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阿含宗という宗教256

363 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/17(木) 12:00:07.27 ID:oT7Seb77.net
>>339 :一来補:2015/09/16(水) 14:17:12.72 ID:/vAz4Xs9
>心が安定、など、それだけでは解脱にならない。小さな煩悩というのも抽象的で、釈尊の言葉としては紛らわしい。ならば、大きい煩悩や極小の煩悩はどうしたの?と、突っ込みを入れたくなる。煩悩尽とか、煩悩滅とか、解脱の場合は紛らわしい言い方を釈尊はしない。

他の信者さんたちはごらんください。
ペテン大作さんは以下の「心の安定」は学者の誤訳だと否定し、
一来補さんは下記の文章が釈尊の言葉ではないと否定した。
阿含経に自分たちに都合の悪いことが書いてあると、否定し無視する。
前も書いたが、阿含経こそが第一級の資料であり、他の信者さんたちには、
阿含経に書いてある釈尊の言葉をそのまま受け取ってほしい。
上記の一文は、釈尊は解脱していると述べているのです。

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

他の信者さんたちは「小さな煩悩も離れ」が抽象的な言葉に聞こえますか?
「小さな煩悩も離れ」とあれば、普通は大きい煩悩からもすべて離れ、
「すべての煩悩から離れた」という意味にとります。
仏教では、煩悩から離れたら解脱です。
つまり、上記の一文は解脱を表している。

「小さなゴミも捨てました」という報告があれば、すべてのゴミが
捨てられたと解釈します。
だが、一来補さんは大きなゴミは残すらしい。
「心をこめて、まじめに誠実に、屁理屈なく、小さなミスもなく」
という上司からの伝言に、一来補さんは、
「抽象的で、上司の言葉としては紛らわしい。ならば、大きいミスは
どうしたの?と、突っ込みを入れたくなる」と返事したそうだ。

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