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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】
- 310 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:04:06.83 ID:bn1A79lY.net
- >>309
>アンタの言っているのは完璧に二元論。 肉体と魂とがあり
俺は肉体もなければ、魂もないという主張をするものであり、それが仏教だと信じちよる。
だから二元論者ではない。
肉体も魂「これのことを心と言うのだろう」があるとかどちらか一方があるとか言うなら、それは仏教の実相は
空相だとか、無相だとか、一相だ、というに反する。
原始仏教も大乗仏教も、その教えは一貫して一元論だ。
実相が無相なもの、姿なき姿を持つもの、ということだ。これだけが真実に存在するものなのだ。
そこで、この真実は実に一切の人間の悩み苦しみを、完璧に拭い去る者だ。
これを理解し、知るものはその時点で、救われているのを知る。これが悟りだ。
で、この真理をだれかに教えたいとお釈迦様は思われたのだな。
君は、そういうお釈迦様は人間で、命を持っていたからで来たので、死んでいてはできなかったことだ、だから
命は少なくとも、あるともないとも言わない、と曖昧なことをいって誤魔化しているだけだが、
お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。
そして、「私係の姿を取ってこの世界に生まれてこの真実を教えようと教えまいと、この真実は永遠の過去から未来に渡って存在しているのだ」と三世恒有を説かれているのだな。
世界の真実が、無相なもの、一相なもの、であれば、その真実に従った論理は流れ出てくることは理解できるだろう?
この世界の真実を知った覚者は、インド以外にも、ギリシャのパルメニデスとか、中華の老子荘子などもいるのだ。
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