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阿含宗という宗教256

204 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 15:37:00.07 ID:58t+T3CW.net
>>199(続)
何から書きましょうか。まず、梵網経を読んでみて解ったことを書きましょう。
>>101でも書きましたが
釈尊は梵網経で「我(アートマン)」と「世界」に関する哲学的見解六十二種(六十二見)を
網羅し、それらの見解を斥けているのです。
当時のインドの思想史を見ると、超越的実存者をブラフマンといい、内存的我をアートマンと
いい、その一体感 「梵我一如」 を会得するのを究極の救済という構造の宗教が主流であった
といわれています。
そして、ここがもっとも重要なところですが、 六十二の学説すべてが、自己を認める立場を
とっているのです。つまり 「我(アートマン)」を認めていることになる。

だが、釈尊の立場は違います。縁起の理法を知ることにより、仏教独特の「無我」に向かって
いるのです。そして最終的には涅槃(煩悩からの解脱によって得られる安楽の境地)を求めます。
ですから、六十二見は我(アートマン)を認め釈尊の仏教は認めず「無我」を説く立場です。

さて、私が梵網経の中の六十二見で説明される常住論や現法涅槃論の内容を読んだ時、ちょっと
以外に感じました。
たとえば常住論の内容ですが、これは釈尊が沙門果経で説いた<慧>の過去世を見る能力である
「死生智」と同じ内容なんです。
また、現法涅槃論には正念や正知、そして四禅まで出てくる。
だが、釈尊はこれらの論も「囚われた見地で涅槃に導かず来世をもたらす」と説いているのです。
一体これはどういうことなのか?

それを解決するヒントが「無我」なのです。

続く

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