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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】
- 691 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:38:39.13 ID:j7sP3xDX.net
- >>688
第二十二章 如来の考察(16頌)
一 修行完成者(如来)は、個人存在の構成要素(五蘊)そのものではなく、構成要素と異なるものでもなく、如来のうちにもろもろの構成要素があるのでもな く、またそれらの構成要素のうちに如来があるのでもなく、如来がそれらの構成要素を所有しているのでもない。
ここにいかなる如来があるであろうか。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。
一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。
一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。
一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない
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