2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

596 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:00:24.80 ID:qW7spAwW.net
>>595
煩悩がそのまま菩提な訳ではなく
生死がそのまま涅槃な訳でもない

即煩悩即菩提、即生死即涅槃

お分かりかな?

597 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:01:39.27 ID:N6yToHLA.net
>>593

中論の文言上、その「究極の真理」は「世俗」にしか存在し得ないの
だから、「意図的な端折」でも何でもない。文言通りである。

598 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:05:19.78 ID:qW7spAwW.net
>>597
「究極の真理」と言うもなど実在しない

中論ちゃんと読め

599 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:07:14.24 ID:N6yToHLA.net
「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」とした中論が、
それらから離れた真理など認めると、たちまち論理矛盾に陥る。釈迦とは異なり、
中論には、論理矛盾は「皆無」である。

600 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:10:01.65 ID:qW7spAwW.net
>>599
>中論には、論理矛盾は「皆無」である。

修行が足りないな
龍樹の失敗は見解を立てたことだろ
中論は確かに正しいが、正しいが故に正法に対しては違背している
それを知らないのは似非インテリで、ちゃんと読めてない証拠

601 ::2015/11/07(土) 18:16:32.35 ID:tlNkQZjX.net
>>599
皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、
龍樹の「我に主張なし」というのは矛盾だとは思うね。
主張しているから中論なるものが出来上がった。

他はほぼ隠居氏に同意する。
「有る」と「無い」では人間にとり「有る」がメインの命題で「無い」はサブの命題である。
これは生と死についても同様に言え、生がメインで死がサブ。

602 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:20:06.47 ID:qW7spAwW.net
>>601
お前は自分で中論読まないで他人のフンドシで相撲執ってるよな

いい身分だと思うよ

603 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:23:58.03 ID:N6yToHLA.net
>>600
>修行が足りないな

真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」
ものではないよw。

604 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:24:19.06 ID:tlNkQZjX.net
中論など素で読んでる人間なんているのかよw
ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
中村元ですらそうなんだからなww

605 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:28:52.41 ID:WvbJg2Aw.net
>>601
>皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、

それはおかしいだろう。そして皆無とは=無のことか?相対的無じゃなくて絶対的無か?

606 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:31:06.93 ID:tlNkQZjX.net
>>605
こりゃ失礼。
私の勘違いでした〜w

無いのではなく有るというべきでした。 訂正します。

607 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:40:37.48 ID:hPY979nU.net
>>603
>真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」ものではないよw。

すでにあると言うなら何故君には観えてないんだ?

観えていると言うなら、「法灯明(法洲・法島)」とはどの法を拠り所とせよと言っているのか解る筈だよな
答えてみてくれないか

608 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 18:53:33.57 ID:j4UikVpT.net
 
>修行が足りないな

おじゃるも
紐くん(ID:AMuyaKux)も
隠居先生(ID:N6yToHLA)も

止(サマタ禅定)も、観(ヴィパッサナー智慧)も、実践したことがないので

修行してないと思うけど、とりあえず↓これ

>「世俗=第一義」となる

「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大が大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗
十八界  (有為法も)無為法も含まれる

609 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:07:35.96 ID:WvbJg2Aw.net
涅槃に向かう論になっているぞ、ガンバレ!涅槃を理解したらあとは実行するのみだ。
その実行は易しい。出来立ての陶工の作った粘土細工を壊すようにやさしい。

勇気は智慧に基づくのだ。と思う。w

610 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:09:25.88 ID:hPY979nU.net
>>608
>>「世俗=第一義」となる

>「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
>「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

梵我一如はアドヴァイタの十八番で仏教ではない


>「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
>「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

我見で改変する悪意は相当なものと思量します

611 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 19:16:50.86 ID:j4UikVpT.net
 
>ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
>中村元ですらそうなんだからな

中論(ちゅうろん)
漢訳では
鳩摩羅什訳の青目(ピンガラ)という人物の注釈本が大蔵経に収録されている
サンスクリット語・チベット語の註釈書としては
作者不明の『無畏論』(アクトーバヤ)
ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論註』(ムーラマディヤマカ・ヴリッティ)
バーヴァヴィヴェーカ(清弁)の『般若灯論』(プラジュニャープラディーパ;知恵の灯火)
チャンドラキールティ(月称)の『浄明句論』(プラサンナパダー;明らかな言葉)

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは『空だ』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、『仮名の空』を以って説いた

612 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:17:28.14 ID:mBDCTMQ4.net
君は知恵を勘違いしておるのお。
雑学がある事を知恵者とは言わんのぞ

613 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 20:21:26.22 ID:N6yToHLA.net
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない」(中論25;19)。

「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
微細なる区別もない」(中論25:20)。

即ち、「世俗=第一義」という等号が成立する。ここから、大乗仏教の「煩悩
即菩提」「生死即涅槃」の教義が発生する。

釈迦の思想とは、本質的に異なる。

釈迦カルトが、中論を何とかして釈迦に近づけようとするから、すべての誤解が
生じている。

中論の帰教序に騙されているのだと思うが、帰教序の内容はすべて竜樹の思想。
中論から、「釈迦を超えた」という竜樹の並々ならぬ自信を読み取るべきである。

同じ仏教でありながら、釈迦と中論との間の巨大な相違は、世界宗教史上の
稀有の出来事といわれている。

614 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 21:05:06.50 ID:tlNkQZjX.net
確かに仏陀と龍樹は同じ仏教でありながら別物らしいね。
まあ、私はどちらも可として受け入れる。
龍樹命の隠居氏と私の違いはソコだ。

ただ私の位置づけとしては龍樹よりも仏陀だな。
大乗の一元論は理屈としては分かるが人の生き方としては多元論の原始仏教の方が良いだろう。

615 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:41:37.35 ID:N6yToHLA.net
>>614

釈迦の無、無我、一切皆苦が多元論とは、理解に苦しむ。

616 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:49:42.53 ID:tlNkQZjX.net
仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。
無我は「可能な限り無所有を目指しましょう〜」という程度のもので、又
一切皆苦は出家の動機に過ぎず、大パリニッバーナでは「○○は楽しかった〜」と
10ヶ所以上思い返して述懐しているところからも一切皆苦は一貫した認識ではなかったであろう〜。

むしろ、空の大看板のみに頼る大乗仏教の方が人の生き方として依るべきものであるのか?との疑念はある。
空を理屈としては理解してもという上での事だが。

617 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:34:40.29 ID:N6yToHLA.net
>>616
>仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。

それはそうだな。中村元博士は、「釈迦は独創性は皆無だった」と言っている。

しかし、釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と
精神性を感じる。

中論の空は、「相対性」であり、「空もまた空」と言ってるのだから、個人的
愛着は一切ない。多元における関係性という論理のみ。宗教というより、むしろ
自然科学。「宗教破壊の思想」である。

釈迦の「生き様」に感心する人がいるが、泣いて留める両親や、妻や生まれた
ばかりのわが子を捨てて家出し、好き勝手に振る舞い、多くの人々を洗脳して
他人の弟子を奪った釈迦の生き様のどこがよいのか、全く理解できない。しかも、
人を覚者と凡夫とに差別している。常に、上から目線の精神論ばかり。それらの
点で、イエスと共通点がある。

釈迦が精神病(躁うつ病)であったことは明らか。釈迦に対する個人的愛着は、
彼の精神病の感染による。

618 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:47:54.63 ID:tlNkQZjX.net
仏陀の言う法と老荘の道は同じとは言わないがカナリ近いものじゃないのかな?
そう見れば原始仏教の良い面も見えてこようw

仏陀を神として崇め奉るという仏教信者はダメだとは思うよ。
仏陀の教えのプライオリティNo.1の自灯明に照らしても仏陀自身に頼る事はダメだろうからね。
仏陀自身も教団の誰も自分を頼っていないと言っているくらいだからね。
そういう路線で行けば、
>釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と精神性を感じる。
という必要性もないのではないの?

619 :123:2015/11/08(日) 04:18:37.22 ID:o8jYYX8b.net
1.
存在=有であり、
それを否定したものが無である。
簡単明瞭である。
だからして、その両者は両立することになる。
有即無であることになる。

620 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:05:07.38 ID:JZ/GffJa.net
>>613
>「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる区別もない」(中論25;19)。

正しくは(中論25;19涅槃の考察)
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

>「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの微細なる区別もない」(中論25:20)。

正しくは(中論25:20涅槃の考察)
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

即ち、「死んだら全て終る」と称する主張者の論理がこれに因って成り立つ訳もない
つまり、「世俗=第一義」もここに成り立たないのである
煩悩即菩提とは「汚れがある故に綺麗にする事が出来る」と言う真実を言っているのであり
「汚れが即ち綺麗な事だ」と言う意味では決してない
また、生死即涅槃も同じ様に、「生き死にがある故に浄土がある」と読むのであり
「生き死にがそのまま浄土だ」と言う意味では決してない

中論頌をいくら褒め称えようとも、文字を誤解して意味を曲解して用いるならば、ただの戯論に過ぎない

戯論は涅槃にて悉く全て滅する故に、隠居の暴挙も通用しない

621 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:14:55.94 ID:JZ/GffJa.net
智者は知るべきである

生死はそれぞれ、始まりと終わりとを示唆するものなのであり
究極なる輪廻に於いて、始まりも終わりも無いのであり、如来はそれこそが涅槃だと言うのであると
愚者には涅槃が見えない故に、生死の戯論を離れた状態を夢に見ることも適わないだろう

622 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:18:41.05 ID:JZ/GffJa.net
補足

仏教・仏道には確固たる主目的があり、その目的とは「苦の遠離・離脱」である
輪廻から離脱するなどと言う邪義を構えるのは邪な教えを説く邪教の如きと言えるだろう

繰り返すが
仏道の主目的は「漏尽解脱」なのであり
決して「輪廻解脱」ではないのである

輪廻解脱を殊更に説く最近の宗教として顕著なものは「阿含宗」が言えるだろう

これなども邪教に過ぎないのである

623 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:23:21.54 ID:SgmZqH+j.net
ニルヴァーナは《在る》オンリーの実在。

心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。
喜んだり苦しむのは心。
心が望み、心が拒絶し、心が行為し、心が作り、心がその結果を見て、心が悲しみ苦しみ、喜ぶ。
心とは対局とその間の無限。収縮と拡大。比較して知る。可動、変化、自由・・・。
心は心による心のシミュレーション。
心は眠り、目覚める。

ニルヴァーナは心によって知られる。
知った釈迦はこれを伝えようとした。

624 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:26:50.64 ID:JZ/GffJa.net
>>623
では心とは身体のうちの一体どれの事かな?

625 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:33:00.07 ID:SgmZqH+j.net
>>624
心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

626 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:39:43.87 ID:XhW66CPi.net
>>625
>心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

では>>623曰くの
>心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。

に矛盾するが如何か?
その論では内面外面含め有るもの一切、現れ全ては即ち幻影であり記憶であるとなるが

627 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:56:08.47 ID:vlaF7W64.net
>>621
華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、
相対存在を見るとは、各々が相拠りあって存在していることを理解することであり、相手がいないと自分もないという関係
を知ることであり、そうすれば、決して各々が自存するものではないと判断することであると知ることだと決定する。

生死を観想すれば、生死はないと決定すべきことになる。

世界は相対存在なのだ、とすれば、世界は一相無相であると判断すべきなのだ。

煩悩とは、その概念は単純ではないので、判りにくいが、それも相対存在なのだとすると、
つまり四諦の法門の、苦諦と集諦の相対関係とみるなら、それは両者ともないものと判断すべきd、
そういうものであるところ、縁起関係を認め、それについての判断を経ないまま、菩提であるというのは、
教説としては乱暴すぎる、というべきだ。

二辺=両辺を見るとはその関係性を認識することだ。認識したら即両辺は消滅する。

いずれにしても問題ある熟語ですね。

628 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 09:06:39.44 ID:SgmZqH+j.net
>>626

ニルヴァーナに現れた全ては幻影です。記憶=幻影。
実在はあり、幻影は現われたり消えたりしている。

629 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 11:41:55.88 ID:R45dTPzh.net
死後世界をニルバーナ、涅槃というのならそれはそれで構わないが、
それがどのような世界であるか知る人間は過去にも未来にもいない。

人間は死後の事を知り得ず、ましてや輪廻などインド人の妄想に過ぎない。

健全な大人の人間は分からない事は分からないと言う。
未熟な人間は分からない事を分からないままにしておくことが我慢できずにアレコレ妄想する。

解脱だの涅槃だの志向する事自体が穢れである。平穏無事の人間の足元にも及ばない。

630 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:11:03.01 ID:XhW66CPi.net
>>627
>華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

華厳どころかマッジマニカーヤにもサンユッタニカーヤにもそれはある有名な下りだろう
あなたは縁起をどこに見ようとしているのだろうか、例えば

>自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、

と、もうこの時点で縁起を「外」に求めてしまっており、それはお説に於ける「自灯明法灯明」を逸脱していると言えよう

もう一度繰り返しになるが、あなたは縁起をどこに求めているのであろうか
一切事物を外に求めるが故にあなたは迷うのであり、それだから無明も晴れないのであろう
外の一体どこに晴らすべき無明があろうか、無明は内にあるはずであろう
おわかりだろうか?

目は縁起して見えるのであり、耳は縁起して聞こえるのであり、鼻は縁起して芳しいのであり
舌は縁起して味わえるのであり、感触は縁起して感じるのであり、意識は縁起して思われるのであろう

どうして外に気を取られるのであろうか

631 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:30:53.25 ID:SgmZqH+j.net
>縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る

この文はそのとおりです。見る=知るですね。
縁起は対象があるとき、感覚を受け取る私があるなら、それが欲し、行為し、死に生まれ苦しむ。ということの説明です。
そしてそれらを滅する方法でもあります。

見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。
これを知るなら、世界を知るでしょう。更に探求によって究極を知るでしょう。

632 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:29:03.75 ID:XhW66CPi.net
>>631
>見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。

それならば今、ここで>>631なるレスを付けた事実も存在しないと言うのだろうか?
存在しないと言うならば、一体誰・何がそのレスを付けられたのであろうか?(by紐)

633 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:42:00.19 ID:R45dTPzh.net
何だよw (by紐)ってwww

634 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:17:28.50 ID:xvRKVDaJ.net
>>632

>一体誰・何が

何か主体があるはずだ。と考えるクセが完全に定着しているのです。
行為の主体、個人がいて、その行為の結果を得て・・・・責任を背負う・・・・。という常識。
この疑問。をとりあえず棚に上げて、注意深く確認してみてはどうでしょう?
感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

635 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:27:54.90 ID:XhW66CPi.net
>>634
>感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

では、受け取っているのは他者とでも言うのだろうか?(by紐)

636 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:34:02.96 ID:R45dTPzh.net
主体は有るw
だとしたら〜というナンセンスな仮定に意味は無い。 妄想である。

637 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:36:49.94 ID:XhW66CPi.net
>>636
何故有るといえる?
「俺がそう思うから」かな?

638 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:42:37.04 ID:R45dTPzh.net
>>637
仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w
アンタが言ったとおりである。

人生に主体有り、存在論としては不明〜これ以上の正解はなかろうw

639 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:47:30.48 ID:KwZc0wNX.net
>>638
>仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w

と、こう考えるから君は有ると主張出来るのではないかな?
その考えは正しいと君は思うだろうか?

640 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:58:17.24 ID:R45dTPzh.net
人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw
正しいか正しくないかは別にしても考えるのは良い事だ。
考えすぎて誤った方へ流れるのはダメだろうがな。

641 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:01:10.32 ID:vEWYCAe6.net
>>640
>人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw

なるほど
つまり、考えなければ「無い」と言う事になるな
何故なら、考えなければ存在形態ではないのだから

642 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:06:51.97 ID:R45dTPzh.net
考えなければ考えない存在形態となるだけで、「今の」存在形態とはならないだけw

643 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:23.68 ID:k3+qEfGx.net
>>620

「生死の世界」とは、「生も死もある世界、生まれて死んでゆく世界、即ち、
世俗、現世」と解すべき。「(生が連続する)輪廻」とは異なると思う。
「生死の世界」は田川訳だが、誰か原語を挙げてくれ。

中論では、勝義は、世俗的なことから一歩も踏み出すことは許されない。

煩悩即菩提の「即(ji)」は、中国語の書面語では「即ち・・・である、それが
そのまま・・・である」の意味。「同一性」を表す。スピノザの「神即自然(God
or Nature)」の「or]と同じ。

中論では、すべての観念は相対的。「清があるから濁(汚)がある」。清濁の
区別も「空」である。

小乗と大乗とでは、解釈が全く異なることを忘れてはならない。日本の仏教は
大乗仏教である。

644 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:58.56 ID:vEWYCAe6.net
>>642
では存在形態とやらは「今」とやらに依存している訳かな?
また、その存在形態とやらは「考え」にも依存している訳かな?

645 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:19:09.57 ID:R45dTPzh.net
人間は考え科学を発展させた。
人間が考えなければ今でも裸で洞穴ででも暮らす生き物だろうよ。
目の前のPCなど人間の考えの賜物だw

その有様を存在形態というだけで、存在形態が何かに依存するなどという考え自体が妄想だ。

646 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:26:44.05 ID:vEWYCAe6.net
>>643
公開されてる資料として以下のものが最も忠実・中立に訳されていると言える
読む際は一端、訳者の解説は捨て置いて考察にあたると良いかと思われる
https://docs.google.com/viewer?url=http%3A%2F%2Fhome.att.ne.jp%2Fdelta%2Fmyrobalan%2Fpdf%2Fmulama25.pdf

一応件の部分としてはこうである

>19. 輪廻にある存在と涅槃との間には わずかな違いすら存在しない 涅槃と輪廻にある存在との間には わずかな違いすら存在しない

>20. 涅槃の終わり limitがどこまでであるにせよ それは輪廻にある存在の終わりである 両者の間にはわずかな違いも 最も微細な違いすらも存在しない

そして一つ指摘しておくが、小乗と言われる対象は仏教に存在論を混ぜてしまった故に消滅(散会)したのである
「大乗とはこうである」と言いたいだろうが、それは一つの見解なのであり、仏教全体としては見解を立てては法の破壊となるのである
智者は良く考えるべきであろう、上記故に中観派すらも、その見解故に今は無いのであると

647 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:32:40.51 ID:vEWYCAe6.net
>>645
科学の進歩は人の考えに依存しておろう?
存在形態とやらもお主の考えに依存して今主張できてるんじゃないのかな

であれば、考えねば存在形態は成り立たず、科学の進歩も成り立たない訳だ

道理に適ってる筈だがどうかな?

648 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:34:14.76 ID:R45dTPzh.net
無見解は何も説かないという事だw
しかし、饒舌に説いているのは見解に他ならないw
無見解の主張は矛盾である。
無の主張の矛盾と同じである。
無を信じているのならば黙って見るだけにするんだなw
何かを語ればその瞬間に己の主張は矛盾に陥るwww

649 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:39:54.85 ID:vEWYCAe6.net
>>648
黙って欲しいのか?
それは気分が良いか?

650 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:41:16.72 ID:R45dTPzh.net
気分が良いも悪いもないww
矛盾であると指摘しているだけだw

651 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:42:12.10 ID:xvRKVDaJ.net
>>635

受け取り手が必ずいなければならないと思い込んでいませんか?

652 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:45:38.20 ID:vEWYCAe6.net
>>648
紐よ、良く考えろ
空とは有でも無でもない、お前の大好きな大好きな「非有非無」の如しが空なんだよ
この世界に四句を外れた事物がどこに有ろうか、良く考えてみろ

四句(有・無・有無・非有非無)のどれにも掛からないものを仏教では無為と言う
紐よ、良く考えろ、無為は非有非無にすら掛かってないんだよ、故に「非有非無の如し」なんだよ
何故なら、四句はあくまでも概念に過ぎず、考えられたものにに過ぎず、それは有為だからだ

わかんないんだろうなぁ

653 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:47:56.48 ID:vEWYCAe6.net
>>651
受け取り手が無くてどうやって感受するのかな?
その書き込みはどうやって返答されてるのかな?

654 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:50:36.13 ID:R45dTPzh.net
ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜
のならばそれはその人間の在り様でありそれだけの事。

2ちゃんねるで饒舌にアレコレ書き込み、その書いている内容が「無い」だの「空」だの
いうのは阿呆だろw 私はそれを指摘しているだけなんだがなw

心底「無い」を信じている人間は2ちゃんねるに書き込みなどしないw

655 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:54:04.62 ID:vEWYCAe6.net
>>654
>ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜

それは中観派の主張だろ
わたしは中観派ではない

656 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:04:13.27 ID:yFrA4W88.net
>>646

引用がエラーになって開けないが、原語では、輪廻(samsara)という言葉を
使っているのか。「輪廻にある存在」なら、まさに「衆生」のことではないか。

岩波仏教辞典の「生死即涅槃」の解説にも、中論の言葉として、「生死は涅槃と
いかなる差別もない」となっている。

657 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:38:18.17 ID:yFrA4W88.net
>>646

「釈迦命」のあまり、大乗仏教を釈迦の思考枠内(小乗)で解釈しようとする
から、耐え難い混乱が生じているのだと思うよ。

「存在論」の基盤としての六処(五処)の発見こそ、小乗の最大の功績だと
思うのだが。

658 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 19:26:52.38 ID:vlaF7W64.net
音とは、アトムとその響きである、として、音も縁起したもので、実体のないもので拘るものではないと説くな。
だから、誰かが大声で呼びかけてきたとしても、修行者はそれに気を取られてはならないのだ。

煩悩即菩提は、言葉の概念としても、煩悩と菩提は相対するものだから、
即空であると断じていいのだ。空だと認めるということは、そこには害となるものはないということで、
その人は安楽を得るのだ。

ところでそういう解釈でいいのかな?w

659 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 20:55:31.47 ID:yFrA4W88.net
>>658

音とは、実在である空気の振動。音には、必ず、実在としての音源がある。
過大な音は、鼓膜を破り、人間の生存に直接の影響を及ぼす。聴覚で知覚
されるだけでなく、空気は風のそよぎで知覚できるし、オッシログラフを使えば、
視覚でも知覚できる。従って、音も実在である。

中論の空とは、「有るか無いか解らない幻」ではなく、すべて厳然たる実在
であるが、これが「相互依存性・関係性」という「抽象観念」によって構成
されているから、執着すべき自性はないという、もろもろの存在の構成原理を
述べただけ。誤解してはならない。中村博士は、「空は無ではない」と声を大
にして警告している。

煩悩即菩提、生死即涅槃は、大乗仏教の究極の思想。いずれも生命(仏教的
には真如)の表れだから、相等しいということ。煩悩も、究極的には「生命の
危険」に対する警告。排除すべき異物どころか、感謝して受け入れるべきもの。
煩悩に感謝し、その警告に対処することによってのみ、煩悩は止む。

生死とは、生まれてから死ぬまでの現世、即ち生存のこと。永劫の期間における
唯一度きりの己の生は、それ自体が奇跡であり、限りあるものであるからこそ
尊い。人間は、どんなに苦しくとも、実は「今ここに生きていること」自体に
最大の喜びを感じているのである。それが即ち涅槃である。

660 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 08:37:46.82 ID:eLYI+ybn.net
>煩悩即菩提、生死即涅槃は、大乗仏教の究極の思想

中論とは少しかじった程度で、いくらか聞いていいると、とても理解不可能のようだ。
チャンドラキルティから読んでみようか。

ネットでしか勉強するつもりがないので、良いサイトがあるかな?

661 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 08:39:13.81 ID:eLYI+ybn.net
中論とゴータマの教えが異なるというのは、おかしいと思わざるを得ないんだが。

662 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:04:20.48 ID:hfPCv62W.net
>>656
あなたが嘗ての誰なのかは問うまい
誰かだったとして、随分学ばれて心穏やかに成長された事を
素直にお喜びします

>「輪廻にある存在」なら、まさに「衆生」のことではないか。

これを外に求めるから混乱する訳です
あなたが衆生と指すその対象はあなたではない・あなたのものではない
そしてあなたの本体なのでもない、あなたが衆生だと指すそれは
あなたに於ける感受以外の何ものでもない
一切行苦とは一切(眼耳鼻舌身意)に意思(行)が起こる事全てが苦だと言う指摘です
あなたが衆生だと指摘したそれこそが一切なんです
それは苦なのであり、輪廻する故に苦を免れ得ない訳です

生死と涅槃とに差別や隔たりなど無いのが事実でしょう、それはまた真理でもあります
しかし、隔たりを感じるのが衆生の通常なのであり、そこを超克する手段が仏道修行となる訳です

663 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:08:23.23 ID:hfPCv62W.net
>>657
釈尊が法を説かなかったなら、大乗仏教は無かったでしょう
そんな事は無いならば、仏教を名乗るのを已めていた筈です
そして、涅槃は出世間ですから存在論に収まりません
存在論は概念ですし、涅槃という呼称も仮設の呼び名に過ぎません
事実という真理は概念に収まらないのです

664 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:11:43.73 ID:eLYI+ybn.net
中村元氏が、ゴータマは独創的なことは一つも言わなかった、と言っているというが、
ゴータマは世界の真実を発見することが目的だったから、真実の発見と、独創的は発明とは相克するものである以上
お門違いの言辞である。寧ろゴータマな独創的なお話は打破する人だったのだ。

しかし、正覚者でさえも、輪廻するんだ。それは、仏は生まれ出るものであって、滅するものであって、
ある時はかの国に、ある時はここの国に、と誕生地が異なるからだ。

665 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:14:42.48 ID:hfPCv62W.net
>>658
>音とは、アトムとその響きである、として、音も縁起したもので、実体のないもので拘るものではないと説くな。
>だから、誰かが大声で呼びかけてきたとしても、修行者はそれに気を取られてはならないのだ。

それはそう言う訓練法に過ぎません
身体を解す為に敢えて負荷を掛けて行なうストレッチみたいなものです

>ところでそういう解釈でいいのかな?w

可もなく不可もなく、理解されたのならあとは行なうだけでしょう
解釈は真理ではありません、真実は如実なのですから概念では及びません

666 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 09:16:39.78 ID:jEDYOBMU.net
>>660

その語句は、岩波仏教辞典からのそのままの引用だが、文句があれば
岩波書店に言ってくださいw。

>>661
チャンドラキールテイについては、他の中観論者とともに、「シリーズ
大乗仏教」で調査済み。彼は、宗教性(釈迦への嵌まり込み?)が特に深い
そうだ。

中村大先生によれば、西洋の仏教学者たちは、両者の相違の大きさは、
「世界宗教史上稀有の例」だと言っているそうです。

667 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 15:00:53.66 ID:Oyi5yG4s.net
>>662
>輪廻する故に苦を免れ得ない訳です

中論は、時間を否定することにより、輪廻を否定している。また、苦楽も相対
だから(苦があるからこそ、楽がある)、苦も空である。

668 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:09:53.34 ID:M0oDDhrj.net
輪廻(輪廻転生)はインド人の妄想
死後世界は不明
人生主体は有る

これ以外の回答を認めない

669 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:17:47.22 ID:DjznMih3.net
その「ある」ということの「在り方」がポイントだってのが、まだ解らないんだねぇ・・w

国、国家は「ある」のかい?無いのかい?  >>668



君はきっと、パレスチナ問題の深刻さも理解できてないんだろうな・・・ ┐(´ー‘)┌

670 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 18:21:28.53 ID:/gq1a8Fq.net
>>667
そう思う?
中論は時間と言うものが一体全体何なのかを解ってる人が論じている
それを踏まえて、名色の理を弁えた人が中論を著してるんだよ
それでも中論は時間を否定し輪廻を否定してると言えるかな?
ちゃんと読み直したほうが良いと思うよ

671 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 19:09:32.05 ID:M0oDDhrj.net
時間の理解は中論の時代よりも現代物理学の方が遥かに上だろうよ。
大昔の人の時間の理解を現代人にせよというのは誤。
単なる紹介(昔はこうだった〜という)以上の意味は無い。

672 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 19:11:43.13 ID:DjznMih3.net
>>671
昨日のNHKスペシャル見たか?w

673 :神も仏も名無しさん:2015/11/09(月) 21:45:49.38 ID:Ybs+5GMU.net
>>671
では、時間とは何かな?
これが分かるとあるものが分かる
そうすると、バックトゥーザフューチャーは不可能な話しだとも分かる

674 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 00:51:35.35 ID:/OFpm0Ph.net
>>673

物理的時間とは、単に「実在の変化」のこと。難しく考える必要はない。
昔の人は、天体の動きや水の動きで時間を測った(日時計、水時計)。
現代でも、原子の振動で測る。

太陽が昇って、沈み、また上る。これが24時間。この24時間を細分した
ものが時間。

中論は、時間を遮断することにより、もろもろの実在の構成原理を見出した
のである。動いている機械を止めなければ、その機械の構成はわからない。

心理的時間は、単なる心理現象。物理的時間とは似て非なるもの。

675 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:03:19.89 ID:eLL1afec.net
>>674
>物理的時間とは、単に「実在の変化」のこと。難しく考える必要はない。

つまり、縁起の事になるな
2500年前にそれは発見されてた訳だろ

>中論は、時間を遮断することにより、もろもろの実在の構成原理を見出した

違うな
中論に於いて言ってるのは名色(ナーマ・ルーパ)の観点から見た時間
つまり、名称(心理的観点)と形態(実態)の観点に於いて時間とは何かと観た場合
時間というのは名称に過ぎず概念に過ぎないと看做している訳で、時間を否定して居る訳では無い
人が時間と呼んでいるそれは、縁起している様をそう呼んでいるから、そもそも時間というものは存在していないと言っている
それが、己去去らず未去去らず去りつつあるものも去らないと言う事にも繋がる

もう少しちゃんと読んだ方が良いと思われる

676 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:22:04.75 ID:eLL1afec.net
中論は、仏道初心者クラスの知識レベルの事は考慮されてない難解な書と成っている
それ故に負けず嫌いなインテリ指向な連中が、知ったかぶったり論破して見せようなどと好んで読まれたりする
難しいのは当たり前で、あれは仏道のプロが仏道のプロに論難を挑んで論破する為の書だから難解なのである
あの書を簡単だ、と言う奴が居たなら逆に要注意なのである、それは何故か

龍樹尊者があれを著して対論相手にしているのは、説一切有部であり、真面目に研究と修行とを行っていた連中が
正法を間違ってしまった故に、それを正す目的で著された訳で、二十七章全てにおいて究極論戦と成っているので難しいのである
読んでも意味難解と感じる人は極めて「普通の事」なのである、恥じる必要等全く無い
中論分かっても悟れないし、中論知らなくても悟れるので、仏道に於いては知っても知らずとも何ら困らない書なのである

677 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:25:24.46 ID:eLL1afec.net
補足

中論を読んで理解出来るレベルとしては、最低限

名色とはどう言う理屈か

くらいを完璧に理解出来て無いと大抵誤読して誤解するだろう

678 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:36:06.23 ID:eLL1afec.net
もう一つ補足

中論は、悟った人が悟った人と論詰合戦している訳だから
あれを理解出来るには最低限、名色を完璧に・・・ つまりそれは傍観者も預流果ぐらいでなければ無理って事になる

679 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 01:50:44.65 ID:/OFpm0Ph.net
>>675

時間は、実在の変化であり、それを認識するのは「今ここの刹那の生命」。
中論の思想は、生命の刹那性の自覚からはじまっている。

釈迦の縁起は因果関係だから、時間を含み、対象の構造の把握は不可能
である。諸行無常の対象の一体どの時点における構成なのか、全く
解らない。

認識中の観測者が即死した場合、彼にとっての最後の世界は、一枚の
静止画である。

実在の変化は、五感で知覚できるから、概念ではない。刹那の生命の
機能としての認識(一枚の静止画)の積み重なりである。

680 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:01:01.70 ID:eLL1afec.net
>>679
>釈迦の縁起は因果関係だから、時間を含み、対象の構造の把握は不可能である。
>諸行無常の対象の一体どの時点における構成なのか、全く解らない。

諸行無常って言うのは別の言い方で「一切行無常」と言うんだよ
一切とは六触処(十二処の内側)の事で、行とは意思の事(行ないは全て意思から起きている)
それは無常(一瞬一瞬の繰り返しで恒常ではない事)だと言っている

>実在の変化は、五感で知覚できるから、概念ではない。

しかし、覚っただけでは知るには至れて居ない、故に五感にもう一つが加わって六根(眼耳鼻舌身意)と成っている
デバイス(五感感官)にはデバイスドライバー(意根)が無ければ成り立たない

>刹那の生命の機能としての認識(一枚の静止画)の積み重なりである。

そこにもし生滅を観れたなら、君は晴れて解脱だ

681 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:04:19.00 ID:/OFpm0Ph.net
>>676

中論を、何とかして釈迦の思想の枠内で解釈しようとするから、難しく
なるのだよ。

中論は、釈迦の思想とは本質的に異なる、完結した一大思想体系。

竜樹の伝記を読むと、彼は「仏教は間違っているから、俺が訂正する」
と喝破している。竜樹は頭が良いから、当時の超有名人であった釈迦の
名前を利用して、「己の思想」を説いただけ。

中論は、竜樹の「釈迦を超えた」という自負心に満ちていることを、読
み取るべし。

大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

682 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:09:55.89 ID:eLL1afec.net
>>681
龍樹尊者がそこで言っていた「当時の仏教」とは部派仏教の事
その中でも一大勢力だったのが説一切有部
世間ではその当時、それが仏教の全てだと考えられていたのさ

>大乗仏教が、原始仏教とほぼ同時に発生したことの必然性を忘れてはならない。

釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ
ただ、時節に合わせて対機説法しかしてなかったから大乗経典の様な創作的な経典になってないだけ

683 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:40.97 ID:eLL1afec.net
>>681
君はひょっとして仏道を知らない人なのかな?実際に行じていないの?
もしそうなら、龍樹尊者が中論を興した理由と、その対論者の主張も知らなくて当然かも知れないが

龍樹尊者が言わんとしていたのは、有部に対して「釈尊はそんな事おしえてねーし」って事に尽きる
何たって有部の根本思想は「三世実有法体恒有」で完璧に存在論になってしまっていたからね

きみが若し存在論大好きなら寧ろ有部を学ぶべきだと思うよ

684 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:20:46.18 ID:/OFpm0Ph.net
>>680
>故に五感にもう一つが加わって六根(眼耳鼻舌身意)

ここでの「意」は、五感からの入力を受容して処理・統合する脳の機能。
あくまで五感の一部である。現代の解剖生理学とも完全に一致する。

このことを理解していないから、仏教では、意が一人歩きしまくって
いる。これが仏教思想の混乱の原因。

脳の各部位におけるそれぞれ異なった機能(「脳機能の局所性」)を
理解する必要がある。

685 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 02:32:09.32 ID:j7sP3xDX.net
>>684
中論に反する事を言う訳だね君は

中論二十六章
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。

686 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 09:29:57.47 ID:PEGk31Pg.net
説一切有部の説く事として法の実有がある。過去現在未来において法のみは(法以外は実在するとは言わずとも)
変化せずに実在する〜。
この説一切有部の論に対して龍樹が論破を志向して書き表したのが中論であろう。龍樹が「自分には主張がない」
というのは嘘である。主張しているからその主張したものが後世に残るのであろう。
主張がなければ龍樹と言う名前すら残らなかったに違いない。
その龍樹の説く空(縁起)と仏陀の説く縁起とは別物。隠居氏の言う通りだ。↓
>>666 >中村大先生によれば、西洋の仏教学者たちは、両者の相違の大きさは、「世界宗教史上稀有の例」だと
>言っているそうです。

龍樹には↓この時空などという理解はなかったであろうよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E7%A9%BA

相対性理論によればタイムマシンは可能でバックトゥーザフューチャーも不可能ではないのかもしれないw

687 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 10:09:47.72 ID:PEGk31Pg.net
>682
>釈尊は最初から大乗仏教しか説いてないよ

そんな事を言うのはアンタだけだろうよ。
仏陀の説いたのが何か?等は分からず原始仏教とは原始仏典から想像される世界に過ぎない。
大乗仏典は全て偽経というのも仏陀が直接説いたことではなく経典作者による創作だからだろう。
説一切有部(部派仏教)と大乗仏教と原始仏教は全て異なる。

688 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 14:50:37.51 ID:c+dBjGO5.net
釈迦の一二縁起は、その始点である生命を「無明」としたことですべて
誤り。生命の軽視もはなはだしい。

無明どころか、この大宇宙を観測して存在せしめているのも、人間の生命。

中論は、「如来の本性は、それがそのまま生類の本性(即ち生命)」とし、
生命の営みである「世俗の一切の慣習」と生命を支える「物質現象」とを、
「無条件の前提」とする。見事な結論と言わざるを得ない。

そして人間は、己個人の生命が万物・万人との相互依存性・関係性によって
存在していることの自覚により、限りない精神の安定と平安及び他者の生命
への慈しみを得るのである。

689 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:26:47.83 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十六章 十二支縁起の考察(12頌)

一 無知(無明)に覆われたものは再生に導く三種の行為(業)を自ら為し、その業によって迷いの領域(趣=転回)に行く。
二 潜在的形成能力(行)を縁とする識別作用(識)は趣(転回)に入る、そして識が趣に入ったとき、心身(名色)が発生する。
三 名色が発生したとき、心作用の成立する六つの場(六入)が生ずる。六入が生じてのち感官と対象への接触(触)が生ずる。
四 眼といろ・かたちあるもの(色)と対象への注意(作意)とに縁って、すなわち名色を縁としてこのような識が生ずる。
五 色と識と眼(げん)との三者の和合なるものが、すなわち触である。またその触から感受作用(受)が生じる。
六 受に縁って盲目的衝動(愛)がある。何となれば受の対象を愛欲するが故に。愛欲するときに四種の執著(取)を取る。
七 取があるとき取の主体に対して生存が生ずる。何となれば、もしも無取であるならば、ひとは解脱し、生存は存在しないからである。
八 その生存はすなわち五つの構成要素(五蘊)である。生存から「生」が生ずる。老死、苦等、憂、悲、悩、失望――
九 ――これらは「生」から生ずる。このようにして、このたんに妄想のみなる苦しみのあつまり(苦陰)が生ずるのである。
一〇 それ故に無知なる者は、生死流転の根本であるもろもろの形成作用(諸行)を形成するのである。
それ故に無知なる者は業をつくる主体である。知者は真理を見るが故に業をつくる主体ではない。
一一 無明が滅したとき、もろもろの形成されたもの(諸行)は成立しない。しかるに無明の滅することは、
知によってかの一二因縁の修習(連続的念想)からくる。
一二 一二因縁のもろもろの項目のうちで、それぞれの前のものの滅することによって、それぞれの後のものが生じない。
このようにして、このたんなる苦蘊(苦しみの個人存在)は完全に滅する。

690 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:30:45.34 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十三章 顛倒した見解の考察(25頌)
一 貪欲と嫌悪と愚かな迷いとは思いから生ずると説かれている。何となれば、それらは浄と不浄と誤った顛倒とに縁って起こるからである。
二 浄と不浄と顛倒とに縁って起こるそれらのものは、それ自体としては存在しない。それ故にもろもろの煩悩は、本体についていえば、存在しない。
三 アートマンの(自性するものとしての)存在と非存在(無)とは、いかにしても存在しない。それが無いのに、もろもろの煩悩の存在と非存在とが、どうして成立しえようか。
四 これらの煩悩はだれか或る人に属するものとして存在している。しかしその人が成立しないのである。なにか或るもの(依りどころ)が無いならば、もろもろの煩悩はいかなる人にとっても存在しないのである。
五 自分の身体をアートマン(我)とみなす見解の場合のごとく、煩悩に汚れている人について五種にもとめてみても、もろもろの煩悩は存在しない。自分の身体をアートマンとみなす見解の場合のごとくもろもろの煩悩について五種に求めてみても、煩悩に汚れた人は存在しない。
六 浄と不浄と顛倒とは、それ自体としては存在しない。いずれの浄と不浄と顛倒とに縁ってもろもろの煩悩が起こるのであろうか。
七 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとが、貪欲と嫌悪と愚かな迷いとに対して六種の対象であると考えられている。
八 色かたちと音声と味と触れられるものと香りと思考されるものとは、それのみのものであって、実体が無く、蜃気楼のかたちをもち、陽炎や夢のようなものである。

691 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:38:39.13 ID:j7sP3xDX.net
>>688
第二十二章 如来の考察(16頌)
一 修行完成者(如来)は、個人存在の構成要素(五蘊)そのものではなく、構成要素と異なるものでもなく、如来のうちにもろもろの構成要素があるのでもな く、またそれらの構成要素のうちに如来があるのでもなく、如来がそれらの構成要素を所有しているのでもない。
ここにいかなる如来があるであろうか。
二 もしももろもろの構成要素を執著して取ってブッダが成立しているのであるならば、ブッダはそれ自身としては存在しない。それ自身として存在するのではないものが、どうして他のものとして存在するであろうか。
三 他のものであることに依存して生ずるものは、無我(アナートマン)であるということが成り立つ。無我であるものがどうして如来でありえようか。
四 もしもそれ自体で存在しないならば、どうして他のものがありえようか。それ自体と他のものを離れて、いかなる如来がありえようか。

一二 この静まった境地(寂静)について、どうして常、無常などの四句が成立するであろうか。またこの静まった境地について、どうして、有限・無限などの四句が成立するであろうか。

一三 しかるに如来は存在するというあつい執著にとらわれている人はニルヴァーナに入った如来についても「如来は存在しない」と考えて妄想する。

一四 しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。

一五 戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。

一六 如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。

※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

692 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:55:47.75 ID:c+dBjGO5.net
>>691
>※本質をもたないものに存在を定義する事は出来ない
>それを敢えて行なうのは愚かなる人の「思考」なのであり、それもまた本質を持たない

そう考えているのも、すべて生命の機能。死者には一切不可能。

「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と
いう言葉を使っていることに注意。

693 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 16:56:54.45 ID:j7sP3xDX.net
如来の本性なるものは、すなわち「この世間」の本性である
「この世間」とは何か?

如来は本質をもたない。「この世界」もまた本質をもたない
「この世界」とは何か?

愚かなる人はこれを「自己の外」に求めてしまうのである
それ故に、魂だの生命だの存在だのと戯論を重ねて矛盾から出られなくなる

世間でも世界でも、仏教がそれを指定する時は必ず「十二処・十八界」の事以外に無いのである

一切皆空とも五蘊仮和合とも言われる由縁もここにある
経に曰く、一切とは眼耳鼻舌身意と色声香味触法とであると明確である事を愚者は知らないのだろう

694 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:01:52.75 ID:j7sP3xDX.net
>>692
>すべて生命の機能。死者には一切不可能。

断滅論で邪義まっしぐら〜

>「本性」を否定している竜樹(または訳者平川氏)が、ここでは「本性」と

如来の本性は空、世間の本性も空、故に如来は本質を持たない、故に世界も本質を持たない。

読解力低いね君

695 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 17:22:55.03 ID:PEGk31Pg.net
>>693
感じる側と感じる対象とその間の感覚で
いわゆる5感+意で6×2or3で12やら18やらなるが
意は5感を統率するものだから5感で感じるもの全部が一切で構わないだろう。

仏陀の時代には素粒子や放射線や電波、電磁波など測定できなかったであろうから
これらの観測機器を通じての対象が外れているのは致し方ないにせよ所詮2500年前と現代では
物事の捉え方では比較にならず、何でも2500年前の説法を丸のみして信じ込むのは愚者というべきだろう。

賢者は2500年前の仏典から重要なポイントを選択して取り込む。

常住に非ず断滅に非ず〜w まさに非有非無〜 存在論に他ならず、こういうのは重要なポイントではない。

696 :神も仏も名無しさん:2015/11/10(火) 18:23:59.45 ID:23IFCHgN.net
「伝統仏教における縁起解釈」(『ブッダから道元へ』(東京書籍/1992)所収〔第三節 応答(二)〕p107-117)より。
 ※墨括弧は、例によって引用者が強調の為挿入。
 ※改行は、原文の一部を除き視覚的・意味的区切りを踏まえ、適宜行なった。

三 縁起は何を説くか(p113-116 全文)
 さてここで、縁起が何を説くものであるかということについて触れよう。「論考」には、
その重要なポイントとして「一因から一果のみの生起」「純粋に時間的な因果関係」を認めることが指摘されている。
【その理由は、同時的因果とか相互的因果、あるいは多因一果を認めれば
「縁起説本来の直線的な時間的構想は破壊されて、空間化、平面化され」、
「危機的な宗教的時間が解体される」というものである。
確かに、このような点を核として縁起は説かれていると思われる。しかし、これのみかどうか。】
以下に、わが国で「一般的縁起」と呼ばれている定型句(UdAna,p.1-2;SaMyuttanikAya,U,p.65)を掲げて、考えることにしたい。
   これ有れば    かれ有り.  imasmiM sati idaM hoti
   これ生じれば  .かれ生ず  imassa uppAdA idaM uppajjati
   これ無ければ  かれ無し.  imasmiM asati idaM na hoti
   これ滅すれば  かれ滅す  imassa nirodhA idaM nirujjhati
『自説経』によれば、前の二行は、釈尊成道第一週後の夜の初分における「縁起の順観」、
後の二行は、その夜の中分における「縁起の逆観」であり、『律蔵』の「大品」冒頭に「縁起の偈」として説かれたものである。
この四行が何を意味するかということは従来問題となっているところであり、今我々の関心事でもある。
特に「これ」「かれ」という紛らわしい言葉が何かということであろう。註釈(UdAna-A p.38.47)に従えば、
ここはまことに明瞭である。「これ」(imasmiM , imassa,男性)とは無明などの「縁」(paccaya,男性)を、
「かれ」(idam,中性)とは行などの「果」(phala,中性)を指す。

総レス数 944
515 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200