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仏教の「無い」志向は間違いではないのか? 【02】

1 ::2015/09/25(金) 22:03:37.71 ID:C2ksM3qd.net
仏教は虚無論ではないにも関わらず、虚無論として「無」を強調し、
元祖仏陀は形而上の存在論としては「有」「無」を説かなかったのにも関わらず
「無」を仏教的教えの中心として説くのは間違いではなかろうか?

大乗の説く非有非無の世界が仏教的とは思うが、コレも「的」であり断定はできない。

仏教議論スレが消滅した上で、私の設問にいかがなものか?www

前スレ
仏教の「無い」志向は間違いではないのか?
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/psy/1411847312/

2 ::2015/09/25(金) 22:05:06.37 ID:C2ksM3qd.net
私は隠居氏の言う事に全く同意する。
全くその通りである。

一切皆苦ではなくサインカーブで上がったり下がったりなんだから
苦が楽の起点、楽が苦の起点〜で全部何々〜という事自体が×だわなw

それでも仏教の伝統だから〜の一点で頭から飲み込み、自らの判断を放棄する〜w
それが、自灯明に反するというのを反省しないww

こういう伝統馬鹿はゴータマの主張とは正反対のところにいるんだろうw

セブンよお前の事だよw

3 :神も仏も名無しさん:2015/09/25(金) 23:28:36.20 ID:1xERMtGz.net
>>2
わたしはセブン氏ではないですけど、一切皆苦について
未熟者ですが答えさせていただきます。

一切皆苦というのは、絶対的な真理ではありません。
相対的な真理です。なぜなら絶対的な真理ならば、苦しみはなくならないことになり
お釈迦様の教えである「四諦」の三番目の教えに反します。
しかし、一切皆苦と言われるのは意味があると思います。
その意味は、一切皆苦だとすることによって
この苦しみからなんとかして解放されたいと切に願うようになるからです。
それと、欲望を満たしたことによる、ひとときの楽を得ても、
それは必ず消え行く楽なので、結局は苦しみです。
そして、結果的には死によってすべての楽しみは潰えてしまうという苦しみ。

サインカーブで苦楽を繰り返したとしても、最期は死に別れ、生き別れになります。
そのような無常の楽は追及するに値せず、
無常の楽ではなく、無常の楽の帰着する苦しみそのものから解放される永久の楽を得るための
方便として、一切皆苦とお釈迦様は説かれたんだと、わたしは解釈しています。

4 :神も仏も名無しさん:2015/09/25(金) 23:44:14.71 ID:C2ksM3qd.net
>>3
早速のレスをありがとうございます。

>その意味は、一切皆苦だとすることによって
>この苦しみからなんとかして解放されたいと切に願うようになるからです。

また別の言い方をしても「作為」の言い方でそれらは何を言っても却下ですなw

>サインカーブで苦楽を繰り返したとしても、最期は死に別れ、生き別れになります。
>そのような無常の楽は追及するに値せず、

これこそじっくりと飲み込むべきものでしょう。
自灯明とはそういう事。

5 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 08:49:18.97 ID:pWmcXKYt.net

>そして、結果的には死によってすべての楽しみは潰えてしまうという苦しみ。

そして、結果的には死によってすべての苦しみは潰えてしまうという楽しみ。
とも言えるわなw

6 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 19:25:12.13 ID:mOuDYWu2.net
>>5
相対的真理だから、そういう捉え方もできますが
それだと、仏道修行できなくなるでしょ?
仏道は、やる気を起こすことが土台となりますから。
いわば、解脱に向かうための方便ですよ。
この世は苦しみなんだと。一生懸命修行して解脱するんだと。
自分自身を奮起させることが土台となるんですね。

7 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 19:33:54.81 ID:mOuDYWu2.net
つまり、この世は楽しいと思っているうちは、仏道修行はできません。
その人たちは、存分に人生を楽しめばいいと思います。
この世の楽しみは懲り懲りだと思ったその時、また考えればいいと思いますよ。

8 ::2015/09/26(土) 19:52:24.46 ID:pWmcXKYt.net
そもそも真理に相対も絶対も有りませんよw
真理は真理。

勝義諦 世俗諦と言っても真理はひとつである。
二諦は龍樹が作った概念で元からあったわけではないからなw

9 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 20:38:23.30 ID:mOuDYWu2.net
>>8
そうですね。真理は一つで
一切皆苦というのは、方便の一つだと思います。

10 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 22:12:12.92 ID:pWmcXKYt.net
仏教を難解に考えればいくらでも難解に考えられるだろうw
しかしそんな難解なものにいくばくの価値がある?w

物事は単純に考えるべきで、そこに真理がある。
伝統なんてのはゴミ箱に捨てろw

糞伝統で糞難解な仏教に価値は無し。

11 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 22:38:18.66 ID:mOuDYWu2.net
>>10
難解なものは人を惑わせますからね。
聴く人が理解できなければ、法を語る意味がないと思います。

12 :神も仏も名無しさん:2015/09/26(土) 23:00:24.65 ID:pWmcXKYt.net
>>11
全くアナタに同意します。

13 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 00:46:35.42 ID:R77tYFdF.net
人は生まれる前の事は知らず、死んだ後の事も知らず、分からない事は分からないという
状態で保存するべきだが、好奇心が旺盛だからアレコレ想定するw

想定はしょせん想定だから全く意味がない。
輪廻転生なんてのはインド固有の文化で全世界のものではない。
死んでどうなるかなんて分からないというのが正解だw

もっともらしい事を言うのは全部偽物、糞だw

14 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 13:13:18.46 ID:YPVzV4nT.net
非有非無は「空」の説明やん

15 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 19:49:41.96 ID:R77tYFdF.net
立花隆氏は臨死体験は全世界でまんべんなく多数の報告が有り
これは疑うことなく有る事であり、統計手法を使って科学的な分析が
できると言っている。
一方、輪廻転生は報告例が圧倒的にインドに多くその他のエリアでは
非常に数が少ないので統計手法も使えずいつまでたってもオカルトの
域を出ないと言っている。

地域の文化で国をあげて輪廻転生を信じているんだからその事が報告例
を上げている可能性が高く信ぴょう性はかなり低いと言っている。

輪廻転生が有るか無いかは結局のところ人間には分からないという事だ。

16 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 22:27:35.39 ID:v9cEJFB4.net
 
>苦しみそのものから解放される永久の楽(涅槃)を得るための方便(方法)として
>一切皆苦(苦集滅道)とお釈迦様は説かれた

通常の世俗的感覚の否定によって、結果として、真実の認識(如実知見)に至るための方法として
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ  中村元訳
197 九つの孔からはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢
198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する
199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている
    しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす
200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない
201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む
202 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する
    なんとなれば、かれは(掴もうとしている『想いを手放し』)あるがままに見るからである
203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)
    と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである
  _  _  _

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生不滅なるニルヴァーナの境地に達した

17 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 22:42:35.35 ID:v9cEJFB4.net
 
>>16 の訂正

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −

この『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生不滅なるニルヴァーナの境地に達した

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット  ニンマ派

これまで私たちは
この世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも、すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです

 − これを対処するために −

しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

18 :神も仏も名無しさん:2015/09/27(日) 23:19:10.68 ID:v9cEJFB4.net
 
「実有・実体ではないからこそ輪廻を繰り返す!」という意味↓

http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/Chuuron00.htm
中論觀四諦品第二十四
衆因縁より、生ずる法を
龍樹・鳩摩羅什・青目などは、即ち、是れは空だ!と説いた
何故ならば、衆縁が、具足、和合して、而も、物が生ずる
是の、物は、衆因縁に属するが故に、自性が無い
自性が無いが故に、空である
但だ 『 衆生を引導するが故に、仮名の空を以って説いた 』

中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けるが故に、生死の中を輪転する
如実に、顛倒を知らないが故に、五受陰に因って、生死を往来する

 − 無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱へ 』 と導いていくために −

『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いを手放し
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に観察し、そして

中論觀法品第十八
八正道を修習して、我・我所を滅する因縁の故に、無我・無我所を得て、智慧を決定する

中論觀涅槃品第二十五
諸の因縁を、受けなければ、是を、涅槃と名づける
如実に、顛倒を知るが故に、則ち、復た、五受陰に因っては、生死を往来しない
無性の、五陰は、復た、相続しないが故に、説いて、涅槃と名づける

19 :Annpedia:2015/09/28(月) 01:09:22.69 ID:KUtr0E1k.net
 
                 無

中国哲学では無の思想は老子に始まる。彼によると万物の奥には限定された
存在である人間には認識できない無限定の本体がある。これを言葉で言い表
すのは難しいので、否定詞の無を用い、暗示的、象徴的に表現しようとした。
この際、無は有の否定として有に対立する相対的な概念ではなく、”有は無よ
り生ず”といわれるように、有を有たらしめるもの、すなわち絶対的、無限定
的なものとされる。それゆえ道の別名ともいえる。荘子の無は人間の知識や
判断そのものの否定であり、形而上的な面よりむしろ個人倫理の究極目標と
してかかがえられる。

20 :神も仏も名無しさん:2015/09/28(月) 01:14:04.43 ID:aNUU44Pm.net
 
http://www.onedhamma.com/
15/05/24 仏教思想のゼロポイント 魚川祐司氏との対話
15/08/01 自分の意志の力だけで、マインドフルにはなれない
15/08/14 微細な身体が立ち現れる
15/09/27 信仰と科学がひとつなる時代へ

無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て
他に対して
自らを特別な存在として妄信して
『何かがあるはずだっ!』と掴もうとしている想いに依存し、そして

四苦
「苦しみ」のことではなく「思うようにならない」ことを意味する

根本的な苦を 『 生老病死 』 の四苦とし、 根本的な四つの思うがままにならないことに加え

愛別離苦  愛する者と別離すること
怨憎会苦  怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦  求める物が得られないこと
五蘊盛苦  五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと

21 :神も仏も名無しさん:2015/09/28(月) 01:35:46.56 ID:aNUU44Pm.net
 
>無から → 有が生じる

例えば
サーンキヤの場合は
『変化しないものから → 変化しているものが現れ(滅し)ている』ということであるらしい

プルシャは永遠に変化することがない
プルシャの観察(観照、関心)を契機に平衡が破れると
 → プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆくことになる
  _  _  _

  _  _  _

ヴェーダにおける究極の解脱は
(「自分には自身の自我があるはずだっ!」と掴もうとしている想いを手放し、そして)
『梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と
  我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であると気づくことにより
  永遠の至福に到達しようとする』ということであるらしい

22 ::2015/09/29(火) 09:30:15.37 ID:q4Sc+p/u.net
「自分には自身の自我があるはずだっ!」ではなく、生きている間は自我は有るものであり
死んだ後はどうなるか分からん〜と言っているw 両者は全く意味が異なるだろw

生きている間も我は無い〜と言うのは隠居の言う通りキチガイだ。
仏陀の無我は全てのものはわが物にあらず〜でありそれを我が無いというのは一種の発展形
であり最初から我が無いなどとは言っていないw

23 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 10:49:27.11 ID:ZM0Iivfl.net
 
仮設としての
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)それ故に

「生きている間は自我は有る」と掴もうとしている想いに依存し、そして

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません
同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
智慧の光  8ページ参照
「近行定と安止定を具備しない止行者
  または刹那定を具備しない純観行者は
  解脱門(無常、苦および無我の観智)を得ることはできず
  出世間法を証し、悟ることはできない」

24 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 11:13:05.10 ID:q4Sc+p/u.net
そのようなキチガイの勧めに引っかかるのは自分の頭で考えない
おじゃるのような人間だけだよw

25 :神も仏も名無しさん:2015/09/29(火) 17:13:53.77 ID:ZM0Iivfl.net
 
http://myanmarbuddhism.info/wp-content/uploads/sites/2/2013/09/amapofthejourney.pdf
自由への旅  ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図  ウ・ジョーティカ著  12〜13ページ参照

動物も含めた
全ての存在に対する慈しみの念を育てることは
心の栄養になって
たくさんのエネルギーをくれるでしょう
そうすることで
あなたは自分が慈愛に満ちた人間であると感じ
そして同時に
自分が愛を受けるに値するとも感じるのです
自分がメッター(慈愛)に値すると感じること
何か善いものに値すると感じることは
とても重要です
それがなければ
瞑想することはできません
(想いを手放し
  妄想に影響されることのない
  智慧の立ち位置から
  止(サマタ禅定)観(ヴィパッサナー智慧)を実践していく)

過去と未来への想いを手放し
現在を生きてください

http://☆yusan.sak☆ura.ne.jp/library/buddha_kongohannyakyo/
金剛般若経  第二十八章
何ものにも囚われることなく
植えさせて頂く功徳が必要である

26 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 01:32:28.30 ID:p6ou9tfj.net
 
http://ecx.images-amazon.com/images/I/51fzl5HGqFL.jpg
http://www.samgha.co.jp/
サンガジャパンVol.21(2015Summer) 2015/08/28
特集 輪廻と生命観

「仏教における最大の目的は
  涅槃を証悟して輪廻の輪から解脱することである」

仏教学者・木村泰賢(1881-1930)は

『(空という性質に依存して
  それ自体の自性だけで成立しているのではなく
  自分だけではなく周囲環境だけでもなく
  因と縁の双方の縁起に依存して
  異蘊相続に依存して
  地水火風空識に依存して)

 無我であるからこそ輪廻がある』

として、一般に「無我輪廻説」と呼ばれる論を提起した

27 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 01:53:01.30 ID:p6ou9tfj.net
 
無明の暗闇に覆われて
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)て

(仮設としての)
「自我は有る!」と掴もうとしている想いに依存して

我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派

これまで
私たちは
この世が苦そのものであると理解できずにいました
それというのも
すべての事象が恒常である
実体をもって(自立して)存在していると信じ込んでいたからです

 − これを対処するために −

しかし
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています
私たちは
無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

28 :神も仏も名無しさん:2015/10/02(金) 16:52:27.01 ID:BTzkNPDm.net
別に仮説だろうが何だろうが生きている人間の我は有るのが当然で、掴もうとしなくとも
有るんだよw

こざかしく、難解にとらえても、そんな糞な世界に意味はない。
意味のない世界で遊ぶ事自体が無駄というものだよ。

つまり人生を無駄に過ごすのが良い事か否か?小学生、幼稚園児でもわかることだがなw

29 ::2015/10/02(金) 18:48:03.73 ID:BTzkNPDm.net
それと前スレで言った世俗について再び言えば〜w

現在の出家は出家にあらず俗である。
仏陀後期の精舎の修行も出家と言い難く、俗に染まっている。
仏陀前期の野山を単独這い回り托鉢その他で命をつなぐのは出家と言えるでしょう。
より望ましいのは野山に単独裸一貫で籠り自給自足で托鉢にもよらず世間一般と完璧に縁を切る〜
という形でしょうw

そんな人間も今もいるかもしれないが、無名だろうから分からない〜w

30 :神も仏も名無しさん:2015/10/03(土) 03:45:47.20 ID:pk3brMuW.net
 
>世間一般と完璧に縁を切る

そして更に

http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%81%97%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%8D%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86
大智度論  仏教用語辞典

非想非非想
有想を捨てるが故に非想といい
無想を捨てるが故に非非想という

「想う」と掴もうとしている想いも手放し
「想わない」と掴もうとしている想いも手放し
「想いの手放し」という想いも手放し
非想非非想を超えて
http://www54.atwiki.jp/waikei2008/pages/22.html
滅に触れ想滅定が生起して
http://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
『 縁起したものを離れることがある 』 とブッダは説く
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ  中村元訳
204
この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達した
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり
(不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達し、そして)
彼岸に到着している。もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ

31 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 09:33:35.37 ID:LtbBQe6H.net
>>30 
こういう人の存在を、自己中心者だと非難したのが大乗教徒ではないのか?

果たしてこのような人は、周囲に対して何の影響もないものだろうか?

この教えは、全ての庶民に垂れた教えであった。そのうちのある者が成功したかもしれない。
しなかったものもいたのだ。まさかその成功しなかったものが大乗を唱えたのではないだろうね?

32 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 10:24:38.70 ID:3DStpR3n.net
無い志向は正解です。

33 ::2015/10/04(日) 10:37:57.97 ID:SWysgTLe.net
存在論としては非有非無で有るとも無いとも言えない。言えば誤。
人の人生としては有るというべきもの。これを無いと言う奴はキチガイw

34 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 11:17:19.09 ID:LtbBQe6H.net
>>27
>我愛と戯論と善悪業に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

永遠の真実と一体となった人間は、永遠に生きているのだが、反して不真実と一体になっている
人間もまた、永遠の不真実と一体になって生死を繰り返すものであると考えなければならない。

生があって死があるのだから、人は死ねば生もまた消滅するという言説は、縁起のことを言っていると思うが、
、それならば生にも死にも実体と言うものがない、と判断しなければならない。
かくして生死に拘泥しないでいるなら、それは仏教である。
その真実と一体となった命は、釈迦仏の命と区別できないものだ。

反して、生死があると固執しているものは、幻の命を永遠に持つのであるが、
その幻の命と言うものも、他者の命と自己の命の区別がないのだ。
虚妄であるがゆえに。

輪廻の世界は地獄の別名である。永遠の地獄に止まるか、解脱して永遠の平安に入るか、二者択一でしかないのだ。

35 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 16:13:34.00 ID:3DStpR3n.net
無の周りに有があるから有を感じてるだけや

36 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 16:27:28.63 ID:SWysgTLe.net
無というのは発言も無いんだよw

発言している以上発言者という有が有るw

つまり「無」と主張するのは自己矛盾の中にいてお話にならないという事だw

37 :神も仏も名無しさん:2015/10/04(日) 22:09:37.92 ID:SWysgTLe.net
宗教と哲学は言葉が違うのだから概念も違うのだろうが、
その実かなり共通部分も大きい。
宗教は人の生死を問うもの、哲学は物事の在り方を問うもの〜
宗教が生死を問うと言っても死後の世界を見てきたかのように
言うのは丹波哲郎と言えども偽者であるw

死を見る事は生を見る事であり、人生、生き方を反省する事に
他ならない。仏教の中心的な教えはいくつかあるが、中道と自灯明
はカナリ重要な教えでこれを踏み外して仏教信者を名乗る馬鹿が多いw
伝統馬鹿〜無い無い馬鹿〜神通馬鹿〜ww

私は非仏教徒で仏教信者でもないが、仏教の理性的な教えには共感するものであるw

38 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 06:29:52.46 ID:cNGuBbLy.net
 
http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
1.遍計所執性
これは情によって生まれた相である。存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である

2.依他起性
諸々の縁(四縁)によって生まれた諸法である。因縁和合して存在する

3.円成実性
諸法の理性である。円満、成就、真実の三義を備えている

世親『唯識三十頌』の三性を説く偈によれば
『彼是の分別によって種々のものが分別される
  この遍計所執性は自性が存在しない
  依他起性の自性である分別は、縁によって生ずる
  円成実性は依他起性が遍計所執性から遠く離れた事を意味する性質である
  したがって、これと依他起性は異なっている訳でも、同じ訳でも無い
  円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない』

39 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:00:38.30 ID:LKXv2lWE.net
宗教は奴隷学である

40 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:04:01.62 ID:cNGuBbLy.net
 
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して

仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて

無明の暗闇に覆われて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ

存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)が現れる

 − これを対処するために −
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできないので
それ故に
妄想に影響されることのない
智慧の立ち位置から客観的に
円成実性の立ち位置から客観的に
勝義無自性の立ち位置から客観的に
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
すべての事象は独立してではなく、原因と条件(因縁)から成り立っており
それゆえ常に変化しています。私たちは無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません

41 :λ...:2015/10/05(月) 07:07:26.12 ID:Fd0uq9Da.net
霊の世界は価値そのものが無いからな。
無いの志向は半面正解、半面不正解だろう。
なぜなら現世では確実にあるから。
それが色即是空じゃねーの?

42 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 07:26:41.58 ID:cNGuBbLy.net
 
無明の暗闇に覆われて
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ、そして

http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー

「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」

色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません

同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません
  _  _  _

  _  _  _

密集を看破してないので、それ故に↓これ

https://www.youtube.com/watch?v=bIgpgXthsls
魔界潜入!怪奇心霊秘ファイル
男の後ろに女の顔が映っている

43 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 11:03:56.54 ID:cNGuBbLy.net
 
 ↓密集とは?

http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
パオ・セヤドー 智慧の光

第九章 色業処の基本理論 63ページ

二十八種の色法 64ページ

色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

44 :神も仏も名無しさん:2015/10/06(火) 09:23:44.54 ID:+IGMw/ST.net
>>36w

おじゃるが「無」と言えば言うほどその主張する主体が表に出るなあw
無が真ならば主張そのものも無でなければならず、主張が「有る」以上それは無ではなく有であるw

幼稚園児でも理解できる事が宗教馬鹿には理解不可能になる、確かにこういうのは一種の病気、しかも深刻な病気だなw

45 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/06(火) 23:45:48.40 ID:uqU/MlFK.net
 
ID:SWysgTLe ← 別の人

ID:cNGuBbLy ← おじゃる

おじゃるの場合は

http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派
認識は対象の形相を
仮設として
有していると考えています
  _  _  _

それ故に『無だっ!』と言ったことはない

因と縁の双方の縁起に依存して
この現世に現れ
やがて、いつかは儚きものとして
この現世から離れ
地水火風空識に還元して逝くときに
我愛と戯論(けろん)と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る

無明の暗闇に覆われて、輪廻を繰り返して逝く

 ↑『無』ではないでしょ? 日本語OKでつか?

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424

46 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:12:18.65 ID:Nfq95ex3.net
 
33 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 10:37:57.97 ID:SWysgTLe
36 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/04(日) 16:27:28.63 ID:SWysgTLe
44 名前:紐くんでしょ?[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 09:23:44.54 ID:+IGMw/ST

ID:SWysgTLe ← 紐くんでしょ?
ID:+IGMw/ST ← 紐くんでしょ?

(自分の発言レスにアンカー憑けても良いと思うけど)自分の発言レスにアンカー憑けているのかしらん?
  _  _  _

おじゃるの場合は
有相唯識派なので
認識は対象の形相を
仮設として
有していると考えています

http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が
火の(仮設としての)自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
  _  _  _

『無ではない!』ということを理解するために、経典・論書・解説書を読んで、勉強した方が良いんじゃなイカ?

47 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:17:47.88 ID:g+mcn9r2.net
自分のレスだろうが繰り返しを避けるためにはアンカーは何にでも付けて可だろうよw

>存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う云々〜
は無の主張じゃないのかね? おじゃるこそ日本語OKか?ww

48 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:26:47.15 ID:Nfq95ex3.net
 
例えば↓この人の場合も

35 名前:神も仏も名無しさん[] 投稿日:2015/10/04(日) 16:13:34.00 ID:3DStpR3n [2/2]

「無の周りに 『 有がある!』 と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている!」 と言ってるんでしょ?

それ故に

無ではないんでしょ?

例えば

無であるのなら
現れて来ることもない
滅して逝くこともない

という意味でつよ 日本語OKでつか?

49 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:33:26.28 ID:g+mcn9r2.net
>>40
>存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である遍計所執性(へんげしよしゆうしよう)が現れる

>存在しないにも関わらず〜と前提を置くことは無の主張だろ? どっちが日本語OK?なのか?w 

50 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 00:49:43.49 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの場合は
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている。真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存して
仮設としての
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
「自分は存在している!」と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これに対して −
経典・論書・解説書の説明としては↓これ
http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
1.遍計所執性
これは情
(掴もうとしている想い)によって生まれた相である。存在しないにも関わらず、『 有る!』 と思う虚妄の執著である
  _  _  _

紐くんは『脳みそ、くるくるパー』なので理解できないかもしれないけど

おじゃるの想いと
経典・論書・解説書の説明は違うもの

ということ 日本語OKでつか?

本人の想いと
経典・論書・解説書の説明は違うもの

ということを理解するためにも
経典・論書・解説書を読んで、勉強した方が良いんじゃなイカ?

51 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 00:51:38.08 ID:g+mcn9r2.net
存在論では有ると言えず無いと言えず回答不可

人生としては明確に「有る」

これを「有る」と掴もうとしている〜などと詭弁を使う事自体が「無」を前提としており
無の主張と言われても仕方なかろうw 日本語OKか?w

存在論は有る意味勝義でありこれは回答不可だと繰り返し言っている。
私が有るというのは人生、人生における我、これは明確に有る。有ると掴もうじゃなく有るんだよw 掴まなくとも有るw

52 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:04:01.72 ID:g+mcn9r2.net
存在論では非有非無なんだから、>>38>>40で「存在しないにも関わらず〜」と無を前提とする事自体が間違っている。
存在するのかしないのか「分からない〜」を前提とせねば正解とは言えない。

こんな間違いを繰り返していては説得力ゼロだぞw

53 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:17:19.72 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの場合は
『仮設としての』という意味で、輪廻肯定派だけど

輪廻否定派の人の場合でも
とりあえず
経典・論書・解説書を理解した上で
経典・論書・解説書を前提として
http://www.wikidharma.org/jp/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
その当時のインド人にとって仏教を理解せしめるためには
その当時のインドの人にとって世間的な考えを一応認めて
さらにその理解のうえで
仏教を人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
  _  _  _

その当時のインドの人は『輪廻を繰り返している!』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ていたので
それ故に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
無限に続く 『 輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99
仏教
『 輪廻からの解脱へ 』 と導いていく
  _  _  _

輪廻否定派の人の場合でも(相手の立場を考慮して)↑このように説明している

ということでつよ 理解できまつか?

54 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:28:02.67 ID:Nfq95ex3.net
 
例えば
紐くんの場合は
「存在論では非有非無なんだ!」と
掴もうとしている想いが現れ(滅し)ているので
それ故に
http://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という(仮設としての)自相を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が
火の(仮設としての)自相として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
http://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識派
認識は対象の形相を
(例えば
  紐くんの場合は
  「存在論では非有非無なんだ!」と
  掴もうとしている想いが)

仮設として
有しているという想いが現れ(滅し)ているでしょ?
それ故に 『 無ではないでしょ?』

無であるのなら
現れて来ることもない
滅して逝くこともない

55 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:32:22.63 ID:g+mcn9r2.net
またまた詭弁を〜w

そもそも仮設〜云々と言うのが嘘くさいw 頭から信じていると言った方がスッキリするw
それに>>53のは対輪廻否定派ではなく輪廻肯定派(インド国民等〜)に対する説明だろうがw

出鱈目な日本語を使って面白いか?おじゃるよww

56 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:36:03.45 ID:g+mcn9r2.net
掴もう掴もう馬鹿のおじゃるは日本語を勉強しなおせw

57 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:41:55.97 ID:ckqYSb4y.net
輪廻否定派の人には、物質的に説明すればいいと思うよ。
つまり、死んで肉体が崩壊しても、質量保存の法則、エネルギー保存の法則で
肉体を構成していた、元素や熱などのエネルギーはこの宇宙に還元され
再び何かの物質になったりエネルギーになったり、あるいは生物の抗生物質になったりして
残る。
であるならば、身体と心は切り離せないように、物質にもそれぞれの性質があります。
心という複雑な性質はないけれど、物質の性質として変化し宇宙の中に存在し続けます。

58 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:49:33.54 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるの想いと
経典・論書・解説書の説明は違うものである

おじゃるの『輪廻しているんだっ!』と掴もうとしている想いと

 − これに対して −
経典・論書・解説書の説明は違うもので

経典・論書・解説書の説明の場合は

それ自体の自性だけで成立しているのではなく

因と縁の双方の縁起に依存して (←これが『仮設としての』という意味でつ)
この現世に現れ
やがて、いつかは儚きものとして
この現世から離れ
地水火風空識に還元して逝くときに
我愛と戯論(けろん)と善悪業に依存して
異蘊相続に依存して
又、次の、この世の生に戻り来る
無明の暗闇に覆われて、輪廻を繰り返して逝く


そして、この 『 輪廻からの解脱へ 』 と導いて逝く

経典・論書・解説書の立場を理解するために、経典・論書・解説書の勉強もしてみては?

59 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 01:54:46.76 ID:g+mcn9r2.net
>>57
輪廻という場合輪廻の主体を想定せねば輪廻という概念自体があやふやなものとなろう。
エネルギーが保存されるから輪廻が存在する〜と言う場合生前死後の輪廻の主体はどうなる?
生前人間Aだったのが死んで物質化(一部はエネルギー化するのか?)して死後の魂なりに姿を変え生前人間Aだった主体は
継続される〜とするのが輪廻であるなら、そのような事自体確かめようもない事であり結果輪廻否定派が多くなるんだろう。
現在輪廻転生を信じているのはインドが圧倒的に多数でその他は圧倒的に少ない。
報告例もインドに極めて偏っている。

つまり報告例はあれどもインドに偏っているので輪廻転生はエピソードに過ぎずオカルトの域を出ない。

60 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 01:59:47.90 ID:Nfq95ex3.net
 
>物質の性質として変化し宇宙の中に存在し続けます

そして更に
おじゃるの場合は
落武者の霊に睨み憑けられたことがあるので、そして更に
密集を看破できてないので
それ故に
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」

色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません

色法の密集を看破できないのであれば
霊魂の概念は消失する事はありません
同様に、もし名法の密集を看破しないのであれば
霊魂の概念は同じく消失する事がありません
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
パオ・セヤドー 智慧の光
第九章 色業処の基本理論 63ページ
二十八種の色法 64ページ
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

61 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:01:47.91 ID:ckqYSb4y.net
>>59
そうなんですよね。
それは、修行して体験的に理解するしかないんですよ。
インドじゃないけれども、上座部の仏教では、修行を深めていくと
生まれる前の胎児の頃とか、思いだすそうです。
その先をもっと体験できればどうなるのかわかるんじゃないでしょうか。

62 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:05:34.94 ID:g+mcn9r2.net
>>61
>それは、修行して体験的に理解するしかないんですよ。

瞑想で体験してもそのような変性意識下で見た世界を信じるのは個人的な事であり
普遍的とは言い難い。

夜寝て夢を見てそれを実在するんだ〜と信じるのは個人で好きにやってくれ〜という程度のものw

63 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:30:39.06 ID:ckqYSb4y.net
>>62
夜見る夢のように、夢から覚めて初めて夢だったと気づくように
普遍的に見えるこの現実も、覚める(悟る)ことによって儚い夢のようなものだと気づくように思うんですよ。
夜怖い夢みて夢から覚めて安堵するように、悟ることによって安堵すると思うんです。

64 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 02:45:14.15 ID:Nfq95ex3.net
 
>瞑想で体験してもそのような変性意識下で見た世界を
>信じるのは個人的な事であり普遍的とは言い難い

無明の暗闇に覆われ、そして、それ故に
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
唯識(ゆいしき)
誰もが(この現世において)成仏するわけではない(五性各別)

>夜寝て 『 夢を見てそれを実在するんだ〜と信じるのは個人で好きにやってくれ 』

『 無明の暗闇に覆われ、そして、そこからの解脱へ 』 と導くために
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法(ロジョン)
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』

諸法は夢の如しと訓練しなさい
『 この世界は(実有・実体ではない)夢が現れ(滅し)ているようなものである 』 と観察しなさい

坐(瞑想のセッション)の間は、幻術師としてありなさい
『(実有・実体ではない)夢を作り出している幻術師のようなものである 』 と観察しなさい

空という性質は
スッタニパータ
1119 つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し
21 激流を克服し
204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナに

と導くためには最上のものである

65 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:48:22.62 ID:g+mcn9r2.net
生物学者の立場からすれば生の命題がメインなのに比べて死の命題はサブらしいw
生命自体は種類は様々綿々と連なっているし近い将来人間が絶滅しても他の生命は残るだろうw

死ねば分かる事は死んで分かれば十分であり生きている間にアレコレ邪推する事は覚める(悟る)こと
にはならず、ブッダが無記で語らなかったのも当然である。

ブッダが無記で語らなかったにもかかわらず阿呆が瞑想で分かった〜などと言うのはとんでもない馬鹿者という事ですw

66 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 02:57:48.05 ID:ckqYSb4y.net
>>65
邪推はいけませんと。その通りだと思います。
ただ、仏典を信用するならば、「大念処経」という瞑想法が説かれた経があるように
瞑想は必要だと思うんですよ。
かなり具体的に説かれた悟りのための瞑想法だと思います。
それについては、おじゃるさんは詳しいと思います。

67 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 03:07:40.43 ID:Nfq95ex3.net
 
『瞑想で分かった〜などと言うのはとんでもない馬鹿者という事です』と掴もうとしている想いが現れ(滅し)ている

 − これを対処するために −
http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶 内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し、生きていこう

68 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:20:51.01 ID:UTzKbRJZ.net
>>65
>死ねば分かる事は死んで分かれば十分であり生きている間にアレコレ邪推する事は覚める(悟る)こと
にはならず、ブッダが無記で語らなかったのも当然である。

仏陀が死を無記したというのは間違いだ。
死と言うものがないから、語らなかったのだ。
仏陀がその他のものをも無記したというのも間違いだ。

それは仏陀が、人を苦しみから解放することが自分の説教の目的であると言ったことに回答がある。
人は死を恐れる、人は病気を恐れる。人は老いを嫌悪する、その他の悩みを持ち苦しむ。
こういうことから解放するというのだから、その為の教えを完全なものとして説いているというのだから。

死はなく、病気はなく、老いはなく、一切の悩みはない、と説いているのだ。
なぜことさら、無記とする対象を仏陀は持っていたはずがあろうか。無いのだ。

仏陀は死については、死は生と相対的な概念で、生に執着することは死に執着することだ、と言っている。
生を大事にすることは死を大事にすることなのだ。だから、生きることは死との戦いになる。これは限りない苦しみなのだな。

そこで生死には実体がないとし、生死に執着してはならない。生死から離れることがニルバーナだと言っている。

69 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 09:40:13.35 ID:NyxLz0Ti.net
宗教は奴隷学である

70 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:02:52.97 ID:g+mcn9r2.net
瞑想なんて個人的な体験の結果は普遍的になり得ず、従ってそんなものは覚める(悟る)こととは無縁である。
ブッダが言う瞑想は単に心を落ち着ける程度の意味に他ならず、瞑想の変性意識をもって悟れなどと言っている
訳ではなかろう。

ブッダの無記は形而上の問題すべてについてが対象となる。
存在論しかり死後世界や輪廻転生しかし〜
無記についてのその他の解釈は採用しない。

71 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:22:24.75 ID:ckqYSb4y.net
>>70
大念処経の総説に
『比丘たちよ、衆生の清浄へ、愁悲の超越へ、苦憂の滅没へ、理種の証得へ、涅槃の現証へ至らしめる唯一の道、それはすなわち、四念処です。』
と書かれています。単に心を落ちつかせるための経ではないと思います。
http://komyojikyozo.web.fc2.com/dnmv/dn22/dn22c01.htm

72 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:43:23.82 ID:g+mcn9r2.net
大念処経は良いんだが、瞑想による変性意識下の独特の体験=悟りと固定して捉えるのがいただけない。
単に心落ち着けて座って大念処経を読むだけで十分でしょう。
大事な点は難しく捉えない事。一切皆苦なんてのは捨てても構わないw 楽に読み通して分かる部分だけ分かれば良い。

73 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 10:51:37.29 ID:ckqYSb4y.net
>>72
余計な観念を捨て、自己の体験に囚われずに、心を落ち着けて瞑想するということですね。

74 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 11:18:39.02 ID:Nfq95ex3.net
 
「(何かが)あるはずだっ!」と掴もうとしている想いを手放しする
そのために
何かを掴もうとしている想いを手放し
微粒子を知覚して
今ここに戻って、今ここに目覚める
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
ミャンマーモーラミャインのパオ森林僧院の歴代院長  パオ・セヤドー
純観行者は 『 四界分別観 』 から修行を始めなければなりません
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/08/26/061854
もし段階を追って 『 四界分別観 』 を修行したならば
浄色が細かく砕けて、色聚(微粒子)になるのを見る事ができます
http://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/06/28/163259
「密集の概念がある時、霊魂の概念が生まれる」
色法の密集を看破するためには
色聚(微細な粒子)を識別しなければなりません
http://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
色法の本質 67ページ
二十八の色は
独自に、または単独に存在することができず
ただ、色聚の結合した形態によって出現する
もっとも小さい色法の結合を 『 密集 』 という

75 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 12:07:01.94 ID:UTzKbRJZ.net
>>69
真実と真理の奴隷となる学問だな。

理性を持って万象を突き詰めていくと、真実に到達する。その真実から、
今度は、万象を説明していくと並行して真実の奴隷となるための教えが真理となる。

真理と真実は違う。

一般的に、方便と言う表現が盛んだが、この意味は、一般的には、嘘という意味合いで
使用されているようだが、特に日蓮教学では盛んだ、しかし、嘘と言う意味ではない。
それは真実へ至る方法と言う意味だ。それが真理なのだ。

ニルバーナに至る筏、彼岸に渡るために煩悩の激流の川の流れを渡るための筏、のことで、
真理の筏でないと、溺れてしまうのだな。

だから、真実と真理を認識し、真実と真理の奴隷とならなければ彼岸に渡れないのだな。

76 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 13:21:04.28 ID:g+mcn9r2.net
一切皆苦は仏陀の出家の動機ではあったろうが、苦行では悟れないと苦行を捨てたよね。
苦行を捨て快楽主義にも陥らず不苦不楽の中道を選んだ。
晩年はアーナンダに自灯明を説いた。

10点満点で一切皆苦(初期仏陀)を1点とするならば、中道(中期仏陀)は5点、自灯明(晩年仏陀)は10点の価値があろう。
仏陀の教えにも濃淡があるのだから一字一句全部10点で受け止めなくとも良いという意味です。>>72

77 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 13:52:39.25 ID:Nfq95ex3.net
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%BF%B5%E5%87%A6
四念処(しねんじょ)
大念処経(大念住経)
http://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/5dfd915e6ed70b389d597c53a110d757
大念住経(大念処経)
世間の貪欲と憂いから離れて
「心」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)心の働きである。と知覚して住むことである
世間の貪欲と憂いから離れて
「法」を(自分でもない、自分のものでもない、自我でもない、現象による)法の働きである。と知覚して住むことである
  _  _  _

それ自体の自性だけで成立しているのではなく
自分だけでもなく周囲環境だけでもなく
因と縁の双方の縁起に依存して
地水火風空識に依存して
異蘊相続に依存して
色受想行識の仮和合が
仮設として(←『縁起に依存して』という意味でつ)
この現世に現れている

それ故に『実有・実体ではない』という意味でつ

仮に、現れ(滅し)ているので、それ故に『無ではない』でしょ?

78 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 20:08:25.66 ID:l5zROlrt.net
死は素晴らしい
感覚から解放されて
完全に緩むんだよ。
でも、すぐに夢を見始めてしまう・・・
オレはこれを止められる気がしない。
できることは、明晰夢状態でいる事くらいじゃないのかな。
勝手に世界は現れるのだから。
お釈迦様が言った無明は無始である。というのが終わりも始まりもないという気がしてならないんだ。

79 :神も仏も名無しさん:2015/10/07(水) 21:03:17.39 ID:UTzKbRJZ.net
道教に関尹子文始真経と言うのがある。道教の教えも、回教のコーランも、同じ源泉から出ている教えだ。
もちろん仏教と同じだということだ。

だから、仏教を補足するためにも、一回読んでみることは無駄ではない。

関尹子文真教は、説き方が大乗仏教に似ていると思う。
説き方が原始仏教と違うということだ。

80 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 22:04:10.86 ID:Nfq95ex3.net
 
おじゃるは「脳みそ、くるくるパー」なので意味が↓わかりませんでした

http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)


宇宙生成の至上の理をとらえてほしいままにしているが
ぴたりと合致することはできても言うことはできない
(宇宙を支配する原理と・個人を支配する原理が、同一であることに気づくこと。梵我一如?)

一宇篇
天の物は激しく流れる
(阿頼耶識も激流のごとく活動している。暴流の如し?)
(21 わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
   (204 この世において愛欲を離れ、智慧ある修行者は、不生・不滅なるニルヴァーナの境地に達した)
  もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。スッタニパータ?)

人の事は錯綜している
(掴もうとしている想いに依存して現れてくる相で、存在しないにも関わらず、『有る!』と思う虚妄の執著である。遍計所執性?)

愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)

81 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/07(水) 23:00:57.52 ID:Nfq95ex3.net
 
http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/guanyinzi/0-xu.htm
関尹子文始真経  (日本語訳付)
一宇篇
愛することは水である。観じることは火である。追うことは木である。言うことは金である。思うことは土である
(木火土金水の五行思想?
  春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった?)
  _  _  _

師が弟子に対して教義を完全に相承したことを証する儀式を伝法灌頂といい
その教えが余すところなく伝えられたことを称して 『 瀉瓶(しゃびょう)の如く 』

受け継いだ?↓

http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
国土交通省  風水で見た都市のあり方

平安京のことはご存知の方も多いのですが、江戸というのも実は風水で造設されたまちなのです
関東平野にある江戸は必ずしも理想的な土地ではありませんでした
それを徳川家康や 『 天海僧正 』 が「言霊法」というものを使ってあちこちに霊力のある山の名前を与えています
また、もともと江戸のまちに流れてくる「龍脈」から吹き上げてくるよい「気」を集めて
それを循環させるために甲州街道、東海道をつくりました
それらと、富士山や秩父山系から神田明神を通る3本の「龍脈」が江戸を支えています

江戸は 『 天海僧正 』 らが将軍3代にもわたり、川の流れを変えてまで「気」が集まるように細工したので
現在でもまだその影響が残っていて、日本は東京を中心に考えられるようにできているのです

82 :神も仏も名無しさん:2015/10/08(木) 19:41:55.60 ID:4TulCA3K.net
>>80−81
関尹氏は、老子の弟子と言うことになっている。老子から道について話してもらっていて、それについての熟考を重ねているのだ。
関尹氏がこの経典を執筆するにあたっては、かなり自由な気持ちで書いている。
だから初めのころは、初心者にはさっぱり解らない、ということになる。
後半まで読んでみると、それがゴータマの教えと同じであることが、判ると思う。

大事なところは、老荘思想が、どのようなものを仏教に言う、実相ととらえているかである。
どのようなものを真実ととらえているかである。それは「一」なのだ。

83 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 00:40:05.13 ID:wvCiPHpm.net
 
関尹子文始真経  二柱篇
椀・盂・瓶・壷・甕・盎のようなものは、すべて天地を建てることができる
兆亀・数蓍・破瓦・文石は、すべて吉凶を告げることができる
これらは天地万物を成り立たせる原理を知っている
一つ一つの物はこの原理を包含している
物という物はすべてこれを包含し、どれかがどれかから借りてくるということはない
自分の精があちらの精と合し、両者の精が掴み合って神がこれに応じる

一羽の雌と一羽の雄では卵が生まれ、一匹の牝と一匹の牡では胎児が生まれる
形はあちらの精であり、理はあちらの神である
愛するのは自分の精であり、観じるのは自分の神である
愛することは水であり、観じることは火である
愛することが執着して観じることの原因になるのが木であり
観じることが存在して愛することに吸収されるのが金である

 −↓これは輪廻を前提としているけど −

http://reigaku.jugem.jp/?eid=424
瑜伽師地論(ゆがしじろん)
(地水火風空識に依存して)
人が死ぬときに
我愛と戯論と善悪業に依存して、中有身が現れ(滅す)る
この中有身が次に生まれる処を求めて母胎に入り
精子と卵子が結合するとき
中有身は滅して同時に生有身が生じ
阿頼耶識がこれに結合し、種子は成長し胎児を形成し出生に至る

84 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 07:58:24.43 ID:CH+NWXs5.net
文始真教も聖人は無我であることを知っているというが、ここのところの説明が、仏教の無我と合わせて
考えてみる必要があるともう。

仏教も無我とは言うものの、仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ。
で、この仏性こそ実在する真実であるというんだ。

我々は、自分に我がないことの説明として、自分の身体、自分の感情「心」は縁起法則の所産である、故に自分には我が無い、と結論する。
これは、自分の身体、自分の心を自分と見做している人に対しては、有効だ。
しかし、自分の身体、心は縁起の所産でそれは幻にすぎないとみなしている人に対しては、どうだろうか?
「人は無我の存在だ」というと、その人は、「いや、そうではない、自分は自分で、この自分がないとすれば一切がなく、真実の存在もなく、
自分は永遠に、心の平安、つまり安息を得ることはできづ、こういう主体がないとすれば、自分以外の一切のものだけが存在することになり、
それこそ破滅に他ならない。むしろ、自分以外の一切がないこと、自分だけが存在することで、自分は平安を得ているのだ。
自分は自存者だ、。」というのではなかろうか?そしてそういうのは首肯できることではないか?

こういう人の見地が文始真教の著作者の心境ではないだろうか?彼は幻の成り立ちを説明してるのだはないだろうか?

85 ::2015/10/09(金) 10:19:26.40 ID:QATjx1mC.net
何度も繰り返し言うが、
仏教の無我は本来非我というべきもの。
つまり「我が無い」ではなく「全ての物は(例え自分の肉体であっても)我が物に非ず」という事。
コレが発展して後に我が無いという事につながるだけ。
仏教では○○が実在する〜などと言う事は言わない。ココが第一に間違い。

結論としては存在論としては無ではなく、非無、非有。有るのか無いのか分からないというもの。
人間の人生としては(存在論としてではなく)有る。こんなのは当然すぎて問題にもならない。
ところが無い無い馬鹿は何でもかでも無い〜w 有るとでも言おうものなら、「有ると掴もうとしている〜」等と
糞な批判を垂れるw 全く馬鹿につける薬は無い。 コレは無いと断言できるww

86 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:04:30.52 ID:CH+NWXs5.net
>仏教の無我は本来非我というべきもの。

非我とは「我にあらず」と言う意味だろう?
それを言う人に「それでは何がアナとの我なのか?」と聞けるんではないか?
とすれば、その非我と言った人はなんと答えるだろうか?

87 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 11:13:29.77 ID:Hh3INdr9.net
>>85
そうですね。
無我とは、それ自体で成立することができない。
つまり、他に依存して成り立っているに過ぎない儚きもの。
それを確固としたものとみなすことによって、さまざまな煩悩が出てくると。

88 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 14:23:45.32 ID:QATjx1mC.net
>>86
すでに>>85で言い尽くしていて疑問の出る余地はないと思うが?

「我は無い」とは最初は言われていなかった。
最初は所有についての説法だった。
我の所有するものは一切ない。
自分の子供も自分のものではないし、自分の肉体ですら自分のものではない。
これを突き詰めていって後に、では我って何なんだ?我って無いんじゃないのか?
で、無我→我がないに発展していった。

それはそれで構わないが、存在論としては無いのではなく有るのか無いのか分からない、不明であるし、
人生としては個々人にとってそれは有るというべきもの。
無い無い馬鹿は、存在論ですら無いとは言えないのに無いという阿呆である。
無いとは言わなくても「有ると掴もうとしている〜」などと批判する事自体無いと主張しているに等しい。
人の人生は有るし存在論では有無不明。これ以外の回答は却下する。

89 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:07:17.88 ID:wvCiPHpm.net
 
『あらゆる現象(諸法)を構成する基体として
  有法、法体(ダルマ)を想定し
  この有法は滅することなく
  過去・現在・未来にわたって存在し続けること(法体恒有、三世実有)』を主張した 『 説一切有部 』

 − これに対して −

『(法体も三世も、すべて)無自性・空』を主張して説一切有部の説を批判した 『 大乗 』

http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界すべてを 『 空なり 』 と観察し、そして
http://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経(大乗経典)
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく

>仏教も無我とは言うものの
>仏性を我と言い、この仏性は一切のものにあり、一切が成仏するというのだ
>で、この仏性こそ実在する真実であるという。(そして、それ故に)

『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

90 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:17:51.26 ID:wvCiPHpm.net
 
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと↓そのために?

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/zen/jitubutu/jitubutu_2.htm
曹洞宗の僧侶  内山興正

坐禅中に
思いが浮かび,その思いを追っているならば,それはすでに考え事をしているのであって,坐禅していることにはなりません

坐禅中の心構えを一口にいうならば
「思いを手放しにしている」という言葉が一番あたるかもしれません。「思いを手放しにする」とはどういうことか

われわれの思いは,いつも「何か」を思うわけですけれど,この「何かを思う」ということは,思いをもって,その「何か」をつかむことです
ところが今,その何かをつかもうとする「思いの手をひろげっぱなし」にしてしまって,何ものをもつかまないでいることです
すなわち 『 思いの手放 し』 です
実際には何ものかの思いが浮かぶかもしれません
しかし思いがそれをつかみさえしなければ「何もの」としても構成されることはないでしょう
  _  _  _

それ故に
https://www.youtube.com/watch?v=xL37dMGnF9E
スマナサーラ
(掴もうとしている)想いを手放し
『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?

91 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 15:42:20.96 ID:QATjx1mC.net
至道無難唯嫌選択〜

これを文字通り取って取捨選択なく生きようとしたら即死んで生きられまいw
何でもかでも厳格に一字一句全部吸収しようとする人間がいるがこういう生き方自体が間違い。
経典を読むのもしかり、仏教の格言の受け入れ方もしかり〜

至道無難唯嫌選択はおじゃるの好きな「掴もうとするな〜」という教えに近かろうw
これは掴むなではなく、掴んで構わない、選択しても大いに結構w〜それを自分で掴んでいる
選択していると認識していれば問題がない。〜という事だw
この何を選ぶか自由である〜というのが人生に他ならない。何ものも選ぶなかれ〜という不自由な
生き方を勧めているわけではないのは明らか。

問題があるのが、自分は選択をしていない掴んでいないと誤った認識下に選択、掴んでいる場合だ。
こういうのは救いようのない病気で治しようがないかもしれない。ご愁傷さまの状態だw

おじゃるよ、お前さんはこのご愁傷さまにカナリ近いぞw

92 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:33:51.27 ID:wvCiPHpm.net
 
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/08.htm
至道無難  禅語に親しむ

唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着をするところに迷いが在るのだ
その揀択がいけないのだ
わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう

 − これを対処するために −

(『何かが有るはずだ!』と掴もうとしている想いを手放し、そして
  余念を交えず、ただひたすら座禅する。只管打坐をして)

いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である

(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

93 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:37:07.59 ID:QATjx1mC.net
>>92
やはりなw

ネット情報や他からの解説に100%頼る、その姿勢が既に病気w
自灯明とは己で考え判断し選択する事。何を自分が選択しているか認識しろ。
他人の指図を受けるなw

94 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 16:53:17.95 ID:wvCiPHpm.net
 
自灯明法灯明(自分だけでもなく周囲環境だけでもない)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6
身体について…感覚について…心について…諸法について…
(それらを)観察し、熱心に、明確に理解し、よく気をつけていて、世界における欲と憂いを捨て去るべきである

みずからを灯明とし、みずからを依処として、法を灯明とし、法を依処として

四念処(四念住)の修行を実践するように 『 自灯明法灯明 』 の教えを説いた

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り
自分の心身を厭う思を起こし
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」である
このように現実を厭うことは
人間の普通の世俗的感覚を否定するものに見えるが
その世俗性の否定によって、結果として
真実の認識(如実知見)に至るための必要条件が達せられるのである
正見は「四諦の智」といわれる

この正見は
正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定によって実現される

95 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 19:35:39.16 ID:QATjx1mC.net
付け加えて言うならw

リンクを張らずに言う練習をする事だw

リンクを張って参照を示すのは自分で考えていない証拠w
まあw 証拠とまで言わずとも楽しようとしている事には間違いなく
それが病気の進行を進める。
おじゃるよw 再起不能も近いぞw

96 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:36:45.80 ID:CH+NWXs5.net
>>93
おじゃると言う名前なのか?
適切に真理の教えとされているものを我々に開いてくれている。

般若経には、その経典を読誦するだけで、成仏の境涯に近づくという文句もある。

おじゃる氏のレスがないなら、このスレの価値は激減する。

>>89
>いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対明白の悟りの世界である
(掴もうとしている想いを手放し
  『 解脱すれば仏だ! 』 ということに気づくこと?)

そういうことだろう。

97 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 20:51:46.37 ID:QATjx1mC.net
価値の激減大いに結構ww

そんなものに「価値」が無いのだからw

98 :神も仏も名無しさん:2015/10/09(金) 22:03:24.01 ID:QATjx1mC.net
ちなみにw

この仏教関連スレには名前が付いている常連がいるw
その私の感想を述べるのも一興だろうw

パーピマン:暴力反対〜と言いながらアサルトライフルで撃ちこむキチガイw
セブン:説明が驚異的に下手糞w 比喩などは比喩になっていない〜w
閻魔:禅派で言い方がワンパターン、人間的としての良さはあるかもw
一代:知らんw 絡んだことがないからねw
おじゃる:自分の考えを持っているのかいないのか?リンクは止めれ〜w
机:閻魔氏と近いんじゃないの? 良くは分からんw
紐:極めて常識的〜w 仏陀の中道の実践者だろうwww

99 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 01:33:42.95 ID:cl4bhc2h.net
 
>おじゃると言う名前なのか?

おじゃるの場合は
小学4年の頃に
落武者の霊に
睨み憑けられてから
それを切っ掛けとして

『 隠されたもの 』 を語源とする
目で見たり、触れて感じたりすることのできないことを意味する
そのような知識の探求とそれによって得られた知識体系 『 オカルティズム 』 に興味を持つようになりました

一代先生  真言宗の阿闍梨さま?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)
セブン先生 臨済宗?(←たぶんガチで僧侶だと思われる)

閻魔先生  世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない
机先生    世俗諦としての説明が欠落しているので何を主張しているのか?わからない

通常、仏教の場合は
『我を捨てなさい』と導いていく
(『自分の主張を捨てなさい』と導いていく)

これに対して
紐くんの場合は
『無明の暗闇に覆われている!』とういことを知らないらしいので
『ぼくの意見こそが正しいのだ!』と勘違いしているらしい

100 : ◆Ozyaruuowd4U :2015/10/10(土) 02:09:54.98 ID:cl4bhc2h.net
 
http://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察

無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)

無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(滅し)ている

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている無明薫習に依存し、そして

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
仮設として(『(空という性質なので)縁起に依存して』という意味でつ)
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続け、そして

http://totutotudojin.jimdo.com/%E5%85%AB%E5%AE%97%E7%B6%B1%E8%A6%81/%E6%B3%95%E7%9B%B8%E5%AE%97/
遍計所執性
『(何かが)有るはずだ』と掴もうとして現れ(滅し)ている 『 想い 』 が
『実有・実体ではない』にも関わらず、『(実有・実体が)有る』と思う虚妄の執著が現れ(滅し)ている

( ↑ 『実有・実体であるのなら、(縁起に依存して)現れ(滅す)ることは出来ない』という意味でつ)

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