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阿含宗という宗教256

1 :神も仏も名無しさん:2015/09/08(火) 21:17:32.81 ID:sMOCSDYa.net
このスレッドは阿含宗批判が目的です。
霊感商法、霊視商法をするカルト宗教・阿含宗の宗教詐欺を世に知らしめるためのスレッドです。

■阿含宗関連サイト■

考察資料の総合案内「agama考察室」
  http://agama.zouri.jp/
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
  http://jbbs.shitaraba.net/internet/3419/
議論スレ:「agama@chs-1」(したらば)
  http://jbbs.shitaraba.net/internet/6441/
議論スレ:「FC2agama掲示板」
  http://datoban.bbs.fc2.com/
過去のザビビ復活!ザBBS(過去のザビビよるデータをFC2に譲渡)
  http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”)
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
  http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
  http://souko.digi2.jp/
過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
  http://agama.ehoh.net/kakoindexthebbs.html
阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
  http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC 
  http://agama.jounin.jp/

151 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 14:31:32.46 ID:mWENpIh5.net
https://www.youtube.com/watch?v=aAqzp2lV1Uw

元阿含宗信者さん、なかなかうまいことを言う。
深山さん、ユビキタスさん、どう思われますか?

152 :一来補:2015/09/12(土) 14:45:20.05 ID:4Utu10WC.net
145レス
あのね、○○の因縁が切れたかどうか?
なんてのは、人任せにしてはダメなのです。
例えばだよ、ガンを早期発見してさ、オペが
成功したとする。この場合、桐山師に尋ねる
までもなく、ガンの因縁があるわけだよ。

あとは再発しないように注意をしながら、
ガンの因縁を切る努力をするわけですな。
で、その後30年以上再発しなかったら、
だいたい、切れたと考えてよいだろうな。
医者には因縁が切れたかどうかは、分から
ないわけですよ。
因縁なんて、本人が自覚するようでなければ
見込みがないのでは、ですな。

だいたい、己の因縁も分からないで、
阿含仏教に入る必要があるのかい 。

153 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 17:26:23.22 ID:URq1h71P.net
>>152
だいたい、己の因縁もわからないで、
阿含仏教に入る必要があるのかい。

桐山は「脳障害の因縁」はないって言っていたけど、脳梗塞になったぜ。
己の因縁が分からなかったのね(笑)

154 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 17:53:01.31 ID:mwRiaqAq.net
ハッスルハッスル〜www

155 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 18:14:39.87 ID:mWENpIh5.net
いざわさん、村山さんに殺意を覚えたと、そして、テロリストの気持ちが
分かると言っていますが、深山さん、ユビキタスさん、元阿含宗信者
として、どう思いますか?

156 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 18:43:12.01 ID:9ESqto5A.net
はっきり言っておく。

真実(悟り)とは宿るものであり学ぶものではない。
新生(宿り)無しに神の国に入ることはできないと同義である。

157 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 19:27:59.68 ID:9ESqto5A.net
はっきり言っておく。

出家、殉教(肉体の死ではない)、割礼(心の割礼)は初関を意味するものであり
初関を通れば後は道に従うだけであり真実(悟り、宿り)や神の国への到達は必然となる。

入口にもいない者が出家者の掴んだ知識を振り回し
悪知恵のある者が悪用する現状に腹を立てるのも当然であろう。

宗教界全般に言えることである。

158 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 20:07:36.99 ID:VOryvdrl.net
印度の宗教家の話。
論じ終わった学者に向かいヨギが尋ねる。
それで貴方は神を体験しましたか?
仏教も同様、貴方は阿弥陀様を体験しましたか?薬師如来のお姿を
知っていますか?
観音様を見ましたか? 此れを回心というのである。

159 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 20:35:42.73 ID:9ESqto5A.net
ダルマに目覚めるということは、
特定の宗教指導者や教えに盲目的に隷属するようなことからは、
もっとも遠いものです。

形式に従い教えのみに隷属したニコデモの晩年の教えの通りです。

160 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 22:19:38.06 ID:LfF4Ja5Z.net
ほんとつじつまがあわない桐山因縁論をなんで絶対って信じているんだろうね
一来補という人わ
それが洗脳された信者というのかもしれないが矛盾だらけだろ
どうしてそんなのを信じられるのか?わからん?
基地外っていうレッテルを貼るのはたやすいのだが(低能者とかいう人みたいにね)
それじゃしょうがないだろ。

161 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 22:51:22.44 ID:VOryvdrl.net
>>160 君わ、今まで人生の選択を(進学、結婚、就職など)
 自分の意志で全部遣っていると思う?それなら100%とまでも言わないが
 思うとおりの人生を送っている筈だね、そういう立派な不幸と無縁な
 人は仏道に目覚めなくても良いのですよ。
 己の人格に不満と思うから努力するのが信仰です。

162 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 23:09:03.42 ID:URq1h71P.net
>>161そういう立派な不幸と無縁な人は仏道に目覚めなくても良いのですよ。

釈尊は釈迦族の王子として生まれ何一つ不幸なことと無縁な生活を送った人
ですが・・・仏道に目覚めました。
貴方の言っていることは間違っているのではないですか?

163 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 23:18:28.64 ID:0mS8DhE2.net
いや釈迦も不幸を知っちゃったからさ
幸福の絶頂から城の外へ出て不幸を見て

私も病気になったら、ああなるのか大変だ

私も年を取ったら、ああなるのか大変だ

私も死ぬ時が来るのか、そりゃあ大変だ

と悩み幸福から、どん底へ堕ちて悩んだんだけどね

164 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/12(土) 23:43:19.61 ID:22Pzu6EZ.net
>>155 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 18:14:39.87 ID:mWENpIh5
>いざわさん、村山さんに殺意を覚えたと、そして、テロリストの気持ちが
>分かると言っていますが、深山さん、ユビキタスさん、元阿含宗信者
>として、どう思いますか?

二度の名指しなので返事をしますが、質問の意味が理解できません。
E沢さんがそのような発言をしたことに、なぜ関係のない私とユビキタスさんが
指名され意見を求められるのか意図がわかりません。
「なかなかうまいことを言う」(>>151)とあなたが書いているのだから、
あなたなりの何か意見があるのでしょう。
それをまず書いてはどうですか。

165 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:04:06.28 ID:dHN3VZcW.net
>>141 :深山
>八正道も説明されれば十歳の子供でも理解できる内容であり、
>指導者の力や助けではなく、自分で実行することを求められる。

それなら世の中は聖者の行進だ。

>>143 :深山
>ペテン大作さんもまったく同じ間違いをしている。
>解脱する道を自分以外に求めてるから、八正道がそれだと
>言われても、まったくピンと来ない。

八正道は螺旋的修行道、三学は段階的修行道。
そして両者は、修行内容が対応しています。
今回、批判側のお蔭で勉強しました。

>何か特殊な瞑想法という技法によって解脱するのだと信じているから、
>その技法がどこにあるのかと必死に学者の本を読んで、
>九次第定の漏尽定で解脱するのだと主張している。

私ではなくて釈尊が主張しているのです(どっかで聞いた台詞ですネ)
釈尊は現法涅槃とは何かと問われ、
「想受滅を具足して住して、慧をもって観察し漏を滅尽すること」
と説いているのです(>>72

166 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:05:39.21 ID:dHN3VZcW.net
>>101
>その斥けられた見解の中に現法涅槃論(五種)が含まれているのです。
>釈尊は現法涅槃論を斥けています。
>それらすべてが囚われた見地であることを指摘し、退けている。

その現法涅槃論(五種)というのは、バラモンの考えた現法涅槃でしょう。
釈尊はバラモンの現法涅槃を斥けたのであって、現法涅槃そのものではない。
違うというのなら、以下の記述はどう考えるのか?

「ブラフマジャーラ経の現法涅槃論の論点は五種の現法涅槃論が最上であるか否か
ということであり、それ自体の是非が問われているわけではないと考えるべきであろう。
批判の対象は、色界四禅など五つの宗教的境地を現世における涅槃の最上と見なすことにある」
(『ゴータマ・ブッダ考、並川孝儀、大蔵出版、93頁)

>>147 :ユビキタス
>ほらね。皆さんご覧あれ。
>心解脱という単語の意味を解説するかと思ったら、心解脱を得る時期しか示しませんよね。
>心解脱という単語の意味は四諦を知った後という意味なんだそうです。

なにが“ほらね。皆さんご覧あれ”だw
読者を味方にしようとしても駄目。
>>108に対して反論出来ないくせに勝ったような振りをするな。
心解脱の意味を今頃訊いて来るとは、駄目だねコイツ。
心解脱とは“諸漏から心が解脱すること”です。
そして、それは
「このように知り、このように見る彼は、欲漏からも心が解脱し、有漏からも心が解脱し、無明漏からも心が解脱する」
とあるように、四聖諦を知った後になる。
で、これが何だって言うんだい、次男坊さん?

167 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:06:45.47 ID:pAADPUvz.net
だから、長げ〜んだよ毎回 阿含宗低能批判者www ま、これしか生き甲斐ないからなあw

168 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:16:51.74 ID:dHN3VZcW.net
>>66 :神も仏も名無しさん:2015/09/10(木) 01:38:48.55 ID:x9HKvvDO
>あなたは間違った解釈をしています。
>>101 :神も仏も名無しさん:2015/09/10(木) 23:12:54.16 ID:x9HKvvDO
>釈尊は現法涅槃論を斥けています。

>>101さん
66に対しては、>>118で反論しました。
それに対して反論がありませんが、
納得してもらったということでいいですね?

169 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:19:47.13 ID:vKOfM3zb.net
梵も我も仏教は実在を否定する。
となると我も他人も実在ではない。

ならば何故、実在でない他人への自己救済(無明を解く行為)が必要なのか?
また善悪を正そうと戦うのか、おかしな話になるな。
ありのままを観よと逆じゃね

170 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:21:55.02 ID:dHN3VZcW.net
>>155

村山さん、深山、指切っ太には分からなくていいと思います。

171 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 00:32:01.57 ID:b9wE5++k.net
>>156
虎穴に入らずんば虎子を得ず

魂の理解は虎子を得るに同じ。
仏教の基本の無や空の認識はここに扉がある。

172 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 02:47:59.68 ID:dHN3VZcW.net
@私や仏教学者ではなく釈尊が述べているのです。

>>147 :ユビキタス
>解脱という単語の意味、何がどうなることなんだかも未だに1回も示しませんよね。
>時期の話しかできないのです。
>>149 :神も仏も名無しさん:2015/09/12(土) 13:03:59.49 ID:3U8dj/9g
>そんじゃペテン大作ちゃんと議論する意味ないわなw
>彼(彼女)の基本姿勢が十分にわかったんだから何を書こうが相手にせず
>深山さんのようにこちらもスルーすればよい。

あなた方は解脱の定義を私に言わせようとしている。
そして、「付随煩悩をも離れ」が解脱を意味するから「心が安定し」が解脱であると言いたい。
だが、この経典では「心が安定し」は解脱を意味していない。
私や学者が言っているのではない。
釈尊がそう述べているのです。
釈尊が「比丘が解脱するのは四聖諦の後である」と述べているのです。

【沙門果経】
“そのように知り、そのように見るものには、欲の漏から心が解脱し、また有の漏から心が解脱し、また無明の漏から心が解脱し、
解脱したときに『解脱した』という智が生じます。
『生は尽きた。梵行は完成した。なされるべきことはなされた。ここより他〔へ輪廻することはもはや〕ない』と知るのです。”

173 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 02:49:23.03 ID:dHN3VZcW.net
172の続き

そのように知り、そのように見るとは、四聖諦を知る(達観する)ことです。
これは苦である、苦の集である、苦の滅である、苦の滅へ至る道であると知り、
これは諸漏である、諸漏の集である、諸漏の滅である、諸漏の滅へ至る道であると知るものは、
欲の漏から心が解脱し、また有の漏から心が解脱し、また無明の漏から心が解脱する。
その結果、解脱し、解脱したという智(解脱知見)が生じる。

釈尊はこう述べているのです。
釈尊は、比丘は四聖諦を知るから解脱するとはっきり書いている。
ところが、あなた方はこれを認めたくない。
認めてしまったら「心が安定し」が解脱でなくなってしまうからです。
そこで解脱の定義を持ち出して執念深く私に反論する。
解脱の定義というリング以外では勝負できないからです。
リングというよりも巣穴です。
そのリングから出たら批判側の主張は雲散霧消する。
仏教辞典の定義などを持ち出して自分ではすっかり仏教を理解したかのように錯覚している。
かつてあなた方のことを“木を見て森を見ず”と書いた。
目先に捉われて全体を見ていない。
私からこう指摘されたら、少しは自分の欠点を自覚すれば良いのに、
あなた方は注意され、自分の間違いを認めるのが死ぬほど嫌いです。
深山さんやユビキタスさんがその手本を示していることを読者さんたちは気づいていますか。

174 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 07:50:32.48 ID:B5K0Aat1.net
   
深山中的佛國秘境   http://hsiangyu51.pixnet.net/blog/post/106699757

175 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 08:47:44.23 ID:dHN3VZcW.net
>>173
>かつてあなた方のことを“木を見て森を見ず”と書いた。

木を見て森を見ずとは、物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うこと。
深山やユビキタスの場合で言えば、

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
という文言に気を取られて、比丘がどこで解脱するかという経典全体の流れ
を見失うことです。

176 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 09:02:50.24 ID:b9wE5++k.net
>>175
それらは道に入ると必然に通る過程であり求める対象ではない。
多くの修業と称して行われていることは本末転倒、トンチンカンに見えます。

例えれば
送水管に入らんとし南瓜の馬車求むです。

177 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 09:19:26.82 ID:dHN3VZcW.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」

今回深山さん等は「小さな煩悩も離れ」にしがみ付いている。
彼は必死に岩波仏教辞典学者を調べ、
解脱の定義で彼の解釈に合致するような部分を見つけ、
「小さな煩悩も離れ」にしがみ付いた。
だが、「心の安定」は、第二禅にも出てくる表現であるから解脱ではない。
「心の安定」以下「小さな煩悩も離れ」は同じ内容の繰り返しであることは明らかです。
「心が安定」=「清浄で純潔」=「汚れなく」=「小さな煩悩も離れ」
であり、「心の安定」≠解脱なのだから、
当然「小さな煩悩も離れ」≠「解脱」となります。

これを解脱と見るか、見ないかは、各人の解釈の自由に任せる問題ではない。
釈尊は四聖諦を知った後で比丘は解脱するのだと述べているのだから
「小さな煩悩も離れ」は解脱ではない。
深山さん等の、解脱の定義から引用した都合のいい言葉の解釈を信じるか、
釈尊本人の言葉を信じるかといった、各人の自由に任された問題ではない。
経典の記述から離れた解釈をしたら、もはや仏教ではなくなってしまうからです。

178 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 09:37:32.13 ID:b9wE5++k.net
悟りや解脱を何やら夢のようなものと思い描き
出家者の通ったと言われる道における要所を書物で知りまねる。

しかし初関から悟りまでの道は送水管の一本道で出口と入口は一つ。
例え10m間隔で記されている出来事を全て試しても至れない。

入口に入るために南瓜の馬車は要らない
>>176

179 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/13(日) 10:03:02.02 ID:Xh1RZhiP.net
そう言えば昔、罵倒明王というハンドルの奴いたな。
今、鹿沼市営球場で馬頭・那須・那須海城連合チームを見ていて思い出した。
馬頭と言ったら観音なのだが。

180 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 10:10:05.11 ID:w/DciK8x.net
>>178
日本の神道では産道に例えられている一本道ですね。
>>171

181 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 10:33:18.04 ID:D/i/4tXx.net
>>177
仏教解釈を議論する時は、まず、桐山さんの解釈を示してもらえないだろうか。

182 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 10:46:44.15 ID:b9wE5++k.net
桐山君は本末転倒のトンチンカンではないか?

183 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 10:48:51.96 ID:vpmPB2QH.net
大東洋と愉快な仲間達12着目
http://wc2014.2ch.net/test/read.cgi/entrance2/1440199744/?v=pc

184 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 11:51:29.88 ID:X6u9iRCA.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

ペテン大作さんは夜も朝も必死に、スレの主旨とは何の関係もない話を書き続けている。
その元は、「深山は四禅解脱を主張した」という根拠のない話を証明するためです。
私は書いていないし、私から証拠を出せと言われて、もちろん彼が示せるはずはない。
また、こんな議論はスレの主旨とはまったく関係ない。
アゴン宗の話をしてはどうかと提案しても、卑怯者の彼はいっさい応じない。

あまりにしつこいから、私が彼への反論のために出したのが上記の一文で、
これは解脱を表しています。
私がレスを付けるのは、ペテン大作さんではなく、他の信者さんたちのためです。
仏教を理解したら、他人に説明されてなくも上記が解脱を表していることがわかります。
上記の文章は試験問題のようなもので、これを解脱と理解できない人は
仏教の解脱を理解していないことになる。
信者さんたちも、これがどうして解脱なのか理解できませんよね?
仏教を理解していないからで、だから、アゴン宗にいられるのです。
何を信じても自由だが、まずは釈尊の説いた仏教を正しく理解することです。
ペテン大作さんみたいに自分で掘った穴に入り込んで、わめき散らし、
威張り、憎悪と無知を垂れ流してもはた迷惑なだけです。

185 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 11:53:16.84 ID:pAADPUvz.net
虎穴に入らずんば虎子を得ず。阿含宗低能批判者は、カルトに入信しても、とくに何も得ず。www

そして深山は、この低級カルトのカラクリに気付いたわけであるが、
馬鹿の中で自分が気付いたことで、安直にも自分を賢いと錯覚してしまった。

そして図に乗ってしまった。 愚かにも、一般人ではなく愚かな人々と自分を比べていることに
気付かず、孫悟空のように有頂天になってしまった。 そこで見つけたのが、この2ちゃんねるです。

カルトの正体を確認する段階で得た仏教知識を披露し、信者側が嫌がっているのを見て、
深山は大きな快感を得た。そもそも低級カルトの揚げ足を取るなんぞは深山でもできるレベルのお遊戯だから、

深山は調子に乗って、初めて自分が優位に立ち、相手を支配し、勝者になったような快感を得た。
それまでの人生ではほとんど味わったことのない支配欲と勝利感です。 その快感が深山の脳に強く刻まれ、

やめられなくなった。脳内麻薬がでる回路ができてしまったからです。 図らずも、この様態はカルトメンバーのそれと「同一」の中毒症状。
深山は、結局のところ、カルトを脱退しても、本質的にはなんら成長でき得なかった。

>62 :神も仏も名無しさん:2014/07/30(水) 21:56:33.81 ID:NeamAxw0
>阿含宗を擁護しようと思ったら荒らしして煙にまくしかありません なぜならばすべて嘘でつくられているものだから

そりゃあそうですよ 阿含宗低能批判者も、すぐ誤魔化し逃げますし。しょうがない奴ってのはいつも同じ有様です。w

>だから>60のような奴をつかって荒らしをおこなうのです。 でもそれはかえって自分の首をしめているようなものですw

自爆は阿含宗低能批判者に似つかわしい。何度も毎度、自爆している。すぐ語るに堕ちる。ww だから黙っていればいいのに。w
でも、黙ることもできない。すべてが中途半端。w

>223 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2014/08/06(水) 22:30:36.33 ID:ucbmWvNH
>>荒らしの相手をするとつけあがりますので、できれば放置でおねがいします。
>211さんの意見に賛成です。 放置しましょう。

無理です。 そんな高等テクニックは阿含宗低能批判者には使えないわけです。w

186 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 11:56:59.79 ID:X6u9iRCA.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

ペテン大作さんは何度説明されても、まったく仏教の解脱を理解できない。
この点だけは信者さんたちも同様なのです。
だから、彼の意味不明の長文はともかく、無理解ぶりを参考にしてほしいのです。
桐山さんと同じで信者さんたちも解脱を瞑想などの技法でやると信じている。
解脱を人工衛星の打ち上げみたいに考えて、ロケットに相当する技法は
何なのかと必死になって探し回る。
何度でも書きますが、釈尊の説く解脱とは人工衛星の打ち上げとは違い、
ロケットに相当する技法も、打ち上げのような派手なシーンも、
軌道に乗って関係者が拍手するシーンもありません。
経典を読めばわかるように、ひたすら地味です。

桐山さんも同様に何か技法で解脱するのだと思い込んでいるから、
阿含経のどこかにチャクラやクンダリニーの覚醒方法が
書いてあるのではないかと必死に探した。
だが、見つからない。
そこで、安那般那念経に呼吸が出てくることを見つけて、
桐山さんはこれを何種類もの呼吸法を説いたと説明した。
爆笑です。
あれは呼吸法を説いたのではなく、「どんな呼吸をする時も」という意味です。
その証拠に、呼吸の名称があるだけで、具体的な内容はありません。
「それは口伝だ」と信者さんたちは言うだろうが、釈尊の口伝が阿含経なのです。
釈尊自ら、隠し事はいっさい無い、内外を問わず教法を説いたと述べているように、
阿含経にあるのが、釈尊の説いたすべてです。
だが、そのどこにも解脱の技法に相当する物はありません。

187 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 12:03:23.36 ID:X6u9iRCA.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

桐山さんは、安那般那念経では呼吸の名称がただ並んでいるだけでは
説得力がないと、そこで出したのが止息経です。
四つの止息法を説いたとして、その名称を並べて見せた。
だが、止息経を見ればわかるように、止息とは息の話ではなく、
「息災」と同じで「止める」という意味です。
つまり、止息経は煩悩を止めるという経典です。
だから、桐山さんは止息経で最高級の呼吸法を説いたなどと書きながら、
その原文は引用していない。
原文を読めば、四つの最高の呼吸法などでないことがばれてしまうからです。

余談だが、ペテン大作さんもそっくり同じゴマカシの手法を使う。
漏尽定で解脱すると阿含経のどこにあるのか、と質問されて、
彼は経典名だけだして、本文は出さなかった。
そんなものないからです。
あるのは彼の勝手な解釈です。
その後で追及されると、「前に答えた」と逃げる。
こういう点だけは桐山さんの汚い手法を良く学んでいる。

桐山さんも阿含経から解脱の技法を探せなかった。
当たり前です。
存在しないのだから、探せるはずがない。
信者さんたちは私のこの説明を納得していないのはわかります。
なにせ、あなた方もペテン大作さんと同じで、桐山さんから四神足などの
特殊な技法によってチャクラを覚醒させて解脱するのだと教えられて、信じている。

188 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 12:08:58.14 ID:X6u9iRCA.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

桐山さんの示した、安那般那念経と止息経という結果をごらんなさい。
解脱の技法を示せなかった。
繰り返すが、安那般那念経には呼吸法なんてないし、止息経にも四つの
呼吸法なんてありません。
桐山さんの恒例の作り話、捏造です。
彼は解脱の技法を阿含経から見つけられなかったから、恒例の捏造に走ったのです。

桐山さんは阿含経から成仏ホウという技法を見つけて解脱したと書いたから、
その技法の記述を阿含経から示す必要に迫られた。
四神足ホウで神通力を得るという話は作れたが、肝心の技法が書いていない。
立宗した後、信者に解脱の技法の臭いだけでもかがせる必要があるのに、
いくら探してもないから、それをようやく出したのは十年近くも後です。
それを八科四十一道品なんて荒唐無稽な話に仕上げた。
だが、彼の出した安那般那念経にも止息経にもそんな技法はありません。
また四神足ホウで神通力を体得するなら、四つの神足と
安那般那念経や止息経とどう関係しているのだ?
あるいは四つの神足と三明六通はどう関係しているのだ?
まったく説明ができない。
存在しない技法をあると信じ込んで、説明しようとしてもできない。
この結果を見れば、阿含経にオシャカの成仏ホウなどという解脱の技法が
あるなんて嘘なのがわかる。

189 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 12:16:56.09 ID:eJcKxGHE.net
「最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、
「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。
この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。
このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。
この真理によって幸せであれ。」
(『ブッダのことば』中村元、44頁)

そろそろ信者さんたちも、特に自力で解脱を目指したい超能力派の人たちは
存在しない技法を探していることに気が付いたらどうか。
桐山さんから解脱の技法を教えてもらえると錯覚して、ずっとついて来た。
中には何十年も付いてきて、まだ桐山さんの解脱の技法という疑似餌に
食いつこうと必死になっている人もいる。
それで何を得たか、鏡をみたらどうか。
何かを得たのではなく、時間、お金、そして善意や釈尊への信仰心まで
桐山さんに貢いで浪費しただけです。
要するに、人生をただ浪費させられた。
今さら、引っ込みがつかないということなのだろうが、
白髪頭を振り乱して、相変わらず焚火をしてエラクなったつもりなのは
かなりミジメなだけでなく、間もなく人生が終わってしまいますよ。

他の信者さんたちにペテン大作さんを鏡として見てほしいのです。
彼は第二禅で「心の安定」とあるから、「心の安定」は解脱ではないと言う。
だが、上記を見てください。
釈尊は心の安定を解脱だと述べている。
ペテン大作さんは釈尊の言葉そのものを否定するほど、頑迷で私が憎い。
この両者の矛盾をペテン大作さんにいくら説いても無駄だが、
彼が何を誤解し、何を理解できないか、他の信者さんたちはわかりますか?
これまでの説明にその答えがあります。
ペテン大作さんは四禅や九次第定という技法で解脱すると信じ込んでいる。
それが事実ならたしかに二禅で解脱しているというのはおかしい。
だが、釈尊は「心の安定」を解脱だと述べている。
釈尊が間違っているのではなく、ペテン大作さんや信者さんたちが間違っているのです。

190 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:21:19.53 ID:dHN3VZcW.net
@深山さんは「三明の前の四禅で釈尊はすでに涅槃を得た」と言ったのです。

>184 :深山
>ペテン大作さんは夜も朝も必死に、スレの主旨とは何の関係もない話を書き続けている。
>その元は、「深山は四禅解脱を主張した」という根拠のない話を証明するためです。
>私は書いていないし、私から証拠を出せと言われて、もちろん彼が示せるはずはない。

何度、同じ事を言わせるのでしょうね?w


>617 :神も仏も名無しさん:2015/09/08(火) 01:11:11.35 ID:SMys/4er
>「四禅で解脱した」という文字そのまんまが書いてないだろということですよね。
>いいでしょう。
>あなたがそこまで否定するなら構いません。

>>56 :神も仏も名無しさん
>四禅で解脱したと言ったのは自分じゃない、釈尊が言ったのだ、と言いたければそれで結構。
>「四禅で解脱したとあなたが言った」とはもう言わないし、言う必要も無い。

>>107 :神も仏も名無しさん
>204 :神も仏も名無しさん:2008/11/23(日) 22:17:43 ID:574E+w79
>三明の前の四禅で釈尊はすでに涅槃を得たと述べているのです。
>私は、あなたのこの言葉をターゲットに決めた。
>だから、あなたが四禅解脱と書いた、と言う必要は無い。

あなたは、四禅解脱を主張したのではなく、
三明の前の四禅で釈尊はすでに涅槃を得たと述べているのです。
と言ったのです。

191 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/13(日) 12:22:26.75 ID:eJcKxGHE.net
「この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。 」
(『ブッダのことば』中村元、44頁)

瞑想法やチャクラ開発という技法で解脱するのではありません。
八正道で解脱するのです。
だから、二禅で八正道を実践すれば解脱です。
食事で八正道を実践すれば解脱です。
四禅の高度の瞑想法の技法を体得しても、八正道を実践しなければ解脱できません。
だから、釈尊はアーラーラ・カーラーマから技法を習い体得したが解脱できなかった。

八正道とはいかなる時も煩悩に囚われないための実践法です。
アビダルマが好きな人は八つであることを重視する人がいるが、
八つは分類や切り口の一つであって、さして深い意味はありません。
だから、十正道があると前に一来補さんが指摘していた。
なんなら、三でもかまわない。
それが三善根です。
なんなら、一つでもかまわない。
道、悟り、涅槃、平安、解脱など何でも良い。
いかなる時も八正道を実践し続けること、それが解脱です。

こういう釈尊の解脱と八正道を理解したら、どうやって死者を成仏させ、
カルマを断ち切るために焚き火ができるのだろう?
八正道とは似ても似つかない、どこにも共通性もない。
柴燈護摩を阿含経にあるシャカの成仏ホウで行うって、
いくらなんでもおかしいと思いませんか。
八正道のどこを見ても、死者成仏、カルマ解脱、霊障解脱、柴燈護摩、
積徳行なんてオカルトが出てくるはずがない。

192 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:32:37.77 ID:pAADPUvz.net
>194 :Rashin:2014/08/06(水) 11:14:19.58 ID:7083b0Kb
>そんな桐山さんが、ブッダの知恵を持つなどあり得ない。

そりゃそうだろ。それを信者に説明して教師先輩面するのが楽しくてしょうがない。 というより他に楽しみは見つけられない。
そもそも、見つける能力も無いし、
カルト教祖のように愛人を囲ったり、優雅なレジャーを楽しむこともできない。(笑) だから、
カルトの稚拙な手口を謎解きし解説し、自己満足するしかない。

カルト元信者とは、いうまでもなく、大抵はこんなカルトにズッポリ心酔してた奴らなのだが、
その時点で愚かだと、彼らは気付かない。 まだまだ自分が一般人レベルだと勘違いしているのだ。(笑)
カルト信者というのは卑しい。そして低能。
卑しくて低能だから、カルトの、罠としての美辞麗句や美味しいご利益話に容易に喰らい付くわけだ。w
こんな簡単な理屈なら、低能でも理解できるだろう。

そんな低能のくせに、批判され言い返せないと、相手に対してそのまま「低能」と罵る。 罵ると言われるのも当然。彼らの言い分には、根拠や論拠が
ぜんぜん無いからである。あるとしても、ガタガタなものだ。
マトモな根拠や論拠を付けられないのである。 何故か。浴びせられる非難が、正当な根拠や論拠で成り立っているからである。(笑)

彼らは、低級カルトを、正当な根拠や論拠で論駁することはできるが、
それは一般には通用しない。 彼らは一般未満だからである。(笑)

カルトで、自らの愚かな心性を満たしていた彼らは、カルトのその手口に気付いて脱却したわけだが、
そもそもの低級心性はもちろん変質していない。 今度は、カルト批判という形で、その自己を「満足」させようとする。
どこまでも卑しいからだ。(笑)

そして成長も出来得ないから、その愚かさを保持したまま、今でもここで、
またその卑しさを満たそうとするのだ。(笑)
その卑しさを突けば、ボロがボロボロ出てくるので、カルト批判者を批判するのは、とても楽なのだ。(笑)

193 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:40:06.11 ID:/bbhslSn.net
真実(ダルマ)に目覚めるということは、
特定の宗教の教議や教えに盲目的に隷属するようなことからは、
もっとも遠いものです(入口出口)。

形式に従い教えのみに隷属する者はニコデモの晩年が示す通りです。

呼吸:吐かなければ吸えない道理
これは「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と同じ理

他人が答えを知っているか?真実の道において知るのは己のみです。

194 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:44:12.03 ID:dHN3VZcW.net
>>189:深山
>ペテン大作さんは四禅や九次第定という技法で解脱すると信じ込んでいる。
>それが事実ならたしかに二禅で解脱しているというのはおかしい。
>だが、釈尊は「心の安定」を解脱だと述べている。
>釈尊が間違っているのではなく、ペテン大作さんや信者さんたちが間違っているのです。

二禅で解脱しないのは、四禅や九次第定で解脱すると信じているからではなくて、
二禅が定(四禅)の途中だからです。
四禅の途中で解脱るわけないだろ?
その二禅に「心が安定」「心の統一」「清浄」という言葉が出てくる。
だからこれらの言葉に解脱の意味はありません。
釈尊が「「心が安定」を解脱だと述べているなんて100パーセント嘘です。
間違っているのは私ではなくあなたです。

195 :一来補:2015/09/13(日) 12:54:29.44 ID:JvG5DEW7.net
深山説はいらないのよ。
深山説は、経典から倫理道徳の部分だけを取り上げて、これが仏教だと主張しているだけよ。
しかし、それは仏教のほんの一部分だけです。
しかも、大した価値のない部分だけです。
そういう倫理道徳の教えは、釈尊以外の数多の
思想家が同じことを説いている。

阿含仏教のさとりは、苦と業と煩悩からの解脱
であることに価値がある、つまり因縁解脱です。岩波仏教辞典の「滅」の説明には、だ

「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地である涅槃は滅」

196 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:59:14.72 ID:dHN3VZcW.net
>>191 :深山
>瞑想法やチャクラ開発という技法で解脱するのではありません。
>八正道で解脱するのです。
>だから、二禅で八正道を実践すれば解脱です。
>四禅の高度の瞑想法の技法を体得しても、八正道を実践しなければ解脱できません。

まるで第二禅や四禅の他に八正道があるみたいに書いているがこれは嘘です。
四禅は八正道の中にある「正定」に当たります。
だから四禅も第二禅も正定の中にある修行です。
嘘を書いて人心を惑わせないでくださいw

197 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:02:18.05 ID:dHN3VZcW.net
>179 :ユビキタス
>そう言えば昔、罵倒明王というハンドルの奴いたな。

言うことはそれだけですか?
悔し涙にくれる指切っ太でした・・・

198 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:02:45.50 ID:58t+T3CW.net
>>166
>その現法涅槃論(五種)というのは、バラモンの考えた現法涅槃でしょう。
>釈尊はバラモンの現法涅槃を斥けたのであって、現法涅槃そのものではない。
>違うというのなら、以下の記述はどう考えるのか?
>
>「ブラフマジャーラ経の現法涅槃論の論点は五種の現法涅槃論が最上であるか否か
>ということであり、それ自体の是非が問われているわけではないと考えるべきであろう。
>批判の対象は、色界四禅など五つの宗教的境地を現世における涅槃の最上と見なすことにある」
>(『ゴータマ・ブッダ考、並川孝儀、大蔵出版、93頁)

あなたは >>72 で並川さんの本の次の内容も載せています。

 「色界四禅の他に無色界の空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処
 を具足して住し、さらに想受滅を具足して住して、慧をもって観察し漏を滅尽すること」
( 『ゴータマ・ブッダ考』並川孝儀、大蔵出版、94頁)

この主張は梵網経のどの頁を読んでの主張なのか? そしてその根拠は?
わたしも梵網経を読んでみたが、探せなかった。
というか、梵網経には並川の文章を肯定するような記述はない。

続く

199 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:04:06.65 ID:58t+T3CW.net
>>198(続)
また今回載せた並川さんの論点も釈尊が言いたい点から相当ずれた主張だと考えます。
それよりも、梵網経を読んでみて解ってきたことがあります。
それはあなたが主張する以下の内容を肯定するものです。

 「釈尊は「比丘が解脱するのは四聖諦の後である」と述べた点。
です。

つまり、「沙門果経」では四禅の後に完全解脱するという主張は正しい。
だから、沙門果経での四禅は完全な解脱の境地ではないということです。
このとは前に >>63 であなたに「八正道」の「正見」を出して質問したが
あなたからの返答はなかった。私の回答はそれに答えるものになるでしょう。

ただ現状、頭の中で整理されていない状況なので少しづつ書いていくことにします。
期待してください。

200 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:05:17.00 ID:/bbhslSn.net
釈迦は出家し真実を知った上で衆生のためと教えを説いたとすれば
私から言わせればそれは気休めにしか過ぎないものなのです。

釈迦の優しさは傲慢の裏返しです。

救いの御技は神と人との間にのみ成せるものと私は理解します。

201 :一来補:2015/09/13(日) 13:11:18.44 ID:JvG5DEW7.net
滅=涅槃=「苦悩が消滅して業のはたらきが停止した悟りの境地」
これが、岩波仏教辞典の説明です。
深山くんは、なぜ苦悩と業を避けて、煩悩の解脱しか言わないのだろうか。
そういうのは子どもでも知っているのにさ。

なぜ苦と業を避けるかと言うと、深山くんは、苦と業の意味が分からないからだろう。
それと、苦と業からの解脱を認めると、桐山師の教法が正しいことになってしまうからであるね。枝葉末節の教えはどうでもよいのです。

阿含仏教が因縁解脱を説いているか否か、
それが一番肝心だろうよ。

202 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:29:20.08 ID:dHN3VZcW.net
@そもそも、パーリ三蔵の原文には「心が安定し」が出てこない。
代わりに「入定した」という意味の単語が出てくる。

234. ‘‘So [puna caparaṃ mahārāja bhikkhu so (ka.)] evaṃ samāhite citte parisuddhe pariyodāte anaṅgaṇe vigatūpakkilese mudubhūte
kammaniye ṭhite āneñjappatte ñāṇadassanāya cittaṃ abhinīharati abhininnāmeti.

訳文                
彼は、そのように入定した、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去った、柔軟な、
行為に適した、住立した、不動を得た心において、智慧による見解に心を向け、転じさせます。

原文にある samāhite は「入定した、定置した」という意味です。
だから、和訳も「そのように入定した」となっている。
どこへ入定したかというと、第四禅へ入定したのです。

「神通を行なうときには、その前に色界の第四禅に入定し出定しなければならないとされる。
この禅は「基礎となる禅」と呼ばれる。
ここの「心が安定し」はその基礎となる禅に入ったことを表現している」

(『原始仏教T』605頁、中村元監修、森祖道、浪花宣明、橋本哲夫、 渡辺研二)

203 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:32:46.32 ID:pAADPUvz.net
>550 :ユビキタス ◆AFU2rOqH7nac :2014/03/11(火) 12:41:17.02 ID:RsWb95AD
>それよりも何よりも自分自身が書いていて面白いと感じるからであり

それはオレが既に何度も指摘してるだろ?
オマエが何年にもわたり異常な執念でここに書き込みをするのは、他では得られない「快感」を、ここで得られるからです。
オマエにとっての最大の目的は、
真理や事実を扱うことではなく、ただ「自らの欲を満たす」具体的には、自らが教授みたいな正義のヒーローとして
認めてもらえる「自己顕示欲」が満たせればいいという「下品な境涯」を得ることです。

しかし、真理や事実を扱わないって、なんかカルト信者みたいですね。カルトを辞めても結局同じなんですねえ。w

そして我欲を満たすためなら、相手が猫を蹴っているとか勝手な「戯言」を述べることも躊躇しない。
また、低級カルトに騙されたというそのレベルの低さから、その洞察も外れまくりなのは言うまでもない。

そもそもの動機が、カルト批判が目的というよりも、ただの老人の自己顕示のための「お遊戯」に過ぎない。

だからこそその発言は浅く、すぐ論破され、論破されても言い返せず、しかしそれでも、ここで得た「麻薬」を味わうために、
だからオマエは何度でもここに戻ってくる。www

しかし、「打てば当たる低級カルトへの低級批判」が面白いって、随分詰まらないレジャーだな。
打てば当たるんじゃスリルが無いだろう。w
では何故そんな詰まらないレジャーを続けるのか。 答えは「それしかできない」からだ。
だから、この老人ホームの砂場に、今日もやってくるわけだ。

そして今日も、この老人ホームの砂場は低能どもで溢れかえる。面白いな〜。ww

で???自分の生活の役に立っていると感じることを年がら年中やり続けることが、自己顕示欲とどのように関連するんですか?
誤魔化さないでくださいね。

自分がマスタベイション野郎だということを認めた点はいいが、
自分の役に立っていると感じることを年がら年中やり続けることが、自己顕示欲とどのように、関連するんですか???
www

204 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 15:37:00.07 ID:58t+T3CW.net
>>199(続)
何から書きましょうか。まず、梵網経を読んでみて解ったことを書きましょう。
>>101でも書きましたが
釈尊は梵網経で「我(アートマン)」と「世界」に関する哲学的見解六十二種(六十二見)を
網羅し、それらの見解を斥けているのです。
当時のインドの思想史を見ると、超越的実存者をブラフマンといい、内存的我をアートマンと
いい、その一体感 「梵我一如」 を会得するのを究極の救済という構造の宗教が主流であった
といわれています。
そして、ここがもっとも重要なところですが、 六十二の学説すべてが、自己を認める立場を
とっているのです。つまり 「我(アートマン)」を認めていることになる。

だが、釈尊の立場は違います。縁起の理法を知ることにより、仏教独特の「無我」に向かって
いるのです。そして最終的には涅槃(煩悩からの解脱によって得られる安楽の境地)を求めます。
ですから、六十二見は我(アートマン)を認め釈尊の仏教は認めず「無我」を説く立場です。

さて、私が梵網経の中の六十二見で説明される常住論や現法涅槃論の内容を読んだ時、ちょっと
以外に感じました。
たとえば常住論の内容ですが、これは釈尊が沙門果経で説いた<慧>の過去世を見る能力である
「死生智」と同じ内容なんです。
また、現法涅槃論には正念や正知、そして四禅まで出てくる。
だが、釈尊はこれらの論も「囚われた見地で涅槃に導かず来世をもたらす」と説いているのです。
一体これはどういうことなのか?

それを解決するヒントが「無我」なのです。

続く

205 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 15:56:52.66 ID:Me2HSeOM.net
ユビキタスさんの風貌はイザワさん似かしら?好みだわ、私の。

206 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 17:04:55.91 ID:58t+T3CW.net
204(続)

ところで、そもそも「四聖諦」とはどんな内容なんでしょうか。
四聖諦の二番目である「集聖諦」を見てみましょう。

【集聖諦】
  比丘たちよ、じつに、<これ>が、苦しみの原因なる、聖なる真理である。
  再生をもたらし、喜びと貪りをともない、あちこちで歓喜に満たされる渇愛である。
  これは次のようなものである。欲の渇愛と有(生存)の渇愛と無有(生存のないこと)の渇愛である。
  (http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/tathagata.html

一番目の「苦聖諦」で釈尊は「五取蘊は、苦しみである」と説かれ、
二番目の 「集聖諦」では、その「五取蘊=苦」を作り出す原因が「渇愛」であり
その「渇愛」が再生(後有)をもたらす原因でもあると説かれた。
さらに、その「渇愛」の働きを三つの側面から説明されているのです。

続く

207 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 17:09:16.92 ID:58t+T3CW.net
>>206(続)

この構図では
渇愛は、「欲の渇愛」・「有の渇愛」・「無有の渇愛」 という三つの側面で成り立ち、
この三つは、「貪・瞋・痴」という根本煩悩と結びついています。

1. 欲の渇愛  = 五官への好ましい感覚 をより強く・多く欲する   → 貪り
2. 無有の渇愛 = (不快なものを) 排除・破壊したいと欲する     → 怒り
3. 有の渇愛  = 存在し続けたいと欲する (依処を探してすがりつく) → 愚痴

さらに、これらは「三つの感受(苦受・楽受・不苦不楽受)」と 連動して生起します。

1. 苦受     …  怒りの煩悩が潜在し、生起する  →   虚無への渇愛と結びつく
2. 楽受     …  貪りの煩悩が潜在し、生起する  →   欲望への渇愛と結びつく
3. 不苦不楽受  …  愚痴の煩悩が潜在し、生起する  →   生存への渇愛と結びつく

そして、これら三つの感受(苦受・楽受・不苦不楽受)と四禅定は深い関係があるのです。

続く

208 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 18:41:14.93 ID:dHN3VZcW.net
>>198
>あなたは >>72 で並川さんの本の次の内容も載せています。

>「色界四禅の他に無色界の空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処
> を具足して住し、さらに想受滅を具足して住して、慧をもって観察し漏を滅尽すること」
>( 『ゴータマ・ブッダ考』並川孝儀、大蔵出版、94頁)

>この主張は梵網経のどの頁を読んでの主張なのか? そしてその根拠は?
>わたしも梵網経を読んでみたが、探せなかった。

>>72で引用した「色界四禅の他に…」の文章は、梵網経ではなくAṅguttara Nikāya(増支部)でした。
註に書いてあるのを見落としました。手間を取らせて済みません。訂正します。

仏教が、バラモンの現法涅槃論を批判している理由は、
ブラフマジャーラ経の現法涅槃論を見ると、現法涅槃の是非ではなくて、
バラモンが色界四禅などの五つの境地を現世の涅槃の最上としていることにある。
その根拠を示す資料として、アングッタラ・ニカーヤ(増支部)では
現世における涅槃の中で最勝のものは、
「六つの接触の処の生起と消滅と楽味と障害と出離とを如実に知って、
執著することなく、解脱したことである」と説く資料と、
「色界四禅の他に無色界の空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処
を具足して住し、さらに想受滅を具足して住して、慧をもって観察し漏を滅尽すること」
と説く資料がある。
こういう話になります。
『ゴータマ・ブッダ考、並川孝儀、大蔵出版、93、94頁より)

209 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 19:34:30.05 ID:58t+T3CW.net
>>207(続)

釈尊が説く煩悩は「貪・愼・痴」という三つの煩悩に分類でき、
これらは、三受(苦受・楽受・不苦不楽受)と深く関係しています。

苦受に「愼」、楽受に「貪」不苦不楽受に「痴」が、それぞれ潜在しているのです。
そして、これらにアプローチしている瞑想法が、「四禅定」です。

ところで、第四禅定で、苦もなく楽もない「不苦不楽受」に達して住むと説かれていますが、これはいったい
どんな状態なんでしょうか?
実はこれは「非想非非想処」と同じ状態だという研究者もいます。
そして、「不苦不楽受」は「痴」の煩悩がまだ残っている状態なんです。
これを消滅しなければ完全解脱といえないのです。

あらためて、痴(愚痴)の煩悩とは何でしょう?
これは調べてみれば解りますが、「無我」などの真実を理解納得できぬ<こころ>の働きなのです。
ですから、バラモン達も四禅を説くが、この「痴」の煩悩が消滅していないのです。

ここで、>>204 の梵網経の話に戻しましょう。
彼らバラモンも現法涅槃論で四禅を説くが、我を認めているので「痴」の煩悩が消滅していない。
だから、釈尊はこれらの論も「囚われた見地で涅槃に導かず来世をもたらす」と説かれた訳です。

続く

210 :釈迢空:2015/09/13(日) 20:46:45.33 ID:w/DciK8x.net
>>180

むすひ

211 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 20:57:20.06 ID:PN2A+gre.net
>>209 論の立て方は参考になりますね。
  但し是って釈迦如来の実際の説法と無関係でしょう。
  後世の教義学者が文章化されたアゴンのお経を元に作ったものです。
 大乗起信論で言う如実知自心の方がまだしも?かもしれませんよ。
 

212 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 21:34:37.90 ID:58t+T3CW.net
>>209(続)

「不苦不楽」の境地は、「苦を滅した」境地 であると勘違いされやすく、その誤解が真の解脱への
最大の妨げとなるのです。
最後の 四禅定 の中には、痴(愚痴)という最強の固執が内在しているのです。
それを破るのが<慧>の中で最高の智慧だと釈尊が説いた「漏尽智」であり「四聖諦」を知って
「貪・愼・痴」という三つの煩悩から完全に解脱したのです。

ですから、実際の修行道である「八正道」では最初に「 正見 (漏尽智) 」と「正思」という
「慧 ( 慧 → 戒 → 定 ) 」 の 修行 が置かれているのです。

213 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/13(日) 21:34:42.35 ID:Xh1RZhiP.net
>>197
はい、それだけです。
特に意味などありません。
今日は余暇に費やした日なので最初からこちらに参加する気ありませんでした。
野球観戦中、ちょいと遊びで書いてみただけで議論する気なし。
だから悔し涙なんて言われても・・・
そちらこそ悔し涙に明け暮れてばかりいないで、何か趣味を持って楽しみなさい。

214 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 21:51:01.33 ID:RN0L3eyO.net
>>201阿含仏教が解脱を説いているか否か、それが一番肝心だろうよ。

違うよね。阿含宗が因縁解脱を説いているけど、本当に因縁解脱できるか
どうかが一番肝心だよね。
管長の桐山は「脳障害の因縁」をはじめ、色々な因縁が切れていないよね。
副管長のたち夫人も「ガンの因縁」が切れなくてガン死しましたよね。
管長や副管長の因縁が切れないのに弟子の因縁など切れる道理がない。
ならば阿含宗をやる意味ないよね。

215 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/13(日) 22:00:23.62 ID:Xh1RZhiP.net
んで今日は、鹿沼市営球場に行った後、鹿沼市奥地の古峰原(こぶがはら)の古峯(ふるみね)神社に行ったわけよ。
ここは天狗信仰の修験の霊地で、一度行ってみたいと思ってた。
そして車を乗り進めていると、古峰原に行く途中の道に「オウム真理教(アレフ)潜入反対」の看板が。いまどきも。
苦笑しましたね。彼らオウムの残党も古峰原のような古刹の霊地を狙っている。
やはり私の嗜好とも共通、同根なものがあったのであり、まだ残っているのかもしれないと。
霊地と言ってもなあ・・・別になんの霊気だか知らんが、そんなものは感じないよ。
普通にお詣りした。門前の土産物屋の前の駐車場に停めると、買い物してけと
言われることを恐れて、広い誰も停めてない無料古峯神社専用駐車場に停めた。
古峯園(こぼうえん)という人工の庭があったが、300円の入園料とるからやめた。興味ない。
出した金は本殿でのお賽銭だけ。
門前で土産物屋買わず何も食わず。
御利益あるや否やwww
それでも今日は自分自身に拒みを入れることなく、その時一瞬だけ、久々に堂々と御利益信仰を祈ろうと思った。
母のことをよろしくお願いします。兄一家のこともよろしくお願いします。私のことも。と。
まあ一刻のみの祈りでどこかの宗教教団みたいに、願い叶えたくば何人お導きせよとか
本気に煽られるようなことはない。
考えてみたら、古峯神社などを霊地と憧れているのですらなかった。
あの神社の山上の古峰原高原に憧れていたのだ。
山道登り、開けたところに出ると日光連山が美しい。
しかしそんな景観ですら上祐とかアレフの連中は霊気オカルトにしてしまうのだろうな。
山岳修験とアルピニズムとどちらが自分に合っているだろう?と考えた。
やはり宗教色、信仰色抜いた純粋な登山こそが俺向きだ。
深田久弥の日本百名山にも、信仰の山、信仰のモニュメントばかりある白装束の山は
俗化と表現していたなあ。
俺も俗化されてない山がいい。

216 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 23:21:54.66 ID:pAADPUvz.net
>何か趣味を持って楽しみなさい。

上からものを言えるのは ココくらいなんだよな。w

217 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 00:39:10.01 ID:Vyz7qTNP.net
>>213 :ユビキタス
>野球観戦中、ちょいと遊びで書いてみただけで議論する気なし。

こういうところ、カワユイわぁ
一晩ぐっすり寝て、また遊びにいらっしゃい
僕ちゃん

218 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 00:46:16.99 ID:Vyz7qTNP.net
>>211
>但し是って釈迦如来の実際の説法と無関係でしょう。

それって筋違いだよね。
今は経典の解釈を議論しているのであって
実際の説法についての議論ではない。
解釈の間違いを指摘されたことへの負け惜しみですよ。

219 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 00:51:02.40 ID:Vyz7qTNP.net
>>212
>最後の 四禅定 の中には、痴(愚痴)という最強の固執が内在しているのです。
>それを破るのが<慧>の中で最高の智慧だと釈尊が説いた「漏尽智」であり「四聖諦」を知って
>「貪・愼・痴」という三つの煩悩から完全に解脱したのです。

wonderful!!!

220 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/14(月) 07:49:00.57 ID:GkDyFtrH.net
>>219
おや?>>212さんのここ↓は無視?

ですから、実際の修行道である「八正道」では最初に「 正見 (漏尽智) 」と「正思」という
「慧 ( 慧 → 戒 → 定 ) 」 の 修行 が置かれているのです。

221 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 07:50:31.64 ID:Lrsuc5NJ.net
 
深山の安らぐ神社   http://ameblo.jp/huzinomiya/entry-11881343811.html

222 :一来補:2015/09/14(月) 08:36:34.51 ID:yLiQXba+.net
阿含仏教が因縁解脱を説いているか否かが、肝心なのです。そして、仏教学者の見解は、阿含経は因縁解脱を説いている、なのです。
仏教学者の見解は、仏教辞典だからです。
だから我は、仏教辞典から提示しています。
深山くんは、反桐山説のために八正道を強調す
る。今更何を寝ぼけるのか。

桐山師は、修行の第一歩は我見を無くすことだ、と説いているだろう。我見を無くすとは正見の修行なのですよ。我見を無くすほどに正見が確立されていくわけですよ。
我見には大きく分けて二つの意味があるね。
一つはアートマンの見解。
無常、縁起の法を理解してアートマンのないことを理解しないといけない。
それは、正見の修行だね。
我見の二つめは省略する。

223 :ユビキタス ◆6fhvHCxDJ3Ru :2015/09/14(月) 08:46:15.76 ID:GkDyFtrH.net
>>201 一来補 2015/09/13(日) 13:11:18.44 ID:JvG5DEW7
>深山くんは、なぜ苦悩と業を避けて、煩悩の解脱しか言わないのだろうか。

苦悩の問題も業の問題も避けていません。
業の問題は、そもそもインドにおいては運命的なニュアンスも濃かった業を
単に「行為」とし、その影響も含めて行為論として、運命色を払拭したのは仏教の常識です。
自らの行為の問題を煩悩とともに観察し、悪い行いを断つ。
苦悩の問題は、煩悩を抱えていることそのものが苦悩だからです。
それがわからないと何を語っても無駄です。
ペテン大作さんがいい例で、学者の説いた抽象的な言葉の字面だけでしか誤解できず
机上の空論に陥っている。
抽象的な用語など駆使しても、その実何もわからないくせにわかったような錯覚に
陥るだけです。常に具体的な問題として自分の言葉として語れるようでなければなりません。
苦悩については釈尊は四苦八苦を説いていますよね。この四苦八苦の用語ではなく内容を考えて
ではその四苦八苦はどのようにして解決するのか考えることです。
例えば老苦です。老いて身体や頭の働きも弱るのは苦悩です。
この苦悩に対して、それでは永遠の若さを保つ秘法を教えて進ぜようというのが老苦の解決ですか?
愛別離苦の解決とは、愛する人や物は永遠に自分のそばにあり離れることはないように
魔法をかけることですか?
求不得苦の解決とは求めて得られぬものはなくどんな欲求でも満たせてしまえることですか?
実は桐山さんも四苦八苦の解説は正しいのだが、肝心の解決の道となると
これに近いたわけたことを説いているのです。
この不当な欲求は愚痴や貪り、外側のことに関して思うようにならないことに対する怒りなどの
煩悩が基本であり、煩悩をなくさないと苦悩のままです。
しかし煩悩をなくしても老そのものは残り、別離は依然としてある。
茨城県常総市や宮城県大崎市などの被害は、外側に関することだが、大変な苦痛であり
苦労でありましょう。
しかしそれを必要以上の苦悩にしないようにするのは自己コントロールであり、
煩悩との対処です。苦痛や苦労は依然としてあります。

224 :一来補:2015/09/14(月) 11:20:05.48 ID:yLiQXba+.net
深山ユビキタス説は、経典から倫理道徳の部分だけを取り上げて、これが仏教だと主張しているに過ぎない。それは仏教の一面だけです。
学者の見解をまとめた仏教辞典は、経典すべての中から、主要な部分を集約したものです。
辞典は、経典すべてではないが、主要なところは網羅しているわけです。
深山ユビキタス説は、部分だけのものです。

岩波仏教辞典のさとり=涅槃、の説明は、
1煩悩 2苦 3業 4輪廻 5縁起 
の五つからの解脱ということです。
深山ユビキタス説は、この中から煩悩だけを取り上げている。つまり、欠陥論です。
煩悩だけの解脱は大乗仏教のさとりです。阿含経から言ったら小解脱に過ぎないのです。

岩波仏教辞典の「煩悩」の語の説明には、
「・・煩悩の束縛を脱して真実の認識を得ることが大乗仏教の求めるさとり・・」
と、あります。
阿含仏教のさとりは、これだけでは不十分なのです。

225 :一来補:2015/09/14(月) 11:41:41.39 ID:yLiQXba+.net
ユビキタスくんは、煩悩を抱えていること
が苦悩だと主張しているが、釈尊の説明は
違います。煩悩と苦悩の違いは、岩波仏教
辞典の「業感」の語の説明にあります。

業感の説明には、十二因縁のうち、
1無明7受9取 が惑(煩悩)であり、
2行 10有 が業であり、残りの七つが
苦であると説明しています。
このように、煩悩と苦は明確に違うのです。
これは釈尊が説いていることです。

ユビキタス説は、我見による自己流解釈で
あり、間違いです。我の説は、仏教辞典を
そのまま出したので、自己流ではないのです。

226 :一来補:2015/09/14(月) 11:56:22.24 ID:yLiQXba+.net
例えば、阿含経に「業縁往来五道」とあり、
これは業に応じて五道を往来する、という
意味であるから、地獄餓鬼畜生道から逃れ
るためには業を断つしかありません。
煩悩ではないのです。
業を断つために、煩悩を無くすのです。
それが釈尊の教えです。

227 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:00:57.67 ID:o6Z4vQUZ.net
>>194 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:44:12.03 ID:dHN3VZcW
>釈尊が「「心が安定」を解脱だと述べているなんて100パーセント嘘です。

ペテン大作さんて、釈尊よりもエライらしい。
次の釈尊本人が述べた言葉が「100パーセント嘘」だそうです。

「最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、
「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。
この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。
このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。
この真理によって幸せであれ。」(『ブッダのことば』中村元、44頁)

普通の読解では、「心の安定」とは、「さとり」「すぐれた宝」であり、
これに「等しい者はほかに存在しない」というのだから、
仏教の最高の境地、つまり解脱、涅槃を表すとみなす。
なにせ釈尊本人がそのように述べているのですから議論の余地がない。
だが、偉大なるペテン大作様はこれを解脱とみなさず、
釈尊のこの言葉は「100パーセント嘘」だという!!

>>202 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 13:29:20.08 ID:dHN3VZcW
>@そもそも、パーリ三蔵の原文には「心が安定し」が出てこない。
>代わりに「入定した」という意味の単語が出てくる。

『ブッダのことば』はパーリ仏典の原文から中村博士が訳した文章です。
大学者の訳が間違いだと言いたいらしい。
ペテン大作先生はついに中村博士さえも超越したらしい。
どれほどオエライ方なのだろう。

228 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:06:10.92 ID:o6Z4vQUZ.net
>>172 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 02:47:59.68 ID:dHN3VZcW
>@私や仏教学者ではなく釈尊が述べているのです。

阿含経のどこに、漏尽定で解脱した、九次第定で解脱するとあるのですか?
あなたは前に経典名は示したが、「九次第定の漏尽定で解脱する」という
釈尊本人の文言は出したことがない。
それでいて釈尊本人の言葉をあなたは否定する。
批判側は釈尊本人が「心の安定」を解脱だと述べている文章を引用した。
だが、あなたはこれを否定して、下記の学者たちの訳を無視して、
パーリ仏典の原典にはないとまで書く。

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

片山一良 訳 パーリ仏典 長部 戒蘊篇T(P220〜P233)
「このようにして、心が、安定し、清浄となり、純白となり、汚れなく、付随煩悩を離れ、柔軟になり、
行動に適し、確固不動のものになると、」 (>>55)

増谷文雄 訳 阿含経典3 筑摩書房 (P276〜P288)
「かくのごとく、心清浄にして、煩悩すでになく、煩悩の枝末をも遠離して、心身柔軟、いつでも活動できる状態にあり、
しかも、安らかに住して不動の状態にある時、」(>>55)

「心の安定」にだけ着目して反論しているのはペテン大作さんであって私ではない。
私は上記の文章はすべて解脱を表していると述べているのです。
しかし、心の安定という言葉にこだわるなら、さらに別な例を上げましょう。
阿含経は「心の安定」だらけです。

229 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:11:39.52 ID:o6Z4vQUZ.net
「わたしの庵はよく葺かれ、風も入らず、快適である。天の神よ、思うがままに、雨を降ら
せ。わたしの心はよく安定し、解脱している。わたしは努力をつづけている。天の神よ、雨
を降らせ。」(『仏弟子の告白』中村元、8頁)
「〔屍体を遺棄する〕寒林におもむいた修行符は、ひとりいて、満足し、心を安定させている勝
利者であり、身の毛のよだつことも無く、身体について専念しつづけている剛毅な人である。」(『仏弟子の告白』中村元、9頁)
「知慧のカあり、戒しめと誓いを身に具現し、心が安定し、瞑想を楽しみ、落ち着いて気を
つけていって、適当な食物を食する人は、食りを離れて、この世で死ぬ時を待つべきである。」(『仏弟子の告白』中村元、11頁)
「みずからを制することなく、うろつき廻りながら、種々の国々におもむく。もしも心の安
定を失っているならば、国々を歩き廻るのに何の用があろうか。それ故に倣慢を抑えて、心
が乱されることなく、瞑想せよ。」(『仏弟子の告白』中村元、18頁)
「信の心をもって、わたしは家を出て、家無き(修行者の境地)におもむいた。わが正しい念
いと知慧とは増大した。わが心はよく安定している。〔悪魔よ。〕いろいろの形を現わすがよ
ぃ。しかしわたしを悩ますことはできないであろう。」
「地は雨水を濯がれ、風は吹き、雷の電光は空を駈ける。(しかし)わが省察作用は静まり、
わが心はよく安定している。」(『仏弟子の告白』中村元、22頁)
「麗しいメロディで(空の)神は雨を降らす。わが庵は屋根を葺かれ、風を防ぎ、快適である。
そうして、わが心はよく安定している。さあ、(空の)神よ。もしも欲するならば、雨を降ら
せ。」(『仏弟子の告白』中村元、23頁)

230 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:18:05.90 ID:vOGBjOdA.net
「わが心はよく安定している」

ペテン大作さん以外の信者さんたちは>>229をごらんになっていかがですか?
『仏弟子の告白』の本文は230頁ほどで、その最初の23頁、つまり一割
ほどの経典の中に、これだけ「心の安定」があるのですから、
全体ではどれほどあるか想像がつくでしょう。
これらの言葉を残した長老とは、全員が解脱者、ブッダです。
これらは解脱した境地を表現している。
「心の安定」が解脱の境地を表していることはあまりに明瞭です。
そこでもう一度、沙門果経の下記の表記を見てください。

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

>>229の長老たちの表現と同じであり、これが解脱を表すことは疑いの余地もない。
阿含経を読んでいる人なら嫌でも目につくから、これを解脱と見なさいほうが不思議です。
「心の安定」がポツンと出ているなら一般的な意味である可能性も出てくるが、
沙門果経では「心の安定」「清浄で純潔」「汚れなく」「小さな煩悩も離れ」
と繰り返している。
これが同じ一つの内容を繰り返し説明していることはおわかりでしょう。
そのどの一つをとっても、阿含経ではしばしば解脱を表す言葉です。
それを四回繰り返している。

231 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:23:30.85 ID:vOGBjOdA.net
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

阿含経ではよく同じ内容を別な表現で繰り返すことは信者さんたちも
知っているはずです。
応説経の「結 縛 使 煩悩 纏」を五種類の別々の何かであるとは見なさい。
これは煩悩を五回別な表現で繰り返して強調しただけです。
沙門果経でも「心の安定」「清浄で純潔」「汚れなく」「小さな煩悩も離れ」と
四回同じ内容を繰り返したのです。
阿含経を読んでいれば、「心の安定」という最初の言葉だけでも解脱だとわかる。
煩悩に囚われないから心が安定し、煩悩がないから清浄で純潔で汚れがない。
ダメ押しに「小さな煩悩も離れ」と解脱の定義そのものが出てくる。
上記の文言は前から読んでも、後ろから読んでも解脱を意味している。
釈尊が四禅の説明で上記のように述べているなら、この段階で
解脱していると普通はみなします。
ところが、お偉いペテン大作先生様はこれだけ何度も繰り返されても、
これを解脱とみなさないという。

ペテン大作先生は釈尊の説得にも応じないし、何をどう解釈しようが
個人の自由だが、ここは解脱や四禅の議論スレではないから、
やめてくれと言っても止めない。
スレの主旨に沿ってアゴン宗の議論をするように勧めてもしない。
仏教をあれこれ論じる前に社会常識を学ぶべきです。

232 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/14(月) 12:27:54.81 ID:vOGBjOdA.net
>>190 :神も仏も名無しさん:2015/09/13(日) 12:21:19.53 ID:dHN3VZcW
>あなたは、四禅解脱を主張したのではなく、
>三明の前の四禅で釈尊はすでに涅槃を得たと述べているのです。
>と言ったのです。

>576 :神も仏も名無しさん:2015/09/07(月) 00:48:17.31 ID:NTTxSMEs
>深山さんは、四禅で解脱していると書いた。
>そして、三明で解脱を確認したと言ったのです。

つい一週間前までは、私が「四禅で解脱していると書いた」(576)と主張しながら、
そんなことはないと指摘されると、今度は口を拭って、
「四禅解脱を主張したのではなく」(190)などと書き始める。
それであなたは576で書いた間違いをいつ認めて、いつ撤回し、
私への七年にわたる無礼をわびたのだ?
私もペテン大作さんの文章は斜め読みか読まないので、読み飛ばしたのかもしれない。
ぜひ、それをここにもう一度書いてください。

233 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 12:30:58.33 ID:Vyz7qTNP.net
@深山はピエロ!!!

>>227>>231:深山

だから、その「心の安定」は沙門果経の原文には無かったの。

>>202
234. ‘‘So [puna caparaṃ mahārāja bhikkhu so (ka.)] evaṃ samāhite citte parisuddhe pariyodāte anaṅgaṇe vigatūpakkilese mudubhūte
kammaniye ṭhite āneñjappatte ñāṇadassanāya cittaṃ abhinīharati abhininnāmeti.

訳文                
彼は、そのように入定した、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去った、柔軟な、
行為に適した、住立した、不動を得た心において、智慧による見解に心を向け、転じさせます。


存在しないものにしがみ付くお前はピエロだよ。
社会常識を学ぶべきなのはお前の方だ。

234 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 12:31:20.66 ID:RSgJwIWG.net
君たち平和だねー。
世間が戦争法案で揺れているというのに。

自分のための解脱ですか?

235 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 13:07:35.32 ID:Vyz7qTNP.net
>>232 :深山

>つい一週間前までは、私が「四禅で解脱していると書いた」(576)と主張しながら、
>そんなことはないと指摘されると、今度は口を拭って、
>「四禅解脱を主張したのではなく」(190)などと書き始める。
>それであなたは576で書いた間違いをいつ認めて、いつ撤回し、
>私への七年にわたる無礼をわびたのだ?

「三明前の四禅で解脱したと釈尊は述べている」
あなたはこう書いた。
だが、釈尊は経典ではそのようなことは一言も述べていない。
これ即ち、あなたが釈尊の言葉を自分勝手に翻訳し、他人に示したことに他ならない。
つまり、あなたの主張は誰がどう見ても四禅解脱なんだよ。
正確に言えば「四禅で解脱する」だ。
しかし、あなたは自分(深山)がどこで四禅解脱を主張したのか示せと言い続ける。
「深山は四禅解脱を主張した」という文字がどこにあるか示せという意味だ。
あなたは小学校低学年レベルの言い訳をしているのだ。
私としては、こういう低レベルの言い訳を相手にするのにウンザリしたので、
そんなに言うなら、今後は「深山は四禅解脱を主張した」とは言わないよ、と言っただけで、
今でも、あなたの主張が四禅解脱であると信じている。
だから576を撤回するつもりも詫びるつもりもない。
あなたこそ、七年間も「四禅で解脱する」などと嘘を書き続け、
私を侮辱した非礼を詫びるべきだ。

236 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 16:26:39.36 ID:WtjFxq3Z.net
ある大統領がね 世界一速いボルグに聞いたんだっち
アスリートってどないなメリットがあるんかねとな
ボルグは言った アスリートは誰でん成れるっチャ
んだが一応は 小中大のトレーニングメニューが
あるっち 他の6道法じゃダメなんだぎゃ
さらにボルグは言うがや 勝者は相手に目もくれずに
第一コーナーから第四コーナーへ颯爽と突き抜けれるんや
これって得も言えん勝者アスリートのメリットなんじゃい
はたからも解るじゃろが
そんでもってオレッチは勝者だとの確認をするっちゃ
順位パネルを見て他に誰もオレッチを超えたものがいない
そうなった時のオレッチは もう昨日のオレじゃなく
古いタイムをかなぐり捨てた新たなオレっちゅうもんを
見い出したっちゃ んでオレは再生録画を見るっチャよ
周りをも見る余裕で優勝を果たしたんがや解るべや
世界一最高タイムを出しそれを知れるんや
記録を達成したと知れてこれが最高タイムだと
確認でき そん時はもう世界一位になったと解るんじゃい

んで勝者として確立し今のアスリートのやるべきことを終えた
オレッチはレースの終了を認識し再来レースはないと知るんや

ここで外野が言う おいおいボルグよ優勝は順位パネルで
一位になったんがか それんとも第四コーナーでかよ
   バアかもんが
   おどれ カバチ垂れな
オレッチは優勝ほどええもんはないっつうアスリートの
果報を説明しとるんだってえの

237 :一来補:2015/09/14(月) 16:56:03.83 ID:yLiQXba+.net
四禅を会得しても完全な涅槃ではないよ。
釈尊は、四禅を涅槃に至る途中経過として説いているでしょう。
例えば、遊行経には無余涅槃へ入る釈尊の様子が書かれています。

釈尊は初禅から進んで四禅へ進み、四禅を出てから八解脱のうちの虚空の瞑想=第4解脱に入り、第5、第6、第7、第8解脱の滅尽定へ進み、今度は8、7、6、と瞑想を下ってから再度初禅に入り、四禅に進み、四禅を出てから完全な涅槃に入ったと説かれています。

だから四禅を体得しても、小解脱ですね。
四禅から更に進むと天耳通が生じると、経典にあります。更に進むと他心通です。更に進むと・・・で、最終的に漏尽智を得て大解脱です。

238 :一来補:2015/09/14(月) 17:31:24.56 ID:yLiQXba+.net
四禅についての学者の見解、岩波仏教辞典の「四禅」の説明には、「色界の4種の禅定、四静慮ともいう」とあり、無色界より下の世界の禅定としています。
四禅で到達した世界が四禅天なそうです。

天ですから六道の最高峰ですが、輪廻の対象です。よって、四禅を体得しても仏陀ではないですね。それが学者の見解です。

239 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 18:16:19.99 ID:aJ0REzcP.net
>>238 桐山師、深山センセー、一来補。諸氏が述べてない事にお伺い。
   修行の結果、仏陀に成ろうか?として誰がソレを認定するのか?
 237は最終的には無明を断じて云々。と言うのがお答えなのですが兎も角。
 菩提を何方が認定するのでしょうか?

240 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 19:27:59.43 ID:RSgJwIWG.net
>>239
まるで分かっていない人の質問です。
本末転倒虫君は直ちに仏教界から足を洗いなさい。

241 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 21:37:54.54 ID:aJ0REzcP.net
>>240 そうでは無いものですよ、一生懸命やっても効果が無い宗派の
 修行みたいな遣り方にしがみ付き空しく過ごす僧侶が殆どではありませんか。
 

242 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 22:55:57.50 ID:Vyz7qTNP.net
>>19の改訂版
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@釈尊は四禅で涅槃を得たとは述べていない。

204 :神も仏も名無しさん:2008/11/23(日) 22:17:43 ID:574E+w79
桐山さんが引用していないから、>114では引用しなかったが、
三明の前の四禅で釈尊はすでに涅槃を得たと述べているのです。
595 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/08/18(火) 12:01:15.78 ID:G87+va53
二行の文章を見ればわかるように、経典では釈尊が四禅の説明をしている段階で、
涅槃を得たと述べている、と書いているのです。
456 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/03(木) 12:33:03.61 ID:yfY0wPQn
「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)
という文言の「心が安定」「清浄で純潔」「汚れなく」「小さな煩悩も離れ」
とは、解脱を表現を変えて繰り返していると理解できるようになります。

■「釈尊は四禅で涅槃を得た」が間違いである理由。

1.経典には「比丘は四聖諦を知った後に解脱する」と書かれていること。

【沙門果経】
『そのように知り、そのように見るものには、欲の漏から心が解脱し、また有の漏から心が解脱し、
また無明の漏から心が解脱し、解脱したときに「解脱した」という智が生じます』

諸漏(欲の漏・有の漏・無明の漏)から心が解脱したので心解脱。四聖諦を知ることで無明が捨断されたので慧解脱。
比丘は四聖諦を知った後、心解脱・慧解脱したことになる。

『Nikayaにおける止観の研究 一
止観と心解脱・慧脱を中心として一』6〜8頁
(ttp://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1203/1/r-bk-np_015_006.pdf)

243 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 22:58:31.39 ID:Vyz7qTNP.net
>>242の続き

2.「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」は、解脱ではなく「第四禅に入定した」こと。

「心が安定し」の箇所は、パーリ仏典では「samāhite」であり、これは「入定した」「定置した」の意味である。

234. ‘‘So [puna caparaṃ mahārāja bhikkhu so (ka.)] evaṃ samāhite citte parisuddhe pariyodāte anaṅgaṇe
vigatūpakkilese mudubhūte kammaniye ṭhite āneñjappatte ñāṇadassanāya cittaṃ abhinīharati abhininnāmeti.              
訳文
彼は、そのように入定した、清浄の、清白の、無穢の、随煩悩を去った、柔軟な、
行為に適した、住立した、不動を得た心において、智慧による見解に心を向け、転じさせます。
『光明寺経蔵』(ttp://komyojikyozo.web.fc2.com/dnskv/dn02/dn02c21.htm)
       
「神通を行なうには、その前に色界の第四禅に入定し出定しなければならないとされ、
この禅は「基礎となる禅」(pādakajjhāna)と呼ばれる。
「心が安定し」はその基礎となる禅に入ったことを表現している」
(『原始仏典〈第1巻〉長部経典1』605頁、春秋社、中村元監修)

「入定した」とは、基礎となる禅(第四禅)に入ったことであり、比丘はそこで智慧による観察を行う。
「心が安定し」の文言は、比丘が第四禅に入定したことを表現したものであり、解脱ではない。

3.原始仏教では、四禅より高い境地が考えられていたこと。

「梵網経」の中で、釈尊は「最上の涅槃としてバラモンなどが主張する色界四禅など五種の宗教的境地」を批判した。
また、長阿含経の「布吒婆楼経」(ポッタパーダ経)や「増支部経典」では、釈尊は、色界四禅を超えた無色界や想受滅を説いている。

244 :神も仏も名無しさん:2015/09/14(月) 23:23:55.20 ID:ir7+Y+xC.net
>釈尊は、色界四禅を超えた無色界や想受滅を説いている

どうなのかねぇ〜?
それに関してスマナサーラ長老は無色界は観察のしようがなくできないと説いている。
2500年の間に改編されてたりしてね。

無色界定は色も受も想も行も識も無い境涯だからね無い無い滅の観察しかでけへんからね

無色界定から覚めれば識が起き行が起き受が起き色が起き有り在りを観察し
無も有も(欲界を含めて三界)、どちらの捉われも離れて、ありのままを観る、はい、それだけ。

そんだけと。

245 :神も仏も名無しさん:2015/09/15(火) 07:50:29.02 ID:Rpp5MonY.net
 
深山ぶっかけそば   http://blogs.yahoo.co.jp/atlordiah_2/7104936.html

246 :一来補:2015/09/15(火) 09:35:13.08 ID:FDXPCwKU.net
レス239

仏陀に成れたかどうか?
それを認定するのは己自身ですよ。
釈尊にしても、仏陀を自称し、宣言し、やがて人々もそれを認めた。

因縁が切れたかどうかを認定するのも、基本的には己自身でなければならない。
己自身の因縁を知らずして、他人の因縁が切れたかどうかなど分かるわけがない。
よって、己自身を知らねば、修行が進んだことにはならない。
ゆえに、仏陀に成れたかどうかを最初に認定するのは己自身です。

247 :一来補:2015/09/15(火) 11:09:42.12 ID:FDXPCwKU.net
テーラワーダの瞑想法は、釈尊の瞑想法の一部に過ぎないですね。
あれが釈尊の教えのすべてだと思うのは、大間違いでしょう。阿含経に書いてあることと、だいぶ違うからね。

248 :深山と愉快な仲間たち:2015/09/15(火) 11:33:48.42 ID:67PIbDlX.net
>>239
>>246:仏陀に成れたかどうか?

阿含宗では、和田、桐山氏の認可が絶対必須です。
それなくしてブッタを名乗ったり、因縁解脱したなど
心に思うだけでもキチガイで、自己判断が一番危険です。
と、以前、法務部の上クラスの方が言っていました。

桐山氏だけは、前世の徳がトラック10台くらいあった
特異体質だったので師なくして因縁解脱できたと、
自己申請していますがw

249 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/15(火) 12:02:22.40 ID:uf/TItkw.net
>>237 :一来補:2015/09/14(月) 16:56:03.83 ID:yLiQXba+
>四禅を会得しても完全な涅槃ではないよ。

誰も一来補さんの相手をしてくれないから、かまってほしくて、
四禅解脱に首を突っ込んできましたね。
その前に、私が議論の流れを説明しますから、自分の意見を述べようとせずに、
流れをまず理解する努力をしてください。

一来補さんは、四禅で解脱するのではない、という意見です。
ペテン大作さんは、「釈尊は四禅で涅槃を得た」が間違い(>>242)、という意見です。
深山は、四禅で解脱したなんて書いたことはありません。
四禅については、三者の意見が一致したではありませんか。
誰一人として、四禅で解脱するなんて主張している人はいないのです。
では、いったい何を議論しているのでしょう?

ペテン大作さんの妄想です。
ペテン大作さんが、「深山は、釈尊は四禅で解脱する、と述べたと主張している」
と言う、ありもしない話を作り上げて、これを七年間にわたりここに書き続けている。
だから、私は繰り返し、「書いたという証拠を出せ」と言うが、
もちろん書いていないのだから、出せるはずがない。
普通の人なら、謝るか、すくなくとも主張を撤回する。
一来補さんもそう思いませんか?
当然であり、それが社会常識です。
だが、ペテン大作さんは撤回をするどころか、私の書いたことにさらに噛みついた。

250 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/15(火) 12:07:29.00 ID:uf/TItkw.net
>>237 :一来補:2015/09/14(月) 16:56:03.83 ID:yLiQXba+
>四禅を会得しても完全な涅槃ではないよ。

ペテン大作さんの、「深山は、四禅で解脱すると主張した」という
主張には根拠がないのだから、まず撤回するべきでしょう。
だが、彼は頑迷不屈な男だから、撤回などせずに、
今度は、私が引用した沙門果経の「心が安定・・・」という一文に難癖をつけた。

「心が安定し、清浄で純潔となり、汚れなく、小さな煩悩も離れ、」
(『原始仏典 1』春秋社、96頁)

これは解脱ではないというのです。
「小さな煩悩も離れ」というのだから、漏尽解脱であり、仏教の解脱です。
彼は、阿含経のどこに「心の安定」が解脱だとあるのか、と噛みついたから、
批判側の一人がそのように書いてある経典を引用してくれた(>>227)。
だが、ペテン大作さんは完全無視した。
おかしいですよね。
証拠を出せというから、出したら、無視する。
「心の安定」が解脱を表すことは、阿含経を読んでいる人にとっては常識です。
わざわざ証拠を求めるということは、読んでいないという恥を
さらしているのだが、彼は恥知らずだから、なんともない。

>釈尊が「「心が安定」を解脱だと述べているなんて100パーセント嘘です。(>>194)

とまで断定するから、それで私が、さらに>>229に、「心の安定」が解脱を
表すことは阿含経の常識だという証拠を羅列した。
100パーセント嘘はどう見てもペテン大作さんです。
だが、彼は絶対に自分の非を認めない。

251 :深山 ◆lDoupiXSYZNC :2015/09/15(火) 12:13:54.52 ID:uf/TItkw.net
>>237 :一来補:2015/09/14(月) 16:56:03.83 ID:yLiQXba+
>四禅を会得しても完全な涅槃ではないよ。

ペテン大作さんは次に、「心の安定」など原文のパーリ仏典にはないと主張し始めた(>>202)。
だから、私が>>228>>55さんが引用してくれた学者による翻訳を三つ示した。
同じ原文を三人の学者が訳したものです。
一来補さんは読んでいかがですか。
三種類の訳が載っているが、「心が安定」「心が、安定」「安らかに住して不動」と
表現は微妙に違うが、これから見ても、「心の安定」という訳は間違いない。
ご存じと思うが、これらを訳した三人は仏教学の大家です。
特に、『原始仏典 1』は学者個人が訳しただけでなく、編集者たちが
査読し監修していますから、間違いが少ない。

「心の安定」一つでも解脱だが、「清浄で純潔」「汚れなく」
「小さな煩悩も離れ」もすべて解脱です。
一来補さんとの解脱の定義の議論は今はさて置くとして、
沙門果経の四禅の説明の所で、釈尊が解脱を表明していることを
一来補さんも認めますよね。
繰り返すが、四禅で解脱すると言っているのではありませんよ。
誰がどう読んでも、四禅の説明の所に、釈尊は解脱していることを表明している。
私はただそれを指摘しただけです。
さすがのペテン大作さんも、深山は四禅で解脱すると書いた、とは言えなくなった。
すると、ペテン大作さんは一時的に次のように主張を変えた。

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