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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

293 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:41:25.21 ID:/ckIpSvP.net
>>292
我に非ずではなく我が物に非ず〜
仏陀は我を無いとは言っていないでしょうw
真我という点では何らその存在については回答していない。
有るとも無いとも言わないから非有非無で空〜となるんだろう。
それはそれで構わない。間違った無いの主張よりむしろ隠居氏の言う通り
我を有るもの(実人生上の〜)として生きる事の方が重要と言える。

無我を我が無いと訳した人間が阿呆なのだろうww

294 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:45:01.00 ID:/ckIpSvP.net
あれもこれも我が物に非ず〜自分の子供も我が物に非ず、自分の肉体も我が物に非ず〜から
飛躍して「では、我というものは無いのではないか〜」で無我の我は無いに発展していった。

295 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 03:55:32.74 ID:yz+Kt+4o.net
>>294

それはどうかな。「我が物に非ず」という度ごとに、物の所有主体としての
「我」が意識され、強まる。

釈迦は、「我の物」でなければ、一体「誰の物」と考えたのか?「彼の物、
彼女の物」かw。彼も彼女も、他我としての我である。

296 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:09:50.89 ID:sS+GeESg.net
縁起してるものに実体がない、。その実体の意味が我になったと考えるべきだ。
実体=我ということだ。

非我と言うときは、それは我ではない、という意味そのもので、自分にかかわりなく、当のものには実体が存在せづ、
それは当のものの我ではない、実体ではない、という意味になろう。

わが身に関係なく、他のものに仮に実体があるとした場合、それは大事なものとして、疎かにできない、してはならない
ものとなる。ところがそういうものは天地にはないというのだ。なぜなら一切は縁起してるだけの世界だから。

人間特に自分を考察してみても、体内の諸器官は、一切縁起関係にあるもので、実体としてあるものはない。
我と言う実体はないのである。体外を見ても、同じだ。五感を通しているが、五感自体が縁起関係の根幹だ。一八界と言われる。
我という固定物としての実体はないのだ。
こんなわけで、「世界を空なりと感ぜよ」という覚者の教えがあるのだというべきだろう。

だから、非我というと、眞正の我が前堤となり、一方無我と言うと「有我」を前提とするが、これらは縁起世界での認識に他ならないのだ。
勝義諦の世界では、実相である、一相なもの、無相なもの、空相なもの、これこそ実体なのであり、それを有我とか真我と言って差し支えないのだと思う。

297 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:58:38.14 ID:/ckIpSvP.net
>>295
>物の所有主体

物の所有主体〜この主体というのが真我ならば、仏陀は真我、アートマンについては有るとも無いとも言っていない。
我は何物も所有しないものである〜と言っているだけでしょう。

298 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 14:52:46.32 ID:OWoMfeoZ.net
>>296

「色即是空」されど「空即是色」。「人間にとっての世界とは、人間の五感に映じただけの世界だから、
実は空(無)かも知れない。しかし、その世界こそ、人間がこれまで生存してきた、また今後も生存
し得る唯一の世界、すなわち現実界なのだ。人間が世界は無などと考えるのは、無意味なこと」。

「有は、人間の生存に直接の関係を及ぼす。無は、そうではない」。大いなる現実肯定である。

人類は、その発生以来、「専ら五感の知覚による、有無の一義的区別」によってのみ生存してきた。
人類は、有に100%依存しない限り、一瞬も生存できないからである。目の前に見える大地が
有でなければ、人間は一瞬にして奈落の底である。

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は実際は空ではない」ことを前提としている。

釈迦の縁起は、明らかに因果関係。因果関係は、忌むべき「業報論」を維持するための実体関係。
中論の空は、釈迦の縁起を「相互依存性・関係性・相対性」と解釈し直すことにより、それを換骨奪胎
したのである。「関係性」は「抽象観念」だから、まさに「空」。中論第一章では、釈迦の縁起
(これがあるから、あれがある)を明示的に否定している。

本質的に異なる釈迦の縁起と中論の空とを混同するから、大いなる混乱が生じている。

299 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 15:30:09.39 ID:/ckIpSvP.net
その通りw
>>211で指摘した通りである。

300 :123:2015/10/25(日) 17:40:48.01 ID:dFtPwLTQ.net
298.
縁起を否定したものが空である。
その両者に矛盾がない。
空は本質論であり、縁起は現実論であることになる。
だからして、その両者に生存しても良いことになる。
よってして、分裂すること無かれ、である。

301 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 18:11:53.20 ID:ueZS7mkI.net
>>300

釈迦の縁起(因果関係)なら、幼児にでもわかる。「火に手を近づければ火傷する」。

これに対し、竜樹の空(相互依存性・関係性)は、「もろもろの存在(有・現実界)の
成立原理」。

両者は、「本質的に別物」と考えるべきである。

釈迦の縁起・中道は、竜樹にとって「ヒントのヒント」ではあったかも知れないが、
それから「相互依存性・関係性」という、万物・万人に通じる普遍の真理を導き
出した竜樹の頭脳は恐るべき。竜樹が、古今東西並ぶもののない天才思想家と
評価される所以である。

「如来の本性は、そのまま生類の本性(即ち、生命)」。見事な締めくくりでは
ないか。

302 :123:2015/10/25(日) 22:33:32.58 ID:dFtPwLTQ.net
301.
如来の本性は、そのまま生類の本性、即ち、生命、か。
それを生命、生類に限定することは、誤りである。
それでは万物に適用されないことになる。
竜樹の空は、因果関係から、因果を省略したものである。だからして、それは、成立原理ではないことになる。
以上は試論なり。

303 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 23:55:07.53 ID:ueZS7mkI.net
>>302

「生類の『本性』」は、生命以外にはない。

万物を認識・使用できるのも、「生命」のみ。死者には不可能。

「因果」は、時間を含むから、時間を刹那にすれば、存在の構成という一枚の断面図
となる。それが竜樹の空である。そのために、中論は、時間を否定する。時間とは、
存在の変化のことである。諸行無常の存在は、時間を停止しなければその構成は把握
できない。動いている機械は、停止しなければ、その構造はわからない。過去も未来も、
それを認識・思考できるのは、「今ここの生命」。

死者にとっての最後の世界は、一枚の静止画面である。

「もろもろの存在の成立原理」という言葉は、「もろもろの存在の構成原理」に
変えたほうが、君のような誤解を招かないと思う。「成立」では、時間の概念が
含まれてしまうから。

304 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 05:51:04.02 ID:wZy+12he.net
君たちの信望している記憶、言葉
その知っているという感覚自体がどこから来たのかな?
覚えた事をこねくり回しても真理には触れることさえできない。
この言葉も覚えておくといい。

305 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 09:11:19.61 ID:DWFOLmtv.net
>>304

中論本文に直接取り組んで理解すれば解る。中論の表現は極めて難解だが、
「著者の言いたいこと」を気持ちの上でフォローしながら読むと、内容は
極めて当たり前のことを言っている。難解な表現に振り回されないで、
それに流れる「思想」を自分の頭で素朴に理解するよう努めること。

中論の思想は、論理矛盾は皆無で、一貫して確立された完全な思想体系。

注釈書は、あくまで筆者自身の「宗教観」に基づいてさまざまなので、
却って有害。

306 :123:2015/10/27(火) 07:21:42.75 ID:floY7pIE.net
303.
万物を認識、使用できるのか。
その認識は認識論の問題である。
その使用とは実践論の問題である。
それらは存在論ではないからして、構成原理とか成立原理とかに関係することには困難がある。
疑問のみ。

307 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 08:56:58.41 ID:bn1A79lY.net
西洋哲学では、当初は存在論であったが、それは認識に他ならないというので、存在論
と言わないで認識論というようになったのだ。
存在してるかどうかは認識によるほかないということで。
大した相違はないと思うけど。

生命と言う言葉が出てるようだが、仏教の世界ではおかしなことではないか?
日蓮教徒のいうことだと思うが、日蓮教は仏教ではないからな。

生命などないというのが仏教だ。生命があると考えること自体が、それを実体視して
以降の論を展開することになる。しかし、その論は破たんする以外ないのだ。それは何度も
仏教の世界、世界の哲学宗教の世界で、論じられてきてることではないか?

仏教では、それは欲心、有身見、に他ならないと言っているだろう?
仏教は、世界の真実は、空相、一相、無相、一、と言っているのだ。生命などお門違いの見解に下していると思う。

菩薩の修行でも、菩薩は、自分の肉体はゴミクヅとして放棄する、もし他者が望むなら、土塊の如しとしてくれてやる代物だ、と考えるとある。
そりゃそうだろう。釈尊自身も、肉体に執着することの愚かさを言明している。多寡だか、100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

仏教の理法にその存在はないのだ。

308 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:35:03.93 ID:bn1A79lY.net
生命があるという前提で、進化論や遺伝だとか、今のかしましい量子論が
盛んになったのだ。しかし、どれも解決に至ってはいない。
そう、個人には知能という能力があって、それはだれが考えるテストか知らないが、
その者の知見で、判定でき、知能指数=IQと喧伝されている。
お前はIQが低いから、馬鹿だ、とか、高いから優等なのだ、とか、それが人間関係を支配しているようだ。
生命があるとはIQが高いのだ、ということになるのだろう。

仏教およびほかの哲学の世界では、それは全く通用しない。通用すると考えているものがいれば、
学問するものではない。

でもしかし、IQ信仰が生じたということは、結局仏教が理解できないものが、現実的な処世術を求めた結果の
後出しじゃんけんみたいなものなのだ。

このIQを我だと考えているのだ。そして、それはその人の欲心なのだ。
欲心があるものが生命を持つものなのだ、彼らにとっては。
まったく釈迦の教えと真逆の思想が発生することになったのだ。

309 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:55:57.18 ID:2Lu25q20.net
>生命などないというのが仏教だ。

無いと言わず、有るとも言わない。しかしそう主張している人間は確実にいる(いた)のであるw
主張する人間がいなければ主張は残らず仏陀という記録も無いであろう〜w

それに仏教は二元論と最も対極にある主張である。
アンタの言っているのは完璧に二元論。
肉体と魂とがあり、肉体は死ねばごみ屑に等しく魂の牢獄が肉体〜との見方は二元論で西洋の
捉え方に他ならない。
原始仏教は多元論であり大乗仏教は一元論でありいずれも二元論の対極にあるものだw

310 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:04:06.83 ID:bn1A79lY.net
>>309
>アンタの言っているのは完璧に二元論。 肉体と魂とがあり

俺は肉体もなければ、魂もないという主張をするものであり、それが仏教だと信じちよる。
だから二元論者ではない。

肉体も魂「これのことを心と言うのだろう」があるとかどちらか一方があるとか言うなら、それは仏教の実相は
空相だとか、無相だとか、一相だ、というに反する。

原始仏教も大乗仏教も、その教えは一貫して一元論だ。
実相が無相なもの、姿なき姿を持つもの、ということだ。これだけが真実に存在するものなのだ。

そこで、この真実は実に一切の人間の悩み苦しみを、完璧に拭い去る者だ。
これを理解し、知るものはその時点で、救われているのを知る。これが悟りだ。

で、この真理をだれかに教えたいとお釈迦様は思われたのだな。

君は、そういうお釈迦様は人間で、命を持っていたからで来たので、死んでいてはできなかったことだ、だから
命は少なくとも、あるともないとも言わない、と曖昧なことをいって誤魔化しているだけだが、
お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

そして、「私係の姿を取ってこの世界に生まれてこの真実を教えようと教えまいと、この真実は永遠の過去から未来に渡って存在しているのだ」と三世恒有を説かれているのだな。

世界の真実が、無相なもの、一相なもの、であれば、その真実に従った論理は流れ出てくることは理解できるだろう?

この世界の真実を知った覚者は、インド以外にも、ギリシャのパルメニデスとか、中華の老子荘子などもいるのだ。

311 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:07:50.16 ID:bn1A79lY.net
私係の姿を取ってこの→わたしが仮の姿を取って

312 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:21:19.22 ID:2Lu25q20.net
まさにソレが無い無いの馬鹿主張であると言っているw

ゴータマは生存時に己の主張を宗教とは認識していなったであろう。
ジャイナ教やバラモンの教えも肯定し、他者の教えも聞き受け入れ
何ら排他的要素が無い〜これがまさに多元論であるゆえんだ。
また、ゴータマ生存時には大乗以降が空を看板としたような空を最前面に
押しての主張はなされていない。空を看板として仏教は多元論から一元論化された。

>自分の肉体はゴミクヅとして放棄する〜

この一句がまさに己の思考の二元論である事を証明している。
これは西欧の思考であり全く仏陀の主張とは異なる。

313 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:43:45.67 ID:QLnG0gSE.net
>>307
>100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

永劫の時間における100年の己の生命は、ほんの刹那の一度きり。しかし、
永劫・無限をも認識・思考できるのは、その刹那の生命のみ。

物事は、限りがあるからこそ価値がある。ダイアモンドが無数に産出するなら、
それは単なる石ころと同じ。貨幣を無限に発行すれば、紙幣は単なる紙切れ
となり、たちまちスーパーインフレが生じて社会は崩壊する。

この意味で、イエスのいう「永遠の生命」は、「地獄」の別名である。

314 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:55:50.74 ID:QLnG0gSE.net
>>306

いかなる対象も、人間が認識できなければ、それは存在・実在ではない。
実在でなければ、人間の生存に何らの直接の関係もない無用の妄想・空想。

神は、人間に認識できないから、人間の妄想・空想であり、人間の生存に
何らの直接の作用も有しない空想・妄想。

ゴキブリに神が認識できれば、ゴキブリにとっては神は実在である。

新たな物質が発見された場合、それが過去のいずれの時期から存在した
のかを証明できないから、認識の時点で発生したとしかいえない。

この意味で、存在論と認識論とは同一。

315 :123:2015/10/27(火) 18:42:04.75 ID:vHyPP5ar.net
314.
存在論と認識論とは同一、か。
論理的な思考能力がないということになる。
唯識の読みすぎである。
神は、人間に認識できない、か。
空想、妄想として、認識できれば、立派な実在であることになる。
新たな物質が発見された場合、
認識の時点で発生した、のか。
それは認識論であって、存在論ではないことになる。
その区別ができないことは欠陥である。

316 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:22:06.87 ID:OjlwV776.net
>>314
水たまりを見た。水たまりだと認識した。本当にあると思ったんだ。
しかし、近づくとそれは消えた。

水たまりは実在したのですか?


じつざい
【実在】
《名・ス自》

1.
実際に存在すること。
?「―の人物」
2.
哲学
われわれがそう思うからそこにあるように見えるというのではなく、われわれと離れて別に、客観的に存在するもの。

317 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:47:00.66 ID:HYBb+e0y.net
>>315
君は、君の目の前のPC(ビール瓶、机、その他何でもよい)の実在をどうやって
証明するのか。君の五感で知覚できること以外には、方法はない。

ある素粒子の実在をいくら理論的に仮説しても、観測装置によって観測する
までは、実在は証明できない。あくまで仮説に留まる。観測前の何時から実在
したかの証明は不可能だから、結局、観測時からと言わざるをえない。

そして、観測も、生命の機能としての、観測装置を通じた人間の知覚による。
死者には一切不可能。

そして、実在でない限り、人間の生命の維持にいかなる直接の影響も及ぼさない。

318 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:50:53.40 ID:HYBb+e0y.net
>>316

それは、知覚の誤り(錯覚)であり、「誤り」という」以上、「正しい
知覚」があることを前提とする。

319 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:57:48.82 ID:HYBb+e0y.net
>>316
人間界が、徹頭徹尾共同体である以上、実在判断のための知覚は、不特
定多数人のほぼ同一の知覚でなければならない。知覚異常者、妄想患者、
宗教患者の知覚を除外するためである。

320 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:02:31.13 ID:HYBb+e0y.net
すべての人間が同時に死に絶えたと仮定した場合、この世界の実在は、
誰がどうやって証明するのか?

他の種属の動物の知覚が、人間の知覚と同一であるという保障はない。

321 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:16:31.95 ID:2Lu25q20.net
仏陀の天上天下唯我独尊の意味は生存中の人間個々全員にとり
その認識の世界こそがその個々にとり全ての世界であるという意味であろう。
唯我独尊は仏陀のみが対象なのではなくは生存中の人間個々全員が対象なのである。
より正確には生存中の命あるもの全てというべきかもしれない。
ゆえにそこから慈悲の精神が生まれ、生きとし生けるもの全ての安穏を願う事につながる。

死後どうなるかなんてのは分からない事でありそんなものを妄想するなかれというのが正解だw
空で実体がない事を必要以上に強調し、さらに踏み込んで何でも無い無い〜と言うのは阿呆である。

322 :123:2015/10/27(火) 22:08:43.76 ID:vHyPP5ar.net
320.
人類が絶滅しても死刑は正義は実行されなければならない。
カントの言葉とか。
人間の絶滅と共に滅亡するような真理は真理ではない。
それは人間の認識とは関係ないことである。そこに存在論があることになる。

323 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 22:41:49.06 ID:HYBb+e0y.net
>>322

「正義」の意味は、キリスト教徒、イスラム教徒、そして恐らくは
仏教徒とでは全く異なる。

現実界(五感で知覚できる世界)に還元できない観念語は、意味の
伝達の機能も果たしていない。

言語の起源は、人間の生存に関係ある具象物を区別・特定・指示する
ために人間が作った「記号」である。

宗教の教典から「観念語」をすべて除去すれば、内容はゼロである。

カントは、「物自体」と「知覚された物」とを区別したが、彼は、
知覚できない物自体を、一体どうやって確認したのか。すべて妄想に過ぎない。

324 :123:2015/10/28(水) 01:31:23.58 ID:ewJOjmNS.net
323.
すべて妄想に過ぎない。
そのとおりである。すべて妄想である。
妄想でないものが、ある、と言っていることがバカである。
よってして、内容はゼロであることになる。

325 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 02:53:55.18 ID:fXjVi2td.net
>>324
不特定多数人(健常者)が五感で知覚できる世界(現実界)だけは、妄想では
ない。何故なら、その世界だけは、人間の生存が可能だからである。

326 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:06:15.43 ID:QnN0wQUH.net
妄想でも痛いとかはリアルなんだから、なんとかしないといかん、笑

327 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:48:05.05 ID:aQYMTi3Z.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3

宗教妄想
誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。
統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、
霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、
内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴で、
現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。
つまり自分自身を“神”の化身であると信じてしまう症例である。
人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。
これが極端になると新興宗教の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。

仏教における妄想
仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく
戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、
健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、
主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。

元寇の脅威にさらされていた鎌倉時代、大軍勢の外敵とどのように戦えばいいのか苦慮していた執権北条時宗に対し、
禅僧無学祖元は「莫妄想」(妄想することなかれ)と諭したといわれる。

宗教的、仏教上の妄想〜というのもあるが、基本的に妄想は精神障害のもの〜という概念でよろしいようだなw

328 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:56:20.71 ID:2nMgr31v.net
>>325
夢の中でリアルな肉体と五感があり、アイデンティティーもあり、仕事や飲食もするし社会もあって人々もリアルに生存しています
夢見の最中に今、夢を見ていると完璧に気づけないなら、実在や妄想について何も断言できないだろう。

329 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 06:22:14.37 ID:aQYMTi3Z.net
広義で人間は全員見当識障害だからその人間が描く世界は全部妄想と言っても
間違いとは言えない。
では人間-間-での「概念」の世界という枠内に限定すると、この線引きは目覚めた
健常者か否かという点にある。眠って夢見の夢内容や瞑想の夢内容、ドラッグ下での
夢内容などは当然その外にいる人間と概念として共有できない以上、それは妄想である。

健常者でない精神障害者のものは>>327のとおりであるw

330 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 12:26:14.83 ID:aQYMTi3Z.net
目覚めた健常者〜

つまり、区切るとこうなる。(あくまで広義、極論ではないという事を前提にw)

妄想
変容意識下
精神障害下

非妄想
日常意識下
健常者下

331 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:15:42.05 ID:+MEPRNxl.net
>>328

最新の学説では、夢は、睡眠時における脳細胞の混乱。覚醒時にすでに
知覚・記憶した対象が、支離滅裂な形で出てくる。従って、夢の」内容には
特段の意味はない。

332 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:21:05.40 ID:+MEPRNxl.net
>>327
釈迦とイエスとムハンマドが、宗教妄想の典型。信者は、その妄想が
感染したもの。精神病は、感染する(「感応精神病」)。

333 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:39:13.82 ID:+MEPRNxl.net
>>331への追加

睡眠のREM睡眠段階においては、眼球が、時々、無意味に急速回転
運動(rapid eye movement)をしている。夢も、同様な現象だろう。

334 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 16:32:53.00 ID:msC72+pU.net
>>1
>仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、

強調したかどうかはともかく、推奨されたのは「中道」に於ける「空性」だろ
「無」など強調していないし、「空」は「有」でも「無」でもない
仮に、有と言っても無と言ってもそれはどちらかに僻見した極端なのであり、それは中道ではない

紐よ、お前は何年経ってもオツムが進歩しないな

335 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:29:31.37 ID:4/FD3vbI.net
老荘では聖者は、虚無に遊ぶ、というけど。

悟りを開き解脱した仏教徒も、虚無に遊んでいる、のではないの?

法華経の如来受領品16では、釈迦仏は、自分の様子をそのように表現している。凡夫どもが阿鼻叫喚している下界を見ながら。

虚無思想とはいったい何なのか?大乗では虚無思想ではないと抗弁している。
仏教の虚無とは、実相の世界のことで、虚無土心か、真実の世界で、それこそが
現実の世界、平安の世界なのだ。虚無思想とは仏教が抗弁する以上、それは真実の世界ではなく、
真実と真逆の世界で、真っ暗闇の世界のことなのだ。そこで老荘の虚無は、そういう真っ暗闇の世界のことではないものとして、
言っているのであり、それは仏教と同じニルバーナでなければならない。

虚無の「無」とは、凡夫の世界の世界ではないので、凡夫があると思う一切がない、という意味なのではないのか?

とにかくも、経典が言うように、凡夫と聖者では、真逆のことが起きるというのだ。

336 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:43:28.62 ID:aQYMTi3Z.net
>334
www
笑わせるw

非有非無の空ならば良し、また別面で人生の我としては有であるのも良し。
私が阿呆と言っているのは↓のような無い無い〜馬鹿に対してであるw
空又は有ならば構わないが、無い、しかも無い一辺倒〜こういう馬鹿に文句を言い続けている。
このスレはオマエさんの様な人のレスを読めない幼稚園児が多くて楽しいなw
>>310
>お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
>つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

337 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 03:01:25.38 ID:/R+32fkm.net
>>336
では訊くが、「非有非無の空(1)」とは何かね?
そして、「人生の我としては有(2)」とは何がそう決めるのかね?
先ず上記の(1)と(2)とを説明してみてくれないか

但し、説明しだしたらお前は如来の最上なる確信を知らない事が露呈するのであり
それはお前が空性を誤解して覚えてる事を意味する

因みに、>>310氏に於かれては、頑張って良い事を伝えようと奮戦されているとお見受けできる
但し、少しばかり中道を軽視されているご様子ではと思われる

>>335
「虚無」とは言えども、それを「虚無」だと認め知れねば「虚無」かどうか問える筈もない
「虚無」だと知って始めて「虚無」だと言えるのであるから、言える以上に於いてそれは「虚無」とは言えないであろう
何故ならその「虚無」は「有る」事を前提としてしまうからである、そんなものをどうして「虚無」だと言えようか

338 ::2015/10/29(木) 07:37:16.80 ID:9nJp6inr.net
>>337
「では訊くが〜」で何でも訊けば今まで人のレスなど大して真剣に読まずとも
どの都度訊けて楽で良いよなww

私は最初から何度も繰り返し同じ事しか言っていないんだが?w
形而上の存在論では「有る」とも「無い」とも言えない。
宇宙の果て(始まり)が有るとも無いとも言えず、素粒子を半分にしてさらに半分にして残ったそれは
有るとも無いとも言えず〜w
回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい。

一方、個々人の実人生(個々生命体の実の一生上)その個々人、個々生命体はいる、(いた)のであり、
無いと断定することは「虚無」に他ならずそんなニヒリズムは仏教ではない。無の連呼こそ仏教の誤解である。

如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

339 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:29:28.03 ID:/R+32fkm.net
>>338
なるほど
教えてくれてありがとう

>(前略)有るとも無いとも言えず〜w
>回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい

と、以上がお前の考える空なのだね?
要するに、「自分以外は全て空」だと考える訳だ

で、自分は空と看做せないんだね?
お前はどれがお前なのかな?お前は有ると言えるんだろ?
有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
どれがそれなのかな?

>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

あらゆる宗教・思想・信条の何れにも劣らず最も優れたものを、お前は知りたいと思わないか、そうか
自分の不満や不如意が何によって為されるのかも解明されて有意義になるんだが、それも不要と言い切るか
勿体無い事を知らないってのは不幸だな

340 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:44:59.88 ID:9nJp6inr.net
無論、自分を存在論で見れば空だろうよw
自分の人生の主として見れば有に他ならないと言っている。
このレスを書いている俺が俺に他ならない。

>有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
生まれてから大いに変わるだろうよw
おぎゃーと生まれて何十年も変わらずおぎゃーじゃのままでは人間じゃないだろうw
人は成長しその都度一瞬一瞬変わる。

中論の読み過ぎでは、変化するものは「有る」に含まれず空である〜になるのだろうが、
それは冒頭の存在論に戻るだけでそもそもソレは空であると肯定している。

変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。
仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

根本の間違いがそこにある。大元を間違っていてはいくら踏み込んでも間違いの結果しか得られない。
大元が正しければ如来の最上の確信など不要であるw

341 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:22:15.69 ID:/R+32fkm.net
>>340
>無論、自分を存在論で見れば空だろうよw

そう考えてそうだと思う訳だね?

>このレスを書いている俺が俺に他ならない。

そう考えそう思う訳だね
考えて思って書くだけじゃ根拠が薄いと思われるがどうかな

>変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。

うん、そうだな
人生はモノじゃない故に存在の如何を問えないだろう
でなければ「人生とやらを出せ」と言われる

>仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

そうだな
それ故に「有る」と選択したり執着したりすると中道ではないと仏教は教えてる訳だ

根本の間違いはだ、有無のどちらかを選びたがるその執着所以の思いが間違ってると言えるだろう
大本が間違わなければ、全員如来の確信に至る、至って当たり前なのだよ

342 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:24:13.97 ID:9nJp6inr.net
では訊くがw
その如来の確信とやらを一言で示せw

343 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:33:08.55 ID:/R+32fkm.net
>>342
な?知らないだろ?
そして知りたがっただろ?

お前も自分を向上したいと願う希望があって、それが知りたがるんだよ
お前にもちゃんと素養があるし、決して洩れた人では無かったと言うそれが証拠になる

つまりだ、教えるのは構わんが、知ったらそれを貶せない訳で、その覚悟はあるかな?って話になる
何故なら、お前が知りたがってるそれはお前自身の正体の話になるんで、それを貶したり否定するのは
自分を否定する事になるからだ

どうかな?

344 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:35:43.64 ID:9nJp6inr.net
要は一言で示せないものを有難がって後生大事に人にも見せず
仕舞い込んでいるわけだw 
ひょっとしたらそんなものを持っていないのかもしれないがなww

345 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:45:27.12 ID:/R+32fkm.net
>>344
今のまま自分の正体もわからず仕舞いで良いか?

346 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:46:38.64 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww

もったいぶっていないでさっさと言えw

言えなければ言わずとも良いw
要はそんなものを知らなかった、あるいは無かった〜という事で良いよw

347 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:52:28.12 ID:/R+32fkm.net
>>346
じゃ、教えるが

先ず「涅槃」とは一体なんの事か、それを調べて、関係する経典も全部読んで解明してみればいい
如来(釈尊)はその涅槃こそがあらゆる思想信条宗教諸々の中にあっても最上で他に類がない事を突き止められたんだよ

「触なく感受すると言う、その道理は(外道に)ない」と如来も教えている
良く調べてみろ、お前は世界の全てを知り尽くせる事になるから

348 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:08:50.87 ID:9nJp6inr.net
教えるが、調べろ〜

って全然教えてないだろww

阿呆かw

生徒:先生! ○○について教えて下さい。
先生:分かった、教えよう。 調べよそれが答えだ〜。

こういうのは教えた事にはならんw
幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿になると理解不能に陥り、
一般的会話が成立しない。まさに>>330の妄想の範疇に陥るw

そのような姿勢では一生かかっても私の足元にも及ばないわw

349 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:24:37.12 ID:9nJp6inr.net
さらに繰り返し何度も言うが、
原始仏教は多元論であり大乗で一元論化された。
仏教は本来多元論である。空をことさらに強調する必要は無いのである。
存在論に必要以上にフォーカスをあてる必要は無い。

必要がないにも関わらずさらにその上を行き、無い〜無の一辺倒〜なんてのは言語道断だ。

仏陀の無所有の主張が無我につながり我が無いなどというとんでもない誤訳に発展したわけだw
仏陀の無所有の主張も理想ではあるがその理想を100%実践しようとすれば一瞬たりとも生きられまい。
つまり生きる上で無所有というのは達成できない理想なわけだ。
別の例えでは生き物を殺すなかれ〜というのも徹底すれば生きられなくなる。モノを食って生きる以上生きる事は他の命を
我に吸収する事である。仏教は色んな教えをあちこちから取り込んだものだ。こういうのはジャイナ教の影響が大きいのであろう。
ジャイナ教の理想は生まれたら一切の食事をせずにそのまま死ぬことであるらしい。そのような極端な姿勢では生きられない。

つまり、そこに中道が出てくる必然が有る訳だ。
中道は生きる教えである。非有非無を空というならば不苦不楽が中道である。
理想は理想として、極端な生き方は死を志向することになりそのような生き方の放棄こそが仏教なのだよw

350 :123:2015/10/29(木) 13:34:01.90 ID:XAJn19Kw.net
349.
無我であるところの自我が、いかに生きるか、の問題である。

351 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 13:44:58.97 ID:9nJp6inr.net
無所有や生き物を殺さない〜というのは達成不可能な理想に過ぎない。
達成しようとすれば死ぬ。

仏陀は死の勧めを説いているのではない。
快楽主義に陥らない程度に所有せよ、必要最小限を目指して所有せよ、死なない程度に食べよ
喰い過ぎて飽食に陥るな〜と教えているのである。
何でも行き過ぎは何もしないより悪い状態に落ちる事になるという事だ。
かといって快楽主義に陥るなかれだ。
どの程度か?といってもそれは個々人、時代時代により異なるので一概には言えないww

352 :123:2015/10/29(木) 14:06:07.01 ID:XAJn19Kw.net
351.
生死は問題とならないことになる。
それは結果であるからである。良い結果、悪い結果とかは問題とならないことになる。
中道とは何か。
それは規準を設定しないかぎりでは議論とならないものである。だが、そこには規準が設定されていない。よってして、判断停止という結果となる。

353 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 14:28:39.81 ID:/R+32fkm.net
紐よ、有身見を調べてみろ
まんまお前の状態の事だ
お前が賢いのは解ったから、その賢さに溺れる自分を一端捨ててみれば良い

出来ないと言うならそれまでの話
お前の抱える一切の武器を捨てれば身が軽くなるよ

354 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 15:59:51.71 ID:9nJp6inr.net
武器?
何を言っているのやらw

まあ、会話不能な妄想人と議論しても無駄だな。

「教えよう。 調べろ。」が答えの人だからなwww

355 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:32:16.47 ID:dsXsE/2F.net
その程度って自分で決めていいことなのか?
誰の何のための程度なのか?
仏陀ってのは自分で程度決めて悟ったのか?

356 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:36:47.93 ID:9nJp6inr.net
自分で程度を決めたのだろうな。
自灯明は自分を島とする教えだ。
当初はかなり厳しい基準であったろうが、後に時代に緩くなった感は否めない。

357 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:35:47.23 ID:/R+32fkm.net
>>355
色々な人から色々な「最高」を聞いてはみたが、どれも納得できなかったから最上を極めるまで諦められなかったのが釈尊でしょう
仏道は全ての人の為に全ての人の理解度の種類を問わずに開示されている事になっていて
それは結局、自分の為にある事になっていると言える
「程度」も結局は自分が決める
諦めの前に躊躇してしまうのは「挫折」で悔やまれるだろう
もし諦められたなら、それはお目出度い事この上ないだろう

四諦の「諦」とは諦めると言う意味で、それが最上の真理となるからそれ以上何もない事が明らめられる、と言う事

>>356
自灯明もお前は誤解しているんだな
自灯明は「自己に於ける四念処」を拠り所にしろと言う意味だ
つまり、

身念処・受念処・心念処・法念処

この四つを拠り所にせよと言うのが自灯明の本当の意味なんだよ
それは長部経典16の大般涅槃経にちゃんと出てる

358 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:39:51.58 ID:9nJp6inr.net
>>357
お前は「如来の最上の確信」を答えてからモノを言えw

調べろ〜が答えなど幼稚園児でも却下するわw

359 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:47:07.74 ID:/R+32fkm.net
>>358
いやいや、そもそもその程度も知らんでお前は批判していたんだろ?

世の中一般の感覚じゃ、それって「知ったかぶり」じゃないのかな
理解出来ない・それ以外に悪意もないなら、どうして批判したがる理由があろう

お前が操るその手元の機械は検索も出来ないのかな
お前の首の上にのっかってるそれは単なる飾りなのかな

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

360 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:49:16.22 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww
>>346にループするだけだw

何を答えようが答えた瞬間にお前は論理破たんの矛盾に陥る。

361 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:52:32.61 ID:/R+32fkm.net
>>360
再度書くぞ?

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

362 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:53:08.49 ID:9nJp6inr.net
wwwww

難しくて解らない、教えてくれw

363 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:55:38.90 ID:/R+32fkm.net
>>362
何が?

364 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:57:22.84 ID:9nJp6inr.net
もういいよw
やっぱお前は会話不能の妄想人間で終了だww

365 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:06:36.18 ID:/R+32fkm.net
知ったかぶりのままで良いのか、奇特な奴だな
口先だけで生きて物事は上っ面しか観られない薄っぺらな生き方で
本当にそれで満足なのか

366 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:09:48.47 ID:9nJp6inr.net
訊けば、
「難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃない」
で、
「難しくて解らない、教えてくれ」
でも、
「何が?」

いつまでももったいぶって答えず、答えは、「自分で調べろ〜」

こういう輩は世の中一般の感覚では関わらない方が良い人間という事になるw
妄想の精神障害者に違いないだろう。

367 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:16:31.73 ID:/R+32fkm.net
>>366
「どこ」が「難しく」て解らないのか言わなきゃ答えようがない訳だが?

ググって解る事ならググれば良いだけだろ?
ググって解らない部分を訊きたいんじゃないのか?
ググるべき単語はちゃんと示した筈だぞ?
この程度も自分で努力出来ないとか、そんなクズ過ぎな訳じゃないだろお前は

368 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:21:36.52 ID:9nJp6inr.net
分かった分かったwww
だからもう良いと言っている。

分かっていない人間の無理やりな回答など屁のツッパリにもならんからなw
グーグルの答えが回答らしいw

分からない事は全部グーグルで調べよ〜

つまり言ってる本人も何も分かっていないという事だろうがw

369 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:39:07.48 ID:9nJp6inr.net
そもそも、私は、>>338で、>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。〜
>>340で、>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。〜

と如来の確信だの涅槃だの不要と切って捨てているw

それが必要と主張する人間がそれを懇切丁寧にグーグルにない事も含めて不要と切って捨てる人間に説明する必要があるだろうw
なんせ相手は、「難しくて解らない、教えてくれ」と頭を下げて聞いているんだからなw

それを「何が」「ググって出直せ〜」で回答するのは、答えを知らない阿呆であることを証明しいるに他ならないwww

370 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:52:19.77 ID:/R+32fkm.net
>>369
つまり、お前はググってすらいないと言う事だ
全て難しくて用語すらから解らんので手取り足取り
基礎から教えて欲しいならそう言えば良いだけだろ

相手を馬鹿にして自分の無知の代償にする生き方は楽しいか?

371 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 19:59:04.87 ID:9nJp6inr.net
阿呆を相手にしても時間の無駄だなw

372 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 20:00:24.90 ID:/R+32fkm.net
そうだなw

373 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 21:34:02.90 ID:3kmyPhCN.net
そういう対話も仏道修行何だろうな。w

374 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 15:05:35.26 ID:VrrwVQen.net
キリスト教ではサタンの智慧を叫ぶ。サタンは蛇の姿をしている。
蛇は人に巻き付き、人の自由を奪い、最後には殺す。

嗟嘆の智慧とは、真実の智慧ではないものを真実の智慧として、支配するものだろう。
サタンの智慧との戦いをキリスト教では教えるのだ。

アダムとイブはサタンの智慧にやられたのだ。
サタンの智慧からの開放が人類の開放ということだろう。

仏教ではどうか?
悪魔と言うものが出てくる。修行を妨害するために。
醜行の目的を知っている修行者には、それは恐れてはならないものだ。それは実体のないのに、実体があると偽って
修行者をニルバーナへ至らせないものとして、現れてくる。

その正体は、人の欲心である。
真実である空想をこそ愛すべきであるのに、身体とそれのもたらす快楽に誘惑するのだ。

キリスト教では天子がサタンであるオロチと戦うさまが教えの主要な部分を占めている。
仏教では、悪魔と戦う天使に相当する存在はないんだな。

仏教では、聖者を冒涜するものの罪の報いを大きいと教える。聖者を冒涜するものは悪魔だ。
また、聖者は冒涜されないとも。聖者を冒涜するものの行いは、冒涜するものに帰るという。
風上に向かってごみを投げ捨てるものに例える。聖者は真実を得てるもので、
真実はいかなる時も傷つけられるものではないので、聖者を傷つけるものは、自分を傷つけることになるのだ。
聖者を傷つけるとは真実である言動を拒否することである。

キリスト教の天使とは、人の善心である。善心は常に働いているのだ。

四正勤とか、四念所とかの修行をするときは、善心とサタンの戦いなのだ。

375 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 15:07:48.19 ID:VrrwVQen.net
空想→空相

376 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 16:58:32.34 ID:22HOFu/4.net
いずれにせよ宗教に毒されている輩は全員精神障害者の妄想語りに過ぎない。
自分が病気である自覚がないのが痛々しいがどうにも救いようがないようだ。
宗教に対しては常に自分が選択する位置づけを保つことが重要、最重要である。
宗教に毒されて100%服従するともう再起不可だ。

仏陀の自灯明は己を洲(島)として己だけに頼れと教えている。この教えが仏陀の教えの中で
最も重い。最重要な教えだ。

ここから入らねば宗教の餌食となり救われない一生を送る事になる。

377 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:03:57.67 ID:VrrwVQen.net
1.世界は永遠であるのか
2.世界は永遠でないのか
3.世界は有限であるのか
4.世界は無限であるのか
5.生命と身体は同一か
6.生命と身体は別個か
7.修行完成者(如来)は死後存在するのか
8.修行完成者(如来)は死後存在しないのか
9.修行完成者(如来)は死後存在しながらしかも存在しないのか
10.修行完成者(如来)は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか

四諦の法門の前に、縁起の理法と中道を説いている。これによれば、上の無記の答えは出ているというべきではないか?
初転法輪経にあるだろう?

378 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:44:10.66 ID:22HOFu/4.net
仏典には仏陀を神格化した表現がごまんとあるw
麻耶夫人の右脇から仏陀が産まれたとか〜。
宗教馬鹿はこういう表現を全部信じるw 結果戻らぬ精神異常の世界に入って行く。

賢い現代人は仏典から神格化された可能性のある表現を全部取り除き、有益な教えだけを
自ら選択し己の生き方の参考にする。 下らん教えも多々あるからそういうのは全部放棄せよw

379 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:46:52.83 ID:VrrwVQen.net
>>376
■□■<3、犀(さい)の角>■□■
--------------------------------------------------------------------------------
35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。

44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

380 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:51:45.28 ID:VScyHT+K.net
やはり無いと言ってもヒ(霊)は残っているんでしょうかねー。

381 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 17:54:59.78 ID:22HOFu/4.net
>>380
有るのか無いのかは分からない。
有ると信じて敬うのは大いに結構な事ではある。
無いと切り捨てるのはガキに過ぎない。

382 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 18:40:27.70 ID:22HOFu/4.net
整理しようかw

神仏と言うが、
神の方は有ると信じるのは大いに結構。
仏の方は神格化された話を鵜呑みに信じるのは馬鹿。

こういう構造だなw

383 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:32:58.48 ID:VrrwVQen.net
>>349
>原始仏教は多元論であり大乗で一元論化された。
仏教は本来多元論である。空をことさらに強調する必要は無いのである。

大乗で一元化されたというからには、それは実相が一つのものという意味なんだな?
しかし、原始仏教では実相は多数あったというのだな?

縁起と言う理法は原始仏教では説かれてなかったんか?
説かれていたよね?
多元だとすると、それぞれの元は、それぞれに自分が実体あるものだ、と主張していることになるだろう?
そしてお互いに相手は実体のないものだと主張し合う状態になるだろう?
相手が虚偽だから自分が実体あるということだ。真実だというのだ。
お互いに相手も自分も真実だというのなら、多元論は発生しない。お互いに違う、と主張し合っているから多元論が生じるのだ。
お互いに真実だというなら、一元論になる。

384 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:33:48.18 ID:VrrwVQen.net
>>383つづき
相手が虚偽だから自分の主張が真実となるという関係にあるのではないか?お互いにそう言い合うのだから、それぞれが縁起関係で成り立っているものを
実体があると主張しているのだ。こういう縁起の存在を実体がないというのだろう?

これは宗派間の争いを指すが、ひとりの人間においても生じるのだ。
縁起関係にあるものの一方に執着している場合だ。実はそれは一方だけに執着しているのではなくて、
両方に執着しているのだ。両方に執着すればたちどころに紛争が起きる。絶え間のない紛争だ。
執着している限りその紛争はやむことがない。恐ろしいね。

なぜ両方に執着してることになるか?一方に執着するとは、他の一方を捨てるということだからだ。
他の一方を捨てたい、ということはその存在をマイナスの意味でその存在を認めるからだ。そして好むものを同じく認め
それを得たいというのだ。

こういう状態は人を永遠に苦しめる。これから解放されるためには、双方が縁起関係にあることを認め、その上で、それぞれが独立に存在できないもので、実体がなく、両方に執着してはならない、
と諦めなければならないことになる。

この原理はあらゆる面に適応されるというのだ。
例えば、おじゃる氏の場合を考えてみよう。おじゃる氏はお腹が不快だという。
癌かもしれないのだ。その不快は苦痛なのだ。この苦痛からおじゃる氏は解放されたいと願う。
その時おじゃる氏のとるべき考えは、子の苦痛はどうして起きたのか?と。
それはお腹の快適ということがあるから、それへの回帰を求めてこの苦痛が発生しているのだ。と。
その快適と今の苦痛は縁起関係にあると認めなければならない。そこでお腹の快適への執着は捨てなければ今の苦痛は解消しないはずだ、と。
そこでおじゃる氏は思っているお腹の快適はそもそもないもので、それゆえに、今の苦痛もないのだ、と諦めなければならない、と。
そういう風に界への執着を放棄するなら、苦痛もなくなるはずではないか?

一切の変化は相対的にのみ存在する。両方は実体がない。つまり変化には実体がないので、真実は変化していないのだ。パルメニデスが言うように。

これが仏教であるから、多元論はありえない。

まあ、説明が難しいので理解も難しいだろうが。

385 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 22:46:35.06 ID:22HOFu/4.net
人は必ず死ぬ。
私も癌だw
痛い思いも腐るほどしたわww

おじゃる氏も同じ事。
痛いのは耐えねばならない。
宗教のごまかしでは痛みは消えない。
執着の放棄等無駄。

痛みは死ぬまで耐えるよりない。
鎮痛剤や痛み止めの麻薬の使用は積極的にやれ。

こういうのを未経験の人間、しかも宗教かぶれの阿呆がいうからダメなのだよw
言っている事が全部嘘だからな。

386 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:04:14.88 ID:VdQUMJrf.net
>>379
釈迦は、家庭も、友人も、社会も、すべてを否定する人格異常者。重度のうつ病
患者であることは明らか。

時々、美しい、楽しいなどと叫び出すから、双極性障害(躁うつ病)である。
最新の学説では、双極性障害と統合失調症との間には、密接な関係が認められ
ている。

スッタニパータは、釈迦の異常な精神性と聖俗とを区別する人間差別とに満ちており、
聖書とともに、「読んではならない、読ませてはならない」悪書No.1。
南アジアにおける小乗仏教国の惨状を見よ。

釈迦の、無、無我、一切皆苦は、彼のうつ病の症状としての、すべてを否定的に
考える「微小妄想」に過ぎない。「コタール症候群(Cotard Syndrome)」と
呼ばれる。

釈迦の「無我」は、「己の我を以って無我を説く」という、小学生にも笑われる
論理矛盾。どこにも通用しない異常心理。

釈迦の精神病理と論理矛盾をとすべて是正したのが、竜樹の中論を祖とする
大乗仏教である。釈迦への異常な愛着は、釈迦の精神病の感染に過ぎない。
克服すべき最大の執着と狂気。

大乗仏教は、釈迦への個人的執着から離脱し、釈迦は究極の存在である「生命」の
象徴、即ち「飾り物」と化している。

387 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:17:32.54 ID:22HOFu/4.net
隠居氏には7割同意する。
仏教スレではトップであるw さすがだw

では、3割の差異は何か?

私は龍樹信仰も仏陀信仰も同じ構造であろうという見方をする。
隠居氏は仏陀信仰を咎め龍樹こそ〜と言うが、私は○○を信仰〜する事自体を
咎める。龍樹信仰はダメだなw 当然仏陀も信仰しない。

そもそも何か自分以外のモノに頼るという事自体が「自灯明」の大原則に反してアウトだろww

388 :神も仏も名無しさん:2015/10/30(金) 23:54:55.64 ID:22HOFu/4.net
頼るとう事で考えれば、

ギターの上達方法はコピーだそうだ。
つまり上手い人のプレイを真似て練習する。
コレは他を頼る事になる。

つまり、最初から他を頼らず全て自分一人で上まで行こうとしてもダメなんだろう。
はじめは他を頼るべきであり、ある程度まで行けばその頼りの紐を放棄しなければならない。
はじめから終わりまで頼りっぱなしではダメという事だ。

仏陀の教えなど「自灯明」だけで十分だw
まあ、他にも2〜3あってもOK〜

どっぷり首まで嵌って身動きできない状況に陥るともうドツボという奴だww

仏教スレにはそいういう連中ばかりだぞwwwwww

389 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 03:16:35.04 ID:5Y4qXrCT.net
>>387
私は、中論は宗教とは思っていない。むしろ「宗教破壊の書」だと思う。
自然科学を含むすべての学問や人間の一般の生活の基本指針である。
中論の空(相互依存性・関係性)は、万物・万人に妥当する唯一の
普遍の原理。

何しろ、「世間の一切の慣習」と「物質現象」とを、「無条件の前提」としている
のだから。そして、「世俗的なことにもとづかなければ、第一義は説示されえない」
という。つまり、「世俗=第一義(勝義)=涅槃」ということ。そして、「如来の
本性は、そのまま生類の本性(即ち、生命)」で締めくくる。つまり、「最も
当たり前の生存努力」である。

しかし、「当たり前のこと」こそが、人間にとって唯一の普遍であり、真理で
ある。「当たり前のこと」の中に価値を見出すことが、実は最も難しいのでは
あるまいか。仏教的には、「悟り」と呼ぶに相応しい唯一のもの。

「当たり前」ではないことをしきりと追求する宗教が、むしろ人間の生存から
遊離しているのである。だから宗教は、世の中にさまざまな害悪をもたらしている。

390 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 05:29:56.75 ID:z9mWgKG+.net
>>376
自灯明の意味はこう言うことだぞ?

身体の不浄を観ずる(不浄観)
一切の受は苦であると観ずる(一切皆苦)
心の無常を観ずる(諸行無常)
いかなる事象も自分に非と観ずる(諸法無我)

この四つを四念処と言って、七科三十七道品のうちのひとつ
上記の四念処に依る事を「自灯明」って言うんだよ
テメーの我とかを頼っちゃうとな、我空法空が成立せず
それは我執法執のままになっちゃう訳
テメーを頼れって意味じゃ無いんでヨロピコ

391 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 05:37:22.93 ID:z9mWgKG+.net
>>389
中論は宗教じゃもちろんない罠w
ありゃ数ある論書のひとつに過ぎない

>「世俗=第一義(勝義)=涅槃」ということ

大間違い。
そりゃ梵網経に言う所の「現生涅槃論」にあたり、邪義でーすww

>「当たり前のこと」こそが、人間にとって唯一の普遍であり、真理である。

オメーの「あたりまえ」は六根由来で、しかも触に由来してる
つまり、オメーのあたりまえはヘレンケラーさんには通じない不完全な「あたりまえ」って事になる
お分かりかなぁ?

ブッダの当たり前を説きたいならオメーもやってみりゃええし、やらなきゃわからんよwww

392 :神も仏も名無しさん:2015/10/31(土) 10:27:51.82 ID:IrodlM2h.net
>>389
>万物・万人に妥当する唯一の普遍の原理。

そもそも、普遍の理論というのはあるとは思うが未だ見つかっていない。
アインシュタインの相対性理論ですら普遍の理論ではなく極小世界では量子力学
で説明せざるを得ない〜。

私は涅槃だの悟りだの極楽浄土だの世の中の宗教が有難そうに志向する全てのもの
を放棄する。そのようなものを志向する「生き方」自体が間違いである。

まさに隠居氏の言う通り「当たり前」の事を実践し当たり前に死ねれば本望である。
ちなみに当たり前のことも人にとり普遍とは言えない。ベーシックでは普遍でも
個々人では一概に何が良いなどとは断定できない。>>281 池田氏の説を参照


>>390
お前は宗教キチガイの妄想人間で論ずるに値しない人間であるww

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