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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

574 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:53:38.30 ID:j4UikVpT.net
 
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 ☆ これに対して ☆

このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れであるとして

無我
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
あらゆるものを非我(我ではない)とすると
どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる

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