きわめて重要な視座を提供するものである
ということを申し述べ、一つのコメントを終えることにしたい。

(引用終わり)

701 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:54:17.96 ID:23IFCHgN.net
若干の補足:
>>◆4 「無効性」(avyApAratA)とは(未だ)働いていないこと、作用していないこと。 (・・・たぶんw)

>>◆2 「内的(≒内縁起)/外的(≒外縁起)の別がない」というのは、
  この対比が一般的には「心理面(内面)/物質面(外界)」というものになっているのに対し、
  そのような別ではなく、(後に清浄道論が挙げる事例のバリエーションに見られるように)、
  『「縁」によって「果」が生じている』かどうかだけが問題とされ、
  その種別(それがどこで生じているか、何が作用して何が生じているかの《「何」の種別》)
  を問うていない、ということ。(それが問われるのは、一因一果となる場合のみ、いうこと。)
   *(これは、そのまま「時間的/空間的」・「観念的/具象的(物質的)」という対比でもあり、
    《「空間的見方」に於いては、同時的相互依存が見られ易い》ということ。
    そして、可逆性が認められないので、(時間性・因果の側面が外されてはならないので)、
    同時的相互依存、特にそれが「空間的・物質的」な面で言われるならば、排されるものとなる。)

702 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:55:26.84 ID:23IFCHgN.net
若干の補足:
>>◆4 「無効性」(avyApAratA)とは(未だ)働いていないこと、作用していないこと。 (・・・たぶんw)

>>◆2 「内的(≒内縁起)/外的(≒外縁起)の別がない」というのは、
  この対比が一般的には「心理面(内面)/物質面(外界)」というものになっているのに対し、
  そのような別ではなく、(後に清浄道論が挙げる事例のバリエーションに見られるように)、
  『「縁」によって「果」が生じている』かどうかだけが問題とされ、
  その種別(それがどこで生じているか、何が作用して何が生じているかの《「何」の種別》)
  を問うていない、ということ。(それが問われるのは、一因一果となる場合のみ、いうこと。)
   *(これは、そのまま「時間的/空間的」・「観念的/具象的(物質的)」という対比でもあり、
    《「空間的見方」に於いては、同時的相互依存が見られ易い》ということ。
    そして、可逆性が認められないので、(時間性・因果の側面が外されてはならないので)、
    同時的相互依存、特にそれが「空間的・物質的」な面で言われるならば、排されるものとなる。)

>>◆5 「教義は二諦によって」というのは(このシリーズの住人ならw)了解事項としてw、
  「>実践上は戒律によって」というのは、《「仏」(=阿羅漢)とは何か》を示すに際し、
  「このようなもの(→人物)である」「これが仏(の在り方)である」ということを、
  《実際に、その存在することによって、行為(身口意)によって、目の当たりに示す》、ということ。
  「成仏の可能性」を、「悟りの、涅槃のあること」を、目の当たりに存在することにより、証する(実証する)こと。

703 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 20:56:01.88 ID:23IFCHgN.net
>>696 ◆1
>>697 ◆2
>>698 ◆3
>>699 ◆4
>>700 ◆5
>>702 ◆6

704 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 21:58:10.85 ID:RIxKEI3z.net
原始仏教、大乗仏教、部は仏教(説一切有部)そして、西洋の仏教学者のあるものは、
竜樹の仏教は、それまでの原子や有部の仏教とすごい違いがあるという話をお聞きして、
信じられない思いです。

それは、真実が異なるという意味に他ならないと思われるからです、それぞれの派が唱える。

そこでその違いをもう少し詳しく説明してほしいのです。よろしく

705 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 23:53:30.80 ID:SnM49VxH.net
>>702
>教義は二諦によって」というのは(このシリーズの住人ならw)了解事項

2諦説については、古くから多くの批判と議論がある。チャンドラキールテイ
でさえ、2諦説(2真理説)を提示する理由として、空性論に対する世間に
よる排撃の回避、聖典による排撃の回避を挙げている。

つまり2諦説は「言い逃れ」の手段ということ。「聖典による排撃」とは、
仏典上(即ち中論)からもおかしいということ。

706 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 00:05:47.12 ID:YY3v3jK9.net
>>697
>【多因より多果がある】

ならば「業報論」は崩壊するね。釈迦を含めすべての人間は、その生涯において
「良いことも悪いことも」やっているものだから。業に対する一定の結果は、
定めようがないことになる。

707 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 00:35:32.31 ID:6RD7n2y6.net
どっかの猫ちゃんも、その生死が不可知らしいが、
蓋を開けたら一意に定まるとか言ってたような言ってなかったような・・・。


ピントを合わせれば、
(或る文脈に限定され・絞り込まれ・状況によって制限がかかれば)、
同じように定まってくる、ってだけの話なんだがねぇ・・。

どこにもピントが合っていない(全方位的に露出が開かれている)時、
そのときに、一切法(一切の存在)は空である、と言われ、
中論はそれを言ってるだけなんだがねぇ・・。
で、なぜそのように諸法が空なるものであるかといえば、
龍樹がしつこく言及するように、縁起するものだから、なんだけどね・・。

ちなんで言えば、凡夫は常に、(自分の想い・欲望を基準に)対象にピントを合わせるから、
それらを空性だと見做せず、実在と見、捉われ、翻弄されている(顛倒している)と言われ、
賢者は、一旦ピントを開け切って、一切法が縁起するものであることを如実に知る故に、
諸法を空なるものと見做し、実在しないと見、捉われず、自由である、とね・・・。

708 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 02:52:14.99 ID:eLrf4Ibj.net
物事が実在するのか、しないのかは存在論であり答えは空以外にない。
有るとも無いとも答えられまい。「ピント」の例えもこれまた下手糞の例えとしか言えない。
ピントが合うから実在が確かめられ、ピントが外れているから実在が確かめられない〜のなら
空=無と言っているに等しく、それは明らかに誤だ。隠居氏の指摘どおり中村氏は空を無と
混同するのを批判している通りである。

個々人の実人生は実在し「有る」というべきもの。コレを空だの無だの言う仏教キチガイがダメなんだよw
人生や生き方、人生上の我などは存在論ではない。究極にそれらの物の実在を確かめているのではない。
人間が前向きに生きる基礎となるもので、これを空だの無だのいって虚無に陥るのはダメだし、ブッダもそんな
主張はしていなかっただろうよ。

709 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 03:17:09.77 ID:YY3v3jK9.net
>>696
>これ有れば かれ有り. imasmiM sati idaM hoti

この命題は、中論第一章で明示的に否定されている。

710 :おる 尿MARU(まる)。 ◆2UpphQj1WM :2015/11/11(水) 03:44:15.73 ID:tiK/G/W8.net
無い(のい)

711 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 12:33:42.20 ID:eLrf4Ibj.net
見当識障害というのは今がいつで、ココがどこで、自分が誰であるのか分からない状態を言う。
医者がそれらしい患者を診察する時もこれを尋ねて答えられるか否かを診る。
西暦または平成何年何月何日何時何分、所在地(例えば○○病院〜)、自分の名前や社会的位置(○○会社
○○学校に所属している何某〜)を答えればよろしいが答えられなければ見当識障害と診断される。
では、広い宇宙にいる自分という観点でこれらの問に如何に答えられようか?
宇宙に始まりや終わりが有るのか無いのか?分からないその中で今はいつと言えるのか?西暦や平成などは
人間が勝手に作った時の点であり何ら時間を示す基準にならない。また、場所について見てもxyz軸の3次元で
座標で示してもそれは地球上ならば示し得ようが、太陽系→天の川銀河→全宇宙の中では座標の基準を取りようがなく
今いるココを何と答えれば良いのか?自分についても同様に見れば人間の組成が何が何%で出来ていて、それが自分である
などと言うのは何ら答えにならない。自分の名前や所属組織などは何ら自分を表すものになり得ない。
宇宙規模で見れば人間は全員例外なく見当識障害である。
つまり、人間は何も分かっていない存在なのである。
ココで人間は2種〜3種に分かれる。
T:分からないものは分からないとしてそのままにする。
Ua:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとり好ましいものに違いない〜
Ub:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとりつまらないものに違いない〜

健全で正常な人間の有り方はTであり、死後世界を妄想したり輪廻(輪廻転生)を妄想するのはUである。
同じ路線で言えば悟りや解脱や涅槃や如来の確信や覚者の存在などを探り志向するのもUである。
また、人生は無、空であると虚無に陥るのもUである。

712 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 14:56:41.37 ID:Fs2Tk8/d.net
>>709
>これ有れば かれ有り. imasmiM sati idaM hoti

とはいうものの、この場合の「有れば」「有り」は、当然仏教を学ぶものは、
否定しなければならない。
つまり相対的に「有り又は有れば」なのだから、実体としてない、と断ずるのだ。

こういう意味ではないとすると、どういう意味で否定したんだろうか?

713 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:00:20.97 ID:Fs2Tk8/d.net
>>709 つづき
だから、ゴータマも竜樹も、この「有れば、あり」を幻で実体がないとして、前提問題としたのではないのか?

714 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:47:27.71 ID:Fs2Tk8/d.net
>>711
>人間は何も分かっていない存在なのである。

人間理性を働かせるなら、ゴータマが悟ったように、世界は実体のない空が真実だというのだ。
その空こそ実在してるのだというのだ。

その世界に入れば、心配することは一つもないというのだ。
今後どうするかと心配ないというのだ。何も起きないし、起こしえないのだ。

そこに入るに障害となることは、その空と言う真実に逆らって、何かがあると思い、それを獲得
しなければ生死にかかわるという心配である。それを自分の心から取り除けるなら、空の世界にはいれるのだ。
取り除くのが修行になるのだ。

老荘でも、持ってるもの、もっているという知識、その意識をかなぐり捨てることが必要だという。
捨てることなのだ。知識を。一切の知識を。一切の認識を捨てる必要があるのだ。真実は空相なのだから。
これを仏教では「無学」というだろう?一旦取得していた知識を、捨てて、無知になることだ。

病気で見坊したのではない。真実が無相なので、真実近ずくために一切の認識を捨てるのだ。

自己愛があってはできないな。自分が恥をかくことになるだとか、自分の家族近親が迷惑するだろう、
そんな心配をしてはならない、そんな絆は断ち切りなさいとゴータマは教えている。
そんな絆に実体がないからだ。それは悪魔の誘惑なのだ。ゴータマの論によれば当然そうなる。

チミは、感覚が死んで失せれば、感覚に縁起してるこの世界、12処とか18界は失せるのかだら、そんな死後の世界は考えるのは妄想で仏経馬鹿だというが、
それは非常に仏教を知らないもののいうことではないか?
12処だとか18界というのは、それは縁起してるだけの世界で、実体がない世界で、
それに執着するのは、無明という正法を知らないことが原因してるのだ、というの12支縁起の法門ではないか?

チミは本体は、三世降雨の実態で、それがある以上、その間違った心は永遠に、本来の自分に責め続けられるのではないのか?

715 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:55:35.56 ID:zc7eMIbP.net
>>696
これ有れば    かれ有り.  imasmiM sati idaM hoti
これ生じれば  .かれ生ず  imassa uppAdA idaM uppajjati
これ無ければ  かれ無し.  imasmiM asati idaM na hoti
これ滅すれば  かれ滅す  imassa nirodhA idaM nirujjhati

この所謂有名な縁起の定型文は、そのまま二智の事にもなってる
二智とは法住智と涅槃智の事
法住智とは

「これ」と言う真理を知る事
「これ」の原因(集起)と言う真理を知る事

涅槃智とは

「これ」は滅すると言う真理を知る事
「これ」を滅するには方法があると言う真理を知る事

つまり、縁起の定型文はそのまま四諦の説明にもなっている

716 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:14:23.32 ID:dm7nyHQy.net
>>714
>その空こそ実在してるのだというのだ。

空は仮設であり存在ではないので実在でも非実在でもありませんよ

717 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:26:45.88 ID:eLrf4Ibj.net
仏教馬鹿ややりやすい間違いw
「実体がない」
コレは断滅論だろw

「実体がある」が常住論。

正解は実体は分からない〜だ。
この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

718 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:33:02.69 ID:dm7nyHQy.net
>>717
>この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

自己愛性人格障害者が陥る万能感って奴だね

>コレは断滅論だろw
>「実体がある」が常住論。
>正解は実体は分からない〜だ。

それらも思考してそう考えたに過ぎないでしょ
「分からない〜」を考え付いて言ってる以上、それも間違いだよ

719 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:43:09.75 ID:dm7nyHQy.net
如実に「俺の考え」は不要
何故ならそれが我執であり離貪のターゲットに他ならないから

720 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:44:56.38 ID:eLrf4Ibj.net
分かったふりして「間違いだよ〜」(俺は真実を知っている〜と言わずとも暗ににおわす〜w)

これも仏教馬鹿が陥る常套文句w

「実体がない」
「間違いだよ」(何が真実なのかは語らず〜)

ま、語っても妄想話に過ぎないから結局おんなじことだがなw

721 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:47:38.99 ID:dm7nyHQy.net
>>720
お前は思考に頼り過ぎなんだよ
自分の意思でその思考を意図的に止めてみなよ
これは訓練しなきゃ容易に出来ない事が一度やれば分かる筈

その思考を止められた先にお前の知りたいものが転がってるから見て来い

嘘は言わないから

722 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:49:27.23 ID:eLrf4Ibj.net
俺はキチガイの仲間入りはしないww

自分の頭で考え理解し実践する。
変容意識など妄想世界に嵌ってキチガイになるのは御免こうむるww

723 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:51:24.81 ID:dm7nyHQy.net
┐(´д`)┌ヤレヤレw

724 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:57:07.88 ID:8dJ+iCjq.net
>>722
変性意識は結局思考を使ってるんだよ
それを嫌うお前は正しいと思うよ

わたしが言ってるのは、「俺の考え」を止めてみろ、と言っている
出来るものならやってみな?簡単じゃないから

お前は変性意識とわたしの言うのとが区別出来ないのだろうが
瞑想の形を用いて「全身麻酔」の如きの精神状態にしてみろと言ってるのさ
本当に「無」なのか、本当は「有」なのか、果たして「空」とはどう言うことか

思考を止められたら全て分かるよ
そこに意識が有ったならそれままた成功して無いって事
故に変性意識もインチキとなる

725 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:00:06.57 ID:Fs2Tk8/d.net
>>716
森羅万象の世界があって、それは縁起の世界そのものなのだ。
そして縁起の世界は、真実は縁起してる諸法は実体のないものなのだ。
そこで幻の世界と仏教で言われる。

邪幻の世界であるなら、そこに真実の世界が当然あるはずではないかと考えるだろう。
それは、無相の世界、純一な世界、があるというのだ。
幻の真相はなにもないのだから、それを空というのではないか?その幻の世界は空っぽ、なのだ、というのだ。

幻の世界で、幻の一つ一つに実体があると思うものがいて、それを獲得して貯蔵しておこうとするのだ。
それの取り合いが発生しているのだ。その世界を欲の世界、偏計処集処?というのだ。

その取り合いと言う紛争もまた「これあれば、あれあり、これなければ、あれなし」の世界なのだ。
紛争当事者においては、この縁起してる幻の存在は実体あるものなのだ。

しかし真実は幻に他ならないので、その紛争自体も幻なので、真実の世界は
何も起きていない、平安な世界なのだ。そしてこの世界が真実にある世界だというのだ。ニルバーナというのだ。

こういう二つの世界、真実の世界と幻の世界を説明するために、空という呼称を使用してるのだ。

このように自分は理解しているが、チミのいうところは良く解らない。

726 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:01:53.55 ID:eLrf4Ibj.net
思考を使う寝て見る「夢」など有り得ないw
変容意識の代表は夜に寝て見る夢だ。

思考をやめよ〜も変容意識も同じこと。
コレを区別する事自体が言葉の概念というものを知らぬ
意思の疎通ができないキチガイという。

私はこういうキチガイの範疇には入らない。

727 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:03:27.45 ID:8dJ+iCjq.net
一つ言えばだ、所謂メンヘラとかを抱えてる人は「俺の考え」を止める事を凄く嫌うし怖がる
孤独に坐って動かずに何も考えない、と言う動作をメンヘラ抱えてる人は本当に嫌悪する

そう言うわけで無理強いはしない
でも、「俺が俺が俺の考えが」と言い張るなら、確かめる為にも「俺の考え」を止めてみない事には何とも言えないだろう

728 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:09:38.49 ID:6AzNr3SO.net
>>725
>森羅万象の世界があって、それは縁起の世界そのものなのだ。

君が見ている「森羅万象」は眼耳鼻舌身意からの情報でしょ
だから仏教では夢幻泡影の如しと思えと言われるのさ
世間を外に求めれば求めるほど、君の迷いはどんどん深まるばかり
世間は君の中で起こってるんだよ
仏道の目的は苦の超克なのであり、それは世間の正体を分からねば適わない
世間の正体は自分と言う仕組みがその正体なんだよ
何故なら世間は五蘊が起こして実感してる非実在なる情報なんだからね

729 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:10:55.26 ID:eLrf4Ibj.net
「俺が」「私が」と言わずとも、この2ちゃんねるに書き込んでいる事自体が
自分の考えを表明している事に他ならない。

俺様は「俺が俺が俺の考えが」とは言っていない〜つもりなのだろうが、明らかな矛盾www

730 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:14:41.96 ID:6AzNr3SO.net
>>729
間違った道を広めようとしてる人を警告しちゃいけない決まりは無いよね
自己愛性人格障碍者は呼吸する様に嘘を垂れ流すから拙いでしょ

731 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:16:45.99 ID:eLrf4Ibj.net
自分こそ正しく、○○は自己愛性人格障碍者で嘘〜は
俺の言う仏教キチガイに付ける薬はない〜というのと変わらんわなww

同じこと。
違うというのならそれはお前がキチガイだからw

732 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:20:10.43 ID:6AzNr3SO.net
>>731
>正解は実体は分からない〜だ。
>この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

お前の矛盾も大概だけどな
自己愛の人は兎角他人をいきなりキチガイキチガイと言いたがる

733 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:20:26.29 ID:eLrf4Ibj.net
【結論】

空を無と混同する阿呆が多いが、「実体がない」などと言ういわゆる仏教キチガイは
皆例外なく、>>711のUに該当する。

仏教スレでTに該当する人間はほとんどいない。隠居氏が該当するかも〜という程度だろう。

734 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:21:31.14 ID:6AzNr3SO.net
>>733
なあ、自己愛性人格障碍者ってキチガイなのか?

狂ってるの?狂ってないの?

735 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:24:06.18 ID:eLrf4Ibj.net
>>711のUに該当する人間は健全で正しい思考の持ち主とは言えないわなw

俺は他人を、自己愛性人格障碍者などと呼んだことは無い。
自分で言っているんだから自分で調べよ。
自分で言っている事を分からずに他人に聞く姿勢はキチガイに他ならないww

736 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:25:15.56 ID:S3uf+1kw.net
>>733
>T:分からないものは分からないとしてそのままにする。
>Ua:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとり好ましいものに違いない〜
>Ub:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとりつまらないものに違いない〜

三通りをハッキリ結論したがってる時点でそれは見解なのであり大間違い

分からないものは言う事すら出来ないし結論も出来ない

737 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:26:46.83 ID:S3uf+1kw.net
>>735
キチガイ呼ばわりしてるじゃん?
自分だけ例外視して正しい事にするのはまさに自己愛性人格障害の人の常套句だよ

738 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:29:13.10 ID:efRAH4DI.net
>>735
自己愛の奴は他人を自己愛とは言えないらしいね

739 :CIAパンドラ計画:2015/11/11(水) 22:08:23.17 ID:ynJPfdbr.net
>>528
> 実体が無いと言うあなたは心を語ってますよね
語って無いよ
実態が無いという事は「語れる訳が無いだろ」と言う意味ですよ

> 心とは何ですか?
実態は無いと言っているのに
「何ですか?」と聞くのが愚かしい

> 他人の事ですか?
> 憶測の事でしょうか?
> 歴史なんですか?
>>526-527

世間なんかどうでも良いよ
クズの捏造だらけだからね

ただ「知ったかぶり」というのは↓このような事だよ
> あなたは自分の心が何だか分からないんでしょうか
> 実は分かってないのに語ろうとするそれを、世間では
> 知ったかぶり
> と言うのではないでしょうか

人の話をマイルールで勝手に決めつけて話を片付ける様な発言だ
言葉遣いだけ控えめにしても何も変わらないよ

「それをやったらお終いだ」
「だからやらないのだよ」

それをやらない前提でしか対等な会話が成り立たないのだよ
ちんちん先生

740 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 23:20:32.94 ID:wTbyuJvp.net
>>739
>語って無いよ
>実態が無いという事は「語れる訳が無いだろ」と言う意味ですよ

「語れる訳が無いだろ」と語っているそれは何ですか?
もし心など実態がないと言うなら、どうして心の活動の結果たる発言と言う行為が出来るのでしょうか

>世間なんかどうでも良いよ
>クズの捏造だらけだからね

あなたもそのクズとやらの中にいる訳です
世間を嫌悪するものにどうして世間を理解出来るでしょうか

>それをやらない前提でしか対等な会話が成り立たないのだよ

まさに人の話をマイルールで勝手に決めつけて話を片付ける様な発言ですね

741 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:00:23.04 ID:jI2pg4Qm.net
>>717
菩提樹の悟りを知らんのか。
人々の苦しみは実体無きものへの執着が原因だと仏陀は喝破してるんだよ
無常と縁起の法を知れ

742 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:07:36.35 ID:vX6ghnk8.net
MRJが初飛行に見事に成功したね。

MRJの航続距離は3800kmだが、渡り鳥は、定まった目的地に向かって、
一糸乱れずその10倍の3万kmを飛ぶ。

すべて、小さな体に宿る生命の力である。

生命を「無明」などと抜かした奴は、どこのどいつだw。

743 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:23:15.96 ID:iZjPdSbq.net
>>742
>生命を「無明」などと抜かした奴は、どこのどいつだw。

このスレじゃそう言ってるのはお前だろ
釈尊は少なくとも「生命」を無明だなどとは言ってない

いよいよ悩乱も窮まって来たのかな?

744 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:25:11.27 ID:O0OXZodb.net
>>742
>生命を「無明」などと抜かした奴は

歴史上、世界中に一人も居ないがなw
唯一、中村君が近い発言をしたくらいで・・。

君は、中村君の解釈を責めたいのかい?

745 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 20:46:36.94 ID:Iw5UBoUS.net
話も、縁起してるんだよ。
原因なく話すものはいないんだよ。
その典型がゴータマ様だろう?

746 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 20:51:57.80 ID:Iw5UBoUS.net
>>742
なんかずれてるような。

三万キロを飛ぶ鳥も、また、縁起の理法により、その力を得てるんではないの?
決して、その鳥の実体としての、能力なんかじゃないんだ、というべきだよ、仏教を学んだものは。

747 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 21:14:06.15 ID:vX6ghnk8.net
>>744

「無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり」。

生活作用の原因が、「生命」ではなくて、一体何があるか?

748 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 21:18:25.40 ID:JF7xpn78.net
縁起のクルクルワールドにどっぷり頭を突っ込んで「縁起してるんだよ」ってまるでギャグだよね。
それを滅するために説いたのに・・・

触れるな、離れろっていうだけなのに、縁起好きは難しいのがお好きなご様子。

749 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:02:06.86 ID:Iw5UBoUS.net
>>747
> 生活作用の原因が、「生命」ではなくて、一体何があるか?

その生命というものが、縁起してるもので、その縁起を認められないのを、無明というのだ。
生命というものが縁起現象と認められないのは、それに執着してるからであり、その執着から離れられない原因
が無明という愚鈍な根であり、その無明を明らかにするのが仏教と言う学科なのだ。

生命などというものはない!チミのいう生命は生老病死憂い、悲、愁 怖れ、苦悩なのだ。
そんな無明そのものを、”「生命」ではなくて、一体何があるか? ”などと言っているとは変すぎ。

750 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:04:59.49 ID:O0OXZodb.net
>>748

知彼知己百戦不殆


┐(´ー‘)┌

751 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:05:58.89 ID:q9ePJb3G.net
日本人がイデア論を学ぶときには絶対になんだこのいかれポンチはと思う。
日本人の認識の仕方に決定的な影響を仏教は与えている。

752 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:09:35.50 ID:O0OXZodb.net
>>747
相変わらず会話のできない御仁だなぁ・・w  それとも日本語が不得手なだけか・・・

「無明=生命」という発言をしている者、考え方の者がいるなら、
その名前を挙げてみてください、と言ってるのにw
私は、全世界に一人も存在しないと思いますけどね。

仮に、中村君がそうだと言うかもしれないが、
そもそもそれは「無明=生命」という文章でもなく、
(ただ、君一人が、そう読んでいるだけで)、
中村さんの意図はそうでなかったかもしれんのにw

753 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 00:35:29.41 ID:YMXBCBOl.net
>>752

中村博士が「無明により生活作用がある」と言った場合、無明は生命以外の
一体何で有りうるか、貴殿の解釈を求める。

死者に、MRZの設計・製造ができるか?死んだ渡り鳥が1mたりとも飛べるか?
そもそも、死んだ釈迦に無明が思考できるか?

754 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 01:28:58.61 ID:YMXBCBOl.net
>>753の訂正と追加
(訂正)
×MRZ
○MRJ

(追加)
死者に迷いや煩悩が生じるか?死ねば,思考器官も感覚器官も記憶器官も運動
器官も、すべて灰になるか腐敗してその機能を失うから、如何なる生活作用も
生じ得ない。

中論は、「世間の一切の慣習」に反することを、常に厳しく戒める。「世間」
とは、「この空間的な広がりの中で、生きている(共生している)人々、即ち
「世人」のことである。

755 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 03:25:23.66 ID:vUtUd2j+.net
>>754
>「世間」とは、「この空間的な広がりの中で、生きている(共生している)人々、即ち「世人」のことである。

違うよ
仏教で言う世間は一切と同義なんだよ
それは十二処十八界の事

身体の外を見たがる気持ちは解らんでもないが
それじゃいつまで経っても自己の仕組みの解明にはならない
つまり、無明の正体が解らず仕舞いって事
無明が解んなきゃ煩悩の解明も苦の遠離もまま成らないって事

756 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 03:50:35.48 ID:YMXBCBOl.net
>>755

生命論的には、煩悩も苦も、生命の危機に対する生命から発するありがたい
警告。異物として排除すべきものではない。感謝して受け入れ、対処すること
により、去る。

病気に症状がなければ、治療の機会を逸し、そのまま死に至る。生命は、「無明」
どころか、「一切知者」と呼ぶに相応しい唯一の存在。

757 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 04:12:34.45 ID:OBb1XJJa.net
NEO仏教の教え
https://youtu.be/vEjTFq0sgmY

758 ::2015/11/13(金) 08:33:45.30 ID:V+XMMAJX.net
仏教は仏教が必要な人間のためにある〜というのはまあ当たっているのかもw
圏外からどんなものか見てみようという人間は仏教に染まることなく仏教の良い部分だけを
取り込む。一般的にはこういう姿勢が望ましい。仏教キチガイになる事もなく冷静に向き合えるからなw

>>711のTの人間に仏教は必要ない。
何故なら無明が無い(無明の自覚が無いというべきか)からだよ。

>>711のUの人間にとり仏教は必要なのかもしれない。
何故なら根本から無明の人間であり、分からないものを妄想している時点で無意識に自分を騙している
罪悪感が底を支配しているからだ。

759 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 09:03:54.14 ID:lDcdOnAc.net
究極の仏教真実が不生不滅の法門として説かれてきているのに、
今になって、生命が根本だという論が起きてきてるのは、仕方ないのか?

その生命とは、自己の身体だ。自己の身体は、仏教ではその身体だけで存在してるものではなく、
四周と縁起しているものだ、というのだ。その身体がこの世界に生じる前に、この世界は存在していたのだ。
この世界があったからこそ、その身体は生じたのだ。そして、その世界そのものも縁起してる存在なのだ。
で結局この世界は、森羅万象は、諸行は、諸法は、無我無常空というのが真実だ、とゴータマは教えたんだ。
だから、誰もこの無我無常空の世界に生まれてきた。それなら、本当は生まれておらず、死ぬものでもないというのが仏教だろう?
このことを知らないのを、無明という、そしてこのことを知っているのを悟りと言うのだろ?

760 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 10:28:11.21 ID:lDcdOnAc.net
>>759続き
一切は縁起して存在している、これはどういうことか?
一切は平等と言うことなのだ。
世間では価値のあるもの価値のないものという差別は非常に重要だ。これが人の価値を決めるということにもなっている。
人間にも価値の差別が行われる。

これは先に言った、一切は平等に反する。
あるものは価値があり、それは独立して存在し、あるものは下劣なものであり、それも独立に存在する、と見做すのだ。
こうして差別が生まれる。

その差別も縁起して生じているものだが、それが固定的な基準となり、人を行為させるのだ。
聖者はそういう差別が縁起しているだけのものと見做して、争わないんだな。

761 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 10:35:17.36 ID:lDcdOnAc.net
>>756
>病気に症状がなければ、治療の機会を逸し、そのまま死に至る。生命は、「無明」
どころか、「一切知者」と呼ぶに相応しい唯一の存在。

へー、その生命は、チミをしなない人間にしてくれるのか?チミはそういってるね?
で、その生命はその治療に成功するのか?現代医学でも、医療は、対処療法に尽きると言ってんじゃないの?

762 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 12:01:20.73 ID:J4qcEUsb.net
>>761
>現代医学でも、医療は、対処療法に尽きると言ってんじゃないの?

そんなことはない。医学が目指すのは、原因療法、根治療法であって、対症療法
ではない。対症療法は、原因療法がまだ発見されるまでの例外的なもの。

すべての動物は、寿命が来れば皆死ぬ。種属としての生命の新陳代謝を行い、その
継続を図るためだ。若し、個の動物が寿命で死ななかったらどうなるか。
この地球上に機能の老化した生命があふれ、たちまち居住不可能になり、新たな
生命の誕生も不可能になる。

生命は、限りあるからこそ尊い。ダイヤモンドが無限に産出したら、その価値は
石ころ以下となる。

個の生命は、永劫の時間の中の、限りある時間の唯一度だけ。まさに奇跡で
ある。だからこそ、己の生の一瞬一瞬は、限りなく尊い。イエスのいう「永遠
の生命」とは、「地獄の別名」であることを自覚すべし。

763 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 13:50:11.74 ID:lDcdOnAc.net
>>762
まったくのありふれた、世俗の見解じゃないか。
しかも、それは個人個人にがまじめに持つ見解じゃないよ。
矛盾したことを言っているようだが、つまり、世間はチミのように考えているだろう、と
チミが妄想してるところの見解だということだ。

しかし、個人個人はそのように考えていない。

しかし、チミは創価の池田大作が持っている知見のようだが、チミは創価じゃないのか?
少なくとも、創価の影響を受けているね?

764 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 14:13:27.04 ID:V+XMMAJX.net
対処療法が何を指して言っているのか不明だがw
医療は基本的に病やケガに対して対処する行為だからねえw
対処しない未対処療法なるものが有るのか?ww 有るのなら聞かせてくれw
加持祈祷など答えそうな感じではあるがなあw

対症療法、原因療法は、簡単に言えば痛み止めが対症療法で抗生物質が原因療法だ〜w
痛いときに痛みを抑えるのは原因療法ではないにせよ有益な療法であり、対症、原因療法とも
重要であり片方だけで良いというものではない。

765 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 14:40:33.50 ID:lDcdOnAc.net
>>762
チミは以下に自分の生命論がゴータマの解き明かした理法に違背してるか、一番自分が知っているだろう?
他人は自分のことじゃないとして、いい加減にしか思わないんだよ。
ゴータマ様でさえも、自分を拒否する人に対しては、いか様にもなしえないんだから。

イエスの『永遠の生命』とは、生死から離れた命で、一切の心配のない命、

766 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:13:08.74 ID:lDcdOnAc.net
>>764
仏陀は「医王」だと自慢している。
そりゃその自説を見るならその通りだ。

仏陀の自説によると、世界の真実は、一相なもの、故に無相なもの、仏陀でないものは「無願」に徹すべきもの、
というのだ。
つまりそこ真実の世界には、病気などもともとありえないのである。

そして、そこの世界で、真実を知らないものは、色々な願を起こすのである。これがほしい、ああなってほしいなどと。
これが病気の下なのだ。願を起こすこと。だ。

快楽がほしいと願を起こすと、必然として苦痛が相対して起きるのだ。快を求めるとは苦痛を求めているのだよ。
それを理解しないものは、苦痛を受けたときは、貝を求めるのだ。しかし、求めても求めても、
苦痛が攻めてくる。快とは苦痛の別の顔なんだから。無相の世界では、あるものとは、相対して存在してるものにほかならず、
「有る」ものは「ない」ものと一緒に「有る」のだ。

だから臨終であろうと、普段であろうと、苦痛から抜け出したいときは、快を求めないと言う真実の道「無願」に徹するほかないのである。

この態度は、生命を尊重などと言っているものには、とても困難な状況となろう。

四念所四正勤に普段から修行しているなら、病魔に捕えられることはない。

こういうことを教える仏陀は「医王」だよ。対処療法をする世俗の医者ではない。

767 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:18:17.85 ID:V+XMMAJX.net
>世界の真実は、一相なもの、故に無相なもの
>つまりそこ真実の世界には、病気などもともとありえないのである。

ならばw お前は一生の間絶対に世間の医者にはかからない事だなw
世間の医者にかかりつつ、上の書き込みは救いようのない矛盾であり間違いなく地獄逝きだぞw
自覚があるのか?

768 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:34:19.04 ID:lDcdOnAc.net
任意の医療保険はすべて解約した。

769 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:37:38.22 ID:V+XMMAJX.net
保険の解約ではなく世間の医者にかからない事だ。
かかった時点で地獄逝きwww

770 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:47:38.15 ID:V+XMMAJX.net
こういう宗教馬鹿は気の毒ではあるが自業自得という奴だな。
大昔の虚言に騙されて自らを縛り病気になっても医者にもかかれない。
医者にかかれば地獄逝きであり、前言撤回と簡単には済まないからな。
エホバの証人の輸血拒否も同じ〜。

現代に生きつつ科学を拒否するのはまさにキチガイ。
科学を拒否とは言えエアコンの部屋でネットに接続して書き込んでいる以上
全然拒否にならんのだがなw

いわゆる口だけ人間の可能性が高く、病気になればホイホイ医者にかかる阿呆の可能性の方が高いw
真に信じていれば医者にかからずに地獄の苦しみの元死ぬだけだ。

どちらも不幸な在り様ではあるな。
仏陀はこのような不幸な在り様にならないように教えたのだ。

現代人は現代人の幸せな在り様を目指すべき。大昔の戯言に騙されるのは自灯明の実践を放棄する馬鹿としか言いようがない。

771 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 17:30:25.28 ID:lDcdOnAc.net
人間は肉体ではない、人間は心ではない、。
人間とは何か?

人間とは真実相の無相なものなのだ。
これが真実の姿としてあるので、これに反すると、必ず自分がその報いを受けるのである。

これはゴータマの是認される真理である。

人間は五臓など有しているものではない。

癌細胞などというものが身体にできる話は定説になっている。どうして身体と言うものがないのに、癌細胞などというものがあるというのか?
身体があると妄想してるものにだけ、癌ができるのだ。

人はどうして身体があると妄想するようになったのか?
身体の有用性を認めていたからだろう。そういう業を積んできたからだ。
身体の欲に服従する業を積んできたからだ。

子供を生む機械となり、子供の身体の維持に意を注ぎ、それこそ生まれてきた目的だと信じて疑わない生活を
してきたからだ。

業の報いは免れないのだ。天網恢恢疎にして漏らさず、の真理だね。

今後も、その罰は受けねばならない。それを回避するためには、その業を消さねばならない。
どうやって消すのだ?

772 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:03:08.14 ID:V+XMMAJX.net
さてw
見事、仏教に溺れ悲惨な生き様を示す典型例が現れたw

仏教などに嵌るといずれこうなるという生きた見本だなw

773 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:12:41.00 ID:4buCW8j7.net
>>759
>このことを知らないのを、無明という、そしてこのことを知っているのを悟りと言うのだろ?

「このことを知った」その時点は悟りじゃないですよ
そこすらかなり難しい故に一般論的には悟りの括りに入るのでしょうけど
厳格に言うならその時点は「見性」です
悟りになるのはもっと先になります
それは「悟らぬ悟り」なので実に地味なものです

774 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:13:56.40 ID:4buCW8j7.net
>>772
君は自我に嵌りっ放しでしょ
他人の事を悪くは言えないよ

775 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:16:36.53 ID:4buCW8j7.net
>>771
そこが解決出来ないのは不二一元論の限界なんでしょう

776 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:17:32.09 ID:V+XMMAJX.net
自我に嵌るのではなく自我に頼るのである。
自灯明とはこの事。
仏教に頼る阿呆にはいくら言っても理解できまいがw

その仏教が自灯明の教えを説いているのだがココだけ見事抜け落ちるのが仏教馬鹿のなせる業だなw

777 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:22:18.84 ID:0XpRV4sZ.net
>>776
自灯明は自洲法洲等の仏教由来の言葉
その観点を踏まえて、勝手な解釈で用いる君の考えは如何なものかと苦言を呈さざるを得ませんね

自灯明は自我に頼ることではありません
それは経典にも明白に出てますよ、何に頼って自灯明なのかとね

778 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:25:02.97 ID:V+XMMAJX.net
己を州(島)とし己を頼る事が自灯明であり、すなわち法灯明となる。
その解説の経典の説明など不要w
明快な教えなのに解説の方に重きを置いてどうするww

779 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:28:01.90 ID:0XpRV4sZ.net
>>778
あれぇ?経典から言葉を「盗」んで勝手解釈で用いるんですか?

>その解説の経典の説明など不要w

自論を崩される証拠は見たくないと言うのが我執の現れですよね
自意識でそれを嫌悪出来ないなら、ひょっとしてそう言う体質・病気をお持ちなんでしょうか?

780 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:30:14.76 ID:0XpRV4sZ.net
>>778
あそうそう、自洲法洲(自灯明法灯明)の出自の経典とその解釈の経典は同じものですよ
自洲法洲で行きなさいと教え、何を以って自洲法洲なのかと教えてるんですよ
知らないで使ってたんでしょうか

781 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:32:33.38 ID:V+XMMAJX.net
経典を一字一句そのまま鵜呑みにする姿勢のどこが自灯明だ?ww

経典の中から取捨選択、自分で解釈するから(参考として学者の解説を聞いても〜)自灯明だ。
無我を我執を無くせ〜と解釈するのはまあ賛成するが、普通に生きる人間はそうそう自分というものに
執着はしないものだw むしろ我執するなかれ〜という教えに固執している姿が見えてそっちの方が問題だろうww

782 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:33:13.22 ID:0XpRV4sZ.net
>>778
大般涅槃経
165-13.それゆえアーナンダよ、ここなるあなた方は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住しなさい。

165-14.ではアーナンダよ、いかに比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのでしょうか。

165-15.アーナンダよ、ここなる比丘が、身に対して、身を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(身念処)

165-16.アーナンダよ、ここなる比丘が、諸々の受に対して、受を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(受念処)

165-17.アーナンダよ、ここなる比丘が、心に対して、心を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(心念処)

165-18.アーナンダよ、ここなる比丘が、諸法に対して、法を観察するものとして住し、熱心なる正知具念のものとして、世における貪求と憂悩を調伏します。(法念処)

165-19.アーナンダよ、じつにこのように、比丘は、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、法を洲とし、法を帰依処とし、他のものを帰依所とせず、住するのです。

783 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:35:59.63 ID:Q8KemJgw.net
>>781
これ>>782が間違って巷間流布されてしまった「自灯明」の全貌ですよ

良く読んでくださいね
自己を拠り所とは四念処を拠り所にしろと仰せです

784 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:57:21.39 ID:V+XMMAJX.net
中村元さんの本では、
世間における貪欲と憂いを除く事〜とあるな。
何に対してかと言えば、身体、感受、心、諸々の事象〜

コレを自灯明で読めば、一般的な欲やら心配事は自分で解決せよ〜
という事に他ならず、「身体、感受、心、諸々の事象」の方に焦点を当てて
経典に書いてある〜という経典依存姿勢が非自灯明なんだよw

785 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:03:52.68 ID:QqpjAIGn.net
>>784
良い本を持ってる様なんですからちゃんと読みましょうよ

>世間における貪欲と憂いを除く事〜とあるな。
>何に対してかと言えば、身体、感受、心、諸々の事象〜

「身体、感受、心、諸々の事象」は君にも理解可能な言葉に直して言ってるだけで
その意味してるものは「身念処 受念処 心念処 法念処」そのままじゃないですか

786 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:09:32.53 ID:QqpjAIGn.net
>>784
四念処とはこう言う修行法の事です

身念処(身念住) - 身体の不浄を観ずる(不浄観)
受念処(受念住) - 一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心念処(心念住) - 心の無常を観ずる(諸行無常)
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分に非ず)を観ずる(諸法無我)
(by Wikipedia)

この四つは全て、観じて滅する実践方法なんですよ

>一般的な欲やら心配事は自分で解決せよ〜

でも良いですが、その解決が「滅して」解決ならその件は何も残らなくなるので良いでしょう
しかし、君の言ってるのは違うんでしょう?あれこれ考えて結論出してきましょ〜的な
それじゃダメだって言うのが仏教のスタンスです

787 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:12:42.82 ID:V+XMMAJX.net
その「身念処 受念処 心念処 法念処」〜とやらを小学生に分かる様に説明できて
初めてスタート地点なわけだ。

そもそも、感じ受けるのは身体であり心であり、何を感じ受けるのかと言うのが諸々の事象についてだろうw
この一連の流れ全部が「対象」として世間における貪欲と憂いを除く事〜である訳だ。
これでも小学生は分からんというかもしれないw

つまりここで言う「対象」を事細かく解説する必要は無いわけだ。
ならば、一般的な欲やら心配事は自分で解決せよ〜で良いだろうよw

一番重要なのは対象に非ず、「自分で解決せよ〜」という点だ。
そこを見落として対象ばかりに目がいくのも仏教キチガイの範疇にいる証だなw

788 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:18:39.73 ID:V+XMMAJX.net
自灯明という言葉が示しているだろうw

灯明と洲が同じ言葉の音だから洲を灯明と誤訳されたが結果的に同じ意味だから
放置されているが、自分を州(島)として頼れという教えである事が最重要であり、
何に対してなんてのは付け加えの解説に過ぎない。

789 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:27:08.77 ID:x7Fpquaq.net
「俺の考えは絶対なのだ」

紐の自己愛性人格障害を観察スレとしてここは秀逸だね

790 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:28:44.25 ID:V+XMMAJX.net
俺が自己愛性人格障害ならば、お前らは仏教キチガイ(精神障害)で病気になっても医者にもかかれず〜ってか?w
気の毒な連中だw

791 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:29:02.19 ID:eRjW48MV.net
>>787
お前は小学生なのか?
小学生がそんなお前みたいなのに悩んでたら逆にダメだろw

792 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:30:24.00 ID:eRjW48MV.net
>>790
遂に認めたなw

結局キチガイの戯言を言いたいが為に相手をキチガイ呼ばわりしていたと

793 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:39:43.36 ID:V+XMMAJX.net
なんせ仏教キチガイは「身体が無いのに何故病気になどなろうか!キッ」というんだから面白いねえwww
身体が無いのに何故2ちゃんねるに書き込めるんだ?と聞き返したいわなwwwwwww

794 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:42:22.29 ID:79xHwVpg.net
何かまた自分だけの面白い妄言を書き始めたなw
新しいお題目だ

795 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:43:22.52 ID:V+XMMAJX.net
ほんの少し前すら読めない馬鹿www

796 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:45:30.26 ID:mWvuWHV2.net
自己中は自分以外は全部同一に見えるらしいw

797 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 19:59:40.23 ID:V+XMMAJX.net
無い無い馬鹿は自分の資産全部を寄付して裸一貫になり飯も食わず死ねw
そうしたら認めてやろうw

それすらせずに口だけで無い無いいっても無駄だろうよw
そう言っているお前自身が目障りなくらい有るんだからなw

ジャイナ教はその点見事だな。
一番の理想は生まれて何も食わずに死ぬ事らしい。

仏教はそれじゃ生きてゆけないから妥協して中道で死なない程度に
楽させてください〜という宗教なんだよw
その仏教の基本を俺は良いと思うが、阿呆は無い無い〜の無い馬鹿だから
そういう人間はジャイナ教にでも鞍替えして死ねと言いたいなwww

798 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 20:03:53.47 ID:5xDww4Qb.net
藁人形論法

799 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 20:36:05.50 ID:lDcdOnAc.net
>>797
チミの自灯明法灯明の解釈を聞いていて、チミが間違って理解してることを知り、
チミの傲慢の理由が判った。
それについてはまた明日にはなそう。

800 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 21:01:34.76 ID:V+XMMAJX.net
いや、もうお腹いっぱいなんですがねえww
話せば話すほど、書けば書くほどに己の主張とかけ離れて行く矛盾の姿〜w

ジャイナ教で断食でもして死ぬ方が説得力がありますよ〜。

801 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 22:27:24.16 ID:V+XMMAJX.net
小池龍之介さんもTVで偽者ぶりを披露されていますなあw
誰が信じるんだ?www

802 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 23:06:38.15 ID:V+XMMAJX.net
Eテレの数学ミステリー白熱教室の方が遥かに人を惹きつけるww

803 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 00:39:29.73 ID:TxEAvTZ+.net
自灯明・法灯明:

「自らを灯明とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、真理(法)を
灯明とし、真理をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ」。
(岩波仏教辞典)。

804 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 00:44:28.34 ID:3GNKLL9m.net
>>798
本当詭弁だよな

805 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 00:50:10.36 ID:TxEAvTZ+.net
>>803の「真理(法)」を、「釈迦の教え」と解釈するのは誤り。
釈迦が、「自分にたよれ。しかし、俺にはたよれ」と矛盾したことを
言っていることになるから。

806 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 01:07:53.89 ID:+dOUEiin.net
>>805
自灯明法灯明の出自はこれ>>782
曖昧を流布しちゃ社会悪だと思います

807 ::2015/11/14(土) 01:20:12.24 ID:1Az4hI66.net
>>805
仏陀は誰も自分を頼る弟子はいないと言って自灯明を説いたんだよ。
仏陀が「自分にたよれ。〜」等とは一言も言っていないし、そこに何ら矛盾は無い。

808 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 01:31:42.95 ID:1Az4hI66.net
↑この「自分」は仏陀自身の事で、説いている相手の「自分」ではない。(念のためw)

809 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 01:39:38.91 ID:SGDjhfPT.net
カーラーマ経(http://www.j-theravada.net/kogi/kogi12.html
人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文じゅもん、神の啓示などに頼ってはいけない、
世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
自分の見方に(見けん)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、

これら一切に頼らずに至れた答えこそが真理であると言うのが仏教の真髄です
自灯明法灯明はそのエビデンスであり方法です

810 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 01:55:21.56 ID:TxEAvTZ+.net
>>808
出ました。超カルト解釈。そこまで釈迦に洗脳されているのか。

誰か、出典の長阿含経の文章を引用してくれ。

「思惟によって良くこころを統一し、おのが心をまもれよ」(中村訳)。

この「おのが心」とは、当然、「(釈迦が語りかけている)弟子自身の心」。

811 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 03:03:03.20 ID:B2sy7JcC.net
>>810
バカモノ、簡単に長阿含と言うがどれもが重要経典で長いものばかり六十経の集まりなんだぞ?
中村氏が何を出自としてその下りを書いてるかの引用元位書くのが筋では無いのか

812 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 08:27:33.67 ID:1zXJgy2/.net
>>800
消化してないからお腹一杯が害になってんだな。

チミは「法灯明」を無視してる。
自分が法と言う真実と真理に合致してるかどうかは、自分以外判らないだろう?

チミが真理に違反してるなら、チミが不利益を被るのであり、他者は無関係なのだ。修行においては。
ゴータマさんは、法灯明を抜きにして自灯明を言ったんではない。
法灯明のために自灯明を説いたのだ。

で、法灯明の「法」とは何か、について、それは客観的なものでなければならない。真理なのだから。
それを認められるかどうかがカギだな。ところがチミはそれを認めないでいる。
だから、チミの自灯明は自己中心で、俗世間の俗説を頑強に主張することになるのだろ。

俗世間の俗説だから、チミの本心から出てきている心根が無いのだ。
その俗説は突っ込みどころ満載で、チミ自身ちっとも安心できないものだ。
そのために、こんな優れたスレで、暴れて調教してもらいたいというのがチミの隠れた本心なんだよ。

813 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 08:33:33.84 ID:1zXJgy2/.net
>>810
> 「思惟によって良くこころを統一し、おのが心をまもれよ」(中村訳)。

「心の統一」と言っているが、「心の統一」とはどういうことか?

814 :CIAパンドラ計画:2015/11/14(土) 08:48:32.69 ID:/ipTrM0r.net
>>740
またか

お前は何処のアホだ

> 「語れる訳が無いだろ」と語っているそれは何ですか?

「論点がずれる」という事がどういう事か分かるか?

それだけだ

> あなたもそのクズとやらの中にいる訳です
> 世間を嫌悪するものにどうして世間を理解出来るでしょうか

お前はこのセリフに何の意味が有ると思っているんだ?

世間を嫌悪しようがしまいが
どの道馬鹿に分かる事は無い

どうでも良い事を言っているだけだ

> まさに人の話をマイルールで勝手に決めつけて話を片付ける様な発言ですね

まただ
一々人の事を知ったかぶるな
論点だけを語れよ「能無し」

それが出来ないからって「人のせい」にしないでくれ

815 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 09:15:14.44 ID:XtaIB+af.net
お疲れ様です。

知られているものは全て想念ですよ。
無いに等しいくらいの儚いものです。

その儚い想念の上に基盤を持ち頑張っているのが我有り、世界有りという人です。
なぜ生きているかも分からないのに、いろんなことを覚えている、思い出せる、知っている。と言い張ります。

競い争い心は常に不満を持っているため未来に向けて何かを掴みに頑張ります。
お疲れ様です。

816 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 12:13:37.28 ID:O1rBRa/4.net
>>818

「心の統一」とは、感情的にならずに常に冷静に「我」を保ち、己の「生命
の深奥の声」に耳を傾けること。そして、他者の「我」を忘れないこと。

817 :CIAパンドラ計画:2015/11/14(土) 12:44:44.35 ID:/ipTrM0r.net
>>815
想念を語っているのかね?
とここで言う所だろ?

お前がだよ

「人の話」を「想念です」で片付けるなら
「お前はどうなんだ」と返すのだよ

またかよ
どういう話でも知ったかぶりしか出来ないのかよ
本当に低能なんだろうな

> 競い争い心は常に不満を持っているため未来に向けて何かを掴みに頑張ります。
> お疲れ様です。
汚い言葉だの羅列だ

競い争いがいけないというなら
始めから語るなよ
それを言った後に「お疲れ様です」と来たもんだ

どれだけ「知ったか」すれば気が済むんだよ
この知恵遅れはよ

818 :CIAパンドラ計画:2015/11/14(土) 12:47:31.77 ID:/ipTrM0r.net
>>816
お前がだよ

>>815
それと
そんな事何処の馬鹿が言ってるの?

世間では科学絶対主義の様なものがあるけどね
あれの否定をするだけですよ

「科学に絶対は無い」
それを理解しないバカの思い込みを
妄想だと言っているだけですからね

お疲れちゃん

お前らは「科学万能豚カルト」だろ

悟りの真反対

ニヒリズムの真反対

何を気取ってんだよ馬鹿がよ

819 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 12:48:30.18 ID:x4PFdCWm.net
・俺はこのように思う
・○○さんはこのように言っている
・経や論書にこのように著されている

等、自説か学者など他の人の説なのかをはっきりさせた方が良いと
思うだけれど…
「中村先生が〜」にしても出典の明示と正確な引用があると話が転がり
やすいと思うんだ。

820 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 13:16:12.74 ID:1zXJgy2/.net
>>797
>無い無い馬鹿は自分の資産全部を寄付して裸一貫になり飯も食わず死ねw
そうしたら認めてやろうw

そういうことを言うところから、チミはゴータマの説く理法を理解してないというのだ。
ゴータマは、”世界を空なりとみよ”といったんだろう?
その世界の中には、資産を寄付する行為も、飯も食わずに死ぬ行為もすべては言っているんだよ。
もちろん資産を楽しむ行為も、御馳走を食う行為もすべて、空の真実の範囲内なんだよ。

三輪清浄という法門がある。物質と当事者二人は、空の範囲で行うので、三者とも清浄だというのだ。
もし誰かが欲の心でやり取りするなら、三輪清浄とはならないが、。
目標は清浄な世界、空の世界、無相の世界なのだから、それに適合しておれば何の問題もないわけだ。

821 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 13:49:00.58 ID:1zXJgy2/.net
>>816
>「心の統一」とは、感情的にならずに常に冷静に「我」を保ち、己の「生命
の深奥の声」に耳を傾けること。そして、他者の「我」を忘れないこと。

違うと思うよ。
心を統一するとは、一なる実相を観想することだよ。無心の時が、実相である
一っ相、無相、無願の状態にある時なのだ。

822 :CIAパンドラ計画:2015/11/14(土) 14:19:39.57 ID:/ipTrM0r.net
どの道エガスの組織が暗躍しているのに
言っている事が意味不明だ

823 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 15:07:44.08 ID:1Az4hI66.net
>>810
全くカルトの要素は無い。
大パリニッバーナ経を読めば分かるだろうよw

824 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 16:25:48.73 ID:hmcQs95g.net
>>821

人間は動物の一種属であり、その唯一の普遍の基盤は「生命の維持(生存)」への
欲動だから、生存に無関係な対象や思考は、「一なる実相」ではない。

人間は、現実に100%依存しない限り、一瞬も生存できないのだから、現実
のみが「一なる実相」となる。生死に関る究極の状況においては、生を維持する
現実(物質)のみが、唯一の実相。

825 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 16:27:17.18 ID:xo0jEmVs.net
>>824


隠居まだ日本で工作員活動してたのか?
金正恩に粛清される心配はないのか?帰国したほうがいいと思うぞw

826 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 16:50:37.86 ID:1Az4hI66.net
>>820
空の隠れ蓑の裏ではやり放題ww
酒池肉林も空だから無問題ってか〜w

まさに糞のような主張だなw

いくら無い無い言っても2ちゃんねるで糞持論を展開するお前自身は明確に有るなあww

まあ、お前が全資産を投げうって裸一貫飯も食わずに死ねば認めてやろう。
あと、病気にかかろうが絶対に医者にはかかるなよww
かかった時点でお前は地獄逝きだ。忘れるなw 簡単に前言撤回は閻魔大王は認めないという事だ。

827 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 17:21:41.82 ID:hmcQs95g.net
釈迦カルト(小乗仏教)って、「自灯明」と言う言葉がよほど嫌いなようだね。
この仏教で最も有名な言葉が、岩波を除く仏教辞典には出てこない。中村博士の
「仏伝」でも、自分に頼ったのは釈迦だと言っている。

釈迦カルトは、自灯明では、釈迦の面目がなくなるからだろうw。

828 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 17:41:13.90 ID:xo0jEmVs.net
隠居神カルトは元気そうだな。
朝鮮総連への報告は済みましたか?

829 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 17:45:51.26 ID:tGDiH4AF.net
仏教徒集団「ボドゥ・ボラ・シーナ」が、少数派イスラム教徒ロヒンギャ族に虐殺行為を繰り返している。
ロヒンギャ族はもともと、東インドのベンガル地方(現在のバングラデシュ)に居住し、
15世紀以降に、ビルマ西海岸で繁栄したアラカン王国に商人や傭兵や商人として移住して来た。
仏教徒のアラカン族とイスラム教徒のロヒンギャ族は、元々は平穏に共存していたが、
英国の植民地政策と第二次世界大戦での日本による侵攻で、その関係が一変し現在に至っている。
ミャンマー最西部のラカイン州、ベンガル湾とバングラデシュ国境にほど近い州都シットウェ。
この地で深刻な人道被害が発生している。
多くの人がその惨状を、「まぎれもなく、これはジェノサイド」だ、と。
国を跨るロヒンギャ族は各地で虐殺されている。

画像
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/d1/b532df13f201ad31568d9830134f4c8b.jpg

830 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 18:13:39.85 ID:hmcQs95g.net
>>829

ミャンマーは、小乗仏教国。

831 :CIAパンドラ計画:2015/11/14(土) 18:19:45.98 ID:/ipTrM0r.net
「仏教徒集団」「イスラム教徒ロヒンギャ族」

スゲーよな!

こんな下りから集団の行為を説明する事がスゴい!

豚カルトは宗教対立を捏造するよね

いい加減くだらねー事しか言ってねーと
普通に言いたいんだがね

くだらねーよな!

日本人に宗教なんてほとんど関係なかったけど
西洋の感覚をそのまま導入していて
豚カルトが西洋から来てる事が
嫌になる程よく分かるんだよ

宗教対立なんて誰か気にしてたっけ?

凄いうきまくっているよね
この連中は

832 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 19:03:56.90 ID:Ho3SRqlE.net
そいつは至るところに貼りまくってる
相手にするな
http://hayabusa6.2ch.net/test/read.cgi/occult/1447328222/258

833 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 19:10:58.92 ID:1zXJgy2/.net
>>826
維摩経の維摩がそれじゃやないか。
仏道はどうしたら達成できるかと問われた時に、
「維摩は「非道(貪・瞋・痴から発する仏道に背くこと)を行ぜよ」と答えた。
彼の真意は「非道を行じながら、それに捉われなければ仏道に通達できるということを意味している。

834 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 19:12:52.27 ID:1Az4hI66.net
維摩経など大乗仏典は全て偽経。
経典作者の創作に仏教を求めても無駄〜ww

お前は病気になっても医者にかからず死ね〜ww

835 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 19:15:44.41 ID:wF3mgv7T.net
語るに落ちるとは、このことか・・・

>>829
>元々は平穏に共存していたが、
>英国の植民地政策と第二次世界大戦での日本による侵攻で、その関係が一変し


少なくとも、
宗教的対立(宗教の領域に於ける思想的対立)が主因ではないわなwww


んと、紐も隠居も、発言は右向きだけど、思考回路はトコトン左掛かってるよな・・。

836 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 19:16:38.77 ID:wrLP+g99.net
出家(魂の)してついて来ない者は私に相応しくない。
相応しくないものがいくら釈迦や仏教を理解しようとしても限界がある。

837 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 20:40:27.97 ID:hmcQs95g.net
>>835

小乗仏教(釈迦カルト)は、開祖の神格化と妄信という点で、一神教的である。
タイもスリランカもカンボジアもラオスも、小乗国。

838 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 20:51:18.64 ID:wF3mgv7T.net
>英国の植民地政策と第二次世界大戦での日本による侵攻で、その関係が一変し

839 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 20:56:13.40 ID:wrLP+g99.net
問題の総合商社、神を理解せず救われるさえ勘違いし排他的で好戦的。

840 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 21:45:38.20 ID:hmcQs95g.net
>>838

宗教心理(宗教に内在する精神病理)は、そんな一時的外的要因で変わる
ものではない。

英国の植民地政策は、キリスト教宣教の目的が先行するから例外かも知れ
ないが、日本の占領が一体どれほどの期間続いたのか?

841 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 21:59:03.88 ID:wF3mgv7T.net
>>840

>>829に言えよw 分析(≒引用?)が間違っている、と。

842 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 21:59:17.08 ID:1Az4hI66.net
>>827
小乗、大乗の区別なく仏教依存、仏陀依存の姿勢自体を仏陀は嘆くだろうw
己の頭で思考し理解し実践すれば良いだけなのを伝統という名の元、糞な教義に
縛られ身動きできずに生きる事自体が哀れw
中村元氏は仏教に教義無し〜と言ったそうだが全く同意する。

843 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 22:09:42.11 ID:hmcQs95g.net
>>841

「日本の侵攻」などという短期的外部要因まで持ち出したことは、「宗教擁護」
の意図を感じる。

844 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 22:16:19.67 ID:hmcQs95g.net
日本に到来したのが大乗仏教であったおかげで、神仏習合を生じるまでに
神道と融和した。

小乗仏教であったなら、これほどの融和は不可能だったであろう。

845 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 22:23:08.37 ID:1Az4hI66.net
日本は聖徳太子以来、和を持って尊しとする気質があるから
小乗だろうが大乗だろうが変わらないとは思うが。

846 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 22:40:50.02 ID:3NEK2N4O.net
しない生活とか言うおっさんは煩悩を批判するのに、自ら高級衣を身に付けてる・・・

847 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 23:02:18.95 ID:1Az4hI66.net
>>801の小池だなw

848 :神も仏も名無しさん:2015/11/14(土) 23:49:49.56 ID:7jixjDqG.net
おい

849 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 00:19:34.42 ID:pwaWB1hI.net
>>845

聖徳太子は大乗仏教w。

850 ::2015/11/15(日) 00:36:16.84 ID:9mAMisVc.net
人間は一人で産まれ一人で死なねばならない。
生きている間にいくら愛とやらを育んでも死ぬ時は一人だ。
心中で一緒に死んでも死を他と共有する事は出来ない。

別離こそ人生であり、死んで我と別離するのも人生である。
糞な仏教の教義などにうつつを抜かすより、こういう現実をじっくり見つめる方が貼るかに有意義だろうよw

851 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 01:45:59.58 ID:+B7o5pJi.net
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/healing/1443450610/5
  ↑ ↑ ↑  ↑ ↑ ↑ 

852 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 03:07:52.57 ID:aTre/xGr.net
諸行無常というのは何かっていうと、時間的幅を持って継承される固定した存在は
いないってことなんだよ。
外面的にはなんの変家しないものでも、素粒子レベルでは常に変化してて、
まったく同じものが0.1秒後でも継承されるということはない。

「パンがカビた」という時一般の人は、「カビる」という働きとは別に
純粋な「パン」という存在を想像する。
そう、時間的に継承される変化しない存在を・・・。 (実体)

しかし、「パン」という変化しない実体は存在しない。
「パン」は表面的には変化しないように見えても、0.1秒後には素粒子レベルで見て
全く同一形態のものとはいえない。常に変化している。
「パン」が表面的に変化しないように見えても素粒子レベルで変化しているように、
「パンがカビていく」というのも全く同じ変化だ。
つまり、素粒子レベルの変化から切り離された、「まったく変化せず継続するパンという実体」は存在しない。
つまり、「カビていくパン」というものから、「カビる」という働きと、「パン」という純粋な実体を分けることなど出来ない。
「カビていくパン」は「カビていくパン」以外の何物でもないのだ。

「カビていくパン」が「カビる」というのなら、それは「パン」が「カビる」ということではなく、
「カビていくパン」という存在がさらに「カビる」ということになるから、
やはり龍樹の言うように、「カビる」という働きが二重になる。

このように、全体で一まとめなものを分離して、個々に実体があるように見てしまうのが
ふつうの人間の見かた。

もしも「九州に上陸しつつある台風が九州に上陸する」というなら、
「九州」と「台風」と「上陸する働き」とがセットになって、さらに九州に上陸するということになる。
九州の上に九州が乗っかることになる。

853 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 08:18:48.92 ID:40J6LzX+.net
考えすぎかな。
何と言っていいか、わからんけれど、
常識的に、  おかしいと、思うんだ。
別に、批判してるんじゃあ、ないよ。
頭のいい人、若い人、考えて答えを出そうと、
熱心に追い求めている人などが、そういう傾向になりやすいのもよく、
みうける。
追うことは、間違いかもしれない、と、思うのはどうかなあ?
追えば、(知の)わなにハマる、ということも、あるかもしれないんだ。
とくに、かんじんなものに いやいや しかたないやね。
いろんなひとがいて、この世だ。

854 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 08:20:06.73 ID:40J6LzX+.net
考えすぎかな。
何と言っていいか、わからんけれど、
常識的に、  おかしいと、思うんだ。
別に、批判してるんじゃあ、ないよ。
頭のいい人、若い人、考えて答えを出そうと、
熱心に追い求めている人などが、そういう傾向になりやすいのもよく、
みうける。
追うことは、間違いかもしれない、と、思うのはどうかなあ?
追えば、(知の)わなにハマる、ということも、あるかもしれないんだ。
とくに、かんじんなものに いやいや しかたないやね。
いろんなひとがいて、この世だ。

855 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 09:05:01.43 ID:8XqFdCwG.net
>>814
780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから

聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るで

あろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」で

ある。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであ

るから、かれは高貴な人である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちに

あって、ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っている

が、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであ

ろえか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

856 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 10:02:33.59 ID:0rHxPkIT.net
量子力学的には、すべての物質は、超高速で運動する微粒子の関係的集合体で
ある。つまり、中身スカスカで、常に変化している。しかし、人間が見ると、
固定した一定の物質に見える。これが中論の「空」の意味である。

例えば、君の隣に横たわる恋人の白い、豊満な裸体は、実は、中身スカスカ
なのである。しかし、人間である君にとっては、固定した実在以外の何物
でもなく、夢中で抱こうとする。

すべては生命による知覚の神秘である。量子力学のコペンハーゲン解釈では、
この生命の不可知の神秘ゆえに、「波束の収縮」という、自分でも無意味な
ことがわかっている概念を導入せざるを得なかったのである。

生命は、己の生命を以っては対象化できない唯一の存在。

生命を「無明」呼ばわりした釈迦は、生命のこの限りない神秘と驚異とに思い
至れなかった。

857 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 10:16:29.80 ID:0rHxPkIT.net
>>855

すべての人間は、「生命においては等価・至上」なのだから、釈迦が人間を
聖者と凡夫に差別したことは根本的な誤り。

宗教によるそのような根拠の無い差別から、人間同士の争いが生じている
のである。

「聖俗」も相対的概念だから、中論の空である。善悪や清濁と同様、一方が
なければ、他方もありえない関係。執着すべき自性はない。

釈迦は、空なる「聖」に執着しまくり。

858 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 10:46:57.16 ID:ESWJYIVp.net
>>855
ありがたいね。聖者の言葉を聞くのは。

>>856
中論の空の意味は、微粒子同志は、相対存在なので、微粒子自体には、
実体がない、即ち存在しない、という意味だ。

チミは人間は微粒子集合体で、中身がスカスカであって、且つ運動していて、
しかし固定した一定の物質に見える、というが、どんだけ矛盾したことを言っているか
自分で分からないのか?

そんな支離滅裂な言論を竜樹がしたのか?誰も相手にしない。そんなやつは。

竜樹は、この地球上で一番固い鉱物とされているダイヤモンドさえも、
実体のない、幻だ、と論証したのだ。

859 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 11:05:22.92 ID:9mAMisVc.net
「実体のない」の無い馬鹿登場www

860 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 11:16:45.01 ID:ESWJYIVp.net
森羅万象に実体がないのだ。
そこで、森羅万象を除去すると、そこに実体が現れるのだ。

世間を対象に言論するときは、世間は森羅万象しか見ていないので、実体がない、というのだが、
真実としての実体が存在しないと言っているのではない。

その真実としての実体は無相の相を採っているもの換言すると姿の無い姿をしているもの、なので、
その真実の実態によれば、世間の人の見る森羅万象は、「ない、ない、ないよ」と言うに尽きるのだ。

おかしくないだろう?チミの誤解だよ。

861 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 11:22:39.23 ID:bmJFJ1C/.net
ある人いわく「私はこの宇宙が広がっているのか、縮まっているのか、
       それをあなたから教わったなら仏教へ帰依します」
シャキャムニ「宇宙が広がっているとか縮んでいるとか、そんなことが
       あなたの解脱に何の役に立つのか。今ある苦しみを
       除くことこそ肝要である」

素粒子が量子力学がどうのこうの言ってる連中は
仏教徒ではない

862 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 11:22:54.48 ID:9mAMisVc.net
「実体のない」の無い馬鹿に付ける薬は無い。
死ぬまでキチガイのまま。
絶対に医者にかかるなよwww 

863 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 11:27:47.93 ID:0rHxPkIT.net
>>858

釈迦は「聖者」ではなく、あくまで「自称聖者」w。イエスも「自称神(の子)」。
詐欺師に騙されないようにw。

微粒子も、観測装置で観測できる限り、実在である。ニュートリノも、観測に
より、質量があることが発見されたではないか。微粒子も、さらなる微粒子の
関係的集合体であることが、今後も発見され続けるであろう。中論が相対性
理論や量子力学を先取りしていることは明らか。

竜樹は、「幻」とは言っていない。「幻のごときもの」と言っている。両者は
大違い。竜樹の表現の苦労を、少しは理解しようw。

864 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 12:23:19.46 ID:ESWJYIVp.net
>>863
科学の論理は詳しくないが、科学の論理であろうが哲学の論理であろうが、
別世界と見做してはならないと思うお。同じ人間が、その論理に接し、意見を持つのだから。

で、実在とか実体とか、実相とか、真実とか、色々な表現を使用するが、これらは同じ意味だ。
で、実在と言うときはそれが真実なものとして存在していなければならない。真実なものとは絶対存在としてあるものでなければならない。
つまり自存しているものだ。相対存在ではないというものだ。

観測してその存在が確かめられたということでそれが実在しているというのは正しくないわけだ。
なぜなら、それは絶対存在でないことは明らかだろう?

絶対存在だけが実在しているので、そんなニュートリノなどの微細なものが絶対存在などと言えない。実在ではないのだ。

865 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 13:49:41.47 ID:ESWJYIVp.net
>>852
むづかしいのか、論旨がぼけてるのか、判らない。なんか程度の高いことを言おうとしてるような印があるようだが、
わかんねい。

866 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:03:44.29 ID:9mAMisVc.net
実体が有るのか無いのかを問うのは形而上の存在論であり、これの答えは不明以外に有り得ない。
にもかかわらず、無いと断定している時点で大間違いなんだよw

無いの主張は矛盾も矛盾、大矛盾である。
主張している本人が有るのに無いとはコレいかに?ww
空を隠れ蓑に裏でやりたい放題の阿呆だから矛盾を矛盾と認識しない。

人間にとり「有る」がメインの命題であり「無い」はサブである。
サブとメインの取り違え自体が阿呆なんだよwww

867 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:15:57.27 ID:/oKhFpRX.net
>>866
横から何度も言うけど、
釈尊以来(部派仏教も般若思想群も)、諸法が(諸存在が) 「ある」 ことは大前提なの。
立場の違いは、「どのようにあるか」なの。それは龍樹(中論)でも同じ。

このとき、

 「その《在り様》は、固定的実在的に一つ(一種)である」

とするのが西洋哲学、西洋的世界観なの。
で、仏教では(お釈迦さん及び龍樹等大乗空思想群は)、《それ》を

 「(一時的に)、縁起してあるもの、所縁によって現れているもの」

とするの。

こんなシンプルなことが、まだ解らないかなぁ・・w

868 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:20:36.50 ID:9mAMisVc.net
>釈尊以来(部派仏教も般若思想群も)、諸法が(諸存在が) 「ある」 ことは大前提なの。
>立場の違いは、「どのようにあるか」なの。それは龍樹(中論)でも同じ。

説一切有部は法を実有としたが龍樹はそれを論破する目的で中論を書き上げた。
説一切有部と龍樹は正反対である。この基本もわきまえずに下手糞な空の解説など屁のツッパリにもならんわww

869 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:24:12.73 ID:/oKhFpRX.net
>>868
有部の立場の前段階が必要なんだよ、君にはw


海辺で子供が≪「お城」を「作った」≫とき、そこに「城」は「ある」?「ない」? w

870 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:24:59.67 ID:9mAMisVc.net
出ましたww 毎度おなじみのセブンの超下手糞比喩www

871 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:32:49.14 ID:/oKhFpRX.net
有部が「ある」としたものが何か(どのようなことか)をわかってないよねぇ・・。

紐や隠居の立場(考え方、視線)に於いては、有部と龍樹の間の違いを言い得ないんだけどね・・。
(つか、君らからしたら、有部と龍樹は同じ「無い無い思想」になっちゃうんだけどね・・。
 「どのようにあるのか」の点で比較して初めて、両者に差異が出てくるんだけどね・・。
 中論、まったく読めてないよね・・・。
 対論者同士が、同じ 「諸法の縁起してあること」(実体なきこと) に関して、
 その解釈・解説の仕方に於いて対立軸にあることが・・。)

872 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 14:39:10.44 ID:9mAMisVc.net
法を有るとする立場と有るとは言えないとする立場では同じとは言えない。
これを同じというアンタが馬鹿なんだよw

ものの説明の仕方を勉強しなおして来いw

873 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 15:30:19.29 ID:hqkKwhJ+.net
幽霊を信じている人が「幽霊を見た」という時はその人にとって真実です。
幽霊を信じていない人は彼が幻を見たといい。それはその人にとって真実です。

悟り体験をしたことのない人は「釈迦は詐欺師に違いない」と言うかもしれません。
当時もそのような人はいたでしょう。キリストも・・・・・

思念の相対世界においては、どんな事柄についてもこのような違いが出てきます。
人を説得するのは難しいという事は覚えておきたい事です。

874 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 15:43:27.93 ID:/oKhFpRX.net
ほらw まるでわかってない。 刹那滅という語さえ知らんのじゃね?

「縁起する」というテーゼを外れ得ない以上、
有部は、実体・実在を極限まで細分化して、
細分化して細分化して尚、何かを残さなければ、次の果へ繋がらない故に、
次の果への因や縁となるべく「法」は「有」でなければならない、というところへ行きついただけ。
(その「有」が「実体、実在としてのもの」かどうかは、また別問題。各論ある。)
まるで、現代科学物理学が、世界を粒子の構成によってできあがっているとするのに相似する。
 *(当然のこと乍ら、有部でさえ、
  隠居や紐が言うように「『物』がある、実在してある」などと言ってはいない
  ことにも留意しなきゃならんわけだが・・。
  問題となるのは、
  唯識教学との絡みで、心的作用、心的要素に関しても「有」となって行きがちだという点。)
   *(こういうデリケートなとこはチンプンカンプンだろうけどw)

だから、龍樹は、「そうではない」「微細な瞬間の切り取りさえも叶わない」
「流動的で切れ目のない」ダイナミックな縁起を中論で語ろうとしたわけ。

つまり、両者ともに「縁起して《ある》実体無き諸法」を説明しているだけ。
問題となっているのは
「縁起性」とはどのようなことを言うのか?ってトコなんだけどね・・。

875 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 15:48:00.67 ID:9mAMisVc.net
俺はモノが有るなどとは一言も言っていないw
人の言う事は理解せずに己の言いたい事のみを喚き散らす〜w
実体が有るとも無いとも言わない〜不明が答えだと繰り返し言っている。
無いと断定する阿呆は「実体が無い」というから阿呆と言ってるんだがなw

個々人の実人生は有る。コレは存在論ではない。

876 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 15:57:57.18 ID:Gvs49Wct.net
実有・実体ではなく
空という性質であるからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
仮に、現れ、そして、滅して逝く
それでも、とりあえず ↓ これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8E
つくば市にある高エネルギー加速器研究機構 (KEK) から
スーパーカミオカンデに向かってニュートリノを発射するK2Kの実験において
ニュートリノの存在確率が変動している状態を直接的に確認し
2004年、質量があることを確実なものとした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90
シュバルツシルト半径が(現実的に存在するかどうかは別として)計算上存在する
しかし、電子が大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6
量子力学の場合は、古典力学で成り立っていた、因果律が成り立たない
量子力学は
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
素朴な実在論としては記述できず、非実在論的である
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に
全く異なる並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
しかし「波動関数の実在性」そのものに関する解答は存在してない

877 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 15:58:11.20 ID:9mAMisVc.net
無いの主張は断滅論であり有るの主張は常住論であり仏陀は両者を取らない立場を表明した。
全くその立場に同意する。

しかし世の中の阿呆は実体が「無い」〜と断滅論を採用しているww
コレは明確に間違いである〜というのが私の主張だw

878 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 16:09:18.12 ID:/oKhFpRX.net
>>877
だからw

 ≪「実体」は無い≫ の。 ≪「諸法」は「ある」≫ の。 ≪「諸法」は「実在」しない≫ の。


>>875
>俺はモノが有るなどとは一言も
じゃあ、君が今見つめているモニター(画面)は何だい? 「モノ」じゃないのかい?
君は体を有していないのかい? 君の肉体は「モノ」じゃないのかい?
君の肉体は、あるともないともわからないような不確かさなのかい?

 *(それこそ、きみこそが病院行く必要ないんじゃね?w つか、病気にすらならんだろw
   あるともないともわからない身体について、何をし得ようかw
   隠居が一番批判してるのが、その「あるとも無いともわからない」というトコなんだが?w
   彼はよく言ってるよ。自分の頭をハンマーで叩いてみろ、とねw
   身体もハンマーも、あるかないか判らないんだろ?
   君の体があるのかないのか、ハンマーがあるのかないのか、試してみたらどうだ?www)

879 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 16:15:41.62 ID:9mAMisVc.net
>じゃあ、君が今見つめているモニター(画面)は何だい?
コレは俺にじゃなく一切が無いの主張する阿呆に言うべきだろうよw
俺の主張は個々人の実人生は有るんだからなww

モノの存在については不明としか言えまいw
法もその存在については龍樹は空とし、「ある」とは言わない。
コレをあるとするのが説一切有部だ。あると断定するのは有部だけだろうよw

880 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 16:37:27.35 ID:/oKhFpRX.net
>>879
>俺の主張は個々人の実人生は有るんだから
(「>実人生」ってのが何を指しているのかによって、話も変わってきそうだがw)

 「ある」んじゃんw

なぜ、「あるともないともわからない」 でなく、「ある」 と断言してるんだい?

881 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 16:40:08.27 ID:Gvs49Wct.net
説一切有部(せついっさいうぶ)
「あらゆる現象(諸法)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ)を想定し
  この有法は滅することなく、過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)」を主張した

 − これに対して −

大乗の場合は
”無自性・空”を主張して説一切有部の説を批判した
しかし
唯識派になると説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった

世親は「唯識二十論」で「世界は個人の表象、認識にすぎない」と強く主張する一方
(実有・実体ではなく
  空という性質であるからこそ
  因と縁の双方の縁起に依存して
  色受想行識の仮和合は
  地水火風空識の依存による仮の現れなので
  「仮設としての」という意味で)
言い表すことのできない
「(仮の)実体がある」とした
「(仮の)相を有している」とした

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)が現れ(滅し)ていく

882 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 16:43:21.36 ID:9mAMisVc.net
個々人の人生や人生主体としての我は有るだろうよw
コレを無いというのは阿呆だろww 存在論じゃないんだからな。

モノの存在を問う場合は不明だろうよ。
これを無いというのは阿呆だろうww

素粒子を細分化して何か残るのか否か?
宇宙の果ての先には何か有るのか無いのか?
こういう設問に対して「有る」とも「無い」とも言えまい。

つまり、どちらにせよ「無い」と断定する事自体が間違いなんだよ〜w
こんな簡単明瞭な事も理解できないのは余程仏教に毒されているからに違いなかろうww 哀れ〜www

883 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 17:06:01.79 ID:/oKhFpRX.net
ほうw 新たな局面を呈してきたなw

>>882
>個々人の人生や人生主体としての我は有る
「どのように」「ある(有る)」んだい?

>モノの存在を問う場合は不明だろう
「モノ」(の「ある」「なし」は不明であり、
「人生」や「主体(我)」の「ある」「なし」は断定できるという、
この差はどこにあるんだい?

一般的な価値観では、日常生活の中では、
「モノ」の存在の方が、より確かなことのように感じられる筈だが?
 (隠居は少なくともそう考えているのでは?
 食べ物という「モノ」が無ければ生きていけない、とw 霞を食ってるのか?と。
 リンゴなら、目の前に見え、触れ、食して、そこに「ある」ことが確認できる、とw)
対して、≪「人生」が「ある」≫というとき、それは「どこ」にあるんだい?

リンゴより遥かに確かなものとして、【自身に】、【感じられる、認識できる】ということかな?w
(デカルトが疑いきれなかったようにw)


ということで、認識論的な展開を見せそうな気配w  (パーピが横槍入れそうだw)

884 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 17:12:20.81 ID:9mAMisVc.net
己の人生を有るのか無いのか分からない〜
己の人生の主体たる我が有るのか無いのか分からない〜
というのが正常だというのか?ww

また、存在論ではどうしても素粒子や宇宙の果て論になるんだが有無を答えられるかね?

存在論か非存在論かの違いは明瞭だろうよ。
それが見えないのは己の頭を嘆くことだ、仏教に染まりすぎた己の頭をなw
仏陀が見れば嘆くだろうよ〜
これほど自灯明を無視した弟子は私の弟子ではない〜と言うに違いないwww

885 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 17:18:15.15 ID:Gvs49Wct.net
 
紐くんの場合は
> 「有る」とも「無い」とも言えまい

 − これに対して −

経典・論書・解説書の場合は
「輪廻にある存在」と掴もうとしている想いも手放し
「涅槃」と掴もうとしている想いも手放し
「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想を超えて
「想いを手放す」という想いも手放し
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れて想滅定が生起して(心作用の消滅)
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
(掴もうとしている想いを手放して、滅に触れて想滅定が生起して(心作用が滅して)そして)
「現れてくることもなく滅していくこともなく」によって仏陀が形容されている

886 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 17:32:01.53 ID:vFoDuihN.net
私のブログを参考にしてください
http://blog.goo.ne.jp/konsaruseijin/c/a97ccbf3715a3362bad8d8ae3c22cd91

887 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/15(日) 17:55:25.89 ID:Gvs49Wct.net
 
> 私のブログを参考にしてください

> そもそも、解脱した人は、「根本的な生存欲」をとことん滅却してしまったのだ
> そんな人が、「私は、死んだ後にどうなるのでしょうか」というようなことを、気にするはずもない

例えば
おじゃるも
紐くんも
隠居先生も

止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践したことがないので、それ故に
人には、その人それぞれの「自我があるはずだ!」と掴もうとしている想いに依存して
「根本的な生存欲を滅却することは出来ないはずだ!」と掴もうとしている想いに依存して

仮の現れとして「ぼくは、こう思う!」という見解が現れ(滅し)て逝く

たぶん ↑ こんな感じ? おじゃる?

888 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 18:09:07.15 ID:PIEbLadn.net
有だ、無だといくら騒いでみても、人間は、専ら五感の知覚により有無を
判断し、有に100%依存しない限り一瞬も生られないのだから、
無駄な話。釈迦の目の前に見える大地が無なら、彼は一瞬にして奈落の底
である。

生まれたばかりの赤ん坊は、「誰からも教えられないのに」、母親のオ
ッパイを見つけて吸い付き、生きようとする。「このオッパイは有るの
か無いのか」などと迷ったりはしない。

「有」とは「作用を表す対象」であることは、古代インド人でも知っていた。

不思議に思うかも知れないが、中村博士は、その著「龍樹」で、有部を、
優れた哲学であるとして、高く評価している。特に、諸行無常の解釈と
して、刹那の生命による知覚の積み重なりに思い至ったのは見識である。

中村博士は、釈迦の「諸行無常」の論理矛盾を真っ向から批判している。

889 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 19:25:32.53 ID:ESWJYIVp.net
>>888
>釈迦の「諸行無常」の論理矛盾

???kwsk

890 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 19:28:31.11 ID:bmJFJ1C/.net
仏教徒

      語りに語って

              シャカの恥

喰い飽きて
       
      この世が嫌と

              修行かな

              
   
              

891 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:00:11.24 ID:9mAMisVc.net
だから何度も言うが人間にとり「有」がメインの命題で「無」はサブに過ぎないw

メインとサブの取り違えの大間違いをしているのが仏教キチガイによる無の主張だ。

892 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:01:10.11 ID:PIEbLadn.net
>>889

無常とは、常の状態の存在を前提とする。常に無常なら、無常が常である。

893 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:01:50.34 ID:7700GBn3.net
>>888
>人間は、専ら五感の知覚により有無を
>判断し、有に100%依存しない限り一瞬も生られないのだから、

ダウトですねえ。
誰もが高速道路を100キロで運転してるわけではないですねえ。
寝てるときは判断なんてしていますか?

894 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:11:09.28 ID:PIEbLadn.net
>>893
寝ているときは、他者が判断する。

対向車が見えてるのに無として避けなければ、釈迦は一発で即死である。

895 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:17:27.66 ID:7700GBn3.net
>>893
ええWWW
あなたは一生の間車に乗ってるんでしょうか?
そんな人いるんですかね?
そういうこと言ってるのわからんでしょうかね?

言葉遊びは楽しい?

896 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:24:04.91 ID:9mAMisVc.net
ていうかw >>895 アンタの言ってる事が支離滅裂なんだがなw
自分で自分にレスして何が言いたいの?w
仮にそうではないとしても普通の正常な大人は人間の睡眠も織り込み済みで判断するだろうよ。
むしろ睡眠時の夢のような変容意識に(瞑想時の意識など〜)焦点を当てるのが仏教キチガイの有り様であり
こちらの方が有害だろうよw

897 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:28:37.51 ID:7700GBn3.net
>>896
そう?
よくあるアンカミスじゃないですか?
あなたの理論の瑕疵よりも大きいでしょうか?

>むしろ睡眠時の夢のような変容意識に(瞑想時の意識など〜)焦点を当てるのが仏教キチガイの有り様であり

妄想ですか?
統合失調を起こして幻覚でもみたのでしょうか?
寝てるときに意識ないと死んじゃうWとか
おもしろいこといってるのは
あなたでしょうWWWW

898 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:31:50.95 ID:9mAMisVc.net
>寝てるときに意識ないと死んじゃうWとか
お前が言っているだけだろうよw 

話にならん馬鹿さ加減だなw
日常意識と変容意識の違いくらい知った上で書け〜www

899 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:34:18.17 ID:7700GBn3.net
>>898
ごっめーん
「変容意識」って
今まできいたことないんですーW

900 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:35:35.34 ID:7700GBn3.net
>>898
すまんすまん、
インキョのアルツよ間違えちまった、
あんた紐?

901 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:43:09.31 ID:7700GBn3.net
それにしてもすごいなあ。
ある意味意識が無くなると地面がなくなって死んでしまうとか?

ということは意識が地面を作っているのでしょうかWWWW

斬新な理論ですなあWWWWW

902 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:52:24.27 ID:ESWJYIVp.net
>>892
チミはまじめか?
自分に正直か?これが自灯明と言うもんだろう?

諸行無常 是生滅法 性滅滅己 寂滅為楽
これは大事な真理だ。

903 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:06:07.81 ID:9mAMisVc.net
これは大事な真理だと決めつけて自分の頭で思考する事を放棄するのが
反自灯明、非自灯明という奴だよww

904 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:16:47.31 ID:7700GBn3.net
せんせーい
反自灯明、非自灯明という奴だと決め付けると
自動的に判断できて
思考放棄できて

便利ですねWWWW

905 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:22:13.02 ID:9mAMisVc.net
田舎者には分からんだろうよww

906 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:24:24.35 ID:7700GBn3.net
田舎者だと断定するパターンもあるんですねWW

これだけ思考停止のパターンを増やすと

迷ってしまって思考停止できなくて困りませんかーWWW

907 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:32:39.36 ID:9mAMisVc.net
趙州の愛用の句を見れば分かるだろうよ。
仏教は矛盾の上にある教えだから矛盾そのものは当たり前〜w
要はその矛盾を飲み込めるか否かだw

糞な重箱の隅をつつく小姑のごときセコイ解釈しかできない人間に仏教は無理〜www

908 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:33:35.66 ID:/oKhFpRX.net
>>891
>「有」がメインの命題で「無」はサブに過

《そうした方向での》メインとサブという峻別(或いは区分、或いは分類)は、
真俗二諦そのもの(幅を持たせても亜流)なわけだが、
そのような二本立て、ダブルスタンダードについては、御自身も採り入れていらっしゃるわけだw
(隠居は毛嫌いしているがw)

なるほど。 少しずつなれども進歩成長はしていらっしゃるようでwww

909 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:37:36.12 ID:9mAMisVc.net
まあ、セブンは比喩と物事の説明の勉強をして書き込むことだw
今の状況ではなんら成長がないようでwww

910 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:39:04.39 ID:/oKhFpRX.net


>>907
それが趙州無字の公案のことなら、まさに>>866のような矛盾なんだがw、
君は866的なこと(趙州の無)を許容するの?しないの?www



んと、めちゃくちゃだなw

911 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:39:29.85 ID:7700GBn3.net
>>907
すみませーん
せんせーい
あなたの先人まで利用して
自分の屁理屈の言い逃れにつかいたーい、なんて
ところが
とってもセコク感じましたーWWW
お許しくださーいWWW

912 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:41:32.91 ID:9mAMisVc.net
だからww

飲み込めるか否かと言っているw
お前は人の言葉を全く見ない阿呆だなw

飲み込めない矛盾はダメだろうが飲み込める矛盾は良いだろうよw

913 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:44:46.43 ID:7700GBn3.net
さっすがー
自分を棚にあげるなんて
神様のようですWWW

自分の決してやらないことを
棚の上の神WWW様WWWしては

要求するべきですよねーWWW

914 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:45:25.79 ID:9mAMisVc.net
無いという主張の矛盾は飲み込めない。
至道無難唯嫌選択という矛盾は飲み込める。

これだけの事なんだがなあw

まあ、阿呆にはサッパリ分からん〜という奴だろうがwww

915 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:48:45.45 ID:7700GBn3.net
そうそうW
都会人としては自分の主張(エゴ)のみを
他人におしつけるべきですよねー

これこそが唯我独尊WWW

916 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:52:20.59 ID:9mAMisVc.net
田舎者の吠えるのは阿呆にしか見えないぞww

そうそうw
唯我独尊は全ての生き物に有る事でアンタにも有るなあw
自分の頭で思考しない馬鹿はいつまでたっても馬鹿のまま〜ww

917 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:53:09.59 ID:7700GBn3.net
他人の主張は認めないWWW

それで至道無難唯嫌選択(道に至るのは難しくない、ただより好みしなければ良いのだ)も

「矛盾」となってしまうんですねWWW

カッコイイーWWWW

918 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 21:58:27.04 ID:Gvs49Wct.net
 
真俗二諦(しんぞくにたい)
その当時インドの人にとって仏教を理解させるためには
その当時インドの人にとって世間的な考えを一応認めて
その理解のうえで
仏教を理解させる、というやり方をとらねばならなかった

龍樹が『中論』で
仏は二諦によって、衆生のために法を説く。一には世俗諦、二つには第一義諦なり
といったのは、この趣旨をうけたものである

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)
この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう
現象的真実の中に存する根拠なしに、究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに、解脱(涅槃)は達成され得ない[中論24-9と10]

対機説法(たいきせっぽう)
相手の精神的能力 (機根)や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法することをいう

四悉檀(ししつだん)
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)、各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
対治悉檀(煩悩を打ち砕く)、第一義悉檀(真理に直接導こうとする)

919 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 22:35:42.03 ID:9mAMisVc.net
人間の最も根源的な自由は選択の自由だろう。
型にはまった考えで固まったら不幸という事だ。
しかし型にはまった考えは安定しているので安全とも言える〜w

飛躍するか現状維持を目指すかの違いだが、人間の進化は飛躍の方で
進んできた。人間が現状維持で生きてきたならば現在のような姿ではないだろうよw

人間を動かすのは型にはまったものから抜け出そうとする人の意思だろう。
2500年前の人間の古臭い教えを一字一句そのまま鵜呑みにするようでは人類は発展しない。
人の生き方の参考として原始仏典を自由に読むのが最も理想的な在り方だろうよw

920 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 22:44:36.05 ID:7700GBn3.net
そうそうW
2chでゲンシブッキョウガー
ユイガドクソンガー
ジトウミョウガー
なんてやってても
人類の発展に何の貢献も無いなW

921 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 22:46:56.50 ID:/oKhFpRX.net
心随万境転、転処実能幽。
随流認得性、無喜亦無憂。

922 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 23:02:51.90 ID:7WL0oDo6.net
スピリチュアルラボ、テルテル必死

923 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 00:55:04.60 ID:LoBdiTRV.net
仏教アンチスレ [転載禁止]©2ch.net
http://hello.2ch.net/test/read.cgi/kyoto/1447600199/
1 名無しさん@京都板じゃないよ New! 2015/11/16(月) 00:09:59.39 ID:VeOzDkDK0
日本の仏教なんか元の哲学とはなんの関係もない新興宗教だろ
地獄に行くだの天国に行くだのの詭弁で人を騙してるだけ
あんなの信じてるとかみんな頭ン中お花畑だな

2 名無しさん@京都板じゃないよ New! 2015/11/16(月) 00:25:16.20 ID:rZqZMyhBK
因果応報を前世までさかのぼり被災者や
犯罪被害者を前世が悪いと言ったり、
法事を死者の裁判で前倒しはいいが先送りは
死者の裁判に不利になるとか、仏教は知れば
知るほど頭にくるし嫌いになる。
宗派によって違うともいうが、やはり好き
にはなれない。これらのことが分かって
以来、寺に賽銭を投げるのをやめた。
あと、檀家になってる寺(真言宗)との付き合いも
必要最終限度にするつもり

924 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 01:58:33.53 ID:YwoWZ9Vp.net
スピリチャルなラボでは羅ボラセン螺旋でわー言う世の中暗いチヤは
ジュニアのー世の中必死ーうーよくー右翼のゆくえー言う世の中アナウンサーなーなこおー路温橇町橇町くん反町隆史みたおーえたーそりくんー
菜々子ー云うよーなー押しましーたあーおやじおわ祭りおわおわおやじおわ
芝居姉妹司馬遼太郎ー云うのおさけおわおわおさげおわたぬきおおかーれしおわおわ総務どおわ語録言う世の中大塚寧々娼婦よえたきみーこおー言うよねー葉山町マカこまさこー言うまさこー真砂ぶすどもこおわ

925 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 02:00:25.29 ID:YwoWZ9Vp.net
のおちんーーおわおあ自民党ー言う買うなー言うよ中国人ばかえーどをあ祭りーまじよおおおーえへーよおー松原おわ松川おわ
松浦亜弥負けないようーー魚屋ヨオオオオオ言う世の中ー覚醒剤違反報告ーー言うよ千早ジュニアぼおりきだんー内田つく目ーー言うよどおわ
どおわーおわおわおわ千早ジュニアーー柏原選手歌詞なバラー選挙ー占拠井上和彦ー言う位ー暗いよのなかー大船起因変態りえばっかーー

926 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 02:01:28.29 ID:YwoWZ9Vp.net
献眼換言換言すれ還元墓園とかー戊えんーばかえーどをあ言うのーーーエターみキーーららー言うよ最悪ないじめーじめじめくるくるどおさたぬきよめーー

927 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 02:29:15.99 ID:0CIT0wCu.net
>>892
何を支離滅裂な解釈しとんじゃお前はw
いっかな?

諸行無常ってのは「一切行無常」って意味なんだよ
諸行ってのは一切行と同じで「眼耳鼻舌身意」に接触が起こった瞬間の「各感官への意思」の事
耳に感じ始めたら「聞こえる!」って実感に注意が向くだろ?その注意の事を諸行って言ってんだよ
お前の注意は全ての感官が常に常住で切り替わる事なんか無いのか?
例えば鐘の音が聞こえたらずっと鐘の音が鳴り止まないのか?
お前の妄想はずっと同じ絵を繰り返してるのか?
違うだろ?コロコロ変わってるだろ状況は常に

そう言う事を諸行無常って言うんだよ

外に求めるな外に
仏教の用語の殆どは己の事しか言ってないんだよ
外に答えを求めるから愚者は漏れなく迷うんだよ

928 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 03:03:18.79 ID:0CIT0wCu.net
因みに、愚者が良く勘違いして理解する代名詞的なやつも一つ

「山川草木一切衆生悉有仏性」

これ、山川草木やらに悉く仏性が有ると思ってる・考えてる奴が多いが大間違い
山川草木等に「触れる」「見る」「聴く」などを行なえるのは「自己」なのであり
その自己に引き当てて観た時、例えば「山」を「観た」と言う「第一義諦」が必ず起こる
普通に山を見た奴に山が見えないなんて矛盾は通常起こらない
この第一義諦こそが「仏性」だと言い切ってるのが
「山川草木一切衆生悉有仏性」って言葉の真の意味

これを別の言葉で言えば「眼横鼻直」になる

929 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 03:24:34.39 ID:0CIT0wCu.net
さらに有名なやつも一つ

問い:犬に仏性有りや無しや是如何?
答え:無〜

って公案が何故無が答えなのか
928を踏まえれば答えは簡単で、犬にも第一義諦が起こるのは道理を過ぎない訳だが
肝心の犬様には言語の概念やらが無い為、仏道を理解出来ない
それ故に音を聞けばその反応こそ出来るが、それを第一義諦と理解出来る概念が無い為
仏性に為り得ない

そもそもそれを観察していた当人は犬ではない、つまり自分の事ではないので答えは「無〜」となる

これは超有名な無字公案と言われるもので、これが理解出来ると殆ど全ての公案が理解出来ると言われる代物である

それはみんな欲しがる「お悟り」ゲットを意味する

心して作為し理解に努め体得せり

930 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 03:36:59.49 ID:0CIT0wCu.net
仏性を修習し尽くす為に仏道はあって、その仏道は菩提心凡夫の為にある
菩提心凡夫とは、悟りや救いを求めるものの事を言うのであり
この世界でそれに該当する生き者は・・・ 人間しか居ないのである

どんなに可愛くとも、残念ながらお犬様は菩提をお求め下さらんでな

931 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 06:03:00.27 ID:0lL3uH0Z.net
>>927
>諸行ってのは一切行と同じで「眼耳鼻舌身意」に接触が起こった瞬間の「各感官への意思」の事
>耳に感じ始めたら「聞こえる!」って実感に注意が向くだろ?その注意の事を諸行って言ってんだよ

おやおやW
こんな事お犬様のほうがもっと上手くやれますよ。
下手したら考え事にのめりこむ事の多い人間様のほうが
反応の遅れる事が多いのでは?

932 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 06:08:26.97 ID:0lL3uH0Z.net
>>928
>それ故に音を聞けばその反応こそ出来るが、それを第一義諦と理解出来る概念が無い為
仏性に為り得ない

自分ほったらかしにして仏性だの第一義諦だのにうつつをぬかしていて
生活になりますか?
ただの雑念ですわ。
例えば「セールスマンが俺は仏だ、凡夫よ買え」
こんなん仕事になりますか?
主婦が「私は仏なの。雑務なんてできません」
こんなんで大丈夫なん?

933 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 08:05:40.21 ID:6KVK3A2h.net
>>928
>仏教の用語の殆どは己の事しか言ってないんだよ

やっぱり、釈迦の「無我」は誤りだったということだなw。

そもそも、釈迦の使った言語にも「人称変化」があったはず。「無我」なら、
釈迦は一人称を使えず、従って、言語自体を使えないことになるw。それに
しては、釈迦は「俺が、俺が」と饒舌w。

終了。

934 :123:2015/11/16(月) 08:37:28.17 ID:6SzGXcpg.net
933.
存在論としては無我しか答えがない。
無我とは存在を離れるということである。
そして、その先はどうなるのか。
その答えは簡単である。
眼横鼻直は存在論である。よって、失格であることになる。

935 :CIAパンドラ計画:2015/11/16(月) 10:17:23.13 ID:Y5hPHU56.net
自分自身に気付く体験があり

それがこの世界を生きて来た
経験から起こっているから

存在と言う考え方は必要ない
この世界の一環としての自分である事の
確信は十分だからだ

だから「眼横鼻直」なんでしょう

存在の夢想というものは
普通は「自分が生きている事」の疑問から起こり

それが世界との一貫性に気付く事で
どの道「この世界しか無い」事に気付くから
無意味なものに変わり

それ以上の疑問は
そもそも「世界とは何か?」という事になる

936 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 11:30:42.59 ID:6KVK3A2h.net
王族の子として贅沢三昧に暮らした釈迦には、「他者との関りの中の生存努力」
という選択不能な大修行が欠けていた。自分の好きなときに始め、スジャータの
乳粥一杯でやめられる修行など、趣味であって修行ではない。仲間の修行僧た
ちの冷笑を買っている。

生存は、まず「有るか、無いか」を区別することから始まる。

釈迦の現実から遊離した観念の遊戯と一切皆苦などという強度の苦悩感は、
重度のうつ病の症状以外の何物でもない。仏教も、他の創唱宗教と等しく、
開祖の精神病の感染の結果である。そもそも、城門の外に出て初めて世の中の
悲惨さを知ったのもおかしい。生活者たちは、その悲惨さの中でも一脈の
喜びを見出して、懸命に生存に努めているのである。釈迦には、生活感やその
中における悟りが、全く欠如している。

937 :CIAパンドラ計画:2015/11/16(月) 13:05:46.66 ID:Y5hPHU56.net
カルト集団の圧力で社会の中を抜け駆けしている
豚カルトなんかに言われたくねーと思うよ

怠ける事を生業にしている様な奴らだからね

938 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 13:09:59.56 ID:psrdUBR4.net
このスレの反仏教な奴って法華経寿量品の
良医病子の譬えの毒に当たり過ぎた子供を地でいってるのな
反仏教じゃなくても、薬の使い方を誤解してるから
飲み薬を体に塗って、塗り薬を服用してたりして
それが正しいとさえ言って憚らない

939 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 16:31:33.29 ID:YwoWZ9Vp.net
名前: 陽気な名無しさん捺印夏井豊佛教戒告よキーボードーおわー遠いくんー焼き裕子やぎゆうこおわ
八木裕子買う穴買うな彼氏神殿ぞーーっとーするー死んでるよ麗美のでえーー?麗美のー言うよエタ松原麗美でいいじゃんーねーこー首本田麗美としておえおーわかかもと首来て切れ麗美おわ

警官自明の理仕舞い終いー島居島式仕舞いましょうー仕舞いー姉妹ましょーー
あこういーかおいおいおわ阿藤快言うヨオオオオオへーーえへー松原こけしーぼぼーぼぼーおー言うロバ首おわ殺せよおわ麗美おわ本田おわあやしいー松原みてえーいか首よおーれみおわ坂本あやおわ

E-mail:
内容:
芸芸がないゲイ末位古市濃い茶光一松井どお下のーーなのこおー松井幸一真チィ光一マツイコウイチ松居一代変態ーー
マツイコウイチ横須賀市ばかえー痩せたロバ首もでしょーー?松居一代松井浩一おわ死ねよもおーおわ
売女最悪な世のなぁーかーなかー言うヨオオオオオ韓国カラス声三十こけしどもこおわ自衛隊で殺せおわまーぼおーキイボオおわ

なーあこうかいー死んだってーーえーーおー覚醒剤予防注射いいのーくんーおきに
ぶるよおーよおーおわおわ北斗秋保やあきうやあきうやあきらーーーおいおいー言うのきゃいこおわ

940 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 16:34:56.85 ID:YwoWZ9Vp.net
>>889

無常とは、常の状態の存在を前提とする。常に無常なら、無常が常である。

893 :神も仏も名無しさん:2015/11/15(日) 20:01:50.34 ID:7700GBn3
>>888
>人間は、専ら五感の知覚により有無を
>判断し、有に100%依存しない限り一瞬も生られないのだから、

ダウトですねえ。
誰もが高速道路を100キロで運転してるわけではないですねえ。
寝てるときは判断なんてしていますか? 帰路キロ眩むのclamの常識上司どおわおわおわ売女常識あるにねーーこおーおわ
死んでよーーいーおわおわきゃいこーどおわーおわ
死ねよおわ殺せよ阿藤海死んだよー旧姓よーー急性九星麗美どおわおわさかもとれみおわ

941 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/16(月) 16:36:12.28 ID:YwoWZ9Vp.net
乗換え女真木よう子おわ殺せよーほせえーーどおわ

942 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 18:07:58.53 ID:y30U3JRF.net
【群馬】 僧侶がATMから12万円盗む 「保管していた」と容疑否認 群馬 (産経ニュース)

943 :神も仏も名無しさん:2015/11/16(月) 22:50:41.48 ID:NjH8yPhy.net





 仏論のいずれが勝ってもシャカの恥




                               

944 :やまkしい山岸のりえわいおわおわ西野かなーおわ:2015/11/17(火) 01:50:30.20 ID:8i687607.net
乗換え女真木よう子おわ殺せよーほせえーーどおわ
無常とは、常の状態の存在を前提とする。常に無常なら、無常が常である。
無上とはちあきなおみおわおわおわ贅沢ようあたしの迷惑言うよおわおわ
波会近郊金庫にしりますかいのーー?おいおいーおわおわたがなめがんrおわおわ眼鏡田中おわ田中ウナおわおをあおわおっわーーおわ
田中眼鏡おわ殺せよおわおわ松原おわ
死ねよーーーーーーおよかーかーかーかーーーかーかーかーするぞおーいつもお?さんまーーー?
千晶になおみー直美尚美ー奈緒美おわおわ死ねよーバッタおわおわ焼ききー言うけどおわ柏原芳恵おわおわバイ付与ーー言うよーおーー
柏原芳恵菓子かー号ー和すrちゃったーー忘れちゃったーーあーー?子供の鳴く声聞くぞおーっとするー記号起動キーボードおわ言うけどおわここす葉山よここーおー横須賀市おわ

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