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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

681 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:04:19.00 ID:/OFpm0Ph.net
>>676

中論を、何とかして釈迦の思想の枠内で解釈しようとするから、難しく
なるのだよ。

中論は、釈迦の思想とは本質的に異なる、完結した一大思想体系。

竜樹の伝記を読むと、彼は「仏教は間違っているから、俺が訂正する」
と喝破している。竜樹は頭が良いから、当時の超有名人であった釈迦の
名前を利用して、「己の思想」を説いただけ。

中論は、竜樹の「釈迦を超えた」という自負心に満ちていることを、読
み取るべし。

大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

682 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:09:55.89 ID:eLL1afec.net
>>681
龍樹尊者がそこで言っていた「当時の仏教」とは部派仏教の事
その中でも一大勢力だったのが説一切有部
世間ではその当時、それが仏教の全てだと考えられていたのさ

>大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ
ただ、時節に合わせて対機説法しかしてなかったから大乗経典の様な創作的な経典になってないだけ

683 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:40.97 ID:eLL1afec.net
>>681
君はひょっとして仏道を知らない人なのかな?実際に行じていないの?
もしそうなら、龍樹尊者が中論を興した理由と、その対論者の主張も知らなくて当然かも知れないが

龍樹尊者が言わんとしていたのは、有部に対して「釈尊はそんな事おしえてねーし」って事に尽きる
何たって有部の根本思想は「三世実有法体恒有」で完璧に存在論になってしまっていたからね

きみが若し存在論大好きなら寧ろ有部を学ぶべきだと思うよ

684 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:46.18 ID:/OFpm0Ph.net
>>680
>故に五感にもう一つが加わって六根(眼耳鼻舌身意)

ここでの「意」は、五感からの入力を受容して処理・統合する脳の機能。
あくまで五感の一部である。現代の解剖生理学とも完全に一致する。

このことを理解していないから、仏教では、意が一人歩きしまくって
いる。これが仏教思想の混乱の原因。

脳の各部位におけるそれぞれ異なった機能(「脳機能の局所性」)を
理解する必要がある。

685 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:32:09.32 ID:j7sP3xDX.net
>>684
中論に反する事を言う訳だね君は

中論二十六章
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。

686 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 09:29:57.47 ID:PEGk31Pg.net
説一切有部の説く事として法の実有がある。過去現在未来において法のみは(法以外は実在するとは言わずとも)
変化せずに実在する〜。
この説一切有部の論に対して龍樹が論破を志向して書き表したのが中論であろう。龍樹が「自分には主張がない」
というのは嘘である。主張しているからその主張したものが後世に残るのであろう。
主張がなければ龍樹と言う名前すら残らなかったに違いない。
その龍樹の説く空(縁起)と仏陀の説く縁起とは別物。隠居氏の言う通りだ。↓
>>666 >中村大先生によれば、西洋の仏教学者たちは、両者の相違の大きさは、「世界宗教史上稀有の例」だと
>言っているそうです。

龍樹には↓この時空などという理解はなかったであろうよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA

相対性理論によればタイムマシンは可能でバックトゥーザフューチャーも不可能ではないのかもしれないw

687 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 10:09:47.72 ID:PEGk31Pg.net
>682
>釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ

そんな事を言うのはアンタだけだろうよ。
仏陀の説いたのが何か?等は分からず原始仏教とは原始仏典から想像される世界に過ぎない。
大乗仏典は全て偽経というのも仏陀が直接説いたことではなく経典作者による創作だからだろう。
説一切有部(部派仏教)と大乗仏教と原始仏教は全て異なる。

688 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 14:50:37.51 ID:c+dBjGO5.net
釈迦の一二縁起は、その始点である生命を「無明」としたことですべて
誤り。生命の軽視もはなはだしい。

無明どころか、この大宇宙を観測して存在せしめているのも、人間の生命。

中論は、「如来の本性は、それがそのまま生類の本性(即ち生命)」とし、
生命の営みである「世俗の一切の慣習」と生命を支える「物質現象」とを、
「無条件の前提」とする。見事な結論と言わざるを得ない。

そして人間は、己個人の生命が万物・万人との相互依存性・関係性によって
存在していることの自覚により、限りない精神の安定と平安及び他者の生命
への慈しみを得るのである。

689 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:26:47.83 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十六章 十二支縁起の考察(12頌)

一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、その業によって迷いの領域(趣=転回)に行く。
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣(転回)に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。
六 受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するときに四種の執著(取)を取る。
七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。
八 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。生存から「生」が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望――
九 ――これらは「生」から生ずる。このようにして、このたんに妄想のみなる苦しみのあつまり(苦陰)が生ずるのである。
一〇 それ故に無知なる者は、生死流転の根本であるもろもろの形成作用(諸行)を形成するのである。
それ故に無知なる者は業をつくる主体である。知者は真理を見るが故に業をつくる主体ではない。
一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、
知によってかの一二因縁の修習(連続的念想)からくる。
一二 一二因縁のもろもろの項目のうちで、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの後のものが生じない。
このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

690 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:30:45.34 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十三章 顛倒した見解の考察(25頌)
一 貪欲と嫌悪と愚かな迷いとは思いから生ずると説かれている。何となれば、それらは浄と不浄と誤った顛倒とに縁って起こるからである。
二 浄と不浄と顛倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。
三 アートマンの(自性するものとしての)存在と非存在(無)とは、いかにしても存在しない。それが無いのに、もろもろの煩悩の存在と非存在とが、どうして成立しえようか。
四 これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかしその人が成立しないのである。なにか或るもの(依りどころ)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである。
五 自分の身体をアートマン(我)とみなす見解の場合のごとく、煩悩に汚れている人について五種にもとめてみても、もろもろの煩悩は存在しない。自分の身体をアートマンとみなす見解の場合のごとくもろもろの煩悩について五種に求めてみても、煩悩に汚れた人は存在しない。
六 浄と不浄と顛倒とは、それ自体としては存在しない。いずれの浄と不浄と顛倒とに縁ってもろもろの煩悩が起こるのであろうか。
七 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとが、貪欲と嫌悪と愚かな迷いとに対して六種の対象であると考えられている。
八 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、それのみのものであって、実体が無く、蜃気楼のかたちをもち、陽炎や夢のようなものである。

691 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:38:39.13 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十二章 如来の考察(16頌)
一 修行完成者(如来)は、個人存在の構成要素(五蘊)そのものではなく、構成要素と異なるものでもなく、如来のうちにもろもろの構成要素があるのでもな く、またそれらの構成要素のうちに如来があるのでもなく、如来がそれらの構成要素を所有しているのでもない。
ここにいかなる如来があるであろうか。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。

一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。

一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。

一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。

一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。

一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。

※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

692 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:55:47.75 ID:c+dBjGO5.net
>>691
>※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
>それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

そう考えているのも、すべて生命の機能。死者には一切不可能。

「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と
いう言葉を使っていることに注意。

693 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:56:54.45 ID:j7sP3xDX.net
如来の本性なるものは、すなわち「この世間」の本性である
「この世間」とは何か?

如来は本質をもたない。「この世界」もまた本質をもたない
「この世界」とは何か?

愚かなる人はこれを「自己の外」に求めてしまうのである
それ故に、魂だの生命だの存在だのと戯論を重ねて矛盾から出られなくなる

世間でも世界でも、仏教がそれを指定する時は必ず「十二処・十八界」の事以外に無いのである

一切皆空とも五蘊仮和合とも言われる由縁もここにある
経に曰く、一切とは眼耳鼻舌身意と色声香味触法とであると明確である事を愚者は知らないのだろう

694 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:01:52.75 ID:j7sP3xDX.net
>>692
>すべて生命の機能。死者には一切不可能。

断滅論で邪義まっしぐら〜

>「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と

如来の本性は空、世間の本性も空、故に如来は本質を持たない、故に世界も本質を持たない。

読解力低いね君

695 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:22:55.03 ID:PEGk31Pg.net
>>693
感じる側と感じる対象とその間の感覚で
いわゆる5感+意で6×2or3で12やら18やらなるが
意は5感を統率するものだから5感で感じるもの全部が一切で構わないだろう。

仏陀の時代には素粒子や放射線や電波、電磁波など測定できなかったであろうから
これらの観測機器を通じての対象が外れているのは致し方ないにせよ所詮2500年前と現代では
物事の捉え方では比較にならず、何でも2500年前の説法を丸のみして信じ込むのは愚者というべきだろう。

賢者は2500年前の仏典から重要なポイントを選択して取り込む。

常住に非ず断滅に非ず〜w まさに非有非無〜 存在論に他ならず、こういうのは重要なポイントではない。

696 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:23:59.45 ID:23IFCHgN.net
「伝統仏教における縁起解釈」(『ブッダから道元へ』(東京書籍/1992)所収〔第三節 応答(二)〕p107-117)より。
 ※墨括弧は、例によって引用者が強調の為挿入。
 ※改行は、原文の一部を除き視覚的・意味的区切りを踏まえ、適宜行なった。

三 縁起は何を説くか(p113-116 全文)
 さてここで、縁起が何を説くものであるかということについて触れよう。「論考」には、
その重要なポイントとして「一因から一果のみの生起」「純粋に時間的な因果関係」を認めることが指摘されている。
【その理由は、同時的因果とか相互的因果、あるいは多因一果を認めれば
「縁起説本来の直線的な時間的構想は破壊されて、空間化、平面化され」、
「危機的な宗教的時間が解体される」というものである。
確かに、このような点を核として縁起は説かれていると思われる。しかし、これのみかどうか。】
以下に、わが国で「一般的縁起」と呼ばれている定型句(UdAna,p.1-2;SaMyuttanikAya,U,p.65)を掲げて、考えることにしたい。
   これ有れば    かれ有り.  imasmiM sati idaM hoti
   これ生じれば  .かれ生ず  imassa uppAdA idaM uppajjati
   これ無ければ  かれ無し.  imasmiM asati idaM na hoti
   これ滅すれば  かれ滅す  imassa nirodhA idaM nirujjhati
『自説経』によれば、前の二行は、釈尊成道第一週後の夜の初分における「縁起の順観」、
後の二行は、その夜の中分における「縁起の逆観」であり、『律蔵』の「大品」冒頭に「縁起の偈」として説かれたものである。
この四行が何を意味するかということは従来問題となっているところであり、今我々の関心事でもある。
特に「これ」「かれ」という紛らわしい言葉が何かということであろう。註釈(UdAna-A p.38.47)に従えば、
ここはまことに明瞭である。「これ」(imasmiM , imassa,男性)とは無明などの「縁」(paccaya,男性)を、
「かれ」(idam,中性)とは行などの「果」(phala,中性)を指す。

697 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:24:52.04 ID:23IFCHgN.net
したがって、この定型句は間違いなく【「縁」と「果」について説明するもの】であると解される。
そしてまたこれは、内容としては『自説経』からも明らかなように、「価値的縁起」と呼ばれる十二縁起のそれであり、
あれもこれもの「一般的縁起」などではないということ、【ただ簡略な表現の縁起】であるにすぎないということである。
伝統仏教には、縁起をその意味での「一般的/価値的」、あるいは「外的/内的」【と区別するわが国のような風潮】はない。
 また、この縁起において看過できないのは、あくまでも「縁」ということが言われ、「因」(hetu)ではないということである。
どちらも初期のうちはほぼ同義に用いられていたようであるが、【その範囲は異なっているように見える】。
「因」は直接的、限定的であるが、「縁」は間接的、包括的である。【「縁」は「因」を補うが、その逆は考え難い】。
その意味では、縁起は常に「縁」と「果」の関係を内容としているから、
本来は「縁果関係」のものとさえ言われねばならないはずである。
それは縁によって、すなわち種々の因によって種々の果があるという関係のものだということであり、
今問題の「因」と「果」の関わりから言うならば、【多因より多果がある】ということであろう。
この点を説明する『清浄道論』(Visuddhimagga,p.542)の一節を以下に紹介しよう。

698 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:25:59.10 ID:23IFCHgN.net
   ここに、一因(kAraNa)から何らかの一果(phala)があるのではない。多があるのではない。多因から一があるのでもない。
   ただ多因から多果があるのみである。なぜなら、多くの季節・土地・種子・水と称される因によって、
   多くの色・香・味・などのある芽と称される果のみ生じるのが見られるからである。
   しかし、〈無明という縁から諸行がある。行という縁から識がある〉とこのように【一因果の説明がなされるのは】、
   【そこに意味があり、目的があってのことである】。というのは、世尊は、
   説法の優雅さと教導される者たちとに相応しいように、
   ある場合には主要なもの(padhAna)であることから、
   ある場合には明白なもの(pAkaTa)であることから、
   ある場合には共通しないもの(asAdhAraNa)であることから、
   ただ一つの因と果を説くのである。すなわち、〈触という縁から受がある〉という場合は、主要なものであることから、
   ただ一つの因と果を説く。なぜなら【触に従って受が確定するため、触は受の主要な因であり】、
   また【受に従って触が確定するため、受は触の主要な果である】からである。
   〈病気は痰より生じる〉という場合は明白なものであるから、一つの因を説く。
   なぜならここでは痰は明白であり、【業などはそうでないから】である。〈比丘たちよ、いかなる善法も、
   すべては不正な思惟を根本としている〉という場合は、共通しないものであるから、一つの因を説く。
   なぜなら不正な思惟は諸の不善のものであり、
   【(他の善などに)共通せず、所依や所縁などが(他の善などに)共通するから】である。
 このように縁起は、【形としては一因一果を説くものであるが、その内容は「多因多果」でしかない】
とするのが伝統的な見方である。

699 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:44:57.75 ID:23IFCHgN.net
 次に、縁起の因果関係が「時間的」か「空間的」かということについて少々述べておこう。
わが国ではいつも問題になるものであるが、これは多因多果ということと合わせて考えるべきであろう。
上記の定型句を見れば、ここには「縁―果」の「有」「無」、及び「生」「滅」が説かれているだけである。
その内容は、註釈(UdAna-A p.38f)を尊重するならば
「無明をはじめとする縁があるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁が生じるゆえに、行をはじめとする果が生じる。
無明をはじめとする縁がない(=道によって捨断される)ゆえに、行をはじめとする果がない(=起こらない)。
無明をはじめとする縁が滅する(=道によって得達法性がもたらされる)ゆえに、行をはじめとする果が滅する(=起こらない)」
ということである。また、「あるゆえに」とは「ないことがないゆえに」、「生じるゆえに」とは「滅することがないゆえに」、
「ないゆえに」とは「あることがないゆえに」、「滅するゆえに」とは「生じることがないゆえに」と解せられる。
付言すれば、「あるゆえに」(sati)とは、現にある「縁の状態」を語りつつ、縁起の「無効性」(avyApAratA)を、
「生じるがゆえに」(uppAdA)とは、「果の生起に向かう状態」を説きつつ、縁起の「無常性」(aniccatA)を示すものにほかならない。
なお、ここで「ゆえに」と訳すのは、原文における於格(Loc.)、奪格(Abl.)の形が「原因」(hetu)を表すことによる。

700 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:53:14.02 ID:23IFCHgN.net
いずれにしても、かかる内容のものを、その言葉だけ捉えて、
【「有」「無」から「空間的関係」を、「生」「滅」から「時間的関係」を引き出し、そのどちらかに重きを置くならば】、
多因多果の「縁」と「果」を過不足なく説明することができぬものとなってしまうだろう。
あえて空間/時間に区別すべきものではない。【「空間」に偏れば行動に、あるいは目に見えるものに溺れ、
「時間」に偏れば観念に、あるいは目に見えぬものに流されてしまう】のがふつうだからである。

 法が先か仏が先か。これについては、「論考」に指摘された通り、【仏が先であると言わねばならない】。
ただこの問い自体がまことに大乗的である。伝統仏教においては、仏と法と僧とについての問いとなるからである。
また仏とは何かということを抜きにした仏教の議論もないからである。特にそれが実在論に及ぶときはなおさらであろう。
【教義上は世俗諦と勝義諦によって、実践上は戒律によって】答える以外この問題の解決はないと思われる。
 再び、「論考」が、わが国における仏教教義の理解のために、きわめて重要な視座を提供するものである
ということを申し述べ、一つのコメントを終えることにしたい。

(引用終わり)

701 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:54:17.96 ID:23IFCHgN.net
若干の補足:
>>◆4 「無効性」(avyApAratA)とは(未だ)働いていないこと、作用していないこと。 (・・・たぶんw)

>>◆2 「内的(≒内縁起)/外的(≒外縁起)の別がない」というのは、
  この対比が一般的には「心理面(内面)/物質面(外界)」というものになっているのに対し、
  そのような別ではなく、(後に清浄道論が挙げる事例のバリエーションに見られるように)、
  『「縁」によって「果」が生じている』かどうかだけが問題とされ、
  その種別(それがどこで生じているか、何が作用して何が生じているかの《「何」の種別》)
  を問うていない、ということ。(それが問われるのは、一因一果となる場合のみ、いうこと。)
   *(これは、そのまま「時間的/空間的」・「観念的/具象的(物質的)」という対比でもあり、
    《「空間的見方」に於いては、同時的相互依存が見られ易い》ということ。
    そして、可逆性が認められないので、(時間性・因果の側面が外されてはならないので)、
    同時的相互依存、特にそれが「空間的・物質的」な面で言われるならば、排されるものとなる。)

702 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:55:26.84 ID:23IFCHgN.net
若干の補足:
>>◆4 「無効性」(avyApAratA)とは(未だ)働いていないこと、作用していないこと。 (・・・たぶんw)

>>◆2 「内的(≒内縁起)/外的(≒外縁起)の別がない」というのは、
  この対比が一般的には「心理面(内面)/物質面(外界)」というものになっているのに対し、
  そのような別ではなく、(後に清浄道論が挙げる事例のバリエーションに見られるように)、
  『「縁」によって「果」が生じている』かどうかだけが問題とされ、
  その種別(それがどこで生じているか、何が作用して何が生じているかの《「何」の種別》)
  を問うていない、ということ。(それが問われるのは、一因一果となる場合のみ、いうこと。)
   *(これは、そのまま「時間的/空間的」・「観念的/具象的(物質的)」という対比でもあり、
    《「空間的見方」に於いては、同時的相互依存が見られ易い》ということ。
    そして、可逆性が認められないので、(時間性・因果の側面が外されてはならないので)、
    同時的相互依存、特にそれが「空間的・物質的」な面で言われるならば、排されるものとなる。)

>>◆5 「教義は二諦によって」というのは(このシリーズの住人ならw)了解事項としてw、
  「>実践上は戒律によって」というのは、《「仏」(=阿羅漢)とは何か》を示すに際し、
  「このようなもの(→人物)である」「これが仏(の在り方)である」ということを、
  《実際に、その存在することによって、行為(身口意)によって、目の当たりに示す》、ということ。
  「成仏の可能性」を、「悟りの、涅槃のあること」を、目の当たりに存在することにより、証する(実証する)こと。

703 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 20:56:01.88 ID:23IFCHgN.net
>>696 ◆1
>>697 ◆2
>>698 ◆3
>>699 ◆4
>>700 ◆5
>>702 ◆6

704 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 21:58:10.85 ID:RIxKEI3z.net
原始仏教、大乗仏教、部は仏教(説一切有部)そして、西洋の仏教学者のあるものは、
竜樹の仏教は、それまでの原子や有部の仏教とすごい違いがあるという話をお聞きして、
信じられない思いです。

それは、真実が異なるという意味に他ならないと思われるからです、それぞれの派が唱える。

そこでその違いをもう少し詳しく説明してほしいのです。よろしく

705 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 23:53:30.80 ID:SnM49VxH.net
>>702
>教義は二諦によって」というのは(このシリーズの住人ならw)了解事項

2諦説については、古くから多くの批判と議論がある。チャンドラキールテイ
でさえ、2諦説(2真理説)を提示する理由として、空性論に対する世間に
よる排撃の回避、聖典による排撃の回避を挙げている。

つまり2諦説は「言い逃れ」の手段ということ。「聖典による排撃」とは、
仏典上(即ち中論)からもおかしいということ。

706 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 00:05:47.12 ID:YY3v3jK9.net
>>697
>【多因より多果がある】

ならば「業報論」は崩壊するね。釈迦を含めすべての人間は、その生涯において
「良いことも悪いことも」やっているものだから。業に対する一定の結果は、
定めようがないことになる。

707 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 00:35:32.31 ID:6RD7n2y6.net
どっかの猫ちゃんも、その生死が不可知らしいが、
蓋を開けたら一意に定まるとか言ってたような言ってなかったような・・・。


ピントを合わせれば、
(或る文脈に限定され・絞り込まれ・状況によって制限がかかれば)、
同じように定まってくる、ってだけの話なんだがねぇ・・。

どこにもピントが合っていない(全方位的に露出が開かれている)時、
そのときに、一切法(一切の存在)は空である、と言われ、
中論はそれを言ってるだけなんだがねぇ・・。
で、なぜそのように諸法が空なるものであるかといえば、
龍樹がしつこく言及するように、縁起するものだから、なんだけどね・・。

ちなんで言えば、凡夫は常に、(自分の想い・欲望を基準に)対象にピントを合わせるから、
それらを空性だと見做せず、実在と見、捉われ、翻弄されている(顛倒している)と言われ、
賢者は、一旦ピントを開け切って、一切法が縁起するものであることを如実に知る故に、
諸法を空なるものと見做し、実在しないと見、捉われず、自由である、とね・・・。

708 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 02:52:14.99 ID:eLrf4Ibj.net
物事が実在するのか、しないのかは存在論であり答えは空以外にない。
有るとも無いとも答えられまい。「ピント」の例えもこれまた下手糞の例えとしか言えない。
ピントが合うから実在が確かめられ、ピントが外れているから実在が確かめられない〜のなら
空=無と言っているに等しく、それは明らかに誤だ。隠居氏の指摘どおり中村氏は空を無と
混同するのを批判している通りである。

個々人の実人生は実在し「有る」というべきもの。コレを空だの無だの言う仏教キチガイがダメなんだよw
人生や生き方、人生上の我などは存在論ではない。究極にそれらの物の実在を確かめているのではない。
人間が前向きに生きる基礎となるもので、これを空だの無だのいって虚無に陥るのはダメだし、ブッダもそんな
主張はしていなかっただろうよ。

709 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 03:17:09.77 ID:YY3v3jK9.net
>>696
>これ有れば かれ有り. imasmiM sati idaM hoti

この命題は、中論第一章で明示的に否定されている。

710 :おる 尿MARU(まる)。 ◆2UpphQj1WM :2015/11/11(水) 03:44:15.73 ID:tiK/G/W8.net
無い(のい)

711 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 12:33:42.20 ID:eLrf4Ibj.net
見当識障害というのは今がいつで、ココがどこで、自分が誰であるのか分からない状態を言う。
医者がそれらしい患者を診察する時もこれを尋ねて答えられるか否かを診る。
西暦または平成何年何月何日何時何分、所在地(例えば○○病院〜)、自分の名前や社会的位置(○○会社
○○学校に所属している何某〜)を答えればよろしいが答えられなければ見当識障害と診断される。
では、広い宇宙にいる自分という観点でこれらの問に如何に答えられようか?
宇宙に始まりや終わりが有るのか無いのか?分からないその中で今はいつと言えるのか?西暦や平成などは
人間が勝手に作った時の点であり何ら時間を示す基準にならない。また、場所について見てもxyz軸の3次元で
座標で示してもそれは地球上ならば示し得ようが、太陽系→天の川銀河→全宇宙の中では座標の基準を取りようがなく
今いるココを何と答えれば良いのか?自分についても同様に見れば人間の組成が何が何%で出来ていて、それが自分である
などと言うのは何ら答えにならない。自分の名前や所属組織などは何ら自分を表すものになり得ない。
宇宙規模で見れば人間は全員例外なく見当識障害である。
つまり、人間は何も分かっていない存在なのである。
ココで人間は2種〜3種に分かれる。
T:分からないものは分からないとしてそのままにする。
Ua:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとり好ましいものに違いない〜
Ub:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとりつまらないものに違いない〜

健全で正常な人間の有り方はTであり、死後世界を妄想したり輪廻(輪廻転生)を妄想するのはUである。
同じ路線で言えば悟りや解脱や涅槃や如来の確信や覚者の存在などを探り志向するのもUである。
また、人生は無、空であると虚無に陥るのもUである。

712 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 14:56:41.37 ID:Fs2Tk8/d.net
>>709
>これ有れば かれ有り. imasmiM sati idaM hoti

とはいうものの、この場合の「有れば」「有り」は、当然仏教を学ぶものは、
否定しなければならない。
つまり相対的に「有り又は有れば」なのだから、実体としてない、と断ずるのだ。

こういう意味ではないとすると、どういう意味で否定したんだろうか?

713 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:00:20.97 ID:Fs2Tk8/d.net
>>709 つづき
だから、ゴータマも竜樹も、この「有れば、あり」を幻で実体がないとして、前提問題としたのではないのか?

714 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:47:27.71 ID:Fs2Tk8/d.net
>>711
>人間は何も分かっていない存在なのである。

人間理性を働かせるなら、ゴータマが悟ったように、世界は実体のない空が真実だというのだ。
その空こそ実在してるのだというのだ。

その世界に入れば、心配することは一つもないというのだ。
今後どうするかと心配ないというのだ。何も起きないし、起こしえないのだ。

そこに入るに障害となることは、その空と言う真実に逆らって、何かがあると思い、それを獲得
しなければ生死にかかわるという心配である。それを自分の心から取り除けるなら、空の世界にはいれるのだ。
取り除くのが修行になるのだ。

老荘でも、持ってるもの、もっているという知識、その意識をかなぐり捨てることが必要だという。
捨てることなのだ。知識を。一切の知識を。一切の認識を捨てる必要があるのだ。真実は空相なのだから。
これを仏教では「無学」というだろう?一旦取得していた知識を、捨てて、無知になることだ。

病気で見坊したのではない。真実が無相なので、真実近ずくために一切の認識を捨てるのだ。

自己愛があってはできないな。自分が恥をかくことになるだとか、自分の家族近親が迷惑するだろう、
そんな心配をしてはならない、そんな絆は断ち切りなさいとゴータマは教えている。
そんな絆に実体がないからだ。それは悪魔の誘惑なのだ。ゴータマの論によれば当然そうなる。

チミは、感覚が死んで失せれば、感覚に縁起してるこの世界、12処とか18界は失せるのかだら、そんな死後の世界は考えるのは妄想で仏経馬鹿だというが、
それは非常に仏教を知らないもののいうことではないか?
12処だとか18界というのは、それは縁起してるだけの世界で、実体がない世界で、
それに執着するのは、無明という正法を知らないことが原因してるのだ、というの12支縁起の法門ではないか?

チミは本体は、三世降雨の実態で、それがある以上、その間違った心は永遠に、本来の自分に責め続けられるのではないのか?

715 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 15:55:35.56 ID:zc7eMIbP.net
>>696
これ有れば    かれ有り.  imasmiM sati idaM hoti
これ生じれば  .かれ生ず  imassa uppAdA idaM uppajjati
これ無ければ  かれ無し.  imasmiM asati idaM na hoti
これ滅すれば  かれ滅す  imassa nirodhA idaM nirujjhati

この所謂有名な縁起の定型文は、そのまま二智の事にもなってる
二智とは法住智と涅槃智の事
法住智とは

「これ」と言う真理を知る事
「これ」の原因(集起)と言う真理を知る事

涅槃智とは

「これ」は滅すると言う真理を知る事
「これ」を滅するには方法があると言う真理を知る事

つまり、縁起の定型文はそのまま四諦の説明にもなっている

716 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:14:23.32 ID:dm7nyHQy.net
>>714
>その空こそ実在してるのだというのだ。

空は仮設であり存在ではないので実在でも非実在でもありませんよ

717 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:26:45.88 ID:eLrf4Ibj.net
仏教馬鹿ややりやすい間違いw
「実体がない」
コレは断滅論だろw

「実体がある」が常住論。

正解は実体は分からない〜だ。
この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

718 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:33:02.69 ID:dm7nyHQy.net
>>717
>この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

自己愛性人格障害者が陥る万能感って奴だね

>コレは断滅論だろw
>「実体がある」が常住論。
>正解は実体は分からない〜だ。

それらも思考してそう考えたに過ぎないでしょ
「分からない〜」を考え付いて言ってる以上、それも間違いだよ

719 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:43:09.75 ID:dm7nyHQy.net
如実に「俺の考え」は不要
何故ならそれが我執であり離貪のターゲットに他ならないから

720 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:44:56.38 ID:eLrf4Ibj.net
分かったふりして「間違いだよ〜」(俺は真実を知っている〜と言わずとも暗ににおわす〜w)

これも仏教馬鹿が陥る常套文句w

「実体がない」
「間違いだよ」(何が真実なのかは語らず〜)

ま、語っても妄想話に過ぎないから結局おんなじことだがなw

721 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:47:38.99 ID:dm7nyHQy.net
>>720
お前は思考に頼り過ぎなんだよ
自分の意思でその思考を意図的に止めてみなよ
これは訓練しなきゃ容易に出来ない事が一度やれば分かる筈

その思考を止められた先にお前の知りたいものが転がってるから見て来い

嘘は言わないから

722 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:49:27.23 ID:eLrf4Ibj.net
俺はキチガイの仲間入りはしないww

自分の頭で考え理解し実践する。
変容意識など妄想世界に嵌ってキチガイになるのは御免こうむるww

723 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:51:24.81 ID:dm7nyHQy.net
┐(´д`)┌ヤレヤレw

724 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 16:57:07.88 ID:8dJ+iCjq.net
>>722
変性意識は結局思考を使ってるんだよ
それを嫌うお前は正しいと思うよ

わたしが言ってるのは、「俺の考え」を止めてみろ、と言っている
出来るものならやってみな?簡単じゃないから

お前は変性意識とわたしの言うのとが区別出来ないのだろうが
瞑想の形を用いて「全身麻酔」の如きの精神状態にしてみろと言ってるのさ
本当に「無」なのか、本当は「有」なのか、果たして「空」とはどう言うことか

思考を止められたら全て分かるよ
そこに意識が有ったならそれままた成功して無いって事
故に変性意識もインチキとなる

725 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:00:06.57 ID:Fs2Tk8/d.net
>>716
森羅万象の世界があって、それは縁起の世界そのものなのだ。
そして縁起の世界は、真実は縁起してる諸法は実体のないものなのだ。
そこで幻の世界と仏教で言われる。

邪幻の世界であるなら、そこに真実の世界が当然あるはずではないかと考えるだろう。
それは、無相の世界、純一な世界、があるというのだ。
幻の真相はなにもないのだから、それを空というのではないか?その幻の世界は空っぽ、なのだ、というのだ。

幻の世界で、幻の一つ一つに実体があると思うものがいて、それを獲得して貯蔵しておこうとするのだ。
それの取り合いが発生しているのだ。その世界を欲の世界、偏計処集処?というのだ。

その取り合いと言う紛争もまた「これあれば、あれあり、これなければ、あれなし」の世界なのだ。
紛争当事者においては、この縁起してる幻の存在は実体あるものなのだ。

しかし真実は幻に他ならないので、その紛争自体も幻なので、真実の世界は
何も起きていない、平安な世界なのだ。そしてこの世界が真実にある世界だというのだ。ニルバーナというのだ。

こういう二つの世界、真実の世界と幻の世界を説明するために、空という呼称を使用してるのだ。

このように自分は理解しているが、チミのいうところは良く解らない。

726 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:01:53.55 ID:eLrf4Ibj.net
思考を使う寝て見る「夢」など有り得ないw
変容意識の代表は夜に寝て見る夢だ。

思考をやめよ〜も変容意識も同じこと。
コレを区別する事自体が言葉の概念というものを知らぬ
意思の疎通ができないキチガイという。

私はこういうキチガイの範疇には入らない。

727 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:03:27.45 ID:8dJ+iCjq.net
一つ言えばだ、所謂メンヘラとかを抱えてる人は「俺の考え」を止める事を凄く嫌うし怖がる
孤独に坐って動かずに何も考えない、と言う動作をメンヘラ抱えてる人は本当に嫌悪する

そう言うわけで無理強いはしない
でも、「俺が俺が俺の考えが」と言い張るなら、確かめる為にも「俺の考え」を止めてみない事には何とも言えないだろう

728 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:09:38.49 ID:6AzNr3SO.net
>>725
>森羅万象の世界があって、それは縁起の世界そのものなのだ。

君が見ている「森羅万象」は眼耳鼻舌身意からの情報でしょ
だから仏教では夢幻泡影の如しと思えと言われるのさ
世間を外に求めれば求めるほど、君の迷いはどんどん深まるばかり
世間は君の中で起こってるんだよ
仏道の目的は苦の超克なのであり、それは世間の正体を分からねば適わない
世間の正体は自分と言う仕組みがその正体なんだよ
何故なら世間は五蘊が起こして実感してる非実在なる情報なんだからね

729 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:10:55.26 ID:eLrf4Ibj.net
「俺が」「私が」と言わずとも、この2ちゃんねるに書き込んでいる事自体が
自分の考えを表明している事に他ならない。

俺様は「俺が俺が俺の考えが」とは言っていない〜つもりなのだろうが、明らかな矛盾www

730 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:14:41.96 ID:6AzNr3SO.net
>>729
間違った道を広めようとしてる人を警告しちゃいけない決まりは無いよね
自己愛性人格障碍者は呼吸する様に嘘を垂れ流すから拙いでしょ

731 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:16:45.99 ID:eLrf4Ibj.net
自分こそ正しく、○○は自己愛性人格障碍者で嘘〜は
俺の言う仏教キチガイに付ける薬はない〜というのと変わらんわなww

同じこと。
違うというのならそれはお前がキチガイだからw

732 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:20:10.43 ID:6AzNr3SO.net
>>731
>正解は実体は分からない〜だ。
>この正解を示せる正常人、健常人は仏教スレには私以外にいないだろうw

お前の矛盾も大概だけどな
自己愛の人は兎角他人をいきなりキチガイキチガイと言いたがる

733 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:20:26.29 ID:eLrf4Ibj.net
【結論】

空を無と混同する阿呆が多いが、「実体がない」などと言ういわゆる仏教キチガイは
皆例外なく、>>711のUに該当する。

仏教スレでTに該当する人間はほとんどいない。隠居氏が該当するかも〜という程度だろう。

734 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:21:31.14 ID:6AzNr3SO.net
>>733
なあ、自己愛性人格障碍者ってキチガイなのか?

狂ってるの?狂ってないの?

735 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:24:06.18 ID:eLrf4Ibj.net
>>711のUに該当する人間は健全で正しい思考の持ち主とは言えないわなw

俺は他人を、自己愛性人格障碍者などと呼んだことは無い。
自分で言っているんだから自分で調べよ。
自分で言っている事を分からずに他人に聞く姿勢はキチガイに他ならないww

736 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:25:15.56 ID:S3uf+1kw.net
>>733
>T:分からないものは分からないとしてそのままにする。
>Ua:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとり好ましいものに違いない〜
>Ub:分からないものがあるのが許せずに妄想する。分からないものは自分にとりつまらないものに違いない〜

三通りをハッキリ結論したがってる時点でそれは見解なのであり大間違い

分からないものは言う事すら出来ないし結論も出来ない

737 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:26:46.83 ID:S3uf+1kw.net
>>735
キチガイ呼ばわりしてるじゃん?
自分だけ例外視して正しい事にするのはまさに自己愛性人格障害の人の常套句だよ

738 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 17:29:13.10 ID:efRAH4DI.net
>>735
自己愛の奴は他人を自己愛とは言えないらしいね

739 :CIAパンドラ計画:2015/11/11(水) 22:08:23.17 ID:ynJPfdbr.net
>>528
> 実体が無いと言うあなたは心を語ってますよね
語って無いよ
実態が無いという事は「語れる訳が無いだろ」と言う意味ですよ

> 心とは何ですか?
実態は無いと言っているのに
「何ですか?」と聞くのが愚かしい

> 他人の事ですか?
> 憶測の事でしょうか?
> 歴史なんですか?
>>526-527

世間なんかどうでも良いよ
クズの捏造だらけだからね

ただ「知ったかぶり」というのは↓このような事だよ
> あなたは自分の心が何だか分からないんでしょうか
> 実は分かってないのに語ろうとするそれを、世間では
> 知ったかぶり
> と言うのではないでしょうか

人の話をマイルールで勝手に決めつけて話を片付ける様な発言だ
言葉遣いだけ控えめにしても何も変わらないよ

「それをやったらお終いだ」
「だからやらないのだよ」

それをやらない前提でしか対等な会話が成り立たないのだよ
ちんちん先生

740 :神も仏も名無しさん:2015/11/11(水) 23:20:32.94 ID:wTbyuJvp.net
>>739
>語って無いよ
>実態が無いという事は「語れる訳が無いだろ」と言う意味ですよ

「語れる訳が無いだろ」と語っているそれは何ですか?
もし心など実態がないと言うなら、どうして心の活動の結果たる発言と言う行為が出来るのでしょうか

>世間なんかどうでも良いよ
>クズの捏造だらけだからね

あなたもそのクズとやらの中にいる訳です
世間を嫌悪するものにどうして世間を理解出来るでしょうか

>それをやらない前提でしか対等な会話が成り立たないのだよ

まさに人の話をマイルールで勝手に決めつけて話を片付ける様な発言ですね

741 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:00:23.04 ID:jI2pg4Qm.net
>>717
菩提樹の悟りを知らんのか。
人々の苦しみは実体無きものへの執着が原因だと仏陀は喝破してるんだよ
無常と縁起の法を知れ

742 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:07:36.35 ID:vX6ghnk8.net
MRJが初飛行に見事に成功したね。

MRJの航続距離は3800kmだが、渡り鳥は、定まった目的地に向かって、
一糸乱れずその10倍の3万kmを飛ぶ。

すべて、小さな体に宿る生命の力である。

生命を「無明」などと抜かした奴は、どこのどいつだw。

743 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:23:15.96 ID:iZjPdSbq.net
>>742
>生命を「無明」などと抜かした奴は、どこのどいつだw。

このスレじゃそう言ってるのはお前だろ
釈尊は少なくとも「生命」を無明だなどとは言ってない

いよいよ悩乱も窮まって来たのかな?

744 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 19:25:11.27 ID:O0OXZodb.net
>>742
>生命を「無明」などと抜かした奴は

歴史上、世界中に一人も居ないがなw
唯一、中村君が近い発言をしたくらいで・・。

君は、中村君の解釈を責めたいのかい?

745 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 20:46:36.94 ID:Iw5UBoUS.net
話も、縁起してるんだよ。
原因なく話すものはいないんだよ。
その典型がゴータマ様だろう?

746 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 20:51:57.80 ID:Iw5UBoUS.net
>>742
なんかずれてるような。

三万キロを飛ぶ鳥も、また、縁起の理法により、その力を得てるんではないの?
決して、その鳥の実体としての、能力なんかじゃないんだ、というべきだよ、仏教を学んだものは。

747 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 21:14:06.15 ID:vX6ghnk8.net
>>744

「無明によって生活作用があり、生活作用によって識別作用があり」。

生活作用の原因が、「生命」ではなくて、一体何があるか?

748 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 21:18:25.40 ID:JF7xpn78.net
縁起のクルクルワールドにどっぷり頭を突っ込んで「縁起してるんだよ」ってまるでギャグだよね。
それを滅するために説いたのに・・・

触れるな、離れろっていうだけなのに、縁起好きは難しいのがお好きなご様子。

749 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:02:06.86 ID:Iw5UBoUS.net
>>747
> 生活作用の原因が、「生命」ではなくて、一体何があるか?

その生命というものが、縁起してるもので、その縁起を認められないのを、無明というのだ。
生命というものが縁起現象と認められないのは、それに執着してるからであり、その執着から離れられない原因
が無明という愚鈍な根であり、その無明を明らかにするのが仏教と言う学科なのだ。

生命などというものはない!チミのいう生命は生老病死憂い、悲、愁 怖れ、苦悩なのだ。
そんな無明そのものを、”「生命」ではなくて、一体何があるか? ”などと言っているとは変すぎ。

750 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:04:59.49 ID:O0OXZodb.net
>>748

知彼知己百戦不殆


┐(´ー‘)┌

751 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:05:58.89 ID:q9ePJb3G.net
日本人がイデア論を学ぶときには絶対になんだこのいかれポンチはと思う。
日本人の認識の仕方に決定的な影響を仏教は与えている。

752 :神も仏も名無しさん:2015/11/12(木) 22:09:35.50 ID:O0OXZodb.net
>>747
相変わらず会話のできない御仁だなぁ・・w  それとも日本語が不得手なだけか・・・

「無明=生命」という発言をしている者、考え方の者がいるなら、
その名前を挙げてみてください、と言ってるのにw
私は、全世界に一人も存在しないと思いますけどね。

仮に、中村君がそうだと言うかもしれないが、
そもそもそれは「無明=生命」という文章でもなく、
(ただ、君一人が、そう読んでいるだけで)、
中村さんの意図はそうでなかったかもしれんのにw

753 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 00:35:29.41 ID:YMXBCBOl.net
>>752

中村博士が「無明により生活作用がある」と言った場合、無明は生命以外の
一体何で有りうるか、貴殿の解釈を求める。

死者に、MRZの設計・製造ができるか?死んだ渡り鳥が1mたりとも飛べるか?
そもそも、死んだ釈迦に無明が思考できるか?

754 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 01:28:58.61 ID:YMXBCBOl.net
>>753の訂正と追加
(訂正)
×MRZ
○MRJ

(追加)
死者に迷いや煩悩が生じるか?死ねば,思考器官も感覚器官も記憶器官も運動
器官も、すべて灰になるか腐敗してその機能を失うから、如何なる生活作用も
生じ得ない。

中論は、「世間の一切の慣習」に反することを、常に厳しく戒める。「世間」
とは、「この空間的な広がりの中で、生きている(共生している)人々、即ち
「世人」のことである。

755 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 03:25:23.66 ID:vUtUd2j+.net
>>754
>「世間」とは、「この空間的な広がりの中で、生きている(共生している)人々、即ち「世人」のことである。

違うよ
仏教で言う世間は一切と同義なんだよ
それは十二処十八界の事

身体の外を見たがる気持ちは解らんでもないが
それじゃいつまで経っても自己の仕組みの解明にはならない
つまり、無明の正体が解らず仕舞いって事
無明が解んなきゃ煩悩の解明も苦の遠離もまま成らないって事

756 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 03:50:35.48 ID:YMXBCBOl.net
>>755

生命論的には、煩悩も苦も、生命の危機に対する生命から発するありがたい
警告。異物として排除すべきものではない。感謝して受け入れ、対処すること
により、去る。

病気に症状がなければ、治療の機会を逸し、そのまま死に至る。生命は、「無明」
どころか、「一切知者」と呼ぶに相応しい唯一の存在。

757 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 04:12:34.45 ID:OBb1XJJa.net
NEO仏教の教え
https://youtu.be/vEjTFq0sgmY

758 ::2015/11/13(金) 08:33:45.30 ID:V+XMMAJX.net
仏教は仏教が必要な人間のためにある〜というのはまあ当たっているのかもw
圏外からどんなものか見てみようという人間は仏教に染まることなく仏教の良い部分だけを
取り込む。一般的にはこういう姿勢が望ましい。仏教キチガイになる事もなく冷静に向き合えるからなw

>>711のTの人間に仏教は必要ない。
何故なら無明が無い(無明の自覚が無いというべきか)からだよ。

>>711のUの人間にとり仏教は必要なのかもしれない。
何故なら根本から無明の人間であり、分からないものを妄想している時点で無意識に自分を騙している
罪悪感が底を支配しているからだ。

759 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 09:03:54.14 ID:lDcdOnAc.net
究極の仏教真実が不生不滅の法門として説かれてきているのに、
今になって、生命が根本だという論が起きてきてるのは、仕方ないのか?

その生命とは、自己の身体だ。自己の身体は、仏教ではその身体だけで存在してるものではなく、
四周と縁起しているものだ、というのだ。その身体がこの世界に生じる前に、この世界は存在していたのだ。
この世界があったからこそ、その身体は生じたのだ。そして、その世界そのものも縁起してる存在なのだ。
で結局この世界は、森羅万象は、諸行は、諸法は、無我無常空というのが真実だ、とゴータマは教えたんだ。
だから、誰もこの無我無常空の世界に生まれてきた。それなら、本当は生まれておらず、死ぬものでもないというのが仏教だろう?
このことを知らないのを、無明という、そしてこのことを知っているのを悟りと言うのだろ?

760 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 10:28:11.21 ID:lDcdOnAc.net
>>759続き
一切は縁起して存在している、これはどういうことか?
一切は平等と言うことなのだ。
世間では価値のあるもの価値のないものという差別は非常に重要だ。これが人の価値を決めるということにもなっている。
人間にも価値の差別が行われる。

これは先に言った、一切は平等に反する。
あるものは価値があり、それは独立して存在し、あるものは下劣なものであり、それも独立に存在する、と見做すのだ。
こうして差別が生まれる。

その差別も縁起して生じているものだが、それが固定的な基準となり、人を行為させるのだ。
聖者はそういう差別が縁起しているだけのものと見做して、争わないんだな。

761 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 10:35:17.36 ID:lDcdOnAc.net
>>756
>病気に症状がなければ、治療の機会を逸し、そのまま死に至る。生命は、「無明」
どころか、「一切知者」と呼ぶに相応しい唯一の存在。

へー、その生命は、チミをしなない人間にしてくれるのか?チミはそういってるね?
で、その生命はその治療に成功するのか?現代医学でも、医療は、対処療法に尽きると言ってんじゃないの?

762 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 12:01:20.73 ID:J4qcEUsb.net
>>761
>現代医学でも、医療は、対処療法に尽きると言ってんじゃないの?

そんなことはない。医学が目指すのは、原因療法、根治療法であって、対症療法
ではない。対症療法は、原因療法がまだ発見されるまでの例外的なもの。

すべての動物は、寿命が来れば皆死ぬ。種属としての生命の新陳代謝を行い、その
継続を図るためだ。若し、個の動物が寿命で死ななかったらどうなるか。
この地球上に機能の老化した生命があふれ、たちまち居住不可能になり、新たな
生命の誕生も不可能になる。

生命は、限りあるからこそ尊い。ダイヤモンドが無限に産出したら、その価値は
石ころ以下となる。

個の生命は、永劫の時間の中の、限りある時間の唯一度だけ。まさに奇跡で
ある。だからこそ、己の生の一瞬一瞬は、限りなく尊い。イエスのいう「永遠
の生命」とは、「地獄の別名」であることを自覚すべし。

763 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 13:50:11.74 ID:lDcdOnAc.net
>>762
まったくのありふれた、世俗の見解じゃないか。
しかも、それは個人個人にがまじめに持つ見解じゃないよ。
矛盾したことを言っているようだが、つまり、世間はチミのように考えているだろう、と
チミが妄想してるところの見解だということだ。

しかし、個人個人はそのように考えていない。

しかし、チミは創価の池田大作が持っている知見のようだが、チミは創価じゃないのか?
少なくとも、創価の影響を受けているね?

764 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 14:13:27.04 ID:V+XMMAJX.net
対処療法が何を指して言っているのか不明だがw
医療は基本的に病やケガに対して対処する行為だからねえw
対処しない未対処療法なるものが有るのか?ww 有るのなら聞かせてくれw
加持祈祷など答えそうな感じではあるがなあw

対症療法、原因療法は、簡単に言えば痛み止めが対症療法で抗生物質が原因療法だ〜w
痛いときに痛みを抑えるのは原因療法ではないにせよ有益な療法であり、対症、原因療法とも
重要であり片方だけで良いというものではない。

765 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 14:40:33.50 ID:lDcdOnAc.net
>>762
チミは以下に自分の生命論がゴータマの解き明かした理法に違背してるか、一番自分が知っているだろう?
他人は自分のことじゃないとして、いい加減にしか思わないんだよ。
ゴータマ様でさえも、自分を拒否する人に対しては、いか様にもなしえないんだから。

イエスの『永遠の生命』とは、生死から離れた命で、一切の心配のない命、

766 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:13:08.74 ID:lDcdOnAc.net
>>764
仏陀は「医王」だと自慢している。
そりゃその自説を見るならその通りだ。

仏陀の自説によると、世界の真実は、一相なもの、故に無相なもの、仏陀でないものは「無願」に徹すべきもの、
というのだ。
つまりそこ真実の世界には、病気などもともとありえないのである。

そして、そこの世界で、真実を知らないものは、色々な願を起こすのである。これがほしい、ああなってほしいなどと。
これが病気の下なのだ。願を起こすこと。だ。

快楽がほしいと願を起こすと、必然として苦痛が相対して起きるのだ。快を求めるとは苦痛を求めているのだよ。
それを理解しないものは、苦痛を受けたときは、貝を求めるのだ。しかし、求めても求めても、
苦痛が攻めてくる。快とは苦痛の別の顔なんだから。無相の世界では、あるものとは、相対して存在してるものにほかならず、
「有る」ものは「ない」ものと一緒に「有る」のだ。

だから臨終であろうと、普段であろうと、苦痛から抜け出したいときは、快を求めないと言う真実の道「無願」に徹するほかないのである。

この態度は、生命を尊重などと言っているものには、とても困難な状況となろう。

四念所四正勤に普段から修行しているなら、病魔に捕えられることはない。

こういうことを教える仏陀は「医王」だよ。対処療法をする世俗の医者ではない。

767 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:18:17.85 ID:V+XMMAJX.net
>世界の真実は、一相なもの、故に無相なもの
>つまりそこ真実の世界には、病気などもともとありえないのである。

ならばw お前は一生の間絶対に世間の医者にはかからない事だなw
世間の医者にかかりつつ、上の書き込みは救いようのない矛盾であり間違いなく地獄逝きだぞw
自覚があるのか?

768 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:34:19.04 ID:lDcdOnAc.net
任意の医療保険はすべて解約した。

769 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:37:38.22 ID:V+XMMAJX.net
保険の解約ではなく世間の医者にかからない事だ。
かかった時点で地獄逝きwww

770 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 15:47:38.15 ID:V+XMMAJX.net
こういう宗教馬鹿は気の毒ではあるが自業自得という奴だな。
大昔の虚言に騙されて自らを縛り病気になっても医者にもかかれない。
医者にかかれば地獄逝きであり、前言撤回と簡単には済まないからな。
エホバの証人の輸血拒否も同じ〜。

現代に生きつつ科学を拒否するのはまさにキチガイ。
科学を拒否とは言えエアコンの部屋でネットに接続して書き込んでいる以上
全然拒否にならんのだがなw

いわゆる口だけ人間の可能性が高く、病気になればホイホイ医者にかかる阿呆の可能性の方が高いw
真に信じていれば医者にかからずに地獄の苦しみの元死ぬだけだ。

どちらも不幸な在り様ではあるな。
仏陀はこのような不幸な在り様にならないように教えたのだ。

現代人は現代人の幸せな在り様を目指すべき。大昔の戯言に騙されるのは自灯明の実践を放棄する馬鹿としか言いようがない。

771 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 17:30:25.28 ID:lDcdOnAc.net
人間は肉体ではない、人間は心ではない、。
人間とは何か?

人間とは真実相の無相なものなのだ。
これが真実の姿としてあるので、これに反すると、必ず自分がその報いを受けるのである。

これはゴータマの是認される真理である。

人間は五臓など有しているものではない。

癌細胞などというものが身体にできる話は定説になっている。どうして身体と言うものがないのに、癌細胞などというものがあるというのか?
身体があると妄想してるものにだけ、癌ができるのだ。

人はどうして身体があると妄想するようになったのか?
身体の有用性を認めていたからだろう。そういう業を積んできたからだ。
身体の欲に服従する業を積んできたからだ。

子供を生む機械となり、子供の身体の維持に意を注ぎ、それこそ生まれてきた目的だと信じて疑わない生活を
してきたからだ。

業の報いは免れないのだ。天網恢恢疎にして漏らさず、の真理だね。

今後も、その罰は受けねばならない。それを回避するためには、その業を消さねばならない。
どうやって消すのだ?

772 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:03:08.14 ID:V+XMMAJX.net
さてw
見事、仏教に溺れ悲惨な生き様を示す典型例が現れたw

仏教などに嵌るといずれこうなるという生きた見本だなw

773 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:12:41.00 ID:4buCW8j7.net
>>759
>このことを知らないのを、無明という、そしてこのことを知っているのを悟りと言うのだろ?

「このことを知った」その時点は悟りじゃないですよ
そこすらかなり難しい故に一般論的には悟りの括りに入るのでしょうけど
厳格に言うならその時点は「見性」です
悟りになるのはもっと先になります
それは「悟らぬ悟り」なので実に地味なものです

774 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:13:56.40 ID:4buCW8j7.net
>>772
君は自我に嵌りっ放しでしょ
他人の事を悪くは言えないよ

775 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:16:36.53 ID:4buCW8j7.net
>>771
そこが解決出来ないのは不二一元論の限界なんでしょう

776 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:17:32.09 ID:V+XMMAJX.net
自我に嵌るのではなく自我に頼るのである。
自灯明とはこの事。
仏教に頼る阿呆にはいくら言っても理解できまいがw

その仏教が自灯明の教えを説いているのだがココだけ見事抜け落ちるのが仏教馬鹿のなせる業だなw

777 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:22:18.84 ID:0XpRV4sZ.net
>>776
自灯明は自洲法洲等の仏教由来の言葉
その観点を踏まえて、勝手な解釈で用いる君の考えは如何なものかと苦言を呈さざるを得ませんね

自灯明は自我に頼ることではありません
それは経典にも明白に出てますよ、何に頼って自灯明なのかとね

778 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:25:02.97 ID:V+XMMAJX.net
己を州(島)とし己を頼る事が自灯明であり、すなわち法灯明となる。
その解説の経典の説明など不要w
明快な教えなのに解説の方に重きを置いてどうするww

779 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:28:01.90 ID:0XpRV4sZ.net
>>778
あれぇ?経典から言葉を「盗」んで勝手解釈で用いるんですか?

>その解説の経典の説明など不要w

自論を崩される証拠は見たくないと言うのが我執の現れですよね
自意識でそれを嫌悪出来ないなら、ひょっとしてそう言う体質・病気をお持ちなんでしょうか?

780 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:30:14.76 ID:0XpRV4sZ.net
>>778
あそうそう、自洲法洲(自灯明法灯明)の出自の経典とその解釈の経典は同じものですよ
自洲法洲で行きなさいと教え、何を以って自洲法洲なのかと教えてるんですよ
知らないで使ってたんでしょうか

781 :神も仏も名無しさん:2015/11/13(金) 18:32:33.38 ID:V+XMMAJX.net
経典を一字一句そのまま鵜呑みにする姿勢のどこが自灯明だ?ww

経典の中から取捨選択、自分で解釈するから(参考として学者の解説を聞いても〜)自灯明だ。
無我を我執を無くせ〜と解釈するのはまあ賛成するが、普通に生きる人間はそうそう自分というものに
執着はしないものだw むしろ我執するなかれ〜という教えに固執している姿が見えてそっちの方が問題だろうww

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