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ショーペンハウエル 「宗教について」

1 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:05:55.82 ID:jU2IaMdC.net
宗教について

第一七四節 ある対話

デモフェーレス: ねえきみ、ここだけの話だけれど、きみがときどき宗教を皮肉ったり、いや、明ら
かに嘲笑して、きみの哲学的能力を示すのは、どうもぼくの気にくわないね。人それぞれの信仰はその
人にとって神聖なものだ。だからきみにとっても神聖なはずじゃないか。

フィラレーテス: そういう推論は否定するね! ひとさまが単純だからといって、なぜぼくまでが欺
瞞をありがたがらねばならないのか、ぼくにはわからないよ。どんな単純な場合も、ぼくが尊重するのは真理
だ。だから真理に反するものは、尊重しないだけのことだ。きみたちがそういう調子で人びとをしばり
つけているかぎり、真理の光がこの地上にさすことは絶対にないだろうよ。ぼくの標語は、「たとえ世界
は滅ぶとも、正義は行なわれよ」という法律家たちの標語をまねて、「たとえ世界は滅ぶとも、真理は
存続してあれ」というんだ。どの部門にも似たような標語があってしかるべきだね。

デモフェーレス: だったら医学の標語は、「たとえ世界は滅ぶとも、丸薬はまるめられてあれ」ぐら
いだろうかね ― こいつはいちばんてっとりばやく表現できるだろうて。

フィラレーテス: まさか! なにごとも「ほどほどに匙かげん」ということがあるさ。

173 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 01:09:22.67 ID:ozNsfsGL.net
 これらの努力はつねに徒労に終わり、まさに予言を無効にする
はずのことがつねにそれを招きよせるのに役立つ。それはまさしく古代人の悲劇や歴史において、神
託や夢で予言された不幸が、それにたいする防遏手段のためにかえって招きよせられるのと同断であ
る。実例として多数のなかからオイディプス王と、ヘロドトスの第一巻三五〜四三章の、クロイソス
とアドラストスの楽しい物語のみをあげておこう。これらの話によく似た透視力の事例がキーザーの
『動物催眠文献』八巻三冊に、正直そのもののベンデ・ベンツェンによって報じられている。(とくに
第四、一二、一四、一六例)。ユング・シュティリングの『幽霊学の理論』一五五節の一例も同様で
ある。さて透視の能力はまれにしか見られぬが、もし逆にありふれたものであったとすると、無数の
出来事が予言せられたとおりに正確に起こり、一切万事は厳密な必然性のもとに生ずるということの
否定しがたい事実的証明が、だれの手にもとどくところに普通に見られることになったであろう。そ
のときには、事柄の経過がいかに純粋に偶然なものに見えようとも、根本においてはしからず、むし
ろすべてのこれらの偶然事そのものが、深く隠されたひとつの必然性(宿命)――偶然その
ものはこれの道具にすぎない――によってとらえられているという点にもはや疑問の余地がなくなる
であろう。この必然性を見ぬくことが古来すべての占卜術(予言術)の努力目標であった。ところで、
想いおこされる実際の占卜術からしていえるのは、じつはあらゆる出来事が完璧な必然性のもとに生
ずるというにとどまらず、それらがなんらかの仕方ですでにあらかじめ決定的かつ客観的に確定せら
れているということ、しかも予言者の目には眼前の事柄として姿を現わす、ということである。もっ
ともこれなどはまだ、因果連鎖の結果としての出来事の必然的出現にすぎない、ということもできよ
う。

174 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 09:23:38.91 ID:ozNsfsGL.net
 いずれにしても《いっさいの出来事のかの必然性は盲目的な必然性ではない》という洞見ある
いはむしろ見方、したがってわれわれの人生行路が計画的かつ必然的に経過するという信念は、いち
だんと高次の宿命論であって、単純な宿命論のごとく証明しうるものではないが、しかもなお各人が
早晩これにつきあたり、各自の考え方に準拠しながら、一時的または永久的にこれに固執するので
ある。われわれはこれを通常の証明可能な宿命論から区別して超越的宿命論とよぶことができる。こ
れは単純な宿命論と違ってほんとうの理論的認識に由来するものでも、また理論的認識に必要な研究
の結果でもなくして――この方面の能力のある人は少ないであろう――、自己の人生行路の諸経験か
ら徐々に沈殿するものなのである。すなわち各人の経験のなかには、とくにきわだって或る種の出来
事があって、それは一方ではとりわけその人にとって大いに目的にかなっているために精神的ないし
内面的必然性という刻印を帯び、他面では外的なまったくの偶然性の刻印をはっきりと帯びている、
ということがあるものだ。かかることがよく起こるので、各個人の人生行路はそれがいかに入りくん
で見えようとも、内部統一のある、一定の傾向と教訓的意味を有する、考えぬかれた叙事詩のごとき
ひとつの全体であるとの見方になり、この見方はしばしば確信ともなるものである。けれども人生行
路をつうじて彼に授けられた教訓は彼の個人的な意思――結局は彼の個人的錯誤なのだが――にのみ
かかわるものであろう。なぜなら計画と全体性は大学教授の哲学が夢想するのとは違って、世界史の
うちにあるわけではなく、個人の人生に存するからである。諸民族というものは概念的に存在するに
すぎず、実在するのは個々の人間である。ゆえに世界史は直接的な形而上学的意義を有せず、元来ひ
とつの偶然的配列にすぎない。私はここで『意志と表象としての世界』正編三五節においてこれらに
ついて述べたところを指摘しておく。――かくて各自の個人的運命について多くの人の心にかの超越
的宿命論が生まれるわけで、自分の生涯を注意深く観察するなら、生涯を織りなす糸がかなりの長さ
にまで紡ぎだされたのちには、おそらくだれにでも一度はこの宿命論に到達する機会が訪れるであろう。

175 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 11:26:30.80 ID:ozNsfsGL.net
 否、人生行路のこまかい点をひとつひとつ考えぬくならば、その行路は彼にとっては、いっさい
が画策されたようにみえることもあろうし、また登場する人間たちは彼にはまるで俳優のようにみえ
もしよう。この超越的宿命論は多大の慰藉となるのみならず、多くの真実をも含んでいよう。ゆえに
いつの時代にもこれは教義として主張されもしたのだ。まことに率直な見解としてここに引用する値
打ちがあるのは、世故にたけた宮廷人の証言、しかもネストルの年齢〔高齢〕に及んでなされたもの
であって、九十歳のクネーベルは一書簡でこう述べている。「仔細に観察すると、たいていの人間の
生涯には一種の計画が存在する。それは自分自身の性質によりあるいはその性質を導く四囲の事情に
よって、いわば彼らの眼前に描きだされたものだ。彼らの生涯の諸状態がいかに変転きわまりないも
のにもせよ、結局はそれらは相互のあいだに或る種の一致がみられるごときひとつの全体として現わ
れる。…………或る特定の運命の手が、いかに隠れて働こうと、手の動きが外的作用によると内的衝
動によるとを問わず、はっきりと姿を現わす。否しばしばその手の進む路で、矛盾する動因が働くこ
とすらある。経過がいかに入りくんでいても動因と方向はつねにそれをとおして姿を現わす」(クネ
ーベル『文学的遺稿』二版、一八四〇年、三巻四五二頁)。

 さて以上に述べた各人の人生行路における計画性はたしかに部分的には、生まれつきの性格の不変
なること、あくまで固定的であることから説明できる。これらは人間をつねに同じ軌道へと連れもど
すからである。各自は自分の性格にとって何が最適であるかということをはなはだ直接的にかつ的確
に認識するがゆえに、一般にはこれを明瞭な反省された意識へと取りあえることをせず、人はいわば
本能的にこれに従って行動する。このたぐいの認識は、明確な意識に達することなく行動へと移行す
すかぎりにおいて、マーシャル・ホールの《反射運動》に比較することができる。

176 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 13:23:11.61 ID:ozNsfsGL.net
この運動によって各人は、みずからに事情の説明できぬまま彼個人に最も適切なものを追求し把握する
のであり、そのさい外からも、また彼自身の誤った概念や偏見からも圧力がかかるわけではない。砂中
で太陽によって孵化され、卵殻からはいでた亀が水を目にしえなくとも、すぐさまその方向へ歩みはじ
めるようなものだ。したがってこれは、唯一の適切な道へと正しく各人を導く心の羅針盤、隠れた性癖
であり、しかもその道が一定の方向を保っていたことは、通過し終えてのちはじめてこれに気づくもの
なのである。――しかしながら外部事情の強い影響や大きな圧力にたいしてはこれでは不十分とおもわ
れる。またその場合、この世で最も大切なもの、つまり多大の行為と心労と苦悩をつうじて購われた人
生行路が(たといこの人生を導く残りの半分、つまり外からくる部分だけにせよ)真に盲目の、そ
れ自身はなにものでもない、いかなる秩序をも欠いた偶然の手から、その部分のすべてを獲得するな
どとは信じられない。むしろ善人はこう考えたい。――《歪象》とよばれる(プイエ、二の一七
一)或る種の像は、肉眼にはゆがんだ不具の怪物にしかみえぬが、円錐形の鏡でみると正常の人間の
形姿となって現われる。――これと同様に世界の過程の純粋に経験的な把握はかの像を肉眼で見るの
に似ており、これにたいして運命の意図を追究するのは散乱せるものを結合し秩序づける円錐鏡での
観察に似る、と。けれども以上の見方にたいしてはこれと対立する見方も成りたつ。すなわち、人生
の出来事に計画的関連性が感じとれるようにみえるにしても、それは、ものごとに秩序をつけ図式を
あてはめようとするわれわれの空想力が無意識に作用するためであり、これは、まったく盲目的な偶
然によって壁面に汚物がまきちらされたのに、そこへ計画的関連性を読みこむ結果、明瞭な美しい人
物像や群像が見てとれるといった場合の空想力に似ている、と。

177 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 17:59:29.16 ID:ozNsfsGL.net
 ところで、われわれにとって言葉の最も高度な真実の意味において正しきもの有益なるものとは、計画
されるのみでついに実現に至らなかったもの、つまりわれわれの脳裏以外には存在せず――アリオストの
《陽の目をみぬ空しき計画》――、偶然による挫折をそのあと一生涯くやまねばならぬもの、おそらくそ
ういったものではなかろうとおもわれる。そうではなくて、現実という大いなる図像のなかにほんとうに
刻印されたもの、それが目的にかなっているところを見とどけたのち、それについてわれわれが確信をも
って《そうなる運命だったのだ》といえるもの、おそらくそういうものであるだろう。したがって、この
意味における偶然と必然の統一によって。この統一のおかげで人生行路を進むさいに、本能的衝動として
現われる内的必然性が、つぎには理性的な熟慮、そして最後に外部からの四囲の状況の働きかけ、これら
が相互に手助けをしあって、人生が終わりをつげたところで、それを円熟し完成したひとつの芸術作品
として現わす。ただしそれ以前、人生の進行の過程においては、着手されたばかりの芸術作品と同じ
く、計画も目的も認識されぬことが多い。けれどもその完成ののち仔細に観察する人ならば、だれで
もかかる人生行路を、慎重きわまる予見と知恵と忍耐の作品として驚きの目をみはるにちがいない。
ところでこの作品の意義は全体的にみれば、それの主体が普通一般のものか、それとも例外異常のも
のかということに応じてきまるものであろう。この観点からすると吾人は、偶然が支配するこの《現
象界の基底にはいたるところ《思惟界》があり、それは偶然そのものをも支配するものだ、とのは
なはだ超越的な思想に達することもできよう。――むろん自然はすべてのことを種族のために行なう
のであって、個体のためにではない。自然にとっては種族こそすべてであり、個体はなきに等しいか
らである。しかしながらわれわれが《作用する》としてここに前提したのは自然ではなく、自然のか
なたにある形而上学的なものであって、これは各個体のうちにおいて完全な不分割の姿で存在し、し
たがってあらゆる個体がそれにあずかるところのものである。

178 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 18:58:32.26 ID:ozNsfsGL.net
 いったいこれらの事物についてはっきりとした考えをもつためには、むろんまず次の問いに答えなく
てはなるまい。人間の性格と運命がまったく相容れないということがありうるのか? ――それとも
大ざっぱにいって、いかなる運命でもいかなる性格にも適合するのか? ――それとも、劇の作者に
も比すべき秘密のとらえがたい不可解な必然性があって、両者をそのつど便宜適合するのであるか?
――だがしかし、まさにここがわれわれの明確にしがたいところなのである。

 一方でわれわれは、一瞬一瞬のわれわれの行為がわれわれの左右しうるものであるごとくに信じて
いる。ところが、自分のいままでの生涯をふりかえり、とりわけわれわれの不幸な歩みとその結末を
眼中においてみると、どのようにしてこれをなしえたのか、またあれを中断しえたのか、という点が
わからぬことがよくある。それで、ほかの力がわれわれの歩みを導いたかのごとくにおもえてくる。
だからシェークスピアも、

  運命よ、力をお見せ。わたしたちではどうにもならぬ。
  定めはまぬかれようがない。なるようになるがよい。
                                『十二夜』一幕五場

といったのだ。

 古代人は詩にせよ散文にせよ運命の全能を飽くことなく強調し、そして運命にたいする人間の無力
を指摘した。いたるところにみられるのだが、これは彼ら古代人にしみこんだ確信であり、彼らは事
物の関連を感じとる場合に、はっきりと経験されるものよりも神秘的な、いっそう深みのあるものに
より強く惹かれた。(ルキアノス『死者の対話』一九、三〇、ヘロドトス『歴史』一巻九一章、九巻一
六章)。

179 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 19:52:39.88 ID:ozNsfsGL.net
 ギリシア語中にこの概念を表わす語が豊富なのはこのためで、ポトモス、アイサ、ヘイマル
メネー、ペプローメネー、モイラ、アドラスティア、その他まだあるであろう。これにたいして《プ
ロノイア(先知、先見)》の語は、《ヌース(精神、知性)》すなわち第二次的なものから出ているので、
運命というものの概念を混乱させてしまう。この語によって概念はむろん平板明快になるが、また皮
相で誤ったものにもなってくる。ゲーテも『ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』(五幕)で「われ
ら人間と申すものは、われとわが身が意のごとく導けるものではない。われらが身を左右する力はす
べて魔の手に委ねてあるのじゃ。その彼らが思うままに邪念をふりまわしてわれらの悲運をつくるの
じゃ」と。また『エグモント』(五幕最終場)では「人間というものは、自分では自分の生活を導き自
分みずからの舵をとっているつもりだが、そのじつ内心そのものがあらがう術もなく自分の宿命のほ
うへ誘いよせられてしまうものです」といっている。いやすでに予言者エレミヤはいった。「人の道
はおのれによらず、かつ歩む人はみずからその歩みを定むることあたわざるなり」(一〇章二三節)。
こうしたことはすべて、われわれの行為が二つの要因の必然的所産であることにもとづく。そのひと
つ、われわれの性格は不変で固定しているが、ア・ポステリオリにのみ、すなわち徐々にしか知るこ
とができない。他は動因であってこれは外部にあり、この世の動きによって必然的に招きよせられ、
そして性格を、その固定的特性を前提としつつ機械的ともいうべき一種の必然性をもって限定する。
さてそのような経過をたどるのを判断する自我は認識の主体であり、それ自身は前記の二者にたいし
て無縁のまま、ときにはむろん驚きの目をみはることはあるにしても、たんに両者の作用の批判的傍
観者にすぎない。

180 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 00:22:41.19 ID:sn1aa+Y2.net
 一八五二年一二月二日の『タイムズ紙』に次のような供述がのっている。グロスターシャー
のニューエントで検屍官ラヴグローヴ氏のまえでマーク・レーンなる男の溺死体の検屍が行なわれた。溺
死者の兄弟は《マーク行くえ不明の第一報をきいて、ただちにそれは溺死だ″とわたしは答えました。
それはわたしが昨夜この件を夢で見たからです。わたしは深く水につかりながら彼を引きあげようとした
のです》と陳述した。次の夜彼はまたしてもマークがオクスンホールの水門の近くで溺れ、マークのそば
で鱒が一匹泳いでいる夢を見た。翌朝別の兄弟とともにオクスンホールへ出かけた。するとそこで水中に鱒が
一匹みえた。彼は即座にマークがそこにいるにちがいないと確信し、じっさいその場で死体をみつけた。
――一尾の鱒が眼前を泳ぎさえるといった些細な出来事でさえ、数時間もまえから一秒の狂いもなしに予見
されるわけである!

 過去のいろいろの情景を正確に想いおこしてみると、たくみに構想された小説におけるがご
とく、そこではすべてがじゅうぶんに計画されたもののごとくに見える。

 われわれの行為もわれわれの人生行路もわれわれのなす業ではない。ただしわれわれの本質
と存在は別である――だれもそうは考えぬが。というのは、われわれの行為と人生行路はこの本質と存在
の基礎の上に、また厳密な因果の結びつきのもとで現われる四囲の事情と外的な出来事の基礎の上に、完
璧な必然性をもって進行するからである。したがって人間の生誕のさいすでに彼の人生行路の全部がこま
かい点にいたるまで決定的に定まっているのだ。だからきわめて能力のある夢遊病の女は人生行路を正確
に予見しうるのであろう。われわれの人生行路と行為と苦悩とを考察し評価するにあたって、この大いな
る確実な真理をしっかりと心にとどめておくべきだとおもう。

181 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 01:47:22.19 ID:sn1aa+Y2.net
 ところで、ひとたび以上の超越的宿命論の視点を把握して、さてその立場から個人の人生を観察す
ると、出来事が明らかに物理的(外面的)には偶然であるのに、精神的(内面的)には形而上学的必然
性をもつという対照の著しさに、いかなる演劇にもまさるすばらしさを眼前に見る思いのすることが
ある。しかも形而上学的必然性のほうはけっして論証しえず、むしろ依然として想像されるのみなの
だ。こうした点を万人周知の実例によって――同時にこの実例は極端などころがあるから典型的な例
になるのだが――はっきりと思いえがくには、シラーの『鉄工所への用足し』をみるがよい。フリー
ドリーンの遅刻はミサの務めのためにまったく偶然にひきおこされるが、他方それは彼にとってはな
はだ大切で必要なことなのである。おそらくだれでもじっくり考えてみれば、かりにそれが格別重大
だとかはっきり印象に残るとかいうのではないにしても、自分の人生行路に類似の場合を見いだすこ
とができるにちがいない。かくして次のような見方をせざるをえない人も少なくなかろう。《秘めら
れた説明不可能な或る力がわれわれの人生行路の紆余曲折のすべてを導くが、それはわれわれの一時
の意図にさからってであるにしても、結局は客観的全体と主観的合目的性に副うように、つまりわれ
われの真の幸福に役立つように導くものである》と。だからわれわれは、愚かにも逆向きの願望をい
だいていたのだという事実に遅まきながら気づくこともよくあるわけだ。《運命は意欲ある者を導き、
意欲なき者を引きずる》――セネカ『道徳書簡』一〇七〔一一〕。さてかかる或る種の力はすべての事
物を見えざる糸で引きつらねながら、因果の連鎖がなんら相互の関連もつけずに放置しておく事物を
も連結して、必要なときにそれを出会わせることになろう。つまりこの力は現実生活の種々の出来事
を、あたかも劇詩人が劇中の出来事にたいしてなすがごとくに、思いどおりに動かすであろう。偶
然と錯誤、これはさしむき直接的には事物の規則正しい因果応報をかき乱すものであるから、かの見
えざる手のたんなる道具なのであろう。

182 :私だ:2015/10/24(土) 02:04:58.72 ID:FGNcdKk/.net
池田創価のせいで日蓮が疑われている。
実に危険思想の一面がある。

日本国内だけでも、そろそろ”全日本仏教会”のように”反創価連合”として運動してみてはどうか?
もちろん、「戦争」反対派の創価有志にもチャンスをやろう。
どうかな?

呼びかけようか?

183 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 17:30:23.36 ID:sn1aa+Y2.net
 必然性と偶然性が奥深い根底でひとつにつながっていて、そこからかかる端倪すべからざる力がで
てくるのだ。という大胆な臆説にわれわれが駆りたてられるのは、なによりもまず次のようなことが
考慮されているからである。すなわち、自然的、倫理的、知的な意味での各人独自の個性は、彼という人
間のすべてであり、したがって最高の形而上学的必然性に由来するに相違ない。だがいっぽうこの個
性は(和足が主著続編四三章で明示したごとく)、父親の倫理的性格、母親の知的能力および両者の全
結合の必然的な結果として生ずる。しかも両親のむすびつきはたいていはあきらかに偶然な事情によっ
て惹起されたものだ、ということである。ここにおいて、必然性と偶然性は究極的に統一的たるべし
との要求ないし形而上学的・倫理的要請が抗しがたい力でわれわれに迫ってくる。けれども両者を統
一する根底をはっきりした概念として把握することは不可能であろうと私はみるもので、ただ言いう
るのは、両者はともに古代人が《運命》(ヘイマルメネー、ペプローメネー、ファトゥム)とよ
んだもの、彼らが各人を導く《霊(守護神)》の語で理解したもの、またいっぽうキリスト教徒
が《摂理》として尊重したものであろう、ということである。この三者は、ファトゥムが盲目、
他の二つ――ゲニウスとプロノイア――は目がみえると考えられている点でたしかに相違しているけ
れども、しかしこうした神人同形観的な区別は、事物の内奥の形而上学的本質を問題にするさいには
消滅し、いっさいの意味を失うものである。しかもわれわれはそこに、かの偶然と必然の説明不可能
な一致――人間界万般の神秘的な導き手として現われる――の根本を探究しなくれはならない。

184 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 18:22:22.48 ID:sn1aa+Y2.net
 各個人にそなわっていて、その人生行路に采配を振る《霊》という概念はエトルリア起源とされ、
古代人には広く親しまれていたものである。その中心的内容がプルタルコスの引用したメナンドロス
の詩句にみられる(プルタルコス『心の平静について』一五、ストバイオス『抜粋』一巻六章四節、
アレクサンドレイアのクレメンス『ストロマテイス』五巻一四章)。

  生誕のときからすべての人に良き霊(ダイモン)が、
  人生行路の影の導き手として
  付きそいとなるものだ。

 プラトンは『国家』の末尾で、各人の霊魂が反復される再生をまえにして、自分に適した性格
をくじで引くさまをえがき、次にこういっている。《さてすべての霊魂たちが自分の生涯を選びおえ
たとき、みなくじの順にならんで、ラケシスのところへ進みでた。ラケシスはそれぞれに各自の選ん
だ神霊(守護霊)をつけてやり、生活の守り役、各霊魂の選んだ生活の実行者たらしめた》(一〇巻
〔一六〕六二一)。この個所についてポルピュリオスは熟読の価値ある注解を書き、ストバイオスがそ
れを『抜粋』二巻八章三七節(三韓三六八頁以下、とくに三七六頁)で伝えている。ところでプラト
ンはもう少しまえのところ(六一八)でこれについていう。《神霊が汝らをくじで引きあてるのでは
なく、汝らのほうが神霊を選ぶのだ。最初にひく番の者は最初に生涯を選びとるがよい。その者が必
然的にしばりつけられる生涯を。》――これをホラティウスは美しくいい表わしている。

  それを知るは守護神、生誕を導く友、人間性の神のみ
  そは各々の生涯に即して死すべきもの、
  相貌はうつろいやすく、明るくあるいは暗し。
                             『書簡』二巻の二の一八七〜一八九

185 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 22:10:03.84 ID:sn1aa+Y2.net
 これが《霊》について一読に値するアプレイウスの『ソクラテスの神について』二三六頁にあ
り、短いが有意義な一章がイアンブリコス『エジプト人の秘儀について』九の六、《特殊な霊につい
て》にある。さらに注目されるのがプロクロスのプラトン『アルキビアデス』への注解のなかの個所、
クロイツァー版七七頁である。《われわれの全生活を導き生誕以前に選択されたわれわれの人生行路
を現実たらしめるもの、宿命と運命の神々の賜物を分与し、さらに節理の光明を提供し分配するも
の、これこそ霊である。云々。》テオプラストゥス・パラケルススは同じ思想をとりわけ深く把
握してこういっている。「各々の人間が一つの霊を有し、霊は人間の外部に住み、かつその座を上
天の星辰中に置くのは、《運命》がよく認識されるようにするためである。霊は人間が仕える主人の
独自の性格を利用する。出来事の兆を事前と事後に主人に示すのはこの霊だ。これらの兆は出来事の
後までも残るのであり、かかる霊が《運命》とよばれている」(テオプラストゥス『著作集』シュト
ラースブルク、一六〇三年、二巻三六章)。注意すべきは、まさにこの思想がすでにプルタルコスに
みえていることで、地上の肉体のなかに埋めこまれた霊魂の部分のほかに、より純粋な部分が外部の
頭上に浮遊していて、星として現われ、当然のことながら霊(ダイモーン、ゲニウス)とよばれる。
それは彼を導き、また賢い人はすすんでこの霊に従う、というのである。問題の個所はここに全文を
引くには長すぎる。『ソクラテスの霊について』二二章〔五九一E〕にあり、主要な文章は次のごとく
である。《さて肉体内に埋められた部分は霊魂とよばれるが、消滅をまぬかれる部分は多くの人び
とがこれを精神(知力)とよび、自分たちのなかに宿ると考える〔……〕。正しい見方をする人びとは
外部にあると考えており、それをダイモーンとよぶ。》ついでにいえば、キリスト教は周知のごとく
異教徒の神々や霊どもをすべて悪魔にしてしまったが、この古代人の《霊》からは学者や魔術師た
ちの守護神(スピリトゥス・ファミリアリス)をつくりだしたようである。――キリスト教の摂理の
観念はよく知られているから、ここでくどく述べる必要はなかろう。

186 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/25(日) 20:54:01.28 ID:vFtqngRy.net
――ただし以上のすべては、問題になっている事柄の比喩的・寓話的なとらえ方である。一般にわれ
われは、きわめて深遠なかくれた真理を図像や比喩以外の方法でとらえることは不得手なのであるが。

 ところでじつは、外部からの影響をさえ左右するかの隠れた力は、やはりわれわれ自身の神秘的な
内部にしかその根をもたぬのに相違ない。全存在の始めと終りはけっきょくわれわれ自身のうちにあ
るからだ。しかしその単なる可能性でさえ、われわれがこれを見きわめるのは、最も幸運な場合でも
類推と比喩によるのであり、しかもそのわずかなものをさえはるかに遠くから見るのみである。

 さて、かの力の支配の身近な模型をわれわれに示すのは自然の目的性である。それは合目的なるも
のを、目的の認識なしに生ずるものとして示す。外的合目的性、すなわち種々のものとくに異種のも
ののあいだに、無機物にも生ずる合目的性が現われるときにはとりわけそうである。たとえばその著
しい例が流木であって、流木はまさに樹木のない極地方へ海の力で大量に押し流されるものである。
もうひとつの例に、地球の大陸は完全に北極のほうへ偏っていて、北極の冬は天文学的理由で南極よ
りも八日短く、そのためにずっと温和だという事実がある。しかしながら、独立の有機体内で明瞭に
現われる内的合目的性、つまり自然の技術と自然の単なる機構とを、すなわち目的因と作用因とを媒
介する驚くべき一致(これについては私の主著続編二六章三三四〜三三九参照)、この一致からし
てもわれわれは類推によって、いろいろの点、否、遠くへだたった点から発するもの、見かけ上縁な
きものが、それにもかかわらず相互にしめしあわせて究極目的にむかい、そこでぴたりと出会う、し
かもこれが認識によって導かれたのではなくて、あらゆる認識の可能性に先んずる高次な必然性によっ
てそうなる、このような有様をながめわたすことができる。

187 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 00:52:31.43 ID:eYZVTZc/.net
――さらにまた吾人は、カントおよびの
ちにはラプラスによって提唱された惑星系の成因にかんする学説を――これが正確である度合いはか
なり高いであろう――はっきりと思いうかべ、かつ私が主著続編二五章三二四頁で試みた考察方法に
達し、かくして、不変の法則に従う盲目的な自然力の動きからついにこの秩序ある驚嘆すべき惑星の
世界が生じた事情を考えあわせるならば、ここでもまた或る種の類推がえられ、次の事態がありうる
ことを一般にまた遠方から見わたすことができるようになる。すなわち、個人の人生行路さえも、出
来事がしばしば盲目なる偶然の気まぐれのしわざであるにもかかわらず、やはりいわば計画的に導か
れ、その人の真の究極的な幸福にかなうものだ、ということである。かく考えてみると、摂理にかん
する教義はどこまでも神人同形観的な見方であるから、そのまま文字どおりに真実だとはいいえまい
が、しかしそれはひとつの真理の間接的、寓意的かつ神秘的な表現であり、あらゆる宗教的説話と同
様実用向きに、また主観的安心立命のためにはじゅうぶん事足りるものである。たとえばカントの道
徳神学の場合がそうで、これは精神修養のプランとしてのみ、つまり寓意的にのみ理解されるべきもの
である。――要するに一言でいうならば、それは真にあらざるも真に近し、であろう。かの鈍重かつ
盲目的な自然の原動力――その相互作用から惑星系が生じた――において、のちに世界で最も完璧な
現象〔人間〕中に登場する《生への意思》はすでに内部作用者、教導者であり、かつ厳密な自然法則
に従い、目的にむかって活動しつつ、世界とその秩序の建設のための基礎をすでに準備している。た
とえばまことに偶然な衝突ないし震動が黄道の傾斜と公転速度を永久的に決定し、最終結果は、かの
意志の本性全体の現われであるに相違ない。なぜならこの本性はすでにかの原動力そのもののなかで
働いていたのだからである。――さてこれと同様に、ひとりの人間の行動を規定するすべての出来事
と、それを招きよせる因果の結びつきは、この人間自身にも現われるのと同一の意思が客観化された
ものにほかならない。

188 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 11:15:09.83 ID:eYZVTZc/.net
 ここからして、出来事がこの人間の最も特殊な目的にすら合致し適合せざる
をえないことが、たといおぼろげにもせよ見通せるわけで、この意味で出来事は例の神秘的な力を形
づくるのであり、この力が各人の運命を導き、彼の霊とか摂理とかいうふうに寓意的に表現される
わけである。しかしながら純粋に客観的にみれば、これはあくまでもいっさいを包括する例外なしの
一貫した因果連関なのであり――この因果連関によってこそ、生起するいっさいは徹頭徹尾必然的に
生ずるのだが――、この連関は単なる説話ふうの世界支配に取って代わり、否、世界支配を名のる権
利を有するものである。

 以上の論点をいっそう明らかにするには、次の一般的考察が役立つ。「偶然的」とは、因果的に結
びつきのない事柄が時間において出会うことを意味する。ところで絶対的な意味で偶然的なものは皆
無であって、最も偶然的な事柄ですら遠い道から近づいてきた必然的なものにほかならない。因果の
連鎖の上位に位置する決定的な原因が、その事柄がまさに今、つまり他のことと同時に生じなければ
ならぬ、ということをとうの昔に決定的に定めたのだからである。個々の出来事は、時間の方向に前
進する因果の連鎖のひとつひとつの環である。しかしかかる連鎖は無数に、空間というもののおかげ
で相並列して存在する。しかもこれらの連鎖は相互にまったく無縁無関係というわけではなく、むし
ろ十重二十重に入りくんでいる。たとえば、いま同時に作用し、相互にも作用しあういくつかの原因
は、遠く共通の原因から発し、したがってひろりの祖父の曾孫たちのごとく、相互に縁者の関係にあ
る。またいっぽう、いま生ずる結果のひとつひとつは多くの相異なる原因の出会いを要することもし
ばしばあって、これら諸原因のそれぞれは、自分自身の連鎖の一環として過去のなかから近づいて
くるものである。かくて時間の方向に前進するすべての因果の連鎖は共通の、幾重にももつれあった
大きな網をなし、この網が幅いっぱいにひろがりながら時間の方向に移動しつつ、まさにこの世の推
移そのものを形成する。

189 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 16:46:46.14 ID:eYZVTZc/.net
 つぎにわれわれは、かの個々の因果連鎖を時間の方向に走る縦線で思いうか
べてみよう。そうすると、同時的なもの、しかも同時なるがゆえに直接の因果連関なきものはいかな
る場合にも横線で暗示されることができる。むろん同一横線上にあるものが直接相互に依存しあうわ
けではないが、しかし網全体の入りくみ、すなわち時間の方向に進展する因果の全体によって、やは
りそれは間接的には、遠くへだたるにもせよ、なんらかの意味で結びついているのである。したがっ
て現在の同時性は一つの必然的な同時性となる。高度な意味における必然的な出来事が生ずる場合、
それの起こる条件のすべてが偶然に出会うのは右の事情にもとづいている。――つまりそれは運命の
欲した事柄が出来したというべきである。たとえば、民族移動の結果野蛮の潮がヨーロッパに氾濫
したとき、たちまち『ラーオコーン』『ヴァティカンのアポロン』等々のギリシア彫刻の最高傑作は、
舞台の迫り出しを使用するごとくに忽然と姿を消して地下にもぐり、そこで、無傷のまま千年のあい
だ、芸術を解し尊ぶ高尚穏和な時代が来るのを待った。そしてついて十五世紀末、教皇ユリウス二世
の治下にこの時代が到来するや、保存のよい芸術の見本、人間的形姿の真の典型の範例として再び陽
の目をみたということは右の点にもとづいている。また個人の人生行路における重大かつ決定的な動
機や事情が適時に生ずることも、否、最後に、前兆が現われることさえ同じ事情にもとづく。――前
兆にたいする信念は一般に行きわたっていて抹殺しうべくもなく、にわかにものを信じない人びとに
さえもこれがみられるのはまれでない。――というのは、絶対的な意味で偶然的なものは存在せず、
むしろいっさいは必然的に生ずるのであり、人が偶然とよぶ、因果的に関連しないものの同時性さえ
も、必然的な同時性だからである。否、現在同時的なるものは、すでに遠い過去における原因によっ
てそのようなものとして規定されたのだ。

190 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 19:34:29.94 ID:eYZVTZc/.net
 かくていっさいはいっさいのうちに反映し、おのおのはおの
おののうちに反響し、そして有機体における相互作用によくあてはまるかの有名なヒポクラテスの
言葉は事物の総体についてあてはまる。《体流はただ一つ、体気はただ一つ。すべては共感》
(『滋養について』キューン版著作集二巻二〇頁)。――前兆を貴ぶ抜きがたい人間の性癖、内臓所見、
鳥占、聖書占い、カード占い、鉛占い、コーヒー出がらし占い等々は、人間が理性的根拠を欠く次の
ごとき前提に立てることの証左なのだ。すなわち現在の状態、眼前の明瞭なものを手がかりに、時
間的・空間的に隠蔽されたこと、遠くのことや未来のことを認識するのはなんらかの意味において可
能であり、したがって人間は、暗号を解く真の鍵さえ手に入れれば、おそらく占卜からして未知なる
ものを読みとることができもしよう、との前提がそれである。

 いま問題にされている超越的宿命論を別の方面から間接的に理解するのに役立つ第二の模型である
が、これは夢であって、そもそも人生はとうの昔から夢のごとしと認められており、またよくそうい
われてきた。そのためにカントの先見的観念論すらも、意識あるわれわれの存在のあたかも夢のごと
きこの状態をきわめて明瞭に叙述したものとみうるほどである。このことは私の『カント哲学の批判』
でも述べておいた。――かの神秘的な力は自分の目的を達するために、われわれに影響をあたえる外
部の現象をもわれわれ同様に支配し操縦する。ところで、この力がわれわれ自身の不可思議な本性の
奥底に根源をもつのはどのようにしてであるか、という点を漠然とではあるにせよどうにか見とおし
うるのは、この夢との比較によってなのである。すなわち、夢においてもわれわれの行為の動機とな
る四囲の事情は、外的な、われわれから独立した事情として、いやしばしばうとましい事情として、
まったく偶然にぶつかりあう。しかしそれにもかかわらずその事情のなかには神秘的で合目的な結合
があるのだ。

191 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 20:58:09.73 ID:eYZVTZc/.net
 夢のなかのすべての偶然事を支配する隠れた力は、これらの事情をも、もっぱらわれわ
れとの関連において操縦し決定するからである。この場合なによりも不可思議なことは、この力は要
するにわれわれ自身の意思以外のなにものでもありえず、しかもこの意志たるや、或る立場からすれ
ば、われわれの夢見つつある意識のなかへはいってこない、ということである。したがって、夢のな
かの出来事はしばしば夢のなかのわれわれの願望とまったく相反し、われわれを驚倒せしめ、立腹せ
しめ、否、恐怖と死の苦悶につきおとし、しかもわれわれがひそかに自力で操縦している運命はわれ
われを助けにきてくれない、ということになる。また、われわれが熱心にものをたずね、驚くべき答
えを得、あるいはまた――われわれ自身がたとえば試験かなにかの場合のごとく質問を受け、答える
ことができず、ほかのものが肯綮にあたる答えを出してわれわれを恥ずかしめることもある。しかもい
ずれの場合も、解答はわれわれ自身の素質から出る以外には出ているはずがないのだ。夢のなかの出
来事がかくも神秘的にわれわれ自身によって誘導されていることをいっそう明確にし、その過程をよ
り詳細に理解するには、それに適する説明がなおもうひとつあるが、しかしこれははなはだ猥褻なも
のにならざるをえない。ただし私は、本書を読むほどの読者はこれによって不快なショックを受ける
こともまた問題を滑稽な面からとらえることもなかろうとみなす。周知のごとく夢のなかにはその性
質上或る物質的な目的に役立つものがある。たとえば充満した精嚢を空にするという目的に役立つ。
こういうたぐいの夢はむちろんみだらな情景を呈する。しかしかの目的をまったく有しもせず、また達
することもない他の夢も往々にして同じ効果をもつ。ただしここには相違も出てくる。はじめのたぐ
いの夢のなかでは美人やチャンスがすぐに好都合なように到来する。かくして自然はその目的を達す
る。これにたいして第二の部類の夢のなかでは、われわれが最大限に願っている事柄につねに新たな
邪魔がはいり、これを克服せんとしても無駄で、結局は目的に達しない。

192 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 21:38:14.48 ID:eYZVTZc/.net
かかる妨害を行ない、われわれの切なる願いをつぎつぎと挫折させる者はだれかというに、これがわれわれ
自身の意思にほかならぬのである。けれどもそれは、夢のなかで表象を行なう意識をはるかに超えた領域か
らくるのであり、夢のなかでは仮借なき運命として登場する。――現実生活での運命と計画性――おそらく
だれもが自分の人生行路において運命からこの計画性を読みとるのだが――は、夢のなかで示される運命と
類似の事情をもつこともあるのではなかろうか? ときにはこんなことも起こる。われわれがひとつ
の計画を立て、それを鮮明に把握しながらそれがわれわれの真の幸福にとってまったく不都合であっ
たことがあとになって明らかになったりする。われわれがその計画をあくまで熱心に進めようとして
も、これに反対する運命の陰謀を経験することになる。運命は計画を挫折させるべくあらゆるからく
りを動員するからである。かくて運命は結局われわれの意思に反してはんとうにわれわれに適合す
る道へとわれわれを押しもどす。このような抵抗の裏になにか意図がありそうな場合、「そうすべき
ではない」といういい方をする人もいるし、それを不吉とよぶ人も、あるいは神のお導きとよぶ人も
いる。しかしともかくだれもが次の点では同意見である。《運命が或る計画にたいして非常に露骨な
頑固さで反対する場合には、われわれは計画を放棄すべきだろう。なぜなら計画は、われわれにか
んする自分自身すらも知らない決定に適合しないのであれば、実現される可能性がないし、またわれ
われはその計画を意地をはって押していっても、われわれが最後に正道にもどるまでは運命から手き
びしい突きを食うだけであり、あるいはまた、無理な計画遂行が成功したところで、それはわれわれ
の損失と破滅になるだけだからである》と。さきに引いた《運命は意欲ある者を導き、意欲なき者を
引きずる》はここにおいて完全に確かめられたわけだ。或る場合にはかかる計画の挫折がわれわれの
真の福利にとってまことに有益だったことが、あとになって明らかになる。それがわれわれに知られ
ない場合などとくにそうであって、われわれが真の福利を形而上学的・精神的なものとみなすならばと
りわけそういうことになる。――

193 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 22:29:44.09 ID:eYZVTZc/.net
 さてそこでわれわれが、私の全哲学の主たる帰結すなわち《世界の
現象を現示し維持するものは、各個体内においても生きて働く意思である》を回顧し、同時に人生
と夢が類似すると一般に認められていることを想起するならば、いままでのいっさいをまとめていう
と、《各人が自分の夢の隠れた舞台監督であるのと同じく、われわれの現実の人生行路を支配するか
の運命も結局はやはりなんらかの仕方で、われわれ自身のものたるかの意思から発しており、しかも
意志は、それが運命として登場する人生行路においては、表象する個体としてのわれわれの意識をは
るかに超えでた領域から作用することが可能だ》と、一般論としては考えられる。これにたいしてわ
れわれの意識は、経験的に認識可能な個人的意思を導く動因を提供し、したがって、この個人的意思
は、運命として現われるかの意志――われわれの導き手である霊、「われわれの外部に住み、かつそ
の座を上天の星辰中に置く霊」――とはげしく相争わねばならぬことが多い。霊は個人の意識を広く
見わたしたうえ、この意識に発見してもらうわけにはいかぬもの、さりとて見のがしてもらいたくも
ないものを、外部からの強制として、仮借なくこの意識にたいして用意し確立する。

 以上の大胆な主張の有する奇怪な側面、否、度はずれた特質を緩和するには、まずなによりもスコ
トゥス・エリウゲナの一節が役立つかもしれない。そこで彼の《神》は認識を有せず、また時間・
空間や十個のアリストテレスの範疇を述語とすることができず、それには、意志という唯一の述語が
残されるだけである――、これはあきらかに私の場合の《生への意思》以外のなにものでもない、と
いうことが注意されねばならない。いわく、《神においては、またもう一種の別の無知がある。すな
わち、神が予知し予定したことも、現実の事物の過程において経験上いまだ現われぬかぎりは、神は
それを知らぬのだといわれる場合がそれである》(『自然の区別について』オクスフォード版八三頁)。
またそのすぐあとでいう。

194 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 09:46:38.49 ID:v3iC3QtK.net
《神の無知の第三の種類とは、行為・行動という経験をつうじて、結果と
して明確に現われたのでないものは、たとい神が、見えざる根拠を自己自身のうちに――みずから造
り、みずからに熟知されたものとして――所有しているにしても、神はこれを知らぬのだ、という場
合のことである》〔同、八十四頁〕。

 さてわれわれは、上述の見方を多少明確にするために、一般に認められている個人生活の夢の類似
性を引き合いに出したわけであるが、他面次のごとき相違にも注意が肝要である。すなわち、ただの
夢にあっては、関係は一方的であって、つまり一個のわたしが意志をもち感情をもつのに、他の人び
とは亡霊にすぎない。ところがこれにたいして人生という大きな夢においては、相互的な関係が生じ
て、甲が、乙の夢のなかでまさにそうあってほしいように登場するのみならず、乙もまた甲の夢のな
かに現われる。かくて現実的な一種の《予定調和》によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従っ
て自分にふさわしいことのみを夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自
は自分に都合のいいものを経験し、同時に他人に必要なことを実行するわけである、したがって世界
的な大事件も数千の人の運命にとって、それぞれの個人に独自の仕方で適合する。であるから、ひと
りの人間の生涯におけるいっさいの出来事は根本的に相違する二種類の関連のうちにあるといえる。
第一は自然過程の客観的・因果的関連であり、第二は主観的関連で、これは出来事を体験する個人と
のかかわりでのみ存在し、かつ彼自身の夢のごとく主観的である。しかし第二の関連においても、出
来事の継起と内容はやはり必然的に規定されているが、ただしそれは、劇の諸幕の継起が劇詩人の計
画によって規定されているがごとくにである。さてこの二種類の関連は同時に成立し、しかも同一の
出来事がまったく相違なる二つの連鎖のひとつの環として両者に適合し、その結果一方の運命はつね
に他方の運命に即応し、各人は自分自身の劇の主人公であり、かつ同時にまた別の劇の端役だという
こと、これはたしかに、われわれのあらゆる理解力を絶するもの、まことに奇異なる《予定調和》に
よってのみ可能と考えられるなにものかである。

195 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 13:35:41.26 ID:v3iC3QtK.net
 けれども他方から考えると、作曲家が彼の交響曲の
一見入り乱れる多数の響きに統一と調和をあたえうるごとく、あらゆる人間の入りくんだ人生行路
もこれと同じ程度の統一と調和を有する、ということがありえないと考えるのは、偏狭な小心者のす
ることではあるまいか? また人生という大きな夢の主体は或る意味では唯一のもの、生への意思で
あること、多種多様な現象は時間と空間に条件づけられていること、などを想起するならば、このス
ケールの大きな思想をまえにしてそうひどくたじろぐこともなくなるであろう。それはかの一つの存
在者(意志)が夢見る大いなる夢である。しかし同時にその夢をすべての人物がともに夢見るわけだ。
だからいっさいは相互にからみあい、適合しあうのである。さて人が以上の点に同意し、あらゆる出
来事のかの二重の連鎖を仮定するならば――この連鎖によって個々の人間存在は一方では自己自身の
ために存在し、その本性に従って必然的に行為し働きかけ、自分の道を進みつつ、他面ではまた別の
存在を把握しかつそれに働きかけるために、夢のなかの像のごとくまったく規定され、適合している
――、もしそう仮定するならば、人はこれを全自然界に、つまり動物や認識なき諸物にも拡張せねば
なるまい。すると前兆、予感および異象がありうるという見込みもでてくる。自然の歩みに従って
必然的に生ずるものもやはりまた他面では、わたしにとっての単なる象徴として、わたしの夢の人生
の点景として、わたしとのかかわりでのみ生じかつ存在し、あるいはわたしの行為や体験の単なる反
映・反響としてみなすこともできるからである。したがって或る出来事の自然的側面と、原因から証
明しうる必然的側面があるからといって、その出来事の吉凶を廃棄しうるわけでもなく、逆に吉凶
が自然性・必然性を排除するわけでもない。もし人が、或る出来事の自然的・必然的な諸原因を非常
に明確に――それが自然現象である場合には学者顔で物理学的に――証明し、それでその出来事の到
来の不可避なことを立証するなら、それは出来事の吉凶を除去したことになるのだ、と考えるとすれ
ば、これはとんでもない誤りを犯しているのである。

196 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 15:41:06.14 ID:v3iC3QtK.net
 理性的な人間はだれもかかるもの〔自然的諸原
因〕を疑わぬし、前兆を奇蹟だなどとは何ぴともいわぬであろう。そうではなくて、無限に後退する
原因・結果の連鎖、その独自な必然性と思議すべからざる予定、これが、この出来事の到来を
かかる重大な瞬間に不可避的なものに定めたのであり、まさにそのことから、その吉凶が生じてくる
のである。だからかの小ざかしい連中にむかっては、とりわけ彼らが物理学を解する場合には、《こ
の天地にはきみの哲学が夢想するよりもずっとたくさんのことがあるのだ》(《ハムレット』一幕五場)
の一句をとくにはっきり聞かせてやるべきである。それにまたわれわれは、前兆を信ずるとすれば占
星術にも門戸が解放されていることがわかる。前兆として通用するごくわずかな出来事、たとえば鳥
の飛びざま、人間のしぐさ等々があたえられた或る時刻において、算定可能な星辰の位置と同じよう
に、無限に遠い、はなはだ必然的な因果連鎖で条件づけられているからである。ただ星辰はむろん非
常に高所にあるから、地球の住民の半分は同時にこれを眺めうるのに反し、前兆は当該個人の圏内で
のみ現われるものである。ちなみに前兆が可能であるということを比喩によって手に取るごとく明ら
かにしたいならば、われわれは、人生行路において、結果がまだ先のことではっきりしないような重
大な場合に一歩を踏みだすにあたり、吉兆あるいは凶兆を目にし、それで警告を受けあるいは勇気づ
けられる人がいるとして、その人を一本の弦に比することもできよう。一本の弦は、弾かれるとき
自分自身の音を聞くことはないが、しかしその振動によって共鳴する他の弦を聞きわけるともいえる
からである。

 カントが物自体をその現象から区別したこと、また私が物自体を意志へ、現象を表象へと還元した
こと、それによって三つの対立のそれぞれを一本化するということが、不完全不十分ながら見通せる
ようになってきた。

197 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 15:46:42.56 ID:hN0VNYAB.net
e

198 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 16:01:52.03 ID:v3iC3QtK.net
その対立とは、

(一) 意志の自由そのものと、個人のいっさいの行為を貫く必然性との対立。
(二) 自然の機構と技巧との、すなわち作用因と目的因との、あるいは自然の産出物の純因果的な
説明根拠と目的論的なそれとの対立(これについてはカントの『判断力批判』七八節および私の主著
続編二六章三三四〜三三九頁参照)。
(三) 個人の人生行路におけるいっさいの出来事の明らかな偶然と、それの形成にあずかる精神的
(内的)必然性――これは個人のための超越的合目的性による――との対立。通俗の言葉でいえば自
然過程(自然のなりゆき)と摂理の対立である。

 これら三つの対立のそれぞれを一体化しうるというわれわれの見解は、むろんどの場合にも完全で
はないけれども、第一においては第二の場合よりもはるかに明確であり、第三において最も明確さを
欠いている。他面これら三対立のいずれか一つの一体性を理解することは、よしそれが不完全な理解
であろうと、必ず他の二つに光明をあたえる。つまり比喩ないし象徴として役立つのである。――

 さて最後に、以上考察してきた個々人の人生行路にたいするこの神秘的な操縦は、全体としていっ
たい何を狙いとしたものであるか、という点になると、ごく一般的にしか答えることができない。個
々の場合にとどまるかぎり、かの操縦はわれわれの現世における、一時的な安穏を眼中においている
かにみえることも多い、けれどもこれは、その微弱、不完全、空疎かつ不安定さからみて、まともな
意味でその究極目標ではありえない。だからわれわれは目標をわれわれの永遠の、個人の生活を超え
た存在のうちに求めなくてはならない。その場合ごく一般的にいえるのは次の点である。われわれの
人生行路はかの操縦により次のように調節される。すなわち、人生行路をつうじてわれわれに現われ
てくる認識の全体からして形而上学的にみてまことに有効な印象が意志にむかって生じてくるよう
に、である。

199 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 16:31:44.91 ID:v3iC3QtK.net
 意志は人間の核心であり本性そのものであるからだ。というのは、生への意思は、その
努力の表われとしての世界の歩み一般のなかに解答を得るのであるけれども、しかしやはりおのおの
の人間こそが個別的な唯一の仕方によってかの生への意思となるのであり、いわばかの意志の個体化
された作用だからである。したがってそれへのじゅうぶんな解答は、彼独自の体験においてあたえら
れる、世界の歩みの完全に限定された形成でしかありえない。さて私の真摯な哲学(ただの教授哲学
や冗談哲学に対立する)の結果からして、生からの意思の離脱を現世の生存の究極目標として認識し
たのであるから、われわれは次のように想定しなくてはならない。すなわち各人はそれぞれ自分に適
した仕方で、ときには回り道をしながら、そちらの方向へ徐々に導かれてゆく、ということである。
さらに、幸福と悦楽とは本来この目的をはばむものなのであるから、これに応じて、不幸と苦悩がど
の人生行路にも必ず織りこまれること、しかもその程度はさまざまで、過度になることつまり悲劇的
結末に終わることはきわめてまれであることがわかる。悲劇的結末にさいしては、意志はほとんど暴
力的に生の回避〔死〕へと追いやられ、いわば帝王切開をもって再生に達するごとくにもみえる。

 かくして、見えざる、あるかなきかの光のなかに現われるかの操縦は、人生の本来の結果でありま
たそのかぎりで人生の目的である死に至るまで、われわれに随行するわけである。死の時がくると、
神秘的なすべての力(もともとはわれわれ自身に根をもつものだが)、人間の運命をたえず規定する
力がいっせいに押し寄せてきて行動を起こす。これらの諸力の葛藤からして、彼がいまや歩むべき道
ができあがる。つまり彼の再生がいっさいの快苦とともに準備され、これらの快苦は再生のなかに
含まれ、爾後再び撤回を許されぬように定められる。――臨終の厳粛な重大な荘厳な恐るべき性
格はここにある。臨終は言葉の最もきびしい意味において《分かれ目(危機)》――ひとつの世界審判
なのである。

200 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 23:26:35.91 ID:v3iC3QtK.net
     視霊とこれに関連するものについて


   では教えてやろう。
   太陽や星ばかりにこだわらず
   さあ、暗い国へ向かってわたしについて来い。
                              (ゲーテ)

 理知が過度に重んじられた前世紀には、それ以前の時代とはちがい、もろもろの幽霊が、かつての魔
術のように追放され、軽蔑された。ところがこうした幽霊も近々二十五年間にドイツで復興してきた。
それもおかしいとばかりはおそらく言えないだろう。なぜなら、幽霊の存在を否定する論拠のひとつ
はおよそ不確かな理由にもとづく形而上学的な論拠であり、もうひとつは次のようなことしか証明でき
ない経験的論拠だからである。すなわち、偶然にあるいは故意につくられた像が発見されないときは、
光線の反射によって網膜に、あるいは空気の振動をつうじて耳の鼓膜に作用するであろうような、なに
ものも存在しないということしか証明できない論拠なのだ。しかしこの論拠は、いまあるかどうかにつ
いてはだれもはっきり主張できない物体の存在が問題になるときだけ、あるいは物理学的方法を用いて
は霊が存在することの正しさが示されるときだけ通用する。それというのも、もともとすでに霊の概
念のなかには、霊の有無は物体の有無とはまったく異なった方法でわれわれに知らされる、ということ
が含まれているからである。おのれ自身をよくわきまえ、おのれを表現することが巧みな視霊者の主張
は、直観する知性のなかに存在する像は物体によって光と眼をつうじてひきおこされるものの、実際に
はそうした物体が存在しない場合に生ずる像とはまったく区別できないということである。たとえば、
どんなときにこうした像が生ずるのだろう。それはなにかが聞こえてくるとき、すなわち騒音、音声、
響きなどが耳にはいってくるときだ。

201 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 09:07:47.06 ID:qvpiHSzA.net
 これは振動する物体と空気をつうじて耳のなかにもたらされるも
のとまったく同じえある。ところが、じつは振動体があるのでもなく、また振動体が運動しているので
はない場合がある。霊的存在の有無を論ずるすべての議論のなかに示される誤解のもとはここにある。
すなわち霊的現象は、物体の現象とまったく同様にあらわれるという考え方である。もしそのように霊
的現象があらわれるのでなければ、霊的現象などはあるはずがないという見方である。霊的現象と物体
の現象との区別はむずかしく、専門知識つまり哲学的・生理学的な知識を必要とする。なぜなら大切な
のは、ある物体によってひきおこされるのと同じ作用が、かならずしも、なんらかの物体の存在を前提
としてはいないという事実を理解することだからである。

とくに重要なのは、わたしがこれまで何度も詳述してきたことをふりかえり、しっかりと心にとめる
ことである。(とりわけ、拙著『根拠律の四つの根について』第二版・第二一節、『視覚と色彩につい
て』第一節――ラテン語論文『色彩論』第二章、『意志と表象としての世界』正編一二〜一四頁〔第三版
では一三〜一五頁〕それに続編・第二章である。)すなわち、われわれの外界についての直観はたんに感
覚的なばかりでなく、主として知的である。(客観的に表現すれば)脳的であるということだ。――感
官は、それぞれの器官のなかに単なる感覚以上のものを与えない。したがって因果律と、やはりア・プリオリ
に悟性に内在する時間と空間という形式を適用することによってはじめて、物体の世界がつくられる。
こうした直観行為への刺激は、覚醒した普通の状態であればもちろん感官の感覚から生ずるが、こうし
た感覚も、もとはといえば、悟性によって設けられた原因の結果である。しかし、いつか、まったく別
の側から、いうなれば内部から、生体自身から生じた刺激が脳に達し、ついで脳から脳特有の機能と
機構をつうじて、あのような感覚を生ずることがありえないであろうか? それに脳がこうした加工を
してしまえば、もとになる材料がちがっていたことなどは、もはや見分けがつかないであろう。乳糜に
なってしまえば、もとになった食物がなんであったかわからなくなるのと同じ事情にある。

202 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 09:49:01.76 ID:qvpiHSzA.net
実際になんらかのこの種の場合に遭遇したときには、これによってもたらされた現象の原因はいかに遠いと
いっても、生体の内部以外には求められないのではないか、それとも、たといその現象の原因がなんら感官
の感覚に由来しないとしても、もちろん物理的あるいは物質的なものでないにしても、とにかく外的なも
のではないかという疑問が生じてくるであろう。さらには、与えられた現象がこうしたかけ離れた外的
原因の状態になんらかの関係をもっているにせよ、こうした外的原因がはたして問題の現象の指標を示
すばかりか、現象の本質を表現しているのだろうか、とう疑問が生じてくる。こうした事情からして
も、この問題を扱う場合にも、物質の世界を扱う場合と同様に、われわれは、現象と物自体との関係は
どうなっているかという疑問に導かれるだろう。だがこのことは超越的な立場に立つことであり、そし
ていったんこの立場に立つ以上、おそらく、霊の現象とても周知のように不可避的に観念論に従わざる
をえない。したがって、霊の現象も、大きな迂回をしてはじめて物自体に、つまり真に現実的なるもの
に達することのできる物体の現象と寸分変わらぬ観念性に従うことになるという結果が出てくるであろ
う。ところがわれわれは、この物自体は意志であることを認識している。したがって物自体は物体の現
象とまったく同じように霊的現象の基礎にあると推測される。霊的現象についての従来の説明はすべて
唯心論的であった。そうであったからこそ、ここでは観念論的な説明をしてみようと思う。――

 このようにざっと展望し、何が出現するかを予想したまえおきを終えたあとで、いよいよつまびらか
に問題をしらべてゆくわけだが、わたしはテーマに即してゆっくりと歩をはこぶことにする。ただし
ここで取り扱われる事柄が読者にはすでによく知られているものとわたしが前提としていることを指摘し
ておこう。

203 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 10:46:29.72 ID:qvpiHSzA.net
 それはひとつには、わたしの専門は物語をすること、つまりものごとをあれこれと述べたて
ることではなくて、ものごとの理論にとりくむことであるからであり、またひとつには、もしわたしが磁
気に関係する病気、夢、幽霊現象など、われわれのテーマの基礎となる材料であって、すでに多くの本
のなかに書かれていることすべてを再びくりかえすとなると、それこそ巨大な本を書かねばならないか
らである。そのうえ、偉そうな態度をとってはいるものの、このところ日に日に信用を失い、じきにイ
ギリスだけで余命を保つようになる無知からくる懐疑主義に戦いを挑むことなどは、わたしの務めでは
ないからである。今日では動物磁気ならびに透視が明白な事実であることを疑う者は、たんに信仰がな
いばかりでなく無知であるといわれる。しかしわたしは多くのことを前提としてかかげなくてはならな
い。少なくとも、霊の出現あるいは霊についての他の報告をとりあげた現存する巨大な量の本の幾冊か
について読者が熟知していることを前提としなくてはならない。そこでわたしは、とくにきわ立ったこ
とが書いてあるところ、論争点になっているところが出現したときだけ、そうした本から引用したこと
を明らかにしよう。その他の点については、わたしは、読者がすでにわたしの他の著述を知っているも
のと考える。そこでわたしがなにかを事実上確立したものとして示した場合には、その基礎資料は確か
なものであるか、それともわたしがおのれの経験に照らして確実だとしたものであることについて読者
の信用がえられるのを確信している。

 ここでまず問題となるのは、実際にわれわれの直観する知性あるいは脳のなかで見られる像は、外的
感官に作用する物体の存在によってひきおこされる像と完全にまったく区別なく、しかもこうした外の
物体に影響されずに生ずるかどうかである。幸いにも、われわれときわめてなじみの深い現象が、この
点についてのあらゆる疑念をとりはらってくれる。それは夢である。

204 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 13:07:39.87 ID:qvpiHSzA.net
 夢を単なる思考の遊びあるいは単なる空想が生みだす像とすることは思慮の不足あるいは公正さの欠
如を示している。なぜならこうしたものは明らかに夢とはまったく異なっているからだ。空想が生みだ
す像は、いずれも弱々しく、うすぼけており、不完全、一面的であり、それにごく一時的である。した
がって人は、眼のまえにいない人の像を、数秒間もまざまざと思い浮かべるわけにはいかない。それば
かりか、いかに空想力をたくましてしても、空想が生みだすものは、夢がわれわれに与えてくれる手で
とらえることのできるような、はっきりした現実とはほど遠い。夢のなかでのわれわれの表現能力は、
われわれの想像力をはるかに凌駕する。夢のなかで見える対象は、空想力をたくましくしてもけっして
及びもつかないほど現実とまったく同じく、きわめて偶然的な特性にいたるまで、いずれも真実、完全
さ、それに首尾一貫した全面性をそなえている。そのため、もしわれわれが夢の対象を自分で勝手に、選
びだせるとすれば、夢はわれわれに、まったくすばらしい光景を提供してくれるであろう。空想が生み
だすもろもろの像が、同時に受ける現実の外界からの印象によって妨げられ弱められる、という事情に
もとづいて夢を説明しようとするのは、まったく誤っている。なぜなら、真夜のきわめて深い静けさの
なかでも、空想は夢がもたらす客観的ないきいきとした明瞭さに匹敵するようなものを生みだすことが
できないからだ。それに空想が生む像は、つねに思考の連鎖あるいは動機によってもたらされ、こうし
た連鎖、動機の勝手気ままな意識に伴われる。これに反し夢は、ちょうど外界のように、まったく異質
的なもの、われわれの力とは関係なく、そればかりかわれわれの意思に反して迫ってくるものとしてあ
らわれる。それに、きわめて些細なものであっても夢の動きがまったく予期できないことも、夢には客
観性と現実性があることのはっきりした印を与えている。夢のなかのすべての対象は、現実さながらに
はっきり、明白にあらわれる。

205 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 13:25:29.97 ID:qvpiHSzA.net
 そのことは、たんにわれわれに関連のあるところ、すなわち、平面的・
一面的な、あるいは、おもな一般的な輪郭のなかばかりではなく、最も小さな偶然的な個々の点まで、
つまりわれわれにとってしばしば妨げとなり、われわれの進路を阻むような事情のこまかい点について
まで、はっきりと示される。夢のなかでもすべての物体は影をもち、すべての物体は、いずれもそれぞ
れ特有の重さにしたがって重力によって落下し、あらゆる障害物は、まったく現実におけるのと同様に
しなければ取り除くことができない。また夢がまったく客観的であることは、夢のなかの動きのほとん
どがわれわれの期待に反し、しばしばわれわれの希望とは逆に進むばかりか、ときにはわれわれの度胆
をぬくことによっても示される。さらに、登場人物が、それこそ言語道断の無遠慮さでわれわれに立ち
むかうこと、また夢見る人はだれでもシェークスピアであるという適切な言いまわしを生んだように、
彼ら登場人物が、夢のなかで、純粋客観的な性格と行為について劇的な真実性をそなえていることも、
夢が客観的であることを示している。なぜなら、夢が全知全能であることによって、夢のなかでは、自
然のあらゆる物体は本質的な性質どおりに活動し、また夢のなかではあらゆる登場人物はそれぞれの性
格に完全に即して行動し、かつ語るということになるからだ。これらすべての事情からして、夢が生み
だす幻想はあまりにも強力である。そこで、覚醒したときわれわれが直面する現実自体ですら、いった
ん夢と戦い、もはや夢は存在しなくなったのだ、単なる夢だったのだと夢の迷妄についてわれわれに確
信させるためにおのれ本来の姿を示すまでに、かなりの時間をかけなくてはならない。ものごとを想起
するにあたっても、とりわけ些細なことを思いだそうとするときには、われわれはときに、あのことは
夢のなかで起こったのか、それとも実際に生起したのかを疑うこともある。これに反し、だれかが、あ
るものごとを思いだすとき、これは実際に生起したことであったのか、それとも自分がたんに空想した
ことであったのかと思い悩むようなことがあれば、その人はおのれに狂気の疑いをかけることになる。

206 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 14:29:47.75 ID:qvpiHSzA.net
これらのことすべては、夢はわれわれの脳がもつまったく特有の機能であり、単なる空想力とその反芻
とは異なっていることを証明している。――アリストテレスも「夢の像はある意味では知覚である」と
言っている。(『夢と覚醒について』第二章)。また彼は、われわれは夢のなかでさえ、現にないものを空
想によって思い浮かるという微妙にして正しい指摘をしている。このことからしても、夢のなかでも
空想は役に立つが、空想自体は夢の媒介物でも器官でもない。

 他方、夢は狂気と否定できない類似点をもつ。夢見る意識と覚醒した意識とのおもな違いは、夢見る
意識には記憶が欠けていること、あるいはむしろ首尾一貫した思慮深い追憶が欠けていることである。
われわれは驚くべき、そればかりか不可能な状況や事態のなかで夢を見るが、そのさいわれわれは、こ
れらの状況や事態と登場しない人物との関連や、これらの人物がいざ登場した場合の原因を探ることは
思いつかない。われわれはつじつまの合わない行動をするが、それはわれわれが、これらの行為と対立
したことを思い浮かべないからである。夢のなかでは、かなり以前に死んだ人がいぜんとして生存者と
して姿をあらわすが、その理由は、夢のなかでわれわれが彼らの死んだことに思いをいたさないからで
ある。しばしばわれわれは、若いころの状況に再び身を置き、当時の人びとに囲まれ、すべてが昔のま
まという夢を見ることがある。それというのも、その後はいりこんできた変化や変貌をわれわれが忘却
しているからである。したがって夢のなかでは、すべての精神活動のうち記憶だけはあまり役立ってい
ないというのは、ほんとうのことであるように思われる。この点に夢と狂気の類似性があるのだが、こ
のことは、わたしがすでに(『意志と表象としての世界』正編・第三六節ならび続編・第三二章で)示
したように、本質的には、記憶能力があるていど混乱することに帰せられる。こうした見方に立てば、
夢は短期の狂気、そして狂気は長期の夢と名付けられよう。したがって全体として夢のなかでは、眼前
の現実の直観はまったく完全なきめこまかなものである。

207 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 22:01:34.98 ID:qvpiHSzA.net
これに反しわれわれの視界は、欠けているも
の、過ぎ去ったものが、それも偽りのものであってもほんのわずかしか意識のなかにあらわれない以
上、まったく限られている。

 現実の世界では、あらゆる変化がかならず、それに先行する他のものつまり原因の結果としてだけあ
らわれるように、われわれの意識のなかへのすべての思想や表現の登場は、根拠律にしたがっている。
それゆえ、こうした思想や表象はいつも、感覚に対する外的印象、あるいは連想の法則にしたがい(こ
れについてはわたしの主著続編第一四章に書いてある)、先行するものによって出現しなければならな
い。それ以外にはこうした思想や表象はあらわれない。われわれにとって存在するすべての対象を拘束
し制限する例外のない原則である根拠律には、もろもろの夢も、それが出現するさいにはしたがわなく
てはならない。そうはいっても、夢がこの原則にいかにしたがっているかを解明するのはきわめて困難
である。なぜなら夢の特徴は、これがもともと眠りによって制約されていること、つまり頭脳と感官の
普通の活動が停止されていることだからである。これらの活動が休止して、はじめて夢が登場できる。
その間の事情は、部屋の照明が消されてはじめて幻燈の像があらわれるのと同じことである。したがっ
て夢の出現、ひいては夢の材料も、まずは感官に対する外的印象によってひきおこされるものではな
い。浅い眠りのさい、外部の音、それに匂いなどが意識のなかにはいり、夢に影響を与える個々の場合
もあるが、わたしはこれらを特別の例外として無視することにする。だが、夢が思考の連鎖をつうじて
ひきおこされるものでないことも注目すべきである。なぜなら、夢は深い眠りのただなかに、したがっ
て完全な、それこそまったく無意識な状態とみなされるべきであり、思考の連鎖の可能性などはみじん
もないような、脳の本源的休止のときに生ずるか、それとも、夢は眠るとき、ということは覚醒した意
識から眠りへはいる移行のさい生ずるからである。そのうえ、眠りにはいる寸前にも夢が出てくる。

208 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 00:16:38.35 ID:+lAD4wrl.net
 また夢はなんらかの思考の連鎖によって覚醒時の表象と結びつくことはなく、その材料と登場する機会
を、われわれが知らないどこかから取ってくる。したがって、夢は覚醒時の思考の連なりの糸とは無関
係であることを確信できるようになる。眠りにはいった人がまず見る夢の像は、容易に観察できるよう
に、眠りにはいるときのその人の思考とはなんの関連もないばかりか、こうした思考とはまったく異質
的である。そのために、まるで夢が、世界におけるすべての事物のなかで、われわれが最も少なくしか
考えていなかった事物をわざわざ選びだしたかのように思えてくる。したがってこのことを熟考する人
は、いったい何によって夢の選択と夢の状態が定められるのかという疑問をもつ。彼らは、これについ
て(ブールダハが『生理学』第三巻で、微妙にしかも正しく指摘したように)眠りにはいったとたんに
あらわれる夢はけっして首尾一貫した出来事をあらわしておらず、われわれも他の夢のときとはちがっ
て、ほとんどの場合、行動する者としてはあらわれない。さらにこの種の夢は、眠りにはいったとたん
にあらわれる個々の像からなる、純粋客観的なドラマかあるいはきわめて単純な出来事かのいずれかで
あると特徴づけられている。われわれはこんな夢を見ると、しばしばすぐに目をさます。そのようなとき、
われわれは、こうした夢が、眠りにはいる寸前に存在した思考とは似た点などは少しもなく、類比しよ
うもないほどかけはなれており、あるいはまったく無関係であることを完全に確信できる。むしろわれ
われは、眠りにはいるまえの思考の動きとあまりにちがっている夢の内容の異様さに驚かされる。そ
のありさまは、ちょうど、現実のなんらかの対象が覚醒時に、あまりにも偶然な経路でとつぜんわれわ
れの知覚のなかに出現するのと同じである。しかもこうした夢の現われ方は、しばしばくりかえされ、
夢の内容もあまりにも驚くべきほど盲目的に選ばれるため、まるで、くじ引きかそれともサイコロの目
によってそれがきめられているかのようだ。――根拠律がわれわれの手中に与える糸も、夢のなかでは
内と外の両端で切断されたかのように思われる。しかしそんなことは不可能であり、考えることもでき
ない。

209 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 01:14:43.65 ID:+lAD4wrl.net
 必ずや夢のなかに、もろもろの像をもたらし夢の状態をはっきりときめるような何らかの原因が
あるにちがいない。したがてこうした原因から、たとえばわたしが眠りにはいる寸前までは他のこと
を考えていたのに、眠りにはいるやいなや、ほかならぬ風に軽くそよぐ豊かな樹木が、やにわにあらわ
れるのはなぜか、また他のときには頭上にかごをのせた娘が、さらに他のときには兵士の一群などがあ
らわれるのはなぜかということが解明されるにちがいない。

 ところが、眠りにはいったとたんでも、眠ってからしばらくたってからでもよいが、とにかく夢があ
らわれてくると、すべての表象の唯一の座であり器官である脳において、外界および身体の内部からの
感官をつうじての刺激が思考によって中断される。そんなわけで、脳は生体の内部から生ずるなにか純
粋な生理的な刺激を受けるのだというほか説明のしようがない。脳に対するこの種の影響には神経およ
び血管の二つの道が開かれている。生命力は睡眠中、したがってすべての動物的機能がとまっていると
きは、まったく有機的な生そのものに還元させられる。生命力はそのさい呼吸、脈搏、体温、それにほ
とんどすべての分泌活動をいくらか減少することによって、もっぱら緩慢な再生産、害を受けたあらゆ
る個所の治療、就眠前にはいりこんできたすべての無秩序の除去にとりくむことになる。したがって睡
眠こそ、その間に「自然の治療力」があらゆる病気に治療効果のある峠をつくり、のさばる害悪に決定
的な勝利をおさめる時間である。そのため眠りのあとの病人は、病気がなおるときも近づいたというはっ
きりした感情に満たされ、心も軽く嬉々として目ざめるのである。いっぽう健康者の場合にも同じよう
なことが起こるけれども、その効果は、すべての必要な点について、病人とくらべればずっと少ない割
合でしかあらわれない。そうはいっても健康者も、目ざめたときには再生、更新の感情に満たされる。
とくに睡眠中、脳は覚醒時には入手不能の栄養を獲得する。その結果えられるものは意識の明瞭さであ
る。

210 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 13:25:59.15 ID:+lAD4wrl.net
 これらすべての操作は、形成的な神経組織、ということは体全体のなかでおもな神経の線と他の線
とを結びあわせることによって巨大な交換性神経あるいは内的な神経群を形成するすべての巨大な神経
節の指導と制御のもとにある。これらの操作はもっぱら外的関係の指導にあたり、そのために外部にむ
けられた神経器官と、これによってもたらされる表象をかかえる外的神経群つまり脳とは、まったく分
かれ、孤立している。したがって普通の状態ではこうした操作は意識にのぼらず、感じられることもな
い。しかもこの操作は、かぼそくわずかに吻合するだけの神経をつうじて脳組織と間接的な弱い結びつ
きをもつだけである。異常な状態のもとで、あるいはさらに内的部分が損傷したときこの操作が行なわ
れると、例の孤立であるていど揺るがされ、鈍い鋭いのちがいはあれ、そのことが苦痛として意識にの
ぼってくる。これに反し普通の健康状態では、きわめて複雑でしかも活動的な有機的生命の仕事場にお
ける動きや運動、それにこの仕事場の軽やかなあるいは重々しい発展からは、この経路をたどっても、い
かにも弱々しい失われた反響しか意識に到達しない。有機体の生命の仕事場での成り行きは、脳がおの
れ自身の操作、すなわち外部の印象を受け入れること、そのさい物を見ること、考えることに忙殺されて
いる場合には、まったく知覚されることなく、たかだかひそかな無意識的な影響を及ぼすだけである。
こうした影響から客観的理由によっては解明されえない気分の変化が生ずる。ところが、外からの印
象が活動を停止し意識内部での思考の活発な動きもしだいに消滅してゆく睡眠のさいには、有機的生命
の内的神経群から間接的な経路をたどってあらわれでる例の弱いもろもろの印象も、脳の血管に波及す
る血液循環のわずかながらの変化とともに実感されるようになる。そのありさまはちょうど、夕闇がせ
まってくると蝋燭の火が輝きはじめ、昼間は他の物音のために聞こえなかった泉のほとばしる音が夜に
なると耳にはいるようになるのと同じである。覚醒した、つまり活動する脳に作用するにはあまりにも
弱々しいもろもろの印象も、脳の活動がまったく停止したときには、その個々の部分の軽い動きとこれ
らの動きを表象する力を生み出すことができる。――

211 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 15:00:03.70 ID:+lAD4wrl.net
 そのことは、竪琴が、外部の音に共鳴しなくても
静かにつりさげられていると、おのずから音を発するのと同じ事情にある。この点こそ、例の眠りに
はいったとたんにあらわれる夢の像の原因、ひいては、この種の夢の像のきわめてはっきりとした規定が求
められるにちがいない。さらに、深い眠りにはいったときあらわれる、劇的な結合をもつ夢の原因そ
の規定もはっきりするにちがいない。最も深い眠りのさいに見られる夢は、なんとしても脳がすでに完
全に休止し、栄養をとることに専念している以上、内部からいっそう強力な刺激を必要とするにちが
いない。したがって、個々のしかもきわめて限られた場合に生ずる、予言的な夢あるいは事実と一致す
るような夢は、この種の夢だけである。ホラティウスはこれについて正しくも次のように歌っている。

     ほんとうのことを夢みるのは真夜中を過ぎてからだ。

 けだしこの点については、朝まだき見る夢も、眠りにはいるときに見る夢と同じ事情にある。それは、
じゅうぶん休み、飽きるほどくつろいだ脳はふたたび、いささか刺激に応じやすくなるからである。

 したがって有機的生命の仕事場からの反響は、感情鈍磨ああるいはそうなりつつある脳の意識の活動の
なかにとびこみ、たしかに異常な方法によっておりしかも覚醒時とは別の面ではあるけれども、こうし
た脳の活動を少しくゆさぶる。しかし他のすべての刺激に対する戸口が閉ざされているため、この有機
的生命の仕事場からの反響が基礎となって夢の像形成のための機会と材料がつくられる。そのさい夢の
像と例の反響の印象とはおそろしくちがっていてもかまわない。なぜなら機械的な振動や内部神経の痙
攣によって眼も、外の光がもたらす明るさや光とまったく同じ感覚をもつことがあるからである。それ
に耳は、内部の異常な動きの結果、あらゆる種類の音を聞くことがしばしばあるし、嗅覚の神経は、な
んらの外的原因もないのに特別の限定された匂いを感じることがある。さらに味覚神経も似たような方
法で刺激される。けっきょくすべての感官の神経は、内部からも外部からも、それぞれ固有の感覚を刺
激される。

212 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 21:28:41.09 ID:+lAD4wrl.net
 これと同じぐあいに脳も、生体内部からの刺激によって、空間を満たすもろもろの形姿を見
る機能をはたすようになる。そのようにして出現した像は、外的原因によってよびおこされて感覚器官
のなかに生じてくる像とはまったく区別されない。このことは、胃が取り入れたすべてのものから乳糜
をつくり、はいりこんできたすべてのものから腸は糜汁をつくるが、これらの乳糜や糜汁は原材料とは似
ても似つかぬものである、ということと同じような事情にある。これと同様に脳も、脳特有の機能を発
揮して、脳に到達するすべての刺激に反応する。第一の反応は、脳自身の直観形式である空間に、三次
元すべてにわたるもろもろの像をくりひろげることである。それにつづく反応は、これらの像を空間の
なかで、因果律にもとづいて動かすことである。時間と因果律にしたがってゆくことは脳特有の活動機
能である。なぜなら脳はつねに、脳特有の言葉を語らなくてはならないからだ。したがって、こうした
言葉によって、脳は睡眠中、内部からやってくる弱いもろもろの印象を翻訳する。その間の事情は、覚
醒時に外部から強力なしかもこれときまった印象を受けたときと同じである。内部から受ける印象もも
ろもろの像をくりひろげるが、これらは外部から感官を刺激されるさいに生じるもろもろの像とまった
く変わらない。もっとも、内外からの二重の印象をいかにして受けるかという経路には少しも類似点は
ない。しかし内部からのこうした印象を受ける人の態度は、耳に到達したいくつかの母音をもとに、も
ちろん誤ってはいるものの、なんとはなしにまとまった文章をつくりあげる耳の悪い人の態度にそっくり
である。あるいは、偶然にちょっとした言葉が耳にはいると、やにわに固定観念にもとづいてものすご
い妄想をたくましくする狂人の態度とも似ている。ともかく脳のなかまで踏み迷い、夢をつくる機会を
与えるのは、生体内部のある種の動きの弱い反響である。したがって夢はこの反響の印象の種類にした
がってそれぞれ独特の姿を示す。少なくとも夢は霊の印象から合図を受ける。そればかりか夢は、たと
い霊の印象とはまったくちがったものであるにしても、どことなくそれに似ているが、少なくとも象徴
的に対応している。

213 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 22:16:59.03 ID:+lAD4wrl.net
 このことは深い眠りにはいったときに脳を刺激する印象について、とくにはっきり
言える。それは、こうしたときこそ印象はきわめて強力なものとなるにちがいないからだ。そのうえ、
有機的生命の内的な動きは、外界の知覚にたずさわる意識に異様かつ奇妙な方法で作用するために、こ
うした経路で生ずる夢のなかの視覚は、まったく予想外のものであり、こうした夢を見るまえに存在し
た思考の動きとは完全に異質的かつ異様な形姿にとりくむことになる。われわれも、眠りこけたとき、
そしてすぐに目ざめたとき、このことをみずから観察できる。

こうした説明のすべてはさしあたり夢があらわれる直接の原因、あるいはその機会を教えるだけであ
る。しかも夢のあらわれる原因や機会はたしかに夢の内容にも影響を与えるけれども、夢の内容とはあ
まりにも異なっているために、両者の類似性がいかなる性格のものであるかはいぜんとして解明しがた
い。そのうえ、もともと夢が出現する場所である脳内部の動きはますます謎に満ちている。眠りは脳の
休止だが、夢はいくらかではあるが脳の活動である。したがってわれわれは矛盾におちいらないため
に、脳の休止といっても相対的なものであり、いっぽう夢見る脳の活動はきわめて制限された部分的な
活動であると、説明しなくてはならない。だが、どういう意味で夢が脳の制限つきの部分的な活動であ
るのか、それは脳の一部の活動あるいは活動の度合いの少なさなのか、あるいは脳内部の運動の種類の
ちがいなのかといったこと、それに、もともと夢を覚醒時の状態から分けるものは何かということをわ
れわれは知っていない。――夢のなかで活動しないような精神力はない。それでも夢の経過や、夢のな
かでのわれわれの振舞いは、しばしば異常なまでの判断力の欠如や、すでに述べたように記憶の喪失を
示している。

214 :むくう:2015/10/29(木) 22:45:29.19 ID:5/L3cqga.net
      「寝てる夢とシルバーコードとの関係について」

脳の働きのレム睡眠に夢を観るとかあるけど、シルバーコードが霊肉と繋がっている
ことが条件であり、シルバーコードが肉と霊との繋がりが切れてしまうと、夢を観て
いても、心臓の働きが止まっていることであり、脳の働が止まっていても、夢の続き
を観ることになると思われ、ただ、この場合は、夢から醒めないことになるのかも知
れないと思われる。

215 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/30(金) 00:54:40.74 ID:dFPo5sUY.net
 いまとりくんでいるテーマに関連して、われわれは空間を満たす対象を見てはっきりと表象したり、
ありとあらゆる種類の音や声を聞きかつ理解する能力をもっているが、両者の能力はともに感官、感覚
の外的な刺激を夢のなかでは必要としないこと、他方、覚醒時にはこうした感官による感覚の外的刺激
はわれわれの直観に材料あるいは経験的基礎を与えるもととなるものではあっても、けっしてわれわれ
の直観と同一ではないという事実がある。なぜならわれわれの直観はまったく知的であり、けっして
たんに感覚的ではないからである。この点についてはわたしは何度も述べてきたし、それぞれ関連する
場所で説明しておいた。この疑う余地のない事実はしっかり心にとめておかなくてはならない。なぜな
らこの事実こそ、われわれのこれから述べるすべての説明のもとになる原現象だからである。そしてわ
れわれは霊の能力のいっそう幅広い活動の説明にとりくんでいくことになろう。スコットランド人は、
経験の賜物である適切な機転に導かれてきわめて意味深長な言葉を選び、この能力を最もすばらしく表
現した。彼らはこの能力の現われ方あるいはその用途の特別な持ち味に目をつけた。彼らのその表現は
「セカンド・サイト」つまり第二視覚である。なぜなら、いまここで述べている夢を見るという能力は
じじつ第二の能力であり、外的感官をつうずる直観能力、つまり第一の能力ではないけれども、その対
象となるものは、種類・形式からして第一の能力と同じだからである。このことから推論されるのは、
第二の能力も第一の能力同様、脳の機能だということだ。したがって例のスコットランド人の命名は、
関連現象のすべての種類を記述し、これらひとつの根本能力に帰するうえで、たしかに最適のもので
あろう。しかしこの言葉を発明した人はこれを第二の能力の、めったにあらわれない特別な注目すべき
表現を記述するときにだけ用いている。したがってわたしとしては、どんなにこの言葉を用いたくと
も、霊の直観の種類、もっと正確にいえば、これらの直観のなかに展開される主観的能力すべてを名づ
けるために使用するわけにはいかない。

216 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/30(金) 16:48:25.70 ID:dFPo5sUY.net
 それに代わるものとしては、いまのところ夢の器官という言葉
以上に適切なものはない。これならば、だれにでもよく知られており、周知の現象のあらわれをつうじ
て、問題の直観方式をうまく表現できる。そこでわたしはこの言葉を、これまで示してきた感官への外
部からの印象とは独立した直観能力を記述するさいに用いることにする。

夢の器官が普通の夢のなかで示す対象を、われわれはまったく幻想的なものとみなす傾きがある。そ
れはこうした対象が覚醒と同時に消失するからである。ところが、いつもそうだとはかぎらない。われ
われの主題にかんしては、例外をおのれの経験に照らして熟知することがきわめて重要である。おそら
くだれでも、それ相応の注意力をこのことに向けるようになれば、じゅうぶん納得することができるだ
ろう。すなわち、われわれはたしかに眠り、夢を見てはいるのだが、それとともに、われわれをとりま
く現実自体もいっしょに夢見ているという状態がある。こうした場合には、われわれは寝室とそのなか
にあるものすべてを見ているし、さらに寝室にはいってくる人の姿を見る。そしてわれわれは寝台に寝
ながらにして、これらすべてを正しくそしてじゅうぶんにわきまえている。それでもわれわれはまっ
たく眼を閉ざしたままである。われわれは夢を見ている。しかしわれわれが夢で見ているものは、真実
であり現実である。これはまるで、われわれの頭蓋がすっかり透明になり、そのため外界はもはや感官
のせまい扉を通る迂路を経るのではなく直接脳に到達したかのよおうな状態に他ならない。この状態は
普通の夢とちがって、覚醒時の状態とほとんど区別しがたい。だがそうはいっても(これについては
『意志と表象としての世界』正編・第五節一九頁、〔第三版一九頁以下〕を参照のこと)覚醒は、目ざめ
た状態と夢のあいだの唯一の基準であり、夢ではその客観的なおもな側面の半分がなくなる。すなわ
ち、これまで述べてきたような種類の夢からさめると単にわれわれの主観的変動が生ずるだけだが、こ
れはわれわれが突然われわれの知覚器官の変化を認めることにある。

217 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/01(日) 17:18:27.80 ID:Pe2301H8.net
 しかし認めるといっても、かすかにやっと認めるという程度である。それはなんら客観的な変化に伴わ
れていないため、気づかれないですまされることもある。こうした事情のために、現実を示す夢には、多
くの場合、現実には属さない像が混合され、こうした像が覚醒と同時に消失するとき、あるいは、そのこ
とについてはすぐに後述するが、こうした夢の濃度がきわめて濃いときにかぎって夢を見たことが知覚さ
れる。いま述べたような種類の夢はふつう睡眠中の覚醒といわれる。それはなにもこの種の夢が覚醒の中
間にあるからではなく、この種の夢は睡眠しているあいだに覚醒すること自体を示しているからである。
したがってわたしはむしろこれを正夢と名づけようと思う。たしかにこの種の夢については、ほとんどの
場合、早朝あるいは眠りにはいってからしばらくたったあとの夜間、自分が見たことに気づくであろう。
それはただ夢を見た記憶が残っているのは眠りが深くなく、すぐ目ざめる機会があるときだという事情が
あるからだ。じつは、この種の夢がはるかにひんぱんに深い眠りのさいにあらわれることは確実である。
夢遊症患者の眠りが深ければ深いほど、彼らはよりはっきりと夢見ているというのが通例となっている。
だが彼らは、自分が見た夢についてなんらの記憶も残していない。これに反し、この種の夢が浅い眠り
のさいによくあらわれるということは、眠りが浅いときには、催眠術にかけられて見る夢からさえ例外的
に記憶が意識のなかに残っていることによって説明できる。このことについての実例はキーザーの『動物
磁気のための記録』第三巻・一三九頁に見いだされる。それによれば、こうした直接に客観的な
正夢の記憶は、われわれがすぐに目ざめるような、たとえば朝の浅い眠りのなかに出現したときだけ残っ
ている。

 身近な眼前の現実を夢見るという特徴あるこの種の夢は、夢見る人の視野を拡大させ、その人を寝
室から出て行かせることによって、ただでさえふしぎな性質をさらにいっそう謎めいたものにする。

218 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/09(月) 19:05:08.12 ID:WXtNkUuL.net
――すなわち、夢見る人にとって、窓のカーテンや雨戸が視覚の障害とならなくなり、これら障害物の
背後にある内庭、庭園、道路あるいは道路に面した家々などをはっきり見るようになることである。し
かし見るといっても実際に生理的視覚が出現するのではなく、ただ単に夢なのだということを考えれ
ば、なにもそんなに驚くことはない。そうはいっても、ここで見ているものは、いま現実にあること、
したがって正夢であり、さらに、光線の間断のない通過という条件には束縛されない夢の器官をつうじ
ての知覚である。もともと頭蓋自体が、まず知覚の特殊な性格をそのままそっくり保っておく最初の隔
壁である。ところがこの隔壁がいくぶんか取り除かれれば、カーテン、ドア、壁のたぐいは知覚にとっ
ての障壁ではなくなる。ではどうしてそのようになるかということは、いぜんとして謎である。われわ
れにはここではほんとうのことが夢みられていること、つまり夢の器官による知覚が生じたということ
以上はわからない。われわれの観察にとって基本的な事実はこれで終わりであろう。もしそうしたこと
ができるとして、われわれがこの説明のためにできることは何であろうか? それはまずこれに結びつ
いているすべての現象をとりまとめ、段階的に整頓することである。しかもその目的はおそらく、問題
の現象の真髄をもっとよく洞察できるのではないかと期待しつつ、諸現象相互のあいだの関連を認識す
ることである。

 ところで、自分でこうした経験をいっさいもたない人でも、夢の器官をつうじての前述の描写の正し
さを、本来の自然な夢遊症によって信じるようになるだろう。この病気にかかった人がすっかり眠って
おり、眼ではなにものも見ることができないことは確実だ。それにもかかわらず夢遊症患者は身近な環
境のすべてがわかり、あらゆる障害物を避けて長い道のりを歩き、きわめて危険な谷間にかかる狭い橋
を通り、まちがいなく目標に達することもできる。こうした患者のうちのいくたりかは、睡眠中であっ
ても正確にきちんと日常の家事をかたづけることができるし、他の患者は、まちがいなく文案を練り文
章を書くことすらできる。

219 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/09(月) 22:58:54.69 ID:WXtNkUuL.net
これと同じような仕方で、催眠術をかけられた夢遊症患者は、まわりの環境
がわかり、透視ができるようになると、きわめて遠いところにあるものを知覚するようになる。ある種
の仮死状態にある人が、体が硬直して腕一本動かすことができずに寝たきりなのにもかかわらず、身のま
わりに起こることを知覚することがあるが、この知覚もあきらかに、この種の夢遊症患者流の知覚と同
じである。この仮死状態にある人も現在の環境を、感覚とは別の経路で意識にのぼらせている。こうし
た知覚の位置、あるいはそのための生理学的器官がどこにあるかをつきとめるために、数多くの努力が
払われてきたけれども、これまでに成果らしい成果はあがっていない。夢遊症の状態が完全に出現した
とき、外的感覚の機能がまったく停止することは、論争の余地のない事実である。そのさい、外的感覚
のなかでも最も主観的な感覚である自分の肉体についての感覚もまったく消滅するために、きわめて苦
痛を伴う外科手術を催眠中の患者に行なったにしても、その患者はそれについての感覚をいささかも示
すことはないだろう。この最も深い眠りの状態にあるときには、脳もまったく活動していないようだ。
夢遊症患者自身の発言、供述なども加味して考えると、次のような仮説が立てられよう。すなわち、夢
遊症の状態にあっては脳の力はまったく奪われ、生命力は交感神経のなかに集められる。交感神経のな
かでも大きな網状組織つまり「太陽叢」はいまや意識の座に変化し、代行として脳の機能を受けもつよ
うになる。この代行機能はなんらの外的器官の道具のたすけによることなく、しかも外的器官よりはる
かに完全に作動する。これが問題の仮説である。わたしが信ずるところによればライルによって立てら
れたこの仮説には、もっともらしさがないわけではなく、これが発表されていらい高く評価されてい
る。この仮説の支えとなっているのは、透視ができるほとんどすべての夢遊症患者が、彼らの意識の座
は完全にみぞおちに移り、かつては頭で行われた思考や知覚がいまやみぞおちで展開すると述べてい
ることである。

220 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/10(火) 22:41:16.26 ID:zVmY+QrN.net
 これら夢遊症患者の多くははっきり見たい対象を胃のあたりに置く。それにもかかわら
ず、わたしはそんなことはありえないと思う。「腹腔神経叢」ともよばれているこの器官「太陽叢」を見
るがよい。まったく小型であり、神経物質が環状になっていて、多少ふくれあがっているだけの、それ
こそきわめて単純な構造だ! もしこうした器官が物を見たり考えたりする機能を果たせることになれ
ば、他の点ではどこでも確かめられている「自然は無駄なことをしない」という規則があてはまらない
ことになる。それというのも、もしそうなら脳はいったい何のためにあるのかということになるから
だ。大多数の人びとにあっては三ポンド、特別の人でも五ポンドの重さしかないけれども、脳はきわめ
て貴重であり、じゅうぶんに保護されている。脳の各部分はいずれもきわめて芸術的につくられてお
り、複雑にいりくんでいる、そのためにこの器官の構成の関連性を理解し、内部の多くの部分の驚くべき
形態と結合についておおよそのイメージをつくりあげるためにも、各種各様の解剖分析をくりかえし行
なう必要がある。第二に考慮すべきことは、夢遊症患者の歩みと動きがすこぶる迅速で、夢の器官に
よってのみ知覚される身のまわりの環境に性格に適合していくことである。したがって夢遊症患者は、
敏捷に、どんなに頭のはっきりした人でもかなわないほど巧みに、あらゆる障害物をあわやというとき
によけ、やはりきわめてじょうずに、これと定まった目標へと進んでいく。ところが原動力となる神経
は脊髄から出ている。しかもこの脊髄は延髄をつうじて、運動の規制をする小脳と結びつき、そして小
脳は、もろもろの表象である動機が鎮座する大脳と結びついている。このような結びつきがあるおかげ
で、瞬間的にどんなに速い運動でも、それこそすばやい速さで通過する知覚に適合することが可能とな
る。しかしもし動機として運動を規定するもろもろの表象が、困難で頼りにならぬ迂路をとって間接的
に脳と結びつくことがやっとできるだけの「腹腔神経叢」のなかに置きかえられたとしよう。

221 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/10(火) 23:55:16.39 ID:zVmY+QrN.net
そうすれば(われわれは健康状態にあっては、われわれの有機的生命力の強力で休みない活動をまっ
たく確かめることができない)この神経叢のなかに生ずるもろもろの表象は、いかにしてそれも電光の
ようなすばやさで、危険がいっぱいの夢遊症患者の歩行を導くことができるのだろう? ――ついでなが
ら言っておくが、夢遊症患者がきわめて危険な道を、覚醒時にはけっしてできないほどなんらの失敗や
恐怖心もなく進んでいけるのは、こうした病人の知性が完全無欠でなく一面的であること、すなわちその
知性がおのれの歩行を導くのに必要なだけしか活動していないことから説明できる。こうした事情があ
るために、このような病人にあっては、反省やそれに伴うためらいとか戸惑いといったものがすべて消
失する。――少なくとも夢は脳の機能のひとつであるということは、トレヴィラヌスが(『有機的生命
の諸現象について』第二巻・第二部一一七頁で)ピエルカンにしたがって提示した事実によって実際上
確立されたものであることが、ついに判明した。「ある少女の頭蓋骨はカリエスによって一部損傷を受
けた。そのための脳髄はまったく露出し、覚醒時にはとびだし、睡眠中はひっこむようになった。静か
な眠りのさいにはこのひっこみ方がいちじるしい。活発に夢を見ているさいには、組織の緊張状態が生
ずる。」だが夢遊症も夢とただ度合いの点でちがっているだけだということは明らかである。夢遊症患
者の知覚は夢の器官によって生ずる。こうした人はいわば直接的正夢を見ていることになる。

 ところで、反駁されている例の仮説を次のように変更できるであろう。すなわち腹腔神経叢はみずか
ら意識の座となるのではなく、意識の外的な道具の役割、つまりやはり完全に代行された感覚器官の役
割を演ずる。それとともに、脳に伝えられる外からの印象を受け入れ、それを脳の機能に即して加工
し、外界の状況を、通常時に感覚器官での感覚にもとづいて行なうように図式化し形成するというので
ある。だがこの主張でも難点がくりかえされる。それはこの内的神経の中心部で受けたもろもろの印象
を、きわめて遠方にある脳の電光のようなすばやさでいかにして伝えるかということである。

222 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/11(水) 23:27:36.49 ID:a5xUzqaO.net
しかもこの場合、太陽叢はその構造からして、思考の器官とともに視覚や聴覚の器官となることにも適して
いない。それに皮膚脂肪、筋肉、腹膜それに内臓による厚い壁は光の印象をまったく遮断する。さらに夢遊
症患者の大部分が(これについては、フォン・ヘルモントが『医学の園』一六六七年、「狂気」第一二節
一七一頁に詳述している)、たとい彼らの見ること考えることは胃のあたりで生じていると証言してい
るにせよ、われわれは、これを客観的に妥当であるとはただちに受けとれない。それに夢遊症患者のう
ちのいくたりかがこのことを否定している以上、なおさら受けいれるわけにはいかない。たとえば、か
の有名なるカールスルーエのアウグステ・ミュラーは(この女性夢遊症患者をあつかった報告の五三頁
で)自分はみぞおちではなく眼で見ていると述べ、さらに他の夢遊症患者の多くはみぞおちで見ている
と述べている。そして「思考力もみぞおちに移しかえられるのか?」という質問に対し、この夢遊症患
者は、「そうではない。しかし視力、聴力は移される」と答えている。キーザーの記録の第一〇巻・第
二冊一五四頁に出てくる他の夢遊症患者の供述はこれに即応している。この患者は、あなたは脳全体で
考えるのか、それとも脳の一部で考えるのか?」という質問に対し「わたしは脳全体で考える。だから
そうするとたいへんくたびれる」と答えている。これら夢遊症患者のすべての証言の成果は、彼らの脳
の見る活動への刺激や材料は覚醒時のように外から感覚をつうじてやってくるのではなく、夢の場合に
説明したように、生体内部からくるということ、また生体を制御し指導するのは周知のように巨大な交
感神経叢であり、これは神経の活動にかんするかぎり、頭脳組織を別として、生体全体を代行し、代表
するものであるということにあるように思われる。これらの証言は、われわれがじつは脳のなかで感じ
ているにもかかわらず足で感じられているように思っている痛みは、足に至る神経の糸が中断されるや
いなや消失するということと比較できる。したがって夢遊症患者が胃のあたりで物を見たり読んだりす
るばかりか、こうした機能を指、爪先あるいは鼻の先ではたすことができると主張しているのは、まっ
たくの迷妄である。

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