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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

66 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:57:48.05 ID:ckqYSb4y.net
>>65
邪推はいけませんと。その通りだと思います。
ただ、仏典を信用するならば、「大念処経」という瞑想法が説かれた経があるように
瞑想は必要だと思うんですよ。
かなり具体的に説かれた悟りのための瞑想法だと思います。
それについては、おじゃるさんは詳しいと思います。

67 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 03:07:40.43 ID:Nfq95ex3.net
 
『瞑想で分かった〜などと言うのはとんでもない馬鹿者という事です』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し、生きていこう

68 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:20:51.01 ID:UTzKbRJZ.net
>>65
>死ねば分かる事は死んで分かれば十分であり生きている間にアレコレ邪推する事は覚める(悟る)こと
にはならず、ブッダが無記で語らなかったのも当然である。

仏陀が死を無記したというのは間違いだ。
死と言うものがないから、語らなかったのだ。
仏陀がその他のものをも無記したというのも間違いだ。

それは仏陀が、人を苦しみから解放することが自分の説教の目的であると言ったことに回答がある。
人は死を恐れる、人は病気を恐れる。人は老いを嫌悪する、その他の悩みを持ち苦しむ。
こういうことから解放するというのだから、その為の教えを完全なものとして説いているというのだから。

死はなく、病気はなく、老いはなく、一切の悩みはない、と説いているのだ。
なぜことさら、無記とする対象を仏陀は持っていたはずがあろうか。無いのだ。

仏陀は死については、死は生と相対的な概念で、生に執着することは死に執着することだ、と言っている。
生を大事にすることは死を大事にすることなのだ。だから、生きることは死との戦いになる。これは限りない苦しみなのだな。

そこで生死には実体がないとし、生死に執着してはならない。生死から離れることがニルバーナだと言っている。

69 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:40:13.35 ID:NyxLz0Ti.net
宗教は奴隷学である

70 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:02:52.97 ID:g+mcn9r2.net
瞑想なんて個人的な体験の結果は普遍的になり得ず、従ってそんなものは覚める(悟る)こととは無縁である。
ブッダが言う瞑想は単に心を落ち着ける程度の意味に他ならず、瞑想の変性意識をもって悟れなどと言っている
訳ではなかろう。

ブッダの無記は形而上の問題すべてについてが対象となる。
存在論しかり死後世界や輪廻転生しかし〜
無記についてのその他の解釈は採用しない。

71 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:22:24.75 ID:ckqYSb4y.net
>>70
大念処経の総説に
『比丘たちよ、衆生の清浄へ、愁悲の超越へ、苦憂の滅没へ、理種の証得へ、涅槃の現証へ至らしめる唯一の道、それはすなわち、四念処です。』
と書かれています。単に心を落ちつかせるための経ではないと思います。
http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c01.htm

72 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:43:23.82 ID:g+mcn9r2.net
大念処経は良いんだが、瞑想による変性意識下の独特の体験=悟りと固定して捉えるのがいただけない。
単に心落ち着けて座って大念処経を読むだけで十分でしょう。
大事な点は難しく捉えない事。一切皆苦なんてのは捨てても構わないw 楽に読み通して分かる部分だけ分かれば良い。

73 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:51:37.29 ID:ckqYSb4y.net
>>72
余計な観念を捨て、自己の体験に囚われずに、心を落ち着けて瞑想するということですね。

74 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 11:18:39.02 ID:Nfq95ex3.net
 
「(何かが)あるはずだっ!」と掴もうとしている想いを手放しする
そのために
何かを掴もうとしている想いを手放し
微粒子を知覚して
今ここに戻って、今ここに目覚める
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

75 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 12:07:01.94 ID:UTzKbRJZ.net
>>69
真実と真理の奴隷となる学問だな。

理性を持って万象を突き詰めていくと、真実に到達する。その真実から、
今度は、万象を説明していくと並行して真実の奴隷となるための教えが真理となる。

真理と真実は違う。

一般的に、方便と言う表現が盛んだが、この意味は、一般的には、嘘という意味合いで
使用されているようだが、特に日蓮教学では盛んだ、しかし、嘘と言う意味ではない。
それは真実へ至る方法と言う意味だ。それが真理なのだ。

ニルバーナに至る筏、彼岸に渡るために煩悩の激流の川の流れを渡るための筏、のことで、
真理の筏でないと、溺れてしまうのだな。

だから、真実と真理を認識し、真実と真理の奴隷とならなければ彼岸に渡れないのだな。

76 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 13:21:04.28 ID:g+mcn9r2.net
一切皆苦は仏陀の出家の動機ではあったろうが、苦行では悟れないと苦行を捨てたよね。
苦行を捨て快楽主義にも陥らず不苦不楽の中道を選んだ。
晩年はアーナンダに自灯明を説いた。

10点満点で一切皆苦(初期仏陀)を1点とするならば、中道(中期仏陀)は5点、自灯明(晩年仏陀)は10点の価値があろう。
仏陀の教えにも濃淡があるのだから一字一句全部10点で受け止めなくとも良いという意味です。>>72

77 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 13:52:39.25 ID:Nfq95ex3.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
四念処(しねんじょ)
大念処経(大念住経)
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
世間の貪欲と憂いから離れて
「心」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)心の働きである。と知覚して住むことである
世間の貪欲と憂いから離れて
「法」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)法の働きである。と知覚して住むことである
  _  _  _

それ自体の自性だけで成立しているのではなく
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
異蘊相続に依存して
色受想行識の仮和合が
仮設として(←『縁起に依存して』という意味でつ)
この現世に現れている

それ故に『実有・実体ではない』という意味でつ

仮に、現れ(滅し)ているので、それ故に『無ではない』でしょ?

78 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 20:08:25.66 ID:l5zROlrt.net
死は素晴らしい
感覚から解放されて
完全に緩むんだよ。
でも、すぐに夢を見始めてしまう・・・
オレはこれを止められる気がしない。
できることは、明晰夢状態でいる事くらいじゃないのかな。
勝手に世界は現れるのだから。
お釈迦様が言った無明は無始である。というのが終わりも始まりもないという気がしてならないんだ。

79 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 21:03:17.39 ID:UTzKbRJZ.net
道教に関尹子文始真経と言うのがある。道教の教えも、回教のコーランも、同じ源泉から出ている教えだ。
もちろん仏教と同じだということだ。

だから、仏教を補足するためにも、一回読んでみることは無駄ではない。

関尹子文真教は、説き方が大乗仏教に似ていると思う。
説き方が原始仏教と違うということだ。

80 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 22:04:10.86 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるは「脳みそ、くるくるパー」なので意味が↓わかりませんでした

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)


宇宙生成の至上の理をとらえてほしいままにしているが
ぴたりと合致することはできても言うことはできない
(宇宙を支配する原理と・個人を支配する原理が、同一であることに気づくこと。梵我一如?)

一宇篇
天の物は激しく流れる
(阿頼耶識も激流のごとく活動している。暴流の如し?)
(21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
   (204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達した)
  もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。スッタニパータ?)

人の事は錯綜している
(掴もうとしている想いに依存して現れてくる相で、存在しないにも関わらず、『有る!』と思う虚妄の執著である。遍計所執性?)

愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)

81 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 23:00:57.52 ID:Nfq95ex3.net
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)
一宇篇
愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)
  _  _  _

師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい
その教えが余すところなく伝えられたことを称して 『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』

受け継いだ?↓

http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
国土交通省  風水で見た都市のあり方

平安京のことはご存知の方も多いのですが、江戸というのも実は風水で造設されたまちなのです
関東平野にある江戸は必ずしも理想的な土地ではありませんでした
それを徳川家康や 『 天海僧正 』 が「言霊法」というものを使ってあちこちに霊力のある山の名前を与えています
また、もともと江戸のまちに流れてくる「龍脈」から吹き上げてくるよい「気」を集めて
それを循環させるために甲州街道、東海道をつくりました
それらと、富士山や秩父山系から神田明神を通る3本の「龍脈」が江戸を支えています

江戸は 『 天海僧正 』 らが将軍3代にもわたり、川の流れを変えてまで「気」が集まるように細工したので
現在でもまだその影響が残っていて、日本は東京を中心に考えられるようにできているのです

82 :神も仏も名無しさん:2015/10/08(木) 19:41:55.60 ID:4TulCA3K.net
>>80−81
関尹氏は、老子の弟子と言うことになっている。老子から道について話してもらっていて、それについての熟考を重ねているのだ。
関尹氏がこの経典を執筆するにあたっては、かなり自由な気持ちで書いている。
だから初めのころは、初心者にはさっぱり解らない、ということになる。
後半まで読んでみると、それがゴータマの教えと同じであることが、判ると思う。

大事なところは、老荘思想が、どのようなものを仏教に言う、実相ととらえているかである。
どのようなものを真実ととらえているかである。それは「一」なのだ。

83 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 00:40:05.13 ID:wvCiPHpm.net
 
関尹子文始真経  二柱篇
椀・盂・瓶・壷・甕・盎のようなものは、すべて天地を建てることができる
兆亀・数蓍・破瓦・文石は、すべて吉凶を告げることができる
これらは天地万物を成り立たせる原理を知っている
一つ一つの物はこの原理を包含している
物という物はすべてこれを包含し、どれかがどれかから借りてくるということはない
自分の精があちらの精と合し、両者の精が掴み合って神がこれに応じる

一羽の雌と一羽の雄では卵が生まれ、一匹の牝と一匹の牡では胎児が生まれる
形はあちらの精であり、理はあちらの神である
愛するのは自分の精であり、観じるのは自分の神である
愛することは水であり、観じることは火である
愛することが執着して観じることの原因になるのが木であり
観じることが存在して愛することに吸収されるのが金である

 −↓これは輪廻を前提としているけど −

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
(地水火風空識に依存して)
人が死ぬときに
我愛と戯論と善悪業に依存して、中有身が現れ(滅す)る
この中有身が次に生まれる処を求めて母胎に入り
精子と卵子が結合するとき
中有身は滅して同時に生有身が生じ
阿頼耶識がこれに結合し、種子は成長し胎児を形成し出生に至る

84 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 07:58:24.43 ID:CH+NWXs5.net
文始真教も聖人は無我であることを知っているというが、ここのところの説明が、仏教の無我と合わせて
考えてみる必要があるともう。

仏教も無我とは言うものの、仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ。
で、この仏性こそ実在する真実であるというんだ。

我々は、自分に我がないことの説明として、自分の身体、自分の感情「心」は縁起法則の所産である、故に自分には我が無い、と結論する。
これは、自分の身体、自分の心を自分と見做している人に対しては、有効だ。
しかし、自分の身体、心は縁起の所産でそれは幻にすぎないとみなしている人に対しては、どうだろうか?
「人は無我の存在だ」というと、その人は、「いや、そうではない、自分は自分で、この自分がないとすれば一切がなく、真実の存在もなく、
自分は永遠に、心の平安、つまり安息を得ることはできづ、こういう主体がないとすれば、自分以外の一切のものだけが存在することになり、
それこそ破滅に他ならない。むしろ、自分以外の一切がないこと、自分だけが存在することで、自分は平安を得ているのだ。
自分は自存者だ、。」というのではなかろうか?そしてそういうのは首肯できることではないか?

こういう人の見地が文始真教の著作者の心境ではないだろうか?彼は幻の成り立ちを説明してるのだはないだろうか?

85 ::2015/10/09(金) 10:19:26.40 ID:QATjx1mC.net
何度も繰り返し言うが、
仏教の無我は本来非我というべきもの。
つまり「我が無い」ではなく「全ての物は(例え自分の肉体であっても)我が物に非ず」という事。
コレが発展して後に我が無いという事につながるだけ。
仏教では○○が実在する〜などと言う事は言わない。ココが第一に間違い。

結論としては存在論としては無ではなく、非無、非有。有るのか無いのか分からないというもの。
人間の人生としては(存在論としてではなく)有る。こんなのは当然すぎて問題にもならない。
ところが無い無い馬鹿は何でもかでも無い〜w 有るとでも言おうものなら、「有ると掴もうとしている〜」等と
糞な批判を垂れるw 全く馬鹿につける薬は無い。 コレは無いと断言できるww

86 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:04:30.52 ID:CH+NWXs5.net
>仏教の無我は本来非我というべきもの。

非我とは「我にあらず」と言う意味だろう?
それを言う人に「それでは何がアナとの我なのか?」と聞けるんではないか?
とすれば、その非我と言った人はなんと答えるだろうか?

87 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:13:29.77 ID:Hh3INdr9.net
>>85
そうですね。
無我とは、それ自体で成立することができない。
つまり、他に依存して成り立っているに過ぎない儚きもの。
それを確固としたものとみなすことによって、さまざまな煩悩が出てくると。

88 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 14:23:45.32 ID:QATjx1mC.net
>>86
すでに>>85で言い尽くしていて疑問の出る余地はないと思うが?

「我は無い」とは最初は言われていなかった。
最初は所有についての説法だった。
我の所有するものは一切ない。
自分の子供も自分のものではないし、自分の肉体ですら自分のものではない。
これを突き詰めていって後に、では我って何なんだ?我って無いんじゃないのか?
で、無我→我がないに発展していった。

それはそれで構わないが、存在論としては無いのではなく有るのか無いのか分からない、不明であるし、
人生としては個々人にとってそれは有るというべきもの。
無い無い馬鹿は、存在論ですら無いとは言えないのに無いという阿呆である。
無いとは言わなくても「有ると掴もうとしている〜」などと批判する事自体無いと主張しているに等しい。
人の人生は有るし存在論では有無不明。これ以外の回答は却下する。

89 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:07:17.88 ID:wvCiPHpm.net
 
『あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
  有法、法体(ダルマ)を想定し
  この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)』を主張した 『 説一切有部 』

 − これに対して −

『(法体も三世も、すべて)無自性・空』を主張して説一切有部の説を批判した 『 大乗 』

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経(大乗経典)
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

>仏教も無我とは言うものの
>仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ
>で、この仏性こそ実在する真実であるという。(そして、それ故に)

『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

90 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:17:51.26 ID:wvCiPHpm.net
 
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと↓そのために?

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

91 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:42:20.96 ID:QATjx1mC.net
至道無難唯嫌選択〜

これを文字通り取って取捨選択なく生きようとしたら即死んで生きられまいw
何でもかでも厳格に一字一句全部吸収しようとする人間がいるがこういう生き方自体が間違い。
経典を読むのもしかり、仏教の格言の受け入れ方もしかり〜

至道無難唯嫌選択はおじゃるの好きな「掴もうとするな〜」という教えに近かろうw
これは掴むなではなく、掴んで構わない、選択しても大いに結構w〜それを自分で掴んでいる
選択していると認識していれば問題がない。〜という事だw
この何を選ぶか自由である〜というのが人生に他ならない。何ものも選ぶなかれ〜という不自由な
生き方を勧めているわけではないのは明らか。

問題があるのが、自分は選択をしていない掴んでいないと誤った認識下に選択、掴んでいる場合だ。
こういうのは救いようのない病気で治しようがないかもしれない。ご愁傷さまの状態だw

おじゃるよ、お前さんはこのご愁傷さまにカナリ近いぞw

92 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:33:51.27 ID:wvCiPHpm.net
 
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/08.htm
至道無難  禅語に親しむ

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ
その揀択がいけないのだ
わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう

 − これを対処するために −

(『何かが有るはずだ!』と掴もうとしている想いを手放し、そして
  余念を交えず、ただひたすら座禅する。只管打坐をして)

いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である

(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

93 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:37:07.59 ID:QATjx1mC.net
>>92
やはりなw

ネット情報や他からの解説に100%頼る、その姿勢が既に病気w
自灯明とは己で考え判断し選択する事。何を自分が選択しているか認識しろ。
他人の指図を受けるなw

94 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:53:17.95 ID:wvCiPHpm.net
 
自灯明法灯明(自分だけでもなく周囲環境だけでもない)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
正見は「四諦の智」といわれる

この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される

95 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 19:35:39.16 ID:QATjx1mC.net
付け加えて言うならw

リンクを張らずに言う練習をする事だw

リンクを張って参照を示すのは自分で考えていない証拠w
まあw 証拠とまで言わずとも楽しようとしている事には間違いなく
それが病気の進行を進める。
おじゃるよw 再起不能も近いぞw

96 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:36:45.80 ID:CH+NWXs5.net
>>93
おじゃると言う名前なのか?
適切に真理の教えとされているものを我々に開いてくれている。

般若経には、その経典を読誦するだけで、成仏の境涯に近づくという文句もある。

おじゃる氏のレスがないなら、このスレの価値は激減する。

>>89
>いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である
(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

そういうことだろう。

97 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:51:46.37 ID:QATjx1mC.net
価値の激減大いに結構ww

そんなものに「価値」が無いのだからw

98 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 22:03:24.01 ID:QATjx1mC.net
ちなみにw

この仏教関連スレには名前が付いている常連がいるw
その私の感想を述べるのも一興だろうw

パーピマン:暴力反対〜と言いながらアサルトライフルで撃ちこむキチガイw
セブン:説明が驚異的に下手糞w 比喩などは比喩になっていない〜w
閻魔:禅派で言い方がワンパターン、人間的としての良さはあるかもw
一代:知らんw 絡んだことがないからねw
おじゃる:自分の考えを持っているのかいないのか?リンクは止めれ〜w
机:閻魔氏と近いんじゃないの? 良くは分からんw
紐:極めて常識的〜w 仏陀の中道の実践者だろうwww

99 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 01:33:42.95 ID:cl4bhc2h.net
 
>おじゃると言う名前なのか?

おじゃるの場合は
小学4年の頃に
落武者の霊に
睨み憑けられてから
それを切っ掛けとして

『 隠されたもの 』 を語源とする
目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する
そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系 『 オカルティズム 』 に興味を持つようになりました

一代先生  真言宗の阿闍梨さま?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)
セブン先生 臨済宗?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

通常、仏教の場合は
『我を捨てなさい』と導いていく
(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

これに対して
紐くんの場合は
『無明の暗闇に覆われている!』とういことを知らないらしいので
『ぼくの意見こそが正しいのだ!』と勘違いしているらしい

100 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 02:09:54.98 ID:cl4bhc2h.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存し、そして

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設として(『(空という性質なので)縁起に依存して』という意味でつ)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続け、そして

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

101 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:35:21.75 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/3paauk.htm
http://web.archive.org/web/20070405093323/www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/
http://web.archive.org/web/20070108174853/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tikenmokuji.htm
http://web.archive.org/web/20060812045011/http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/tiken6.htm
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

如実知見  第六章  縁起の法

…無明とは比丘(実有・実体ではないもの)を実体と見なす錯誤であり
渇愛(タンハー)とは比丘に生まれることを渇望することであり
取は比丘としての生活に執着することである
無明、渇愛(タンハー)、取の三つによって、煩悩輪が構成される…

…無常、苦、無我の三相を足がかりにして、名・色法を観察する観禅(ヴィパサナ)を修行して…

…修行者は無明が滅すれば色法が滅することを識別することができる
そして、このとき、修行者は現象(法)の消滅、停止を認知できるようになるのである…
  _  _  _

  _  _  _

(無明が滅するまでは、)無明の暗闇に覆われて
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

102 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 03:59:34.60 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
長部経典 第9経  ポッタパーダ経(心作用の消滅)

…決して意思せず、また意思活動をしない
それら諸々の想はもちろん消滅し、別の諸々の粗い想も生起することがない
滅に触れる
このようにして、順々の正知による 『 想滅定が生起する 』 のである
  _  _  _

  _  _  _

(心作用が滅するまでは、)心作用に依存して
『(何かが)有るはずだ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない 』 でしょ?

(この現世において肉体が滅しても
  我愛と戯論と善悪業に依存して
  異蘊相続に依存して
  輪廻を繰り返して逝く)

103 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 07:38:19.43 ID:CNCyjjOc.net
>通常、仏教の場合は
>『我を捨てなさい』と導いていく
>(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

コレも一面では正しいが、全面的に取ると阿呆に陥りまさにおじゃるがソレだw

「我を捨てよ」と言っているのも我な訳でw 無我で我が無いと言うのと構造的には同じだw 
言っている我が有るのに我は無い〜w 捨てないから主張している「我は捨てよ」〜w

主張はOKだし、むしろリンクを張らないと書き込めないおじゃるが既に病気で思った通り治らないな。

104 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 08:17:31.62 ID:X7QD9Vrq.net
無我という理解こそが真実で、その真実こそ優がなのだ。仏性なのではないのか?

ここで人が論じる時は、対話として行われるのだが、その双方の立場を無視しては、大混乱になるのだ。

釈迦仏が苦しむ凡夫に話す時、凡夫が凡夫に話す時、凡夫が釈迦仏(解脱者)に話す時。解脱者同士が話す時、
この識別がないと、無我、有我、実相、空、無相、一相などの根本的概念も混乱を招くだけであろう。

待機説法と言うのはこのことだろう。

105 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:16:13.73 ID:cl4bhc2h.net
 
>我が有るのに我は無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

実有・実体ではないからこそ
それ自体の自性だけで成立しているのではないからこそ
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して

地水火風空識に依存して

五蘊の仮和合が
この現世に
仮設として(縁起に依存して)
仮に現れ
やがて、儚きものとして
肉体が滅しても
地水火風空識に還元して逝くときに

我愛と戯論と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

106 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 09:40:31.11 ID:cl4bhc2h.net
 
例えば
紐くんの場合は
経典・論書・解説書を理解することが出来ないので、それ故に

>無我(という意味も理解できないので、それ故に)混乱を招いている

対機説法(たいきせっぽう)
教え、そして導くために
その相手の精神的能力(→機根)や性質などに応じて
それにふさわしい手段で説法することをいう

四悉檀(ししつだん)
世界悉檀(人々の心に合わせて説く)
各々為人悉檀(各人の宗教的能力を考えて説く)
対治悉檀(煩悩を打ち砕く)
第一義悉檀(真理に直接導こうとする)

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
チベット ゲルク派

中観自立派の場合は
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう

 − これに対して −

中観帰謬派の場合は
(この世俗の世界は、それ自体の自性だけで成立しているのではないので、それ故に)
世俗の次元でも自相(自性)を否定します

107 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 10:35:03.39 ID:PRUe1EkX.net
>>99
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
>机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない


閻魔先生は、「仏教ではなく仏法」という言い方を好みますが、それはまず「仏教は一如の法門」を前提としているからです。
だから「一如」という観点なら、彼のレスは全くブレはない。
僕はそれが本来なのかと思いまね。

だけど「一如も何も関係ねー」ってんなら、皆好き好きに書き込みする訳だけど、そういう連中は2ちゃんでメジャーです。
むしろ閻魔先生はマイナーな方で、目立ってくる。

まあ実は僕はそれが不思議で、宗教板をたまに覗いたりするんだがね。
勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思いますよ。
ただ「一如」ということでは彼は達観しちょるようですね。

108 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 10:55:35.36 ID:cl4bhc2h.net
 
ID:PRUe1EkX

机先生↑乙です

>勝義諦とか世俗諦とか、そんな意識はあまり閻魔先生は無いと思います

何回も説明してるけど、おじゃるの場合は『脳みそが、くるくるパー』なので

認識は対象の形相を
仮設として(縁起に依存して)
仮の現れとして(仮の滅として)
『有している!』と考えてます

この認識は対象の形相を有していると考えいる『有相唯識派の立場から説明せよ!』と何回も説明してるけど

閻魔先生も
机先生も

有相唯識を勉強したことがないので
そして更に
世俗諦としての説明が欠落しているので

『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

109 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:03:02.13 ID:CNCyjjOc.net
無我で我が無いのが真ならば、無我という主張すら無いだろうw
無我という主張が「有る」以上その主張する我は有るという事になる。

幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿に陥るとまさに頭がくるくるパーになり理解できなくなるw

110 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:16:55.71 ID:cl4bhc2h.net
 
>無我で我が無い

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97

実有・実体ではないにも関わらず

『(実有・実体が)有る!』 と思う虚妄の執著である 『 遍計所執性が現れ(滅し)ている 』

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

111 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:21:13.99 ID:CNCyjjOc.net
そもそも存在論としては「有る」とは言っていないw

非有であり、無いとも言わない非無であるw

「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいるぞw

112 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:41:49.22 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『存在論としては「有る」とは言っていない
  非有であり、無いとも言わない非無である
  「有る」と思う〜と勝手に解釈するのはまさにキチガイの範疇にいる!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

113 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 11:43:31.48 ID:CNCyjjOc.net
掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだがw

114 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 11:46:08.46 ID:cl4bhc2h.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

実有・実体ではなく
仮設としての(縁起に依存して)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

『掴もうとしているのは他の誰でもない言っている本人だけなんだが!』

と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので

それ故に 『 無ではない!』 でしょ?

115 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:14:29.10 ID:PRUe1EkX.net
>>108
>『有相唯識派の立場から説明することが出来ない!』でしょ?

有相唯識も無相唯識も、それは唯識という概念における「有相」と「無相」の違いであって、
この違いについては、殆んど意味はない。つまり「自分はどう捉えるか」だけの話なのだ。

また唯識においても、それは唯識という概念を形成するだけのことであり、概念が必ずしも仏法それ自体を指示している訳ではない。
つまりそれは、概念なんてどうでも良い話なのだ。

おじゃる氏は、どうでもいいことに頭脳を集中して使う為に肝心な部分を見落としてしまうのだ。

世の中には、どうでもいいことが殆ど99%で、肝心なのは残りの1%なのだ。
勉強でもなんでもそうだけど、余計なことに全エネルギーを費やしてしまうと、それだけで疲弊だけしか残らない。
仮に仏教に関心があるのなら、「一如」ということだけで全身全霊を掛けた方が良いのでは?
これだけでも、何らかのヒントがある。

勝義諦&世俗諦は、ただ「不一不二」における属性でしかない。
       <机龍之介>

116 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:21:17.61 ID:cl4bhc2h.net
 
>>115

『世俗の立ち位置から説明せよ!』ということ

机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

117 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:34:02.45 ID:PRUe1EkX.net
>>116
>机先生も言葉が通じない先生で おじゃる

僕は2ちゃんをやり始めたのは、ウインドウズMEだから2000年頃だ。
そして暫くして閻魔氏の書き込みを読むようになって、「ああ凄いな」と関心したもんです。
僕の言いたいことを彼は明確に指摘してきた。これは一代氏との絡みなどは圧巻でしたね。

閻魔氏の書き込みは、ちゃんと文章の読める人であれば充分に伝わるんですよ。
「言葉が通じない」ということは断じて無いです。僕が保証します。

つうか、閻魔氏くらいかな?僕と話が通じたのは。
勿論、僕は彼とは絡みはしないですがね。
何故かって?あはは、僕は絡みをせんでも・・・充分に文章が伝わるからですよ。
禅ではこれを「以心伝心」とか言うんですがね。

118 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 12:42:05.75 ID:cl4bhc2h.net
 
>「言葉が通じない」ということは断じて無いです

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

119 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 12:53:05.35 ID:PRUe1EkX.net
>閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
> 机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです。
その「行き詰った」状態を閻魔氏は「ゲシュタルト崩壊」と言ったのです。

つまり行き詰ってから、それをどう解釈しようか?という心の動き、
その動きそのものを崩壊せよ。ってのが彼の主張でして、
その壁を乗り越えて・・・・涅槃到達、それですね。

だから「ゲシュタルト崩壊」において、彼が何を言いたかったのか、それを解釈できればオッケ―ですね。

120 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 13:06:30.72 ID:PRUe1EkX.net
>>119のつづき
「行き詰った」状態というのを閻魔氏は経験している訳で、
つまりそもそも「行き詰った」状態というのはどういうもんか?が分からなかったら、
そもそもゲシュタルト崩壊はない訳です。

「行き詰った」状態のことを禅では、大疑とか疑団とか言うんですけど、
この状態というのが開悟の切っ掛けとされる。

つまり「大疑のもとに大悟あり」はこのことを意味する。
    <机龍之介>

121 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 13:58:26.37 ID:cl4bhc2h.net
 
>世俗諦としての説明をしたとしても、いつかは「行き詰る」のです

『その「行き詰る」その時までは ↓ これが必要だ!』 ということ

http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html

第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は

ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう

現象的真実の中に存する根拠なしに

究極なるものの重要性は説き得ない

究極なるものの重要性を理解することなしに

解脱(涅槃)は達成され得ない

122 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 14:39:28.86 ID:PRUe1EkX.net
>>121
>第二十四章  四つの聖なる真実(四聖諦)の考察

あのですね、なにもそう真剣に考えることは無いんですよ。
そんなことは考える必要性はない。つうことですよ。

大疑ってのはですね、もっと素朴な根源的な本能的な、そして最も原初的な疑であります。
それは人間が懐古の昔に返るような・・・
ああ、「父母未生以前の本来の面目」とか言うんでしょうか、こんな根源的な疑ですよ。

ほら、子供が馬鹿馬鹿しい疑問を呈することがあるでしょ?
いや実は馬鹿馬鹿しいことではなく、最も根源的な疑であるかもしれません。

人間の知識は、そういった根源的な疑を覆い隠そうとする。
知識は人間を盲目にする。ってことではないでしょうか?

禅語には「平常心是道」があります。いちど検索掛けたら宜しいかと?

123 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 14:59:26.16 ID:cl4bhc2h.net
 
>知識は人間を盲目にする

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98

実有・実体ではないからこそ
仮設としての(縁起に依存して)

末那識は、阿頼耶識にもとづいて活動し、阿頼耶識を対象として、思考作用を本質とする
末那識には、障害のある中性的な四個の煩悩がつねに随伴する

我見(個人我についての妄信)
我痴(個人我についての迷い)
我慢(個人我についての慢心)
我愛(個人我への愛着)と呼ばれる

なかでもとくに、当人が生まれているその同じ世界や地位に属するもののみを随伴する
さらにその他に感触などを随伴する

この末那識は自我意識と呼んでもよい
つねに煩悩が随伴するので「汚れた意(マナス)」とも呼ばれる

この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

124 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:10:09.02 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page250.html
平常心是道
南泉禅師は「つかもうとすれども、つかむことができない」と答えた

それ故に
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか?
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ
「何もの」としても構成されることはないでしょう

https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
想いを手放し、生きていく  スマナサーラ

125 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 15:27:15.27 ID:PRUe1EkX.net
>>123
>この末那識と意識によって、思量があり、その意業の残滓はやはり種子として阿頼耶識に薫習される

阿頼耶識に薫習されても、薫習されなくても、人間は腹が減れば飯を食いたくなる。
つまり理屈や理論では、腹は満たされることはない。
という非常に現実的なことを、ともすれば人間は気づくことはない。

現実的とは”在ること”であって、在ることを突き詰めていくと、ついには行き詰る。
だからそれだけを考えていけば、他のことは全く問題にはならない。
ただ人間がそれが出来るかどうか、だけが問題。

しかし先達はそれをやってきた訳だし、やってきたからこそ道元の而今も言葉自体が生きてくる。
これをどう解釈するかは、個人個人は自由だろう?
自由だけども、この「而今」という言葉自体が人生の羅針盤になる人間もいる訳で、
閻魔先生とか机龍之介はこの範疇にいる。
ただそれだけのことだ。

126 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 15:58:55.42 ID:cl4bhc2h.net
 
>而今

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく、植えさせて頂く功徳が必要である

127 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 16:32:04.35 ID:PRUe1EkX.net
>>126
僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。
この熟語を最初に知ったときは、ある種感動がありましたね。
ああ、自分の探していたのはこれなんだ。と

その言葉の意味や解釈よりも、ひとつの言語なりが心の中にスゥ〜っと入ってくるもんですよ。
言葉というのは、それ程に魔力というのか魅力ってのがあるもんです。
ただそういう機会に遭遇するかどうかは別問題ですけど。

所詮ネットからの情報では、他人の言葉の借り物ですよ。
だからそういう意味において、僕はあまり感動することはない。

禅というのは、ただただ「自分と向き合う」だけです。
本当に自分と真っ正直に向き合うと、自分というのが嫌になるかもしれません。
でもそういう嫌な自分と向き合うことも大事かもしれませんですね。
そうでなければ「自分と向き合う」っていっても、それは噓になりますから。

でもそれを恐れないことも大事ですし、ただ上辺だけのことでは全てが中途半端になってしまいます。
実は自分というのは、本当は一番謎なんですよ。
こういうことを、たまには考えた方が良さげです。

128 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 17:50:39.94 ID:cl4bhc2h.net
 
今この現世に現れている

「 この肉体は自分のものである!」 と掴もうとしている想いを手放し、そして

http://www.myoshinji.or.jp/houwa/houwa_b02/20080704.html
京都花園  臨済宗大本山  妙心寺

生死一如
仏教では
(「生が有る」「死が有る」という分別を掴もうとしている想いを手放して)
「生」と「死」を別のものとして分けてとらえることはしません
二つをひっくるめて「生死(しょうじ)」といい
( ☆ 妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から客観的に観察して ☆ )
『 生死の差別を超えること 』 を説いています
つまり、生があるから死がある
生の中に死があり、死の中に生があるのです
したがって、人間は、死にたくなくても、いつかは死ななければなりません
だからこそ、命ある限り精一杯生きて、そして(精一杯)死んでいくのです

(誰もが(この現世において)成仏するわけではないので(五性各別)
  我愛と戯論と善悪業に依存して、輪廻を繰り返して逝く)

129 :123:2015/10/10(土) 18:13:24.44 ID:Jk6C3oDi.net
128.
生死一如の理解が、それでは失格である。

130 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 18:25:10.65 ID:cl4bhc2h.net
 
乙です

123くんの場合は

経典・論書・解説書を読んだことがないんでしょ?

経典・論書・解説書を読んだことがない、123くんに何で

>生死一如の理解が、それでは失格である

ということが、わかるんでつか?

ご教示願いまつか?

131 :123:2015/10/10(土) 18:35:30.24 ID:Jk6C3oDi.net
130.
経典を読んで理解する奴はバカである。
それを紹介するのはバカの上塗りである。
そこで自分が優位に居ると思うのがバカの連続である。
おじゃる君の才能をもってしても、そこが理解できないことが重要である。
おじゃる君、悟れかし。

132 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:09:42.58 ID:LTTnFq72.net
経典を読んで理解したことを自分の体験や、
いろんな現象にあてはめて考えることが大事かなと思います。

133 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:10:08.27 ID:cl4bhc2h.net
 
>経典を読んで理解する奴はバカである

世俗諦(せぞくたい)としての理解なしで

勝義諦(しょうぎたい)の立ち位置にいるのかしらん?

123くんの頭の中身は、机先生と同じ、レベルなのかしらん?

机先生!良かったでつね?

机先生と同じ、レベルの、123くんが現れ(滅し)て
  _  _  _

  _  _  _

一応、念のために説明しとくと
神通力を得るための四如意足(四神足)も
智慧とは何か?
思惟とは何か?
観察とは何か?を教学として勉強してから
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践していく
という順番、段階がありまつ

134 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:12:34.05 ID:LTTnFq72.net
山下和尚は手放した方がいいと思う。

135 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:26:54.55 ID:LTTnFq72.net
あとスマサナーラも手放した方がよい。この人は思いやりがない。
法を広く学ぶのはいいけど、正しい教え、正しい師に従うべきかなと思います。
師を選ぶ際に、注意すべきことは下記のサイト
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
師を選ぶ前に吟味する  第六句――善い師に従う ラマを吟味するポイント
ここに分かりやすく解説されています。
悪い師について教えを学ぶことの恐ろしさについても解説されています。

136 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:28:54.62 ID:cl4bhc2h.net
 
>山下和尚は手放した方がいいと思う

実践したことはないけど教学の一環として毎週↓聴いてます

http://www.onedhamma.com/
http://www.onedhamma.com/?p=5136

15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話

テーラワーダ側の立場と、大乗の立場の議論でつ
かなり面白いので、時間に余裕があるときに聴いてみてください

今の現状においては
テーラワーダ側の立場の、魚川祐司氏の説明が、わかりやすくて良いと思いまつ

(これを聴いて理解するためには、最低限以上の経典・論書・解説書の理解が必要でつ)

137 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:31:47.64 ID:LTTnFq72.net
論争する師はお呼びではないのです。

138 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 19:45:58.07 ID:cl4bhc2h.net
 
http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4796660321/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

般若心経は間違い? (宝島社新書) – 2007/8

アルボムッレ スマナサーラ (著)
今は、もう持ってないけどこれ読んだ時は面白かった
今でも中観も般若心経も理解できてないけど
この本読んでた時は
今よりもっと理解できてなかったので
それ故に、この本は面白かった

http://www.amazon.co.jp/product-reviews/4804330704/ref=cm_cr_dp_see_all_btm?ie=UTF8&showViewpoints=1&sortBy=bySubmissionDateDescending

ダライ・ラマの「中論」講義―第18・24・26章 – 2010/5

今は、この本の
「それ自体の自性によって成立しているのではない」
というところが
少しは理解できたかも?

139 :神も仏も名無しさん:2015/10/10(土) 19:53:34.14 ID:LTTnFq72.net
>>138
スマナサーラさんは以前の発言で「自殺者は腰ぬけ」とありました。
自殺した人はもうこの世にはいないんだけど
遺族はいっぱいいるわけですよね。
思いやりがなく、かつお釈迦さまもそんなことは言ってませんね。

ダライラマ法王は、素晴らしい師だと思います。
>>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です。

140 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:27:02.16 ID:VTR9QM37.net
質量ゼロといわれたニュートリノも、質量があることが明らかになった。
それは、スーパーカミオカンデの観測装置によって、人間の五感の知覚に
より確認された。これでこの宇宙には、「無」は存在しないことが証明
された。

釈迦の身体にも、太陽からのニュートリノが、毎秒10兆個通り抜けている。

釈迦の「無」は、これにて終了。

141 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 00:31:31.70 ID:Rjkqvc3y.net
質量があると掴もうとしていると難癖つける人間がいるからなあw

142 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 01:40:03.03 ID:Rjkqvc3y.net
自殺者が腰抜けというのは一面では正しい。
精神病(うつ病など)が原因で自殺する人間は多い。
それは病気なのだから可哀そうではあるが仕方のない事なのかもしれない。
そういう病人の周りの人間は大変かもしれないが自殺をしないように注意する必要がある。
腰抜け〜というのはこれから自殺しようとする人間に対する叱咤なのかもしれないな。

ダライラマは肉食で専属の料理人を常に同行させているのが俗だとは思うな。
そのような姿勢はブッダの生き方とは本質的に異なるだろう。
布施で出されたものは肉でも食って構わないという意識があるにせよ、自ら進んで肉しか食わない〜というのはねw
しかも専属の料理人ってww

143 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 04:27:04.55 ID:Rjkqvc3y.net
自殺とドラッグには全く嫌悪感があるな。

大麻やLSDで悟った〜なんてのは言語道断だな。

144 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 04:55:16.64 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2

ニュートリノが時間を感じていなければ
ミューニュートリノからタウニュートリノに変化することはないのだ

ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測されたことは
ニュートリノが光速よりも少し遅い速度で動いている証拠となる

ニュートリノが光速で動いていないということは
ほんの少しでも重さをもっているという結論になるのだ

スーパーカミオカンデでの発見後
人工的につくったニュートリノを使った実験でも
ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された

30年間破られることのなかった標準理論は、このようにして倒されていった

145 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 05:33:03.81 ID:Xw3IuKIs.net
 
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
 → ニュートリノが光速よりも遅い速度で動いている証拠となる
 → ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住(変化しないもの)であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるもの(自性・自相)と考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつ(周囲環境への影響力がある)とした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されている(死によっても失われない、業・カルマ)と考える

 − これに対して −

釈迦は
このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常(変化するもの)である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると導いた

146 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:38:18.21 ID:Rjkqvc3y.net
仮という表現自体が美しくないww
アインシュタインが宇宙定数なんてのを引っ張り出したような醜さがある。
こういう美しくないものは真実ではないんだな。

真実は単純な構造で美しいと感じさせるものだ。
仮〜なんて言っていて騙せるのは幼稚園児以下のキチガイだけだろうよw

147 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:46:12.22 ID:rZEsyOW9.net
 

>>1

無の意味を取り違えている。
無は何も無いことではない。

無とは言葉にすれば主観と客観の対立がないこと。

無念、無相、無住というが、
おもいが無いことでもカタチが無いことでも住むところが無いことでもない。

念は真如の現れ。そのおもいを脳が「自分が」と思い違いをして妄想する。
カタチは認めながらカタチにとらわれないのが無相
無住はひとの本性


 

148 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:56:16.01 ID:Rjkqvc3y.net
仏教では当たり前の事は一般的には当たり前ではないからねえw
無が何も無いという意味ではないのなら前置きで断りを書くべきだな。

こんなのは仏教では常識〜というのは一般では非常識〜かもしれんからねえw

149 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:09:52.66 ID:rZEsyOW9.net
 
>>148

経典は手段を説かない。目的を説くだけ。

 

150 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:13:02.35 ID:Rjkqvc3y.net
八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?w

151 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:19:20.92 ID:Xw3IuKIs.net
 
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
  _  _  _

 ↓ ここからは仏教的な説明として

サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である

バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住
変化しないもの
自性・自相
死によっても失われない、業(カルマ)

 − これに対して −
仏教の場合は
業(カルマ)が、死によっても失われない常住なものであるのなら
無限に続く、輪廻の運命から抜け出す(輪廻から解脱する)ことは出来ない
実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
仮設としての(縁起に依存して)
仮の現れとしての
この現世に
色受想行識の仮和合が現れ
そして、やがて、いつか儚きものとして
この現世から滅していくときに
地水火風空識に還元していく

152 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:35:21.36 ID:rZEsyOW9.net
>>150
すべて仏のまねごと
本来目的であるということ
習い事はマネから

153 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:37:02.97 ID:Xw3IuKIs.net
 
皆さま乙です
皆さま早起きでつね?
「昨日の夜から起きていた」とか?

おじゃるの場合は
内臓の働きが悪いので長い時間、熟睡することが出来ずに
目が覚めてしまうので絶不調でつ
  _  _  _

  _  _  _

>>144 >>145 >>151 の続きでつ

実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して、それ故に

>ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された

と導いていく

(『実有・実体であるのなら変化することが出来ない!』という意味でつ)

154 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:40:35.27 ID:Rjkqvc3y.net
手段だろうが目的だろうがどーでも良いがなw

要は無が無いという意味ではないのなら前置きで書いとけ〜w
それだけだww

155 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:51:44.47 ID:rZEsyOW9.net
仏に意味は無

156 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:53:04.70 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識では意味の無い事に価値は無いw

157 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:58:12.26 ID:rZEsyOW9.net
>>156
一般常識での価値は例えば具体的にどんな価値でしょう?

158 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:00:18.49 ID:Rjkqvc3y.net
一般常識の価値は様々有ろうよw
それこそ常識なんだから常識の有る人間には説明不要で通じる事w
非常識で分からないから教えて欲しいとでも言うのかね?w

159 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:01:13.99 ID:Xw3IuKIs.net
 
>八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?

菩提分法(ぼだいぶんぽう)
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに導くための道筋
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
  _  _  _

例えば
「自分には自身の自我があるのだっ!」
と掴もうとしている想いは
実有・実体ではないからこそ、それ故に
『無明から目が覚めることが出来る』という意味でつ

http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

…自分が愛を受けるに値するとも感じて、自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)

(過去への想いは、実有・実体ではないからこそ、それ故に)
過去への想いを手放し、現在を生きてください

160 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:01:31.77 ID:rZEsyOW9.net
是非教えてください

161 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:06:44.37 ID:Rjkqvc3y.net
経済的には財力
あるいは、金はなくとも健康にと言うのも有るなw
また、家庭円満〜商売繁盛〜交通安全〜って神社のお願い事全部常識的な価値だろうw
仏陀は人間の生き方を突き詰めたが、現代人も現代人なりに人間の生き方を突き詰めている人もいるだろう。

こんなものは数え上げればキリがない。ただ言えるのは意味のないものに価値は無い。

162 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:10:15.32 ID:rZEsyOW9.net
>>161
正にそれによって人は苦しんでいる。

163 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:11:46.56 ID:Rjkqvc3y.net
苦しんでいるだろうが楽しんでもいるw

片方だけ取り上げて大仰に言うのが間違いだろうw
全く隠居氏の言う通りだ。
苦あれば楽あり〜
全部苦とか全部楽なんてのは有り得ないw

164 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:14:32.63 ID:rZEsyOW9.net
>>163
世俗の楽しみこそが苦の根元

165 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:21:30.59 ID:Rjkqvc3y.net
ではその苦が無けれ良いのか否か?w

苦が無ければ楽しみすら無いだろうよw
人間から楽しみを取り除いてそれが幸せなのか?

貧困で餓死するような人間には救いの手を差し伸べ
それ以外の一般的な苦痛なんてのは有って当たり前と知るべき。

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