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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

265 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 19:14:38.01 ID:rBhLzO/I.net
>>264訂正

真実平んどうする行為→真実へ引導する行為

266 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 20:14:56.61 ID:qhlqNM/f.net
>>264
導くというが、ここがそこなんだよ
その広大無辺な平安の世界ですったもんだしてんだよ。

まさにここで、前のめりに幻とすったもんだしてんだよ
素直に教えられたとおりに、執着せずに離れろというのにw

執着しないというのは、単純に触れるなというのだよ。アンタッチだ。
なんかこねくり回して違う意味を付けているから間違うよね。

実相とか実体とか観念遊びも止めろというの。
あっ、ここは観念遊びのスレでしたね。ごめんごめん。

267 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 00:15:21.61 ID:9VGt3LfL.net
なるほど、
それもただしいのかもしれませんね。

268 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 08:29:22.58 ID:/Pvc+Y54.net
>>266
まだ筏が必要なんだ。

269 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 11:42:30.15 ID:eUSeSnat.net
>>266
が正解なんだが、266も一瞥経験がない頃は他の人と同じだったと思うけど、、、

270 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 12:16:55.44 ID:mxgP2wEa.net
《プラトニックラヴ》
プラトンはイデアを愛していたのですね。

プラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、
真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする。
そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である。

271 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 17:36:01.45 ID:/Pvc+Y54.net
プラトンはパルメニデスに屈服したんですよ。まさにイデア論を論破されたんです。「パルメニデス」で。
イデア論など学んでも何の得もありません。彼の妄想にすぎないのです。
サーンキア学派のほうが真実に近いです。

272 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 20:50:30.31 ID:U/NCp6Eo.net
パルメニデスの「ある」とプラトンのイデアは同じ。
プラトンはパルメニデスを参考とはした。
屈服したのではなく言いがかりのような批判を受けただけ。

273 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:05:52.77 ID:gXbBhQYi.net
Fr.2
  いざや私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ――
  探究の道として考えられるのはいかなるもののみぞ。
  その一つは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、
  これは説得の女神の道である(真理に従うがゆえに)。
5  他の一つは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、
  この道は全く探ねえざる道であることを私は汝に告げる。
  なぜならば汝はあらぬものを知ることもできなければ(それはなしえぬこと)
  語ることもできないから

Fr.3
  なぜならば思惟することとあることとは同じであるから。

Fr.4
  現前してはいないけれども知性には現前しているものをしっかりと見よ。
  あるものがあるものにつながっているのを切りはなすことはしないであろう――
  それが秩序をなしてあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、
  集まっているにせよ。

Fr.5
  どこから始めようと私にとっては同じこと。
  そこへ私はいつか再び帰り着くであろう。

274 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:06:58.08 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
Fr.6
  あるもの(のみ)があると語りかつ考えねばならぬ。なぜならそれがあることは可能であるが
  無があることは不可能だから。このことをとくと考えるよう私は汝に命ずる。
  探究の道として私が汝を遠ざけ<禁ずる>のは先ずこの道[無の道]、
  しかし次には死すべき人間どもが何ひとつ知ることなしに頭を二つ持ちながら
5  さまよい歩く道を汝に禁ずる。すなわち彼ら死すべき者どもの胸の中では
  困惑がその迷い心をみちびき、彼らは聾にして盲、
  ただ呆然ともの識り分かちえぬ群衆となってひきまわされる。
  彼らはあるとあらぬが同じでありかつ同じでないとみなす。
  彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある。

Fr.7
  なぜならばこのことあらぬものがあるということはけっして証しされぬであろう。
  いな汝すべからく探究のこの道から想いを遠ざけよ
  また汝が多くの経験に支えられた習慣にしいられてこの道を行きながら
  もの見分けえぬ眼と鳴りさわぐ耳と舌とを働かせることのないように。
5  汝はただ理(ロゴス)によってこそ私によって語られた異論多き論駁を判定せねばならぬ。

Fr.8(抜粋)
  語られるべき道としてなお残されているのはただ一つ――
  すなわち(あるものは)あるということ。この道には
  非常に多くのしるしがある。すなわちいわくあるものは不生にして不滅であること。

275 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:14:30.41 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html

↑上のサイトの資料とする項目にあるパルメニデスの詩の形による意見の抜粋である。

276 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:43:25.93 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/plato/plato.html#plato_jikohihann
3-1、イデア論論駁 ―『パルメニデス』―

ここがイデア論の反駁が解りやすく書かれているようです。

277 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 03:38:56.99 ID:vNKKVEt9.net
引用は、プラトン哲学についての素晴らしく分かり易い説明だが、イデア論は、
生命論から見れば、完全な妄想に過ぎない。

1.すべてのイデアは、個の人間が死ねば、肉体は腐敗して消滅するから、死者
にとっては一切生じない。「個の魂の不死」などありえず、あるものは「人間
という動物の一種属の生命」の継続のみ。他の種属のイデアは、人間がその
種属に成り代わらない限り、絶対にわからない。人間に「共通のイデア」がある
としたら、それは専ら、種属としての人間の肉体(生命)の維持のためである。

2.すべてのイデアは、「具象物を知覚して生じる、生命の機能としての心理現象」
に過ぎず、時と場合によって、百人百様である。万人に、また同一人にとっても
時と場合を問わず、「美(という心理現象)がある」のではない。「美しい花がある。
花の美しさなぞ、ない」のである。

3.「善」というイデアは、人間の生存(共生)に不可欠な技術概念である。
他者の生存を助ける行為を「善」と呼び、他者の生存を害する行為を「悪」
と呼ぶ。従って、善悪概念は、特定の生存共同体によって異なることが多い。

4.すべての人間は「洞窟の囚人」としてのみ生存している。他のそれぞれの
動物の種属も同じ。「松明の影」のみが、その生存可能な全世界である。松明が
見えるとしたら、それは、その種属における狂人のみである。

5.イデア論は、イデアを現実とするという倒錯により、宗教やイデオロギー
による争いを引き起こし、人類に巨大な害悪をもたらし続けている。

6.パルメニデスの批判は、イデア論に対して可能な多数の批判の一つとして、
論理的に正しい。

278 ::2015/10/22(木) 16:25:56.77 ID:VT2lrEf5.net
昨日のホンマでっかTVは面白かったなw

人間は見たいものしか見ない生き物である〜
楽観的な人間は悲観的な事を見ず楽観的な事しか見ない。
反対に悲観的な人間は楽観的な事を見ず悲観的なばかり探して見る。
これで性格が形成されるのだが、トレーニングにより悲観人間を楽観的思考人間に変える事ができる。

下手な宗教の修行よりこういうトレーニングでもやる方が遥かに有意義だなw
悲観思考の人間が楽観思考の人間に変わり明るい人生を送る事ができる〜w

大体、輪廻転生なんて妄想に嵌っているのは、そこから逃れ離脱することが解脱なとほざいているが、
実のところ一回きりの人生なんて嫌だ〜何度も「我」を繰り返したい、それが当然だ〜って輪廻を志向している
からではないのか?ww
なんせ人間は見たいものしか見ない生き物だからなw 輪廻しか見ない人間はトレーニングでそこから離脱する事が
大事だなw

279 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 19:08:25.37 ID:omUlnGIu.net
創造主の作品作りの才能から無を悟れるお

280 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 21:29:53.06 ID:p1RnaOoZ.net
旧約聖書の創造の章で、女の神と男の神様が、自分たちに似せて人を男と女に作ろうと
したとあるね。これって初めの唯一の神ではないと言わなければならないね。

どういうことなんだろう?俺は思うにこの女神男神は、サタンに支配された
アダムとイブだというなら、納得できる。あだむといぶは、さたんにだまされてりんごをくったのだが、
リンゴを食えば、神のような智者になると騙されたのだ。そこで、アダムとイブは自分たちを
神になったものとして、そのように間違っておもって、自分たちに似せて人を男女に作ろうと言ったというのなら、
つじつまが合うね。
創った人間どもは、不完全であった、当然。それ以来サタンの支配する世界になっていると、。

281 ::2015/10/23(金) 07:47:46.03 ID:HCaioZaA.net
この日のホンマでっかTVはもう一つ面白いネタがあって、
コレステロールは若干高い方が良く、体のコレステロール値は食べるものに
影響を受けない。卵や油を多くとろうが少なくとろうが体のコレステロール値
は変わらない〜というものw

これに対しての池田氏の補足がまた良いw
(ベーシックな部分では人間に普遍的なものもあろうが、)個々人により何が良いか
悪いかは違うので一概にコレが良いだの悪いだのは言えない。つまり酒を飲んで
調子が良ければ飲めば良いし酒飲んで調子悪ければ飲まなければ良い〜ww

これはまさに宗教にも言える事だわなw
だから伝統の宗教がカスと言うんだよw
人間に普遍的な事など当たり前の事なので説くに値せず〜では何が説くに値するのか?w
それは個々人で異なるので説いても意味がない訳だ。というより何を説いても良いがそれを
受け取る方が何でも鵜呑みにする姿勢が阿呆という事になる、というべきか?w

つまり伝統で一から百まで伝統に従え〜なんてのは愚の骨頂w
宗教の教えは教えを受ける方が取捨選択するもの。自分に合うものを受け入れれば良い、というより
そうするべきで、全部が全部鵜呑みにするのは阿呆だ。
つまり自力、自灯明(自分で取捨選択する)こそ宗教の望ましい在り方で、他力で題目唱えて救われたい
なんてのは阿呆らしい在り方に他ならず、まさにそういうのは宗教というより文化として伝統を守る価値しかあるまいw

282 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 11:44:41.53 ID:Xd6kZGhQ.net
おじゃる氏?
死んだのか?

283 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 13:00:51.31 ID:jfzV+hlN.net
 
>おじゃる氏?死んだのか?

内臓の働きが悪いので、もう、そのうちに逝く予定で おじゃる

おじゃるの場合は
「輪廻している」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
掴もうとしている想いに依存して
異蘊相続に依存して
(前世の記憶はないけど)
又、次の、この世の生に戻り来る

 − これに対して −

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 877
かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って
諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない
思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない

(「無明の世界から → 解脱へ」と導いていく)

284 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 13:11:23.55 ID:1jENREYX.net
http://myougamono.main.jp/

285 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 16:15:48.66 ID:Xd6kZGhQ.net
>>283
>内臓の働きが悪いので

感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ。
あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?

仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ。

286 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 17:27:12.17 ID:Xd6kZGhQ.net
空と言う真実に逆らえる思考はないのだよ。逆らっている限り、空と言う真実から罰を被るだけだ。

縁起の輪から抜け出せ。そして縁起を蹂躙してしまえ。そして、これからは縁起を創設していけ。
縁起の世界を自分で作りだしていけ。
 
 なんて言っちゃって他者に言うのは軽いねw。

287 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 18:34:50.20 ID:jfzV+hlN.net
>感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ
>あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?
>仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ

例えば
仮設としての(実有・実体ではなく空という性質だからこそ因と縁の双方の縁起に依存して)
おじゃるは
認識は対象の形相を有していると考えている
有相唯識派の段階なので、それ故に

 ☆ 大日の智の総体の法界体性が主体であったとしても、それでも ☆

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派  無相唯識派
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(空という性質に依存しているときも「我ではない」)
という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
仏の智慧は、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智

288 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:15:31.29 ID:agYfAMRt.net
>>287

「無常」とは、「瞬時においては常」を前提とする。常に変化している物は、
その状態のままが常。

「我ではない」と否定しようとすればするほど、我への執着が生じる。
否定しようとしている主体は、「常なる我」である。

我を真正面から肯定し、それを「我を忘れて」ひたむきに生きることにより、
初めて「無我」が達成される。ことさらに「無我」を求めるのは、「我への
執着」以外の何物でもない。

常や我を「否定する」釈迦は、この真理に思い至れなかった。

289 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:25:01.64 ID:UZ2C7hPf.net
>>288

>思い至れなかった。

お釈迦様は思いを超越したのですよ。
次元が違います

290 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:29:40.51 ID:agYfAMRt.net
>>289
「はじめから思い至れなかった」のだから、「超越した」とはいえない。

291 ::2015/10/24(土) 20:30:38.23 ID:uq/Pkksv.net
最後の一行以外は概ねその通りであり間違いはない。
さすがは隠居氏であるw

無我とは「全ての物は我が物に非ず」という非我が本来であり我が無い「無我」と
いうのは後代の飛躍である。
最後の一行に対する私の見解だw

292 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:32:48.93 ID:yz+Kt+4o.net
>>291
「非我(我に非ず)」では、「比較の対象としての我の存在」を前提とするね。

いずれにせよ、「無我」は誤り。

293 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:41:25.21 ID:/ckIpSvP.net
>>292
我に非ずではなく我が物に非ず〜
仏陀は我を無いとは言っていないでしょうw
真我という点では何らその存在については回答していない。
有るとも無いとも言わないから非有非無で空〜となるんだろう。
それはそれで構わない。間違った無いの主張よりむしろ隠居氏の言う通り
我を有るもの(実人生上の〜)として生きる事の方が重要と言える。

無我を我が無いと訳した人間が阿呆なのだろうww

294 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:45:01.00 ID:/ckIpSvP.net
あれもこれも我が物に非ず〜自分の子供も我が物に非ず、自分の肉体も我が物に非ず〜から
飛躍して「では、我というものは無いのではないか〜」で無我の我は無いに発展していった。

295 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 03:55:32.74 ID:yz+Kt+4o.net
>>294

それはどうかな。「我が物に非ず」という度ごとに、物の所有主体としての
「我」が意識され、強まる。

釈迦は、「我の物」でなければ、一体「誰の物」と考えたのか?「彼の物、
彼女の物」かw。彼も彼女も、他我としての我である。

296 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:09:50.89 ID:sS+GeESg.net
縁起してるものに実体がない、。その実体の意味が我になったと考えるべきだ。
実体=我ということだ。

非我と言うときは、それは我ではない、という意味そのもので、自分にかかわりなく、当のものには実体が存在せづ、
それは当のものの我ではない、実体ではない、という意味になろう。

わが身に関係なく、他のものに仮に実体があるとした場合、それは大事なものとして、疎かにできない、してはならない
ものとなる。ところがそういうものは天地にはないというのだ。なぜなら一切は縁起してるだけの世界だから。

人間特に自分を考察してみても、体内の諸器官は、一切縁起関係にあるもので、実体としてあるものはない。
我と言う実体はないのである。体外を見ても、同じだ。五感を通しているが、五感自体が縁起関係の根幹だ。一八界と言われる。
我という固定物としての実体はないのだ。
こんなわけで、「世界を空なりと感ぜよ」という覚者の教えがあるのだというべきだろう。

だから、非我というと、眞正の我が前堤となり、一方無我と言うと「有我」を前提とするが、これらは縁起世界での認識に他ならないのだ。
勝義諦の世界では、実相である、一相なもの、無相なもの、空相なもの、これこそ実体なのであり、それを有我とか真我と言って差し支えないのだと思う。

297 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:58:38.14 ID:/ckIpSvP.net
>>295
>物の所有主体

物の所有主体〜この主体というのが真我ならば、仏陀は真我、アートマンについては有るとも無いとも言っていない。
我は何物も所有しないものである〜と言っているだけでしょう。

298 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 14:52:46.32 ID:OWoMfeoZ.net
>>296

「色即是空」されど「空即是色」。「人間にとっての世界とは、人間の五感に映じただけの世界だから、
実は空(無)かも知れない。しかし、その世界こそ、人間がこれまで生存してきた、また今後も生存
し得る唯一の世界、すなわち現実界なのだ。人間が世界は無などと考えるのは、無意味なこと」。

「有は、人間の生存に直接の関係を及ぼす。無は、そうではない」。大いなる現実肯定である。

人類は、その発生以来、「専ら五感の知覚による、有無の一義的区別」によってのみ生存してきた。
人類は、有に100%依存しない限り、一瞬も生存できないからである。目の前に見える大地が
有でなければ、人間は一瞬にして奈落の底である。

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は実際は空ではない」ことを前提としている。

釈迦の縁起は、明らかに因果関係。因果関係は、忌むべき「業報論」を維持するための実体関係。
中論の空は、釈迦の縁起を「相互依存性・関係性・相対性」と解釈し直すことにより、それを換骨奪胎
したのである。「関係性」は「抽象観念」だから、まさに「空」。中論第一章では、釈迦の縁起
(これがあるから、あれがある)を明示的に否定している。

本質的に異なる釈迦の縁起と中論の空とを混同するから、大いなる混乱が生じている。

299 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 15:30:09.39 ID:/ckIpSvP.net
その通りw
>>211で指摘した通りである。

300 :123:2015/10/25(日) 17:40:48.01 ID:dFtPwLTQ.net
298.
縁起を否定したものが空である。
その両者に矛盾がない。
空は本質論であり、縁起は現実論であることになる。
だからして、その両者に生存しても良いことになる。
よってして、分裂すること無かれ、である。

301 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 18:11:53.20 ID:ueZS7mkI.net
>>300

釈迦の縁起(因果関係)なら、幼児にでもわかる。「火に手を近づければ火傷する」。

これに対し、竜樹の空(相互依存性・関係性)は、「もろもろの存在(有・現実界)の
成立原理」。

両者は、「本質的に別物」と考えるべきである。

釈迦の縁起・中道は、竜樹にとって「ヒントのヒント」ではあったかも知れないが、
それから「相互依存性・関係性」という、万物・万人に通じる普遍の真理を導き
出した竜樹の頭脳は恐るべき。竜樹が、古今東西並ぶもののない天才思想家と
評価される所以である。

「如来の本性は、そのまま生類の本性(即ち、生命)」。見事な締めくくりでは
ないか。

302 :123:2015/10/25(日) 22:33:32.58 ID:dFtPwLTQ.net
301.
如来の本性は、そのまま生類の本性、即ち、生命、か。
それを生命、生類に限定することは、誤りである。
それでは万物に適用されないことになる。
竜樹の空は、因果関係から、因果を省略したものである。だからして、それは、成立原理ではないことになる。
以上は試論なり。

303 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 23:55:07.53 ID:ueZS7mkI.net
>>302

「生類の『本性』」は、生命以外にはない。

万物を認識・使用できるのも、「生命」のみ。死者には不可能。

「因果」は、時間を含むから、時間を刹那にすれば、存在の構成という一枚の断面図
となる。それが竜樹の空である。そのために、中論は、時間を否定する。時間とは、
存在の変化のことである。諸行無常の存在は、時間を停止しなければその構成は把握
できない。動いている機械は、停止しなければ、その構造はわからない。過去も未来も、
それを認識・思考できるのは、「今ここの生命」。

死者にとっての最後の世界は、一枚の静止画面である。

「もろもろの存在の成立原理」という言葉は、「もろもろの存在の構成原理」に
変えたほうが、君のような誤解を招かないと思う。「成立」では、時間の概念が
含まれてしまうから。

304 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 05:51:04.02 ID:wZy+12he.net
君たちの信望している記憶、言葉
その知っているという感覚自体がどこから来たのかな?
覚えた事をこねくり回しても真理には触れることさえできない。
この言葉も覚えておくといい。

305 :神も仏も名無しさん:2015/10/26(月) 09:11:19.61 ID:DWFOLmtv.net
>>304

中論本文に直接取り組んで理解すれば解る。中論の表現は極めて難解だが、
「著者の言いたいこと」を気持ちの上でフォローしながら読むと、内容は
極めて当たり前のことを言っている。難解な表現に振り回されないで、
それに流れる「思想」を自分の頭で素朴に理解するよう努めること。

中論の思想は、論理矛盾は皆無で、一貫して確立された完全な思想体系。

注釈書は、あくまで筆者自身の「宗教観」に基づいてさまざまなので、
却って有害。

306 :123:2015/10/27(火) 07:21:42.75 ID:floY7pIE.net
303.
万物を認識、使用できるのか。
その認識は認識論の問題である。
その使用とは実践論の問題である。
それらは存在論ではないからして、構成原理とか成立原理とかに関係することには困難がある。
疑問のみ。

307 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 08:56:58.41 ID:bn1A79lY.net
西洋哲学では、当初は存在論であったが、それは認識に他ならないというので、存在論
と言わないで認識論というようになったのだ。
存在してるかどうかは認識によるほかないということで。
大した相違はないと思うけど。

生命と言う言葉が出てるようだが、仏教の世界ではおかしなことではないか?
日蓮教徒のいうことだと思うが、日蓮教は仏教ではないからな。

生命などないというのが仏教だ。生命があると考えること自体が、それを実体視して
以降の論を展開することになる。しかし、その論は破たんする以外ないのだ。それは何度も
仏教の世界、世界の哲学宗教の世界で、論じられてきてることではないか?

仏教では、それは欲心、有身見、に他ならないと言っているだろう?
仏教は、世界の真実は、空相、一相、無相、一、と言っているのだ。生命などお門違いの見解に下していると思う。

菩薩の修行でも、菩薩は、自分の肉体はゴミクヅとして放棄する、もし他者が望むなら、土塊の如しとしてくれてやる代物だ、と考えるとある。
そりゃそうだろう。釈尊自身も、肉体に執着することの愚かさを言明している。多寡だか、100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

仏教の理法にその存在はないのだ。

308 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:35:03.93 ID:bn1A79lY.net
生命があるという前提で、進化論や遺伝だとか、今のかしましい量子論が
盛んになったのだ。しかし、どれも解決に至ってはいない。
そう、個人には知能という能力があって、それはだれが考えるテストか知らないが、
その者の知見で、判定でき、知能指数=IQと喧伝されている。
お前はIQが低いから、馬鹿だ、とか、高いから優等なのだ、とか、それが人間関係を支配しているようだ。
生命があるとはIQが高いのだ、ということになるのだろう。

仏教およびほかの哲学の世界では、それは全く通用しない。通用すると考えているものがいれば、
学問するものではない。

でもしかし、IQ信仰が生じたということは、結局仏教が理解できないものが、現実的な処世術を求めた結果の
後出しじゃんけんみたいなものなのだ。

このIQを我だと考えているのだ。そして、それはその人の欲心なのだ。
欲心があるものが生命を持つものなのだ、彼らにとっては。
まったく釈迦の教えと真逆の思想が発生することになったのだ。

309 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 09:55:57.18 ID:2Lu25q20.net
>生命などないというのが仏教だ。

無いと言わず、有るとも言わない。しかしそう主張している人間は確実にいる(いた)のであるw
主張する人間がいなければ主張は残らず仏陀という記録も無いであろう〜w

それに仏教は二元論と最も対極にある主張である。
アンタの言っているのは完璧に二元論。
肉体と魂とがあり、肉体は死ねばごみ屑に等しく魂の牢獄が肉体〜との見方は二元論で西洋の
捉え方に他ならない。
原始仏教は多元論であり大乗仏教は一元論でありいずれも二元論の対極にあるものだw

310 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:04:06.83 ID:bn1A79lY.net
>>309
>アンタの言っているのは完璧に二元論。 肉体と魂とがあり

俺は肉体もなければ、魂もないという主張をするものであり、それが仏教だと信じちよる。
だから二元論者ではない。

肉体も魂「これのことを心と言うのだろう」があるとかどちらか一方があるとか言うなら、それは仏教の実相は
空相だとか、無相だとか、一相だ、というに反する。

原始仏教も大乗仏教も、その教えは一貫して一元論だ。
実相が無相なもの、姿なき姿を持つもの、ということだ。これだけが真実に存在するものなのだ。

そこで、この真実は実に一切の人間の悩み苦しみを、完璧に拭い去る者だ。
これを理解し、知るものはその時点で、救われているのを知る。これが悟りだ。

で、この真理をだれかに教えたいとお釈迦様は思われたのだな。

君は、そういうお釈迦様は人間で、命を持っていたからで来たので、死んでいてはできなかったことだ、だから
命は少なくとも、あるともないとも言わない、と曖昧なことをいって誤魔化しているだけだが、
お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

そして、「私係の姿を取ってこの世界に生まれてこの真実を教えようと教えまいと、この真実は永遠の過去から未来に渡って存在しているのだ」と三世恒有を説かれているのだな。

世界の真実が、無相なもの、一相なもの、であれば、その真実に従った論理は流れ出てくることは理解できるだろう?

この世界の真実を知った覚者は、インド以外にも、ギリシャのパルメニデスとか、中華の老子荘子などもいるのだ。

311 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 11:07:50.16 ID:bn1A79lY.net
私係の姿を取ってこの→わたしが仮の姿を取って

312 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:21:19.22 ID:2Lu25q20.net
まさにソレが無い無いの馬鹿主張であると言っているw

ゴータマは生存時に己の主張を宗教とは認識していなったであろう。
ジャイナ教やバラモンの教えも肯定し、他者の教えも聞き受け入れ
何ら排他的要素が無い〜これがまさに多元論であるゆえんだ。
また、ゴータマ生存時には大乗以降が空を看板としたような空を最前面に
押しての主張はなされていない。空を看板として仏教は多元論から一元論化された。

>自分の肉体はゴミクヅとして放棄する〜

この一句がまさに己の思考の二元論である事を証明している。
これは西欧の思考であり全く仏陀の主張とは異なる。

313 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:43:45.67 ID:QLnG0gSE.net
>>307
>100年ぐらいの命に何の価値があろうか、と。

永劫の時間における100年の己の生命は、ほんの刹那の一度きり。しかし、
永劫・無限をも認識・思考できるのは、その刹那の生命のみ。

物事は、限りがあるからこそ価値がある。ダイアモンドが無数に産出するなら、
それは単なる石ころと同じ。貨幣を無限に発行すれば、紙幣は単なる紙切れ
となり、たちまちスーパーインフレが生じて社会は崩壊する。

この意味で、イエスのいう「永遠の生命」は、「地獄」の別名である。

314 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 12:55:50.74 ID:QLnG0gSE.net
>>306

いかなる対象も、人間が認識できなければ、それは存在・実在ではない。
実在でなければ、人間の生存に何らの直接の関係もない無用の妄想・空想。

神は、人間に認識できないから、人間の妄想・空想であり、人間の生存に
何らの直接の作用も有しない空想・妄想。

ゴキブリに神が認識できれば、ゴキブリにとっては神は実在である。

新たな物質が発見された場合、それが過去のいずれの時期から存在した
のかを証明できないから、認識の時点で発生したとしかいえない。

この意味で、存在論と認識論とは同一。

315 :123:2015/10/27(火) 18:42:04.75 ID:vHyPP5ar.net
314.
存在論と認識論とは同一、か。
論理的な思考能力がないということになる。
唯識の読みすぎである。
神は、人間に認識できない、か。
空想、妄想として、認識できれば、立派な実在であることになる。
新たな物質が発見された場合、
認識の時点で発生した、のか。
それは認識論であって、存在論ではないことになる。
その区別ができないことは欠陥である。

316 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:22:06.87 ID:OjlwV776.net
>>314
水たまりを見た。水たまりだと認識した。本当にあると思ったんだ。
しかし、近づくとそれは消えた。

水たまりは実在したのですか?


じつざい
【実在】
《名・ス自》

1.
実際に存在すること。
?「―の人物」
2.
哲学
われわれがそう思うからそこにあるように見えるというのではなく、われわれと離れて別に、客観的に存在するもの。

317 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:47:00.66 ID:HYBb+e0y.net
>>315
君は、君の目の前のPC(ビール瓶、机、その他何でもよい)の実在をどうやって
証明するのか。君の五感で知覚できること以外には、方法はない。

ある素粒子の実在をいくら理論的に仮説しても、観測装置によって観測する
までは、実在は証明できない。あくまで仮説に留まる。観測前の何時から実在
したかの証明は不可能だから、結局、観測時からと言わざるをえない。

そして、観測も、生命の機能としての、観測装置を通じた人間の知覚による。
死者には一切不可能。

そして、実在でない限り、人間の生命の維持にいかなる直接の影響も及ぼさない。

318 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:50:53.40 ID:HYBb+e0y.net
>>316

それは、知覚の誤り(錯覚)であり、「誤り」という」以上、「正しい
知覚」があることを前提とする。

319 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 20:57:48.82 ID:HYBb+e0y.net
>>316
人間界が、徹頭徹尾共同体である以上、実在判断のための知覚は、不特
定多数人のほぼ同一の知覚でなければならない。知覚異常者、妄想患者、
宗教患者の知覚を除外するためである。

320 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:02:31.13 ID:HYBb+e0y.net
すべての人間が同時に死に絶えたと仮定した場合、この世界の実在は、
誰がどうやって証明するのか?

他の種属の動物の知覚が、人間の知覚と同一であるという保障はない。

321 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 21:16:31.95 ID:2Lu25q20.net
仏陀の天上天下唯我独尊の意味は生存中の人間個々全員にとり
その認識の世界こそがその個々にとり全ての世界であるという意味であろう。
唯我独尊は仏陀のみが対象なのではなくは生存中の人間個々全員が対象なのである。
より正確には生存中の命あるもの全てというべきかもしれない。
ゆえにそこから慈悲の精神が生まれ、生きとし生けるもの全ての安穏を願う事につながる。

死後どうなるかなんてのは分からない事でありそんなものを妄想するなかれというのが正解だw
空で実体がない事を必要以上に強調し、さらに踏み込んで何でも無い無い〜と言うのは阿呆である。

322 :123:2015/10/27(火) 22:08:43.76 ID:vHyPP5ar.net
320.
人類が絶滅しても死刑は正義は実行されなければならない。
カントの言葉とか。
人間の絶滅と共に滅亡するような真理は真理ではない。
それは人間の認識とは関係ないことである。そこに存在論があることになる。

323 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 22:41:49.06 ID:HYBb+e0y.net
>>322

「正義」の意味は、キリスト教徒、イスラム教徒、そして恐らくは
仏教徒とでは全く異なる。

現実界(五感で知覚できる世界)に還元できない観念語は、意味の
伝達の機能も果たしていない。

言語の起源は、人間の生存に関係ある具象物を区別・特定・指示する
ために人間が作った「記号」である。

宗教の教典から「観念語」をすべて除去すれば、内容はゼロである。

カントは、「物自体」と「知覚された物」とを区別したが、彼は、
知覚できない物自体を、一体どうやって確認したのか。すべて妄想に過ぎない。

324 :123:2015/10/28(水) 01:31:23.58 ID:ewJOjmNS.net
323.
すべて妄想に過ぎない。
そのとおりである。すべて妄想である。
妄想でないものが、ある、と言っていることがバカである。
よってして、内容はゼロであることになる。

325 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 02:53:55.18 ID:fXjVi2td.net
>>324
不特定多数人(健常者)が五感で知覚できる世界(現実界)だけは、妄想では
ない。何故なら、その世界だけは、人間の生存が可能だからである。

326 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:06:15.43 ID:QnN0wQUH.net
妄想でも痛いとかはリアルなんだから、なんとかしないといかん、笑

327 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:48:05.05 ID:aQYMTi3Z.net
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%84%E6%83%B3

宗教妄想
誇大妄想の延長上、またはひとつの症状として考えられる。
統合失調症のひとつの症状としても考えられているが、自分自身に何か超次元的で特別なパワーがあると信じたり、
霊界のような所から特別な預言や啓示を受けた、またはあらゆる病気を癒す力を授けられたなど、
内容が極めて非日常的で壮大なものであり、訂正不能な強固な確信があることが特徴で、
現実世界からは考え得ることのできない壮大なスケールによって描かれる妄想が大半である。
つまり自分自身を“神”の化身であると信じてしまう症例である。
人格崩壊まで至るケースは稀であるが憑依妄想を共に発症するケースがある。
これが極端になると新興宗教の教祖にまでなってしまうケースも見受けられる。

仏教における妄想
仏教では妄想を「もうぞう」と読むことが多い。妄想は心を曇らして煩悩を増幅せしめる最大の原因として厳しく
戒められている。精神医学でいわれる病的なものとは異なり、仏教における妄想は範囲が広く、
健常者が日常的に行っていることである。過去を悔やんだり、未来をあれこれ気にしたり、
主観的な価値判断や断定をしたり、考えてもわからないことを頭の中であれこれ思考することなど多岐に及ぶ。

元寇の脅威にさらされていた鎌倉時代、大軍勢の外敵とどのように戦えばいいのか苦慮していた執権北条時宗に対し、
禅僧無学祖元は「莫妄想」(妄想することなかれ)と諭したといわれる。

宗教的、仏教上の妄想〜というのもあるが、基本的に妄想は精神障害のもの〜という概念でよろしいようだなw

328 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 05:56:20.71 ID:2nMgr31v.net
>>325
夢の中でリアルな肉体と五感があり、アイデンティティーもあり、仕事や飲食もするし社会もあって人々もリアルに生存しています
夢見の最中に今、夢を見ていると完璧に気づけないなら、実在や妄想について何も断言できないだろう。

329 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 06:22:14.37 ID:aQYMTi3Z.net
広義で人間は全員見当識障害だからその人間が描く世界は全部妄想と言っても
間違いとは言えない。
では人間-間-での「概念」の世界という枠内に限定すると、この線引きは目覚めた
健常者か否かという点にある。眠って夢見の夢内容や瞑想の夢内容、ドラッグ下での
夢内容などは当然その外にいる人間と概念として共有できない以上、それは妄想である。

健常者でない精神障害者のものは>>327のとおりであるw

330 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 12:26:14.83 ID:aQYMTi3Z.net
目覚めた健常者〜

つまり、区切るとこうなる。(あくまで広義、極論ではないという事を前提にw)

妄想
変容意識下
精神障害下

非妄想
日常意識下
健常者下

331 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:15:42.05 ID:+MEPRNxl.net
>>328

最新の学説では、夢は、睡眠時における脳細胞の混乱。覚醒時にすでに
知覚・記憶した対象が、支離滅裂な形で出てくる。従って、夢の」内容には
特段の意味はない。

332 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:21:05.40 ID:+MEPRNxl.net
>>327
釈迦とイエスとムハンマドが、宗教妄想の典型。信者は、その妄想が
感染したもの。精神病は、感染する(「感応精神病」)。

333 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 13:39:13.82 ID:+MEPRNxl.net
>>331への追加

睡眠のREM睡眠段階においては、眼球が、時々、無意味に急速回転
運動(rapid eye movement)をしている。夢も、同様な現象だろう。

334 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 16:32:53.00 ID:msC72+pU.net
>>1
>仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、

強調したかどうかはともかく、推奨されたのは「中道」に於ける「空性」だろ
「無」など強調していないし、「空」は「有」でも「無」でもない
仮に、有と言っても無と言ってもそれはどちらかに僻見した極端なのであり、それは中道ではない

紐よ、お前は何年経ってもオツムが進歩しないな

335 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:29:31.37 ID:4/FD3vbI.net
老荘では聖者は、虚無に遊ぶ、というけど。

悟りを開き解脱した仏教徒も、虚無に遊んでいる、のではないの?

法華経の如来受領品16では、釈迦仏は、自分の様子をそのように表現している。凡夫どもが阿鼻叫喚している下界を見ながら。

虚無思想とはいったい何なのか?大乗では虚無思想ではないと抗弁している。
仏教の虚無とは、実相の世界のことで、虚無土心か、真実の世界で、それこそが
現実の世界、平安の世界なのだ。虚無思想とは仏教が抗弁する以上、それは真実の世界ではなく、
真実と真逆の世界で、真っ暗闇の世界のことなのだ。そこで老荘の虚無は、そういう真っ暗闇の世界のことではないものとして、
言っているのであり、それは仏教と同じニルバーナでなければならない。

虚無の「無」とは、凡夫の世界の世界ではないので、凡夫があると思う一切がない、という意味なのではないのか?

とにかくも、経典が言うように、凡夫と聖者では、真逆のことが起きるというのだ。

336 :神も仏も名無しさん:2015/10/28(水) 17:43:28.62 ID:aQYMTi3Z.net
>334
www
笑わせるw

非有非無の空ならば良し、また別面で人生の我としては有であるのも良し。
私が阿呆と言っているのは↓のような無い無い〜馬鹿に対してであるw
空又は有ならば構わないが、無い、しかも無い一辺倒〜こういう馬鹿に文句を言い続けている。
このスレはオマエさんの様な人のレスを読めない幼稚園児が多くて楽しいなw
>>310
>お釈迦様の説く真理は、そもそも『ある』という教えではなくて『ない』という教えなのだ。
>つまり、「私はこの世界に存在しないものだから、私の教えなるものはないのだ、単に無明の世界の人を引導するための筏にすぎない」と言われているのだ。

337 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 03:01:25.38 ID:/R+32fkm.net
>>336
では訊くが、「非有非無の空(1)」とは何かね?
そして、「人生の我としては有(2)」とは何がそう決めるのかね?
先ず上記の(1)と(2)とを説明してみてくれないか

但し、説明しだしたらお前は如来の最上なる確信を知らない事が露呈するのであり
それはお前が空性を誤解して覚えてる事を意味する

因みに、>>310氏に於かれては、頑張って良い事を伝えようと奮戦されているとお見受けできる
但し、少しばかり中道を軽視されているご様子ではと思われる

>>335
「虚無」とは言えども、それを「虚無」だと認め知れねば「虚無」かどうか問える筈もない
「虚無」だと知って始めて「虚無」だと言えるのであるから、言える以上に於いてそれは「虚無」とは言えないであろう
何故ならその「虚無」は「有る」事を前提としてしまうからである、そんなものをどうして「虚無」だと言えようか

338 ::2015/10/29(木) 07:37:16.80 ID:9nJp6inr.net
>>337
「では訊くが〜」で何でも訊けば今まで人のレスなど大して真剣に読まずとも
どの都度訊けて楽で良いよなww

私は最初から何度も繰り返し同じ事しか言っていないんだが?w
形而上の存在論では「有る」とも「無い」とも言えない。
宇宙の果て(始まり)が有るとも無いとも言えず、素粒子を半分にしてさらに半分にして残ったそれは
有るとも無いとも言えず〜w
回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい。

一方、個々人の実人生(個々生命体の実の一生上)その個々人、個々生命体はいる、(いた)のであり、
無いと断定することは「虚無」に他ならずそんなニヒリズムは仏教ではない。無の連呼こそ仏教の誤解である。

如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

339 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:29:28.03 ID:/R+32fkm.net
>>338
なるほど
教えてくれてありがとう

>(前略)有るとも無いとも言えず〜w
>回答が不能な以上それは非有非無としか言えまい

と、以上がお前の考える空なのだね?
要するに、「自分以外は全て空」だと考える訳だ

で、自分は空と看做せないんだね?
お前はどれがお前なのかな?お前は有ると言えるんだろ?
有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
どれがそれなのかな?

>如来の最上の確信など知る必要もなく、個々人はそんな大仰な確信とは無関係に個々人の一生を生きるものだ。

あらゆる宗教・思想・信条の何れにも劣らず最も優れたものを、お前は知りたいと思わないか、そうか
自分の不満や不如意が何によって為されるのかも解明されて有意義になるんだが、それも不要と言い切るか
勿体無い事を知らないってのは不幸だな

340 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 08:44:59.88 ID:9nJp6inr.net
無論、自分を存在論で見れば空だろうよw
自分の人生の主として見れば有に他ならないと言っている。
このレスを書いている俺が俺に他ならない。

>有ると考えるからには生まれて此の方全く変わらないお前が有るはずであろう
生まれてから大いに変わるだろうよw
おぎゃーと生まれて何十年も変わらずおぎゃーじゃのままでは人間じゃないだろうw
人は成長しその都度一瞬一瞬変わる。

中論の読み過ぎでは、変化するものは「有る」に含まれず空である〜になるのだろうが、
それは冒頭の存在論に戻るだけでそもそもソレは空であると肯定している。

変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。
仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

根本の間違いがそこにある。大元を間違っていてはいくら踏み込んでも間違いの結果しか得られない。
大元が正しければ如来の最上の確信など不要であるw

341 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:22:15.69 ID:/R+32fkm.net
>>340
>無論、自分を存在論で見れば空だろうよw

そう考えてそうだと思う訳だね?

>このレスを書いている俺が俺に他ならない。

そう考えそう思う訳だね
考えて思って書くだけじゃ根拠が薄いと思われるがどうかな

>変化(成長)しつつ有るのが人の人生というものだ。これはモノの存在論ではない。

うん、そうだな
人生はモノじゃない故に存在の如何を問えないだろう
でなければ「人生とやらを出せ」と言われる

>仏教は存在論に焦点を当てた教えではなく、生き方、在り方に焦点を当てた教えである。

そうだな
それ故に「有る」と選択したり執着したりすると中道ではないと仏教は教えてる訳だ

根本の間違いはだ、有無のどちらかを選びたがるその執着所以の思いが間違ってると言えるだろう
大本が間違わなければ、全員如来の確信に至る、至って当たり前なのだよ

342 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:24:13.97 ID:9nJp6inr.net
では訊くがw
その如来の確信とやらを一言で示せw

343 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:33:08.55 ID:/R+32fkm.net
>>342
な?知らないだろ?
そして知りたがっただろ?

お前も自分を向上したいと願う希望があって、それが知りたがるんだよ
お前にもちゃんと素養があるし、決して洩れた人では無かったと言うそれが証拠になる

つまりだ、教えるのは構わんが、知ったらそれを貶せない訳で、その覚悟はあるかな?って話になる
何故なら、お前が知りたがってるそれはお前自身の正体の話になるんで、それを貶したり否定するのは
自分を否定する事になるからだ

どうかな?

344 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:35:43.64 ID:9nJp6inr.net
要は一言で示せないものを有難がって後生大事に人にも見せず
仕舞い込んでいるわけだw 
ひょっとしたらそんなものを持っていないのかもしれないがなww

345 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:45:27.12 ID:/R+32fkm.net
>>344
今のまま自分の正体もわからず仕舞いで良いか?

346 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:46:38.64 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww

もったいぶっていないでさっさと言えw

言えなければ言わずとも良いw
要はそんなものを知らなかった、あるいは無かった〜という事で良いよw

347 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 09:52:28.12 ID:/R+32fkm.net
>>346
じゃ、教えるが

先ず「涅槃」とは一体なんの事か、それを調べて、関係する経典も全部読んで解明してみればいい
如来(釈尊)はその涅槃こそがあらゆる思想信条宗教諸々の中にあっても最上で他に類がない事を突き止められたんだよ

「触なく感受すると言う、その道理は(外道に)ない」と如来も教えている
良く調べてみろ、お前は世界の全てを知り尽くせる事になるから

348 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:08:50.87 ID:9nJp6inr.net
教えるが、調べろ〜

って全然教えてないだろww

阿呆かw

生徒:先生! ○○について教えて下さい。
先生:分かった、教えよう。 調べよそれが答えだ〜。

こういうのは教えた事にはならんw
幼稚園児でも理解出来る事が宗教馬鹿になると理解不能に陥り、
一般的会話が成立しない。まさに>>330の妄想の範疇に陥るw

そのような姿勢では一生かかっても私の足元にも及ばないわw

349 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 12:24:37.12 ID:9nJp6inr.net
さらに繰り返し何度も言うが、
原始仏教は多元論であり大乗で一元論化された。
仏教は本来多元論である。空をことさらに強調する必要は無いのである。
存在論に必要以上にフォーカスをあてる必要は無い。

必要がないにも関わらずさらにその上を行き、無い〜無の一辺倒〜なんてのは言語道断だ。

仏陀の無所有の主張が無我につながり我が無いなどというとんでもない誤訳に発展したわけだw
仏陀の無所有の主張も理想ではあるがその理想を100%実践しようとすれば一瞬たりとも生きられまい。
つまり生きる上で無所有というのは達成できない理想なわけだ。
別の例えでは生き物を殺すなかれ〜というのも徹底すれば生きられなくなる。モノを食って生きる以上生きる事は他の命を
我に吸収する事である。仏教は色んな教えをあちこちから取り込んだものだ。こういうのはジャイナ教の影響が大きいのであろう。
ジャイナ教の理想は生まれたら一切の食事をせずにそのまま死ぬことであるらしい。そのような極端な姿勢では生きられない。

つまり、そこに中道が出てくる必然が有る訳だ。
中道は生きる教えである。非有非無を空というならば不苦不楽が中道である。
理想は理想として、極端な生き方は死を志向することになりそのような生き方の放棄こそが仏教なのだよw

350 :123:2015/10/29(木) 13:34:01.90 ID:XAJn19Kw.net
349.
無我であるところの自我が、いかに生きるか、の問題である。

351 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 13:44:58.97 ID:9nJp6inr.net
無所有や生き物を殺さない〜というのは達成不可能な理想に過ぎない。
達成しようとすれば死ぬ。

仏陀は死の勧めを説いているのではない。
快楽主義に陥らない程度に所有せよ、必要最小限を目指して所有せよ、死なない程度に食べよ
喰い過ぎて飽食に陥るな〜と教えているのである。
何でも行き過ぎは何もしないより悪い状態に落ちる事になるという事だ。
かといって快楽主義に陥るなかれだ。
どの程度か?といってもそれは個々人、時代時代により異なるので一概には言えないww

352 :123:2015/10/29(木) 14:06:07.01 ID:XAJn19Kw.net
351.
生死は問題とならないことになる。
それは結果であるからである。良い結果、悪い結果とかは問題とならないことになる。
中道とは何か。
それは規準を設定しないかぎりでは議論とならないものである。だが、そこには規準が設定されていない。よってして、判断停止という結果となる。

353 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 14:28:39.81 ID:/R+32fkm.net
紐よ、有身見を調べてみろ
まんまお前の状態の事だ
お前が賢いのは解ったから、その賢さに溺れる自分を一端捨ててみれば良い

出来ないと言うならそれまでの話
お前の抱える一切の武器を捨てれば身が軽くなるよ

354 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 15:59:51.71 ID:9nJp6inr.net
武器?
何を言っているのやらw

まあ、会話不能な妄想人と議論しても無駄だな。

「教えよう。 調べろ。」が答えの人だからなwww

355 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:32:16.47 ID:dsXsE/2F.net
その程度って自分で決めていいことなのか?
誰の何のための程度なのか?
仏陀ってのは自分で程度決めて悟ったのか?

356 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 16:36:47.93 ID:9nJp6inr.net
自分で程度を決めたのだろうな。
自灯明は自分を島とする教えだ。
当初はかなり厳しい基準であったろうが、後に時代に緩くなった感は否めない。

357 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:35:47.23 ID:/R+32fkm.net
>>355
色々な人から色々な「最高」を聞いてはみたが、どれも納得できなかったから最上を極めるまで諦められなかったのが釈尊でしょう
仏道は全ての人の為に全ての人の理解度の種類を問わずに開示されている事になっていて
それは結局、自分の為にある事になっていると言える
「程度」も結局は自分が決める
諦めの前に躊躇してしまうのは「挫折」で悔やまれるだろう
もし諦められたなら、それはお目出度い事この上ないだろう

四諦の「諦」とは諦めると言う意味で、それが最上の真理となるからそれ以上何もない事が明らめられる、と言う事

>>356
自灯明もお前は誤解しているんだな
自灯明は「自己に於ける四念処」を拠り所にしろと言う意味だ
つまり、

身念処・受念処・心念処・法念処

この四つを拠り所にせよと言うのが自灯明の本当の意味なんだよ
それは長部経典16の大般涅槃経にちゃんと出てる

358 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:39:51.58 ID:9nJp6inr.net
>>357
お前は「如来の最上の確信」を答えてからモノを言えw

調べろ〜が答えなど幼稚園児でも却下するわw

359 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:47:07.74 ID:/R+32fkm.net
>>358
いやいや、そもそもその程度も知らんでお前は批判していたんだろ?

世の中一般の感覚じゃ、それって「知ったかぶり」じゃないのかな
理解出来ない・それ以外に悪意もないなら、どうして批判したがる理由があろう

お前が操るその手元の機械は検索も出来ないのかな
お前の首の上にのっかってるそれは単なる飾りなのかな

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

360 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:49:16.22 ID:9nJp6inr.net
ハイハイww
>>346にループするだけだw

何を答えようが答えた瞬間にお前は論理破たんの矛盾に陥る。

361 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:52:32.61 ID:/R+32fkm.net
>>360
再度書くぞ?

難しくて解らない、教えてくれっていうなら吝かじゃないんだが

362 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:53:08.49 ID:9nJp6inr.net
wwwww

難しくて解らない、教えてくれw

363 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:55:38.90 ID:/R+32fkm.net
>>362
何が?

364 :神も仏も名無しさん:2015/10/29(木) 18:57:22.84 ID:9nJp6inr.net
もういいよw
やっぱお前は会話不能の妄想人間で終了だww

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