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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

199 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:21:34.52 ID:zK9v6610.net
真我、神、ワンネス、空、、、 呼び方が違うだけじゃない?

200 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:57:09.31 ID:N1oQl933.net
>>199
確かにw

ただ空と他のものは違うだろ。
空は関係性を言っているもので何かを指し示している概念ではない。
あえて言えば空は縁起と近いのかもしれない。

我とか神とか言えばそれは又違ったものになるのでしょう。

201 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 07:44:08.52 ID:19rD30Ms.net
自灯明の「自」と無我における「我」とは違うんじゃないか?
「我」とは、自分という変化のしないものがあるという観念。
「自」とは自分の「五感と心」を言い、それは否定できないものだ。
温熱を感じている自分は、それを偽らないなら、自分が温熱を感じているのだ。

前者の「我」とは、「欲心」のことで、それも固定的になっているものだ。
欲心のないものは生きていけない、という言説が流布しているのがこの娑婆だろう。
そして、必要以上に求めるのを「欲心=我」と言うのだ。

うまく言えないが、自灯明の「自」で、その自を欲心と考えるならば、必ず『法灯明』の「法」と激突して、
修行にならないはずだ。

202 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:11:52.59 ID:19rD30Ms.net
>>201つづき
そこで、四諦の法門に言う、苦集滅道の集が欲心に当たるのであり、
これを亡ぼすことが道の完成なのだ。

「自我」は「ない」というと、「自」と「我」がともに否定されることになるが、
苦集滅道に言う(苦)を感じるのは「自」なのであり、その自を苦から解放するのが目的であり、
それは自分の欲心からの開放に他ならないのだ。その自分と言うのが真実の自分であり、仏性なのだ。
「自」と「我」を混同してるのが凡夫なのだ。自分と自分の欲心を取り違えているのだ。

203 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:18:12.18 ID:aSebavxK.net
>>194のつづき
>それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。

眼蔵を読んでも、僕には直ぐに解釈はできない。まるで推理小説を読むようなもんです。
で文面の一端目を通すくらいで丁度いい。
そのうち分かるかもしれませんしね。分からないかもしれない。

それから何らかしかの切っ掛けを境に、眼蔵の文面がいきなし閃いたりすることもある。
その一例が青山常運歩ですね。
「運歩」とか「退歩」とかが、なにやら「歩退」とか言い換えてる部分もあったりして、
道元の「遊び心」というのか、文学的才能を垣間見ることもできる。

眼蔵とは、そういう魅力があるのかもしれません。
で「退歩」と「歩退」の違いが皆様は分かりますか?
これは洒落みたいなもんで、実は答えはないかも知れませんですね。
個人個人それぞれに考え方も違うでしょうし。

僕は、そういうのは自分なりの解釈でいいかと思います。
つうか、そもそも眼蔵というのは「道元と自分の対話」と言う気持ちで読んだら良いんじゃないでしょうか?

誰かの解説書を読んだとしても、それは自分にとってはニセモノでしかない。
         <机龍之介>

204 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:20:26.57 ID:zK9v6610.net
>>200
神は突っ込まれると思いました
いわゆる全能の神、擬人化された神の事では無く、苦しみの果てに自我を捨ててすべてを明け渡した人達が言う神です

205 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:29:53.28 ID:aSebavxK.net
>>203のつづき
青山常運歩は、道元が「時間」という事柄をうちに向けようとしている、
眼蔵においては重要であると思っています。

時間は前へ前へ進むと我々は思ってますけど、道元は後ろにも進む、といった按配です。
時間について考えることは、道元の而今に関連しますので、そういう意味では興味がありますね。

つうか、こういうのは僕しか興味がないか(笑
ではまた。

206 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:34:59.19 ID:zK9v6610.net
空を特別視すると仏教徒だけが他の聖者達と違う物を観ている事にならないだろうか?
不二一元論を説いたシャンカラは仮面の仏教徒と呼ばれているよ
不一二元論は唯識に似ていて、少し調べれば真我は空の事だろうと誰しもが思うと思う

207 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:35:52.37 ID:zK9v6610.net
>>206

>>200
のレス

208 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:09:02.96 ID:PotJzboF.net
>>35>>32
馬鹿乙
無い志向は間違い、妄想

209 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:18:57.35 ID:N1oQl933.net
空は大乗で出てきたもので仏教で最初からあったものではないからね。
仏教は本来多元論なんだが大乗(龍樹)で一元論化された。そこで空が
仏教の看板に据えられた。

真我についてゴータマは何ら回答を与えておらずあえてコレの存在について
何かしら言えと言うのなら後の言葉の空を使って非有非無で空と言えるかもしれない。

210 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:36:02.21 ID:uCl9/QXF.net
>>209
出典は覚えてませんが、原始仏典でも
空が説かれていたはずです。
スッタニパータかダンマパダか忘れましたが、どこかに書かれてました。

211 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:50:30.04 ID:N1oQl933.net
ゴータマの説く縁起と龍樹の説く縁起では厳密には一致しないからねw
同じ「縁起」でも同じじゃない。

212 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 16:19:02.67 ID:aSebavxK.net
>>209
雑阿含経・第一義空経には空について書かれてますね。
龍樹はこれをモチーフとして中論を書いた、と言われている。

213 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:05:13.10 ID:ZyN2GjCV.net
ムスリムのコーランから導出される教えでは、因果と言うものはない、という。
これは仏教に言う、実相であり、それは絶対存在の無相一相空である。

道教では、これを姿の無い姿、と言い仏教では、実相は無相の相を採る、という。
理性に従えばそこに行き着くのだ。

これこそ実在するものと人は認めることができるものだ。

これを認めないで、姿かたちがあるものに執着しているなら、それは真実を拒んでいるもので、この拒否が
罪である。
取り押さえられるものはこの世界にはないのだ。

有身見があるから、強姦したり、殺人したり、強盗したり、その他の一切の犯罪を侵すことになるのだ。

我々はこの真実の世界のもので、この真実から抜けだせないのだ。

欲心とは、取り押さえられるものがないのに、それがあると妄想し、その妄想に執着することに他ならない。
”天網恢恢疎にして漏らさず”は真理である。恐ろしいね。真実に逆らうことは。

214 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:35:37.50 ID:ZyN2GjCV.net
ここに一つの箱がある、と現代の科学は認める。これは妄想である。箱などないのだ。
箱があるという妄想が、現代科学のスタートである。古代からもそうなんだろうが。

箱を分割してみる。細分化してみる。
原子はその核と電子でできている。電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという。

最初の箱は、その周囲の空間と相対的に存在していたことを閑却している。
電子の状態と、最初の箱の存在状態は同じなのだ。

因果があるという前提の上のの科学である。

それでは、なぜ、原因があるから、結果があるということから、原因がなければ結果がないということに発展し、
それなら原因にも結果にも実体がない、と結論しないのか?

最初のスタートでは、原因も結果も「ある」と言う前提の上のスタートだった。
この前提が崩れたのである。

遺伝子などというものがあって、人の人生を決定するという論も、妄想に他ならない。

科学は真実に対する罪の結果なのだ。人類は科学と言う毒ガスのために地獄に落ちているのだ。

215 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 12:28:37.90 ID:qyZZl+QB.net
213-214という妄想だなw

216 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 08:47:28.65 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
相対的存在の二者とはどういうものか検討した説明がないと言っていいほどだ。
そこで検討してみようではないかいな。

依他起性と言うものだ。他者があって初めて存在を認められるという意味だ。
お互いにそうなんだ。
これはそこに変化が存在していると我々の視覚は認めるのだ。今はとりあえず、視覚の例を取り上げる。
視覚は、そこに変化と言うものがないなら、視覚の働きはない。視覚は何も認めないのだ。

次に、そこにある変化の詳細を観察してみようではないかいな〜。
変化の境目はどうなっているのだろうかと。中間部はどうなっているのだろう?
混合状態であると視覚は言うだろう。しかし、如何に両者の混合状態であろうとも、やはり、粒と粒の境目は有るのだ。

次に、粒の存在する土台を観察してみようではないかいな〜。
いや、粒と粒が接触しているのだから、その接触状態を観察しなければならないんだな。

接触とは密着状態のことを言う。密着しているものは、一体なものではないかいな〜。
一体なものが右と左に分割されているという状態は、おかしいね。これが問題だ。
するとどう考えねばならないんだろう?
視覚と判断は違うということではないか?判断と言うか理性と言うべきか、ここも問題にすべきところだが。

視覚は何も自己を主張してるわけではない。その変化がおのおの存在しているなどと。
判断が、それは一体なものだから、その変化に実体はないと言ったり、その各々に実体があって、
両者は二つのものだ、と言ったりするのだ。

217 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:05:01.53 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
心が理性に従えば、相対的に存在している二つのものを二つのものと認めない。一つのものと認める。

しかし、その心に欲心が発生していると、欲心とは、変化しているものを二つと判断するということを前提にしか発生しないものであり、
そして、そのどちらかもしくは両方を欲しがるということなのだ。つまり、それらは一つのものではなくて、二つのものだと判断させるのが欲心だからだ。
そして、その変化は誕生したのだとみなす。あるものだからそれに対してほしいという欲望が誕生するのだ。
つまり、そうすると欲心が理性の示すところを、理性に反して、両者には実体があると判断させたのである。

こうして欲心による世界が誕生するのである。
欲心は六根清浄を破壊している。

218 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:50:18.07 ID:qA6Jvosk.net
>>214続き
一方欲心のない世界は、どうか?
視覚に映ずるものはそのままのもので、判断をなされないままだ。
それらは相対的に存在してるだけで、少しも自己を主張しない。自己を主張させる原因もない。
だから紛争という世界とは無縁である。

そこではすべてが自然に移り変わる。すべての現象がだ。そこにいる人は、自分に不足することはない。
自己に必要なものは自然に手に入る。一切がそうなんだ。労することがないのだ。
平安しかない。安楽国だ。このことを書いた経典が浄土経典だ。

人は安楽を求めて、欲心を起こしそれに従う。しかしそれによっては、地獄しか得られないのだ。
反対に欲心を殺すならば、目的の安楽国にはいることができるのだ。

このことを知って、欲心を自分として欲心に従う他者に追従してはならない。
欲心に従うものを悪事をなすものというのだ。欲心に従っているものを悪者と言うのだ。

これが仏の智慧の教えであり、大京は、「仏のこだわりのない智慧を疑ってはならない」と教えている。

219 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:20:53.17 ID:6atCTa/B.net
 
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90
電子の大きさ(内部構造)については、標準模型においては内部構造のない点として扱われるが
それを超える模型において電子が大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない
これまでに高エネルギーの電子の衝突実験で電子に大きさがある兆候は見つかっていない
重力に関しては繰り込みは成功しておらず
電子が現実的に存在するかどうかは別として
シュバルツシルト半径が計算上は存在する
電子には 『 内部と外部を区別をする明確な境界を定義できない 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%9B%B2
電子雲(でんしうん)とは
原子において軌道電子を 『 存在する確率として示したものである 』
現代の量子力学では
電子はもはや 『 確定した位置と速度を持つ点ではなく 』、波動関数であらわされる存在であり
たとえば電子が存在するために起きる干渉などの相互作用は、それに従い 『 確率的に起きる 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波動関数とは端的に言うと「物体の『状態』そのものの波動」であり
この事は物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており
また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に 『 全く異なる並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ 』

220 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:45:18.71 ID:6atCTa/B.net
 
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6

古典力学と量子力学との大きな違いとして
『 確率的な現象の記述が挙げられる 』

事象が確率的にのみ記述されるということは
古典力学的な
『 因果律が成り立たないことを意味する 』

量子力学は、
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
素朴な 『 実在論としては記述できず、非実在論的である 』
  _  _  _

  _  _  _

例えば
有為法の場合は
実有・実体ではなく、空という性質なので

1).因と縁の双方の縁起に依存して「確率的に現れ(滅し)ている」?

2).因と縁の双方の縁起に依存することなく「確率的に現れ(滅し)ている」?

3).その他?

221 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 23:50:56.56 ID:yVKsRg+D.net
無いなんて概念は空の餌皿を見る犬でもわかる

222 ::2015/10/15(木) 09:32:06.04 ID:cd60FaiS.net
>>221
その通りw

「無い」も「有る」も生きている人間のみならず犬にだって分かる事であり
それが分からなければ生きていられまい。

形而上の宇宙の果てがどうなっているか?素粒子を分割したら何が残る?などの
事を知らなくとも生きて行けるし、そんな事を知る事は人生では重要ではない。

個々人の人生は有りその個々人の我も有り、「無い」と断定できるのは犬の空の餌皿くらいなもんだw

223 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 10:31:49.03 ID:beWMLeVg.net
>>220
専門家ではないので、その世界での正確な表現は勉強不足で、できていないが、
まず、縁起の理法とは因果の理法のことである。
有為法とは縁起の理法の世界のことだ。有為法に対して無為法が言われ、それは
実相の世界に関する理法のことだ。空の世界に関する理法のことだ。

縁起すなわち因果の世界のものの関係は、相対存在であるので、フィフテイフィフテイである。
それは変化する性質の存在なので、そうなるのだ。今あると見えていても、変化して消滅するとみなしているのだから。
ただ、その存在期間が長いとみなしているだけだろう?

これは電子の研究で分かったこととなっていることと、電子の研究前の箱の存在について、認めることの困難ではない認識と同じなのだ。

この電子の研究のときは、空間という距離を基準にする研究であるが、時間を基準にした検討がなされていないね。
極微の世界なので、時間が無視できると安易に思っているだけじゃなかったのか?
時間を無視してはならないのだ。

最初のはこの存在でも時間を無視していたが、その箱が永久に存在するとは考えなかった。
その点をつかれるなら、いつかはその箱も変化して別ものになると認めたところのものだ。

変化と変化後は相対存在なのだから、フィフテイフィフテイの関係性は働くのだ。
科学上の存在は、相対存在であるので、確率的にしか存在しないのだ。それはフィフテイフィフテイである。

とこのように思うこの頃です。w

224 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 15:35:54.30 ID:HreJJp4T.net
確率的に存在しているんじゃなくて
人間も一緒に動いているから
つかみどころが無いだけでしょ

225 :123:2015/10/15(木) 16:28:15.26 ID:pLAXubgT.net
222.
ある、無い、とかは媒介概念である。
だからして、両者が存在することになる。

226 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 20:04:55.13 ID:M1sFq6hp.net
なんか話が遠く離れてきているような気がするわ

227 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 21:18:11.42 ID:beWMLeVg.net
いや、それてはいないよ。題材に科学を利用してるだけだ。

228 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 22:50:28.25 ID:HOZj1KsX.net
だから何が無いんだよ? スレなら無いのが当然! 

229 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 02:56:18.16 ID:gqghjBpp.net
 
>ある、無い、…、両者が存在することになる

「有る」と掴もうとしている想いも手放し
「無い」と掴もうとしている想いも手放し

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想を超えて

「想いを手放す」という想いも手放し

http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れ想滅定が生起し、そして

http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが
分別を超えて 「 有る・無い 」 と掴もうとしている 『 想いの終わりである 』

230 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 04:01:43.86 ID:kfHEBUOo.net
観測誤差なんてものは絶対に解消しないんですよ

人が動いている世界には
人の動きが問題になるんです

人を止めようとしても世界が動く
世界を止めようとしても人が動く

始めから全部同時に動いているから
普遍の法則なんて本当は無いんですよ

231 :123:2015/10/16(金) 07:24:20.75 ID:p4/pDiys.net
229.
想いの終わり、を媒介概念として、提案するのか。
媒介を否定するのか。
そこが問題である。
おじゃる君がさとれないのは、想いの終わり、で終わりとなっているからである。
絶後蘇生がないことになる。

232 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 10:38:02.84 ID:wYUOTF77.net
>>228
現象とは変化のことを言うのだから、その変化が相対的に存在しているので、その変化が「ない」、その変化の「実体がない」
ということだ。

変化と言う相対存在ではなく、変化しないもの絶対存在と言うべきであり、それは変化しないものであるがゆえに、
姿の無い存在として、五感に把握できづ、心においてのみ把握できるのだ。

>>224-230
>人間も一緒に動いているから つかみどころが無いだけでしょ

アトムの大小に無関係に、アトムが相対的に存在していることは認めなければならないということだよ。
人間の大きさに適当な大きさのアトムを例に取って、箱を例に挙げたのだ。
人間の持ち運びする大きさの箱だ。クロネコヤマトの配送する程度の箱だ。
そういうもの存在の在り方と、ゼロが十個以上並ぶ大きさのアトムの在り方は、まったく同じだ、ということなんだな。

そこで観測云々の話だが、計量する問題ではないだろう。存在の在り方を観測しているのだ。

233 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:18:37.54 ID:wYUOTF77.net
>>232続き
とは言うもののフィフテイフィフテイといっているのだから、その根拠を言っておこう。

相対するとは、両者が同じでなければ生立しないだろう?平等でないなら、その差異の部分は、別なものとして相対しているのであって、
いずれにしても、相対しているものは平等な存在だ。しかしその性質は相手を必要不可欠なもんとしている。
相反する性質のものでありながら、自存できないものなのだ。依他起生のものなのだ。
こうして初めて変化という現象が生じるのだ。

で結論としては、はこの存在であろうと、アトムの存在であろうと、人間の存在であろうと、平等に変化という存在なのだ、だから、
この存在の在り方を考察するときは、箱の在り方であろうと人間の在り方であろうとアトムの在り方であろうと、その考察の本質に
同じになるのだ。

動きについては、真理の教えは、動きはない、不去来、と教えているな。

234 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:30:12.77 ID:eNBSWfQq.net
妄想は別の所でやれ

235 ::2015/10/16(金) 18:13:59.85 ID:YMqghGLK.net
そもそも仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かっただろうが後代宗教となったので
宗教と言うならば、それは人間の理想的な生き方、在り方を究明するもので、○○が有るとか無いとか
をアレコレ検討するものではないというのが本質だ。
人間の生き方や在り方を問う以上それは人間の人生そのものであり、人生の個そのものである。

形而上の存在論の究極は科学に任せておけばよろしいw
死後世界が有るのか無いのか〜なんてのもひょっとしたら将来科学的に解明されるかもしれない。

宗教の問題はそんなところにはあらず、今現在生きている個々人の人生の生き方そのものである。
そこに目を向けず、方向違いの方を見て、仏教だのバラモンだの有相唯識だの無相唯識だの無だの空だのと
戯言を繰り返しても無益で何ら己の生き方の為になる事は無い。

236 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 20:32:59.68 ID:gqghjBpp.net
 
>仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かった

当時のインドでは
(宗教的な)バラモン(ヒンドゥー)と
そして更に
ニガンタ派をはじめとして
ヴェーダの権威を認めないナースティカが
バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する
(宗教的な)思想を展開していた

ある時、釈迦がカピラヴァストゥの
北門から出た時に一人の沙門に出会い
(宗教的なものとしての)
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった

(宗教的なものとして)
釈迦は出家して
バッカバ仙人を訪れ      (宗教的なものとして)苦行を観察する
アーラーラ・カーラーマを訪れ(宗教的なものとしての)空無辺処(無所有処)
ウッダカラーマ・プッタを訪れ (宗教的なものとしての)非想非非想

(宗教的なものとして)
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように『自灯明法灯明』の教えを説いた

237 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 21:03:37.81 ID:gqghjBpp.net
 
>>236 の訂正

無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出して → 解脱へ 』 と導くために

『 無明の暗闇に覆われている、この世界から → 解脱へ 』 と導くために

身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察せよ

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四

衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは 『 空だ 』 と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
衆生を引導するが故に、『 仮名の空 』 を以って導いている

(実有・実体ではなく、空という性質であるからこそ 『 仮名の空 』 を以って導いている)

238 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 10:21:11.25 ID:9VVWWS0v.net
密着しているという状態が、一体であると言いだしたのはパルメニデスであったと記憶している。
しかし、それは当然な判断じゃないか?
金鉱石があるとしよう。金はその他の鉱物と一緒になった一塊の岩石の中にあるんだろう?
金とその他の鉱物が密着しているのなら、全ての鉱物は金であると言えるし、金でないその他の鉱物だともいえるかも。

しかし、昔から人は、金だけを取り出してきたのだ。だから、金とその他の鉱物は異なる存在だ、と見做すのが常識になってきたんだろうな。
もう一度密着とは一つの状態を指すことを確認しておこう。

で、金と取り出して他の鉱物と離した時、分離されたのか?
分離されていないんだよ。どうしてか?空気を媒介にして、依然として密着しているのだ。
空気もまた存在してるものだ。空気と金が密着している以上、空気と金は一体なんだよ。
さらにその空気は他の鉱物とも密着してるから、取りだした金とその他の鉱物も密着しているのだ。
こう考えれば、この宇宙の一切は密着している状態なので、一体のものと言わなければならない。

ただ表層だけが異なっているのだ。金だとか、人間だとか、空気だとか、に。
そしてこれらの表層の変化は、縁起関係の存在で、それ以外ではない、というのも困難な判断か?

一体な存在と縁起関係により識別される存在では、一体どちらが恒常的に存在してるのだろう?
密着して一体となっている方が恒常的存在だろう?
なら恒常的存在は自存しているもので、真実と言わなければならないね?

239 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:03:47.97 ID:k4UExZ3W.net
 
哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%B9
パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年 - 没年不明)は、古代ギリシアの哲学者
アナクサゴラスの弟子・クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアスに師事したとも伝えられる

感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである
理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた
このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%9B%A3
ピタゴラス教団は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社
古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から 『 輪廻転生の考え方を有していた 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
オルペウス教は、古代ギリシャ世界における密儀教
『人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず
  輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている』という教義

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%B9
クセノパネスは、紀元前6世紀のギリシア哲学者
1).存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限であるが時間がたち変化することで無限になるわけではない、と主張した
2).神の本性は球状であり、人間と少しも似たところがない。そして全体が知性であり思慮であって永遠なものである
3).生じるものはすべて滅び、魂は気息(プネウマ)である、と最初に言い出したのはクセノパネスであるという
4).エンペドクレスが賢者を見つけ出すことができないといったとき「賢者を見つけようとするものは、その人自身が賢者でなければならない」と言ったという

240 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:26:19.64 ID:k4UExZ3W.net
 
「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である

変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である

それでも、とりあえず↓これ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

(『変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくことになる』という説明をしている)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである

 − これに対して −

釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると説いた

241 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 13:20:36.82 ID:9VVWWS0v.net
>>239
> 哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?

プラトンの「パルメニデス」に書いている。
この著作により、プラトンはソクラテスの「イデア」論を捨てた、と言いう研究者もいる。

これに疑問を持つ君は、それなら、密着しないどんな状態を言いうるのかね?

なんか今の科学では、真空と言うものがあるとし、それは所詮、いかなる物質もガスもない空間ということらしいが、
そんなことはない。そもそも、そこには空間というものがあるではないか。体積を持つものとして。どうして真空がないと言えるのか?
真空という存在がありながら、真空が無いとは言えない。この真空も真空でない空間と相対的に存在しているものだ。

242 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 14:47:14.02 ID:9VVWWS0v.net
釈迦仏が自己を紹介するにつき「私には我と言うものがない」と言うのはあり得るか?
あり得ると思う。その時、釈迦仏は矛盾しているというべきか?

釈迦仏が「私は解脱し、永遠の平安に居る」と言うとき矛盾したことを言っているのか?

釈迦仏がウダーナバルガの中において、「私は、真実の世界をよく知っている、そこには太陽もなく
・・・・(第26章21〜31、特に24参照)」と言うとき、それは矛盾しているのか?

243 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:06:05.60 ID:9VVWWS0v.net
>>240
> 「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である

言葉に頼りきらないで、事実状態を想定してみるべきだ。
無という状態があるんだろう?そこに有が生じると君は言う。その時の有は、無という状態の中の一部分なのだ。
それは一部分の存在であるから、残りの部分と相対的に存在しているのであり、残りの部分は、相対的に存在しているのだから、無なのだ。

もともとの無が全部変化して有になったのではないのだろう?
もともとの無が全部変化して有になったと君が言うのなら、君は嘘をついているのだ。
その場合は、もともとの無は残ってるはずだ。すなわち一部分だけが有に変化したのだ。

変化したという限りは、その変化の状態を認識できなければならないからだ。
君は単に被とだましで、もともとの完全な無の状態が、有に変化したというのだから、詭弁だろう?

244 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:07:39.74 ID:9VVWWS0v.net
被とだましで→人騙し

245 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 15:23:48.28 ID:k4UExZ3W.net
 
>密着しているという状態が、一体である

 ↓これでつか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0
プラトニズム、またはプラトン主義
美徳と瞑想によって人間の 『 魂は自身を上昇させ一者と合一することができると説かれた 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82
梵我一如
『 宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である 』 と気づくこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
プラトン
ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と
『 輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視する 』 ようになり
それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
仏教
仏陀(目覚めた人)の説いた教え、また自ら仏陀に成るための教えであるとされる
『 輪廻から → 解脱へ 』 と導いていく
『 無明の暗闇に覆われている、この世界から → 解脱へ 』 と導いていく

246 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 17:33:24.60 ID:EgkURT5z.net
輪廻は輪廻を前提としている場合にだけ生じる妄想であり、
魂も魂を前提としている場合にだけ生じる妄想である。

そのようなものを前提としない人間も多く、そのような人間にとり輪廻は無く死後世界も無い。
なぜ妄想であるかと言えば、実証不可能な事象だからw

そのようなものを大真面目に信じるのはキチガイ。

247 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 19:05:42.35 ID:9VVWWS0v.net
>>245
>密着しているという状態が、一体である
 ↓これでつか?

それは話しが飛躍しすぎ。
「パルメニデス」でのパルメニデスは非常に具体的に、物理的に話しているので、
自身、唯物的な話になっていることを認めているほどだ。

密着の表現が出ているところを提示したいが、短くもない著作を探し当てるのは苦労だ。。

ここに金の延べ棒があるとすると、その中間で切断して二つにできる。この切断面はもとは密着していたのだ。
それと同じに、金塊と周辺の空気もまた密着していたのだ。密着していた以上、先の金の延べ棒と一体である、ということだ。

これを反駁できるどんな例がある?

248 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 09:59:27.75 ID:mTKNB8wJ.net
 
>輪廻は輪廻を前提としている場合にだけ生じる妄想であり
>そのようなものを大真面目に信じるのはキチガイ

紐くん   → 脳みそ、くるくるパー
ピタゴラス → サモスの賢人、クロトンの哲学者
プラトン  → プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり…

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
オルペウス教
『 人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず
  輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている、という教義 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9
ピタゴラス(紀元前582年 - 紀元前496年)
ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者
彼の数学や 『 輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた 』
「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた
オルペウス教の影響を受けてその思想の中で 『 輪廻を説いていたとされている 』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる
ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学・幾何学と
『 輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を重視するようになり
  それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく 』

249 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 10:24:41.35 ID:NWf8Duwp.net
輪廻前提で輪廻の妄想にどっぷりはまっている人間が 脳みそ、くるくるパーなんだよww

250 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 10:26:32.95 ID:mTKNB8wJ.net
 
>金塊と周辺の空気もまた密着していたのだ。密着していた以上、先の金の延べ棒と一体である、ということだ
>これを反駁できるどんな例がある?

結局のところ、ID:9VVWWS0v氏が何を主張したいのか?わからないけど

『宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である。と気づいて、永遠の至福に到達しよう』

ということなんじゃないの?

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
無明の暗闇に覆われているので
誰もが(この現世において)成仏するわけではないので(五性各別なので)、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』と、気づくまでは、気づくことは難しい

251 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 10:48:56.43 ID:8eYkDXs4.net
パルメニデスの弟子のゼノンは師の教えを証明するために三つのパラドックスという有名な論題を世界に提供している。
足の速いことで有名なアキレスと言う戦士は、動きののろいことで常識となっている亀に
勝てない、という命題はその一つである。

252 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:06:38.64 ID:mTKNB8wJ.net
 
紐くんは、「脳みそ、くるくるパー」なので、意味が、わからないのかもしれないけど

輪廻の妄想にどっぷりはまっているのではなくて

輪廻への想いを手放して、そして

『輪廻転生する不滅の霊魂(プシュケー)の概念を
  (解脱して)超えて
  真実在としての「イデア」』

という説明をしている。ということ

その当時の人にとって新しいものを理解させていくためには
その当時の人にとっての世間的なものを一応認めて
その理解のうえで新しいものを人々に理解させていく
という方法をとらねばならなかった
それ故に
とりあえず仮に、輪廻を前提として
『 この輪廻への想いを手放しせよ 』 と導いていくことが必要だ。という意味

253 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:33:26.42 ID:mTKNB8wJ.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
ゼノンのパラドックス
「世界が不可分な要素的な点やアトムからなる」という前提から
「運動が不可能となる」という帰結を導き出すことで
運動が可能であるという現実との矛盾を示そうとした

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6
量子力学の場合は
古典力学的な
因果律が成り立たない

量子力学は
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
古典力学的な実在論としては記述できない

それ故に

量子力学の立場としては
『「世界が不可分な要素的な点やアトムからなる」という前提から「運動が不可能となる」』
という帰結を導き出そうということが間違いだ。ということ

『量子力学を前提として、古典力学的なものを導き出すことは出来ない』という意味でつ

254 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 11:53:29.10 ID:8eYkDXs4.net
>>250
>『宇宙を支配する原理と、個人を支配する原理が同一である。と気づいて、永遠の至福に到達しよう』
ということなんじゃないの?

それでもいいと思うんだけど、肝心な点が欠けているんだよね。
宇宙を支配する原理とは、何か?個人を支配する原理とは何か?これが欠けているだろう?

その原理が何かが問題なのだ。
仏陀はそれは一相無相空と発見したんだよ。

仏陀以外の覚者たちも、同じものを発見して居る。

次に、世界の真実が明確になった以上、その真実に合わせることが修行としてあるのだ。生活においてそれを実現しなければならない。
そこで、真実に合一しようとしてる人と、真実に逆らっている人との差異が発生するのだ。

真実に逆らっている人は輪廻と言う恐ろしい世界に埋没するよ、ということになるのだ。

真実が何か明らかになれば、当然なこととして、真実に従順な人と、不従順な人との差異が生まれることを
明らかに説くことができる。

梵我一如は聞くが、何が梵なのか、全然判明しない。何を原理としているのか全然わからない。それでは全く学んでいないのだ。
と言うよりもバラモン教では、その梵の説明がないんじゃないのか?

だから、いろんな神様が出てくるのではないのか?仏陀はそういう無知を排除したのだ。
信仰を捨てよ、という仏陀の教えは、それまでのバラモン教の神様へのおすがりを言うのではなかろうか?
かといって、シャンカラのような理法を解く教えもあるらしいが。

255 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 11:54:28.44 ID:mTKNB8wJ.net
 
波動関数は
「物体の『状態』そのものの波動」であり
物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており
また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に全く異なる
並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ
  _  _  _

実有・実体ではなく
空という性質に依存して
因と縁の双方の縁起に依存して
例えば仮に
「身体を動かそう」という想いに依存して
微粒子が動いて → 微粒子に依存して → 身体が動くとか?

実践したことがないので「本当なのか?」わからないけど↓これ?
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます

256 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 12:16:14.65 ID:mTKNB8wJ.net
 
>宇宙を支配する原理とは、何か?個人を支配する原理とは何か?これが欠けているだろう?

例えば
おじゃるの場合は
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
宇宙・個人とかを支配する原理は何か?わからないけど

例えば
サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

真言宗の場合は
地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大がつまり大日如来を成している
一切諸法は六大と別では無い
六大の法性は諸法に遍満している
一切諸法は大日如来と異ならない
大日如来は法界(世界)に遍満している

法相宗の場合は
十八界(有為法も)無為法も含まれる

257 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 12:57:44.20 ID:NWf8Duwp.net
まあ、脳みそが重病状態のおじゃるの方向性では一生経ても無駄飯食いの穀潰しで終わるだけだw

258 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 13:24:47.03 ID:mTKNB8wJ.net
 
>おじゃるは無駄飯食いの穀潰しで終わる

そして更に
「可愛い女性とデートもしたい!」
「旨い焼肉カルビも食べたい!」
「(脳みそも重篤だけど内臓の働きも悪いので酒は呑めないので)旨いジンジャーエールも飲みたい!」
という想いも現れ(滅し)ている

それ故に

「無ではない!という想いも現れ(滅し)ている」でしょ?

259 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 13:48:34.53 ID:8eYkDXs4.net
>>256
>サーンキヤの場合は プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる

プル者が永遠に変化しない実体であるとするなら、それは仏教の実相の一相無相でなければならない。
それの観察において平衡が敗れるととは、?プルシャから逸脱するということ?
プルシャから逸脱するとは、プルシャ以外のものをプルシャと誤認することになり、それは物質の場合があり
物質から虚偽の考えが流失することになるね。しかし流失するものはプルシャから出たものではない。そういうことはあり得ない。プルシャが実相である限り。

>真言宗の場合は 地水火風空識を立てて、総じて仏の体をあきらかにする
六大がつまり大日如来を成している

この説明では、如来とは何か、説明してないだろう?地水火風空識を言ってるつもりだろうが、
六大元素がなんであるかの説明がないではないか?

>法相宗の場合は十八界(有為法も)無為法も含まれる

有為法無為法がなんであるか知っているなら、この世界の原理、個人の原理を言い当てている。

260 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/18(日) 18:25:12.88 ID:mTKNB8wJ.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8
説一切有部
『あらゆる現象(諸法)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ)を想定し、この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)」』を主張した

 − これに対して −
大乗は 『 無自性、空という性質 』 を主張して説一切有部の説を批判した
しかし唯識派になると説一切有部の分析を積極的に取り入れるようになった

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
大日如来は
無限宇宙に周遍する点では超越者だが、万物と共に在る点では内在者である
全一者であり、万物を生成化育することで自己を現成し
如来の広大無辺な慈悲は万物の上に光被してやまないとされる
三世(過去・現在・未来)にわたって常に説法しているとも説かれる

『如来の説法は
  眼耳鼻舌身意
  色声香味触法の対象をその本体とする
  この六種の対象の本質は、宇宙の真理としての
  仏の身体・言語・意識の三つの神秘的な働きこそがそれである』

空海(『声字実相義』より)

261 :神も仏も名無しさん:2015/10/18(日) 20:58:40.33 ID:8eYkDXs4.net
>>260
>あらゆる現象(諸法)を構成する基体として、有法、法体(ダルマ)を想定し、この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)」』を主張した

これは当たっている。

>大乗は 『 無自性、空という性質 』 を主張して説一切有部の説を批判した

法諦恒有が「無自性、空という性質)を持つもの、というべきだ。ところが大乗は批判したというのだとすれば、
法体恒有という実相を否定してるということは、うぶの法体恒有が実相ではないからか?それとも、大乗が釈迦の教えを誤解して、
法体恒有のない世界主張したもんかである。

しかし、法体恒有がないとすれば縁起という現象は発生しないし、縁起だけの世界を説くことになり、それは仏教の全体ではないのだ。

維摩経の維摩の存在は無意味になる。

>如来の広大無辺な慈悲

これはどういうものですか?どのように仏典に説明されていますか?

262 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/19(月) 07:45:56.87 ID:bnoxwyt+.net
 
大日如来
虚空にあまねく存在するという真言密教の教主
「万物の慈母」、「万物を総該した無限宇宙の全一」とされる汎神論的な仏
大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主

汎神論(はんしんろん)とは
全ての物体や概念・法則が神の顕現であり神性を持つ、あるいは神そのものであるとする世界観・哲学
万有神論。汎神教は、世界のすべてを神の現れとする宗教
一神教・多神教を問わず、歴史上のさまざまな宗教に汎神論的傾向がみられるとされる
古代インドのヴェーダとウパニシャッド哲学、ソクラテス以前のギリシア思想
近代においては、スピノザ、ゲーテ、シェリング等の思想がこれに属する

大毘盧遮那成仏神変加持経(だいびるしゃなじょうぶつじんべんかじきょう)
初期大乗経典では
菩提心とは「菩提を求める心」であったのに対し
この経では「菩提とは実の如く自心を知ること」と、その意義が大きく変わってきている点が重要である

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書

変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

しかし
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』
『(無明から)解脱すれば仏だ』と、気づくまでは、気づくことは難しい

263 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 18:54:52.22 ID:rBhLzO/I.net
>>262
> 変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

不動、無感動と言うけど、どうなんだろう?


>しかし
『(無明から解脱して)一切の有情には仏性がある』
『(無明から)解脱すれば仏だ』と、気づくまでは、気づくことは難しい
 
一切の有情と言うけど、有情だけではないだろう?無常なるものにも仏性があるはずだ。なぜなら、
このさきに、「世界すべてを 『 空なり 』 と観察して」と仏陀は言っているからだ。
道教的に言えば、天地を空なりと観察して、ということだ。

264 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 19:12:18.68 ID:rBhLzO/I.net
天地があると思っている者、または、森羅万象があると思っているものに、たいしては、
仏陀は、この世界の実相は、空相であり、無相であり、一相だよ。森羅万象に捕まえることのできるものはないのだよ。
と教え、森羅万象に拘泥してるものの、その苦しみは根拠のないものだ、と教えた。だから執着をしてはいけない。と教えた。

しかし、森羅万象に実体がないと思っているものに対しては、実相は実体あるものだ。無相と言う実体が、一相と言う実体が、空相と言う実体が、あると教えたのだ。
この実体は三世劫有なものだ。と教えたのだ。

悩み苦しむものに、真実平んどうする行為、これを慈悲と言うべきだろう。広大無辺な平安の世界へ導くことは慈悲だろう?
大日如来が個人個人に対して、広大無辺な安楽国へ導く真理を説くことが、如来の慈悲なのだ。
決して味噌もくそもいっしょくたにした庶民を一律に広大無辺な安楽国に導くという意味ではないな。
如来を信じないものは、決して安楽国に向かうことはないのだ。

265 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 19:14:38.01 ID:rBhLzO/I.net
>>264訂正

真実平んどうする行為→真実へ引導する行為

266 :神も仏も名無しさん:2015/10/19(月) 20:14:56.61 ID:qhlqNM/f.net
>>264
導くというが、ここがそこなんだよ
その広大無辺な平安の世界ですったもんだしてんだよ。

まさにここで、前のめりに幻とすったもんだしてんだよ
素直に教えられたとおりに、執着せずに離れろというのにw

執着しないというのは、単純に触れるなというのだよ。アンタッチだ。
なんかこねくり回して違う意味を付けているから間違うよね。

実相とか実体とか観念遊びも止めろというの。
あっ、ここは観念遊びのスレでしたね。ごめんごめん。

267 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 00:15:21.61 ID:9VGt3LfL.net
なるほど、
それもただしいのかもしれませんね。

268 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 08:29:22.58 ID:/Pvc+Y54.net
>>266
まだ筏が必要なんだ。

269 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 11:42:30.15 ID:eUSeSnat.net
>>266
が正解なんだが、266も一瞥経験がない頃は他の人と同じだったと思うけど、、、

270 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 12:16:55.44 ID:mxgP2wEa.net
《プラトニックラヴ》
プラトンはイデアを愛していたのですね。

プラトンはphilosophy(愛知)というのは、まさに《死の練習》なのであって、
真の愛知者というのは、できるかぎり自分のプシュケーをその身体から分離解放し、プシュケーが純粋にそれ自体においてあるように努める者だ、とする。
そして愛知者のプシュケーが知る対象として提示されるのが《イデア》である。

271 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 17:36:01.45 ID:/Pvc+Y54.net
プラトンはパルメニデスに屈服したんですよ。まさにイデア論を論破されたんです。「パルメニデス」で。
イデア論など学んでも何の得もありません。彼の妄想にすぎないのです。
サーンキア学派のほうが真実に近いです。

272 :神も仏も名無しさん:2015/10/20(火) 20:50:30.31 ID:U/NCp6Eo.net
パルメニデスの「ある」とプラトンのイデアは同じ。
プラトンはパルメニデスを参考とはした。
屈服したのではなく言いがかりのような批判を受けただけ。

273 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:05:52.77 ID:gXbBhQYi.net
Fr.2
  いざや私は汝に告げよう、汝この言葉を聞いてよく受け入れよ――
  探究の道として考えられるのはいかなるもののみぞ。
  その一つは「ある」そして「あらぬことは不可能」という道、
  これは説得の女神の道である(真理に従うがゆえに)。
5  他の一つは「あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道、
  この道は全く探ねえざる道であることを私は汝に告げる。
  なぜならば汝はあらぬものを知ることもできなければ(それはなしえぬこと)
  語ることもできないから

Fr.3
  なぜならば思惟することとあることとは同じであるから。

Fr.4
  現前してはいないけれども知性には現前しているものをしっかりと見よ。
  あるものがあるものにつながっているのを切りはなすことはしないであろう――
  それが秩序をなしてあらゆるところにあらゆる仕方で散らばっているにせよ、
  集まっているにせよ。

Fr.5
  どこから始めようと私にとっては同じこと。
  そこへ私はいつか再び帰り着くであろう。

274 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:06:58.08 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
Fr.6
  あるもの(のみ)があると語りかつ考えねばならぬ。なぜならそれがあることは可能であるが
  無があることは不可能だから。このことをとくと考えるよう私は汝に命ずる。
  探究の道として私が汝を遠ざけ<禁ずる>のは先ずこの道[無の道]、
  しかし次には死すべき人間どもが何ひとつ知ることなしに頭を二つ持ちながら
5  さまよい歩く道を汝に禁ずる。すなわち彼ら死すべき者どもの胸の中では
  困惑がその迷い心をみちびき、彼らは聾にして盲、
  ただ呆然ともの識り分かちえぬ群衆となってひきまわされる。
  彼らはあるとあらぬが同じでありかつ同じでないとみなす。
  彼らにはあらゆるものについて逆向きの道がある。

Fr.7
  なぜならばこのことあらぬものがあるということはけっして証しされぬであろう。
  いな汝すべからく探究のこの道から想いを遠ざけよ
  また汝が多くの経験に支えられた習慣にしいられてこの道を行きながら
  もの見分けえぬ眼と鳴りさわぐ耳と舌とを働かせることのないように。
5  汝はただ理(ロゴス)によってこそ私によって語られた異論多き論駁を判定せねばならぬ。

Fr.8(抜粋)
  語られるべき道としてなお残されているのはただ一つ――
  すなわち(あるものは)あるということ。この道には
  非常に多くのしるしがある。すなわちいわくあるものは不生にして不滅であること。

275 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:14:30.41 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/vorsokratiker/parmenides.html

↑上のサイトの資料とする項目にあるパルメニデスの詩の形による意見の抜粋である。

276 :神も仏も名無しさん:2015/10/21(水) 11:43:25.93 ID:gXbBhQYi.net
>>273つづき
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mochi_space/ancient_philosophy/plato/plato.html#plato_jikohihann
3-1、イデア論論駁 ―『パルメニデス』―

ここがイデア論の反駁が解りやすく書かれているようです。

277 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 03:38:56.99 ID:vNKKVEt9.net
引用は、プラトン哲学についての素晴らしく分かり易い説明だが、イデア論は、
生命論から見れば、完全な妄想に過ぎない。

1.すべてのイデアは、個の人間が死ねば、肉体は腐敗して消滅するから、死者
にとっては一切生じない。「個の魂の不死」などありえず、あるものは「人間
という動物の一種属の生命」の継続のみ。他の種属のイデアは、人間がその
種属に成り代わらない限り、絶対にわからない。人間に「共通のイデア」がある
としたら、それは専ら、種属としての人間の肉体(生命)の維持のためである。

2.すべてのイデアは、「具象物を知覚して生じる、生命の機能としての心理現象」
に過ぎず、時と場合によって、百人百様である。万人に、また同一人にとっても
時と場合を問わず、「美(という心理現象)がある」のではない。「美しい花がある。
花の美しさなぞ、ない」のである。

3.「善」というイデアは、人間の生存(共生)に不可欠な技術概念である。
他者の生存を助ける行為を「善」と呼び、他者の生存を害する行為を「悪」
と呼ぶ。従って、善悪概念は、特定の生存共同体によって異なることが多い。

4.すべての人間は「洞窟の囚人」としてのみ生存している。他のそれぞれの
動物の種属も同じ。「松明の影」のみが、その生存可能な全世界である。松明が
見えるとしたら、それは、その種属における狂人のみである。

5.イデア論は、イデアを現実とするという倒錯により、宗教やイデオロギー
による争いを引き起こし、人類に巨大な害悪をもたらし続けている。

6.パルメニデスの批判は、イデア論に対して可能な多数の批判の一つとして、
論理的に正しい。

278 ::2015/10/22(木) 16:25:56.77 ID:VT2lrEf5.net
昨日のホンマでっかTVは面白かったなw

人間は見たいものしか見ない生き物である〜
楽観的な人間は悲観的な事を見ず楽観的な事しか見ない。
反対に悲観的な人間は楽観的な事を見ず悲観的なばかり探して見る。
これで性格が形成されるのだが、トレーニングにより悲観人間を楽観的思考人間に変える事ができる。

下手な宗教の修行よりこういうトレーニングでもやる方が遥かに有意義だなw
悲観思考の人間が楽観思考の人間に変わり明るい人生を送る事ができる〜w

大体、輪廻転生なんて妄想に嵌っているのは、そこから逃れ離脱することが解脱なとほざいているが、
実のところ一回きりの人生なんて嫌だ〜何度も「我」を繰り返したい、それが当然だ〜って輪廻を志向している
からではないのか?ww
なんせ人間は見たいものしか見ない生き物だからなw 輪廻しか見ない人間はトレーニングでそこから離脱する事が
大事だなw

279 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 19:08:25.37 ID:omUlnGIu.net
創造主の作品作りの才能から無を悟れるお

280 :神も仏も名無しさん:2015/10/22(木) 21:29:53.06 ID:p1RnaOoZ.net
旧約聖書の創造の章で、女の神と男の神様が、自分たちに似せて人を男と女に作ろうと
したとあるね。これって初めの唯一の神ではないと言わなければならないね。

どういうことなんだろう?俺は思うにこの女神男神は、サタンに支配された
アダムとイブだというなら、納得できる。あだむといぶは、さたんにだまされてりんごをくったのだが、
リンゴを食えば、神のような智者になると騙されたのだ。そこで、アダムとイブは自分たちを
神になったものとして、そのように間違っておもって、自分たちに似せて人を男女に作ろうと言ったというのなら、
つじつまが合うね。
創った人間どもは、不完全であった、当然。それ以来サタンの支配する世界になっていると、。

281 ::2015/10/23(金) 07:47:46.03 ID:HCaioZaA.net
この日のホンマでっかTVはもう一つ面白いネタがあって、
コレステロールは若干高い方が良く、体のコレステロール値は食べるものに
影響を受けない。卵や油を多くとろうが少なくとろうが体のコレステロール値
は変わらない〜というものw

これに対しての池田氏の補足がまた良いw
(ベーシックな部分では人間に普遍的なものもあろうが、)個々人により何が良いか
悪いかは違うので一概にコレが良いだの悪いだのは言えない。つまり酒を飲んで
調子が良ければ飲めば良いし酒飲んで調子悪ければ飲まなければ良い〜ww

これはまさに宗教にも言える事だわなw
だから伝統の宗教がカスと言うんだよw
人間に普遍的な事など当たり前の事なので説くに値せず〜では何が説くに値するのか?w
それは個々人で異なるので説いても意味がない訳だ。というより何を説いても良いがそれを
受け取る方が何でも鵜呑みにする姿勢が阿呆という事になる、というべきか?w

つまり伝統で一から百まで伝統に従え〜なんてのは愚の骨頂w
宗教の教えは教えを受ける方が取捨選択するもの。自分に合うものを受け入れれば良い、というより
そうするべきで、全部が全部鵜呑みにするのは阿呆だ。
つまり自力、自灯明(自分で取捨選択する)こそ宗教の望ましい在り方で、他力で題目唱えて救われたい
なんてのは阿呆らしい在り方に他ならず、まさにそういうのは宗教というより文化として伝統を守る価値しかあるまいw

282 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 11:44:41.53 ID:Xd6kZGhQ.net
おじゃる氏?
死んだのか?

283 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 13:00:51.31 ID:jfzV+hlN.net
 
>おじゃる氏?死んだのか?

内臓の働きが悪いので、もう、そのうちに逝く予定で おじゃる

おじゃるの場合は
「輪廻している」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
掴もうとしている想いに依存して
異蘊相続に依存して
(前世の記憶はないけど)
又、次の、この世の生に戻り来る

 − これに対して −

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 877
かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って
諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない
思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない

(「無明の世界から → 解脱へ」と導いていく)

284 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 13:11:23.55 ID:1jENREYX.net
http://myougamono.main.jp/

285 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 16:15:48.66 ID:Xd6kZGhQ.net
>>283
>内臓の働きが悪いので

感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ。
あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?

仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ。

286 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 17:27:12.17 ID:Xd6kZGhQ.net
空と言う真実に逆らえる思考はないのだよ。逆らっている限り、空と言う真実から罰を被るだけだ。

縁起の輪から抜け出せ。そして縁起を蹂躙してしまえ。そして、これからは縁起を創設していけ。
縁起の世界を自分で作りだしていけ。
 
 なんて言っちゃって他者に言うのは軽いねw。

287 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/24(土) 18:34:50.20 ID:jfzV+hlN.net
>感覚は空だ、認識は空だ、それは相対的にあるだけだ
>あるという思いを捨てるべきだというのが仏教ではなかったか?
>仏の教えを信じるべきだよ。今まで勉強してきたことを生かすべきだ

例えば
仮設としての(実有・実体ではなく空という性質だからこそ因と縁の双方の縁起に依存して)
おじゃるは
認識は対象の形相を有していると考えている
有相唯識派の段階なので、それ故に

 ☆ 大日の智の総体の法界体性が主体であったとしても、それでも ☆

無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けている
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派  無相唯識派
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常(空という性質に依存しているときも「我ではない」)
という理に自らの心を馴らしていかなければなりません
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index4.html
仏の智慧は、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智

288 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:15:31.29 ID:agYfAMRt.net
>>287

「無常」とは、「瞬時においては常」を前提とする。常に変化している物は、
その状態のままが常。

「我ではない」と否定しようとすればするほど、我への執着が生じる。
否定しようとしている主体は、「常なる我」である。

我を真正面から肯定し、それを「我を忘れて」ひたむきに生きることにより、
初めて「無我」が達成される。ことさらに「無我」を求めるのは、「我への
執着」以外の何物でもない。

常や我を「否定する」釈迦は、この真理に思い至れなかった。

289 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:25:01.64 ID:UZ2C7hPf.net
>>288

>思い至れなかった。

お釈迦様は思いを超越したのですよ。
次元が違います

290 :神も仏も名無しさん:2015/10/24(土) 20:29:40.51 ID:agYfAMRt.net
>>289
「はじめから思い至れなかった」のだから、「超越した」とはいえない。

291 ::2015/10/24(土) 20:30:38.23 ID:uq/Pkksv.net
最後の一行以外は概ねその通りであり間違いはない。
さすがは隠居氏であるw

無我とは「全ての物は我が物に非ず」という非我が本来であり我が無い「無我」と
いうのは後代の飛躍である。
最後の一行に対する私の見解だw

292 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:32:48.93 ID:yz+Kt+4o.net
>>291
「非我(我に非ず)」では、「比較の対象としての我の存在」を前提とするね。

いずれにせよ、「無我」は誤り。

293 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:41:25.21 ID:/ckIpSvP.net
>>292
我に非ずではなく我が物に非ず〜
仏陀は我を無いとは言っていないでしょうw
真我という点では何らその存在については回答していない。
有るとも無いとも言わないから非有非無で空〜となるんだろう。
それはそれで構わない。間違った無いの主張よりむしろ隠居氏の言う通り
我を有るもの(実人生上の〜)として生きる事の方が重要と言える。

無我を我が無いと訳した人間が阿呆なのだろうww

294 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 00:45:01.00 ID:/ckIpSvP.net
あれもこれも我が物に非ず〜自分の子供も我が物に非ず、自分の肉体も我が物に非ず〜から
飛躍して「では、我というものは無いのではないか〜」で無我の我は無いに発展していった。

295 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 03:55:32.74 ID:yz+Kt+4o.net
>>294

それはどうかな。「我が物に非ず」という度ごとに、物の所有主体としての
「我」が意識され、強まる。

釈迦は、「我の物」でなければ、一体「誰の物」と考えたのか?「彼の物、
彼女の物」かw。彼も彼女も、他我としての我である。

296 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:09:50.89 ID:sS+GeESg.net
縁起してるものに実体がない、。その実体の意味が我になったと考えるべきだ。
実体=我ということだ。

非我と言うときは、それは我ではない、という意味そのもので、自分にかかわりなく、当のものには実体が存在せづ、
それは当のものの我ではない、実体ではない、という意味になろう。

わが身に関係なく、他のものに仮に実体があるとした場合、それは大事なものとして、疎かにできない、してはならない
ものとなる。ところがそういうものは天地にはないというのだ。なぜなら一切は縁起してるだけの世界だから。

人間特に自分を考察してみても、体内の諸器官は、一切縁起関係にあるもので、実体としてあるものはない。
我と言う実体はないのである。体外を見ても、同じだ。五感を通しているが、五感自体が縁起関係の根幹だ。一八界と言われる。
我という固定物としての実体はないのだ。
こんなわけで、「世界を空なりと感ぜよ」という覚者の教えがあるのだというべきだろう。

だから、非我というと、眞正の我が前堤となり、一方無我と言うと「有我」を前提とするが、これらは縁起世界での認識に他ならないのだ。
勝義諦の世界では、実相である、一相なもの、無相なもの、空相なもの、これこそ実体なのであり、それを有我とか真我と言って差し支えないのだと思う。

297 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 09:58:38.14 ID:/ckIpSvP.net
>>295
>物の所有主体

物の所有主体〜この主体というのが真我ならば、仏陀は真我、アートマンについては有るとも無いとも言っていない。
我は何物も所有しないものである〜と言っているだけでしょう。

298 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 14:52:46.32 ID:OWoMfeoZ.net
>>296

「色即是空」されど「空即是色」。「人間にとっての世界とは、人間の五感に映じただけの世界だから、
実は空(無)かも知れない。しかし、その世界こそ、人間がこれまで生存してきた、また今後も生存
し得る唯一の世界、すなわち現実界なのだ。人間が世界は無などと考えるのは、無意味なこと」。

「有は、人間の生存に直接の関係を及ぼす。無は、そうではない」。大いなる現実肯定である。

人類は、その発生以来、「専ら五感の知覚による、有無の一義的区別」によってのみ生存してきた。
人類は、有に100%依存しない限り、一瞬も生存できないからである。目の前に見える大地が
有でなければ、人間は一瞬にして奈落の底である。

「世界を空と『観ぜよ』」とは、「世界は実際は空ではない」ことを前提としている。

釈迦の縁起は、明らかに因果関係。因果関係は、忌むべき「業報論」を維持するための実体関係。
中論の空は、釈迦の縁起を「相互依存性・関係性・相対性」と解釈し直すことにより、それを換骨奪胎
したのである。「関係性」は「抽象観念」だから、まさに「空」。中論第一章では、釈迦の縁起
(これがあるから、あれがある)を明示的に否定している。

本質的に異なる釈迦の縁起と中論の空とを混同するから、大いなる混乱が生じている。

299 :神も仏も名無しさん:2015/10/25(日) 15:30:09.39 ID:/ckIpSvP.net
その通りw
>>211で指摘した通りである。

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