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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

296 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:09:50.89 ID:sS+GeESg.net
縁起してるものに実体がない、。その実体の意味が我になったと考えるべきだ。
実体=我ということだ。

非我と言うときは、それは我ではない、という意味そのもので、自分にかかわりなく、当のものには実体が存在せづ、
それは当のものの我ではない、実体ではない、という意味になろう。

わが身に関係なく、他のものに仮に実体があるとした場合、それは大事なものとして、疎かにできない、してはならない
ものとなる。ところがそういうものは天地にはないというのだ。なぜなら一切は縁起してるだけの世界だから。

人間特に自分を考察してみても、体内の諸器官は、一切縁起関係にあるもので、実体としてあるものはない。
我と言う実体はないのである。体外を見ても、同じだ。五感を通しているが、五感自体が縁起関係の根幹だ。一八界と言われる。
我という固定物としての実体はないのだ。
こんなわけで、「世界を空なりと感ぜよ」という覚者の教えがあるのだというべきだろう。

だから、非我というと、眞正の我が前堤となり、一方無我と言うと「有我」を前提とするが、これらは縁起世界での認識に他ならないのだ。
勝義諦の世界では、実相である、一相なもの、無相なもの、空相なもの、これこそ実体なのであり、それを有我とか真我と言って差し支えないのだと思う。

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