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阿含宗という宗教256

25 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/09(水) 01:21:36.37 ID:n4ABMKiW.net
>586 神も仏も名無しさん 2015/09/07(月) 11:31:20.57 ID:NTTxSMEs
>知が付いてるから慧の実践だって? またボロを出しちゃったねw
>三学の「正念正知」は慧ではありません。ニカーヤの論文をよく読んで勉強し直し!!

しかしこの説明でもペテン大作さんは納得などしないでしょうね。
ええ、私はペテン大作さんを納得させるなんてことは考えていない。
一来補さんと同じく諦めています。
定年退職悠々自適なら羨ましいですが、失業中ならば頑張ってください。
深山さんが書いているように人それぞれ考えが異なり、後は読んでいる人各自が
どちらが正しいと思うか判断を委ねることにして、7年間の議論は終結と言うよりも
中断でよいではないかと思う。
(と言ってもペテン大作さんはやめないだろうが…)
だから最後に三学段階的修行道表現記述の中で9番目の段階に過ぎない四禅修習後の
「心が安定…」記述がどうして解脱と言ってしまえるのか書きましょう。
それには例え話をする。
ここに長年のホームレスがいて、全然風呂に入らないし、髪も髭も伸び放題で
汚く臭くてたまらない男がいるとする。
彼に他人から敬遠されるようなことから脱却する道を教えた。
その男はきちんと風呂に入るようにし、散髪にも行き、髭も剃りきれいになり
もはやあのいやな臭いもなくなった。
男も今後も風呂に入り散髪もし、髭も剃ることを理解して実践している。
これがふつう完成ですよね?
では三明の智慧観察とは何かと言うと、それは最後に鏡で自分の姿を見て確認するようなものです。
「ああ、見違えるほどきれいになった」と。
解脱した人が解脱したと知ったとはこのことです。
ところでこの鏡を見る作業をしなければきれいになる目的を果たしたとは言えないと言いますか?
必ずしも必要ないではないか?自分はまだまだ汚れているんだ、未熟者なんだと
思ってまだ精進続けていたってよいではないか?
もう煩悩がなくなっていれば、死んで後輪廻することもなくなります。
だから何も13番目のシーンで解脱完成なんてしなくても実は9番目のシーンでは
解脱を果たしていたでよいではないか?

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