2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

699 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:44:57.75 ID:23IFCHgN.net
 次に、縁起の因果関係が「時間的」か「空間的」かということについて少々述べておこう。
わが国ではいつも問題になるものであるが、これは多因多果ということと合わせて考えるべきであろう。
上記の定型句を見れば、ここには「縁―果」の「有」「無」、及び「生」「滅」が説かれているだけである。
その内容は、註釈(UdAna-A p.38f)を尊重するならば
「無明をはじめとする縁があるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁が生じるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁がない(=道によって捨断される)ゆえに、行をはじめとする果がない(=起こらない)。
無明をはじめとする縁が滅する(=道によって得達法性がもたらされる)ゆえに、行をはじめとする果が滅する(=起こらない)」
ということである。また、「あるゆえに」とは「ないことがないゆえに」、「生じるゆえに」とは「滅することがないゆえに」、
「ないゆえに」とは「あることがないゆえに」、「滅するゆえに」とは「生じることがないゆえに」と解せられる。
付言すれば、「あるゆえに」(sati)とは、現にある「縁の状態」を語りつつ、縁起の「無効性」(avyApAratA)を、
「生じるがゆえに」(uppAdA)とは、「果の生起に向かう状態」を説きつつ、縁起の「無常性」(aniccatA)を示すものにほかならない。
なお、ここで「ゆえに」と訳すのは、原文における於格(Loc.)、奪格(Abl.)の形が「原因」(hetu)を表すことによる。

総レス数 944
515 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200