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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

559 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 20:36:08.29 ID:AMuyaKux.net
まあ、異常な女を見抜けないのは己の人間性の問題だろうよ。
掴もうとしている〜だの、想いを手放す〜だのの表現が「無い」を前提としているだろw
それがダメだと言っているんだがな。
ま、分からなければそれでも良いよ。
そんなことは俺とは何の関係もない事だ。
ま、好きなようにアレコレ探りまくって悶えて下さいなw

560 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:00:45.99 ID:jcHdclQn.net
 
>「無い」を前提としているだろ

おじゃる本人は

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場の中観自立派でつ

 ☆ これに対して ☆

1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察して、そして

(世俗の次元においても)認識は対象の形相を有していない無相唯識派

世俗の次元においても、自相(自性・自我)を否定する中観帰謬派

最終的には、帰謬・無相に導いて逝く

その為の、経典・論書・解説書である

ということ

561 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:02:03.43 ID:332jDabJ.net
阿含にも涅槃にも、「心の師となるとも、心を師とせざれ」と言う真理が説かれてる。
自灯明、法灯明と合わせて考えてみよう。

>>558
チミはいつも下記のことを定句としているようだが、どういう意味なんだ?
>「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」ということが現れ(滅し)ている場合もあるので
それ故に「無ではない」でしょ?

心は実体のないもんであると知って、それに拘らない、幻として逃がせ、執着してはならない、ということになるのだが、
”それゆえに無ではない”というが、実体のない心が無ではないという意味のように見える。

実相=実体が空であるからこそ、それから(縁起してるもの)解放されるのだ。
”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

562 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:04:49.39 ID:dB6Veeo6.net
何かを得るには何かを失わなければならない
では持たざるものが何かを得るには何を失うのだ
命!

563 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:11:43.27 ID:332jDabJ.net
>>562
自分を失うのだ。自我でないものを得て、自我を持ったと妄想し、その為に本当の自我=実体を失うんだ。

564 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:19:07.76 ID:dB6Veeo6.net
ある僧が尋ねた。「仏とはなんでしょうか?」
雲門「糞かきべらじゃ!」

565 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:28:33.31 ID:jcHdclQn.net
 
>”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

おじゃる本人は
認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性が現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

おじゃるの場合は
前世の記憶はないけど
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じて、現れ(滅し)ている無明薫習に依存して

仮設としての
(実有・実体ではなく、空という性質なので、それ故に、因と縁の双方の縁起に依存して現れ(滅し)ている)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

このような掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

566 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:44:48.89 ID:jcHdclQn.net
 
掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相

 ☆ これを対処するために ☆

(おじゃるは実践したことがないけど、とりあえず↓これ)
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

567 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 22:03:01.36 ID:AMuyaKux.net
>>564
臨済録のその辺は解釈が難しいところではあるんだがな。

赤肉団上に一無位の真人あり〜とアートマンの存在を肯定しているだろう。
これが第一の間違いなのだが、
後の答弁でアナタの言うように、(雲門ではなく臨済だがw) 「糞かきべらじゃ〜」と
前の間違いを打ち消しているww

故意にやったとしか思えない調和だなw これが臨済録の魅力かもしれんなww

本当に魅力的なのは臨済の師の黄檗の方なんだがな。

568 :123:2015/11/07(土) 07:58:38.92 ID:3MpDYIDQ.net
567.
真人会というのがあった。
糞かきべら会を結成するかいな。
仏は糞かきべら、ではない。
真人でもない。
それでは何か。

569 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 09:40:43.82 ID:mocXysMw.net
>>565
おじゃる

>おじゃるの場合は前世の記憶はないけど

仏教の教義に依るのなら、君の考えてる前世は間違ってるかも知れないよ
もし、生まれる前を前世と定義して居るなら、いつが生まれる前なのかな?
君がオギャァっと生まれたその時の細胞は、今の時点の君には一つも存在していない
我々は常に生滅を繰り返して五蘊仮和合にある

仏道の鉄則は先入観の完全打破にあると思われるが如何か

570 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/07(土) 09:54:57.06 ID:uRJQ+un/.net
>>554
そっかー。
そんな気がしたんだがなぁ。

571 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 11:39:59.40 ID:WvbJg2Aw.net
ゴータマさんは、仏陀となったとき、「不死の法門が開かれた」と宣言なさったのだが、
それ以来、不死の法門により、解脱した人はたくさんいるということだが、
宣言した本人は、齢80にして死路についたのだ。これを見ると、何だゴーダマさんはやっぱり死んだではないか、どこが不死の法門なのだ?と言う声が
消えまい。他の聖者となったものも生きながらえているものはいないのだ。

死んでいく様については、聖者となったものも、欲望の塊となって死んだものも、同じだ。
死に顔がいくらか異なっていたのかもしれない。しかし、どれだけ違っていたと言えるだろう。

しかし、一方は極楽浄土へ、他方は輪廻の地獄の世界へ、と教えられている。

また、この世界は幻の世界で、実体がない。極楽だけが実体のある世界だ、と説かれている。

極楽とは、一相の世界だから、どこを見ても自分しかいないんだな。なるほど、これならいいかもな。

572 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:32:35.93 ID:j4UikVpT.net
 
>五蘊仮和合

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので、それ故に

中論:27−3
「私は、この現世においての過去に(変化しないものとして)存在していた」と言うことは妥当ではない
この現世においての過去に現れ(滅し)ていたものは
(前世に現れ(滅し)ていたものは)
(空という性質に依存して、因と縁の双方の縁起に依存して、変化しているので、それ故に)
今現在の私と同一ではないからである

 ☆ これに対して ☆

おじゃるの場合は

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)に依存して

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

それ故に
誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

573 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 13:42:12.40 ID:qW7spAwW.net
>>572
中論27-3
三 「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。
何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこのわれではないからである。

今一瞬が生滅って事なんだけどね

>誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

574 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:53:38.30 ID:j4UikVpT.net
 
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 ☆ これに対して ☆

このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れであるとして

無我
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
あらゆるものを非我(我ではない)とすると
どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる

575 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:12:37.27 ID:N6yToHLA.net
>>572
>>574

そう考えているのは、すべて君や釈迦の「我(生命・肉体)」。死ねば、一切は
不可能になる。「無我」「非我」を考えようとすればするほど、その「対照」と
しての「我」を意識せざるを得ない。それはあくなき「我への執着」である。

「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ
唯一の「本和合」。

釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」。

576 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:13:21.99 ID:j4UikVpT.net
 
>お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

おじゃるは

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・という中観自立派でつ

すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在している、と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 ☆ これを対処するために ☆

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察せよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない

577 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:27:39.59 ID:j4UikVpT.net
 
隠居先生?  乙です
  _  _  _

承狂さんへ
>そういえば、隠居さん最近見ない様な気がするけどどうしたんかな?
>(^。^)ひょっとして何かやらかしたのか?(笑)

人違いかもしれないけど

>釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」

とか逝っちゃってるので、それ故に

たぶん ID:N6yToHLA氏が隠居先生?

578 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:35:11.60 ID:N6yToHLA.net
>>576

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから
空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

人類はその発生以来、五感の知覚により、有と無とを一義的に区別することに
よってのみ生存してきた。目の前から走ってくる車を、実在として避けなければ、
跳ねられて、一蹴にして即死である。このように、「有(実在)」とは、「人間の
生命の維持に直接の関係」を有するが、「無(非実在)」は、人間にとって
無関係。考えるだけ無駄なもの。

人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。
例外は「皆無」である。釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある。

579 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:53:23.97 ID:qW7spAwW.net
>>575
>死ねば、一切は不可能になる。

一切とは何か説明して見給え
君が一切を言うのに見過ごしているものがあるだろう

>「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ唯一の「本和合」。

その論では

>死ねば、一切は不可能になる。

に矛盾するだろう
何故なら、死んで和合が解けるならそれは仮と言わざるを得ないからである

>>578
>「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

空は言語を用いた仮説に過ぎないのであり、空と言うものが実在して居る訳ではない
よって「観ぜよ」で正しい、わざわざ「観じる」必要もここにある

580 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:57:13.51 ID:qW7spAwW.net
>>576
では具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

581 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:00:58.35 ID:qW7spAwW.net
>>578
>人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
>対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。

観測装置を持ち出して言うならば、人間が感知している五感は、何れの対象を以ってしてもそれは電気信号に過ぎない
君はその電気信号を、本当に対象だと信じねば・信じ込まねば日常の生活は立ち行かないであろう
仏陀はその事実を科学的にはまだまだ稚拙だった時代に解明した訳だが、君の理解を超えているのだろう

582 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:03:12.24 ID:j4UikVpT.net
 
>釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある

おじゃるは記憶力が悪いので過去のことは憶えてないけど

隠居先生は龍樹(りゅうじゅ)肯定派だったような気がするけど

なんで龍樹肯定派なのかしらん?  その理由は?

ちなみに
おじゃるの場合は有相唯識派だけど、とりあえず↓これ

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう[中論:24-9]

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない[中論:24-10]

583 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:11.89 ID:qW7spAwW.net
>>582
おじゃる
勝義諦が判らないからとへそを曲げる必要はないよ

君は音が聞こえるだろう?匂いは分かるんじゃないか?
目は見えるだろう?味だってそこそこわかるだろう?
体に蚊が止まったり、汗が流れたりすれば感じるだろう?
トイレに行きたければちゃんと行くだろ?

これらは全部勝義なんだよ
言葉で説明は出来るが言葉はそれら自体ではない
それら自体はそれら自体を直接触れねばそれら足り得ないもの
それが勝義って事で勝義諦って事
これをこうして説明しているこれが世俗諦

584 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:19:33.42 ID:j4UikVpT.net
 
>具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

おじゃるの場合は
「美人で可愛い女性とデートしたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
「旨い焼肉カルビを食べたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
  _  _  _

 ↓実践したことはないけど興味がある

ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる
クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至る
  _  _  _

 ↓実践したこともないし興味もない

余念を交えず、ただひたすら座禅する、只管打坐
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)
何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また 「 仏に成ろうと思ってもいけない 」

585 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:07:49.05 ID:N6yToHLA.net
>>581

電気信号であろうと何であろうと、「人間にとっては」、その五感で知覚できる
対象のみが「有(実在)」なのだよ。何故なら、その対象のみが、人間の生命の
維持に直接の影響を与えるから。

若し、ゴキブリが神を知覚できれば、「ゴキブリにとっては」、神は実在する。
しかし、人間にとっては実在しない。

釈迦が、「無」など言い出したのが、誤りの発端。

586 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:17:47.56 ID:N6yToHLA.net
>>579

釈迦を初め、物事を語っているのは、すべて「生きた人間」。「生きた
人間」にとっては、すべては「本和合」。「仮和合」などない。

死ねば、認識器官そのものが消滅するのだから、和合もへちまもない。

587 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:20:23.99 ID:qW7spAwW.net
>>585
釈尊が無なんてどこで主張してるかな?

588 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:22:29.16 ID:qW7spAwW.net
>>586
断滅論なんだね
なるほど

589 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:31:53.52 ID:N6yToHLA.net
>>582

「世俗的なことに基づかなくては、第一義は説示されえない」(中論24:10)。
即ち、第一義は、世俗的なことから「一歩も踏み出すことはできない」のである。
よって「世俗=第一義」となる。

即ち中論は、釈迦の「二諦説」を事実上否定しているのである。

中論が、「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」としている
のは、そのことが理由である。

590 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:37:01.18 ID:qW7spAwW.net
>>589
釈尊がいつ二諦説を唱えたのかな?
二諦に言及したのは中論そのものでしょう

嘘は良くないな嘘は

591 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:39:50.67 ID:qW7spAwW.net
>>589
因みに

>よって「世俗=第一義」となる。

これを本気で言ってるならこれは「現法涅槃論」となり、邪義ですよと

592 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:41:58.37 ID:N6yToHLA.net
>>590

文句は、竜樹に言ってくれw。

「二つの真理(二諦)に基づいて、諸仏は法を説かれる」(中論10:8)。

593 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:44:35.73 ID:qW7spAwW.net
更に補足すると中論二十四章は四諦の考察

一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

引用したのは隠居なのかなぁ
後半を意図的に端折るとか悪意を感じるなぁ

594 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:48:30.90 ID:qW7spAwW.net
>>592
中論10-8って全然違う文言ですぜ?

正しくは二十四章四諦の考察

八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
その二つの真理とは世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。

でしょ?
意図的に後半を端折っちゃダメだと思うよ

595 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:55:32.73 ID:N6yToHLA.net
>>591

「煩悩即菩提、生死即涅槃」。

596 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:00:24.80 ID:qW7spAwW.net
>>595
煩悩がそのまま菩提な訳ではなく
生死がそのまま涅槃な訳でもない

即煩悩即菩提、即生死即涅槃

お分かりかな?

597 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:01:39.27 ID:N6yToHLA.net
>>593

中論の文言上、その「究極の真理」は「世俗」にしか存在し得ないの
だから、「意図的な端折」でも何でもない。文言通りである。

598 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:05:19.78 ID:qW7spAwW.net
>>597
「究極の真理」と言うもなど実在しない

中論ちゃんと読め

599 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:07:14.24 ID:N6yToHLA.net
「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」とした中論が、
それらから離れた真理など認めると、たちまち論理矛盾に陥る。釈迦とは異なり、
中論には、論理矛盾は「皆無」である。

600 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:10:01.65 ID:qW7spAwW.net
>>599
>中論には、論理矛盾は「皆無」である。

修行が足りないな
龍樹の失敗は見解を立てたことだろ
中論は確かに正しいが、正しいが故に正法に対しては違背している
それを知らないのは似非インテリで、ちゃんと読めてない証拠

601 ::2015/11/07(土) 18:16:32.35 ID:tlNkQZjX.net
>>599
皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、
龍樹の「我に主張なし」というのは矛盾だとは思うね。
主張しているから中論なるものが出来上がった。

他はほぼ隠居氏に同意する。
「有る」と「無い」では人間にとり「有る」がメインの命題で「無い」はサブの命題である。
これは生と死についても同様に言え、生がメインで死がサブ。

602 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:20:06.47 ID:qW7spAwW.net
>>601
お前は自分で中論読まないで他人のフンドシで相撲執ってるよな

いい身分だと思うよ

603 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:23:58.03 ID:N6yToHLA.net
>>600
>修行が足りないな

真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」
ものではないよw。

604 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:24:19.06 ID:tlNkQZjX.net
中論など素で読んでる人間なんているのかよw
ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
中村元ですらそうなんだからなww

605 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:28:52.41 ID:WvbJg2Aw.net
>>601
>皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、

それはおかしいだろう。そして皆無とは=無のことか?相対的無じゃなくて絶対的無か?

606 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:31:06.93 ID:tlNkQZjX.net
>>605
こりゃ失礼。
私の勘違いでした〜w

無いのではなく有るというべきでした。 訂正します。

607 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:40:37.48 ID:hPY979nU.net
>>603
>真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」ものではないよw。

すでにあると言うなら何故君には観えてないんだ?

観えていると言うなら、「法灯明(法洲・法島)」とはどの法を拠り所とせよと言っているのか解る筈だよな
答えてみてくれないか

608 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 18:53:33.57 ID:j4UikVpT.net
 
>修行が足りないな

おじゃるも
紐くん(ID:AMuyaKux)も
隠居先生(ID:N6yToHLA)も

止(サマタ禅定)も、観(ヴィパッサナー智慧)も、実践したことがないので

修行してないと思うけど、とりあえず↓これ

>「世俗=第一義」となる

「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大が大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗
十八界  (有為法も)無為法も含まれる

609 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:07:35.96 ID:WvbJg2Aw.net
涅槃に向かう論になっているぞ、ガンバレ!涅槃を理解したらあとは実行するのみだ。
その実行は易しい。出来立ての陶工の作った粘土細工を壊すようにやさしい。

勇気は智慧に基づくのだ。と思う。w

610 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:09:25.88 ID:hPY979nU.net
>>608
>>「世俗=第一義」となる

>「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
>「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

梵我一如はアドヴァイタの十八番で仏教ではない


>「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
>「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

我見で改変する悪意は相当なものと思量します

611 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 19:16:50.86 ID:j4UikVpT.net
 
>ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
>中村元ですらそうなんだからな

中論(ちゅうろん)
漢訳では
鳩摩羅什訳の青目(ピンガラ)という人物の注釈本が大蔵経に収録されている
サンスクリット語・チベット語の註釈書としては
作者不明の『無畏論』(アクトーバヤ)
ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論註』(ムーラマディヤマカ・ヴリッティ)
バーヴァヴィヴェーカ(清弁)の『般若灯論』(プラジュニャープラディーパ;知恵の灯火)
チャンドラキールティ(月称)の『浄明句論』(プラサンナパダー;明らかな言葉)

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは『空だ』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、『仮名の空』を以って説いた

612 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:17:28.14 ID:mBDCTMQ4.net
君は知恵を勘違いしておるのお。
雑学がある事を知恵者とは言わんのぞ

613 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 20:21:26.22 ID:N6yToHLA.net
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない」(中論25;19)。

「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
微細なる区別もない」(中論25:20)。

即ち、「世俗=第一義」という等号が成立する。ここから、大乗仏教の「煩悩
即菩提」「生死即涅槃」の教義が発生する。

釈迦の思想とは、本質的に異なる。

釈迦カルトが、中論を何とかして釈迦に近づけようとするから、すべての誤解が
生じている。

中論の帰教序に騙されているのだと思うが、帰教序の内容はすべて竜樹の思想。
中論から、「釈迦を超えた」という竜樹の並々ならぬ自信を読み取るべきである。

同じ仏教でありながら、釈迦と中論との間の巨大な相違は、世界宗教史上の
稀有の出来事といわれている。

614 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 21:05:06.50 ID:tlNkQZjX.net
確かに仏陀と龍樹は同じ仏教でありながら別物らしいね。
まあ、私はどちらも可として受け入れる。
龍樹命の隠居氏と私の違いはソコだ。

ただ私の位置づけとしては龍樹よりも仏陀だな。
大乗の一元論は理屈としては分かるが人の生き方としては多元論の原始仏教の方が良いだろう。

615 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:41:37.35 ID:N6yToHLA.net
>>614

釈迦の無、無我、一切皆苦が多元論とは、理解に苦しむ。

616 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:49:42.53 ID:tlNkQZjX.net
仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。
無我は「可能な限り無所有を目指しましょう〜」という程度のもので、又
一切皆苦は出家の動機に過ぎず、大パリニッバーナでは「○○は楽しかった〜」と
10ヶ所以上思い返して述懐しているところからも一切皆苦は一貫した認識ではなかったであろう〜。

むしろ、空の大看板のみに頼る大乗仏教の方が人の生き方として依るべきものであるのか?との疑念はある。
空を理屈としては理解してもという上での事だが。

617 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:34:40.29 ID:N6yToHLA.net
>>616
>仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。

それはそうだな。中村元博士は、「釈迦は独創性は皆無だった」と言っている。

しかし、釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と
精神性を感じる。

中論の空は、「相対性」であり、「空もまた空」と言ってるのだから、個人的
愛着は一切ない。多元における関係性という論理のみ。宗教というより、むしろ
自然科学。「宗教破壊の思想」である。

釈迦の「生き様」に感心する人がいるが、泣いて留める両親や、妻や生まれた
ばかりのわが子を捨てて家出し、好き勝手に振る舞い、多くの人々を洗脳して
他人の弟子を奪った釈迦の生き様のどこがよいのか、全く理解できない。しかも、
人を覚者と凡夫とに差別している。常に、上から目線の精神論ばかり。それらの
点で、イエスと共通点がある。

釈迦が精神病(躁うつ病)であったことは明らか。釈迦に対する個人的愛着は、
彼の精神病の感染による。

618 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:47:54.63 ID:tlNkQZjX.net
仏陀の言う法と老荘の道は同じとは言わないがカナリ近いものじゃないのかな?
そう見れば原始仏教の良い面も見えてこようw

仏陀を神として崇め奉るという仏教信者はダメだとは思うよ。
仏陀の教えのプライオリティNo.1の自灯明に照らしても仏陀自身に頼る事はダメだろうからね。
仏陀自身も教団の誰も自分を頼っていないと言っているくらいだからね。
そういう路線で行けば、
>釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と精神性を感じる。
という必要性もないのではないの?

619 :123:2015/11/08(日) 04:18:37.22 ID:o8jYYX8b.net
1.
存在=有であり、
それを否定したものが無である。
簡単明瞭である。
だからして、その両者は両立することになる。
有即無であることになる。

620 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:05:07.38 ID:JZ/GffJa.net
>>613
>「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる区別もない」(中論25;19)。

正しくは(中論25;19涅槃の考察)
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

>「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの微細なる区別もない」(中論25:20)。

正しくは(中論25:20涅槃の考察)
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

即ち、「死んだら全て終る」と称する主張者の論理がこれに因って成り立つ訳もない
つまり、「世俗=第一義」もここに成り立たないのである
煩悩即菩提とは「汚れがある故に綺麗にする事が出来る」と言う真実を言っているのであり
「汚れが即ち綺麗な事だ」と言う意味では決してない
また、生死即涅槃も同じ様に、「生き死にがある故に浄土がある」と読むのであり
「生き死にがそのまま浄土だ」と言う意味では決してない

中論頌をいくら褒め称えようとも、文字を誤解して意味を曲解して用いるならば、ただの戯論に過ぎない

戯論は涅槃にて悉く全て滅する故に、隠居の暴挙も通用しない

621 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:14:55.94 ID:JZ/GffJa.net
智者は知るべきである

生死はそれぞれ、始まりと終わりとを示唆するものなのであり
究極なる輪廻に於いて、始まりも終わりも無いのであり、如来はそれこそが涅槃だと言うのであると
愚者には涅槃が見えない故に、生死の戯論を離れた状態を夢に見ることも適わないだろう

622 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:18:41.05 ID:JZ/GffJa.net
補足

仏教・仏道には確固たる主目的があり、その目的とは「苦の遠離・離脱」である
輪廻から離脱するなどと言う邪義を構えるのは邪な教えを説く邪教の如きと言えるだろう

繰り返すが
仏道の主目的は「漏尽解脱」なのであり
決して「輪廻解脱」ではないのである

輪廻解脱を殊更に説く最近の宗教として顕著なものは「阿含宗」が言えるだろう

これなども邪教に過ぎないのである

623 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:23:21.54 ID:SgmZqH+j.net
ニルヴァーナは《在る》オンリーの実在。

心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。
喜んだり苦しむのは心。
心が望み、心が拒絶し、心が行為し、心が作り、心がその結果を見て、心が悲しみ苦しみ、喜ぶ。
心とは対局とその間の無限。収縮と拡大。比較して知る。可動、変化、自由・・・。
心は心による心のシミュレーション。
心は眠り、目覚める。

ニルヴァーナは心によって知られる。
知った釈迦はこれを伝えようとした。

624 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:26:50.64 ID:JZ/GffJa.net
>>623
では心とは身体のうちの一体どれの事かな?

625 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:33:00.07 ID:SgmZqH+j.net
>>624
心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

626 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:39:43.87 ID:XhW66CPi.net
>>625
>心は内面外面含め有る物一切、現れ全て。

では>>623曰くの
>心はニルヴァーナに現れた幻影。記憶。

に矛盾するが如何か?
その論では内面外面含め有るもの一切、現れ全ては即ち幻影であり記憶であるとなるが

627 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 08:56:08.47 ID:vlaF7W64.net
>>621
華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、
相対存在を見るとは、各々が相拠りあって存在していることを理解することであり、相手がいないと自分もないという関係
を知ることであり、そうすれば、決して各々が自存するものではないと判断することであると知ることだと決定する。

生死を観想すれば、生死はないと決定すべきことになる。

世界は相対存在なのだ、とすれば、世界は一相無相であると判断すべきなのだ。

煩悩とは、その概念は単純ではないので、判りにくいが、それも相対存在なのだとすると、
つまり四諦の法門の、苦諦と集諦の相対関係とみるなら、それは両者ともないものと判断すべきd、
そういうものであるところ、縁起関係を認め、それについての判断を経ないまま、菩提であるというのは、
教説としては乱暴すぎる、というべきだ。

二辺=両辺を見るとはその関係性を認識することだ。認識したら即両辺は消滅する。

いずれにしても問題ある熟語ですね。

628 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 09:06:39.44 ID:SgmZqH+j.net
>>626

ニルヴァーナに現れた全ては幻影です。記憶=幻影。
実在はあり、幻影は現われたり消えたりしている。

629 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 11:41:55.88 ID:R45dTPzh.net
死後世界をニルバーナ、涅槃というのならそれはそれで構わないが、
それがどのような世界であるか知る人間は過去にも未来にもいない。

人間は死後の事を知り得ず、ましてや輪廻などインド人の妄想に過ぎない。

健全な大人の人間は分からない事は分からないと言う。
未熟な人間は分からない事を分からないままにしておくことが我慢できずにアレコレ妄想する。

解脱だの涅槃だの志向する事自体が穢れである。平穏無事の人間の足元にも及ばない。

630 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:11:03.01 ID:XhW66CPi.net
>>627
>華厳教には、縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る、と言う真理がある。

華厳どころかマッジマニカーヤにもサンユッタニカーヤにもそれはある有名な下りだろう
あなたは縁起をどこに見ようとしているのだろうか、例えば

>自分はずっと前から、縁起とはなんだろうと考えていたが、それは相対存在を見ることなのであり、

と、もうこの時点で縁起を「外」に求めてしまっており、それはお説に於ける「自灯明法灯明」を逸脱していると言えよう

もう一度繰り返しになるが、あなたは縁起をどこに求めているのであろうか
一切事物を外に求めるが故にあなたは迷うのであり、それだから無明も晴れないのであろう
外の一体どこに晴らすべき無明があろうか、無明は内にあるはずであろう
おわかりだろうか?

目は縁起して見えるのであり、耳は縁起して聞こえるのであり、鼻は縁起して芳しいのであり
舌は縁起して味わえるのであり、感触は縁起して感じるのであり、意識は縁起して思われるのであろう

どうして外に気を取られるのであろうか

631 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 12:30:53.25 ID:SgmZqH+j.net
>縁起を見るものは法を見、法を見るものは仏を見る

この文はそのとおりです。見る=知るですね。
縁起は対象があるとき、感覚を受け取る私があるなら、それが欲し、行為し、死に生まれ苦しむ。ということの説明です。
そしてそれらを滅する方法でもあります。

見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。
これを知るなら、世界を知るでしょう。更に探求によって究極を知るでしょう。

632 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:29:03.75 ID:XhW66CPi.net
>>631
>見る自分という受容ポイントは架空のものです。存在しません。

それならば今、ここで>>631なるレスを付けた事実も存在しないと言うのだろうか?
存在しないと言うならば、一体誰・何がそのレスを付けられたのであろうか?(by紐)

633 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 13:42:00.19 ID:R45dTPzh.net
何だよw (by紐)ってwww

634 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:17:28.50 ID:xvRKVDaJ.net
>>632

>一体誰・何が

何か主体があるはずだ。と考えるクセが完全に定着しているのです。
行為の主体、個人がいて、その行為の結果を得て・・・・責任を背負う・・・・。という常識。
この疑問。をとりあえず棚に上げて、注意深く確認してみてはどうでしょう?
感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

635 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:27:54.90 ID:XhW66CPi.net
>>634
>感覚を受け取る自分というのが存在せず、架空に作ってしまった思い込みのポイントだとしたら、その行為はどうなるのでしょうか?

では、受け取っているのは他者とでも言うのだろうか?(by紐)

636 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:34:02.96 ID:R45dTPzh.net
主体は有るw
だとしたら〜というナンセンスな仮定に意味は無い。 妄想である。

637 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:36:49.94 ID:XhW66CPi.net
>>636
何故有るといえる?
「俺がそう思うから」かな?

638 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:42:37.04 ID:R45dTPzh.net
>>637
仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w
アンタが言ったとおりである。

人生に主体有り、存在論としては不明〜これ以上の正解はなかろうw

639 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:47:30.48 ID:KwZc0wNX.net
>>638
>仮に主体が無いとすれば、発言も書き込みも無いだろうよ〜w

と、こう考えるから君は有ると主張出来るのではないかな?
その考えは正しいと君は思うだろうか?

640 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 14:58:17.24 ID:R45dTPzh.net
人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw
正しいか正しくないかは別にしても考えるのは良い事だ。
考えすぎて誤った方へ流れるのはダメだろうがな。

641 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:01:10.32 ID:vEWYCAe6.net
>>640
>人間が考えなければ今の人間の存在形態ではなかろうw

なるほど
つまり、考えなければ「無い」と言う事になるな
何故なら、考えなければ存在形態ではないのだから

642 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:06:51.97 ID:R45dTPzh.net
考えなければ考えない存在形態となるだけで、「今の」存在形態とはならないだけw

643 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:23.68 ID:k3+qEfGx.net
>>620

「生死の世界」とは、「生も死もある世界、生まれて死んでゆく世界、即ち、
世俗、現世」と解すべき。「(生が連続する)輪廻」とは異なると思う。
「生死の世界」は田川訳だが、誰か原語を挙げてくれ。

中論では、勝義は、世俗的なことから一歩も踏み出すことは許されない。

煩悩即菩提の「即(ji)」は、中国語の書面語では「即ち・・・である、それが
そのまま・・・である」の意味。「同一性」を表す。スピノザの「神即自然(God
or Nature)」の「or]と同じ。

中論では、すべての観念は相対的。「清があるから濁(汚)がある」。清濁の
区別も「空」である。

小乗と大乗とでは、解釈が全く異なることを忘れてはならない。日本の仏教は
大乗仏教である。

644 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:13:58.56 ID:vEWYCAe6.net
>>642
では存在形態とやらは「今」とやらに依存している訳かな?
また、その存在形態とやらは「考え」にも依存している訳かな?

645 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:19:09.57 ID:R45dTPzh.net
人間は考え科学を発展させた。
人間が考えなければ今でも裸で洞穴ででも暮らす生き物だろうよ。
目の前のPCなど人間の考えの賜物だw

その有様を存在形態というだけで、存在形態が何かに依存するなどという考え自体が妄想だ。

646 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:26:44.05 ID:vEWYCAe6.net
>>643
公開されてる資料として以下のものが最も忠実・中立に訳されていると言える
読む際は一端、訳者の解説は捨て置いて考察にあたると良いかと思われる
https://docs.google.com/viewer?url=http%3A%2F%2Fhome.att.ne.jp%2Fdelta%2Fmyrobalan%2Fpdf%2Fmulama25.pdf

一応件の部分としてはこうである

>19. 輪廻にある存在と涅槃との間には わずかな違いすら存在しない 涅槃と輪廻にある存在との間には わずかな違いすら存在しない

>20. 涅槃の終わり limitがどこまでであるにせよ それは輪廻にある存在の終わりである 両者の間にはわずかな違いも 最も微細な違いすらも存在しない

そして一つ指摘しておくが、小乗と言われる対象は仏教に存在論を混ぜてしまった故に消滅(散会)したのである
「大乗とはこうである」と言いたいだろうが、それは一つの見解なのであり、仏教全体としては見解を立てては法の破壊となるのである
智者は良く考えるべきであろう、上記故に中観派すらも、その見解故に今は無いのであると

647 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:32:40.51 ID:vEWYCAe6.net
>>645
科学の進歩は人の考えに依存しておろう?
存在形態とやらもお主の考えに依存して今主張できてるんじゃないのかな

であれば、考えねば存在形態は成り立たず、科学の進歩も成り立たない訳だ

道理に適ってる筈だがどうかな?

648 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:34:14.76 ID:R45dTPzh.net
無見解は何も説かないという事だw
しかし、饒舌に説いているのは見解に他ならないw
無見解の主張は矛盾である。
無の主張の矛盾と同じである。
無を信じているのならば黙って見るだけにするんだなw
何かを語ればその瞬間に己の主張は矛盾に陥るwww

649 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:39:54.85 ID:vEWYCAe6.net
>>648
黙って欲しいのか?
それは気分が良いか?

650 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:41:16.72 ID:R45dTPzh.net
気分が良いも悪いもないww
矛盾であると指摘しているだけだw

651 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:42:12.10 ID:xvRKVDaJ.net
>>635

受け取り手が必ずいなければならないと思い込んでいませんか?

652 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:45:38.20 ID:vEWYCAe6.net
>>648
紐よ、良く考えろ
空とは有でも無でもない、お前の大好きな大好きな「非有非無」の如しが空なんだよ
この世界に四句を外れた事物がどこに有ろうか、良く考えてみろ

四句(有・無・有無・非有非無)のどれにも掛からないものを仏教では無為と言う
紐よ、良く考えろ、無為は非有非無にすら掛かってないんだよ、故に「非有非無の如し」なんだよ
何故なら、四句はあくまでも概念に過ぎず、考えられたものにに過ぎず、それは有為だからだ

わかんないんだろうなぁ

653 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:47:56.48 ID:vEWYCAe6.net
>>651
受け取り手が無くてどうやって感受するのかな?
その書き込みはどうやって返答されてるのかな?

654 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:50:36.13 ID:R45dTPzh.net
ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜
のならばそれはその人間の在り様でありそれだけの事。

2ちゃんねるで饒舌にアレコレ書き込み、その書いている内容が「無い」だの「空」だの
いうのは阿呆だろw 私はそれを指摘しているだけなんだがなw

心底「無い」を信じている人間は2ちゃんねるに書き込みなどしないw

655 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 15:54:04.62 ID:vEWYCAe6.net
>>654
>ありのままをありのままに感受して何ら発言をしない〜

それは中観派の主張だろ
わたしは中観派ではない

656 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:04:13.27 ID:yFrA4W88.net
>>646

引用がエラーになって開けないが、原語では、輪廻(samsara)という言葉を
使っているのか。「輪廻にある存在」なら、まさに「衆生」のことではないか。

岩波仏教辞典の「生死即涅槃」の解説にも、中論の言葉として、「生死は涅槃と
いかなる差別もない」となっている。

657 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 18:38:18.17 ID:yFrA4W88.net
>>646

「釈迦命」のあまり、大乗仏教を釈迦の思考枠内(小乗)で解釈しようとする
から、耐え難い混乱が生じているのだと思うよ。

「存在論」の基盤としての六処(五処)の発見こそ、小乗の最大の功績だと
思うのだが。

658 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 19:26:52.38 ID:vlaF7W64.net
音とは、アトムとその響きである、として、音も縁起したもので、実体のないもので拘るものではないと説くな。
だから、誰かが大声で呼びかけてきたとしても、修行者はそれに気を取られてはならないのだ。

煩悩即菩提は、言葉の概念としても、煩悩と菩提は相対するものだから、
即空であると断じていいのだ。空だと認めるということは、そこには害となるものはないということで、
その人は安楽を得るのだ。

ところでそういう解釈でいいのかな?w

659 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 20:55:31.47 ID:yFrA4W88.net
>>658

音とは、実在である空気の振動。音には、必ず、実在としての音源がある。
過大な音は、鼓膜を破り、人間の生存に直接の影響を及ぼす。聴覚で知覚
されるだけでなく、空気は風のそよぎで知覚できるし、オッシログラフを使えば、
視覚でも知覚できる。従って、音も実在である。

中論の空とは、「有るか無いか解らない幻」ではなく、すべて厳然たる実在
であるが、これが「相互依存性・関係性」という「抽象観念」によって構成
されているから、執着すべき自性はないという、もろもろの存在の構成原理を
述べただけ。誤解してはならない。中村博士は、「空は無ではない」と声を大
にして警告している。

煩悩即菩提、生死即涅槃は、大乗仏教の究極の思想。いずれも生命(仏教的
には真如)の表れだから、相等しいということ。煩悩も、究極的には「生命の
危険」に対する警告。排除すべき異物どころか、感謝して受け入れるべきもの。
煩悩に感謝し、その警告に対処することによってのみ、煩悩は止む。

生死とは、生まれてから死ぬまでの現世、即ち生存のこと。永劫の期間における
唯一度きりの己の生は、それ自体が奇跡であり、限りあるものであるからこそ
尊い。人間は、どんなに苦しくとも、実は「今ここに生きていること」自体に
最大の喜びを感じているのである。それが即ち涅槃である。

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