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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】
- 627 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:56:08.47 ID:vlaF7W64.net
- >>621
華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。
自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、
相対存在を見るとは、各々が相拠りあって存在していることを理解することであり、相手がいないと自分もないという関係
を知ることであり、そうすれば、決して各々が自存するものではないと判断することであると知ることだと決定する。
生死を観想すれば、生死はないと決定すべきことになる。
世界は相対存在なのだ、とすれば、世界は一相無相であると判断すべきなのだ。
煩悩とは、その概念は単純ではないので、判りにくいが、それも相対存在なのだとすると、
つまり四諦の法門の、苦諦と集諦の相対関係とみるなら、それは両者ともないものと判断すべきd、
そういうものであるところ、縁起関係を認め、それについての判断を経ないまま、菩提であるというのは、
教説としては乱暴すぎる、というべきだ。
二辺=両辺を見るとはその関係性を認識することだ。認識したら即両辺は消滅する。
いずれにしても問題ある熟語ですね。
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