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りを開いたことあるけど何か質問ある?37
- 548 :あらかん亜蘭馬漢 ◆PottancCb. :2015/09/16(水) 20:15:12.30 ID:RmuqLYVw.net
- ID:S68r2puA さん
完全な静寂でした。すべてはつながっていました。私というものはありませんでした。三度目の見性のときには、縁起というものがハッキリとわかりました。
見性の時、ただ座っていただけです。その後、自分になったときに、気付くことがたくさんありました。
私は禅を知りませんが、ネットに書かれてある事を色々読み、私の体験は見性というものだと知りました。
自分がいないという体験が見性というもの。私は坐禅をして見性したわけではありません。ただ座っていたときに二度、歩いているときに一度です。
私は、完全な静寂、一切の音がない、心が完全に沈黙していることによる完全な静寂。
私は、仏教の本を読み、私が体験によって気づいたことと、仏教とは、基本的に同じであるとわかりました。
私の認識では、自分がいないと体験しているのは、自分ではありませんでした。自分が自分だと思っていたものが、自分ではなかった。自分とは世界そのものです。
私は、自分がいないということがどのようなことなのかを知っています。
自分がいないということがどのようなことなのかを知っていれば、自分がいるときにでも、正しい考え方ができます。
初めて見性したのは、一年以上前なのです。
徹底すれば私は完全にいなくなってしまいますね。それが悟り。
頭で理解するのと、本当にわかるという事は全く違います。本当にわかった時は、ハッキリと、本当にわかったと気づきますよ。それが間違っていないかどうかもわかります。
見性し、そこで無分別がわかり、分別が苦であると気付きました。
見性の後、自分になったときに、自分はいないと気付きました。
その後、2度目の見性があり、自分の意識というものも(本来のそのもの)が自分ではないと言えます。
それから3度目の見性があり、そのときに、自分の肉体や心は縁起であると気付きました。
3度目の見性の後で、私がいないと思っていたことも間違いでした。、私ではないといえば私ではなく、私だといえば私です。
私が歩くと、世界が動くという当たりまえのことが、ハッキリとわかりました。
分別のないところ、善悪のないところでも、善悪があると気づいたのです。それが自分だといえば、すべては自分で、それが自分ではないといえば、自分はいないとなります。
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