2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

阿含宗という宗教256

1 :神も仏も名無しさん:2015/09/08(火) 21:17:32.81 ID:sMOCSDYa.net
このスレッドは阿含宗批判が目的です。
霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。

■阿含宗関連サイト■

考察資料の総合案内「agama考察室」
  http://agama.zouri.jp/
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
  http://jbbs.shitaraba.net/internet/3419/
議論スレ:「agama@chs-1」(したらば)
  http://jbbs.shitaraba.net/internet/6441/
議論スレ:「FC2agama掲示板」
  http://datoban.bbs.fc2.com/
過去のザビビ復活!ザBBS(過去のザビビよるデータをFC2に譲渡)
  http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”)
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
  http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
  http://souko.digi2.jp/
過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
  http://agama.ehoh.net/kakoindexthebbs.html
阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
  http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC 
  http://agama.jounin.jp/

397 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/17(木) 22:27:01.05 ID:sQ4op+S1.net
それではニカーヤ論文の再掲。
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/6940/1/ib004001.pdf
いや〜、私のような頭脳にはなかなか窮屈な学術論文です。
いや、論文に対する悪口ではありませんよ。
その窮屈な論文を読み解いて、狭い見解を打ち破らねばならない。
狭い見解とは解脱への修行の段階、順番に対してのあまりに固定化し過ぎる偏見です。
段階、順番が無いなんてことはなく確実にありますが、決して戒→定→慧なんて
きちんと「時期」だけで分けられるものではなく、実際には戒・定・慧は常に
同時進行で進められてきた。一番最後の「悟り」の箇所にて確認観察の智慧があるというだけです。
つまりあなたのように四禅までの修行を終えて三明による智慧観察で四聖諦を
知って初めて解脱をし、それまでは解脱などしておらず、心解脱すらその段階では認めない、
完全なる解脱の前に解脱なし、解脱の完成以前に解脱なしとする狭い考えです。
ニカーヤ論文はそれをも打ち破るためにも八聖道との対比をしている。
そこで見えてくるものがあるのです。
それがまず八正道の正見であり、この内容は四聖諦の智慧であるという。
八正道では正見なしには正語、正業などの戒、正定などの定は進められない。
つまり正邪の判断基準です。これは戒でもなく定でもなく慧としかいいようがない。
その正見の智慧は四聖諦を知ることに相当すると言うのだから、ペテン大作さんの言うように
四禅終えた後に四聖諦の悟りを得るまで八正道は実践不能だったことになってしまう。
つまり一来補さんもよく間違える戒→定→慧の整然とした順番ではなく、先に慧が
来ることもある。
つまり>>212さんの
>ですから、実際の修行道である「八正道」では最初に「 正見 (漏尽智) 」と「正思」という
>「慧 ( 慧 → 戒 → 定 ) 」 の 修行 が置かれているのです。
です。

398 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/17(木) 23:15:24.16 ID:sQ4op+S1.net
実にニカーヤ論文の中に>>212さんの指摘した慧→戒→定の問題提起に対する考察があるのを
ペテン大作さんは読み解かれたのでしょうか?
ニカーヤ論文はこれに対して回答を出しています。
つまり有漏の正見と聖・無漏の正見です。
つまり八正道の修行者が取り組むのはもっと初歩的な慧であり、この慧が定と相俟って
強化されていき、煩悩を断除していく。そして最後には聖・無漏の正見たる
四聖諦による確認を得る。
これなら慧が先に来ていようが、ペテン大作さんもオッケーでしょう。
最後の聖・無漏の正見たる四聖諦を知ることによって初めて完全なる解脱を得て
解脱の完成を見るのであり、深山の言う四禅の段階ではまだ解脱ではない。あははは。。。
ってあはははペテン大作とは別の人だっけ?
ところがそうも行かないのです。
その聖・無漏の正見、慧、四聖諦の智を得てどうなるかと言うと、なんと「預流者」になると言う。
>>360の引用)
預流者とは有身見・疑惑・禁戒取の三結を断った境涯であることは同論文の
同引用の中にも明記あり、(25)の脚註にははっきりと十結煩悩の欲貪や瞋恚などの
残りの煩悩が断たれていない境涯を明記している。
だとすると釈尊は最後に四聖諦の智を得てシュダオンにしかなれなかったのか?
そんなはずはない!
と(私の)考察は続く。

399 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/17(木) 23:40:29.57 ID:sQ4op+S1.net
釈尊は最後の段階の智慧で四聖諦を観察し、単なる預流者、シュダオンにしかなれず
解脱の未完成なんてはずはなく、阿羅漢果を得たはずです。
それは先の四禅記述までの修行・・・なんだったら二禅記述までの
修行でもよいのだが、心の全き安定を得ていて清浄にして無穢にして柔軟にして不動にして
大きな煩悩は言うまでもなく小さな煩悩までも離れていた。
つまり欲貪や瞋恚などの煩悩も離れていたので三結しか断じていない七来のシュダオン
なんてことはあり得ない。
するとこれをどう考えるかと言うと、一つには最後の四聖諦の智とはやはり
最終「確認」の観察によって、単なる知識ではない実体験による実感の伴う
確認であり、四聖諦の智慧自体は先駆けてあったものと見る。
つまり慧→戒→定(これは嘘で慧・戒・定と言うべきで)の後に続く→慧は確認に過ぎない。
確認してはっきり確信を得てそれは「悟り」として完成した。
悟りの内容とは苦があり、苦を超己するには己の煩悩を断除するしかなく
この煩悩を断除した「解脱」は八正道の修行により得られるという悟りであり確信です。
つまり悟りの中の解脱体験は実は悟るより先に得ていた。
つまり四禅か二禅かわからぬがその時にすでに得ていた。
という考え。
あともう一つ別な考えもある。仏教素人に過ぎない私の自由な発想では。

総レス数 606
516 KB
新着レスの表示

掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200