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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】
- 1 :紐:2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
- 仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?
大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。
仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www
前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/
- 145 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 05:33:03.81 ID:Xw3IuKIs.net
-
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151007-00010000-biz_sbcr-nb&p=2
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
→ ニュートリノが光速よりも遅い速度で動いている証拠となる
→ ニュートリノが重さをもっていることが99.99%以上の確率で示された
_ _ _
↓ ここからは仏教的な説明として
サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると、プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住(変化しないもの)であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるもの(自性・自相)と考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつ(周囲環境への影響力がある)とした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されている(死によっても失われない、業・カルマ)と考える
− これに対して −
釈迦は
このような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常(変化するもの)である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると導いた
- 146 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:38:18.21 ID:Rjkqvc3y.net
- 仮という表現自体が美しくないww
アインシュタインが宇宙定数なんてのを引っ張り出したような醜さがある。
こういう美しくないものは真実ではないんだな。
真実は単純な構造で美しいと感じさせるものだ。
仮〜なんて言っていて騙せるのは幼稚園児以下のキチガイだけだろうよw
- 147 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:46:12.22 ID:rZEsyOW9.net
-
>>1
無の意味を取り違えている。
無は何も無いことではない。
無とは言葉にすれば主観と客観の対立がないこと。
無念、無相、無住というが、
おもいが無いことでもカタチが無いことでも住むところが無いことでもない。
念は真如の現れ。そのおもいを脳が「自分が」と思い違いをして妄想する。
カタチは認めながらカタチにとらわれないのが無相
無住はひとの本性
- 148 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 05:56:16.01 ID:Rjkqvc3y.net
- 仏教では当たり前の事は一般的には当たり前ではないからねえw
無が何も無いという意味ではないのなら前置きで断りを書くべきだな。
こんなのは仏教では常識〜というのは一般では非常識〜かもしれんからねえw
- 149 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:09:52.66 ID:rZEsyOW9.net
-
>>148
経典は手段を説かない。目的を説くだけ。
- 150 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:13:02.35 ID:Rjkqvc3y.net
- 八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?w
- 151 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:19:20.92 ID:Xw3IuKIs.net
-
ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
_ _ _
↓ ここからは仏教的な説明として
サーンキヤの場合は
プルシャは永遠に変化することのない実体である
バラモン(ヒンドゥー)などの場合は
我は、常住
変化しないもの
自性・自相
死によっても失われない、業(カルマ)
− これに対して −
仏教の場合は
業(カルマ)が、死によっても失われない常住なものであるのなら
無限に続く、輪廻の運命から抜け出す(輪廻から解脱する)ことは出来ない
実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
仮設としての(縁起に依存して)
仮の現れとしての
この現世に
色受想行識の仮和合が現れ
そして、やがて、いつか儚きものとして
この現世から滅していくときに
地水火風空識に還元していく
- 152 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:35:21.36 ID:rZEsyOW9.net
- >>150
すべて仏のまねごと
本来目的であるということ
習い事はマネから
- 153 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 06:37:02.97 ID:Xw3IuKIs.net
-
皆さま乙です
皆さま早起きでつね?
「昨日の夜から起きていた」とか?
おじゃるの場合は
内臓の働きが悪いので長い時間、熟睡することが出来ずに
目が覚めてしまうので絶不調でつ
_ _ _
_ _ _
>>144 >>145 >>151 の続きでつ
実有・実体ではないからこそ
因と縁の双方の縁起に依存して、それ故に
>ニュートリノの種類が変化するニュートリノ振動が観測された
と導いていく
(『実有・実体であるのなら変化することが出来ない!』という意味でつ)
- 154 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:40:35.27 ID:Rjkqvc3y.net
- 手段だろうが目的だろうがどーでも良いがなw
要は無が無いという意味ではないのなら前置きで書いとけ〜w
それだけだww
- 155 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:51:44.47 ID:rZEsyOW9.net
- 仏に意味は無
- 156 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:53:04.70 ID:Rjkqvc3y.net
- 一般常識では意味の無い事に価値は無いw
- 157 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 06:58:12.26 ID:rZEsyOW9.net
- >>156
一般常識での価値は例えば具体的にどんな価値でしょう?
- 158 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:00:18.49 ID:Rjkqvc3y.net
- 一般常識の価値は様々有ろうよw
それこそ常識なんだから常識の有る人間には説明不要で通じる事w
非常識で分からないから教えて欲しいとでも言うのかね?w
- 159 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:01:13.99 ID:Xw3IuKIs.net
-
>八正道とか瞑想とか手段じゃないのか?
菩提分法(ぼだいぶんぽう)
中阿含経などに説かれた、仏教で、悟りに導くための道筋
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
_ _ _
例えば
「自分には自身の自我があるのだっ!」
と掴もうとしている想いは
実有・実体ではないからこそ、それ故に
『無明から目が覚めることが出来る』という意味でつ
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅 ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図 ウ・ジョーティカ著 12〜13ページ参照
…自分が愛を受けるに値するとも感じて、自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは、とても重要です
それがなければ、瞑想することはできません
(想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から
止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践して)
(過去への想いは、実有・実体ではないからこそ、それ故に)
過去への想いを手放し、現在を生きてください
- 160 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:01:31.77 ID:rZEsyOW9.net
- 是非教えてください
- 161 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:06:44.37 ID:Rjkqvc3y.net
- 経済的には財力
あるいは、金はなくとも健康にと言うのも有るなw
また、家庭円満〜商売繁盛〜交通安全〜って神社のお願い事全部常識的な価値だろうw
仏陀は人間の生き方を突き詰めたが、現代人も現代人なりに人間の生き方を突き詰めている人もいるだろう。
こんなものは数え上げればキリがない。ただ言えるのは意味のないものに価値は無い。
- 162 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:10:15.32 ID:rZEsyOW9.net
- >>161
正にそれによって人は苦しんでいる。
- 163 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:11:46.56 ID:Rjkqvc3y.net
- 苦しんでいるだろうが楽しんでもいるw
片方だけ取り上げて大仰に言うのが間違いだろうw
全く隠居氏の言う通りだ。
苦あれば楽あり〜
全部苦とか全部楽なんてのは有り得ないw
- 164 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:14:32.63 ID:rZEsyOW9.net
- >>163
世俗の楽しみこそが苦の根元
- 165 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:21:30.59 ID:Rjkqvc3y.net
- ではその苦が無けれ良いのか否か?w
苦が無ければ楽しみすら無いだろうよw
人間から楽しみを取り除いてそれが幸せなのか?
貧困で餓死するような人間には救いの手を差し伸べ
それ以外の一般的な苦痛なんてのは有って当たり前と知るべき。
- 166 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:24:21.19 ID:Xw3IuKIs.net
-
愛別離苦 愛する者と別離すること
怨憎会苦 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦 求める物が得られないこと
五蘊盛苦 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦(思うようにならないこと)を合わせて八苦という
− これを対処するために −
苦諦 一切は苦であるという真理
集諦 苦には原因があるという真理
滅諦 苦は滅するという真理
道諦 苦を滅する道があるという真理
道諦
「苦るしい!」と掴もうとしている想いを手放し
無明から目が覚めるための
菩提分法
四念住・四正断・四神足・五根・五力・七覚支・八正道
- 167 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:26:35.96 ID:rZEsyOW9.net
- >>165
苦に甘んじて輪廻をくりかえすのも選択
解脱するのも選択
- 168 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:29:32.91 ID:Rjkqvc3y.net
- 大体、輪廻なんて信じていない人間に輪廻を唱えても無駄だろうw
輪廻なしの人間においては解脱も何を指して言っているのか分からないw
つまり、そういう人間にとっては、あーだこーだと言ってはいるが、全部無意味で無価値となるw
- 169 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:34:11.95 ID:rZEsyOW9.net
- 南無
- 170 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 07:41:06.02 ID:Rjkqvc3y.net
- 今、世界中で輪廻転生を信じているのはインドくらいなものでしょう。
あと、インド関連の宗教信者かなw
全世界的には少数派、マイノリティ。
輪廻を前提とせねば伝えられないような教えは捨てるんだな。
- 171 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 07:51:28.88 ID:Xw3IuKIs.net
-
輪廻を信じていない紐くんには↓これ
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』
と、気づくまでは、気づくことは難しい
- 172 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 08:02:46.00 ID:Rjkqvc3y.net
- 物事の理解の仕方は人それぞれのようで、おじゃると私とでは正反対ではあるなw
般若心経は大乗の経典であり、自分が読む経典が何なのかをまず理解せよw
大乗の経典は全て偽経というのは正解で、ゴータマの教えではなく経典作者の
作品だからな。作品として読めばその言わんとする事くらい誰でも理解できるだろうw
自分の愚かしさなどと卑下する必要もなく難しくもなく容易に理解可能w
経典は偽経であれ何であれ読んだら捨てる事だw
捨てずに後生大事にとっておこう〜なんてのが読み方の大間違い。
これを固執と言わず何と言う?w
ゴータマは固執するなかれと説いたはずだが、真っ向から反対する姿勢で読んでも身につかない。
自灯明の教えにもかかわらず、他人の解説にしがみつくのも同様〜w
こういうのは救いようがない。
- 173 :λ...:2015/10/11(日) 08:21:43.93 ID:oOoTemiL.net
- 一切無でありながら、輪廻は有るとはこれいかに。
- 174 :λ...:2015/10/11(日) 08:26:32.67 ID:oOoTemiL.net
- そもそも言葉があるから認識が生まれ、認識があるから観念が生まれる。
一切の学習機会を放棄して、言葉を奪い、認識を奪えば一切無になれるだろうよ。
感覚を表現できないんだからな。
- 175 :123:2015/10/11(日) 08:44:17.77 ID:s4z3gg1x.net
- 釈迦が経典でもって、理解していたのか。
それに答えよ。
されば、自己が釈迦でないことが自覚できるのだ。
- 176 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 08:55:47.91 ID:Xw3IuKIs.net
-
>般若心経は大乗の経典であり
般若心経ではなくて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E7%B5%8C
般若経(はんにゃきょう)は、大乗経典
_ _ _
>大乗の経典は全て偽経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF
『スッタニパータ』の第4章と第5章がもっとも古く、元は独立した経典だったと考えられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
文献学的には
(「もっとも古い」と考えられている『スッタニパータ』の第4章と第5章も含めて)
パーリ経典の大部分も
釈迦の死後数百年にわたり編纂されたもので
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいる)
最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかではない
大乗仏教の経典は
釈尊の般涅槃から数百年後に編纂され
(「意図的に改ざんされている」と考えている人もいるけど)
釈尊に仮託された思想を
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 受け継いでいる文学(架空の物語り)である。と考えている人もいるらしい
- 177 :λ...:2015/10/11(日) 08:56:16.92 ID:oOoTemiL.net
- 輪廻が有るなら全て有る。
なぜなら有る無しの識別が存在する時点で、有るのだから。
- 178 :(Me):2015/10/11(日) 09:07:40.31 ID:8T3uYMO0.net
- 毎日死んで生まれていますがこれは輪廻とは言わないのですか?
- 179 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:12:18.30 ID:Xw3IuKIs.net
-
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど、とりあえず↓これ
http://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド 哲人たちの思索
名称と形態(現象界)の展開
6.3.1
[父が言った]
じつにこれらの生ける者どもには、三種の生起の原因が存する
すなわち、卵から生ずるものと、母胎から生ずるものと、芽から生ずるものとである
6.3.2
この神(=有)は思った
『さあ、わたくしは生命を与えるアートマンによって、これらの三つの神(火と水と食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開しよう』と
6.3.4
[つづいて思った]
『奏して、それらのひとつひとつをして、それぞれ三重にしてやろう』と
こういうわけで、かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって、それらの三つの神(火、水、食物)の中に入って
[現象界の]名称と形態namarupaをはっきりと展開した
− これに対して −
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ
872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る
欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない
- 180 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:43:15.48 ID:Xw3IuKIs.net
-
ウパニシャッドの神?(=有?)が、[現象界の]名称namaと形態rupaを展開した
− これに対して −
スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る
(「わがもの」と掴もうとしている想いを手放し、そして)
欲求がないときには、「 わがもの 」 という我執も存在しない
形態が消滅したときには 「 感官による接触 」 ははたらかない
_ _ _
>釈迦が経典でもって、理解していたのか?
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど
ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaと
スッタニパータ 872 が対応している
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインド人にとって仏教を理解させて導くためには
その当時のインド人にとって世間的な真理を一応認めて、さらにその理解のうえで
仏教を人々に理解させて導く。という方法をとらねばならなかった
- 181 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 09:54:50.58 ID:Xw3IuKIs.net
-
>釈迦が経典でもって、理解していたのか?
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど
ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを理解して
とりあえず仮に認めて
ウパニシャッドの[現象界の]名称nama形態rupaを前提として
スッタニパータ 872 で答えている
(相手の考えを理解して、相手の考えを一応認めて、それに答えている)
- 182 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 11:12:20.53 ID:Xw3IuKIs.net
-
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
ウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った
http://translation-buddhisttext.jimdo.com/app/download/4195029758/%E3%83%91%E3%82%AA%E6%A3%AE%E6%9E%97%E5%83%A7%E9%99%A2%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A8%E4%BF%AE%E8%A1%8C.pdf?t=1278217918
第一禅定
第二禅定
第三禅定
第四禅定
空無辺処
識無辺処
無所有処
非想非非想処
http://www.hanmoto.com/bd/isbn/4-901679-16-3
滅尽定は仏教だけ
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/kenkyu1/fl-shokibukyo/shoki-soujumetu.htm
想受滅は、非想非非想処も超えた位置に置かれていて、この想受滅の直後に 『(無明の世界から)解脱する 』 とされている
>釈迦が経典でもって、理解していたのか?
その当時には経典という書物はなかったかもしれないけど
非想非非想の段階までは
仏教以外のものも理解して
仏教以外のものも受け継いでいたもの(例えば、禅定など)もある。ということでつ
- 183 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:53:21.75 ID:69QHdcWq.net
- >>127のつづき
> 僕が最初に禅に興味をもったのは「生死一如」の四文字熟語です。
あと僕が好きなのは「青山常運歩」ですね。これは眼蔵からの引用なんですけど、
そのフレーズそのもののダイナミズムというのでしょうか、まさにそれはフレーズ自体が生き生きとしてます。
@青山が運歩してるなんて?
Aああそうか、そうなのだ青山は運歩しているのは間違いない。→最初の気づき
Bだけどそれは間違い。運歩はしてない。非風非籏の公案参照。→第二の気づき
Cしかしそもそぽ運歩とか退歩、それ自体が間違いじゃないのか。→第三の気づき
D実は退歩していた。→第四の気づき。→第四の気づき
Eああ全くこれ自体が全て自分の間違いだったのだ。→第五の気づき
将棋の羽生名人がこの「青山常運歩」をえらく気に入っているそうですが、
将棋ってのは、つまり勝負の世界でしょ?だから僕もそれは良く分かるんです。
(つづく)
- 184 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 14:54:10.22 ID:69QHdcWq.net
- (つづき)
コンピューターと棋士の勝負ってのは、以前に話題になりましたけど、
対戦した人の感想を聞くと「意図がわからない」というんですよね。
あれ結局逆算して導き出してるわけで、人間の思考のベクトルが間逆なんです。
だから最後の手から逆にたどるみたいなことをしてるから、人間にはもう理解できない手になっちゃう
それを「無味乾燥な手」というけど、プロ棋士も指摘してるね
羽生名人は、コンピューターとの対決はしてませんけど。理由はいろいろある。
結局、いくら名人とはいえ逆算して勝負は無理でしょ?どんな名人でも。
しかし逆算のことは既に「青山常運歩」においても指摘されておるのだ。
なんと驚くべきことではないか。これを感動と言わずして何と言おうか!!!
それが「運歩歩退」なのだ。
「生死一如」が寂静としてのフレーズというなら、
その対極に位置するのが「青山常運歩」のダイナミズム性であろう。
<机龍之介>
- 185 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:01:42.34 ID:ozVAhBmp.net
- 宗教は奴隷学である
- 186 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 15:49:33.57 ID:Rjkqvc3y.net
- 禅は面白いよねw
老荘は仏教というより禅に近いんじゃないか?
私は黄檗臨終時の「人は生まれながらに自由なのだ〜」という文句が好きです。
あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という
構図は現代では有り得ないからねえw
- 187 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 16:21:28.32 ID:Xw3IuKIs.net
-
> >>135に貼ったサイトの法話をされていた人は、ダライラマ法王の師にあたる方です
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
第六句 善い師に従う
自分勝手に経典を読んで自習しても、ある程度の知識は得られ、理解もできるでしょう
しかしラマから教えを直接受けるのは、経典を自習して、勝手に修行するのとはまったく異なります
正法というのは、釈尊より師から弟子、弟子からそのまた弟子へと師資相承で
『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』 伝えられていくものだからです
師資相承の加持があるなら、聞思修を行じても、あるいは他人にアドバイスを与えても、大きな力をもちえます
ですから必ずラマに拠って、仏法の修行をする必要があるのです。自分勝手に修行してはなりません
まったく見知らぬ土地に行く場合、その土地にくわしい人に案内してもらわなければ、道に迷ってうろうろするだけです
それと同様に仏陀の境地へといたる道を歩もうとするなら、その道に精通したラマに案内してもらわなければ、迷うだけです
_ _ _
(実際には青木ヶ原の樹海には行ったことがないけど)
例えば
心霊スポットにも興味があるので、それ故に
(無明の暗闇に覆われているので、それ故に)
興味本位で行った
青木ヶ原の樹海で迷ってしまっている
というような感じでつね? 了解 おじゃる
- 188 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:21:42.71 ID:69QHdcWq.net
- >>186
>あと、臨済録の大悟前後の話が好きです。弟子が師を引っ叩いて師はそれを喜ぶ〜という
禅の魅力というのは、僕は「発見の喜び」みたいなもんかな?
でもその「喜び」ってのが普通の一般的喜びという意味とは違って、
鋭く突き刺さるような何とも例えようのない感覚に包まれる。今までに経験したことはない。
たぶん数学者や物理学者などが、自分の生活を犠牲にしてまで研究に没頭するのはよくある話だ。
彼等には彼等の価値観が、世間一般の価値観とは違うのは想像するけど、
やはり世間的には得難い「発見の喜び」を経験してるんだろう?
これに嵌ってしまったら、もう人生の道筋は狂気に近いのかもしれんね。
(これは悪い意味ではない)
<机龍之介>
- 189 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 17:46:46.70 ID:Rjkqvc3y.net
- 「無い」というふわふわとした概念論は駄目ですね。
掴もうとしている〜という概念論も駄目。
禅は己の両足を地面につけて歩く(人生を歩く)事を説く。
ゴータマの教えは禅とは違うものではあったろうが、浮足立った
虚無論ではなかったであろう。そこは共通しているに違いない。
無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
何の意味もない。
自分の両足で地面を踏みしめて歩けという教えの方が遥かに有意義。
経典は読んだら捨てよw
自灯明で己の判断で生きよ。
自殺とドラッグは最低〜w
- 190 :123:2015/10/11(日) 17:56:55.54 ID:s4z3gg1x.net
- 189.
宗教とは何か、を理解していない。
- 191 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:00:48.74 ID:Xw3IuKIs.net
-
机先生!良かったでつね?
経典・論書・解説書を読んだこともなく
経典・論書・解説書を理解することもなく
存在論としては『有るとは言ってない』と掴もうとしている紐くんが
机先生のことを理解?できて
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E8%AB%96
存在論(そんざいろん)
パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-没年不明)
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
理性に信を置いて真に在るものは不変だ
プラトン(紀元前427年 - 紀元前347年)
パルメニデスの不生不滅の考えと
ヘラクレイトスの万物流転の考えを調和させて
この現実の世界は仮象の生成流転する世界であって永遠に存在するものはなにもなく
仮象の世界の「あり、かつ、あらぬもの」である
アリストテレス(紀元前384年 - 紀元前322年)
「有・無」という「存在論」が基礎にあり
- 192 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 18:21:37.02 ID:Xw3IuKIs.net
-
パルメニデスと
ウダーナヴァルガのギルギット写本の解釈?
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
(パルメニデスがいう
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けている)
迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
− 縁起したものを離れ −
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
(パルメニデスがいう
理性に信を置いて真に在るものは不変だ)
- 193 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 18:22:02.58 ID:69QHdcWq.net
- >>189
>無い無い〜有ると掴もうとしている〜などという頭だけの解釈など
> 何の意味もない。
有用と無用の話は老荘思想にもありますね。
相関関係にあるから、相互に依存しなければ原意は掴めない。とか
これも禅に近い
>>191
>机先生!良かったでつね?
> 経典・論書・解説書を読んだこともなく
> 経典・論書・解説書を理解することもなく
そうですね、僕はあまり解説書は読まない方ですねw
ひとつのフレーズでも、自分なりにどう読んだらいいか、これだけを考える。
そして自分なりに発見できた時の喜びは例えようがないですよ。
登山家が頂上を目指すのと同じなんじゃないですか?そこにリスクがあるからこそ魅力(喜び)もある。
- 194 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 19:05:45.71 ID:69QHdcWq.net
- >>193のつづき
僕は人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします。
それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。
野菊は野菊のように咲けば良いのであって、
それが秋の野にどのように影響するとなかろうと
それは野菊においてはあずかり知れないことなのだ。
ではおやすみ。
<机龍之介>
- 195 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/11(日) 19:39:46.56 ID:Xw3IuKIs.net
-
>人間の中心というのは、知性や理性ではなく情緒なんじゃないかと思ったりします
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察して、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説書
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づいて
そして 『 一切の有情には仏性がある 』 と気づくこと
しかし
無明の暗闇に覆われているので、それ故に
『(無明から)解脱すれば仏だ』
『(無明から解脱すれば)一切の有情は仏である』
と、気づくまでは、気づくことは難しい
http://www.myoshinji.or.jp/faq/faq_04.html
京都花園 臨済宗大本山 妙心寺派
曹洞宗の場合は
(「自分には自身の自我が有るはずだ!」と掴もうとしている想いを手放して、そして)
「人は本来清浄な心を元々持っている」と気づくこと
- 196 :神も仏も名無しさん:2015/10/11(日) 20:37:51.79 ID:Rjkqvc3y.net
- そもそも、「自分には自身の自我が有るはずだ」ではなく
自我は有り、掴む掴まないに無関係に有るものであるw
自我が無い(仮設としてあるに過ぎないも同様w)などと言うのは詭弁に過ぎず
自我が無ければ主張も無いし2チャンネルに書き込みも無いだろうが、実際は
頻回に自己主張して書き込んでいるw まさに自我が有る証拠だ。
- 197 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:02:41.25 ID:zK9v6610.net
- ヴィパッサナやってれば、自我が思考として湧いて来るのに気付くでしょ
無いのは自我思い込んでる「私」でしょ
- 198 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:06:49.49 ID:N1oQl933.net
- 自我=アートマンと訳される場合もあるが、これは正確ではないからな。
より正確に言えば人生における自我は有るものであり、真我というべきアートマンは
有るのか無いのか分からん〜と言う事だ。
- 199 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:21:34.52 ID:zK9v6610.net
- 真我、神、ワンネス、空、、、 呼び方が違うだけじゃない?
- 200 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 00:57:09.31 ID:N1oQl933.net
- >>199
確かにw
ただ空と他のものは違うだろ。
空は関係性を言っているもので何かを指し示している概念ではない。
あえて言えば空は縁起と近いのかもしれない。
我とか神とか言えばそれは又違ったものになるのでしょう。
- 201 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 07:44:08.52 ID:19rD30Ms.net
- 自灯明の「自」と無我における「我」とは違うんじゃないか?
「我」とは、自分という変化のしないものがあるという観念。
「自」とは自分の「五感と心」を言い、それは否定できないものだ。
温熱を感じている自分は、それを偽らないなら、自分が温熱を感じているのだ。
前者の「我」とは、「欲心」のことで、それも固定的になっているものだ。
欲心のないものは生きていけない、という言説が流布しているのがこの娑婆だろう。
そして、必要以上に求めるのを「欲心=我」と言うのだ。
うまく言えないが、自灯明の「自」で、その自を欲心と考えるならば、必ず『法灯明』の「法」と激突して、
修行にならないはずだ。
- 202 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:11:52.59 ID:19rD30Ms.net
- >>201つづき
そこで、四諦の法門に言う、苦集滅道の集が欲心に当たるのであり、
これを亡ぼすことが道の完成なのだ。
「自我」は「ない」というと、「自」と「我」がともに否定されることになるが、
苦集滅道に言う(苦)を感じるのは「自」なのであり、その自を苦から解放するのが目的であり、
それは自分の欲心からの開放に他ならないのだ。その自分と言うのが真実の自分であり、仏性なのだ。
「自」と「我」を混同してるのが凡夫なのだ。自分と自分の欲心を取り違えているのだ。
- 203 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:18:12.18 ID:aSebavxK.net
- >>194のつづき
>それは眼蔵など読むと道元の人間性が浮かんできますから、そう思うようになったのかもしれません。
眼蔵を読んでも、僕には直ぐに解釈はできない。まるで推理小説を読むようなもんです。
で文面の一端目を通すくらいで丁度いい。
そのうち分かるかもしれませんしね。分からないかもしれない。
それから何らかしかの切っ掛けを境に、眼蔵の文面がいきなし閃いたりすることもある。
その一例が青山常運歩ですね。
「運歩」とか「退歩」とかが、なにやら「歩退」とか言い換えてる部分もあったりして、
道元の「遊び心」というのか、文学的才能を垣間見ることもできる。
眼蔵とは、そういう魅力があるのかもしれません。
で「退歩」と「歩退」の違いが皆様は分かりますか?
これは洒落みたいなもんで、実は答えはないかも知れませんですね。
個人個人それぞれに考え方も違うでしょうし。
僕は、そういうのは自分なりの解釈でいいかと思います。
つうか、そもそも眼蔵というのは「道元と自分の対話」と言う気持ちで読んだら良いんじゃないでしょうか?
誰かの解説書を読んだとしても、それは自分にとってはニセモノでしかない。
<机龍之介>
- 204 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:20:26.57 ID:zK9v6610.net
- >>200
神は突っ込まれると思いました
いわゆる全能の神、擬人化された神の事では無く、苦しみの果てに自我を捨ててすべてを明け渡した人達が言う神です
- 205 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:29:53.28 ID:aSebavxK.net
- >>203のつづき
青山常運歩は、道元が「時間」という事柄をうちに向けようとしている、
眼蔵においては重要であると思っています。
時間は前へ前へ進むと我々は思ってますけど、道元は後ろにも進む、といった按配です。
時間について考えることは、道元の而今に関連しますので、そういう意味では興味がありますね。
つうか、こういうのは僕しか興味がないか(笑
ではまた。
- 206 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:34:59.19 ID:zK9v6610.net
- 空を特別視すると仏教徒だけが他の聖者達と違う物を観ている事にならないだろうか?
不二一元論を説いたシャンカラは仮面の仏教徒と呼ばれているよ
不一二元論は唯識に似ていて、少し調べれば真我は空の事だろうと誰しもが思うと思う
- 207 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 08:35:52.37 ID:zK9v6610.net
- >>206
は
>>200
のレス
- 208 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:09:02.96 ID:PotJzboF.net
- >>35>>32
馬鹿乙
無い志向は間違い、妄想
- 209 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:18:57.35 ID:N1oQl933.net
- 空は大乗で出てきたもので仏教で最初からあったものではないからね。
仏教は本来多元論なんだが大乗(龍樹)で一元論化された。そこで空が
仏教の看板に据えられた。
真我についてゴータマは何ら回答を与えておらずあえてコレの存在について
何かしら言えと言うのなら後の言葉の空を使って非有非無で空と言えるかもしれない。
- 210 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:36:02.21 ID:uCl9/QXF.net
- >>209
出典は覚えてませんが、原始仏典でも
空が説かれていたはずです。
スッタニパータかダンマパダか忘れましたが、どこかに書かれてました。
- 211 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 12:50:30.04 ID:N1oQl933.net
- ゴータマの説く縁起と龍樹の説く縁起では厳密には一致しないからねw
同じ「縁起」でも同じじゃない。
- 212 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 16:19:02.67 ID:aSebavxK.net
- >>209
雑阿含経・第一義空経には空について書かれてますね。
龍樹はこれをモチーフとして中論を書いた、と言われている。
- 213 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:05:13.10 ID:ZyN2GjCV.net
- ムスリムのコーランから導出される教えでは、因果と言うものはない、という。
これは仏教に言う、実相であり、それは絶対存在の無相一相空である。
道教では、これを姿の無い姿、と言い仏教では、実相は無相の相を採る、という。
理性に従えばそこに行き着くのだ。
これこそ実在するものと人は認めることができるものだ。
これを認めないで、姿かたちがあるものに執着しているなら、それは真実を拒んでいるもので、この拒否が
罪である。
取り押さえられるものはこの世界にはないのだ。
有身見があるから、強姦したり、殺人したり、強盗したり、その他の一切の犯罪を侵すことになるのだ。
我々はこの真実の世界のもので、この真実から抜けだせないのだ。
欲心とは、取り押さえられるものがないのに、それがあると妄想し、その妄想に執着することに他ならない。
”天網恢恢疎にして漏らさず”は真理である。恐ろしいね。真実に逆らうことは。
- 214 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 08:35:37.50 ID:ZyN2GjCV.net
- ここに一つの箱がある、と現代の科学は認める。これは妄想である。箱などないのだ。
箱があるという妄想が、現代科学のスタートである。古代からもそうなんだろうが。
箱を分割してみる。細分化してみる。
原子はその核と電子でできている。電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという。
最初の箱は、その周囲の空間と相対的に存在していたことを閑却している。
電子の状態と、最初の箱の存在状態は同じなのだ。
因果があるという前提の上のの科学である。
それでは、なぜ、原因があるから、結果があるということから、原因がなければ結果がないということに発展し、
それなら原因にも結果にも実体がない、と結論しないのか?
最初のスタートでは、原因も結果も「ある」と言う前提の上のスタートだった。
この前提が崩れたのである。
遺伝子などというものがあって、人の人生を決定するという論も、妄想に他ならない。
科学は真実に対する罪の結果なのだ。人類は科学と言う毒ガスのために地獄に落ちているのだ。
- 215 :神も仏も名無しさん:2015/10/13(火) 12:28:37.90 ID:qyZZl+QB.net
- 213-214という妄想だなw
- 216 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 08:47:28.65 ID:qA6Jvosk.net
- >>214続き
相対的存在の二者とはどういうものか検討した説明がないと言っていいほどだ。
そこで検討してみようではないかいな。
依他起性と言うものだ。他者があって初めて存在を認められるという意味だ。
お互いにそうなんだ。
これはそこに変化が存在していると我々の視覚は認めるのだ。今はとりあえず、視覚の例を取り上げる。
視覚は、そこに変化と言うものがないなら、視覚の働きはない。視覚は何も認めないのだ。
次に、そこにある変化の詳細を観察してみようではないかいな〜。
変化の境目はどうなっているのだろうかと。中間部はどうなっているのだろう?
混合状態であると視覚は言うだろう。しかし、如何に両者の混合状態であろうとも、やはり、粒と粒の境目は有るのだ。
次に、粒の存在する土台を観察してみようではないかいな〜。
いや、粒と粒が接触しているのだから、その接触状態を観察しなければならないんだな。
接触とは密着状態のことを言う。密着しているものは、一体なものではないかいな〜。
一体なものが右と左に分割されているという状態は、おかしいね。これが問題だ。
するとどう考えねばならないんだろう?
視覚と判断は違うということではないか?判断と言うか理性と言うべきか、ここも問題にすべきところだが。
視覚は何も自己を主張してるわけではない。その変化がおのおの存在しているなどと。
判断が、それは一体なものだから、その変化に実体はないと言ったり、その各々に実体があって、
両者は二つのものだ、と言ったりするのだ。
- 217 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:05:01.53 ID:qA6Jvosk.net
- >>214続き
心が理性に従えば、相対的に存在している二つのものを二つのものと認めない。一つのものと認める。
しかし、その心に欲心が発生していると、欲心とは、変化しているものを二つと判断するということを前提にしか発生しないものであり、
そして、そのどちらかもしくは両方を欲しがるということなのだ。つまり、それらは一つのものではなくて、二つのものだと判断させるのが欲心だからだ。
そして、その変化は誕生したのだとみなす。あるものだからそれに対してほしいという欲望が誕生するのだ。
つまり、そうすると欲心が理性の示すところを、理性に反して、両者には実体があると判断させたのである。
こうして欲心による世界が誕生するのである。
欲心は六根清浄を破壊している。
- 218 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 14:50:18.07 ID:qA6Jvosk.net
- >>214続き
一方欲心のない世界は、どうか?
視覚に映ずるものはそのままのもので、判断をなされないままだ。
それらは相対的に存在してるだけで、少しも自己を主張しない。自己を主張させる原因もない。
だから紛争という世界とは無縁である。
そこではすべてが自然に移り変わる。すべての現象がだ。そこにいる人は、自分に不足することはない。
自己に必要なものは自然に手に入る。一切がそうなんだ。労することがないのだ。
平安しかない。安楽国だ。このことを書いた経典が浄土経典だ。
人は安楽を求めて、欲心を起こしそれに従う。しかしそれによっては、地獄しか得られないのだ。
反対に欲心を殺すならば、目的の安楽国にはいることができるのだ。
このことを知って、欲心を自分として欲心に従う他者に追従してはならない。
欲心に従うものを悪事をなすものというのだ。欲心に従っているものを悪者と言うのだ。
これが仏の智慧の教えであり、大京は、「仏のこだわりのない智慧を疑ってはならない」と教えている。
- 219 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:20:53.17 ID:6atCTa/B.net
-
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90
電子の大きさ(内部構造)については、標準模型においては内部構造のない点として扱われるが
それを超える模型において電子が大きさを持つかどうか・内部構造を持つかどうかは判明していない
これまでに高エネルギーの電子の衝突実験で電子に大きさがある兆候は見つかっていない
重力に関しては繰り込みは成功しておらず
電子が現実的に存在するかどうかは別として
シュバルツシルト半径が計算上は存在する
電子には 『 内部と外部を区別をする明確な境界を定義できない 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%BB%E5%AD%90%E9%9B%B2
電子雲(でんしうん)とは
原子において軌道電子を 『 存在する確率として示したものである 』
現代の量子力学では
電子はもはや 『 確定した位置と速度を持つ点ではなく 』、波動関数であらわされる存在であり
たとえば電子が存在するために起きる干渉などの相互作用は、それに従い 『 確率的に起きる 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%8B%95%E9%96%A2%E6%95%B0
波動関数とは端的に言うと「物体の『状態』そのものの波動」であり
この事は物体の状態(例えば「犬がおなかをすかせています…」ということでさえも)が波で表されることを示しており
また波は重ね合わせの原理(波1と波2が同時に存在できる)を満たすため
原理的には物体が同時に複数の相異なる状態を取りえる(シュレーディンガーの猫)ことを示す
我々が住む日常世界の他に 『 全く異なる並行世界が存在することを期待させるために、様々な空想を生んだ 』
- 220 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 15:45:18.71 ID:6atCTa/B.net
-
>電子を分割してみると、その核と波状のものでできているという
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6
古典力学と量子力学との大きな違いとして
『 確率的な現象の記述が挙げられる 』
事象が確率的にのみ記述されるということは
古典力学的な
『 因果律が成り立たないことを意味する 』
量子力学は、
すべての物理量の値を同時に定まった値を持っているという
素朴な 『 実在論としては記述できず、非実在論的である 』
_ _ _
_ _ _
例えば
有為法の場合は
実有・実体ではなく、空という性質なので
1).因と縁の双方の縁起に依存して「確率的に現れ(滅し)ている」?
2).因と縁の双方の縁起に依存することなく「確率的に現れ(滅し)ている」?
3).その他?
- 221 :神も仏も名無しさん:2015/10/14(水) 23:50:56.56 ID:yVKsRg+D.net
- 無いなんて概念は空の餌皿を見る犬でもわかる
- 222 :紐:2015/10/15(木) 09:32:06.04 ID:cd60FaiS.net
- >>221
その通りw
「無い」も「有る」も生きている人間のみならず犬にだって分かる事であり
それが分からなければ生きていられまい。
形而上の宇宙の果てがどうなっているか?素粒子を分割したら何が残る?などの
事を知らなくとも生きて行けるし、そんな事を知る事は人生では重要ではない。
個々人の人生は有りその個々人の我も有り、「無い」と断定できるのは犬の空の餌皿くらいなもんだw
- 223 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 10:31:49.03 ID:beWMLeVg.net
- >>220
専門家ではないので、その世界での正確な表現は勉強不足で、できていないが、
まず、縁起の理法とは因果の理法のことである。
有為法とは縁起の理法の世界のことだ。有為法に対して無為法が言われ、それは
実相の世界に関する理法のことだ。空の世界に関する理法のことだ。
縁起すなわち因果の世界のものの関係は、相対存在であるので、フィフテイフィフテイである。
それは変化する性質の存在なので、そうなるのだ。今あると見えていても、変化して消滅するとみなしているのだから。
ただ、その存在期間が長いとみなしているだけだろう?
これは電子の研究で分かったこととなっていることと、電子の研究前の箱の存在について、認めることの困難ではない認識と同じなのだ。
この電子の研究のときは、空間という距離を基準にする研究であるが、時間を基準にした検討がなされていないね。
極微の世界なので、時間が無視できると安易に思っているだけじゃなかったのか?
時間を無視してはならないのだ。
最初のはこの存在でも時間を無視していたが、その箱が永久に存在するとは考えなかった。
その点をつかれるなら、いつかはその箱も変化して別ものになると認めたところのものだ。
変化と変化後は相対存在なのだから、フィフテイフィフテイの関係性は働くのだ。
科学上の存在は、相対存在であるので、確率的にしか存在しないのだ。それはフィフテイフィフテイである。
とこのように思うこの頃です。w
- 224 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 15:35:54.30 ID:HreJJp4T.net
- 確率的に存在しているんじゃなくて
人間も一緒に動いているから
つかみどころが無いだけでしょ
- 225 :123:2015/10/15(木) 16:28:15.26 ID:pLAXubgT.net
- 222.
ある、無い、とかは媒介概念である。
だからして、両者が存在することになる。
- 226 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 20:04:55.13 ID:M1sFq6hp.net
- なんか話が遠く離れてきているような気がするわ
- 227 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 21:18:11.42 ID:beWMLeVg.net
- いや、それてはいないよ。題材に科学を利用してるだけだ。
- 228 :神も仏も名無しさん:2015/10/15(木) 22:50:28.25 ID:HOZj1KsX.net
- だから何が無いんだよ? スレなら無いのが当然!
- 229 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 02:56:18.16 ID:gqghjBpp.net
-
>ある、無い、…、両者が存在することになる
「有る」と掴もうとしている想いも手放し
「無い」と掴もうとしている想いも手放し
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
非想非非想を超えて
「想いを手放す」という想いも手放し
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れ想滅定が生起し、そして
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
縁起したものを離れ
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが
分別を超えて 「 有る・無い 」 と掴もうとしている 『 想いの終わりである 』
- 230 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 04:01:43.86 ID:kfHEBUOo.net
- 観測誤差なんてものは絶対に解消しないんですよ
人が動いている世界には
人の動きが問題になるんです
人を止めようとしても世界が動く
世界を止めようとしても人が動く
始めから全部同時に動いているから
普遍の法則なんて本当は無いんですよ
- 231 :123:2015/10/16(金) 07:24:20.75 ID:p4/pDiys.net
- 229.
想いの終わり、を媒介概念として、提案するのか。
媒介を否定するのか。
そこが問題である。
おじゃる君がさとれないのは、想いの終わり、で終わりとなっているからである。
絶後蘇生がないことになる。
- 232 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 10:38:02.84 ID:wYUOTF77.net
- >>228
現象とは変化のことを言うのだから、その変化が相対的に存在しているので、その変化が「ない」、その変化の「実体がない」
ということだ。
変化と言う相対存在ではなく、変化しないもの絶対存在と言うべきであり、それは変化しないものであるがゆえに、
姿の無い存在として、五感に把握できづ、心においてのみ把握できるのだ。
>>224-230
>人間も一緒に動いているから つかみどころが無いだけでしょ
アトムの大小に無関係に、アトムが相対的に存在していることは認めなければならないということだよ。
人間の大きさに適当な大きさのアトムを例に取って、箱を例に挙げたのだ。
人間の持ち運びする大きさの箱だ。クロネコヤマトの配送する程度の箱だ。
そういうもの存在の在り方と、ゼロが十個以上並ぶ大きさのアトムの在り方は、まったく同じだ、ということなんだな。
そこで観測云々の話だが、計量する問題ではないだろう。存在の在り方を観測しているのだ。
- 233 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:18:37.54 ID:wYUOTF77.net
- >>232続き
とは言うもののフィフテイフィフテイといっているのだから、その根拠を言っておこう。
相対するとは、両者が同じでなければ生立しないだろう?平等でないなら、その差異の部分は、別なものとして相対しているのであって、
いずれにしても、相対しているものは平等な存在だ。しかしその性質は相手を必要不可欠なもんとしている。
相反する性質のものでありながら、自存できないものなのだ。依他起生のものなのだ。
こうして初めて変化という現象が生じるのだ。
で結論としては、はこの存在であろうと、アトムの存在であろうと、人間の存在であろうと、平等に変化という存在なのだ、だから、
この存在の在り方を考察するときは、箱の在り方であろうと人間の在り方であろうとアトムの在り方であろうと、その考察の本質に
同じになるのだ。
動きについては、真理の教えは、動きはない、不去来、と教えているな。
- 234 :神も仏も名無しさん:2015/10/16(金) 11:30:12.77 ID:eNBSWfQq.net
- 妄想は別の所でやれ
- 235 :紐:2015/10/16(金) 18:13:59.85 ID:YMqghGLK.net
- そもそも仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かっただろうが後代宗教となったので
宗教と言うならば、それは人間の理想的な生き方、在り方を究明するもので、○○が有るとか無いとか
をアレコレ検討するものではないというのが本質だ。
人間の生き方や在り方を問う以上それは人間の人生そのものであり、人生の個そのものである。
形而上の存在論の究極は科学に任せておけばよろしいw
死後世界が有るのか無いのか〜なんてのもひょっとしたら将来科学的に解明されるかもしれない。
宗教の問題はそんなところにはあらず、今現在生きている個々人の人生の生き方そのものである。
そこに目を向けず、方向違いの方を見て、仏教だのバラモンだの有相唯識だの無相唯識だの無だの空だのと
戯言を繰り返しても無益で何ら己の生き方の為になる事は無い。
- 236 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 20:32:59.68 ID:gqghjBpp.net
-
>仏陀の説く事は、仏陀生存時は宗教との認識は無かった
当時のインドでは
(宗教的な)バラモン(ヒンドゥー)と
そして更に
ニガンタ派をはじめとして
ヴェーダの権威を認めないナースティカが
バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する
(宗教的な)思想を展開していた
ある時、釈迦がカピラヴァストゥの
北門から出た時に一人の沙門に出会い
(宗教的なものとしての)
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった
(宗教的なものとして)
釈迦は出家して
バッカバ仙人を訪れ (宗教的なものとして)苦行を観察する
アーラーラ・カーラーマを訪れ(宗教的なものとしての)空無辺処(無所有処)
ウッダカラーマ・プッタを訪れ (宗教的なものとしての)非想非非想
(宗教的なものとして)
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように『自灯明法灯明』の教えを説いた
- 237 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/16(金) 21:03:37.81 ID:gqghjBpp.net
-
>>236 の訂正
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出して → 解脱へ 』 と導くために
『 無明の暗闇に覆われている、この世界から → 解脱へ 』 と導くために
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである
みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として
いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察せよ
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは 『 空だ 』 と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
衆生を引導するが故に、『 仮名の空 』 を以って導いている
(実有・実体ではなく、空という性質であるからこそ 『 仮名の空 』 を以って導いている)
- 238 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 10:21:11.25 ID:9VVWWS0v.net
- 密着しているという状態が、一体であると言いだしたのはパルメニデスであったと記憶している。
しかし、それは当然な判断じゃないか?
金鉱石があるとしよう。金はその他の鉱物と一緒になった一塊の岩石の中にあるんだろう?
金とその他の鉱物が密着しているのなら、全ての鉱物は金であると言えるし、金でないその他の鉱物だともいえるかも。
しかし、昔から人は、金だけを取り出してきたのだ。だから、金とその他の鉱物は異なる存在だ、と見做すのが常識になってきたんだろうな。
もう一度密着とは一つの状態を指すことを確認しておこう。
で、金と取り出して他の鉱物と離した時、分離されたのか?
分離されていないんだよ。どうしてか?空気を媒介にして、依然として密着しているのだ。
空気もまた存在してるものだ。空気と金が密着している以上、空気と金は一体なんだよ。
さらにその空気は他の鉱物とも密着してるから、取りだした金とその他の鉱物も密着しているのだ。
こう考えれば、この宇宙の一切は密着している状態なので、一体のものと言わなければならない。
ただ表層だけが異なっているのだ。金だとか、人間だとか、空気だとか、に。
そしてこれらの表層の変化は、縁起関係の存在で、それ以外ではない、というのも困難な判断か?
一体な存在と縁起関係により識別される存在では、一体どちらが恒常的に存在してるのだろう?
密着して一体となっている方が恒常的存在だろう?
なら恒常的存在は自存しているもので、真実と言わなければならないね?
- 239 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:03:47.97 ID:k4UExZ3W.net
-
哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%8B%E3%83%87%E3%82%B9
パルメニデス(紀元前500年か紀元前475年 - 没年不明)は、古代ギリシアの哲学者
アナクサゴラスの弟子・クセノパネスに学んだとも、ピュタゴラス学派のアメイニアスに師事したとも伝えられる
感覚で捉えられる世界は生成変化を続けるが
そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、無いものが在るものになることである
理性で考えれば「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
パルメニデスは感覚よりも理性に信を置いて真に在るものは不変だと考えた
このことから感覚より理性を信じる合理主義の祖であると考えられている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%BF%E3%82%B4%E3%83%A9%E3%82%B9%E6%95%99%E5%9B%A3
ピタゴラス教団は、古代ギリシアにおいて哲学者のピタゴラスによって創設されたとされる一種の宗教結社
古代ギリシャからあるオルペウス教の影響から 『 輪廻転生の考え方を有していた 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%83%9A%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%95%99
オルペウス教は、古代ギリシャ世界における密儀教
『人間の霊魂は神性および不死性を有するにもかかわらず
輪廻転生(悲しみの輪)により肉体的生を繰り返す運命を負わされている』という教義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%8E%E3%83%91%E3%83%8D%E3%82%B9
クセノパネスは、紀元前6世紀のギリシア哲学者
1).存在するものの構成要素は4つであり、世界は数において無限であるが時間がたち変化することで無限になるわけではない、と主張した
2).神の本性は球状であり、人間と少しも似たところがない。そして全体が知性であり思慮であって永遠なものである
3).生じるものはすべて滅び、魂は気息(プネウマ)である、と最初に言い出したのはクセノパネスであるという
4).エンペドクレスが賢者を見つけ出すことができないといったとき「賢者を見つけようとするものは、その人自身が賢者でなければならない」と言ったという
- 240 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/17(土) 12:26:19.64 ID:k4UExZ3W.net
-
「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である
それでも、とりあえず↓これ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%A4%E5%AD%A6%E6%B4%BE
サーンキヤ
プルシャは永遠に変化することのない実体である
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
→ プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる
(『変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくことになる』という説明をしている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91
我は、常住であり
他との何らの関係をもたないで単独で存在することができるものと考え
それは働きのうえで自由自在の力をもつとした
この我によって人間生存は根拠付けられ、支配されていると考えるのである
− これに対して −
釈迦はこのような実我観念を批判し
「我として認められるものはない」として、諸法無我と説いた
これを色受想行識の五蘊について説き
生物(衆生)は無常である五蘊の仮和合したものであるから
我は仮りの存在であると説いた
- 241 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 13:20:36.82 ID:9VVWWS0v.net
- >>239
> 哲学とかの専門書などに「密着しているという状態が、一体である」と書いてあるのかしらん?
プラトンの「パルメニデス」に書いている。
この著作により、プラトンはソクラテスの「イデア」論を捨てた、と言いう研究者もいる。
これに疑問を持つ君は、それなら、密着しないどんな状態を言いうるのかね?
なんか今の科学では、真空と言うものがあるとし、それは所詮、いかなる物質もガスもない空間ということらしいが、
そんなことはない。そもそも、そこには空間というものがあるではないか。体積を持つものとして。どうして真空がないと言えるのか?
真空という存在がありながら、真空が無いとは言えない。この真空も真空でない空間と相対的に存在しているものだ。
- 242 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 14:47:14.02 ID:9VVWWS0v.net
- 釈迦仏が自己を紹介するにつき「私には我と言うものがない」と言うのはあり得るか?
あり得ると思う。その時、釈迦仏は矛盾しているというべきか?
釈迦仏が「私は解脱し、永遠の平安に居る」と言うとき矛盾したことを言っているのか?
釈迦仏がウダーナバルガの中において、「私は、真実の世界をよく知っている、そこには太陽もなく
・・・・(第26章21〜31、特に24参照)」と言うとき、それは矛盾しているのか?
- 243 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:06:05.60 ID:9VVWWS0v.net
- >>240
> 「無」から「有」が生じたり、「有」が「無」になるのは矛盾である
変化しないものから → 変化していくものが、現れ(滅し)ていくのは矛盾である
言葉に頼りきらないで、事実状態を想定してみるべきだ。
無という状態があるんだろう?そこに有が生じると君は言う。その時の有は、無という状態の中の一部分なのだ。
それは一部分の存在であるから、残りの部分と相対的に存在しているのであり、残りの部分は、相対的に存在しているのだから、無なのだ。
もともとの無が全部変化して有になったのではないのだろう?
もともとの無が全部変化して有になったと君が言うのなら、君は嘘をついているのだ。
その場合は、もともとの無は残ってるはずだ。すなわち一部分だけが有に変化したのだ。
変化したという限りは、その変化の状態を認識できなければならないからだ。
君は単に被とだましで、もともとの完全な無の状態が、有に変化したというのだから、詭弁だろう?
- 244 :神も仏も名無しさん:2015/10/17(土) 15:07:39.74 ID:9VVWWS0v.net
- 被とだましで→人騙し
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