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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

702 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:55:26.84 ID:23IFCHgN.net
若干の補足:
>>◆4 「無効性」(avyApAratA)とは(未だ)働いていないこと、作用していないこと。 (・・・たぶんw)

>>◆2 「内的(≒内縁起)/外的(≒外縁起)の別がない」というのは、
  この対比が一般的には「心理面(内面)/物質面(外界)」というものになっているのに対し、
  そのような別ではなく、(後に清浄道論が挙げる事例のバリエーションに見られるように)、
  『「縁」によって「果」が生じている』かどうかだけが問題とされ、
  その種別(それがどこで生じているか、何が作用して何が生じているかの《「何」の種別》)
  を問うていない、ということ。(それが問われるのは、一因一果となる場合のみ、いうこと。)
   *(これは、そのまま「時間的/空間的」・「観念的/具象的(物質的)」という対比でもあり、
    《「空間的見方」に於いては、同時的相互依存が見られ易い》ということ。
    そして、可逆性が認められないので、(時間性・因果の側面が外されてはならないので)、
    同時的相互依存、特にそれが「空間的・物質的」な面で言われるならば、排されるものとなる。)

>>◆5 「教義は二諦によって」というのは(このシリーズの住人ならw)了解事項としてw、
  「>実践上は戒律によって」というのは、《「仏」(=阿羅漢)とは何か》を示すに際し、
  「このようなもの(→人物)である」「これが仏(の在り方)である」ということを、
  《実際に、その存在することによって、行為(身口意)によって、目の当たりに示す》、ということ。
  「成仏の可能性」を、「悟りの、涅槃のあること」を、目の当たりに存在することにより、証する(実証する)こと。

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