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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

522 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:43:53.09 ID:4GKs2aR1.net
>>521
自我への執着を云々すると、直ぐそれは全否定されたと君は看做すんだね

君のように貪瞋癡を行使するのは賢い選択なのかな?
自我は野放ししてると君のように直ぐ貪瞋癡に塗れる
んで、君は間違った考えを間違っているとすら認識出来ない
痴ろかとはそう言うことなんだが、それも分からない訳だ

>非有非無は有るとも無いとも答えられないものを指し、これは中道ではなく「空」と言う。

中道ではなく「空」と言うのかね?
空が中道の性質なのであり、中道は空という状態な訳だが
新説をどうもありがとう

523 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 06:49:03.90 ID:4GKs2aR1.net
>>521
そうそう、書き忘れたが

空と言うのも仮設の名称に過ぎず、空に拘ればそれは有無に拘るのと同じで空にはならない

空をもう一回空じた先に本当の意味があるんだよ
それが中道と言う本来の意味と符合する

524 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 08:44:48.00 ID:AMuyaKux.net
ソクラテスの無知の知のようなものだなw

俺は人間がいかに執着を無くすように努めようがそれは無理である事を自覚している。
お前は>>522、その自覚がない。

この両者の違いが普通の人間と仏教馬鹿の違いだよw

執着をなくせ〜と自分の執着の大きいのを顧みず他人に説教するw
人に説教する前に己の執着をなくせ〜w というか無くすように努めよwww

まあ、阿呆はいつものことながら聞く耳を持たない阿呆だからいつまでも仏教馬鹿のまま変わらんだろうがなw

525 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 09:12:50.03 ID:TEUoDKtW.net
>>524
言葉の汚さは心の顕れだと君は知っているかな?
相手を謗り、常に喧嘩腰の言葉遣いで、どうして正しさを読んでもらえようか
君は何を訴えたいのであろうか
君は何と戦う為に、そんなに喧嘩腰なのだろうか

君の言う事が正しいと自信があるなら、それは正しい筈なのだから先ず
相手の言葉を良く理解する様に努め、同時に自身の駆使する言葉を調御して
喧嘩に成らない言葉遣いに努めるべきではないかな?
君は賢いのだろ? 出来ない筈も無かろう

君は「普通の人間」等と、自分はさも一般的だと言いた気だが
果たして一般人って言うのは君の様に常に喧嘩腰な言葉遣いであろうか
阿呆だの馬鹿だのと、君は相手を見下していなければいられなおのだろうか
それが一般人とやらの通常と言えるのだろうかどうか

526 :CIAパンドラ計画:2015/11/06(金) 10:18:48.76 ID:DRfXmWk4.net
心の概念化の発端は他人に対する発言です
他人と口論になれば言い合いになる
その時に「自分が他人に言いたい事」が口をついて出るのですが

人間社会でそれを繰り返して一般的に認知されてくると
その人物の他人に対する考え方を
その言い分から察する様な考え方が2次的に
概念化するはずです

大体その人物の
「他人に対する考え方だと思われるもの」です

思想家の様に見なされる人物の発言が
取り上げられやすいです

人気が集まって思想家になっている面もあるでしょうが
一旦思想家と見做されると他人からアテにされて
何でも取り上げられます

宗教の開祖などが良い例だと思います

人間社会でそれを繰り返して一般的に認知されてくると
様々な人の「他人に対する考え方だと思われるもの」を使って
人物像を特定する様な考え方が
更に概念化してくるはずです

527 :CIAパンドラ計画:2015/11/06(金) 10:19:24.34 ID:DRfXmWk4.net
「他人に対する考え方だと思われるもの」が
「一般的な概念として定着した」という事です

一般化している仏教用語などは良い例だと思います

大体「心」と呼んでいるものに近づいてくると思います
「他人に対する憶測の歴史が産み出したもの」ですよ

他人に対する「見做し」が社会通念になったという事です

実体は有りません

528 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 10:33:07.56 ID:2TeyUf5j.net
>>527
実体が無いと言うあなたは心を語ってますよね
心とは何ですか?
他人の事ですか?
憶測の事でしょうか?
歴史なんですか?

あなたは自分の心が何だか分からないんでしょうか
実は分かってないのに語ろうとするそれを、世間では

知ったかぶり

と言うのではないでしょうか

529 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 10:43:17.45 ID:dB6Veeo6.net
>>520

心の三毒とんぢんち〜地獄に墜ちる〜人たちの〜特徴な〜んです〜。
YouTubeで幸福の科学の信者さんがボカロで曲作ってて見ちゃいましたね。

>>521

生きようと思わなければ何も食べないはず
それとも無意識に命を奪ってるのか?
うわっ、怖っって事ですか?


>>524

執着するからこそ心は痛くなる
小さい頃から大切にしてるぬいぐるみがほつれて壊れちゃったら
死にたいくらい悲しくなる
大切な人に貰った何か、思い出の何か、思い出のマーニー
だけど形あるものはいずれ壊れる
そう思うと心が楽になる
そんなもんかもしれませんね

>>525

口は悪いけど美味しいラーメンを出す店は美味しいラーメン屋です。

530 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:42:41.19 ID:Es0KrGJa.net
誰が作っても美味しいラーメンは美味しい。
泥棒が作っても美味しいラーメンは美味しいですもんね。

531 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:46:55.67 ID:2TeyUf5j.net
>>529
>口は悪いけど美味しいラーメンを出す店は美味しいラーメン屋です。

ラーメン屋の真価が問われる言葉は「美味しいラーメン」を出せるか否かなんじゃないでしょうか
ラーメン屋が他者を納得させられる言葉として、他に何が有りましょう

紐くんはラーメン屋ではありませんし、ここでラーメンを振舞っていた訳でもありません
あなたの喩えは喩えとして破綻してると思量します

532 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 11:52:55.30 ID:Es0KrGJa.net
ラーメンに正しさは関係ありませんね。

533 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:31:11.03 ID:AMuyaKux.net
馬鹿に馬鹿と言えば馬鹿と言うのは言う人間の心が貧しいからだとww
全く笑わせるねえw

では、言葉を変えようかw (所詮、一時的にだがw)
仏教に嵌りすぎて仏教が分からない、灯台元暗し〜の残念な人〜とでも言うべきかなw

仏教から離れて遠く外から眺めれば仏陀の言いたい真実が見えてくるだろうよ。
中から仏教、仏教〜無い無い〜と繰り返しつぶやいても何ら本質はつかめないという事だ。

534 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:46:12.88 ID:faT2TNmZ.net
ここじゃ誰も無い無い言ってない気がするんだけど

535 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:51:16.18 ID:AMuyaKux.net
無い無いの典型は実体が無いだよw

この言葉が目に入らねばメクラだなw

536 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 13:57:30.47 ID:faT2TNmZ.net
>>535
じゃあその実体とやらを単体で証明出来るの?
経年劣化は絶対してるよね、時間的変異をしない実体と呼べるものがこの世界のどこに実在してるの?
これは、宇宙が恒常ではなく無常である、と言う事実を覆せるチャンスでもあるんだけど

紐はひょっとして真我を信じる人なの?

537 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:04:08.54 ID:AMuyaKux.net
またコレだww
この繰り返し〜。

>>536
アンタは>>511を読んでそう言っているのか?

何度も繰り返し「有るとも無いとも言わない」と言っているんだがw
×実体がない
○実体は分からない

後、無我も我は無いではなく、我は無所有を可能な限り目指しましょう〜という程度のものだ。

真我(アートマン)などまさに空だw

538 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:12:58.47 ID:faT2TNmZ.net
>>537
これの事かな?

>心や意識の本質は現代でも分かっていない。

分かってないのは紐君その他だけなんじゃないの?
少なくとも君は縁起くらいは理解できてるよね?

心ってのも縁起して成り立ってるんだけど、それは知らんの?
もう少し、自分というものの仕組みを観察してから御託並べたほうが良いと思うな

539 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:15:56.78 ID:AMuyaKux.net
意識等医者でも分からないだろうよw
麻酔科医が麻酔をかける時の意識など全意識じゃないからな。
死んだと思われた人間が丸一日後に息を吹き返して、死んだと思われていた間の事を
全部覚えていた事例もある。
意識とは何か? 答えられるか?

現代科学をもってしても分からない。

540 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:22:03.47 ID:faT2TNmZ.net
>>537
>後、無我も我は無いではなく、我は無所有を可能な限り目指しましょう〜という程度のものだ。

じゃあ君は、君が死んだら君は有るの?無いの?
死んだ先の事は分からないと言うなら、君は死も勘違いしていると思うよ

君の年齢は今何歳と言えるだろう?
でもそれは年数を根拠に言ってるよね
その年数って記憶を頼りに言ってるよね
記憶って実在しないただのデータだよね
君が知る過去ってのはつまりそう言う事で、その記憶も見るのは今なんだよ
でね、君は生まれてから此の方、一度も死んでないと思うのかい?
生まれた時の君が今でも残ってると思うのかい?
我々は細胞分裂を経て人体となれた訳で、その最初って一つの細胞が
死と引き換えに二つに分裂して、その二つが各々死と引き換えに二つずつ計四つに分かれて
これを繰り返して今があるのは科学でも解明されてるでしょ、違うの?

だとすれば、我々って本当は何歳と言えるんだろうね
何度も何度も死んでは生まれてるのに

541 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:24:52.64 ID:AMuyaKux.net
>>540
そういう陳腐な解説は聞き飽きた。
もう何百回も繰り返し言われているんだよww

死後の世界も空だw

死後世界や意識についてそれが何であるのか回答できるのならやってみろww
さぞ陳腐な回答が出るに違いなかろうがなwwww

542 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:24:53.14 ID:faT2TNmZ.net
>>539
少なくとも仏教では君の考えは間違いになるよ

心の正体は君が大好きな「実感」だよ
感受して思うから自分を認識できる
感受は六触、つまり眼耳鼻舌身意からの入力によって起こる

思考するのも意根に触れるから出来る

543 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:26:21.74 ID:AMuyaKux.net
またまた糞仏教かぶれのお出ましか〜ww
仏教スレでまともな人間は隠居氏だけだなあw

544 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:27:26.71 ID:faT2TNmZ.net
>>543
隠居は間違ってたよ

545 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:32:08.22 ID:AMuyaKux.net
>>544
そりゃ間違うだろうよw
人間は間違う生き物だw

お前は間違っていないとでも言うのか?
それこそ恥を知らぬうぬぼれだ。

間違ってもその程度の問題なんだよw
根本が大間違いじゃ話にならんわw

546 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:35:09.87 ID:faT2TNmZ.net
>>541
>そういう陳腐な解説は聞き飽きた。
>もう何百回も繰り返し言われているんだよww

そうか
わたしのような説をこのカテで他に見た事が無いんだが、聞き飽きてるとは面白いな

>>545
君の言う根本ってなんだい?
その根本が正しいなら涅槃も解説できよう?
説明してみてくれないか、涅槃を

547 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:39:21.87 ID:AMuyaKux.net
>>546
阿呆ww

アンタはこのスレを何も読んでいないな。
最低、最初から目を通して言ってくれないかな?

私に涅槃など必要ないのだが、私も聞きたいと思って涅槃命〜の仏教馬鹿に聞いたら
「答えよう」「グーグルで調べよ」それが答えだ〜
だそうだwwwww

ちょっと前を見れば書いてあるだろうから確認したら?w

知りたければグーグルで調べたら?w

548 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:44:24.55 ID:faT2TNmZ.net
>>547
結局君は根本を知らないと言う事だな
それでどうして根本が間違ってる等と断定できようか

それと、君が隠居を正しいと言う理由はあれだろ
隠居だけだったからな、君の意見を認めてくれたのは

だから正しいと言う訳だ、ちゃんと見てたんだよ現場をね

549 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:45:20.26 ID:AMuyaKux.net
話にならんなw

550 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 14:46:02.67 ID:faT2TNmZ.net
そうだなw

551 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 14:47:41.31 ID:jcHdclQn.net
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること、何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
過去を手放し、現在を生きてください
  _  _  _

そしてさらに今現在も手放し
妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので
身体も・心の働きも・世界すべても
「自分だけのものではない・周囲環境だけのものでもない。と知覚して住む」という観察が必要である

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていくために 「 空である 」 と観察していくための方法が必要です

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ
194
身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて
(無明の暗闇に覆われているので、それ故に)ありのまま見られることがない
199
またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている
しかるに愚か者は 「 無明に誘われて 」、身体を清らかなものだと思いなす

552 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 15:28:26.37 ID:GS7WHU++.net
>>551
おじゃるも元気だったか
これの意味わかるか?
君が探してるものだと思うよ

「それならば、バーヒヤよ、この世において、次のようなことが学ばれねばならない。
見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。
考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
実に、バーヒヤよ。おまえはこのように学ばなければならない。見られたものにおいて、見られただけのものがあるだろう。
聞かれたものにおいて、聞かれただけのものがあるだろう。考えられたものにおいて、考えられただけのものがあるだろう。
識別されたものにおいて、識別されただけのものがあるだろう。
バーヒヤよ、それ故に、おまえはそこにいない、なぜなら、バーヒヤよ、おまえは、まさにここにいないのだから。
それだから、バーヒヤよ、おまえは、この世にも、他の世にも、両者の中間にもいないのだから、これこそ、苦の終わりである」

これを理解するには二つの智慧が必要で、それを得る為には四如意足を修めねばならない
四如意足を修めるには四正勤を修めねば成らず、四正勤を修めるには四念処を修めねばならない

つまりな、おじゃる
ヴィパッサナーってのは理屈をコピペしててもダメなのよ

553 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/06(金) 18:31:15.81 ID:PuCmncvM.net
そういえば、隠居さん最近見ない様な気がするけどどうしたんかな?

(^。^)ひょっとして何かやらかしたのか?(笑)

554 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 18:40:48.41 ID:AMuyaKux.net
見ないような気がするのは気のせいだろうよw

555 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 18:53:20.72 ID:jcHdclQn.net
 
>四念処を修めねばならない

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、(無明薫習から解脱するための)法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 「 自灯明法灯明 」 の教えを説いた

http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
過去と未来への想いを手放し、そしてさらに今現在への想いも手放し
妄想に影響されることのない、智慧の立ち位置から

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので

身体も・心の働きも・世界すべても
「自分だけのものではない・周囲環境だけのものでもない。と知覚して住むこと。という観察が必要である」という意味でつ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
四念処(しねんじょ)
心念処(心念住) - 心の無常を観察していく
法念処(法念住) - 法の無我(いかなる事象も自分のものではない)を観察していく

556 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 19:31:01.22 ID:AMuyaKux.net
おじゃるよw
おじゃるも良い女を抱いて、酒は飲めないが、美味いものを食いたい〜とか言っていたなw

良い女を抱いて美味いものを食って一生を送れれば良いだろうなあw
しかし、その「良いだろうなあ〜」と言うのもよくよく検討すれば必ずしも
良いとは限らないかもしれないぞ〜w
良い女がAids持ちで感染して病気持ちになり、美味いものの食い過ぎで糖尿病になり
足が腐る〜なんてのはいただけないわなw

結局、可能な限り健康に、楽しみつつ、問題が有れば解決しながら一生を無事に生きる人間が
最も幸せだろう。無事で有る事が最も尊いとかいう禅語も有ったよな確か〜?w

アレコレ、悟りだの解脱だの涅槃だの覚者だの理想的宗教スタイルだの〜糞のような事を気にかけて
一生を送るのは不幸せではあるな。仮にその解脱とかを達成できたとしても、平穏無事の普通の人間の
足元にも及ばないだろうなあ。

可能な限り健康に〜とは運命的に病気になる人間もいるし、運命的に事故に遭遇する人間もいるだろうが、
その上でという事だ。病気や事故で短命なのは気の毒ではあるが宿命という奴だろう。

557 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 20:03:24.71 ID:AMuyaKux.net
あ、w
無論、良い女を抱きつつ、美味いモノを食いつつ、美味い酒も飲みつつ一生を健康に問題なしに生きられれば
それが最も理想的だろうなあw 
しかし世の中は良く出来たもので、何かしらが頂点に上がると反動で何かしらが下方へ落ち込む〜サインカーブなんだよw
あれもこれも全部頂点というのは不可能なんだろうなあ。かなり達成している人もいようが、そういう人間は心を犠牲にしている〜
とは、麻雀放浪記のセリフだわなw

人生楽有れば苦も有るさ〜の水戸黄門こそ真実www

558 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 20:26:10.35 ID:jcHdclQn.net
 
>良い女がAids持ちで感染して病気持ちになり、美味いものの食い過ぎで糖尿病になり足が腐る〜なんてのはいただけない

外見上、美人で可愛い女性でも内面的なものは?

ミュンヒハウゼン症候群
虚偽性障害に分類される精神疾患の一種で
周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり
自らの体を傷付けたりするといった行動が見られる

代理ミュンヒハウゼン症候群
傷害の対象が自分自身ではなく何か代理のものであるような精神疾患である
多くの場合傷害対象は自らの子であるが
自分に周囲の関心を引き寄せることで、自らの精神的満足を他者から得ようとして
「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」という場合もある

「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」ということが現れ(滅し)ている場合もあるので

それ故に「無ではない」でしょ?

(現れることのない「無であるのなら」現れることもなく滅して逝くこともない)

559 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 20:36:08.29 ID:AMuyaKux.net
まあ、異常な女を見抜けないのは己の人間性の問題だろうよ。
掴もうとしている〜だの、想いを手放す〜だのの表現が「無い」を前提としているだろw
それがダメだと言っているんだがな。
ま、分からなければそれでも良いよ。
そんなことは俺とは何の関係もない事だ。
ま、好きなようにアレコレ探りまくって悶えて下さいなw

560 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:00:45.99 ID:jcHdclQn.net
 
>「無い」を前提としているだろ

おじゃる本人は

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場の中観自立派でつ

 ☆ これに対して ☆

1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察して、そして

(世俗の次元においても)認識は対象の形相を有していない無相唯識派

世俗の次元においても、自相(自性・自我)を否定する中観帰謬派

最終的には、帰謬・無相に導いて逝く

その為の、経典・論書・解説書である

ということ

561 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:02:03.43 ID:332jDabJ.net
阿含にも涅槃にも、「心の師となるとも、心を師とせざれ」と言う真理が説かれてる。
自灯明、法灯明と合わせて考えてみよう。

>>558
チミはいつも下記のことを定句としているようだが、どういう意味なんだ?
>「女性が男性を、奈落の底に落とし入れる」ということが現れ(滅し)ている場合もあるので
それ故に「無ではない」でしょ?

心は実体のないもんであると知って、それに拘らない、幻として逃がせ、執着してはならない、ということになるのだが、
”それゆえに無ではない”というが、実体のない心が無ではないという意味のように見える。

実相=実体が空であるからこそ、それから(縁起してるもの)解放されるのだ。
”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

562 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:04:49.39 ID:dB6Veeo6.net
何かを得るには何かを失わなければならない
では持たざるものが何かを得るには何を失うのだ
命!

563 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 21:11:43.27 ID:332jDabJ.net
>>562
自分を失うのだ。自我でないものを得て、自我を持ったと妄想し、その為に本当の自我=実体を失うんだ。

564 :超次元導師 ◆eeHKuSUvzQeu :2015/11/06(金) 21:19:07.76 ID:dB6Veeo6.net
ある僧が尋ねた。「仏とはなんでしょうか?」
雲門「糞かきべらじゃ!」

565 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:28:33.31 ID:jcHdclQn.net
 
>”無ではないでしょう”というものがあれば決してそれから解放されることはないのではないんか?

おじゃる本人は
認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性が現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

おじゃるの場合は
前世の記憶はないけど
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じて、現れ(滅し)ている無明薫習に依存して

仮設としての
(実有・実体ではなく、空という性質なので、それ故に、因と縁の双方の縁起に依存して現れ(滅し)ている)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

このような掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相唯識派の段階でつ

566 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/06(金) 21:44:48.89 ID:jcHdclQn.net
 
掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている有相

 ☆ これを対処するために ☆

(おじゃるは実践したことがないけど、とりあえず↓これ)
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

思いの手放し

坐禅中,思いが浮かび,その思いを追っているならば
それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

この坐禅中の心構えを一口にいうならば,坐禅の姿を骨組と筋肉でねらい
そうして「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません
「思いを手放しにする」とはどういうことか
われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど
この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今
その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって
何ものをもつかまないでいることです
すなわち思いの手放しです
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう

567 :神も仏も名無しさん:2015/11/06(金) 22:03:01.36 ID:AMuyaKux.net
>>564
臨済録のその辺は解釈が難しいところではあるんだがな。

赤肉団上に一無位の真人あり〜とアートマンの存在を肯定しているだろう。
これが第一の間違いなのだが、
後の答弁でアナタの言うように、(雲門ではなく臨済だがw) 「糞かきべらじゃ〜」と
前の間違いを打ち消しているww

故意にやったとしか思えない調和だなw これが臨済録の魅力かもしれんなww

本当に魅力的なのは臨済の師の黄檗の方なんだがな。

568 :123:2015/11/07(土) 07:58:38.92 ID:3MpDYIDQ.net
567.
真人会というのがあった。
糞かきべら会を結成するかいな。
仏は糞かきべら、ではない。
真人でもない。
それでは何か。

569 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 09:40:43.82 ID:mocXysMw.net
>>565
おじゃる

>おじゃるの場合は前世の記憶はないけど

仏教の教義に依るのなら、君の考えてる前世は間違ってるかも知れないよ
もし、生まれる前を前世と定義して居るなら、いつが生まれる前なのかな?
君がオギャァっと生まれたその時の細胞は、今の時点の君には一つも存在していない
我々は常に生滅を繰り返して五蘊仮和合にある

仏道の鉄則は先入観の完全打破にあると思われるが如何か

570 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/11/07(土) 09:54:57.06 ID:uRJQ+un/.net
>>554
そっかー。
そんな気がしたんだがなぁ。

571 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 11:39:59.40 ID:WvbJg2Aw.net
ゴータマさんは、仏陀となったとき、「不死の法門が開かれた」と宣言なさったのだが、
それ以来、不死の法門により、解脱した人はたくさんいるということだが、
宣言した本人は、齢80にして死路についたのだ。これを見ると、何だゴーダマさんはやっぱり死んだではないか、どこが不死の法門なのだ?と言う声が
消えまい。他の聖者となったものも生きながらえているものはいないのだ。

死んでいく様については、聖者となったものも、欲望の塊となって死んだものも、同じだ。
死に顔がいくらか異なっていたのかもしれない。しかし、どれだけ違っていたと言えるだろう。

しかし、一方は極楽浄土へ、他方は輪廻の地獄の世界へ、と教えられている。

また、この世界は幻の世界で、実体がない。極楽だけが実体のある世界だ、と説かれている。

極楽とは、一相の世界だから、どこを見ても自分しかいないんだな。なるほど、これならいいかもな。

572 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:32:35.93 ID:j4UikVpT.net
 
>五蘊仮和合

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れなので、それ故に

中論:27−3
「私は、この現世においての過去に(変化しないものとして)存在していた」と言うことは妥当ではない
この現世においての過去に現れ(滅し)ていたものは
(前世に現れ(滅し)ていたものは)
(空という性質に依存して、因と縁の双方の縁起に依存して、変化しているので、それ故に)
今現在の私と同一ではないからである

 ☆ これに対して ☆

おじゃるの場合は

無明の暗闇に覆われて
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

(変化しないものは)存在しないにも関わらず
(変化しないものが)有ると思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)に依存して

他に対して、自らは特別な存在として妄信している状態が現れ(滅し)ている

それ故に
誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

573 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 13:42:12.40 ID:qW7spAwW.net
>>572
中論27-3
三 「過去世において、われは有った」というこのことは成立しない。
何となれば前の生涯において有ったものは、そのままこのわれではないからである。

今一瞬が生滅って事なんだけどね

>誰もが(この現世において)成仏するわけではないことを説いた(五性各別)

お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

574 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 13:53:38.30 ID:j4UikVpT.net
 
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 ☆ これに対して ☆

このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として

色受想行識の仮和合は
地水火風空識による仮の現れであるとして

無我
「我が無い」と「我ではない」(非我)との両方の解釈がなされる
あらゆるものを非我(我ではない)とすると
どこにも我を見出すことはなく
必然的に無我(我は無い)という結論が導かれるので
非我と無我は同じことを指しており
非と無の訳語の違いにこだわる必要はないということもできる

575 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:12:37.27 ID:N6yToHLA.net
>>572
>>574

そう考えているのは、すべて君や釈迦の「我(生命・肉体)」。死ねば、一切は
不可能になる。「無我」「非我」を考えようとすればするほど、その「対照」と
しての「我」を意識せざるを得ない。それはあくなき「我への執着」である。

「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ
唯一の「本和合」。

釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」。

576 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:13:21.99 ID:j4UikVpT.net
 
>お釈迦様の教えではない、それは唯識独自の見解

おじゃるは

認識は対象の形相を有していると考えている有相唯識派でつ

「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相として認められる・・・という中観自立派でつ

すべての事象が恒常である、実体をもって(自立して)存在している、と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 ☆ これを対処するために ☆

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
1119 スッタニパータ
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 「 空という性質である 」 と観察せよ
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、死の王は、見ることがない

577 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 14:27:39.59 ID:j4UikVpT.net
 
隠居先生?  乙です
  _  _  _

承狂さんへ
>そういえば、隠居さん最近見ない様な気がするけどどうしたんかな?
>(^。^)ひょっとして何かやらかしたのか?(笑)

人違いかもしれないけど

>釈迦の言っていることは、すべて「論理矛盾」「ピント外れ」「勘違い」

とか逝っちゃってるので、それ故に

たぶん ID:N6yToHLA氏が隠居先生?

578 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:35:11.60 ID:N6yToHLA.net
>>576

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから
空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

人類はその発生以来、五感の知覚により、有と無とを一義的に区別することに
よってのみ生存してきた。目の前から走ってくる車を、実在として避けなければ、
跳ねられて、一蹴にして即死である。このように、「有(実在)」とは、「人間の
生命の維持に直接の関係」を有するが、「無(非実在)」は、人間にとって
無関係。考えるだけ無駄なもの。

人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。
例外は「皆無」である。釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある。

579 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:53:23.97 ID:qW7spAwW.net
>>575
>死ねば、一切は不可能になる。

一切とは何か説明して見給え
君が一切を言うのに見過ごしているものがあるだろう

>「仮和合」という言葉はおかしい。すべてが「仮和合」なら、「仮和合」こそ唯一の「本和合」。

その論では

>死ねば、一切は不可能になる。

に矛盾するだろう
何故なら、死んで和合が解けるならそれは仮と言わざるを得ないからである

>>578
>「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は空ではない」ということ。「初めから空」なら、わざわざ空と「観じる」必要はない。

空は言語を用いた仮説に過ぎないのであり、空と言うものが実在して居る訳ではない
よって「観ぜよ」で正しい、わざわざ「観じる」必要もここにある

580 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 14:57:13.51 ID:qW7spAwW.net
>>576
では具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

581 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:00:58.35 ID:qW7spAwW.net
>>578
>人間にとっては、(必要な場合は観測装置を使用して)その五感で知覚される
>対象が、すべて「有(実在)」、知覚されない対照は、すべて「無(非実在)」。

観測装置を持ち出して言うならば、人間が感知している五感は、何れの対象を以ってしてもそれは電気信号に過ぎない
君はその電気信号を、本当に対象だと信じねば・信じ込まねば日常の生活は立ち行かないであろう
仏陀はその事実を科学的にはまだまだ稚拙だった時代に解明した訳だが、君の理解を超えているのだろう

582 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:03:12.24 ID:j4UikVpT.net
 
>釈迦の言葉は、人間にとっての真理の対極にある

おじゃるは記憶力が悪いので過去のことは憶えてないけど

隠居先生は龍樹(りゅうじゅ)肯定派だったような気がするけど

なんで龍樹肯定派なのかしらん?  その理由は?

ちなみに
おじゃるの場合は有相唯識派だけど、とりあえず↓これ

世俗諦(せぞくたい)勝義諦(しょうぎたい)

この二つの真実の間に引かれた区分を理解しない者は
ブッダの深遠なる真実をも理解しないであろう[中論:24-9]

現象的真実の中に存する根拠なしに
究極なるものの重要性は説き得ない
究極なるものの重要性を理解することなしに
解脱(涅槃)は達成され得ない[中論:24-10]

583 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 15:11:11.89 ID:qW7spAwW.net
>>582
おじゃる
勝義諦が判らないからとへそを曲げる必要はないよ

君は音が聞こえるだろう?匂いは分かるんじゃないか?
目は見えるだろう?味だってそこそこわかるだろう?
体に蚊が止まったり、汗が流れたりすれば感じるだろう?
トイレに行きたければちゃんと行くだろ?

これらは全部勝義なんだよ
言葉で説明は出来るが言葉はそれら自体ではない
それら自体はそれら自体を直接触れねばそれら足り得ないもの
それが勝義って事で勝義諦って事
これをこうして説明しているこれが世俗諦

584 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 15:19:33.42 ID:j4UikVpT.net
 
>具体的に君はその対処の為に何を行なっているのかな?

おじゃるの場合は
「美人で可愛い女性とデートしたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
「旨い焼肉カルビを食べたい!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている
  _  _  _

 ↓実践したことはないけど興味がある

ヨーガの実践や宗教の各種修行によって穏やかに活性化し始めると
生涯をかけ各チャクラが徐々に開発されていくこととなる
クンダリニー・ヨーガあるいは瞑想などによりクンダリニーが上昇し
それによりサハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラを完全開放させることになればその人物は解脱に至る
  _  _  _

 ↓実践したこともないし興味もない

余念を交えず、ただひたすら座禅する、只管打坐
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺
「人は本来清浄な心を元々持っているのであるから、悟りを求める必要はない」
http://enlighten.fc2web.com/fukanzazengi.html
普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)
何かを観じるという認識作用も働かせてはならず、また 「 仏に成ろうと思ってもいけない 」

585 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:07:49.05 ID:N6yToHLA.net
>>581

電気信号であろうと何であろうと、「人間にとっては」、その五感で知覚できる
対象のみが「有(実在)」なのだよ。何故なら、その対象のみが、人間の生命の
維持に直接の影響を与えるから。

若し、ゴキブリが神を知覚できれば、「ゴキブリにとっては」、神は実在する。
しかし、人間にとっては実在しない。

釈迦が、「無」など言い出したのが、誤りの発端。

586 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:17:47.56 ID:N6yToHLA.net
>>579

釈迦を初め、物事を語っているのは、すべて「生きた人間」。「生きた
人間」にとっては、すべては「本和合」。「仮和合」などない。

死ねば、認識器官そのものが消滅するのだから、和合もへちまもない。

587 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:20:23.99 ID:qW7spAwW.net
>>585
釈尊が無なんてどこで主張してるかな?

588 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:22:29.16 ID:qW7spAwW.net
>>586
断滅論なんだね
なるほど

589 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:31:53.52 ID:N6yToHLA.net
>>582

「世俗的なことに基づかなくては、第一義は説示されえない」(中論24:10)。
即ち、第一義は、世俗的なことから「一歩も踏み出すことはできない」のである。
よって「世俗=第一義」となる。

即ち中論は、釈迦の「二諦説」を事実上否定しているのである。

中論が、「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」としている
のは、そのことが理由である。

590 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:37:01.18 ID:qW7spAwW.net
>>589
釈尊がいつ二諦説を唱えたのかな?
二諦に言及したのは中論そのものでしょう

嘘は良くないな嘘は

591 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:39:50.67 ID:qW7spAwW.net
>>589
因みに

>よって「世俗=第一義」となる。

これを本気で言ってるならこれは「現法涅槃論」となり、邪義ですよと

592 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:41:58.37 ID:N6yToHLA.net
>>590

文句は、竜樹に言ってくれw。

「二つの真理(二諦)に基づいて、諸仏は法を説かれる」(中論10:8)。

593 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:44:35.73 ID:qW7spAwW.net
更に補足すると中論二十四章は四諦の考察

一〇 世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。
究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナを体得することはできない。

引用したのは隠居なのかなぁ
後半を意図的に端折るとか悪意を感じるなぁ

594 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:48:30.90 ID:qW7spAwW.net
>>592
中論10-8って全然違う文言ですぜ?

正しくは二十四章四諦の考察

八 二つの真理(二諦)に依存して、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。
その二つの真理とは世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである。

でしょ?
意図的に後半を端折っちゃダメだと思うよ

595 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 17:55:32.73 ID:N6yToHLA.net
>>591

「煩悩即菩提、生死即涅槃」。

596 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:00:24.80 ID:qW7spAwW.net
>>595
煩悩がそのまま菩提な訳ではなく
生死がそのまま涅槃な訳でもない

即煩悩即菩提、即生死即涅槃

お分かりかな?

597 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:01:39.27 ID:N6yToHLA.net
>>593

中論の文言上、その「究極の真理」は「世俗」にしか存在し得ないの
だから、「意図的な端折」でも何でもない。文言通りである。

598 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:05:19.78 ID:qW7spAwW.net
>>597
「究極の真理」と言うもなど実在しない

中論ちゃんと読め

599 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:07:14.24 ID:N6yToHLA.net
「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを「無条件の前提」とした中論が、
それらから離れた真理など認めると、たちまち論理矛盾に陥る。釈迦とは異なり、
中論には、論理矛盾は「皆無」である。

600 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:10:01.65 ID:qW7spAwW.net
>>599
>中論には、論理矛盾は「皆無」である。

修行が足りないな
龍樹の失敗は見解を立てたことだろ
中論は確かに正しいが、正しいが故に正法に対しては違背している
それを知らないのは似非インテリで、ちゃんと読めてない証拠

601 ::2015/11/07(土) 18:16:32.35 ID:tlNkQZjX.net
>>599
皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、
龍樹の「我に主張なし」というのは矛盾だとは思うね。
主張しているから中論なるものが出来上がった。

他はほぼ隠居氏に同意する。
「有る」と「無い」では人間にとり「有る」がメインの命題で「無い」はサブの命題である。
これは生と死についても同様に言え、生がメインで死がサブ。

602 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:20:06.47 ID:qW7spAwW.net
>>601
お前は自分で中論読まないで他人のフンドシで相撲執ってるよな

いい身分だと思うよ

603 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:23:58.03 ID:N6yToHLA.net
>>600
>修行が足りないな

真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」
ものではないよw。

604 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:24:19.06 ID:tlNkQZjX.net
中論など素で読んでる人間なんているのかよw
ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
中村元ですらそうなんだからなww

605 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:28:52.41 ID:WvbJg2Aw.net
>>601
>皆無というのは無いではなく少しは有るという事だろうが、

それはおかしいだろう。そして皆無とは=無のことか?相対的無じゃなくて絶対的無か?

606 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:31:06.93 ID:tlNkQZjX.net
>>605
こりゃ失礼。
私の勘違いでした〜w

無いのではなく有るというべきでした。 訂正します。

607 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 18:40:37.48 ID:hPY979nU.net
>>603
>真理すでに存在するものであり(法灯明)、修行によって「作り出す」ものではないよw。

すでにあると言うなら何故君には観えてないんだ?

観えていると言うなら、「法灯明(法洲・法島)」とはどの法を拠り所とせよと言っているのか解る筈だよな
答えてみてくれないか

608 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 18:53:33.57 ID:j4UikVpT.net
 
>修行が足りないな

おじゃるも
紐くん(ID:AMuyaKux)も
隠居先生(ID:N6yToHLA)も

止(サマタ禅定)も、観(ヴィパッサナー智慧)も、実践したことがないので

修行してないと思うけど、とりあえず↓これ

>「世俗=第一義」となる

「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大が大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗
十八界  (有為法も)無為法も含まれる

609 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:07:35.96 ID:WvbJg2Aw.net
涅槃に向かう論になっているぞ、ガンバレ!涅槃を理解したらあとは実行するのみだ。
その実行は易しい。出来立ての陶工の作った粘土細工を壊すようにやさしい。

勇気は智慧に基づくのだ。と思う。w

610 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:09:25.88 ID:hPY979nU.net
>>608
>>「世俗=第一義」となる

>「個人を支配する原理」と「宇宙を支配する原理」はわずかな違いすら存在しない
>「世俗諦(せぞくたい)」と「勝義諦(しょうぎたい)」はわずかな違いすら存在しない

梵我一如はアドヴァイタの十八番で仏教ではない


>「有為法」と「無為法」はわずかな違いすら存在しない
>「輪廻にある存在」と「涅槃」との間にはわずかな違いすら存在しない[中論:25-19]

一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

我見で改変する悪意は相当なものと思量します

611 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/11/07(土) 19:16:50.86 ID:j4UikVpT.net
 
>ほぼ全員チャンドラキールティの解釈に依っているんじゃないのか?
>中村元ですらそうなんだからな

中論(ちゅうろん)
漢訳では
鳩摩羅什訳の青目(ピンガラ)という人物の注釈本が大蔵経に収録されている
サンスクリット語・チベット語の註釈書としては
作者不明の『無畏論』(アクトーバヤ)
ブッダパーリタ(仏護)の『根本中論註』(ムーラマディヤマカ・ヴリッティ)
バーヴァヴィヴェーカ(清弁)の『般若灯論』(プラジュニャープラディーパ;知恵の灯火)
チャンドラキールティ(月称)の『浄明句論』(プラサンナパダー;明らかな言葉)

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは『空だ』と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ、衆生を引導するが故に、『仮名の空』を以って説いた

612 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 19:17:28.14 ID:mBDCTMQ4.net
君は知恵を勘違いしておるのお。
雑学がある事を知恵者とは言わんのぞ

613 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 20:21:26.22 ID:N6yToHLA.net
「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる
区別もない」(中論25;19)。

「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの
微細なる区別もない」(中論25:20)。

即ち、「世俗=第一義」という等号が成立する。ここから、大乗仏教の「煩悩
即菩提」「生死即涅槃」の教義が発生する。

釈迦の思想とは、本質的に異なる。

釈迦カルトが、中論を何とかして釈迦に近づけようとするから、すべての誤解が
生じている。

中論の帰教序に騙されているのだと思うが、帰教序の内容はすべて竜樹の思想。
中論から、「釈迦を超えた」という竜樹の並々ならぬ自信を読み取るべきである。

同じ仏教でありながら、釈迦と中論との間の巨大な相違は、世界宗教史上の
稀有の出来事といわれている。

614 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 21:05:06.50 ID:tlNkQZjX.net
確かに仏陀と龍樹は同じ仏教でありながら別物らしいね。
まあ、私はどちらも可として受け入れる。
龍樹命の隠居氏と私の違いはソコだ。

ただ私の位置づけとしては龍樹よりも仏陀だな。
大乗の一元論は理屈としては分かるが人の生き方としては多元論の原始仏教の方が良いだろう。

615 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:41:37.35 ID:N6yToHLA.net
>>614

釈迦の無、無我、一切皆苦が多元論とは、理解に苦しむ。

616 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 22:49:42.53 ID:tlNkQZjX.net
仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。
無我は「可能な限り無所有を目指しましょう〜」という程度のもので、又
一切皆苦は出家の動機に過ぎず、大パリニッバーナでは「○○は楽しかった〜」と
10ヶ所以上思い返して述懐しているところからも一切皆苦は一貫した認識ではなかったであろう〜。

むしろ、空の大看板のみに頼る大乗仏教の方が人の生き方として依るべきものであるのか?との疑念はある。
空を理屈としては理解してもという上での事だが。

617 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:34:40.29 ID:N6yToHLA.net
>>616
>仏陀は他の宗派を批判せずに、むしろ他から色々と吸収した。

それはそうだな。中村元博士は、「釈迦は独創性は皆無だった」と言っている。

しかし、釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と
精神性を感じる。

中論の空は、「相対性」であり、「空もまた空」と言ってるのだから、個人的
愛着は一切ない。多元における関係性という論理のみ。宗教というより、むしろ
自然科学。「宗教破壊の思想」である。

釈迦の「生き様」に感心する人がいるが、泣いて留める両親や、妻や生まれた
ばかりのわが子を捨てて家出し、好き勝手に振る舞い、多くの人々を洗脳して
他人の弟子を奪った釈迦の生き様のどこがよいのか、全く理解できない。しかも、
人を覚者と凡夫とに差別している。常に、上から目線の精神論ばかり。それらの
点で、イエスと共通点がある。

釈迦が精神病(躁うつ病)であったことは明らか。釈迦に対する個人的愛着は、
彼の精神病の感染による。

618 :神も仏も名無しさん:2015/11/07(土) 23:47:54.63 ID:tlNkQZjX.net
仏陀の言う法と老荘の道は同じとは言わないがカナリ近いものじゃないのかな?
そう見れば原始仏教の良い面も見えてこようw

仏陀を神として崇め奉るという仏教信者はダメだとは思うよ。
仏陀の教えのプライオリティNo.1の自灯明に照らしても仏陀自身に頼る事はダメだろうからね。
仏陀自身も教団の誰も自分を頼っていないと言っているくらいだからね。
そういう路線で行けば、
>釈迦個人に対する信者の強い愛着性は、一神教同様の一元性と精神性を感じる。
という必要性もないのではないの?

619 :123:2015/11/08(日) 04:18:37.22 ID:o8jYYX8b.net
1.
存在=有であり、
それを否定したものが無である。
簡単明瞭である。
だからして、その両者は両立することになる。
有即無であることになる。

620 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:05:07.38 ID:JZ/GffJa.net
>>613
>「生死の世界は涅槃といかなる区別もない。また涅槃も生死の世界といかなる区別もない」(中論25;19)。

正しくは(中論25;19涅槃の考察)
一九 輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない。

>「涅槃の限界がそのまま生死の世界の限界である。この両者の辺際には、何らの微細なる区別もない」(中論25:20)。

正しくは(中論25:20涅槃の考察)
二〇 ニルヴァーナの究極なるものはすなわち輪廻の究極である。両者のあいだには最も微細なる区別もない。

即ち、「死んだら全て終る」と称する主張者の論理がこれに因って成り立つ訳もない
つまり、「世俗=第一義」もここに成り立たないのである
煩悩即菩提とは「汚れがある故に綺麗にする事が出来る」と言う真実を言っているのであり
「汚れが即ち綺麗な事だ」と言う意味では決してない
また、生死即涅槃も同じ様に、「生き死にがある故に浄土がある」と読むのであり
「生き死にがそのまま浄土だ」と言う意味では決してない

中論頌をいくら褒め称えようとも、文字を誤解して意味を曲解して用いるならば、ただの戯論に過ぎない

戯論は涅槃にて悉く全て滅する故に、隠居の暴挙も通用しない

621 :神も仏も名無しさん:2015/11/08(日) 07:14:55.94 ID:JZ/GffJa.net
智者は知るべきである

生死はそれぞれ、始まりと終わりとを示唆するものなのであり
究極なる輪廻に於いて、始まりも終わりも無いのであり、如来はそれこそが涅槃だと言うのであると
愚者には涅槃が見えない故に、生死の戯論を離れた状態を夢に見ることも適わないだろう

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