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ショーペンハウエル 「宗教について」

1 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:05:55.82 ID:jU2IaMdC.net
宗教について

第一七四節 ある対話

デモフェーレス: ねえきみ、ここだけの話だけれど、きみがときどき宗教を皮肉ったり、いや、明ら
かに嘲笑して、きみの哲学的能力を示すのは、どうもぼくの気にくわないね。人それぞれの信仰はその
人にとって神聖なものだ。だからきみにとっても神聖なはずじゃないか。

フィラレーテス: そういう推論は否定するね! ひとさまが単純だからといって、なぜぼくまでが欺
瞞をありがたがらねばならないのか、ぼくにはわからないよ。どんな単純な場合も、ぼくが尊重するのは真理
だ。だから真理に反するものは、尊重しないだけのことだ。きみたちがそういう調子で人びとをしばり
つけているかぎり、真理の光がこの地上にさすことは絶対にないだろうよ。ぼくの標語は、「たとえ世界
は滅ぶとも、正義は行なわれよ」という法律家たちの標語をまねて、「たとえ世界は滅ぶとも、真理は
存続してあれ」というんだ。どの部門にも似たような標語があってしかるべきだね。

デモフェーレス: だったら医学の標語は、「たとえ世界は滅ぶとも、丸薬はまるめられてあれ」ぐら
いだろうかね ― こいつはいちばんてっとりばやく表現できるだろうて。

フィラレーテス: まさか! なにごとも「ほどほどに匙かげん」ということがあるさ。

2 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:07:04.31 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス: まあね。だからこそぼくの気持ちとしては、きみも「ほどほどに」宗教を理解して
くれて、民衆の欲求には彼らの頭に応じてこたえてやる必要があることを悟ってほしいんだ。宗教とい
うのは、低級な営みや物質的仕事に追いまくられている大衆の粗野な心や硬直した頭脳に、人生の高い
意味を告げ知らせ、それに気づかせるただひとつの手段だからね。というのは、普通の人間は、もとも
と肉体的欲求や情欲を満足させることだけに夢中で、それがすめば、おしゃべりとか気晴らし以外にべ
つにこれといって関心はないんだ。こういう人間をその惰眠からゆさぶり起こして、生存の高い意味を
指示するために、教祖とか哲学者とかいうものがこの世にあらわれてくるわけだが、哲学者は少数の例
外者のためだろうけれど、教祖というのは大勢の人たちのため、人類全体のために出現するわけさ。だっ
て、きみの尊敬するプラトンもすでに言っているとおり、「大衆は哲学者たりえず」だからで、まさか
きみもこの言葉は忘れちゃいまい。宗教は民衆の形而上学だ。これは絶対に民衆にまかせておくべき
で、だからわれわれも外面的には尊重しないといけない。これにけちをつければ、それは民衆からこの
形而上学をとりあげることになるからだ。世には民謡といったものもあり、諺には民衆の知恵が出てい
るように、民衆の形而上学もなくてはいけないんだ。なぜかというと、人間にはどうしても人生の説明
が必要だし、それは彼らの理解力に応じたものでなければならない。だから民衆むきの解釈は、いつで
も真理には比喩の衣を着せて、たとえ話に仕立てる。これが実際の場では行動の指針となり、気持ちのう
えでは、苦悩や死に臨んでの安心や慰めになって、真理同様の―といってもわれわれがかりに真理を
もっていると仮定しての話だが―、真理そのものの果たす役割とおそらくは同じ役割を演じるのだ。
その形式が混乱してまとまりがなく、一見理屈に合わないところがあるからといって、腹を立ててはい
けないよ。だって、きみの教養と博識をもってしても、深い真理をたずさえてあの荒削りな民衆に近づ
くには、どんな回り道をしなければならないか、想像を絶するものがあるからだ。

3 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:08:20.38 ID:jU2IaMdC.net
いろいろな宗教は、民衆がそれだけではどうにも把握できない真理をつかんで心のなかに描きだすための、
いろいろな図式といってよく、民衆にとっては、真理はこういう図式と不可分に癒着しているんだ。だから、
きみ、わるくとってもらっては困るが、きみが宗教を馬鹿にするのは、偏狭であると同時に不公正なんだ。

フィラレーテス 偏狭で不公正といえば、民衆の欲求や理解力にあわせて仕立てあげられた形而上学
以外に、どんな形而上学もあってはいけないと望むことだって、まったく同断じゃないか? 民衆形而
上学の説くところが人間の研究心の境界石であり、あらゆる思惟の基準であるべきであり、したがって
きみのいう少数の例外者のための形而上学も、民衆形而上学を確証し、確立し、解明することに落ち着
くべきだと注文をつけること、つまり人間精神の最高の力を利用せず伸ばさないで抑えておくばかり
か、芽生えのうちにつみ取って、この力の活動が例の民衆形而上学と衝突することがないようにしなく
てはいけないなどという言い分は、やはり偏狭で不公正じゃないか? そして宗教はいろんな要求を
かかげているが、結局はこれと変わらないではないか? 自分では不寛容・無慈悲そのものであるくせ
に、ひとさまに寛容や、やさしい慈悲を説くなんて、おかしいではないか? ぼくはその証拠に、宗教
裁判や異端糾問、宗教戦争や十字軍、ソクラテスの毒杯やブルーノやヴァニーニの火刑をあげる! な
るほど今日こういうことは過去の話になったとはいえ、ほんとうの哲学的努力、誠実な真理探究という
う、最も高貴な人類のこの最も高貴な仕事を邪魔だてしているのは、国家から独占権をあたえられてい
る例の因襲的形而上学で、その命題はだれの頭にもきわめて若い時代に焼きつけられる。それが真剣
に、深く、しっかり刻みこまれるため、奇蹟的な弾力性をもった頭でもないかぎり、どうにも消せな
いほどにこびりつき、健全な理性はこれを限りに調子っぱずれになってしまう。つまり、自分で考えて
偏見のない判断をくだすという、もともと薄弱な能力が、嗜好や判断に関連するすべての点で永遠に働
かなくなって台なしになるというわけなんだ。

4 :神も仏も名無しさん:2015/09/02(水) 20:11:50.91 ID:L6rJSFXi.net
終了



                            

5 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 20:46:17.45 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス それはこういうことだろう。ともかくそれでいったん信念ができた以上、世間の連
中はそれを捨てて、いまさらきみの考えを受けいれる気にならないだけの話さ。

フィラレーテス ああ、その信念とやらが、認識にもとづいているなら文句はないんだけどね!
そうなれば根拠をあげて迫ることもできるし、双方、同じ武器で戦える場がひらかれるわけだ。ところ
が宗教というのは、はっきり言って、根拠をあげて信念に対するのでなく、啓示をもちだして信仰に頼
るのだ。ところで、あたまから信じこむ力というのは、子供時代がいちばん強い。だからこの気持ちの
やわらかい子供時代をねらうことがまっさきに考えられる。そのほうが、あとから威嚇したり奇蹟を教
えたりするより、はるかに強く教義が根をおろす。つまり、ごく若い時代に、ある種の根本的見解や教
説を、それこそ並々ならぬいかめしさで、その子供がはじめてお目にかかるような厳粛きわまりない表
情で、くりかえしたたきこむ。それに対して疑問がきざすかもしれぬなどということは、完全に素通り
だ。あるいはそれに触れるにしても、疑いをいだくことこそ永遠に堕落する第一歩だというふうにほの
めかすといったぐあいにやれば、その人の受ける印象は深刻で、普通は、ということは十中八九、その
人間が例の教説を疑うことができなくなることは、ほとんど自分自身の存在を疑いえないのと同じこと
になるだろう。そうなれば、「それがはたしてほんとうなのか?」と、まじめに率直に問うだけの精神
の堅固さをもつ者は、何千人中に、ほとんどひとりもないことになろう。それにもかかわらずあえて問
うことのできる人たちを「強い精神」(esprits forts)と呼びならわしてきたのは、だから普通に考え
られている以上に適切な言い方なんだ。ところが、それ以外の人びとにとっては、例の方法で注入され
たのに、いっこうゆるぎない信仰が根をはらぬということぐらい、理屈に合わぬ腹立たしいことはな
い、ということになる。

6 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 20:46:53.83 ID:jU2IaMdC.net
たとえば、異端者や無信仰者を殺すと、それがあの世で魂が救われるたいせつ
な所業だということにでもなれば、ほとんどだれもかれもがそれを人生の一大事と心得て、往生ぎわ
に、人殺しがうまくいったことを思い出して、そこに慰めと安心を見いだすということになろう。現に
昔はほとんどすべてのスペイン人が異教徒火刑を最も信仰のあつい、最も神意にかなった所業とみてい
たし、インドでこれと好一対をなすのはサグという宗教の秘密結社だ。これは最近やっと大量処刑に
よってイギリス人が弾圧したが、それというのも、この結社の仲間は、女神カーリーに対する彼らの信
心と尊崇をを示すために、機会さえあれば、友だちでも旅の道づれでも暗殺してその所持品を奪うという
ありさまで、しかもなにか大いに賞賛すべきこと、自分たちの永遠の救いのたしになることをやった
と、それこそ本気に盲信していたからだ。こういうふうに、若いときに焼きつけられた宗教上の教義は
じつにすさまじい威力を発揮するもので、その力は良心を眠らせ、はてはあらゆる同情や人情の息の根
をとめることさえできるのだ。ところできみが、信仰を若い時代に植えつける行き方の結果を自分の目
でまぢかに見たければ、イギリス人を見ればいいのだ。世の中のあらゆる国民より自然に恵まれ、悟性や精
神や判断力はゆたかにそなえ、節操もかたいこの国民が、彼らの愚昧な教会的迷信のために、他のあら
ゆる国民のはるか下位に蹴落とされ、いや、まさに天下の笑いものになっていることを見てほしいの
だ。その教会的迷信は、彼らのほかのいろいろな能力のなかにあって、まさに一種の固定妄想、偏執狂
と思われるのだが、それはただただ教育が僧侶の手に握られているせいなのだ。僧侶たちはありとあら
ゆる信仰箇条を、ごく若い時期に彼らの頭にたたきこむように心がける、それは一種の局部的な脳髄麻
痺を引き起こす。この脳髄麻痺は生涯、あの愚鈍な頑信となってあらわれる。

7 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:07:54.61 ID:jU2IaMdC.net
彼らのなかで、ほかの点
ではたいへん分別もあり才気も、ある連中でさえこの頑信のために退化し、われわれを途方に暮れさせ
るというわけだ。こういう傑作にお目にかかれるというのも、要は心のやわらかい幼年期に信仰を植え
つけるからだということを考えてみると、布教事業などというのも、現に成果をあげているのが、
ホッテントット族とかカフェル族、南洋諸島の住民とかその他、まだ幼年期の状態にある民族に限られ
ているのもうなずけるが、しかしそれ以上に出ると、もはやたんに人間の厚かましさ・出しゃばり・無
恥の骨頂と思われるだけでなく、馬鹿げたことに見えてくるのだ。インドあたりでも、キリスト教の布
教者の講話となると、バラモンの僧侶たちはうなずくように愛想笑いをしたり、あるいは肩をすぼめて
みせるだけで、概してこの民族のあいだでは、絶好の機会があったにもかかわらず、布教者たちの改宗
の試みはまったく失敗したのだ。『アジア雑誌』第二一巻におさめられている一八二六年の信ずべき報
告によると、布教者たちが多年にわたって活動したあえく、インド全土で(そのうちイギリスの領土だ
けで、一八五二年四月の「タイムズ誌」によれば、人口は一億五千万だ)、現に生きている改宗者は三
百に満たないそうで、しかもその内情は、こういうキリスト教に改宗した者にかぎって品行がきわめて
わるいということだ。つまり億をかぞえる住民のうちで、わずか三百の魂が売りに出され、買い取られた
ということだろう。その後、インドのキリスト教の事情が好転したようすは、どこにも認められない。
もっとも布教者たちは、いまのところ宗教教育でなく、もっぱら世俗的なイギリス式教育をやる学校で、
協定に反して、彼らの精神を子供たちに及ぼそうとつとめており、いわばキリスト教の密輸をはかって
いるが、これに対しては、インド人は非常な猜疑心をいだいて警戒している。なぜかというと、まえに
も言ったとおり、信仰の種をまくには幼年期にかぎるので、おとなになってからでは手遅れであり、と
りわけまえの信仰がすでに根をはっている場合はだめだからだ。

8 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:08:21.69 ID:jU2IaMdC.net
ところで、おとなになって改宗した連
中が新しい信念を得たと称するのは、普通は、なんらかの個人的利害の仮面にすぎないのだ。それ以外
の理由はほとんどありえないということが、だれにでも一見してわかるものだから、いい年をして宗旨
がえするような人は、どこでもみんなから馬鹿にされるのだが、しかしこのことで何か明るみに出て
いるかといえば、たいがいの人が、宗教を理性的な信念の問題とは考えておらず、ただ若い時期に、な
んの検討も加えないで植えつけられた信仰の問題だとみなしていることなんだ。だが、それも無理から
ぬことは、盲目的に信仰している大衆のみならず、どの宗教の僧侶も、その身分上、宗教教典や論拠、
教義や論点まで研究しつくしているにもかかわらず、あげて自分の生まれた祖国の宗教を熱烈・忠実に
信奉しているという事実からも判明する。だから、ある宗教もしくは宗派の僧侶が他の宗教に移るなど
ということは、世にもまれなことなのだ。たとえば、われわれは、カトリックの僧侶が彼らの教会のあ
らゆる教条の真理性をかたく信じているのにお目にかかる。だがプロテスタントの僧侶も新教の真理性
にはゆるぎない確信をもっているんだ。そして双方、たがいに劣らぬ熱意で彼らの宗派の教条を弁護し
ている。だがこの確信は、めいめいが生まれた国しだいにすぎない。つまり南ドイツの僧侶には、カト
リックの教義の真理が完全にのみこめるし、北ドイツの僧侶には新教の教義がよくわかるというわけ
であるに相違なく、植物と同じように、一方の信念はこの土地でだけ、他方の信念はあの土地でだけ栄
えるにきまっているわけだ。ところで民衆は、どこでも、こういう地方的信念居士の確信を、そのま
ま、まともに頂戴するものなのだ。

デモフェーレス 同じキリスト教である以上、本質的に差があるわけでもないんだから、それはそれ
でもかまわないんじゃないか。そのうえ、たとえば現に新教は北に適しているし、旧教は南にうってつけ
だよ。

9 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:35:15.75 ID:jU2IaMdC.net
フィラレーテス そういうふうに見えるね。しかし、ぼくはもっと高い立場から、もっと重要な問題
に目をつけているんだ。すなわち人類における真理の認識の進歩ということだ。この進歩にとってじつ
におそるべき事柄は、ある種の主張が、だれかれかまわず、その出生地がどこであろうと、すでにごく
若い時期に焼きつけられるということだ。しかも、疑えば永遠の救いもふいになる危険があるから、疑
うことは絶対まかりならぬなどと駄目押しまでついているんだから、これはまったくゆゆしい問題なん
だ。つまり、ここで主張といったのは、われわれの他のあらゆる認識の基礎に関係しているような主
張、したがって認識の観点を永久に確定し、もしこの主張自体がまちがっている場合には、認識の観点
をも永久に狂わせてしまうような主張のことだ。さらにその結論はいたるところでわれわれの認識の全
体系に食いこんでくる関係上、人間の知識全体がこの主張のために徹頭徹尾まがいものになってしまう
のだ。これはすべての文献の証明するところだ。とりわけ中世の文献が最も顕著な証明材料だが、十六
世紀および十七世紀の文献だってこれに劣らない。だって、これらのどの時代においても、一流の精神
人までが、例の誤った根本観念のために、まるで麻痺したようになっており、とりわけ自然の真の本質
や活動を見ぬくことになると、目隠し同然であることが見られるではないか。それというのも、キリス
ト教が勢力をもった全期間をつうじて、有神論は、あらゆる精神的努力、とりわけ哲学のうえに、重苦
しい夢魔のようにのしかかり、あらゆる進歩を妨害し、あるいは萎縮させてきたからだ。神・悪魔・天
使・悪霊といったものが、あの時代の学者たちの目から、自然をすっかりおおい隠していた。どういう
研究もとことんまで押し進められることはなかったし、どういう問題もその根本まで掘りさげられるこ
とはなく、明らかな因果関係をこえるものはすべて、神や悪魔といった例の人格をもちだしてきて、た
だちに葬り去られてしまったのだ。

10 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:35:43.99 ID:jU2IaMdC.net
そういう場合に、ポンポナッツィ(『魔法について』第七章)の言
うせりふは、この男の皮肉じゃないかと疑えないわけではない。なにぶんこの男の陰険ぶりは、この場
合にかぎらず、世間周知のことだからね。だがじつは、彼はこの言葉で、当時の一般的な考え方を言っ
たまでなのだ。もし実際に、いろいろな鎖を断ち切る唯一の力である珍しい精神の弾力性でももってい
た日には、その著作どころか、おそらく彼自身が、ブルーノやヴァニーニと同じように、火あぶりの刑
にあっただろうからね。―ところで、若い時代に例の形而上学的手ほどきを受けたりすると、凡庸な
頭がどれくらい麻痺するものか。これがいちばんはっきりわかり、しかも滑稽な側面から見られるの
は、そういう頭脳の持ち主が自分とは無縁な、ほかの教義を批評しようとくわだてる場合なんだ。そう
いう場合にふつう見られる図は、ほかの宗教の教義が自分の信じている宗教の教義と合わないというこ
とを、やっきになって証明しようとかかることだ。すなわち、ほかの宗教の教義には、自分の信奉して
いる宗教の教義に説かれていることと同じことが言われていないばかりか、その意味するところもたし
かに違っているということを、苦労して証明するだけなんだ。まことに素朴きわまる話だが、これで本
人はほかの教義のまちがいを論証したつもりなのさ。どちらかが正しいのだろうか、といった疑問を提出
することなどまったく念頭になく、自分自身の信仰箇条はア・プリオリな原理として動かないわけだ。
『アジア雑誌』第二〇巻でモリソン師は、シナ人の宗教と哲学を批評した一文で、この種の愉快な実例
を提供してくれているが、―まったく楽しくなってくるよ。

11 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:47:17.29 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス じゃ、それがきみのいちだんと高い立場だというわけだね。。だが、もっと高い立場
があると、ぼくは断言する。「まず生活し、つぎに哲学する」という格言があるが、この言葉は、すぐ
のみこめる意味よりも、もっと広い意味をもっているのだ。―とりわけ肝心なことは、大衆の粗暴で
低劣な気持ちを抑制して、彼らを極端な不正や残虐から遠ざけ、暴力ざたや醜行に近づけないようにし
なければならない。大衆に真理がのみこめるまで待っていた日には、後手になることは必至だ。だっ
て、真理がすでに発見されていると仮定したところで、それは大衆の理解力に余るだろうからね。大衆
に役立つのは、いつでも真理を比喩の衣にくるんだもの、つまり寓話とか神話だけだ。カントも言って
いることだが、法と徳の公的な旗じるしがなくちゃいけない、いや、その旗をしょっちゅう空高くひる
がえしておく必要があるんだ。その旗にどんな紋章が描かれていようと、意図するところをあらわして
さえいれば、どんな紋章だってかまわないのだ。真理のこういう寓話は、時と場所のいかんを問わず、
大衆には、けっこう役立つ代用品の一種で、けっきょく彼らには永遠に近づけない真理そのものや、絶
対彼らにはわかりっこない哲学のかわりをつとめるものなんだ。といっても、哲学は毎日すがた形を変え
ているし、どんなすがた形にせよ、まだ一般の承認を得るまでにはなっていないが、それはここでは別
問題としての話だ。そういうわけで、フィラレーテス君、実践的目的のほうがあらゆる点で理論的目的
より優先するわけだよ。

フィラレーテス むかし、ピュタゴラス学派のロクリスのティマイオスが、「ほんとうのことを言っ
ても実効があがらない場合は、いつわりの話で人びとの心を御してゆく」と言っているが、きみの立場
というのも、ほぼそれに近いね。かんぐるわけじゃないが、きみは、近ごろの流行で、

 でもね、きみ、ゆっくり落ち着いてなにかうまいものでも食べたいと
 思うときが、またやってきますぜ

ということをぼくに説きつけようというんじゃないかな。つまりきみの勧めることは、不平から乱暴を
しでかす大衆にぼくたちの食卓を荒らされないように、いまのうちに気をくばっておけ、ということに
帰着するわけだろう。

12 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:47:43.85 ID:jU2IaMdC.net
なんだかそんなふうに邪推したくなるね。だが、そういう立場は、なるほどこん
にち一般的に人気があるけれど、断然まちがっているよ。だからぼくは間髪をいれずに意義を申したて
るわけだ。国家や法や法律が宗教およびその信条の助けをかりないと維持されえないし、司法と警察は
法の秩序を貫徹するために、そのやむをえない補充として宗教を必要とする、と考えるのはまちがって
いる。たとえ百ぺんくりかえされたって、まちがいはまちがいだ。というのは、古代人、とりわけギリ
シア人が、れっきとした事実上の反証をわれわれに提供してくれているからだ。つまり、こんにちわれ
われが宗教と解しているものは、ギリシア人にはまったくなかったものだ。彼らは聖典なんか持ってい
なかったし、若いときからたたきこまれ、すべての人に押しつけられるような教義なんかは彼らのあず
かり知らぬところだった。―同様に、坊主ふぜいが道徳のお説教をしたり、ひとさまの品行を気にか
けたり、一般に庶民のなすこと、なさぬことに頭をつっこむなどということは、まったくなかったこと
なんだ! それどころか神官の任務は神殿の儀式、祈祷、歌唱、供物、行列、清祓式などに限られ、そ
れもひとりひとりの個人の道徳的向上などという大それたことを目的とするものでは、さらさらなかっ
た。当時のいわゆる宗教は、ごく局限されたものだ。つまり、ほうぼうの都市国家に「偉大な氏族の神
神」の、ここではこの神、あそこではあの神を祭る神殿があって、ここでその筋の命令で上述の礼拝が
行われただけなのだ。だから、この宗教的儀式は、つまるところ警察事項だったわけだ。この儀式で
働く職員以外は、だれひとり、参列の義務もなかったし、その神を信じるように強いられることはな
かった。なんらかの教義を信奉する義務を負うというようなことは、古代全体をつうじて、どこにも見
あたらない。ただ神々の存在を公然と否認したり、あるいは神々を誹謗した者だけは、処罰された。そ
れは、この神々に仕える国家を侮辱するものだったからだ。

13 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:08:51.83 ID:jU2IaMdC.net
デモフィーレス しかしなにも真理と宗教は対立するものじゃなくて、宗教はそれなりに真理を説く
ものなんだ。ただ、宗教の活動範囲はせまい講堂じゃなくて、世間であり、大きな意味の人類だから、
こういう多数の、いりまじった大衆の要求や理解力に合わせる必要上、むきだしに裸のまま真理をもち
だすことはできないという制約があるだけだ。医学的なたとえを使えば、宗教は真理という薬を大衆に
服用させる場合、真理に混ぜものをする、つまり「転位」させるわけで、一種の溶剤として、神話の衣
をかぶせざるえないだけの話なのだ。この観点からいえば、きみのいう真理なんかも、本来は気体
の、ある種の化学的物質にたとえることもできるわけなんだ。これは放っておけば発散してしまうか
ら、薬として使う場合、あるいはまた保存したり発送したりする場合には、この気体を、固形の、手に
触れうる基底に結びつける必要が出てくるわけだ。たとえば、塩素が、こうしたすべての用途に、塩化
物のかたちでしか用いられなようなものさ。ところで、あらゆる神話的なものと無関係な、純粋で抽
象的な真理なんか、未来永劫、どんな人にも、哲学者さえ、到達できないとすれば、そういう真理
は、単独では絶対に析出できなくて、いつでも他の物質と化合してあらわれる弗素にくらべたらいいだ
ろう。あるいは、―もっと平たくいえば、神話や寓話のかたちでしか言いあらわしえない真理は、容
器がなければ運べない水にくらべてもいいだろう。ところが哲学者たちは、そういう混ぜものを入れな
いで真理を所有しようとがんばっているわけで、彼らは、水そのものを持ちたいばかりに、容器をこわ
してしまう人みたいなものなんだ。ひょっとしたら、これはたとえ話でなくて、じじつ、そういうこと
だろう。ともかく宗教というものは、寓話や神話をかりて言いあらわされた真理なのであり、またそのお
かげで大衆にも手がとどいて消化できるようになった真理なのだ。大衆なんて、混じりけなしの純粋な
真理には、絶対に耐ええないだろうからね。それはちょうど、われわれが純粋な酸素のなかでは生きる
ことができなくて、五分の四の窒素という添加物が必要なのと同断だろう。

14 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:09:18.19 ID:jU2IaMdC.net
たとえ話はこのへんで切りあげるとすると、人生の深い意味と高い目標を大衆にもちこみ、これを開示
するには、象徴に限るのだ。だって大衆には、自分の頭でそこまで理解する能力がないからね。これに
反し哲学は、エレウシスの秘儀同様、少数の選ばれた者たちのためにあるべきものなのだ。

フィラーテス もうわかったよ。問題はけっきょく、虚偽の衣をつけた真理ということに帰着する
わけだ。しかしこの組合せは、真理にとって破滅的だよ。だって、真理を大衆のところへ運ぶ車として
非真理を使う権能をもっている人たちに、いかにも危険な武器が手渡されることになるじゃないか!
こうなっては、宗教にくっついている虚偽のひき起こす害のほうが、宗教のふくむ真実がもたらす利益
をうわまわることになるのではないかと、心配になってくる。じっさい、寓話がはっきり寓話と名乗っ
て出てくるぶんには、それはそれでさしつかえないだろう。だがそうなっては、寓話を尊重する気が
すっかりなくなって、したがって効果もゼロになってしまう。だから、寓話が真実なのは、せいぜい比
喩の意味にすぎないのに、本来の意味でも真実としてまかり通り、真実だと言い張らざるをえなくなる
のだ。この点に、どうにもならない害、永続的な弊害がある。だからこそ宗教は、純粋な真理を求める
とらわれない高貴な努力とたえず衝突してきたし、これからさきもくりかえし衝突することになるわけ
なのだ。

デモフェーレス いや、そうはならないさ。そうならないように、ぬかりなく手は打ってあるんだ。
たとえ宗教が、その寓話的な本性をあけすけに白状しなくたって、いやというほどそのことは暗示して
いるんだからね。

 フィラレーテス というと、どこにそういう暗示があるんだ?

15 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:58:53.50 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス 密儀さ。それどころか「密儀」(Mysterium)というのは、結局のところ、宗教的寓
話に対する神学上の術語にほかならないんだ。それにまた、あらゆる宗教に密儀はつきものだ。そもそ
も密儀はあきらかに不条理な教義だ。だがこの教義には、それだけでは粗野な大衆の平凡な悟性のまっ
たく解しえないほどの、高遠なひとつの真理が秘められている。ところが大衆は、彼らでさえ気づくよ
うな不条理な点にはちっとも迷わされないで、素直に、この覆いのままで真理を受けいれ、そのおかげ
で、彼らにできる範囲においてではあるが、事柄の真髄にあずかるのだ。注釈としてつけ加えると、哲
学の畑においてさえ、密儀を使うこころみがなされている。たとえばパスカルだが、彼は敬虔主義者で
あり、数学者であり、同時に哲学者であるというこの三重の特性を生かして、「神はいたるところ中心
であって、周辺ではない」と言っているし、マルブランシュも、「自由とは一種の密儀だ」と、いみじ
くも述べたのだ。―われわれはさらに進んで、もともと宗教にあってはすべてが密儀なのだと、主張
することもできるだろう。というのは、本来的な意味での真理を粗野そのものの民衆に教えこむのは、
あたまから不可能であって、ただ真理の神話的・寓話的な残照だけが、民衆にあたえられ、その心を照
らすことができるからなのだ。なんの覆いもないむきだしの真理なんかは、在俗の民衆の眼前にさしだ
せるものでなく、深々とヴェールをかぶった場合にだけ、真理は民衆の目に触れてもさしつかえないよ
うになるのだ。だから、宗教が本来的な意味で真理たるべしというのは、宗教に対するまったく不当な
要求だし、したがってまた、ついでながら言わせてもらうと、現代の合理主義者も超自然主義者も、筋
の通らぬことを言っているからだ。というのは、両者とも、宗教が本来的意味で真でなければならないと
いう前提から出発しているからだ。そしてこの前提のもとで、合理主義者は、宗教は真ではないというこ
とを証明しようとし、超自然主義者は、宗教こそ真であると頑強に主張しているわけなんだ。

16 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:59:22.56 ID:jU2IaMdC.net
あるいはむしろ合理主義者は寓話的なものに刈りこみを加え手かげんして、それが本来的意味で真であ
るようにするわけだが、こうなれば寓話も陳腐な言葉にすぎなくなる。他方、超自然主義者は、なんの
調整も加えないで、寓話こそ本来的意味で真なんだと主張するわけだが、―これはしかし、彼らとて
当然わかるはずだけれど、異端裁判と火あぶりの薪なしには、とうてい貫徹しえないことだ。ところで、
神話や寓話は、実際に宗教の本来の要素なんだ。大衆の頭が低いんだから、宗教がそれを借りること
は避けがたい制約だけれど、それでも宗教はどうにも抹殺できない人間の形而上学的欲求をじゅうぶん
に満足させ、達成のきわめて困難な、ひょっとしたら絶対できないような、純粋な哲学的真理の代用
になるのだ。

フィラレーテス なんのことはない、木製の義足がほんものの足のかわりになるみたいなもんだろ
う。なるほど義足も代理はつとめ、どうにかこうにかその役目をはたし、そのうえほんものの足に見ら
れたいと思いあがり、ときには巧妙につくられたり、ときにはぶざまにできていたりする、といったぐ
あいだ。しかしひとつ違いがある。義足よりさきに、ほんものの足があるのが普通だが、宗教はどこで
も哲学に先んじていたということだ。

デモフェーレス 文句のつけようもないところだが、でも、ほんものの足をもたない者には、義足
だってたいしたものだよ。見のがしてもらっては困るが、人間の形而上学的欲求は絶対に充足を求めて
いるということだ。なぜなら、人間の思想の地平線は、無際限というわけにはいかず、閉じられる必要
があるからだ。ところで、さまざまの根拠を考量して真偽の決定をする判断力は、人間はふつうもって
いない。そのうえ、自然と自然の困苦によって人間に課せられた仕事は、そういう研究をする暇も、そ
ういう研究が前提とする教養の余裕さえあたえてはくれない。だから普通の人の場合、論拠に立脚した信
念は問題にならず、宗教と権威に頼らざるをえないのだ。

17 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 08:11:06.47 ID:erdeu88j.net
よしんばそれが寓話的に表現された真理にすぎないにしてもだ。さてこの真理は、権威に支えられて、
まず第一に人間の本来的に形而上学的な素質に訴える。つまり、われわれの生存の迫りくる謎を解きたい
という欲求や、世界の自然的なものの背後に、なんらか形而上学的なものが、すなわち不断の変化の基礎
となる不変なものがひそんでいるにちがいない、という意識から発する理論的欲求にまず答えるのだ。
つぎにこの真理は、たえず苦しみながら生きている人間の意志に訴え、恐怖や希望に答える。だからこの
真理は、人間どもが呼びかけたり、なだめたり、味方にしたりすることのできる神々や悪霊を、人間の
ために創りだすわけなのだ。最後にこの真理は、否みがたく存在する人間の道徳的意識に訴える。つまりわ
れわれに外部から保証と拠点をあたえてくれるのだ。この支柱がなかったら、さまざまな誘惑と戦いな
がら、われわれはとうてい毅然たりえないだろう。まさにこの側面から、人生の数知れぬ大きな悩みに
さいして、宗教はなぐさめと安心の無尽蔵の源泉となるのであって、この泉は臨終に及んでもわれわれ
を見放すことはなく、むしろ死においてこそその働きを全面的に展開するのだ。だから宗教は、盲人の
手をとって導いてやる人に等しい。なぜなら、盲人は自分ではものが見えないのだし、しかも肝心なこ
とは彼が目標に達するということであって、一から十までなにもかも見ることではないからだ。

フィラーテス その面はじっさい、宗教の頂点だ。宗教が一種の「欺瞞」(fraus)だとしても、た
しかにそれは「敬虔な欺瞞」(pia fraus)ではある。そのことは否定できない。しかし、そうなると、
僧侶というものは、詐欺師と道学者の奇妙な混血児ということになる。

18 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 08:11:38.64 ID:erdeu88j.net
というのは、きみ自身がまったく正しく説明したように、僧侶は本来の真理を知らないわけだが、たとえ
知っていたところで、人に説いてはならないからだ。しょせん、真の哲学というものはありうるが、真の
宗教など、まったくありえないものだ。ぼくが「真」というのは、言葉の真実・本来の意味でいうので、
きみがやったように、ただ文章の綾で比喩的にいうのではない。きみがいうような意味なら、どんな比喩
だって、程度の差こそあれ、真だろうからね。ところで、真理のなかで最も重要な、最高かつ最も神聖な
真理が、虚偽を混じえてしかあらわれないということ、それどころか、比較的強力な作用を人間に及ぼす
虚偽から真理が力を借りて、啓示として、虚偽によって導きいれられなければならないということは、こ
の世にあまねく行きわたっている解きがたいからみ合い、すなわち幸と不幸、正直と不正、善意と悪意、
高潔と卑劣といったものが混ざりあっていることと完全に符合しているわけだ。われわれは、最高の真理が
虚偽とからんでいるというこの事実を、道徳的世界の花押とみることもできよう。ところでわれわれは、
人類がいつかは、一方では真の哲学を創造し、他方ではこれを受けいれることのできるような、成熟と
形成の時点に達するだろうという希望を捨てたくはないのだ。だって「単純は真理の印章」というではな
いか。裸の真理はきわめて単純で理解しやすいものでなくちゃならん。神話や寓話(嘘八百)なんか混ぜ
なくても――つまり宗教という覆面をかぶせないで、その真の姿のままで万人に伝えなくちゃいけないんだ。

19 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:11:32.68 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス きみは大衆のおそまつな能力をじゅうぶんつかんでいないよ。

フィラレーテス ぼくはただ希望としてそう言っただけなんだが、この希望は捨てるわけにはいかな
い。この希望が実現すれば、単純で理解しやすい形の真理は、宗教が長いあいだ代理的に占めていた座
から宗教を突き落とし、宗教が真理のためにあけておいてくれた座におさまることになろう。そうなれ
ば、宗教はその任務を完遂し、自分のたどるべき道程を完走したことになり、成年に達するまで導いて
きた人びとを手放して、みずからは静かに消え去ることができよう。これこそ宗教の極楽往生だろう。
しかし宗教が生きているかぎり、二つの顔をもちつづけるわけだ。真理の顔と、虚偽の顔だ。そのどち
らかに注目するのに応じて、宗教を愛する人もあろうし、また宗教を敵視する人も出てくるだろう。だ
からわれわれとしては、宗教を一種のやむをえない禍とみざるえない。それがどうしても必要だとい
うのは、真理を把握する能力のない、したがってまたさし迫った場合には、真理の代用品が必要となっ
てくる大多数の人間のあわれむべき精神の弱さにもとづいているわけだ。

デモフェーレス 正直なはなし、きみたち哲学者が真理をもうすでにできあがったかたちでもってい
るとしたところで、そいつを把握するのが問題だってことも、考えてみるべきじゃないか。

20 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:11:58.87 ID:erdeu88j.net
フィラレーテス われわれが真理をもっていないのは、主として、あらゆる時代、あらゆる国々で、
哲学が宗教におさえつけられてきた重圧のせいだよ。真理を口に出して言うこと、伝達することばかり
か、いや、それだけではない、真理を考えたり発見したりすることでさえ、よってたかってできないよ
うにしようとこころみられてきたのだ。その方法は、ごく幼いときに、人びとを僧侶の手にゆだねて、
その頭に手を加えさせることだった。すると僧侶は、これからさき、思想の根幹のところがたどるべき
軌道を、それこそがっちりとみんなの頭にたたきこむものだから、だいたいにおいて、その根本思想は
一生涯、固定して動かなくなってしまったのだ。ぼくは、とりわけぼくの東洋研究のためだけれど、十
六・十七世紀の著作を手にすることがあるが、これらの著作が、最もすぐれた人たちのものえさえ、い
たるところユダヤ的根本思想のために麻痺してしまい、あらゆる側面から束縛されているのを知って、
ときとして驚かざるえないのだ。こういう仕組みじゃ、真の哲学など考えられるはずがないよ!

デモフェーレス その真の哲学とやらが見つかったにしたって、きみが考えているように、宗教がこ
の世から姿を消すことにはならないだろうよ。だって、たったひとつの形而上学で、万人にむくなんて
ものは、ありえないからだ。人それぞれ、精神力にはもって生まれた差異があり、それに加えてその精
神力を育てる違いも出てくるから、ただひとつですべての人間に間に合うということは、絶対ありえない
のだ。大多数の人たちは、全人類の際限もない需要をみたすために不可欠な、重い肉体労働にいやでも
従わねばならぬ。そのため彼らには、教養や勉強や思索の余暇もあたえられないばかりか、刺激性と感
受性の決定的な対立のために、多くの張りつめた肉体労働は、精神をぼけさせ、鈍重・無骨・不可発に
する。したがってきわめて単純な、具体的な事情しか理解できないようにしてしまう。ところで少なく
とも人類の九割はこの範疇に属するのだ。

21 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:38:31.84 ID:erdeu88j.net
 しかし、それでも人びとは、形而上学というものを、す
なわち世界とわれわれの生存についての説明を求める。それは人間の最も自然な欲求のひとつだから
だ。しかも彼らが必要とするのは、民衆形而上学なのだ。これが、民衆のための形而上学であるために
は、じつに多くの珍しい特性をあわせもっていなくてはならない。すなわち、しかるべき点で、ある種
のあいまいさを、いや、不可測性をもちながら、非常にわかりやすいということ。つぎにそのさまざま
な教義に、正しいじゅうぶんな道徳が結びつけられているということを。しかしなににもまして、苦しみ
や死の場合に、汲みつくしえない慰めをもたらすものでなくてはいけないということだ。このことから
すでに、民衆形而上学なるものが、比喩的な意味でのみ真でありうるのであって本来的な意味では真
でありえない、という結論が出てくる。さらに民衆形而上学は権威の支持を得なくてはならないが、そ
れは年代が古いとか、世間一般が認めているとか、聖典があってその語調も文体もすばらしいといった
ようなことから起こってくるのだが、そういう性質がすべてそろっているとなると、なかなかむつかし
いことだ。だからこういう点を考える人だったら、そう簡単に宗教をひっくりかえすことに片棒をかつ
がないで、宗教こそ民衆の宝なのだと考える人も少なくはないだろう。宗教について判断をくだそうと
する者は、宗教が相手とする大衆の性質・状態をつねに注視する必要がある。道徳的にも知的にも、大
衆がおそろしく低いということを念頭におかなくてはいけない。その低調さはお話にならぬが、奇怪な
作り話やグロテスクな儀式のきわめて粗野な被覆の下にさえ、真理が隠然として微光を放っているさま
は、信じがたいものである。それはちょうど、麝香の匂いが、いちどそれに触れたすべてのものにしみ
ついて、なかなかとれないのと同じだ。こういう消息を解きあかすには、ウパニシャッドにこめられてい
る深いインドの知恵を考察したうえで、巡礼や行列や祭典に示されている今日のインドの気違いじみた
偶像崇拝や、当今のサニアッシの荒れ狂う奇怪な行状をながめてみればよいのだ。

22 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:39:00.12 ID:erdeu88j.net
 しかし否定すべくもないことは、こうしたすべての奇々怪々な狂乱ぶりのなかに、右に述べた深い知恵
と一致するもの、あるいはその知恵の反射を示すなにものかが、深くおおい隠されているということだ。
獣じみた大衆には、こういう仕組みが必要だったわけなんだ。――われわれがこの対照で眼前にしている
のは、人類の両極、すなわち個々人の知恵と大衆の獣性だが――しかし両者は道徳の畑で一致する。ああ、
ここであの『クラル』の箴言を思いださない人があろうか。それは「賤民というやつは人間面はしている
けれど、はじめてお目にかかるしろものだ」(1071行)というのだ。――相当程度に教養をもった人
だったら、宗教を適当な匙かげんで解釈することもあろうし、学者、思索的な人だったら、宗教をひそ
かに哲学と取っかえることもあろうが、しかしこの場合だって、ただひとつの哲学で万人にあつらえむ
きというわけにはいかない。それぞれの哲学が、親和力の法則に従って、その教養なり精神力なりがそ
れなりに相応している相手をひきつけるのだ。だからいつの世にも、博識な民衆むきの低級な学校式形
而上学と、選ばれた人むきのそうとう高度な形而上学とが存在するわけさ。たとえばカントの高遠な学
説もフリース、クルーク、ザラート、といった連中によって、まず学校のために引きさげられ、台なし
にされる羽目になったではないか。要するに、この場合こそ、「一事が万人に適合することはない」と
いうゲーテの句が、まさにそのものずばりなのだ。純粋な啓示信仰と純粋な形而上学とは両極端のため
のもので、その中間層のためには、二つのものが無数の組み合わせと等級をなして、入り混じり変化してゆ
くのだ。人間の生まれながらの性質と教養からくる千差万別が、まさにこのことを要求するわけだ。も
ろもろの宗教こそがこの世に充満し、この世を支配している。そして人類の大部分の者が、これらの宗教に
服している。それと並行して、ゆっくりながら次から次と哲学者が物静かに立ちあらわれ、素質と教養
によってそれだけの力をそなえた少数者のために、大きな神秘の謎解きにあたるのだ。だいたい平均し
て、哲学者の出現は一世紀に一人だ。こういう哲学者は、ほんものだとわかると、たちまち歓呼をもっ
て迎えられ、世人も注意ぶかく耳を傾けることになるのだ。――

23 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:53:59.55 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス そういう話を聞くと、さっききみが言った古代人の密儀のことを真剣に考えてみよ
うという気になるね。あの密儀の根底には、精神的素養や教養の違いからくる弊害を取り除こうという
意図がひそんでいるように思われるからだ。その意図というのは、ヴェールをかぶらない真理などに、
どうしても近よれない大多数の人々から、ある程度まで、そのヴェールをはいでみせられるような若
干の人たちを選びだし、そのつぎにまた、このなかから、もう少し理解力が進んでいるために、もう少
し打ち明けられるような数名の者を選ぶというぐあいにして、だんだんのぼって、奥義伝授者に至ると
いうことだった。そういうわけで密儀にも、「小さい密儀、より大きな密儀、最も大きな密儀」と段階
があったのだ。人間の知性が平等ではないという正しい認識が、このことの根底にあったわけなんだ。

デモフェーレス 現代では、下級、中級および上級学校の教育が、あるていど、そういう段階をもっ
た密儀の得度式のかわりになっているね。

フィラレーテス ごくだいたいの話にすぎないよ。それも、高度の知識の対象について、もっぱらラ
テン語で書かれた時期に限るのだ。ラテン語で書かれなくなってからは、どんな密儀もすべて俗化して
しまったからね。

デモフェーレス それはともかくとして、宗教については、きみがもう少し理論面は軽くみて、もっ
と実践面を重視するよう、注意をうながしたいと思うね。たとえ人格化された形而上学が宗教の敵だと
しても、人格化された道徳は宗教の味方だろう。もしかしたら、あらゆる宗教で、形而上学的な点は
誤っているかもしれないが、道徳面では、どの宗教も真だ。このことはすでに、形而上学の問題では、
あらゆる宗教がたがいに抗争しているのに、道徳面ではすべて一致していることからも想像される点
で、――

フィラレーテス つまり、誤った前提から、真実の結論が出てくることもあるという論理学の法則の
一例というわけ。

24 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:54:26.71 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス だったら、その結論だけはつかまえて、宗教には二つの側面があるということを、
いつも忘れないでほしいんだ。たんに理論的な、つまり知的な面から見れば、宗教など、まともに一本
立ちできないにしたって、道徳的な面からすれば、理性をさずかった人間という動物をみちびき、飼い
ならし、なだめすかす唯一の手段なんだ。だって人間は、猿と血つづきだといっても、虎の血を引いて
いないわけでもないからね。と同時に宗教は、人間のもっているおぼろげな形而上学的要求を、普通な
らじゅうぶん満たすものなのだ。ぼくに言わせると、きみはどうも、そのきみの博学な頭脳、考える修
練をつんだ明晰な頭脳と、駄馬同然の人たちの、にぶくて無骨な、濁ってのろのろした意識とのあいだ
に、天と地ほどの差、深い断層があることを、じゅうぶんつかんでいないように思えるのだ。人類のな
かのあの駄馬のような連中の思考は、生計の心配で釘づけになっていて、ほかの方向に動かせるもので
なく、もっぱら筋肉の力だけを働かせる結果として、知性のもとになる神経の力のほうは、ひどく低下
してしまうのだ。あの連中だって、滑りやすくて刺の多い彼らの人生行路を渡ってゆくうえで、頼りに
できるなにか確たるものを、どうしてももつ必要があるわけだ。つまりなにか美しい寓話をもたざるを
えないのだ。この寓話のおかげで、彼らの粗野な悟性が象徴や比喩でしか受けいれられないような事柄
が、彼らに伝えられることになる。

フィラレーテス 正直も嘘、徳も欺瞞だから、せめて寓話の衣でも着せて飾る必要があるとでも、き
みは思っているのかね?

デモフェーレス とんでもない! でもあの連中だって、彼らの道徳的感情や行動を、なにかに結び
つけざるをえない。深い説明や繊細な区別などしてみたところで、彼らの心をつかまえられるものじゃ
ない。宗教の真理は比ゆ的な意味のものだと言うかわりに、カントの道徳的神学がそうであるように、
実践的目的のための仮設、あるいは入門的図式とよんでもいいかもしれない。

25 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 20:34:56.58 ID:erdeu88j.net
磁気を説明するために物理学で電流の仮設を設けたり、化学の畑で化合の関係を説明するのに原子の仮設を立て
たりするのと同じ流儀の調整手段だ。こうした仮設は客観的に真だときめてかかるには用心しなければならぬが、
いろんな現象を結びつけるために使われるというのも、その結果や実験の点では、ほぼ真理そのものと同じ
役割をはたすからだ。こうした仮設は行動の指針となり、思索する場合には主体に安心をあたえてくれ
る。きみが宗教をそういうふうに受けとって、その目的とするところは主として実践面にあり、理論は
従だと考えるなら、宗教だって大いに尊重すべきものだというふうに思えてくるだろうよ。

フィラレーテス けっきょく、目的は手段を神聖にするという原則を、どれほど尊重するかだろう
が、ぼくはそういう原則にもとづく妥協には、応じる気にはないね。たとえ宗教がこの二本足の動物、つ
むじまがりで、鈍感で、意地のわるいこの動物を飼いならし、仕込むには、まことにすぐれた手段だと
したって、真理を友とする者の目には、たとえそれが「敬虔な」ものであろうと、すべて「欺瞞」は唾
棄すべきものだ。嘘や欺瞞は珍しい道徳の手段かもしれぬが、ぼくが誓いを立てた旗は真理なので、ど
んな場合もこの旗に忠誠を守って、効果なんか気にかけず、光と真理のために戦いぬくよ。宗教を敵の
隊列に見かけたら、ぼくは――

デモフェーレス ところがきみは敵の隊列なんかに宗教を見いだすことはないよ! 宗教は欺瞞じゃ
ない。それは真であり、あらゆる真理のなかでいちばん大切な真理だ。しかし、まえにも言ったよ
うに、その説くところが、大衆には直接理解しえないほど高い性質のものであり、いいかね、その光で大
衆の目がくらんでしまうくらいだから、宗教は寓話のヴェールをかぶってあらわれるのだ。そしてその
説くところは、それ自体として真ではないにしても、そこにふくまれた高い意味からすれば真なん
だ。こう解すれば、宗教は真理だよ。

26 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 20:35:22.97 ID:erdeu88j.net
フィラレーテス それはたしかに聞くべき意見だろう――もし宗教がただの寓話としてのみ真だと言う
のならね。ところが宗教は、言葉のまったく本来的な意味で、端的に真だと言いはりながら出てくるの
だ。ここに欺瞞がある。この点こそ、真理を友とする者が、宗教に敵対せざるえない点なんだ。

デモフェーレス しかし、それは必然的制約だ。もし宗教が、その教えの寓話的意味だけが真だと、
その内情を打ち明けようものなら、効果はあがったりで、人間の道徳面・情操面に及ぼしていた宗教の
測りしれない好影響は、そういう厳格主義のために失われることになろう。かたくなに杓子定規をふり
まわさないで、実践面で、つまり道徳や情操方面で宗教が果たしている大きな仕事に注目すべきだ。行
動の指針として、生や死における悩める人間の支えとして、また慰めとして、宗教があげている実績を
見るべきだ。そうすればきみだって、民衆の慰めと安心の無尽蔵の源泉になっているものに、いたずら
に理論的酷評を加えて、これを疑わしいものにし、ついに民衆の手からそれを取りあげるようなことは
しまいと、大いに気をつけるようになるだろう。だって民衆は、われわれ以上につらい運命にさらされ
ており、われわれ以上にこの源泉を必要としているのだ。その意味だけからも、絶対に手を触れてはい
けないのだ。

フィラレーテス そういう論拠なら、免罪符の売買を攻撃したルターを槍玉にあげることだってでき
ることになるぜ。だって、免罪符は、じつにたくさんの人にとって、代えがたい慰藉、完全な安心の源
泉になったんだ。彼らは、臨終の床で免罪符をしっかりにぎりしめ、それに全幅の信頼をよせ、これで
九重の天のどこへでもはいれると確信しながら、安心して死んでいったのだ。――だまされていたのが
わかるという、いわばダモクレスの剣がいつも上にぶらさがっているような慰藉や安心の根拠など、な
んの役に立とう! ねえきみ、真理だけが確実なんだ。永持ちし、忠実なんだ。真理の慰めだけが堅い
慰めだ。真理は不壊のダイヤモンドだよ。

27 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 21:44:40.84 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス なるほど、きみたちがポケットに真理を忍ばせていて、お望みに応じて、われわれ
をうれしがらせてくれるというのならね。だが、きみたちのもっているのは、さまざまな形而上学の体
系にすぎぬ。そのために頭をくだくこと以外に、確かなものはなにひとつ、そこにはないのだ。ひとさ
まからなにかを取りあげる以上、なにかそのかわりに、もっとよいものをさしだせなくちゃ。

フィラレーテス そんなことをいつまでも聞かされちゃ、たまらないよ! ある人を誤謬から解放す
るということは、その人からなにかを奪うことではなくて、あたえることだよ。あることがまちがって
いるという認識は、まさに一つの真理だからね。誤謬で有害なものはないんだ。おそかれはやかれ、誤
謬をいだいている人に禍をあたえることになるのさ。ひとをペテンにかけてはいけない。知らないこと
は知らないと白状するほうがましだ。そしてだれにでも、めいめい自分の教義をつくるように任せたら
いいのだ。いろんな教義が出てきたって、さしてひどいことにもならんだろう。おたがいに摩擦し、修
正しあえば、なおさらだ。いずれにせよ、見解の多様性は寛容の基礎になろう。しかし、知識や能力に
めぐまれた人たちは、哲学者の研究にとりかかるか、自分で哲学史を一歩さきへ進めればいいんだ。

デモフェーレス そうなったら壮観だろうて! めいめい縄張りをもって、甲論乙駁し、ときにはな
ぐりあいも辞さない形而上学者がわんさかと出てくるわけだ!

フィラレーテス なあに、たまに棍棒の飛びかうのも人生の薬味さ。あるいは、僧侶政治、俗人の掠
奪、異教徒迫害、宗教裁判、十字軍、宗教戦争、聖バルトロメウス祭の夜の虐殺などに比べたら、少な
くともほんのちょっとした悪だ。こうした事件は、なんといっても天下ごめんの民衆形而上学の結果
だった。だからぼくは、いばらのやぶから葡萄がとれる見込みはなく、欺瞞から救いは期待できないと
いう説を曲げないのだ。

28 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 21:45:07.39 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス くどいようだが、宗教は断じて欺瞞じゃない、真理そのものだよ。ただ神話や寓話
の衣をつけているだけだよ。――みんながめいめい自分の宗教の開祖になればいい、というきみの腹づ
もりについては、ぼくには文句がある。そういう分離主義はまったく人間の本性に反しているよ。それ
を許したら、社会秩序なんかすべてめちゃくちゃになるぜ。人間は形而上学的動物だ。つまり、きわめ
て強い形而上学的欲求の持ち主なんだ。だから人生の形而上学的意義をまっさきにつかみ、そこからす
べてが導きだされることを求めるのだ。あらゆる教義が不確かなんだから、とても変に聞こえるかもし
れないが、形而上学的根本見解の点で一致していることが、人間にとって肝要なことなので、それはそ
の点で同じ考えをもっている人たちの間でだけ、真の永続的共同体が可能になるくらいなんだ。そのた
め諸民族の離合集散だって、政府や、それどころか言語によるよりも、むしろ宗教しだいなのだ。だか
ら、社会という建物も、つまり国家も、その土台に、一般に承認された形而上学の体系があってはじめ
て、完全にゆるぎないものとなるのだ。もちろんそういう体系といえば、民衆形而上学、すなわち宗教
以外にはありえない。しかしそれはやがて憲法や、民衆のあらゆる社会的生活様式や、さらにまた個人
生活のあらゆる儀式と融けあう。古代インドでもそうだったし、ペルシア人、エジプト人、ユダヤ人に
おいても、またギリシア人、ローマ人においても、さらにまたバラモン教や仏教や回教の諸民族の場合
もそうだった。シナでは、三種の教義が行なわれている。そのうちいちばん普及している仏教が、国家
から保護されることがいちばん少ない現状だ。しかしシナで一般に通用している、日常使われている格
言に「三教は一なり」というのがあるが、大筋のところで三つの教義が一致するというのだ。皇帝もま
た三教をすべて同時に、一つにして信奉する立場を表明している。

29 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:18:29.87 ID:erdeu88j.net
最後にヨーロッパはキリスト教的国家同盟だ。キリスト教が各同盟国家の基礎になっており、そのすべて
の国をつなぐ共同の紐帯になっている。そういう意味から、トルコはヨーロッパに位置してはいるけれど、
ほんらいヨーロッパには数え入れられないのだ。したがってヨーロッパの君主は、神の恵みによって
「天佑を保全せる」君主なのであり、ローマ教皇は神の代官というわけだ。だから教皇は、その威勢の最も
盛んであったときには、あらゆる帝位を彼の授けた采邑とみなすように求めたのだ。同様に、大僧正や僧正
も、そういう立場から世俗的権能をもっていて、現にイギリスでは上院に議席と発言権をもっているわけな
んだ。プロテスタントの君主たちは、その建前上、その教会の長でもあるわけで、イギリスではそれが十八歳
の少女だったのも、そう昔の話ではない。宗教改革は、教皇から離れることだけですでに、ヨーロッパの
国家組織を動揺させたが、とりわけ信仰の共同体を破ることによって、ドイツの真の統一を解体したのであ
り、事実上この統一が崩壊してしまったあとから、人為的な、たんに政治的な紐帯でこれを再興せざる
をえなくなったのだ。こうして見ると、信仰と信仰の統一が、社会秩序および国家とどんなに本質的に
関連しているか、きみにもわかるだろう。信仰はどこでも法と憲法の支柱であり、つまりは社会組織の
基礎なのだ。もし信仰が政府の権威や君主の威厳をあと押ししなかったら、社会という建物の存立も困
難だろう。

フィラレーテス まったくのはなし、君主たちにとって主なる神は、サンタクロースのおじいさんな
んだ。ほかに手がないと、彼らはこのおじいさんを使って大きな子どもたちを寝床に追いやる。そこで
大いに尊重しているわけさ。もっともな話さ。それはそうと、ぼくはすべての君主にすすめたいことが
あるよ。半年に一度、はっきり決められた日に、サムエル記上の第十五章をまじめに注意して読みとも
すことだ。王位を祭壇で支えておくことが、どんなに大切かということを、いつも忘れないためにね。

30 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:18:56.09 ID:erdeu88j.net
そのうえ、「神学者の最後の根拠」ともいうべき火あぶりの薪が使われなくなってからは、宗教を笠に
きて統治するという手は、ひどくききめがなくなってしまった。というのも、きみも知ってのとおり、
宗教は蛍のようなもので、光るためには闇がいるからなんだ。一般の人びとがあるていど無知だという
ことが、あらゆる宗教の条件であり、宗教が生きうる唯一の要素なんだ。ところが天文学・自然科学・
地質学・歴史・地理学・民俗学といったものが、その光を一般にひろげ、最後に哲学まで発言を許され
るとなると、奇蹟や啓示に支えられていたすべての信仰は、たちまち没落の憂き目で、哲学がその座を
占めるということになる。ヨーロッパでは、十五世紀の末ごろ、新しくギリシアを研究した人たちがあ
らわれて、認識と学問のあの一日の明けそめ、その太陽は、実りゆたかな十六世紀、十七世紀において
ますます高くのぼり、中世の霧をはらいのけたわけだ。それにつれて、教会や信仰はしだいに沈まざる
をえなかった。だから十八世紀になると、イギリスやフランスの哲学者どもが、教会や信仰に対して直
接反旗をひるがえすこともできるようになり、ついにフリードリッヒ大王の治下にカントがあらわれ、宗
教的信仰から従来の哲学の支柱を取り去り、「神学の侍女」を解放したのだ。カントがこの問題に取り
組んだやり方は、まことに泰然として徹底的だったから、宗教問題も浮わついた調子でなく、いよいよ
厳粛なおももちを呈するようになったのだ。その結果として十九世紀になると、キリスト教はすっかり
弱体化してしまい、本気に信じる者なんかほとんどなく、それどころか、すでに死ぬか生きるかの最後
のあがきまで見せるようになる。いっぽう、これを気づかう君主たちは、あたかも瀕死の重病人に医者
が麝香を使うように、人為的な刺激剤でキリスト教を助けおこそうとかかるしまつだ。だがここで聞い
てほしいのは、コンドルセの『人間精神の進歩』の一節だ。これはまるで現代の警告として書かれたよ
うにも思えるのだ。「哲学者たちや偉い人たちが宗教に熱をあげたのは、政略的な信心でしかなかった。
どんな宗教も、民衆にゆだねたほうが有利だと思いながら、それでも防衛してゆくというふうになった
ら、長い短いの差はあれ、けっきょく苦悶のはてに死ぬ以外の望みはないのだ。」

31 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:30:16.54 ID:erdeu88j.net
 いままで述べてきた経過全体で観察できることは、信仰と知識の関係が天秤の二つの皿のようなもの
で、一方が上がるにつれて、他方が下がるということだ。しかもこの天秤は非常に敏感にできていて、
瞬間的な影響でも表示する。たとえば、今世紀のはじめ、ボナパルトを首領としてフランスの賤民ども
が掠奪を行ない、その後これらの輩を追いだしたり懲戒したりするのに、たいへんな苦労を払わされた
結果として、一時的ながら学問を等閑視することとなり、そのため知識の一般的普及も、あるていど低
下したとなると、とたんに教会はふたたび頭をもたげはじめ、信仰はただちに新しい活気をみせたの
だ。もっとも活気といっても、時代が時代だけに、一部はたんに詩的な性質のものにすぎなかったけれ
どもね。ところがそれにつづく三十年以上にわたる平和時代には、閑暇と福祉が学問の開拓と知識の普
及を珍しく促進したその結果として、まえにも言ったように、宗教はいまにも解体しそうなくらい衰退
したわけなのだ。もしかすると、宗教がヨーロッパの人間におさらばをする時点が、しばしば予言され
ていたように、やがてやてくるかと思われたほどだ。それはちょうど子供が大きくなって、お守りが
いらなくなると、乳母がさよならをするのと同じことで、こんどは子供は家庭教師に教えてもらうこと
になるわけだ。というのは、権威や奇蹟や啓示にもとづくただの教義が、人類の幼年期だけ適した一
時のまにあわせにすぎないことは、疑いをいれないからだ。ところで、人類の全存続期間は、自然的お
よび歴史的資料の一致して示すところによえうろ、今日までで、六十歳の男の生涯のおよそ百倍以上には
ならず、まだほんの初期幼年時代にあることは、だれでも認めるところだろう。

デモフェーレス ああ、もしきみがキリスト教の没落を予言してそんなに得々としていないで、ヨー
ロッパ人がその真の古い故郷であるオリエントから発して、その後、彼らにつき従うことになったこの
宗教に、どんなに無限に多くを負うているかを見る気になってくれればね! ヨーロッパ人はこの宗教
によって、それまで彼らの知らなかった目的を得たのだ。つまり、人生は自己目的ではありえない、わ
れわれの生存の真の目的は生存の彼岸にあるという根本真理を認識したのだ。

32 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:33:14.74 ID:erdeu88j.net
というのは、ギリシア人やローマ人は、生存の目的をまったく生そのもののうちに置いていた。この意味で彼らは、
たしかに盲目的異教徒とよんでもさしつかえないのだ。したがって彼らのあらゆる徳は、公益に役立つもの、――
有用なものに還元される。アリストテレスなんかも、きわめて素朴に、「他の人たちに最も役立つ徳が、
必然的に最大の徳でなければならない」(『弁論術』一の九)と言っている。だから、じっさいまた祖国
愛が古代人の最大の徳なのだ、――といっても、偏狭・偏見・虚栄・良い意味の利己心などがこれに大
いにあずかっているから、もともとこれはあいまいな徳ではあるがね。いま引用した個所のすぐまえの
ところで、アリストテレスはすべての徳目を数えあげ、ひとつひとつこれを説明している。それは、正
義・勇気・節度・鷹揚・雅量・寛仁・温情・思慮および聰明といったもので、キリスト教の徳目とずい
ぶん違っているね! キリスト教以前の古代で超越的な点では比較を絶している哲学者プラトンでさ
え、正義以上の高い徳を知ってはいない。しかもこの徳を、無条件的に、それ自体のためにすすめてい
るのはプラトンだけで、他のすべての哲学者は、あらゆる徳目の目標を「幸福な生活」に置いており、
道徳はそういう生活への手引きだった。キリスト教は、こういうはかない、不確かで味気ない生存に、
平板粗雑に頭をつっこんでいるヨーロッパ人を解放し、

    その目を天に向けさせ
    そのまっすぐな顔を星座に向けさせた

のだ。だからキリスト教はただ正義を説くだけでなく、博愛・道場・慈善・宥和・敵に対する愛・忍
耐・謙遜・断念・信仰および希望を説いたのだ。いや、さらに進んで、この世が悪に由来すること、わ
れわれが救済を必要とするものだということを教え、したがって、現世を軽蔑し、自己を否定し、純潔
を保ち、我意を捨て、人生とその欺瞞的な享楽に背を向けるように説いたわけだ。それどころか、受苦の
救いの力を認識するように教えたのであって、ある拷問具がキリスト教の象徴になっているしだいなのだ。

33 :神も仏も名無しさん:2015/09/03(木) 23:35:49.20 ID:ErzGISQy.net
愛犬にウパニシャッドとかつけてたね、ショーお爺ちゃんwww

34 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 00:21:23.85 ID:fxC3YCHC.net
 しかも日常生活は、クセノポンの『饗宴』がそのおもかげを描きだしてくれているように、きわめて高雅な社交に
よって美化されていた。さてこんどは、きみには辛いだろうが、中世を見たまえ。――この時代は、教会が精神を
しばり、暴力が肉体をしばっていた時代だ。それというのも、騎士と坊主が彼らの共通の駄馬である第三身分の者ども
に、生活の重荷をすっかり負わせたためなんだ。そこにきみが見いだすのは、緊密に結びついた武断政治と封建制度と
狂信であり、またその結果としてひどい無知と精神の闇、この無知にふさわしい非寛容、宗門争い、宗教戦争、
十字軍、異端者迫害、そして宗教裁判といったものだ。ところで社交の形態としては、粗野とお
しゃれをつなぎあわせてできた騎士道があった。そこには酔狂きわまることが、ことこまかにきめられ
てひとつの体系をなし、人間の品位を落とすような迷信、猿にふさわしいような女性尊重がつきもの
だった。そのなごりがいまの女性上位の慇懃だが、そのむくいとして女性が威張るのは当然な話で、
あらゆるアジア人にいつも笑い草を提供しており、ギリシア人だってこれに吹きだすにきまっている
よ。これが中世の黄金時代には、形式的で整然とした婦人崇拝に発展した。つまり英雄的行為を務めと
して果たしたり、愛の奉仕をしたり、トルバドゥール流の誇張した歌をつくるといったことだ。最後に
あげた茶番には、それでもどうやら知的な一面があるが、これもフランスが本場だということに注目し
なくちゃならぬ。ところが実質本位で愚鈍なドイツ人ときては、騎士も大酒をくらったり掠奪したりす
ることのほうが得手で、大杯と盗賊騎士の城のほうが彼らの関心事だったのだ。もちろん諸方の宮廷で
は、幾人かの気のぬけた恋愛歌人にこと欠いたわけではない。古代と中世と、どうしてこんなに光景が
一変したのか? 民族移動とキリスト教のためだ。

35 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 00:22:07.53 ID:fxC3YCHC.net
デモフェーレス その指摘はいい。民族移動は禍の源流だった。キリスト教はその流れをせきとめた
堤防なのだ。民族移動の洪水で押し流されてきた粗暴野蛮な遊牧民にとって、キリスト教はさしずめ彼
らを飼い馴らし仕込む手段になったのだ。粗暴な人間はまずひざまずくことを学び、崇敬と従順を会得
する必要があった。そのうえではじめて教化も可能になったのだ。アイルランドでは聖パトリックがこ
のことをなしとげたのだが、ドイツでそれに相当するのはサクソン人ウィーンフリートで、彼は文字ど
おりボニファキウスとなったわけだ。アジア人種がヨーロッパへとどんどん押しかけてきたその最後が、
民族移動とよばれるわけだね。こういう動きは、アッティラやジンギスカンやティムールのときにも試
みられたが、なんの実もむすばなかったし、滑稽な後奏曲としてはジプシーの流浪なんかがあったわけ
だ。ところでこの民族移動こそ、古代の人間性を洗いおとしてしまったのだが、キリスト教はまさにこ
ういう粗野に対抗する原理だった。それは中世全体をつうじて教会が教権制度でもって、現世の実力
者、君主や騎士たちの粗暴と野蛮を抑えるのに、大いに必要であったのと変わらない。つまり教会はこ
れらの巨大な氷塊の砕氷船になったのだ。ところで教会の目的とするところは、現世の生活を快適にす
るというよりも、むしろわれわれをよりよい生活に値する者にすることにある。このしばしの時、この
はかない夢には目もくれずに、キリスト教はわれわれを永遠の救いにみちびこうとするのだ。そのねら
いは、それまでヨーロッパには知られていなかった言葉の最も高い意味で、倫理的なのだ。さっきも、
古代人の道徳と宗教をキリスト教のそれと対比して、きみに注意したようにね。

フィラレーテス 理論だけなら、それでいいんだ。しかし実際を見てもらいたいんだ。中世期には、
不自然な死の拷問や火刑が無数に行われたね。古代人が、このキリスト教的数世紀にくらべれば、さ
ほど残酷でなかったことは、議論の余地がない。さらに古代人は非常に寛容で、とりわけ正義を重ん
じ、しばしば祖国に身をささげ、あらゆる種類の高邁な性向と純粋な人間性を示した。だから、今日に
いたるまで彼らの行動や思惟を知ることが人文研究とよばれているくらいなんだ。

36 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 10:41:31.35 ID:fxC3YCHC.net
宗教戦争、宗教的人殺し、十字軍、宗教裁判、そのほかの異端審問、アメリカ原住民の絶滅、そしてそのかわりに
アフリカ奴隷の移入――こうしたことが、キリスト教のもたらした実で、これに類すること、これに匹敵する
ことは古代人では見あたらない。というのは、ファミリア(familia. 家族)とかヴェルナ(vernae.家
内奴隷)とかよばれる古代人の奴隷は、主人に忠実に仕えて満足している人たちであって、砂糖きびの
農場でこきつかわれて、人類を呪っている不幸な黒人とは雲泥の差があることは、その皮膚の色の違い
と同様だからだ。古代人の道徳でおもに非難の的になっているのは、男色を大目に見ていることだが、
これはもちろん非難すべきことではあるけれど、右に述べたようなキリスト教の暴虐にくらべれば、と
るにたらぬ些事だし、近代人においても、男色は表面化するのは減っているかわりに、珍しくなったとい
うには程遠いのだ。あれこれ考えあわせて、きみは、キリスト教によって人類がほんとうに道徳的によ
りよくなったと主張できるかね?

 デモフェーレス キリスト教の成果が必ずしもその教説の純粋さと正しさに照応しなかったのは、そ
の説くところが人類にとってあまりに高貴・崇高にすぎ、目標があまりに高いところに置かれていたせ
いだろう。異教の道徳に従うことは、回教の道徳の場合と同様、もちろん比較的容易だった。最も崇高
なものほど、どんな場合にも、濫用と欺瞞にさらされている度が高いのだ。「最上のものの濫用は最悪
となる」という格言どおりだ。そういうわけで、じっさいまたあの高遠な教えが、ときとしてじつに忌
まわしい所業やほんとうの犯行の口実に使われたこともあるわけさ。――ところで古代の国家組織が没
落したこと、また古代世界の芸術や学問が没落したのは、まえにも言ったように、外国から野蛮人が侵
入してきたせいだ。そこで無知と粗暴がのさばり、その結果、暴力と欺瞞が横行して、騎士と坊主ども
が人類の上にのしかかる重荷になったことも、避けがたいことだった。こうなったことについては、一
部分はキリスト教の性質から説明することもできる。

37 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 10:42:09.53 ID:fxC3YCHC.net
すなわちこの新しい宗教は、現世の救いではなくて、永遠の救いを求めることを教えたのであり、
したがって頭の知識よりも心の素朴を尊いものとみなし、結局は学問や芸術の奉仕するあらゆる
世俗的享楽を好まなかったということだ。しかし学問や芸術も、宗教に仕えるかぎりでは、
奨励もされ、ある程度の花を咲かせることもできたわけだ。

 フィラレーテス そうはいうけれど、人類がそれまでに獲得した知識、古代人の文書のなかに書きと
められていたものを没落から救ったのは、もっぱら僧侶であり、とりわけ修道院の僧侶たちじゃない
か。キリスト教がその直前にあらわれたからよかったものの、そうでなかったら、民族移動でこういう
ものがどうなっていたか知れないではないか!

 フィラレーテス もろもろの宗教によって得られた利益と、それによってひき起こされた損失とを、
いつかきわめて公平に冷静に、どちらの側にも立たないで、厳密に正しく秤る試みがなされるなら、そ
れはほんとうに役立つ研究になるだろうね。もちろんそのためには、われわれふたりの使えるよりも、
はるかにたくさんの量の歴史的・心理学的資料が必要だけれどもね。学士院なんかも、これをひとつ懸
賞問題の題目にしてもよいだろう。

デモフェーレス そんな無茶はやるまい。

フィラレーテス きみがそんなことを言うなんて、おかしいね。宗教に歩がわるいからだろう。もっ
とも学士院といったって、せっかく問題を出しても、うまく調子を合わせるこつを心得ているやつが賞
をもらうといったことが、暗黙の条件になっているような学士院だってないわけではないからな。――

38 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:01:43.92 ID:fxC3YCHC.net
さしずめだれか統計学者が教えてくれると、ありがたいね。毎年、宗教的動機から犯罪を思いとどまる
者がどれくらいの数になり、宗教以外の他の動機で中止する者がどれくらいの数になるかだ。前者はご
くわずかだろう。というのは、なにか罪を犯そうという誘惑を感じた場合、それを思いとどまらせる第
一のものは、そういう犯罪に課せられた罰と、そういう罰にひっかかるかどうかという可能性であるこ
とはまちがいないからだ。そのつぎに第二の問題になるのは、名誉を損じる危険性だ。ぼくの考え違い
でなければ、地獄に落ちるかもしれんといった宗教的な考えがちょっとでも頭に浮かぶさきに、まずこ
の二つの障害にぶつかって、何時間も考えあぐむのが普通だろう。だがこの二つの犯罪の歯止めを乗り
こえてしまった場合に、宗教だけで思いとどまるなんて、ごくごく稀だと思うな。

デモフェーレス いや、あんがい多いとぼくは思うね。とりわけ宗教の感化は、習い性となって、だ
れでも大きな犯罪にはすぐ尻込みするから、なおさらだ。若いときに刻みつけられたものは、なかなか
抜けないものだ。その証拠に、考えてもみたまえ。いったん約束したからには、とりわけ貴族だが、と
きにはひどい犠牲を払っても、これを果たす人が多いのも、若いときに、「名誉を重んじる者は、紳
士とか騎士は――いつでも固く約束を守るものだ」と、まじめな顔つきで父親から言ってきかせられた
せいだよ。

フィラレーテス 持って生まれた誠実さがなければ、そうはならないよ。この生得的な品性のよさか
らそうなるのに、きみのようにそれを宗教のせいにしてはならない。過失や犯罪をおかした人に、同じ
人間として同情を感じるところから、そういう非行を思いとどまるというのも、持って生まれた性質が
よいからだ。そしてそれは純粋な道徳的動機で、その性質からいって、あらゆる宗教とは無関係なものだ。

39 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:02:30.38 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス しかし、大衆の場合、道徳的動機も、これを補強する宗教的動機にくるまないと、
いっこうにききめはないな。きみのいう持って生まれた性質がない場合だって、宗教的動機だけで犯罪
の防止になることは、よくあることだ。だいたい高い教養をもった連中でさえ、寓話的な意味の真理を
根底にもつ宗教的動機なんかの影響ではないにしても、きわめて荒唐無稽な迷信にさえ左右され、一生
そんなものに引きまわされているじゃないか。たとえば、金曜日には新規なことに手を出さないとか、
十三人では食卓につかないとか、偶然的な前兆に従うとか、そのほか、いろいろあるね。大衆の場合が
もっとひどいとあっても、べつに驚くにはあたらないよ。きみなんか、粗野な大衆の偏狭さがどんなも
のか、とても想像できないんだ。それはまっ暗闇なんだ。とりわけその性根がよこしまで、意地わるく
できているのがざらだから、なおさらだ。人類の大部分を占めているこの手合いを、われわれとして
は、ともかくできるかぎり指導したり抑制したりしなくちゃならない。その場合、やつらを動かすの
に、ほんとうに迷信的なものでもかまわないのだ。あの連中に、もっとましな正しい動機を受けいれる
日がくるまではね。だが、宗教が直接ききめをあらわす場合も、ないではない。たとえば、とくにイタ
リアではそうだが、泥棒をしても聴罪師の手をへて盗品をかえすといったことがあるね。これが赦免の
条件になるからさ。つぎに考えてほしいのは、宗教が決定的な役割を果たす宣誓のことだ。これにはい
ろんなやり方がある。フランスあたりでは、簡単に「わたしはそれを誓います」という宣誓方式がとら
れていて、人間はもっぱら道徳的存在の立場に立ち、厳粛に呼びかけられるという自覚を基本としてい
るように思われるし、クェーカー教徒なんかも同様で、厳粛に「はい」とか「いいえ」といえば、それ
で宣誓のかわりになるのだ。あるいはまた、宣誓の場合に口にするとおりに、自分の永遠の至福が失わ
れると本気に信じる場合もあろう。こういう信念は、その人の気持ちを宗教的に言いあらわしたものだ
といえる。

40 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:25:55.35 ID:fxC3YCHC.net
ともあれ宗教的表象は、われわれの道徳的本性をめざめさせ、呼びおこす手段なのだ。偽り の誓いを立てても、
いざとなると、ころりとひっくり返ることもよくあることだ。こうして真実と正義が勝つことになるわけだ。

 フィラレーテス しかしそれ以上に、実際に偽誓がまかり通って、その事件の証人がみんなはっきり
事情を知っているのに、真実と正義が踏みにじられることだって、なかなか多いよ。宣誓は法律家の形
而上学虎の巻だ。だから、できるだけ使わないにこしたことはない。けれども、やむをえない場合は、
いと厳粛に、僧侶の出席のもとに、しかも教会とか法廷付属の礼拝堂でやるべきだ。きわめて疑わしい
場合には、学童を陪席させるのも適切だ。その意味で、フランス式の宗教ぬきの宣誓方式は役に立たな
い。あたえられた既成宗教をぬきにするかどうかは、その当人の教養の程度に応じて、めいめい各自の
思いどおりにまかせるべきだろう。――ともかくきみが、誓いを宗教が実際に役立つ明瞭な実例として
あげたのは正しい。しかし、きみはいろいろ言ったけれど、宗教の実効がそんなにあるなんて、疑わざ
るをえないな。考えても見たまえ。いまとつぜん、おおやけの布告であらゆる刑法が廃止されたとした
ら、きみもぼくも、宗教的動機の保護だけで、ただこの場所から帰宅するだけの勇気さえも持てないと
思うよ。だが同じようなぐあいに、すべての宗教がまちがっていると言われたって、ぼくたちは別にこ
とさら心配したり警戒したりしないで、法の保護だけで従前どおりの生活ができるじゃないか。――も
う少し言わせてもらうと、宗教にはとかく道徳をひきさげる力があるということだ。一般的に言えるこ
とは、神に対する義務さえ果たせば、人間に対する義務が免除されるということだろう。人間どうしの
あいだで落ち度があっても、そのかわりに神さまにとりいれば帳消しだとあれば、そのほうがうんと楽
だからね。だからいつの時代にも、どこの国でも、たいがいの人びとは、善行をつんで天国入りの資格
を得るよりは、簡単にお祈りですべりこもうとするわけだ。

41 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:26:30.66 ID:fxC3YCHC.net
神さまの思召しにかなういちばん手近なことも、道徳的行為なんかではなくて、まず信じることであり、寺院における
いろいろな種類の儀式や礼拝だというふうに、どんな宗教でもやがてなってくる。それどころか、それが僧侶の利益と
結びついて、お寺まいりのほうが、しだいに道徳的行為の代用と見られるようになる。十字架像を寄進したりすること
も、それでひどい犯罪のつぐないができるとあれば、たいへん歩のいい仕事ということになる。この種のもの
には、懺悔、僧侶の権威に対する服従、告白、巡礼、寺院や僧侶への寄付、修道院建設などいろいろあ
るから、ついには僧侶は、賄賂のきく神々との取引を仲立ちする者ぐらいにしかみえなくなる。たとえ
それほど極端にならないとしても、その信者たちが、すくなくとも祈禱や賛美歌やいろいろな礼拝を、
一部は道徳的行状の埋合せと見ないような宗教があるだろうか? たとえばイギリスを見たまえ。あの
国の坊主どもの図々しさったらないね。もともとユダヤ教の安息日に対抗してコンスタンティヌス大帝
が制定したキリスト教の日曜日を、彼らはそんなことにおかまいなしに、ユダヤ教の安息日と同一視し
ているんだからね。名前まですりかえているんだ。エホバが安息日に対して定めたところによると、六
日間の仕事で疲れ給うた全能の神が、この日にお休みにならねばならないとなっているね。つまり安息
日とは本質的に一周の最終の日になるわけだ。それなのにイギリスの坊主どもは、この掟をキリスト教
徒の日曜日にもちこんでいる。日曜日とは「太陽の日」、はなばなしく週の開始を告げる第一日、敬虔
と喜悦の日だ。この密輸入の結果、現にイギリスには、「安息日違反」(sabbathbreaking)とか「安息日
の神聖冒涜」とかよばれるものがあるね。つまり日曜日に、有用あるいは快適などんな軽い仕事をして
も、遊戯でも音楽でも、宗教書以外のどんな読書も、靴下を編むことまで、重い罪に数えられているのだ。

42 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:45:13.64 ID:fxC3YCHC.net
 こうなると、くだらないやつが、その宗教的指導者の教えるとおりに、いつでも「神聖な安息日の
厳守」と「礼拝への几帳面な出席」とを守っているかぎり、つまり日曜日にまちがいなく徹底的に仕事
を怠け、教会に二時間すわることは欠かさず、同じ連祷を千回も聞き、拍子にあわせてムニャムニャ
やってさえいれば、ときに犯すあれやこれやのことも大目に見てもらえると思うのも、当然じゃないか
ね? 北アメリカの諸共和国(奴隷国とよんだほうがよいが)で奴隷を売買したり所有したりしている
連中は、それこそ人間の姿をした悪魔というべきだが、じつは彼らは通例、正統のそして敬虔な英国国
教徒なんだ。だからあの連中も、日曜日に働いたりしたら重い罪だと考えるはずなのに、奴隷には平気
で働かせておいて、自分たちは几帳面に教会へ通って永遠の救いを望んでいやがる。――だから、宗教
が道徳を引きさげる影響力をもっていることは明らかで、どれほど道徳を支える力があるかは眉つばだ
よ。宗教のそういう教化力がとてつもなく大きく、そしてしっかりしていなければ、もろもろの宗教、
とりわけキリスト教や回教がひき起こした暴虐な仕業やこの世にもちこんだ悲歎の穴埋めは、とうてい
できっこないね! あの狂信と果てしのない迫害を考えてみたまえ。まず宗教戦争だ。これなど古代人
には見当もつかない血なまぐさい狂気のさただ。つぎは十字軍だ。愛と寛容を説いた人の墓を占拠しよ
うと、「神意のままに」という鬨の声をあげながら、まったく許しがたい殺戮が二百年もつづいたんだ。
また、ムーア人やユダヤ人をスペインから無慈悲にも追放して根絶したことを考えてみたまえ。聖バル
トロメウス祭のユグノー派の虐殺、宗教裁判、その他の異端審問、三大陸にわたる回教徒の血なまぐさ
い大規模な占領など、考える種はいくらでもある。キリスト教徒のアメリカ占領などもそれだ。彼らはア
メリカの原住民をあらかた根だやしにしてしまった。キューバ島では全員殺戮だ。ラス・カサスによる
と、彼らは四十年間に千二百万人を殺害したという。それがあたりまえと受けとられたのは、「神の栄
光を増さんがため」、福音を普及せんがためであり、とりわけキリスト教徒でない者は人間扱いもされ
なかったせいなんだ。

43 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:45:40.54 ID:fxC3YCHC.net
こういう問題はまえにも触れたことがあるが、いまでも「神の国からの最新の報
告」が出版されている以上、われわれだってこうした古い報告を思いだすことを怠ってはならない。と
りわけ忘れてはならないのがインドだ。この人類の揺籃、すくなくともわれわれの属する人種の発祥地で
あるこの神聖な国を忘れないでおこう。そこではまず回教徒が、つぎにはキリスト教徒が、人類の原始
信仰の信者たちに対してじつに身の毛のよだつ暴行をあえてしたのだ。思いだすのも忌まわしいことだ
が、マハムード・ガズナヴィーから始まって、兄弟殺しのアウラングズィーブにいたるまで、回教徒ど
もは気まぐれに、またむごたらしく太古の寺院や神像を破壊・毀損したのだ。これは永遠に慨歎に耐え
ないところで、今日なおわれわれに回教徒の一神教的凶暴の痕跡を見せつけているのだ。その後、これ
に敗れまいとして、ポルトガルのキリスト教徒たちも、寺院を破壊したり、ゴアの宗教裁判で火刑を
やったりしたのだ。

 それから「神に選ばれた民」と自称するユダヤ教徒のことも逸してはならない。彼らはエジプトでエ
ホバのきびしい命令によって、彼らを信頼している旧友たちから金と銀の容器を盗んだあと、こんどは
殺人者モーセを先頭にして、人殺しや盗みを働きながらカナンに侵入し、ここを「約束の地」として、
同情は絶対無用という同じエホバのたえずくりかえされた厳命にもとづいて、原住民を、女・子供にい
たるまで、まったく情容赦なく皆殺しにして、この土地を正当な所有者たちから奪い取ったのだ(ヨ
シュア記・第十章・第十一章)――それは原住民が割礼を受けておらず、エホバを知らなかったとい
うだけの理由からだったが、これだけでも彼らにあらゆる暴虐をふるう正当な理由としてじゅうぶん
だったのだ。同様に、同じ理由から、族長ヤコブとその選ばれた部下たちが、サレム王ヘモルとその民
に対して恥ずべき非行を行なったことが、まことに輝かしいこととしてわれわれに語られているが(創
世記・第三十四章)、これらもその理由はサレムの民がエホバの信者でなかっただけのことなのだ。

44 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:56:02.38 ID:fxC3YCHC.net
 ユダヤ人のカナン侵入…タキトゥス(『歴史』第五巻・第二章)およびユスティヌス(第三十六巻・第二章)が
出エジプト記の歴史的資料を我々に残してくれている。これは楽し読みものであると同時に教えられるところの
多いもので、旧約聖書の他の諸記の資料がどうなっているかについても、われわれはここから推測できるの
である。前記のところ(右に指摘した個所)から知りうることは、潜入してきた不潔なユダヤ民族が、伝染
のおそれのある厄介な病気(らい病)をもっていたところから、エジプト王は彼らが純潔なエジプトにとどま
ることを望まず、彼らを船に乗せてアラビア沿岸に捨て去らせたのである。彼らのあとからエジプト人の分
遣隊が送られたことは事実であるが、これもわざわざ追いだした者を連れもどそうというのではなくて、彼
らが盗みだした貴重品を取りもどすためだったのだ。じつは彼らは神殿から金の容器を盗みだしていたから
だ。こんなやくざ者にかねなど貸す者があろうか! ――上述の分遣隊が自然現象のために絶滅のうき目に
あったことも、これまたまちがいない。当時、アラビア沿岸地帯は飢饉で、とりわけ水飢饉だった。そこへ
ひとりの向こうみずな男があらわれて、自分についてきて言うことをきくなら、なんでも調達してみせると
切りだしたわけだ。この男は野生のロバを見た、などといったことが書かれている。――わたしはこれを歴
史的資料とみなす。なぜならこの散文を基礎として出エジプト記という詩が書かれているからだ。この場合
たとえユスティヌス(すなわちポンペイウス・トゥログス)が、(出エジプト記にもとづくわれわれの想定
からいって)途方もない時代錯誤をおかしているとしても、そのためにわたしは迷わされはしない。なぜな
ら、時代錯誤の百くらいは、わたしにはたった一つの奇蹟ほどにも憂うべきこととは思われないからだ。
――そのうえ右に引用した二人の古典文学者の著作から見てとれることは、あらゆる時代、あらゆる民族に
おいて、いかにユダヤ人が嫌悪され軽蔑されていたかということだ。そのよってきたる一部の理由は、彼ら
が人間の輪廻などというこの生を超えたどういう存在をも認めない地上唯一の民族だったからで、したがっ
て彼らは家畜、人間の屑――だが嘘つきの名人――と見られたのだ。

45 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:10:38.49 ID:fxC3YCHC.net
 じっさい、ある宗教の信者が他のすべての宗教の信者に対してどんなことをしようと勝手だと思いこ
み、したがって彼らに対して途方もない残虐無道な仕打ちをするのは、宗教の示す最も悪い面だ。回教
徒がキリスト教徒やヒンドゥー教徒に対する仕打ちもそうだし、キリスト教徒がヒンドゥー教徒・回教
徒・アメリカの諸民族・黒人・ユダヤ人・異端者などに対する仕打ちもそうだ。しかし、すべての宗教
がそうだと言っては、おそらく言いすぎになるだろう。というのは、真理のために付言しなければなら
ぬが、こういう原則に発する狂信的残虐行為は、もともと一神教の宗教、つまりユダヤ教とその二分派
であるキリスト教ならびに回教の信者にかぎられていることは周知の事実だからだ。ヒンドゥー教徒や
仏教徒については、この種の報告はなされていない。仏教がおおよそ西洋紀元第五世紀に、その発祥の
地であるインド最先端の半島から、バラモン教徒によって追いだされ、その後アジア全域に普及したこ
とは、われわれも承知していることだけれど、ぼくの知る範囲では、その普及にあたって腕力ざたや戦
争や残虐行為がなされたというような確たる報道はない。もちろんそれは、これらの国々の歴史が暗黒
に包まれているせいかもしれない。しかし、生きとし生けるものを愛護せよと、たえず感銘ぶかく説い
ているこれらの宗教が、きわめて温和な性格をもっていること、またバラモン教がその身分制度のため
にほんらい改宗者を認めないという事情などは、これらの宗教の信者たちが大規模な流血の惨事や各種
の残虐行為を犯さなかったという期待をわれわれにいだかせるものだ。スペンス・ハーディはその名著
『東洋の修道生活』四一二頁で、仏教徒が非常に寛容である点を賞賛し、仏教の年代記には、他の宗教
の年代記の場合よりも宗教的迫害の実例が少ないという証言をつけ加えている。じじつ、不寛容は一神
教にのみ本質的なものだ。唯一神というものは、その本質上、他のいかなる神をも生かしておかない嫉
妬ぶかい神だ。これにひきかえ、多神教の神々は、その本性上、寛容なものなのだ。これらの神々は自
分が生きると同時に、他の神々をも生かしておく。

46 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:43:52.99 ID:fxC3YCHC.net
まず第一に、これらの神々はその仲間、つまり同一 宗教の神々をよろこんで許容し、のちにはこの寛容
は他の宗教の神々に及んでゆく。だから、これら他 宗教の神々も客分として受けいれられ、のちにはと
きとして市民権を得る場合だって出てくるのだ。それはローマ人の実例が示しているとおりだ。彼ら
ローマ人は、フリギアやエジプトの神々をはじめとして、そのほか異国の神々もすすんで受けいれ、崇敬
したものだ。だから宗教戦争・宗教的迫害・宗教裁判といった芝居をわれわれに提供し、偶像や異国の神
像を破壊したり、インドの寺院や三千年ものあいだ天日をにらんでいたエジプトの巨像を破壊するといっ
た見物を見せてくれたのは、一神教的宗教にかぎられるのだ。というのも、一神教の嫉妬ぶかい神が、
「なんじ、偶像をつくるべからず」といったためなんだ。

 ところで話を本筋にもどすと、きみが人間の強烈な形而上学的欲求を力説するのは、たしかに正し
い。しかしぼくには宗教というものが、その欲求の充足というよりは、むしろその濫用であるように思
われるのだ。道徳性を促進するうえで宗教が役立つかどうかは概して疑わしいのに対して、すくなくと
もその害悪、またその結果として生じてくる残虐行為がかくれもない事実であることは、右に見たとお
りだ。もちろん王位の支柱として宗教が有効であるという点を考慮にいれれば、話は別になる。なぜな
ら、王位が神の恩恵によって授与されるかぎり、祭壇と王位は親密な近親関係にあるからだ。したがっ
て、自分の王位とその一族を愛する賢明な君主だったらだれでも真の信心の規範として、国民の先頭に
立つだろう。現にマッキャヴェッリでさえ『君主論』第十八章で、君主は信心をもつべきことを切にす
すめている。そのうえ、もろもろの啓示宗教と哲学との関係は、天佑を保有する君主と国民の主権との
関係に対応するという点をあげてもいいだろう。だが、この方程式の二つの前項、すなわち啓示宗教と君
主とはおのずから同盟関係にあるわけだろう。

47 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:44:19.85 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス ああ、そんな調子はやめにしてくれ! そんなふうに言ったら、きみはあらゆる法
的秩序や文明や人道の大敵である暴民政治と無政府主義を謳歌する羽目になることを考えてほしいね。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ。ぼくの議論はまさに詭弁か、あるいはフェンシング教師が
めった打ちと名づけるやつだったものね。撤回するよ。議論というやつは、とかく誠実な人でもどんな
に不正陰険にしかねないものか、わかるだろう。打ち切りにするよ。

 デモフェーレス いろいろやってみたけれど、宗教についてきみの気持ちを変えられなかったこと
は残念だ。しかし、ぼくのほうも断言できるが、きみがいろいろもちだした論点でも、宗教が高い価値
をもっていて必要なものだというぼくの確信は、いささかもゆるがなかったよ。

 フィラレーテス それはそうだと思うね。『ヒューディブラス』にも、

  無理に納得させられても
  心のなかでは意見は変わらぬ

とあるものね。しかし、論争や鉱泉浴というものは、あとからのききめが本当のききめだということ
で、みずから慰めるよ。

 デモフェーレス で、その諺というのは?

 フィラレーテス Detras de cruz está el Diablo.

48 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 13:05:35.96 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス ドイツ語で頼むよ!

 フィラレーテス よしきた! ――「十字架のうしろに悪魔がいる。」

 デモフェーレス ねえ、あてこすりを言いあって別れるのはよそう。むしろ、宗教には、ヤーヌス神
のように――あるいはもっと適切には、バラモン教の死神ヤーマーのように、二つの顔があり、これま
たヤーマーと同様、たいへん愛想のいい顔と、ひどく暗い顔とがあるということを認めようじゃない
か。ところでぼくたちは、それぞれ別の顔を見ていたわけなんだ。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ!

49 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 16:13:52.23 ID:fxC3YCHC.net
  第一七六節 啓示

 人間のはかない世代は矢つぎばやに興っては滅び、滅びては興り、その間にあってもろもろの個人
は、不安と困窮と苦痛にあえぎながら、死神の腕にだかれるまで踊り狂う。踊りながら彼らは倦まず
に、自分たちがどういうものなのか、この悲喜劇的茶番のすべてが何を意味するのかと問い、その返答
を求めて天に呼びかける。しかし天は黙して答えない。そこへ坊主どもが啓示をもって登場するのだ。

 人間の運命には多くの過酷な嘆かわしい点があるが、そのなかでも、われわれが現に生きていなが
ら、どこから来て、どこへ行くのか、なんのために生きているのか、わかっていないということは、
けっしてささやかな嘆きではない。この不幸感にとらえられ、これを痛感した人は、このことについて
の特別の知らせをもっていると称して、啓示という名のもとでそれを伝えようとしている連中に対して
は、いくぶんの腹立たしさをおぼえないわけにはいくまい。――このような啓示を説く諸氏に対して、
わたしは、今日では啓示についてあまり多くを語らないようにと勧告したい。そうすればいつか、啓示
がほんらい何であるかが、たやすく彼らに啓示されるかもしれない。――

 さて、人間でないような存在者がかつてわれわれに、人類と世界との存在ならびに目的について解明
をあたえてくれたのだと、本気で考えることのできる人は、まだほんの大きな子供にすぎない。賢者た
ちの思想以外に啓示などあるわけはない。もとより賢者の思想といっても、すべて人間的なものにつき
ものの運命によって、誤りにおちいる場合もあり、ときにはふしぎな寓話や神話のよそおいをこらすこ
ともあって、これがやがては宗教とよばれるのである。

50 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 16:14:18.86 ID:fxC3YCHC.net
 したがって、そのかぎりにおいては、ある人が自分の思想に頼って生き死にしようと、これを他人の思想に
まかせようと、どちらにしても変わりはない。というのは、彼が頼りにするのは、つねに人間の考えだした
思想にほかならないからだ。ところが人間はふつう、自分自身の頭脳を信じるよりも、超自然的な源から出て
きたと称する他人のほうをとかく信頼するという弱点をもっている。ところで同じ人間でもその知性には雲泥
の差があることに着目すれば、甲の思想が乙の人にはあるていど啓示と思われるかもしれないのである。――

 これに対して、あらゆる坊主の根本秘密と根本策略は、古今東西を問わず、バラモン教の場合であれ
回教の場合であれ、仏教においてであれキリスト教においてであれ、次のようなものだ。彼らは、人間
の形而上学的欲求が非常に強烈であって、抹殺できないものがあることを正しく看破し、じゅうぶんに
把握したのである。そこで彼らは、大きな謎の言葉が異常な方法で直接自分たちには授けられたのだか
ら、この欲求を満足させることができると称するのだ。いったんこのことを吹きこんでしまえば、人び
とを導き支配することは意のままである。だから君主のうちで比較的賢明な者は坊主と同盟を結び、そ
うでない君主たちは坊主に支配せられることになる。ところであらゆる例外中の最もまれな場合とし
て、ひとたび哲学者が王位につくことになれば、喜劇全体のきわめて不都合な混乱が起こってくる。

51 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 17:00:00.91 ID:fxC3YCHC.net
  第一七七節 キリスト教について

 キリスト教について公平に判断するためには、キリスト教以前にあったもの、キリスト教によって駆
逐されたものを考察しなければならない。第一はギリシア・ローマの異教だ。これは民衆形而上学と考
えた場合、ほんらい特定の教義もなく、はっきり言いあらわされた倫理もなく、それどころか真の道徳
的意図もなく、聖典さえもっていないきわめて取るにたらぬ現象であって、宗教の名にほとんど値しな
いものであり、むしろ空想の遊戯、民間童話を題材にして詩人がでっちあげたこしらえたものにすぎず、
せいぜい自然の威力の明らかな擬人化にほかならない。こういう子供じみた宗教を大のおとなが本気に
したとは、ほとんど考えられぬことだ。それにもかかわらず、古人の著書の多くの箇所は、それが本気
であったことを証明している。とりわけヴァレリウス・マクシムスの第一巻、さらにまたヘロドトスの
多くの個所がそうであるが、わたしはそのなかでヘロドトスがまるで老婆のような語り口で彼自身の意
見を述べている最終巻・第六五章を指摘するにとどめておく。時代が進み、進歩した哲学があらわれる
と、この子供じみた宗教を本気にすることは、もちろんなくなった。おかげでキリスト教は、この国家
宗教を、外面的には国家の支えがあったにもかかわらず、押しのけることができるようになったのだ。
しかし、この国家宗教がギリシア最盛期においてさえ本気にされなかったということ、それはあたかも
近世におけるキリスト教と同様であり、またアジアにおける仏教やバラモン教や、あるいはまた回教と
同様であったということ、したがって、古代人の多神教は一神教の単なる服数とはぜんぜん別のもので
あったことは、アリストパネスの『蛙』がじゅうぶんに証明している。この作品では、ディオニュソス
がおよそ考えられるかぎりの最も憐れむべき馬鹿者・臆病者として登場し、衆人の嘲笑にさらされるの
であるが、しかもこれはディオニュソス自身の祭典、ディオニシアで公然と演出されたものなのだ。――

52 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 17:00:27.38 ID:fxC3YCHC.net
 キリスト教が駆逐しなければならなかった第二のものは、ユダヤ教であった。キリスト教はユダヤ教
の粗野な教義を純化し、言わず語らずのうちに寓話化したが、だいたいにおいてキリスト教はまったく
寓話的性質のものなのだ。というのは、俗世間で寓話とよばれるものが、宗教では教義と言われるの
だからである。愛・宥和・敵に対する愛・諦念・我意の否定といった教えを、もっぱら――といっても
西洋では、ということだが――独自のものとしてもっている道徳においてだけでなく、もろもろの教義
においても、キリスト教がギリシア・ローマの異教やユダヤ教よりはるかにすぐれていることは、認め
ざるえない。ところでどうしても真理を直接に把握できない大衆には、実際生活に対する手引きとし
て、また慰めと希望の錨としてじゅうぶんまにあう美しい寓話以上に適当なものがあるだろうか。しか
しこういう寓話には、寓話につきものの必然的要素として、いくらか理屈に合わないものが混入してく
るのであって、キリスト教の教義を本来的意味で解するかぎり、ヴォルテールの言いぶんは当たってい
るのだ。これに反し、寓話として受けとれば、キリスト教の教義は一種神聖な神話であり、それ以外に
はどうしても民衆の手にはとどかないような真理を、民衆のもとまで運んでやる車の一種だ。それは
ファエッロの唐草模様、あるいはまたルンゲの模様にくらべることもできよう。というのは、こうした
唐草模様はあきらかに不自然また不可能なことを表現しながらも、そこに深い意味が語りでているから
だ。宗教の教義においては理性はまったく無力であり、盲目であり、しりぞけられるべきであるという
教会の主張も、つまるところその意味するところは、これらの教義が寓話的性質のもので、したがっ
て、すべてを本来的意味に受けとる理性だけの物差では評価すべきでないということなのだ。教義の不
合理な点こそ、寓話的・神話的なものの烙印であり、符号なのだ。もっともキリスト教の教義につじつ
まが合わない点が出てきたのは、旧約聖書と新約聖書といった異質の二つの教説を結びつける必要が
あったためだ。

53 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:13:38.96 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学である
熱狂信者一人作るに他人三人は関連死しているのである
違うという者は生活が順調だったりしてこの実態と向き合わないのである
奴隷学に住み分けはなく入信していない者を一人づつ生活を破壊して弱ったところに勧誘話を持っていくのである
この奴隷学は数千年にわたり人を騙して殺しあわせてきたノウハウがあり個人が裏をあばいたり
撲滅はできないのである

54 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:14:07.18 ID:fg184byN.net
しねゴキエタ在日ザイコパス

55 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:30:07.24 ID:MfJGCMsk.net
>>53
要は宗教が世の施政のために用いられた創作物を言いたいんだろ。

そうではない。

まず真理があるわけよ。大衆が自身に解らない真理を客観的に見て

創作したものが宗教だ。

解らないけど、こうじゃないかな?が宗教ともいえる。

違うwそうじゃないw真理側から見た宗教とは理想形に他ならないんだよ。

それは個人の範疇で達成されるものだ。他者とか社会環境、奴隷、施政とかとは

無縁で一切関係ないからw

尚、理想形とは、あなたにとってでなく、万人、万物に対して言えることだ。

あたな個人が考えてる欲望からなる理想形でなく、肉体そのものが

絶えず欲してるもんだ。故に頭で理解はなかなか難しいもんがある。

56 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:37:37.77 ID:k7D2Pncy.net
>>55のようなのは奴隷学にはめられた典型で
熱狂信者一人作るに他人三人は関連死する内の熱狂信者であり
やはりこの実態と向き合ってはいないのである
しかし愚かではなく数千年にわたり人間をいかに騙すかを積み上げた奴隷学の前には誰もが無力で
はめられるかバレないやり方で殺されるしかないのである

57 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:44:04.08 ID:MfJGCMsk.net
キリスト教というのは実は弟子達が真理に達してない。
だから、想像、創造が入っている。
この点、原始仏典の初期段階に限り、仏教というのは真理側からの視点が見て取れる。
だから、読んでいて面白くない、不快になるような要素もある。
誰がメリットのないものに対し面白くない、不快になることを説きますか?ってことだ。
それを補ってあまりある、メリットを内在してるに決まっている。
だから、それ自体が真理である可能性が高いと見抜いた者は、そりゃ悟れる。

58 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:46:49.77 ID:MfJGCMsk.net
>>56
単純に君を仏教では無明の者という。

59 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:12:59.36 ID:k7D2Pncy.net
>>58も奴隷学の実態と向き合ってはいないのである
疑問や功罪の追及をせず見て見ぬふりをするか
ごまかすために編み出した言葉の1つが無明である
追及をあしらうための意味しかないが無明という
「ごまかしてるのになぜか追及してる側におまえはわかってないと煽れる」効果があるというのが
数千年にわたり積み上げた奴隷学の言葉技である

60 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:14:17.53 ID:fxC3YCHC.net
 キリスト教のあの偉大な寓話は、偶然的な外的な事情を機縁として、これを解釈するこ
とにより徐々に成立したものだが、そこには、はっきり自覚されないながらも奥深いところに根ざす真
理が静かにかよっているのだ。この寓話が完成をみたのは、この寓話の意味を最も深く究め、ひとつの
体系的全体として把握する力をもち、欠けている点を補うことができたアウグスティヌスによってであ
る。したがってアウグスティヌスの教説、さらにルターによって裏づけられた教説こそ、完全なキリス
ト教なのであって、「啓示」を本来的意味にとって、救世主ただひとりに限定する今日の新教徒が主張
しているように、原始キリスト教が完全なキリスト教なのではない。――芽は食べられない、食べられ
るのは実であるのと同じことだ。――

 しかしあらゆる宗教の難点は、その寓話的性質を公然と標榜することができず、その点を隠す以外に
手はなく、したがってその教説を大まじめに本来的意味で真なるものとして持ちださざるをえないこと
だ。教義に不合理な点があることは本質的に避けえないことなのだから、このことはたえずごまかしを
つづけることになり、ひとつの大きな弊害となる。さらに困ったことは、時がたつにつれて、その教義
が本来的意味で真ではないことが明白になることで、こうなるとその教義は崩壊するのである。そのか
ぎりにおいては、寓話的性質を宗教側ではじめから認めたほうが、ましであろう。しかし、あるものが
真でありうると同時に真でない場合もあるといったことを、どのように民衆に説いたらよいであろう
か。あらゆる宗教が多かれ少なかれこういう性質をまぬかれないことを見るにつけても、われわれは、
つじつまの合わないことが人類にはある程度かなっているのであり、それどころか生活の一要素であ
り、欺瞞が人類にとって不可欠であろうことを承認せざるをえない――これは他の現象によっても裏書き
されていることだ。

61 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:14:43.36 ID:fxC3YCHC.net
 上述したように旧約聖書と新約聖書を結びつけたために生じたつじつまの合わぬ点の例証となるの
は、とりわけ、神の恩寵によって永遠の救いに予定されるというキリスト教の教義である。これはルタ
ーの導きの星であるアウグスティヌスによってつくられた説で、甲は乙に優先して恩寵にあずかるとな
すものであり、したがってこの恩寵は、来世というきわめて重要な問題について、生まれたときすでに
手に入れていて、そのままこの世にもちこんだ一種の特権ということになる。この説が不合理で気に
くわない点があるというのも、人間が或る他の意志によってつくられたものであり、この意志によって
無から呼びだされたものだとする旧約聖書の前提から来ているのだ。これに反して――純粋な道徳的特
性がほんとうに生得的なものだという観点からみて――バラモン教や仏教の輪廻の前提では、この問題
はもっと筋の通った、まったく別の意義を帯びてくるのだ。というのはこの前提によれば、ある人が生
まれながらに持っているもの、すなわち前世という別の世界から携えてきて、他の人びとよりすぐれて
いる点は、他からの贈り物ではなくて、前世で行なった自分自身の業績の結実にほかならぬからであ
る。――ところでアウグスティヌスのあの教義には、さらに別の教義がつけ加えられている。すなわち
それは、堕落して永劫の罪におちた人類大衆のなかからほんの少数の人だけが、神の恩寵によって選抜
されて、正しいものと認められ救われるけれども、それ以外の者は当然の堕落、すなわち永遠の地獄の
責め苦をまぬかれないという教義だ。

62 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:31:09.26 ID:k7D2Pncy.net
↑これも言ってることは奴隷にならなければ殺すということなのである
ストレートにかくと奴隷が激減するため
大層な意味がありそうな言葉で飾っているのである
宗教は奴隷学で
人を騙して支配する技を数千年にわたり積み上げてきたのである

63 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:41:57.06 ID:fxC3YCHC.net
 本来的意味にとれば、この教義はここに至って腹立たしいものとなる。というのは、ときには二十年
にも満たないことのあるこの人生で犯した過失、あるいは不信仰を、この教義では永劫にわたる地獄の
刑罰によって、果てしもない苦悩であがなうことになるからだ。さらに、このほとんど一般的といって
いい堕罪は、もとはといえば原罪の結果なのであり、したがって最初の人類の堕落の必然的な帰結とみ
られていることだ。しかしこの最初の堕落など、神はあらかじめ見透していられたにきまっているでは
ないか。そもそもはじめから人間をあまり上等に創っておかないでいて、そこに落ちることを承知のう
えで、神は罠を仕掛けられたことになる。万物はあげて神の作品であり、神に隠されているものはなに
ひとつないからだ。したがって神は、罪におちるような弱い人間を無から存在へ呼びだしておきなが
ら、そのあとではこれを果てしのない苦悩にまかせて顧みないということになろう。さらに最後につけ
加えていいことは、寛容やあらゆる罪のゆるしを説き、敵を愛せよとまで定めている神が、自分ではそ
れをひとつも実行しないで、むしろその正反対に落ち着くということだ。というのは、なにもかもが過
去になり永遠に終わったというとき、あらゆる事物の最後にあらわれる罰は、改善や威嚇を目的とする
ことはありえぬことで、ただの復讐にすぎないからだ。このように見てくると、――どういう理由に
よってか不明ではるが、恩寵の選抜によって救われる少数の例外者を除けば――全人類はじじつ、永
遠の苦悩と永劫の罰を受けるように決定され、故意にそのために創られているようにさえ思われてく
る。例の少数者を問題外とすれば、まるで神さまは、悪魔にさらって行ってもらうために世界を創造し
給うたような結果になるのであって、それくらいならむしろ世界創造を中止されたほうが、はるかにま
しだったということになろう。

64 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:42:20.77 ID:fxC3YCHC.net
 教義については、本来的意味にこれを受けとめれば、以上述べたようになるわけだが、比喩的意味に
受けとめる場合においては、じゅうぶんな解釈に耐えるものだ。まず第一に、この教義のつじつまの合
わぬ点、腹立たしい点というのは、上述したとおり、ユダヤ教的有神論の帰結にすぎない。ユダヤ教は
無からの創造をとなえ、これと関連して、じつに逆説的に、また不快な話だが、輪廻を否定するのであ
る。この輪廻説というものは、自然な考え方、ほとんど自明的といってもいい思想で、ユダヤ人を除い
ては、あらゆる時代に、ほとんど全人類に受けいれられている教説なのだ。この輪廻説を否定すること
から生じる大弊害を除去し、この教義の腹立たしい点を緩和するために、六世紀、はなはだ賢明にも教
皇グレゴリウス一世は、本質的にすでにオリゲネス(ベールのオリゲネス論、脚注B参照)に見いだ
される煉獄の教説を仕上げて、教会の教義に正式に組みいれたのである。これによって事態はたいへ
ん緩和されたし、いくらか輪廻のかわりにもなった、というのは、煉獄も輪廻も一種の浄化過程を示す
ものだからである。ギリシアの万物回帰の説も同じ意図で唱えられたもので、この説によれば、世界喜
劇の最後の幕では、罪びとでさえ、だれかれの別なくもとのありさまに戻されるのである。――新教徒
だけは、そのがんこな聖書信仰にとらわれて、永劫の地獄の罪という考えを捨てなかった。「ろくなこ
とにならないぞ」――と意地のわるい人なら言うところだろう。しかしこの場合も安んじていいこと
は、彼ら新教徒もほんとうにそう信じているわけではなく、かりにそうしておくだけのことで、心のな
かでは「まあ、そんなひどいことにもなるまい」と思っていることだ。

 アウグスティヌスは、そのがんこな組織的頭脳によって、キリスト教を厳密に教義化し、いかにもき
びしいものとして仕上げた。すなわち聖書ではただ暗示されているにとどまり、なんとなく漠然とした
根拠の上にただよっているだけの教説をしっかり規定して、これに厳格な輪郭をあたえたのである。そ
のためこの教説は今日ではわれわれの気にさわるものとなり、彼の時代にペラギウス主義がこれに反対
したように、われわれの時代では合理主義がこれに反対する結果となったのだ。

65 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:47:17.15 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学で
その数千年にわたり人間を支配し騙して殺しあわせて積み上げたやり方の前には
個人は無力で完全にはめられて奴隷となるかバレないやり方で殺されるしかないのである
あばいてるおれも時間の問題なのである

66 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:10:54.46 ID:fxC3YCHC.net
たとえば、『神の国』第一二巻・第二一章によれば、事態は、抽象的に解すれば、ほんらい次のようになる
のだ。神は無からある存在者を創り、これにいろいろな禁止と命令とをあたえられる。しかしそれが守られ
ないので、神はこの存在者の果てしのない永遠をつうじて、およそ考えられるかぎりの苦悩によって呵責する。
そのために神は(『神の国』第一三巻・第二章、第一一章の終わり、第二四章の終わり)肉と霊とを不可分に
結びつけられる。それは、この苦悩のためにこの存在者が解体破滅して苦悩を免れることが絶対ないよう
に、永遠に生きて永遠の呵責を受けられるようにするためなのだ。――この哀れなやつは無から創られ
た以上、せめてその根源の無に帰る権利ぐらいはあるわけで、――そうひどいものでは絶対ありえぬこ
の最後の隠れ場ぐらいは、なんといっても正当な相続財産として保証されているべきであろう。すくな
くとも、わたしはこういう哀れむべき存在者に同情を禁じえない。――ところでさらにアウグスティヌ
スの他の教説、すなわちこれらすべては本来われわれの為すこと。為さぬことに依存するのではなく、
恩寵の選抜によってあらかじめ決定されているのだという説をつけ加えると――もう二の句がつげなく
なる。もちろんわれわれの教養高き合理主義者たちは言うだろう。「そんあことはみな、でたらめさ。
ただのかかしだ。われわれは一段また一段とたえず進歩しながら、いよいよ完全の域にのぼって行くの
さ」と。――とすると、いかにも残念なのは、もう少し早くわれわれがのぼり始めなかったことだ。そ
れさえ始めていれば、もうすでに完全の域に行きついているはずじゃないか。こういう言いぶんを聞く
と、われわれの頭は混乱するが、そこへ手ごわい論客で焼き殺されさえした異端者ヴァニーニの声に耳
を傾ければ、なおさらなのだ。「もし神がこの世で極悪・低劣な行為がのさばることを欲し給わないな
ら、神は目くばせひとつであらゆる恥ずべき行為を世界の境界外に放逐されるであろうことは疑いな
い。なぜなら、われわれのなかで神の意志に抵抗できるものがあろうか? 

67 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:11:23.67 ID:fxC3YCHC.net
犯罪者が犯行をやりおおせる場合、なんといっても神がその犯罪者たちにそれだけの力をあたえ給うたので
ある以上、どうしてわれわれは犯罪が神の意志に反して犯されるなどと考えることができようか? ところ
で、もし人間が神の意志に反してあやまちを犯すとするなら、神のほうがその人間よりも弱いということに
なる。というのは、その人は現に神にさからい、またそれだけの力をもっていたのだから。以上のことから
結論されることは、神がこの世を現にあるとおりにもつことを望んでいられるということだ。なぜなら、も
う少しましな世界を望まれるならば、神はもう少しましな世界を持ち給うはずだから。」というのは、ヴァ
ニーニはまえの頁でこう述べていたのだ。「もし神が罪を欲し給うなら、罪を犯すのは神そのひとだ。もし
神が罪を欲し給わないとしても、それにもかかわらず罪は犯されるのである。したがってわれわれは神につ
いて、神は先見の明がないか、無力であるか、あるいは残酷であると言わざるをえない。なぜなら、神はそ
の欲するところを実現させるすべを知らないか、あるいはその力をもたないか、あるいはその実現を怠った
のであるから。」ここで同時に明らかになることは、どうして今日まで自由意志説が頑強に固執されるかと
いう問題である。ホッブス以来わたしに至るまで、まじめで誠実な思想家すべてこの説を不合理なものとし
てしりぞけているにもかかわらず。これは意志の自由についてのわたしの懸賞当選論文から見てとれることだ。
――もちろんあのヴァニーニを反駁するよりも、火刑に処すほうが、ことは簡単であった。だから彼はまず舌
を切られたうえで、焼き殺されたのだ。反駁のほうは、今日だれでもやっていいことだ。ひとつ試みてみられ
るがよい。ただし空虚な言葉をならべることによってではなく、真剣に、思想によって。――

68 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:37:13.97 ID:fxC3YCHC.net
 人間の圧倒的多数は罪びとであり、永遠の浄福に値する者はごく少数だという、それ自体正しいアウ
グスティヌスの見方は、バラモン教にも仏教にも見いだされる。しかしここでは輪廻があるために、わ
れわれの感情を害することはない。つまりバラモン教での「最終の解放」、仏教での「涅槃(ニルヴァ
ーナ)」(ともにキリスト教の「永遠の浄福」と等価)は、やはりごく少数の人にしか認められていない
のだ。しかしこの少数の人も、そういう特権があたえられているというわけではなく、前世でそれだけ
の功徳を積んでこの世に生まれてきたのであり、そしてその同じ道を歩みつづけるわけなのだ。またそ
れ以外の人たちも、永遠に燃えている地獄の池に突き落とされるわけではなくて、それぞれの行状に応
じた世界へ移されるだけなのである。したがってこれらの宗教の教師に、「救済に行きつけなかったあ
の残りの人たちは、いったいいまどこにおり、どうしているのか」とたずねる人があれば、その人には
次のような答えがあたえられるであろう。「きみの周囲を見まわすがいい。ここにいるのが彼らであり、
彼らはこのざまなのだ。この世こそ彼らのどうどうめぐりの場所、これが輪廻(Sansara)、すなわち欲
と苦、生・老・病・死の世界なのだ」と。――ところでいま問題になっているアウグスティヌスの教
義、選ばれる者はごく少数で、大多数は永遠の地獄に落とされるという教義を、たんに比喩的意味に
とって、われわれの哲学の意味で解釈するならば、意志の否定に達する者、したがって(仏教徒が涅
槃に達するように)現世からの救済に達する者はもちろんごく少数の者に限られるという真理と合致す
るのである。そしてこの教義が永劫の堕罪として実体化しているものが、ほかならぬこのわれわれの世
界なのであり、例の大多数を占める残りの者はこの世界に帰属するのである。この世界はまことにひど
いものであって、これこそ煉獄であり地獄であり、そこには悪魔も欠けてはいないのだ。

69 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 19:37:16.12 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学で
カーテンをめくるとまたカーテンがあるように闇は底無しである

70 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:37:44.07 ID:fxC3YCHC.net
時あって人間が人間にわざわいを及ぼし、考えぬかれた拷問でいじめぬいてたがいに徐々に死に至らし
めるかを考えてみるがよい。そのうえで、悪魔とてもこれ以上のことをなしうるかどうか自問してみるがよ
い。心をいれかえることなく、生きんとする意志の肯定に執心するすべての人にとって、この世の滞在は
果てしもないものとなるのだ。

 じっさい、もしアジア高原地方の人が「ヨーロッパとは何か」とわたしに尋ねたとしたら、わたしは
彼にこう答えざるえないだろう――「ヨーロッパとは、人間の誕生が人間の絶対始原で、人間は無か
ら発したという前代未聞の信じられないような妄想にすっかりとりつかれている大陸だ」と。――

 双方の神話は別として、最も深い根本において、ブッダのサンサラ(輪廻)およびニルヴァーナ(涅
槃)は、アウグスティヌスの二分された国、すなわち「地の国」(civitas terrena)と「天の国}(civitas
coelestis)に等しい。これは彼が『神の国』の諸巻、とりわけ第一四巻・第一章、第一五巻・第一章お
よび第二一章、第一八巻の終わり、第二一巻・第一章で述べていることである。――

 悪魔はキリスト教では、きわめて慈悲深い全知・全能の神の対重として、必要欠くべからざる人物だ。

71 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:27:07.26 ID:fxC3YCHC.net
というのは、悪魔がいて、この世の無数・無限で優勢きわまる悪を引き受けてくれるのでなけれ
ば、全知・全能の神の足もとでどこからそういう悪が出てくるのか見当がつかないことになるからだ。
だから、合理主義者たちが悪魔を片づけてしまってからは、ほかの面でいろいろ困ることが出てきた
し、それがいよいよ痛感されることになってきた。これくらいのことはまえから見当のついていたこと
で、現に正統派の信者たちは予知していたのだ。柱を一本ぬけば、建物の他の部分にがたがくるのは当
然だからだ。――ここで確証されることは(これは他の方面からも確かめられることだが)、じつはエ
ホバはオルムズドの一変形なのであり、サタンはオルムズドと不可分なアフリマンだということだ。そ
してオルムズドそのものがじつはインドラの変形なのだ。――

 キリスト教には固有の欠点がある。それは他の宗教のように純粋な教説ではなくて、主として、また
本質的にひとつの歴史であるということだ。つまり一連の出来事、もろもろの事実や個人の行為と受苦
の集合なのであり、ほかならぬこの歴史が教義をなしていて、それを信じることがわれわれに至福をあ
たえるのである。他の宗教、とりわけ仏教も、なるほどその開祖の生涯について歴史的付加物をもっ
てはいるが、これは教義そのものの部分ではなくて、教義と並行しているのである。たとえば『ラリタ
ーヴィストラ』が釈迦牟尼すなわち現世の仏陀の生涯を内容としているかぎりでは、これを福音書と比
較できるけれども、釈迦牟尼の生涯はあくまで教義、すなわち仏教そのものとはまったく別な問題なのだ。

72 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:27:38.76 ID:fxC3YCHC.net
 つまり釈迦以前の仏陀たちの閲歴はまったく違っていたし、また将来の仏陀たちの経歴もこれとは
完全に違ったものになるわけだからである。ここでは教義はけっして開祖の閲歴と癒着しておらず、個
別の人物や事実にもとづいているのではなくて、普遍的な、いつの時代にも同様に妥当する教義なので
ある。だから『ラリターヴィスタラ』は、言葉のキリスト教的な意味での福音書、すなわち救いの事
実についての「楽しい知らせ」ではなくて、めいめい各自がどうして救われうるかという指針をあたえ
た人の経歴にとどまるのである。――ところで、シナ人が宣教師をおとぎ話の話し手だといって嘲笑す
るのも、キリスト教のこういう歴史的性質から来ているのだ。

 この機会に、キリスト教に見られるもうひとつ別の根本的誤謬に言及しなければならない。これは簡
単に解明できない誤謬絵あるが、その恐るべき結果は日々明らかになっているところだ。すなわちキリ
スト教は不自然にも、人間が本質的にそこに所属している動物界から人間を切り離し、動物をまさに事
物と見て、人間だけを認めようとしている点だ。――ところがバラモン教や仏教は、事の真相に忠実に
従って、人間が全般的に自然全体とつながっていること、とりわけ動物界とはいちじるしい親戚関係に
あることも断固として承認し、輪廻その他の方法によって、つねに人間を動物界と緊密なつながりのう
ちに説明しているのである。バラモン教や仏教では動物が断然重要な役割を演じており、これをユダヤ
的キリスト教における動物のほとんどゼロに等しい役割と比較すれば、たとえヨーロッパではそういう
筋の通らぬ話に慣れているとはいっても、完全さにおいてキリスト教はまったく論外なのだ。この根本
的誤謬を言葉でごまかすために――じつはそれによって輪に輪をかけるだけなのだが――すでにわたし
の『倫理学』二四四頁(第二版二三九頁)で槍玉にあげておいたような、じつに浅ましくも図々しい奸
策が弄されている。

73 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 20:35:50.76 ID:k7D2Pncy.net
>>70
>悪魔とてもこれ以上のことをなしうるかどうか自問してみるがよい

それをやるのが悪魔なのである
宗教は奴隷学で悪魔も奴隷学が数千年かけて編み出したイメージキャラクターである
悪魔教なんて真剣にやる者もいるがそれも奴隷学が積み上げた派生産物であり
自分が悟れた感覚の横でそんな人間が出来上がってしまうことも向き合わなくては
信者一人作るに他人三人は関連死するという万人救済とはほど遠い実態なのである

74 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:49:10.71 ID:fxC3YCHC.net
すなわち、動物がわれわれ人間と共有しており、人間の本性と動物の本性が一体
であることを立証するすべての自然的機能、たとえば飲食・妊娠・出生・死亡・死体などを、動物の場
合、人間におけるのとはまったく別の言葉で言いあらわすのである。これはまことに卑劣な策略だ。と
ころでこのような根本的誤謬は、無からの創造ということから出てくるのだ。犬を売る商人でさえ、そ
の手がけた動物を手放すときには、「かわいがってやってください」というとりなしの言葉をつけ加え
るのに、創世記・第一章および第九章によれば、造物主は、そういうとりなしはいっさい抜きに、まっ
たく事物同然に、あらゆる動物を人間にゆだねるのである。それも人間が動物どもを支配するように、
つまり人間が自分の好き勝手なことを動物に加えていいというのである。さらに第二章では、造物主は
人間を動物学の筆頭教授に任命し、これからさき動物たちのもつべき名称をそれぞれの動物にあたえる
ように委嘱する。これこそまさに動物が人間に完全に依存しているということ、すなわち動物がなんら
権利をもたないということの象徴にほかならぬ。――聖なるガンジスの流れよ! われわれの種族の母
よ! こういう造語がわたしに及ぼす影響は、べとつくアスファルトやユダヤ的悪臭のごときものがあ
るのだ! これというのも、動物を人間の好き勝手に使える製品のように見るユダヤ的見解のせいだ。
しかしその影響は残念ながら現代にも及んでいることが感じられる。というのは、これらの物語がキリ
スト教に移行したからだ。だからキリスト教の道徳がこの世で最も完全なものだなどと吹聴すること
は断然やめるべきだ。じっさい、キリスト教の道徳がその掟を人間だけに限って、動物界全体をなん
の権利ももたないものとして放置していることは、ひとつの大きな欠陥であり、本質的に不完全な点で
ある。だから粗暴・冷酷な、ときには野獣にも負けぬような大多数の人間どもから動物を守るために
は、警察が宗教の役割を代行せざるをえぬのであり、それだけではじゅうぶんでないため、現今ではヨ
―ロッパやアメリカのいたるところで、動物愛護協会などが結成されているしまつだ。

75 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:50:39.68 ID:fxC3YCHC.net
しかしこういう協会などは、割礼を受けない全アジアでは無用の長物の最たるものであろう。というのは
アジアでは、宗教が動物をじゅうぶんに保護し、積極的に親切に取り扱っているからで、現にその成果は
たとえばスラテの大きな家畜病院に見られる。この病院へは、キリスト教徒も回教徒もユダヤ人も病気に
かかった動物を入院させることができるが、治療がうまくいっても、まことに適切な処置だが、その動物
を返してもらえないのだ。同様にバラモン教徒や仏教徒は、自分の身に幸運が舞いこんだり、あるいは事
がうまく運んだりした場合はいつでも、「神なる汝を」などとわめきたてないで、市場に行って鳥を買
い、市門のまえでその鳥籠をあけてやるのだ。これはあらゆる宗教の信者が集まっているアストラハン
などでいくらも見る機会があることだ。またこれに類することはいくらでもある。

 これにひきくらべ、われわれのキリスト教の賤民どもが動物を遇する、あの悪逆無道ぶりを見るがい
い。彼らはまったくなんの目的もないのに、笑いながら、動物を殺したり、かたわにしたり、いじめた
りする。そして自分たちを養ってくれた稼ぎ手の馬でさえ、老齢に至っても酷使し、その鞭の下にくた
ばるまで、哀れにも骨の髄までもしゃぶるのだ。じっさい、人間は地上の悪魔で、動物たちは苦しめられ
る魂だ、と言いたいくらいだ。これこそエデンの園におけるあの任命の場面の結果なのだ。賤民どもを
おさえるには、暴力か宗教しかないのに、キリスト教は不名誉にもこの場合、われわれを見殺しにする
のだ。確かな筋から聞いた話だが、ある新教の牧師が動物保護協会から動物虐待に反対する説教をして
くれと頼まれたとき、宗教上なんの手がかりもあたえられていないので、どうしてもできないと答えた
という。この牧師は正直者だったのだ。彼の言うとおりなのだ。たいへん称讃に値するミュンヘン動物
愛護協会が一八五二年一一月二七日付で出した告示は、すばらしいねらいで聖書から「動物愛護を説
いている規定」を集めようと骨折っている。

76 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:06:17.20 ID:fxC3YCHC.net
そのあげている個所はソロモンの箴言一二の一〇、ジーラハ七の二四、詩編一四七の九、一〇四の一四、
ヨブ記三九の四一、マタイ一〇の二九であるが、これはだれもその個所をあけて見ないだろうということ
を当てにした一種の「敬虔な嘘」にすぎないのだ。ただ非常に有名な最初の個所だけは、弱いながらも、
この問題に触れたことを述べている。それ以外の個所は動物について語ってはいるけれど、動物愛護の
ことは言っていないのだ。ではその最初の個所は何と言っているか? 「正しい人はその家畜を憐れむ」
――「憐れむ!」とは、なんという言葉か! わるいことをした罪人や犯人ならば憐れむこともあろうが、
なんの罪もない忠実な動物、ときにはその主人に飯を食わせてやりながら、わずかな餌しかあたえられぬ
動物に対して「憐れむ」というのは当たらない。「憐れむ!」憐れみではなくて、公平こそ、われわれが
動物にあたえてやらねばならぬものだ、――しかしこの公平こそ、ヨーロッパ、すなわちユダヤ的悪臭に
みちみちているため、「動物は本質において人間と同じものだ」という明白・単純な真理が、一種不快な
逆説となっているこの大陸にあっては、実現されぬままにとどまっているのである。――

 動物の保護は、したがってそれを目的とする協会や警察の仕事になるわけだが、両者とも賤民ども
のあの一般的な無道な仕打ちに対しては、ほとんどお手あげのかっこうだ。なにぶんにも訴えることの
できない動物相手のことであり、百の残虐行為で見つかるのは一つあるかないかであり、とりわけその
刑罰が軽きにすぎるからである。最近イギリスでは苔刑が提案されたが、わたしには至当のことと思わ
れる。しかし、人間と動物が本質的には同一であるという熟知の事実さえ承認せず、誠実で理性的な仲
間の者が、人間を動物の当該部門に編入したり、あるいは人間がチンパンジーやオーラン・ウータンに
酷似していることを証明したりすると、それこそ躍起になって反駁したりするほど、はなはだ頑迷・愚
昧な学者どもや動物学者までいるありさまでは、何を賤民どもから期待できよう。

77 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:09:07.65 ID:fxC3YCHC.net
しかしほんとうに腹が立つことは、きわめてキリスト教的な考えをもった敬虔なユング=シュティリングが、
その著『幽界の光景』第二巻・第一景一五頁で、次のような比喩をあげていることだ。「突如として骸骨は
収縮して、 言いあらわしようのないほど不気味な小さな侏儒となった。それはちょうど、大きな女郎蜘蛛を
沸騰点 にあるビーカーに入れて、膿のような血が灼熱のなかでぐつぐつと煮えたぎったときのようであった。」
つまりこの神のしもべは、こういう恥さらしの行為を自分でやったか、あるいは平静な観察者として傍
観したのだ。――この場合、どちらでも同じことだ。――じっさい、彼はそういうことを悪いともなん
とも思っていないから、話のついでに淡々として語っているのだ! これは創世記第一章、一般にユダ
ヤ的自然観の影響である。これに反して、インド教徒や仏教徒にあっては、偉大な言葉「それはおまえ
なのだ」(Tat-twam asi)が重んじられる。これは動物と人間んお内的本性が同一であることを銘記する
ために、われわれの行動の基準として、どういう動物に向かってもたえず口にする必要のある言葉なの
だ。――まことにいたれりつくせりの道徳ではないか!――

 わたしがゲッティンゲン大学で勉強していたとき、ブルーメンバッハは生理学の講義で、生体解剖の
おそろしい面について切々とわれわれに語った。それがいかにも残忍でおそろしいことであること、し
たがってめったに用うべきではないこと、ごく重要で、直接役立つ研究にだけこの措置に踏みきるべきで
あること、それを行なう場合には、科学の祭壇にささげられた残忍な犠牲が最大の利益をもたらすよ
う、大講堂で最大限に公開し、あらゆる医学者を招待したうえで行わなければならない、と説明して
くれたのである。

78 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:54:17.62 ID:fxC3YCHC.net
――ところが今日では、どんな藪医者でもいろいろな問題を決定するために、その拷問室で残忍きわまる
動物虐待をやる権能があると思っている。じつはその問題の解決はとっくに書物に載っているのであって、
ただ彼らがあまり怠惰・無知であるために、その書物をのぞかないだけのことなのだ。昔の医者は古典的
教養によって、ある種の人間性と気品をそなえていたが、いまの医者はもはや古典の素養をもっていない
のだ。いまはできるだけ早く大学に行って、そこでせめて膏薬塗りだけでも覚え、それで世間的成功を
得ようというわけだ。

 生体解剖ではフランスの生物学者が先例を示したように思われる。そしてドイツ人はフランス人と張
り合って、しばしば大量に、罪のない動物に残虐きわまる拷問を加えるのであるが。その目的とすると
ころは純理論的な、往々愚にもつかない問題を決定するためにすぎない。わたしはここにとくに憤慨に
たえない二つの実例をあげたいと思うのであるが、それはけっして散発的なものでなく、似たような例
は百をもって数えることができる。マールブルクのルートヴィヒ・フィック教授はその著『骨の形の原
因について』のなかで、幼い動物の眼球を摘出したことを報告している。それは何のためかといえば、
そのあとの間隙に骨が成長していくという彼の仮設を確証するためなのだ!(一八五七年十月二十四日
付「中央新聞」を見よ。)

 ニュルンベルクのエルンスト・フォン・ビブラ男爵が行なった非道の仕打ちは、特記するに値する。
彼がその著『人間ならびに脊椎動物の頭脳にかんする比較研究』(マンハイム、一八五四年、一三一頁
以下で、いかにもしたり顔に、不可解なほど素朴に、読者に語っているところによると、二匹の兎を
計画的に餓死させたというのだ! しかもそれは餓死によって脳髄の化学的成分に比例的変化が起こる
かどうかという、まったくのんびりした無益な研究のためなのだ! 学問のために――とおっしゃるの
でしょ? いったい解剖刀や坩堝のこの先生がたは、自分がまず人間であること、科学者であることは
二の次だということを、夢にもお考えにならないのか?

79 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:55:10.47 ID:fxC3YCHC.net
――母親の乳を飲んで育っている無邪気な動物を南京錠やかんぬきをかけて閉じこめ、拷問にも似てじわり
と餓死させながら、どうして高枕で眠れるのか? 眠っていてもびくりととび起きはしないのか? こうい
うことがバイエルンでは起こるとは? バイエルンでは王子アダルベルトの保護のもとに、尊敬すべき功績
顕著な宮中顧問官ペルナー氏が、粗暴・残忍から動物を守るために全ドイツに範をたれているではないか。
ニュルンブルクには、大いに成果をあげているミュンヘン動物愛護協会のごときものがないのか? ビブラ
の残虐行為は、たとえ阻止されえなかったとしても、罰せられずにすんだのであろうか?――このフォン・
ビブラ氏のように、まだまだ多くのことを本から学びとらねばならぬような人は、自分の知識を豊富にしよ
うとして、つまりはおそらくはとうの昔に知れわたっているような自然の秘密をしぼりだすために、残忍な
方法で究極の答えをしぼりだそうと考えたり、生き物を拷問にかけようと考えたりしてはいけないのだ。と
いうのは、この種の知識のためならば、哀れなよるべない動物を拷問で殺す必要はさらさらなく、まだ他に
罪のない宝庫がいくらもあるからである。いったいなんのために哀れにも無邪気な兎を捕えて、徐々に餓死
する苦しみをなめさせるような罪なことをするのか? 研究されるべき関係について書物に記載されている
ようなことを、完全にすべて熟知していないような者は、生体解剖をする資格はないのである。

 すくなくとも動物にかんするかぎり、たしかにいまこそユダヤ的自然観に終止符をうつべき時であ
り、われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質を正
しく認識し、保護し、尊重すべき時である。わたしはそれを本気で言っているのであり、たとえ全ヨー
ロッパがユダヤ人の教会堂で蔽われようとも、一歩もゆずる気のないことを銘記しておいてもらいたい!

80 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:13:07.54 ID:fxC3YCHC.net
動物は本質的に、また主要な点で、われわれ人間とまったく同一なものであり、その差はたんに
偶有的属性、すなわち知性にあるだけで、意志という実体にあるのではない。こういうことがわからぬ
のは、あらゆる感官がめくらであるか、ユダヤ的悪臭のクロロホルムで完全に麻酔にかかっているに相
違ないのだ。世界はわれわれが使うためにこしらえたものではなく、動物はわれわれが使うための製品で
はない。こういう見解はユダヤ人の教会堂や哲学の講堂にまかせておけばよい。この二つは、べつに本
質的に大差はないのである。これに反し上述の認識は、動物を正しく取り扱うための規則をわれわれに
手渡してくれる。狂信的にいきまく連中や坊主どもに対して、この問題ではあまり反対しないようにわ
たしは勧告する。というのは、この場合、真理だけではなく、道徳までもわれわれの味方についている
からである。

 鉄道がもたらした最大の恩恵は、そのおかげで何百万の輓き馬が苦役を免れたことだ。――
 イギリスには菜食主義者というのがいるけれども、北方に押しよせて行って、そのために白色になっ
た人間が動物の肉を必要とするということは、残念ながら真実である。しかしその場合でも、クロロホ
ルムを用いたり、致命的な急所をすばやく一撃を加えたりすることで、動物たちがその死を感じないよ
うにしてやるべきだ。しかもそれは旧約聖書が言いあらわしているような「憐れみ」からではなくて、
われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質に対する
どうしようもない責任からである。屠殺されるあらゆる動物にはあらかじめ麻酔をかける必要があろ
う。これこそ人間の名誉をそこなわない高貴なやり方と言えるだろう。西洋の高度な科学と東洋の高度
の道徳が、このやり方ならば手に手を携えて行けるであろう。バラモン教や仏教はその掟を「隣人」に
限定することなく、「生きとし生けるもの」をその保護のもとに包容する域に達しているからである。

81 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:13:40.65 ID:fxC3YCHC.net
 ユダヤ的悪臭のためにその頭が朦朧となっていない人、倒錯した考え方をもっていない人ならば、だ
れにでもおのずからわかる真理、端的に確実な真理が、あらゆるユダヤ的神話や坊主どもの威嚇をしり
めにして、いいかげんヨーロッパでも認められるべきであり、これ以上握りつぶされるようなことがあっ
てはならない。それは動物が、主要な点で、本質的に、われわれとまったく同一なものであり、その差
はたんに知性の度合い、すなわち頭脳の活動にあるだけだということだ。もちろん知性の程度は、動物
の種の異なるに応じて非常なひらきがあるけれども、この真理を認めることによって、もっと人間らし
い取り扱いを動物たちにあたえることができよう。というのは、あの単純であらゆる疑問をこえた真理
が民衆にしみわたったときになってはじめて、動物たちはもはや権利をもたないものとして放置された
り、粗暴な悪童どもの意地悪い気まぐれや残忍性の犠牲になったりすることもなくなるからである。
――そして今日行なわれているように、あらゆる藪医者どもが、自分の無知からくる冒険的気まぐれ
を、無数の動物の身の毛のよだつ苦痛によって実験するような勝手なまねもできなくなるだろう。もち
ろん今日では動物もたいがいの場合クロロホルムで麻酔がかけられることを頭におく必要はある。おか
げで手術中も苦痛をまぬかれるし、手術後は急速に死をあたえて彼らを救うこともできるのである。し
かし今日しばしば行なわれている、神経系統の活動とその感受の度合いをしらべる目的の手術では、麻
酔という手段はとうぜん使うことはできない。つまりまさに観察しようとする活動が停止するからであ
る。そして残念なことには、生体解剖に最も頻繁に用いられるのは、あらゆる動物のなかで道徳的に最
も高尚な動物、すなわち犬である。しかも犬はその神経系統が非常に発達しているため、苦痛の感受度
は他の動物よりも高いのである。良心のやましさを感じるような動物の扱い方は、ヨーロッパでもこの
あたりでやめなければならない。――

82 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:52:41.56 ID:fxC3YCHC.net
 犬について: 犬を鎖につなぐことの残虐さについて。人間のこの唯一真実な仲間、最も忠実な友、Fr.キュ
ヴィエのことばで言えば、かつて人間が獲得したなかでもいちばんだいじなこの腹心、しかも最高にものわ
かりがよく感受性も鋭敏なこの生き物を、まるで犯罪者のように鎖につなぐとは! つながれた犬は朝から
晩まで、自由と運動にあこがれるばかり。その切なる願いもかなえられることなく、その一生は緩慢な拷問
と化すのだ! こうした残虐さのために、はては犬も犬の本性を失って、かわいげのない、野性むきだし
の、忠実さの欠いた畜生となり、また人間という悪魔にいつもおののいて、びくびくはいつくばる姿に変
わってしまうのである! このようなみじめな姿がもしわたしのせいであり、あけくれその歎きを見ていな
ければならないとしたら、むしろわたしは犬など飼うのをやめて、泥棒にあったほうがましだと思う。(あ
る貴族と彼の鎖につないだ犬については、第一五三節参照。)籠の鳥も恥ずかしいおろかな残虐行為だ。こ
んなものは禁止されるべきで、この場合も警察が人間性の代役をなすべきだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 動物界についてのユダヤ的見解は、道徳にそむいているから、ヨーロッパから一掃される必要があ
る。本質的に、また主要な点で、動物がまったくわれわれと同じものである、ということ以上に明白な
ことがあろうか。そういうことを見誤るようでは、五官のすべてがめくら同然であるにちがいないか、
あるいはむしろ見ようという気がないにきまっているのだ。それというのは、だれでも真理よりは飲み
しろのほうがありがたいからだ。

83 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:53:07.17 ID:fxC3YCHC.net
  第一七八節 有神論について

 多神論が自然の個々の部分と力を人格化したものであるように、一神論は全自然を――打って一丸と
して人格化したものである。――

 ある個人的存在者のまえに立ったわたしが、そのかたに向かって次のように言う。「わが創造主よ!
わたしはかつては無でありました。しかしあなたがわたしを生みなしてくださったおかげで、わたしは
いま何ものかであり、しかもわたしというものなのです。」――さらにつけ加えて、「この恩恵に対しわ
たしはあなたに感謝いたします。」――そして最後に、「わたしがなんの役にも立たなかったとしたら、
それはわたしの罪です」とさえ言う。ところでそういう場面を思い描こうと試みた場合に、わたしは、
自分が哲学を研究したりインドのことを勉強したために、わたしの頭がそういう考えを受けつけられな
くなっていることを告白せざるをえない。わたしがこういうことを考えたのは、じつはカントが『純粋
理性批判』(「宇宙論的証明が不可能であることについて」の節)で次のように述べているからで、いわ
ばその対幅にすぎないのだ。「われわれは次のような場面を考えないではおれないが、しかしそういう
考えに耐えることはできない。すなわち、ありとあらゆる存在者のなかで、われわれが最高の存在とし
て思い描くかたが、いわばひとりごとをなさるのだ。《わたしは永遠から永遠にわたって存在する。わ
たしのほかには、わたしの意志によっていささかのものであるもの以外には、なにものも存在しない。
ところでこのわたしはいったいどこからきたのであろうか?》と。」――

84 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 23:28:50.09 ID:f9vKHgcl.net
悟りは脳トレ

85 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:21:53.06 ID:KoiEsG0R.net
 ついでながら言っておくが、この最後の問いも、いま引用した節全体と同様、カント以後の哲学教授
連が、絶対者、つまり平たくいえば原因をもたぬものを、しょっちゅう彼らの哲学的思索の主題にする
ことを押しとどめはしなかった。これこそまさに彼らにうってつけの思想なのだ。一般にこの教授連は
救いがたい人種だ。彼らの書物や講演のために貴重な時を失わぬよう、わたしは切にすすめてやまない。

 木や石や金属から偶像をつくろうと、抽象的概念からそれをつくろうと、結局は同じだ。人格的存在
者をまえにして、それに犠牲をささげたり呼びかけたり、感謝したりすれば、とたんにそれは偶像崇拝
になる。自分の羊を犠牲にささげるか、それとも自分の気持ちをささげるかは、根本においてそれほど
違ったことではない。どんな儀式あるいは祈祷も、文句なく偶像崇拝の根拠である。だからあらゆる宗
教の神秘的宗派は、その最奥義を究めた人に対しては、いっさいの儀式を抜きにする点で、一致するの
である。

86 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:22:28.63 ID:KoiEsG0R.net
  第一七九節 旧約聖書と新約聖書

 ユダヤ教の根本性格は現物主義と楽天論だ。この二つは血筋の近いもので、本来の有神論の条件であ
る。というのは、有神論は物質界を絶対に現実と見て、人生をわれわれのためにつくられた、快適な一
種の贈り物とみているからである。これと反対に、バラモン教や仏教の根本性格は、精神主義と厭世観
だ。というのは、バラモン教や仏教は、世界を一種の夢のようなものと見ており、人生をわれわれの罪
の結果と見ているからである。周知のようにユダヤ教の源流であるゼンド・アヴェスタ教では、厭世的
要素を代表するものにアフリマンがある。しかしユダヤ教では、このアフリマンがサタンになって、従
属的地位を占めるにすぎなくなる。といってもサタンが蛇やさそりや毒虫の元祖であることは、アフリ
マンと同様である。ユダヤ教はサタンの化身である蛇を人間の堕落に登場させる。つまり楽天観という
ユダヤ教の根本的誤謬を修正するために、サタンを利用するのだ。ところでアダムとイヴの堕落は、明
白な真理には絶対必要な厭世的要素をユダヤ教にもちこんだもので、この宗教では最も正しい根本思想
である。ただし罪に堕ちるということは人間生存の根拠であり、生存に先行するものとして叙述される
はずのものであるが、アダムとイヴの堕落はこれを生存の経過へ移しかえているのである。

 エホバがオルムズドであるという適切な確証を提供しているのは、七十人訳エズラ書・第一巻、すな
わちο ιερευς Α(六の二四)だが、ルター訳では省かれている。「王キュロスはイェルサレムに主の家を
建造せしめた。そこでは不断の火によって主に犠牲がささげられていた。」――またアカベア第二書・第一
章および第二章、さらに第三章、最八節も、ユダヤ人の宗教がペルシア人の宗教であったことを証明
している。

87 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:40:57.05 ID:KoiEsG0R.net
 というのは、バビロンの捕囚に連れ去られたユダヤ人たちは、ネヘミヤの導きのもとに、あ
らかじめ聖火を乾いた天水槽のなかに隠しておいたため、水につかることになったが、そちに奇蹟に
よってふたたび火があおりたてられたので、ペルシア王に大なる感化をあたえた、と語られているから
である。ユダヤ人と同様、ペルシア人もまた偶像崇拝をきらい、したがって神々を像の姿であらわすこ
とはなかったのである。(シュピーゲルもまた、ゼンド宗教について、それがユダヤ教徒親近性をもっ
ていることを説いているが、しかし彼はゼンド宗教がユダヤ教に由来すると主張している。)――

 エホバがオルムズドの一変形であるように、アフリマンの変形がサタン、すなわちオルムズドの敵対
者なのだ。(ルターは七十人訳で、「サタン」となっているところを「敵対者」と訳している。たとえ
ば列王紀略上・第一一章、第二三節。)エホバ崇拝はヨシュア王の治下にヒルキアの援助によって生じ
たらしい。すなわちゾロアスター教徒によって受けいれられエズラによりバビロン追放から帰還した
さいに完成したと思われる。というのは、ヨシュアやヒルキアまでは、あきらかに自然宗教・星辰崇
拝・ベル崇拝・アスタルテ崇拝などがユダヤ王国で行われていたからであり、ソロモン王治下でも同
様である。(ヨシュアおよびヒルキアについての列王紀略を見よ。)

88 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:41:23.35 ID:KoiEsG0R.net
 列王紀略: キュロスやダリウスが(エズラ以降)ユダヤ人に好意を示し、その神殿を再建させているが、
これはおそらく、それまでバアル、アスタルテ、モロッホなどを崇拝していたユダヤ人たちが、バビロンに
おいて、ペルシア人が勝利をしめしたときから、ゾロアスター教を受けいれ、エホバという名のもとでオルム
ズドに仕えるようになったせいではあるまいか。そうでなければ、あの好意は不可解である。キュロスがイ
スラエルの神に祈りをささげた(七十人訳聖書のエズラ書・第一巻二の三)ということも、このことと符合
する(そう考えなければ筋が通らないだろう)。旧約聖書のあらゆる先行諸書はのちに、すなわちバビロン捕
囚以後に作成されたが、あるいはすくなくともエホバの教えはのちに挿入されたかしたのだ。とにかくわれ
われはエズラ書・第一巻・第八章および第九章によって、ユダヤ教の最も恥ずべき面を知る。この選ばれた
民はここでその祖先アブラハムの不快・無道な手本にならって行動している。すなわちアブラハムがハガー
ルをイスマエルとともに放逐したように、バビロン捕囚のあいだにユダヤ人と結婚した婦人たちは、ただ人
種的にMauschelでないという理由から、その子供とともに追放されたのだ。この民族のより大規模な非行
を曲飾するために、あのアブラハムの非行があみだされたものでないとしたら、これ以上卑劣なことはほと
んど考えられない。

89 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:22:25.45 ID:KoiEsG0R.net
 ユダヤ教の起源がゼンド宗教にあることを確証するものとして、ここについでながらあげておきたい
ことは、旧約聖書やその他のユダヤの典拠によれば、天使が雄牛の頭をもったものになっており、エホ
バがそれに乗って歩くということだ。(詩篇九十九の一.七十人訳聖書列王記略・第二書六の二、および二
二の一一。第四書十九の一五には「ケルビムの上に座したまう汝〔エホバ〕」とある。)エゼキエル書・
第一章および第一〇章の記述などに見られるように、半ば雄牛で半ば人間、また半ば獅子といったこう
した動物は、ペルセポリスにあるいろいろな彫刻、ことにモズルやニルムードで発見されたアッシリア
の彫像のなかに見られる。それどころかヴィーンにある彫像を施した石には、オルムズドがこのような
雄牛のケルビムに乗った姿が描かれている。このことの詳細はヴィーン文学年間一八三三年九月「ペル
シア旅行記」にある。なおユダヤ教のゼンド宗教起源についての詳しい説明は、J・G・ローデがその
著『ゼンド民族の聖なる伝説』で提供してくれる。これらすべてはエホバの系譜に光をあたえるものだ。

 これに反して新約聖書はとにかくインド的な由来のものであるにちがいない。道徳を禁欲に移すまっ
たくインド的なその倫理、その厭世観およびその降化がこれを証拠立てている。しかし、まさにそのた
めに新約聖書は旧約聖書と決定的に内面的に矛盾することになり、けっきょくアダムとイヴの堕罪の物
語だけが、両者のつなぎになったのである。というのは、あのインドの教えが約束の国にはいってきた
とき、この世が堕落していて悲惨であり、したがってそれを救う必要があるという認識、降化をはじめ
として、自己否定と懺悔の道徳によって救われるという認識を――ユダヤ的一神教ならびにその楽天的
な「すべてはたいへん良かった」に結びつける課題が発生したのだ。そして、それは事情のゆるすかぎ
り、つまりこれほどまったく異質的な、否、対立的でさえある二つの教えを結びつけうるかぎりにおい
て、成功したのであった。

90 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:23:06.87 ID:KoiEsG0R.net
 支柱や手がかりのいる常春藤のつるが、荒削りな棒杭にからみついて、どんなところでもその不格好
な形に順応し、その形を再現しながらも、自分の生命と優雅でそれに覆い、こうして棒杭ではなしに、
こころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキリスト教の教えが、これ
とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そしてもとの形のうちで保存
されなければならなかったものは、キリストの教えによってまったく別のものに、いきいきとした真実
なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは別なものなのだ。

 つまりこの世と切り離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主
を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕落し、それ以後、罪・
堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われることになるからだ。仏
教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示すからである。――「す
べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものが「この世の君」(ヨ
ハネによる福音書一二の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな
く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあるのだ。この世におけ
る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神である。しかしこのような世
界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳においては、報復権の
かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取ってかわって、永生の約
束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわって、すべてを庇護する
聖霊が立ちあらわれるのである。

91 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:50:40.13 ID:KoiEsG0R.net
 こうしてわわわれは新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを
見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と一致するようになった
のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだされる。しかし、無か
ら生命をあたえられ、しばしの時をおくるこの神のこしらえものである人間が、歎きと不安と困窮にみ
ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝してもじゅぶんではな
く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダヤ的な考え方は、ヒン
ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、インド的知恵の精神が、は
るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知されるけれども、旧約聖
書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないからだ。この堕落論は楽天観的
な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであり、じじつまた新約聖
書はこれを唯一の手がかりとして、堕落論に結びついたのである。

 さてある種を徹底的に知るには、その類を知る必要があり、またその類そのものはふたたびその種
的様相においてのみ認識されるものだ。それと同様に、キリスト教を徹底的に理解しようとすれば、世
界否定的な二つの他の宗教、すなわちバラモン教と仏教を知る必要がある。しかも確実に、できるだけ
精密に知る必要があるのだ。というのは、サンスクリットがギリシア語とラテン語を真に徹底的に理解
する道をわれわれにひらいてくれるのと同様に、バラモン教と仏教こそ、キリスト教を真に理解する道
であるからだ。

92 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:51:14.82 ID:KoiEsG0R.net
 いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がインドの諸宗教と親縁
関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえいだいているわたしだ
が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見られる「生存の車輪」
(逐語的には「発生の輪」)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ
た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レミュザの『仏国記』訳
二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わりもないからである」と
書かれており、一七九頁には「車輪は仏教徒にはなじみの象徴である。その意味するところは、魂がさ
まざまな形をとる生存の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁
には、仏陀自身が「真理を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい
る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要な個所を見いだす。
「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動かないものであり、それ
には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる道を破壊することによ
り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東洋の修道生活』(ロン
ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこには死と生誕の規則正
しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因は業なのである」と。
同書一九三頁および二三三頁参照。また『プラボード・チャンドロー・ダヤ』(第四幕・第三場)には、
「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見える。継起する諸世界が不
断に生じては消えてゆくことについて、ビルマ原典によるビュナカンの仏教の説明(『アジア研究』第
肋間一八一頁)には、『世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ
れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長い文章ではあるが、同
じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にもる。)

93 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:11:24.23 ID:KoiEsG0R.net
 グラウル専門語辞典によると、Hansa とは Saniassi の同義語である。――Johannes (これからドイ
ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠における隠遁生活)と
奸計が或るのではあるまいか。――

 仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその発生地では優勢では
ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言わざるをえないことだ。

 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、
と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ
て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人
間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全
能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、
イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、
つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場
合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、
のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。

94 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:11:56.74 ID:KoiEsG0R.net
というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは
ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、
そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている
という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると
説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この
種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから
だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。

 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環
境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお
とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、
しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい
た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情
で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと
はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ
て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作
されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな
かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明
敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった
であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放
者にすぎなかったのだ。

95 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:38:10.26 ID:KoiEsG0R.net
 こういう挿入がなされたというのも、福音書の起草者たちが、こうした個所をふくむ同時代のいろいろな
記録ををもとにして仕事をしたからだと思われるのだ。というのは、信者たちのあいだで口伝えにつたえら
れていた伝説でさえも、信仰に不都合をきたすようなことは落としてしまったと想定されるからだ。ついで
ながら、ライマールスが彼の仮設にとくに好都合な個所をいろいろ見落としているのは不可解だ。たとえば
ヨハネ一一の四八(この個所を一の五〇、六の一五と比較すること)、マタイ二七の二八ー三〇、ルカ二三
の一ー四、三七、三八、ヨハネ一九ー二二である。しかし、この仮説を真剣に妥当・貫徹させようと思うな
らば、次のような想定が必要となるだろう。すなわち、キリスト教の宗教的・道徳的内容は、ヒンドゥー教
や仏教の教義に精通したアレクサンドレイアのユダヤ人たちによってつくりあげられたのではないか、そこ
へひとりの政治的英雄が悲しい運命を背負って現われたので、もともと後世のメシアであったものを天上的
な救世主につくりかえることによって、これらの教義の結び目にされたという想定である。もちろんこの想
定は矛盾する点が非常に多い。しかし福音書の物語を解明するためにシュトラウスが提示した神話の原理は、
すくなくともその細部に対しては、たしかに正しい。それにしても、この原理がどこまで及ぶかをきめるこ
とは、むつかしいであろう。一般に神話的物語がどういう事情にあるかは、もう少し手近な疑義の少ない実
例について明らかにしなければならない。たとえば中世全般にわたって、フランスでもイギリスでも、アー
サー王はきわめて事蹟の多い、驚くべき人物ではあるが、輪郭ははっきりしており、いつも同じ性格をもっ
て、同一の従者を伴って登場する。王の円卓やそれを囲む騎士たち、王のかずかずの前代未聞の英雄的行為、
その風変わりな執事、その不貞な妃、妃の愛人ランスローなどといったお膳立てで、この王は何世紀もの詩
人たちや物語作者のおきまりの主題になっているが、これらの作者たちはすべて同じ性格をもったもろもろ
の同一人物を登場させており、事件の点でもかなり一致しているのである。ただ服装や習慣の点では、作者
自身のそのつどの時代に応じて、相互にひどく違っているだけの話だ。

96 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:51:14.45 ID:KoiEsG0R.net
 ところで数年前、フランスの内閣は、アーサー王の伝説の起源をしらべるために、ド・ラ・ヴィルマルク氏
をイギリスへ派遣した。そのときの結果は、伝説の根底にある事実については、次のようなことであった。す
なわち、六世紀の始め、ウェールズにアーサーという名の小領主がいて、侵入してきたサクソン人と根気よく
戦ったけれども、そのささいな事蹟は忘れられてしまった、というのである。してみると、この男が、どうし
てだかわからないが、幾世紀もつうじて無数の歌謡・物語詩・物語のうちに讃えられてきたあの輝かしい人物
になったわけなのだ。ヴィルマルケ著『古代ブルターニュの民話。アーサー王の円卓にまつわる叙事詩の起源
についての試論付』(二巻、一八四二年)を見られたい。この『アーサー王伝』では、アーサーは霧のなかの
人物のようにぼんやりとした遠くはるかな存在としてあらわれているが、それでも現実的な核心がないわけで
はない。――中世紀全体をつうじての英雄であるロランについても、事情はほとんど同じである。ロランも無
数の歌謡・叙事詩・物語で讃えられ、さらにロランの甲冑騎士柱像によって称揚され、ついにアリオストにま
でもその素材を提供して、この作品から変容して復活するようになったのである。ところでロランについては、
歴史はたった一回、たまたま、しかも三語をもって言及しているにすぎない。すなわち、アインハルトが彼ロ
ランをロンセスヴァリエスに滞在した名士のなかに「ブリテン王辺疆伯」(Britannici limitis praefectus)
たるロードランドゥスとして数えあげているのだ。そしてこれがわれわれのロランについて知っているすべて
であることは、ちょうどイエス・キリストについてほんとうにわれわれの知っていることが、タキトゥス
(『年代記』第一五巻・第四四章)の一個所につきるのと同様なのだ。別の例を示すものに、世界的に有名な
スペイン人シッドがある。

97 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 03:07:50.03 ID:KoiEsG0R.net
多くの伝説や年代記、とりわけあの有名なすばらしい『ロマンツェーロ』におさめられている民謡、はて
はコルネイユの最上の悲劇までが彼を讃美しており、しかも主要事件については、とくに妻になったシメ
ーネのことではだいたいにおいて一致している。ところがわずかな歴史的資料が彼について伝えているこ
とは、彼はなるほど勇敢な騎士、すぐれた将軍ではあったが、非常に残酷・不実な性格の持ち主であり、
それどころか、ときによって仕える党派を変え、キリスト教徒に奉仕するよりもむしろサラセン人に味方
するほうが多かったような節操のない人物であり、それはまるで一介の傭兵隊長に類するが、シメーネの
ひとりと結婚している、といったこと以上に出ないのである。こうしたことの詳細は、はじめて正しい
典拠に行きついたと思われるドージの『スペイン史研究』(一八四九年)第一巻から知ることができる。
――イリアスの歴史的根拠ははたして何であろうか?――じっさい、こうした問題の実態につきあた
るには、ニュートンのりんごの逸話を念願におくがよいのだ。この話に根拠がないことについては、わ
たしはすでに第八六節で説明したとおりなのだが、それでも何千という本でくりかえされているところ
で、現にオイラーさえも、『皇女あての書簡』の第一巻で、麗々しく述べたてているのだ。――およそ歴
史的事実はたいせつにすべきものである以上、残念ながら現状に見られるように、われわれは大嘘つき
であってはなるまい。

98 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 09:55:59.35 ID:KoiEsG0R.net
  第一八〇節 宗派

 原罪ならびにこれと結びつく点を教義にかかげているアウグスティヌス主義は、すでに述べたよう
に、理解のゆきとどいた本来のキリスト教である。これに反してペラギウス主義は、キリスト教を粗
野・平板なユダヤ教とその楽天観に逆転させようとする努力である。

 教会をたえず二分してきたアウグスティヌス主義とペラギウス主義の対立は、その究極の根源までお
しつめれば、前者は事物の本質そのものを論じているのに対して、後者は自分では本質と思いながら現
象を問題にしているにすぎない、というふうに還元できよう。たとえばペラギウス派は、まだなんにも
していない子供には罪がないにきまっているという理由から、原罪を否定する。――こういうことを言
いだすのは、なるほど子供は現象としては存在しはじめたばかりではあるけれども、物それ自体として
はそうでないことを、彼らが見ぬいていないからなのだ。意志の自由についても、救世主の贖罪の死に
ついても、恩寵についても、要するにすべての点について、同じことが言える。――それがわかりやす
く平板であるために、ペラギウス主義はいつでも優勢であるが、現代ではとりわけ合理主義として幅を
きかせている。ギリシア正教教会はペラギウス主義をやわらげたものである。トリエント公会議いらい
カトリック教会もこれと同様で、そのためカトリック教会は、アウグスティヌス的立場に立つがゆえに
神秘的な思想をもったルターや、さらにまたカルヴァンに対抗しようとしたのだ。同様にイエズス派も
半ばペラギウス主義的である。これに反してヤンセン派はアウグスティヌス主義を奉じており、彼らの
見解がおそらくキリスト教の最も純正な形であろう。というのは新教は、独身や一般に本来の禁欲を否
定し、禁欲の代表者である聖者を否認したことによって、すりきれた、あるいはむしろ画龍点晴を欠い
た腰くだけのキリスト教になってしまったからだ。こうなってはどうにもならない。

99 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 09:56:29.39 ID:KoiEsG0R.net
  第一八一章 合理主義

 キリスト教の真髄は、アダムとイヴの堕落・原罪の教えである。すなわち、われわれの自然の状態は
度しがたく、自然的人間は堕落しているという教えであり、これに救世主による代理と贖罪が結びつ
き、われわれはこの救世主に対する信仰によって贖罪にあずかるというのである。このためキリスト教
は厭世観とみられるのであって、したがってユダヤ教の楽天観や、またユダヤ教の正統の子供である回
教の楽天観にはまさに対立するが、バラモン教や仏教とは類似するものとなるのである。――すべての
人はアダムにおいて罪を犯し、永劫に罰せられているが、救世主において救われるということには、人
間の本来の本質と真の根源が個人にあるのではなくて、人間の(プラントン的な)イデアである種にあ
るということ、個人は時間のうちにくりひろげられるイデアの現象にすぎないということも、表現され
ているのである。

 もろもろの宗教の根本的差異は、それが楽天観であるか厭世観であるかという点にあるのであって、
一神論であるか多神論であるか、三神一体であるか三位一体であるか、汎神論であるか、それとも(仏
教のように)無神論であるかといった点にあるのではない。だからこそ、旧約聖書と新約聖書はたがい
に正反対なのであって、これを結びあわせると一個奇怪な半人半馬ができあがるのだ。つまり旧約聖書
は楽天観、新約聖書は厭世観だからだ。旧約聖書はたしかにオルムズド教に由来するが、新約聖書はそ
の内面的精神からいえば、バラモン教や仏教に親縁で、たぶん歴史的にもなんとかこれらの宗教から導
きだすことができよう。音楽にたとえれば旧約は長調、新約は短調だ。ただ人類堕落論だけは旧約聖書
のなかでひとつの例外をなしており、キリスト教が唯一の接点としてふたたびとりあげるまでは、利用
されないままに一種の前菜にとどまったのである。

100 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 10:23:27.72 ID:KoiEsG0R.net
 右に述べたキリスト教の根本性格は、アウグスティヌス、ルター、メランヒトンがきわめて正しく把
握しており、これを最大限に体系化しているのであるが、われわれの現代の合理主義者たちは、ペラギ
ウス派の亜流として、この根本性格をできるだけ抹消し、あらぬ解釈をほどこして、キリスト教を味気
ない、利己主義的・楽天観的なユダヤ教に還元しようとしている。そこへ彼らはよりよき道徳をつけ加
え、論理的に徹底した楽天観が要求するものとして来世を説くのだ。つまりこのすばらしい人生があま
りに早く終わらないようにというわけだ。つまり彼らの楽天観的見解を大声で打ち消すやつ、しかし結
局は石の客として陽気なドン・ファンをおとずれるあの死神を片づけたいわけなのだ。――

 こうした合理主義者たちは誠実な人種ではあるが、平板な頭しかもっていない連中だ。彼らには新約
聖書の神話の深い意味など、見当もつかない。彼らは自分たちの把握できる、また彼らにふさわしいユ
ダヤ的楽天観を超えられないのである。その欲するところは、歴史的な面でも、教義的な面でも、むきだ
しの無味乾燥な真実で、われわれは彼らを古代のエウヘメロス主義に比較することができる。もちろん
超自然主義者の唱えるところは、本質的には一個の神話である。しかしこれは重要で深遠な真理をはこ
ぶ車なのであって、真理を大衆の理解に近づけるには、他の方法では不可能であろう。ところでこれら
合理主義者たちが、キリスト教の意味と精神を認識するどころか、その見当もついていないことは、た
とえば彼らの偉大な使徒ヴェークシャイダーがその素朴な教義論で示しているところだ。すなわち彼は
その『教義論』(第一一五節および注)で、原罪ならびに自然的人間の本質的堕落についてのアウグス
ティヌスや宗教改革者たちの深い発言に対して、『義務について』の諸巻に見られるキケロの気のぬけ
たおしゃべりを対置してはばからないのである。彼にはこのおしゃべりのほうがずっと気にいるから
だ。われわれはじっさい、この男がなんのこだわりもなく自分の無味乾燥ぶりと平板さをさらけだし、
それどころかキリスト教の精神に対する理解が皆無であることを見せびらかすのを見て驚かざるをえな
い。しかし彼はたんに「多くのなかのひとり」にすぎない。

101 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 10:24:03.12 ID:KoiEsG0R.net
現にブレトシュナイダーは、原罪と救済がキリスト教の精髄であるのに、原罪を聖書からしめだすよう
な解釈をほどこしているではないか。――

 他方、超自然主義者はときとして、もっと始末のわるい存在、すなわち言葉の最もわるい意味での坊
主であることは否定できないことだ。そこでキリスト教はまるでスキュラとカリュブディスのあいだを
どうしたらきりぬけるかという羽目になるのだ。両派の共通の誤謬は、ともに宗教のなかに、ヴェール
をかぶらない。無味乾燥な、文字どおりの真理を求めていることだ。しかし真理は哲学においてのみ追
究されるもので、宗教の有する真理は、民衆に適合した、間接的・象徴的・比喩的真理にすぎない。キ
リスト教は、ある真実な思想を模写しているひとつの比喩である。しかし比喩そのものは真理ではな
い。にもかかわらずそれを仮定することが、超自然主義者と合理主義者に共通する誤謬なのだ。超自然
主義者は比喩をそれ自身真実であると主張する。合理主義者はひねくった解釈をこねまわしたすえ、彼
らの尺度なりに比喩がそれ自体として真実たりうるようにしようとする。こうしておいてから両派はた
がいに適切・強力な論拠をひっさげて論争する。合理主義者は超自然主義者にむかって、「きみたちの
教説は真実じゃない」と言い、これに対して超自然主義者は、「きみたちの教説はキリスト教じゃない
よ」と合理主義者にやりかえすのだ。両者ともその言いぶんにまちがいはない。合理主義者は理性を尺
度としていると信じているが、じつは有神論と楽天観の前提にとらわれた理性を尺度としているにすぎ
ない。それはちょうどあらゆる合理主義の原型であるルソーの『サヴォワ副牧師の信仰告白』のような
ものだ。それゆえ合理主義者がキリスト教の教義のなかで残しておこうとするのは、彼らが本来的意味
で真とみなすもの、すなわち有神論と霊魂の不滅以外にはない。もし彼らがこの場合、無知の厚かまし
さで純粋理性に訴えるならば、われわれは彼らに純粋理性批判をお見舞いしなければならない。

102 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 10:41:48.60 ID:KoiEsG0R.net
それは彼らに否も応もなく次のことをわからせるためだ。すなわち、彼らが理性にかなったものとして選
びだして保持している教義は、内在的原理を超越の世界に適用しているにすぎないということ、したがっ
て彼らのその教義は、カントが『純粋理性批判』の各ページで叩き、まったく無価値なものと立証してい
る、あの無批判的な、支持できない哲学的独断論にすぎないということである。こういう不合理を犯し
ている以上、合理主義者という彼らの名前からして、じつは彼らが合理主義に敵対するものであること
を示しているのだ。したがって、超自然主義にはそれなりの比喩的真理があるけれども、合理主義には
どのような真理も認めることはできない。合理主義者の言いぶんはまったく筋が通っていないのだ。合
理主義者を志す者は、哲学者にならなければならない。哲学者である以上は、あらゆる権威から解放さ
れなければならず、なにものにもひるむことなく前進しなければならない。しかし神学者を志す者は、
その一筋を通すべきで、権威の基礎を見捨ててはならない。たとえ権威が不可解なことを信じよと命令
する場合でも、うしろを見せてはならないのだ。ひとは二君に仕えることはできぬ。理性に仕えるか、
聖書に仕えるか、あれかこれかである。この場合、中庸とは二つの椅子のあいだにすわること、不可能
事を意味する。信仰するか、哲学するか! どちらでも選んだほうに徹底すべきだ。ところが、ある点
までは信仰してそれ以上に進まず、同じように、ある点までは哲学してそれ以上に進まぬということ、
――これこそ合理主義の根本性格をなす中途半端というものだ。ところで合理主義者は、彼らがまった
く誠実に仕事にあたり、だますといっても自分自身に限られている点では、道徳的に是認できるけれど
も、超自然主義者のほうは、単なる比喩にすぎないものを本来的意味の真理だと言いはることによっ
て、たいがい故意に他人をだまそうとするのである。とはいえ、超自然主義者の努力によって、比喩の
なかにふくまれている真理は救われるのだ。

103 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 10:59:52.34 ID:KoiEsG0R.net
ところが合理主義者は、その北方的冷静さと平板さから、比喩に含まれた真理を投げだすと同時に、
キリスト教の全真髄をも惜しげもなく捨ててしまい、それどころか、八十年まえにヴォルテールが一
気に行きついたところへ、一歩一歩と進みながらも結局は行ってしまうのである。彼らが神の特性
(通性原理)を定めるにあたっては、いわゆる「神」という単なる言葉・標語ではとうていまにあわ
ないのだが、それが人間でもなく自然力でもないという、ちょうどその中間を射当てようと慎重にね
らっている彼らの様子を見るのは、ときとして愉快な見ものだ。だが、そういうことはもちろん困難
なことである。ところで合理主義者と超自然主義者がそうして戦っているうちに、ちょうどカドモス
がまいた龍の歯のたねから生まれた甲冑の勇士たちのように、両派ともたがいに疲れはててしまう。
そのうえ、ある側面から活動を開始する似非信心が、この事態にとどめを刺す。イタリアの諸都市の
謝肉祭で、冷静に、まじめにそれぞれの仕事にはげんでいる人々のあいだを気ちがいじみた仮面が走
りまわっているのが見られるように、今日のドイツでは、哲学者・自然科学者・歴史家・批評家・合
理主義者のあいだを、もう何世紀もまえの衣裳を身につけた似非信心の徒が騒ぎまわっているのが見
うけられる。その効果は、とくに彼らが熱弁をふるうときには滑稽だ。

104 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 11:00:20.15 ID:KoiEsG0R.net
 信仰は愛情のようなものだ。強制できないのであるだから、国家的手段で信仰を採用したり固定し
たりしようとするのは、不都合な試みである。というのは、愛情を強いようとする試みが憎しみを生む
ように、信仰を強いようとする試みこそ、かえってほんとうの不信仰を生みだすからだ。信仰をおし進
めるには、あらかじめ周到な用意をととのえて、間接的にやらねばだめだ。つまり信仰が伸びるような
いい土壌をととのえる必要があるのだ。この土壌がすなわち無知なのである。だからイギリスでは昔か
ら現代にいたるまで無知に気をくばって育ててきたので、国民の三分の二は文盲というありさまだ。
だから今日でもイギリスでは、ほかの国でさがしても見つからぬような盲信がのさばっている。しかし
政府はいまや国民教育を僧侶の手から取りあげつつあるから、やがて信仰も下り坂になるだろう。――
そういうわけで全体としてはキリスト教は、たえず科学によって足もとをくずされながら、しだいにそ
の終末にむかって進んでゆくのだ。それにしても、原典をもたぬ宗教だけが滅びるという考察からキ
リスト教にも脈はあると見ていいかもしれない。ギリシア人やローマ人、これら世界を支配した民族の
宗教は滅びた。これに反して軽蔑されたユダヤ民族の宗教は残った。同様にゼンド民族の宗教も拝火教
徒のあいだで維持された。だが、ガリア人、スカンジナヴィア人、ゲルマン人の宗教は滅亡した。しか
しバラモン教や仏教は存続して栄えている。この二つの宗教は、あらゆる宗教の中で最古のものであ
り、詳細な原典をもっているのである。

 ※宗教にうしろめたいところがあるにちがいないことは、宗教を馬鹿にすることがじつに重い刑罰で
禁止されていることからも推しはかられる。ヨーロッパの諸政府は国教を攻撃することを禁じている。
ところがこの政府自体は宣教師をバラモン教や仏教の諸国に派遣しており、彼ら宣教師はその国々の宗教
をさかんに徹底的に攻撃している、――彼らの輸入した宗教が割りこめるようにと。それでいて、ひとた
びシナの皇帝やトンキンの大官がこういう人たちの首をはねたりすると、政府筋は悲鳴をあげるのだ。――

105 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 11:16:24.99 ID:KoiEsG0R.net
 第一二八節

 一つの個別的出来事を基礎とする宗教、しかも、これこれの場所、これこれの時に起こった事件を世
界ならびに生存の転回点にしようとする宗教は、基礎そのものが薄弱だから、人びとがいくらか反省す
るようになると、たちまち存立することができなくなる。これにひきくらべ仏教で何千という仏陀を想
定しているのは、まことに賢明ではないか! これはキリスト教の二の舞を演じないためだ。キリスト
教では、イエス・キリストがこの世を救済したことになっていて、キリスト以外に救いはありえない、
――だが、エジプト、アジア、ヨーロッパにその堂々たる記念碑を残している四千年の歳月は、キリス
トのことなんか知るはずもなく、このキリスト以前の諸時代が、あらゆるその壮麗さとともに、とつぜ
ん悪魔にくわれてしまったとは! たくさんの仏陀が必要なわけは、ひとつひとつのカルパを終わるご
とに世界は滅び、そしてこの世界とともに教えも滅びるので、新しい世界ごとに新しい仏陀が求められ
るからなのだ。救いはつねにあるわけなのだ。――

 文明がキリスト教的諸国民において最も高いということは、キリスト教が文明に幸いするせいではな
くて、キリスト教が死滅していて、ほとんど影響力をもっていないためなのだ。キリスト教が影響力を
もっていたあいだは、文明はおくれていた。すなわち中世がそうだ。これに反し、回教、バラモン教お
よび仏教は、いまでも人生に対して徹底的影響力をもっている。影響力がいちばん少ないのはシナで、
だから文明もその高さにおいてヨーロッパにほとんど比肩する。すべての宗教は文化と敵対関係にある。――

 宗教は昔は軍隊でもその背後に駐留して隠れることのできた森であった。現代で同じことをやろう
としても、うまくいかない。というのは、さんざん伐採したから、この森も藪になってしまって、たま
にぺてん師が身をひそめるくらいになってしまったからだ。だからわれわれはなんにでも宗教を引き入
れようとする連中を警戒しなければならない。そしてこういう連中には、さきに引用した格言「十字架
のうしろには悪魔がいる」で対抗すべきだ。

106 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 11:18:13.97 ID:KoiEsG0R.net
   第一六章 サンスクリット文学に対する二、三のこと

  第183節

 サンスクリットで書かれたものでは、わたしは宗教および哲学方面の作品は大いに尊敬するけれど
も、文学作品には、ただまれにしか楽しみを見いだすことができなかった。ときには、これら文学作品
の無趣味で奇怪なことは、これを生みだした諸民族の彫刻に劣らないという気がしたこともある。彼ら
の戯曲をわたしが評価するのも、宗教的信仰や風習に対してたいへん教えるところの多い説明や例証が
そこにふくまれているためにすぎない。すべてこうしたことは、詩がその本性上、翻訳できないために
起こることだろう。というのは、詩では、思想と言葉があたかも「胎盤における子宮の部分と胎児の部
分」のように緊密・強固に癒着しており、この言葉を外国語に置きかえると、思想を傷つけざるをえな
いからだ。もともと詩として韻をふんだものは、思想と言葉がとりむすんだ一種の妥協ではないか。し
かしこれは事の性質からいって、思想の生まれてきた母胎であるそれ自身の地盤でのみできることで、
われわれがそれを移植しようという外国の地盤、しかもたいがいの翻訳者の頭のような不毛な地盤では
できない相談だ。およそ何が対立するといっても、詩人がその感興を自由に吐露し、それがおのずから
本能的に韻律となってあらわれる場合と、翻訳者が冷たく打算的に、痛々しいばかりに四苦八苦して
綴りを数え韻をさがす場合にまさるものがあろうか。しかもヨーロッパには直接われわれに話しかけて
くる詩的作品にはこと欠かないが、正しい形而上学的知見には大いに不足しているから、サンスクリッ
トから翻訳する人たちが、文学作品などにはあまり苦労しないで、むしろその労苦をヴェーダやウパニ
シャッドや哲学的著作にふりむけるべきだと、わたしは考えている。

107 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 11:44:20.27 ID:KoiEsG0R.net
  第一八四節

 ギリシア・ローマの著述家のものでさえ、これをほんとうに正しく、精確に、いきいきと理解するに
は、そのために周到に養成されたえりぬきの教師に助けてもらい、何世紀ものあいだに成就されたすば
らしい文献学的補助手段を使っても、なかなか困難なことである。しかもギリシア語やラテン語は、な
んといってもヨーロッパにおけるわれわれの先輩の言葉であり、現に生きているもろもろの言語の母で
あるのにひきくらべ、サンスクリットは千年もまえに遠いインドで話されていた言葉であり、これを学
びとる手段も比較的まだ非常に不完全である。こうしたことどもを考慮にいれ、さらにそこへ、ヨー
ロッパの学者たちがサンスクリットから訳したいろいろな翻訳が――ごく少数の例外を除いて――わた
しにあたえた印象をつけ加えてみると、われわれのギムナジウムの三年生あたりがギリシア語のテクス
トを解するよりも、われわれのサンスクリット学者がその原典を理解する力はべつにうわまわっていな
いのではないかといった疑いが、わたしの胸にしのび寄ってくるのだ。しかしこうした学者は子供でな
く、知識も悟性もそなえた立派なおとななのだから、もちろんいろいろなまちがいが「才能しだいで」
まぎれこむことはあっても、彼らが真に理解したことから、全体としてはほぼおおよその意味は伝えて
いると思われるのだ。しばしば暗中模索のていのヨーロッパのシナ学者のシナ語ときては、はるかにひ
どいものがある。これはシナ学者のなかでいちばん徹底した学者たちでさえ、おたがいに訂正しあい、
ひどい誤謬を指摘しあっているのを見れば、このことにまちがいはないという確信が得られるのだ。こ
の種の例はアベル・レミュザの訳した『仏国記』にしばしば見いだされる。

108 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 11:45:01.07 ID:KoiEsG0R.net
 話かわって、アウラングズィーブの兄にあたるダーラー・シュコー回教主がインド生まれでインドの
教育を受け、しかも思索的で好奇心をもち、学問もあったから、つまりわれわれがラテン語を解する程
度にはサンスクリットを解しえたであろうし、そのうえ多数の学者を協力者としてもっていたことを考
えると、彼がウパニシャッドをペルシア語に訳させた仕事は立派なものにちがいないという思いが、なに
はさておき、わたしにはするのである。さらにわたしは、このペルシャ語をアンクティル・デュペロン
がいかにも深い、事柄にふさわしい畏敬の念をもって取り扱っているのを見る。すなわち彼はこのペル
シア訳を一語一語ラテン語に訳したのだが、ラテン語の文法を無視して、ペルシア語の文章構造を精確
に再現し、回教主が訳さないでおいたサンスクリットの単語もそのままにして、ただこれを語句註解で
説明するにとどめているのである。さてこそわたしはこのラテン語を心から信頼して読むのだが、うれ
しいことにこの信頼はただちにむくわれるのだ。なぜなら、この『ウプネカート』は完全にヴェーダの
神聖な精神を呼吸しているからだ! 勤勉に読むことによって、この比類ない書のペルシア語・ラテン
語に精通した者は、心の奥底からあの神聖な精神にとらえられるのだ! なんと一行一行が、明確に限
定された、全体的に相呼応する意味にみちみちていることか! 全体に一種の高い神聖な厳粛の気がた
だよっていながら、どの頁からも、深い、根源的な、崇高な思想がわれわれを迎えてくれるのだ。ここ
ではすべてがインドの大気と自然にかよう根源的な存在のいぶきを呼吸している。そして、おお、精神
はここで、なんとすがすがしく洗われることだろう! この精神にはやくも注入されたいっさいのユダ
ヤ的迷信、ならびにこの迷信に迎合するあらゆる哲学から洗い清められるのだ!(サンスクリットの原
典を除けば)、これはこの世で可能な最もむくわれることの多い、心をたかめてくれる読みものだ。そ
れはわたしの生涯の慰めであった。それはまたわたしの死の慰めともなろう。――『ウプネカート』が
ほんものであるかどうかに対してもちだされたある種の疑いについては、わたしの『倫理学』の二七
一頁(第二版二六八頁)の欄外注を指示しておく。

109 :神も仏も名無しさん:2015/09/15(火) 00:52:37.78 ID:PduoK6Fb.net
翻訳文には訳者の死後50年の著作権があるので一言注意を喚起しておきます

110 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/30(水) 00:11:15.69 ID:Xc6bBWNX.net
 さてインドの聖典やインドの哲学者たちの著作のヨーロッパ語訳をこのデュペロン訳と比べてみて、
わたしはこれらの訳からは正反対の印象を受ける(もちろんきわめて少数の例外はある、たとえばシュ
レーゲル訳のバガヴァド・キタ、コールブルック訳のヴェーダのニ、三の個所)。これらの訳が提供す
るのは複雑な文体の文章で、その意味は一般的・抽象的であり、ときに動揺して不明確であり、その関
連もゆるく、原典をもつ思想の漠然とした輪郭しか得られず、その埋め草にはわたしはなにか異質のも
のを認める。往々、矛盾もすけて見えるし、全体として近代的で空虚・平板で味気なく、意味貧弱で西
洋的なのだ。それはヨーロッパ化され、イギリス化・フランス化され、(いちばん悪いことだが)ドイ
ツ的に霧がかかっていたりする。つまり、明確な意味のかわりに、漠然とした冗漫な言葉が提供される
だけなのだ。たとえば「インド文庫」四一号(カルカッタ、一八五三年)におけるレーアの最近の訳など
だ。これを見ると、複雑な文章を書きなれているいかにもドイツ人という感じで、はっきりしたことを
考えることは他人におまかせしているのだ。それに「ユダヤ的悪臭」もぷんぷんにおってくる。こうし
たことはすべて、この種の翻訳に対するわたしの信頼を弱めるものだが、とりわけこれらの訳者がその
勉強をパンを稼ぐためにやっていることを考えると、なおさらだ。ところが人格高潔なアンクティル・
デュペロンは訳にあたってそういう私事を求めたのではなく、学問と悟りに対する純粋な愛によって訳
業に駆りたてられたのであり、回教主ダーラー・シュコーがその報酬として得たものは、皇帝である弟
アウラングズィーブが彼の足もとにひれふしたその叩頭だけであったのだ、――「神のさらに大なる光
栄のために」。ウパニシャッドの真の知識、したがってヴェーダの真実な教義の奥義は、今日まで『ウプネ
カート』によってのみ得られるというのが、わたしの確信するところである。他の訳を読了してみても
問題の見当さえつかないのだ。そのうえ回教主ダーラー・シュコーには、イギリスの学者たちが手にし
えたよりも、はるかに良い完全なサンスクリットの写本が提供されていたと思われるのである。

111 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/30(水) 02:26:49.58 ID:Xc6bBWNX.net
    第一八六節

 巨大な石の寺院がインドに建てられた時代には、おそらく物を書く術はまだ発明されておらず、この
寺院に住む多数の僧侶たちがヴェーダの生きた容器であったのだろう。つまりひとりひとりの僧ある
いは各派で、その一部を暗記して伝えたのである。ドゥルイド僧がやったように。のちになって、やは
りこの寺院で、したがってきわめてふさわしい環境のなかで、ウパニシャッドは起草されたのであろう。


    第一八七節

 サーンキヤ哲学は仏教の先駆とみられているが、われわれはウィルソンの完訳でイーシュヴァラ・ク
リシュナの『サーンキヤ・カーリカー』(数論頌)にこれを見ることができる。(この訳もやはり不完全
で、霧をとおして見る思いではあるが)。この哲学は、あらゆるインド哲学の主要な教義、たとえばこ
の悲しい存在から救われることが必要であるとか、行動に比例して魂が移りゆくとか、悟りこそ救済の
根本要件であるなどということを詳細に、また厳粛に説いているかぎりにおいて、興味ぶかく、また教
訓的である。インドでは数千年らい、こうした教義に心を向けることに、きわめて真剣なものがあった
のだ。

 この哲学がとかくするうちに、ひとつの誤った根本思想、すなわちプラクリティとプルシャに分か
れる絶対二元論によって台なしにされるのをわれわれは見る。これがまたサーンキヤがヴェーダからは
なれていく点でもある。

112 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/30(水) 02:58:18.43 ID:Xc6bBWNX.net
――プラクリティとは明らかに「能産的自然」であると同時に物質それ自体で
ある。すなわちいっさい形をとらないから、考えられるだけで、具体的には見ることのできない物質そ
のものなのだ。こういうふうに解釈してみると、すべてのものがそこから生まれてくる意味で、プラク
リティは「能産的自然」とまったく同一視してさしつかえない。ところでプルシャとは認識主体であ
る。なぜならこれは知覚するものであり、行動しない単なる傍観者であるからだ。ところでこの二つの
ものは、絶対的差異をもったもの、たがいに無関係なものと受けとられている。そのため、どうしてプ
ラクリティがプルシャの救済のために骨を折るのか、その説明が不十分になってくる(六〇詩節)。さ
らにプルシャの救済こそ究極の目的であるということが、全作品をつうじて説かれている。ところが
(六二、六三詩節では)とつぜん、救済されるべきはプラクリティであるとなっている。――こうした
矛盾は、プラクリティとプルシャには共通の根があるのだと仮定すれば、すべてなくなるであろう。教
祖カピラの意に反することではあるが、全体はなんといっても、そういう共通の根を示唆しているの
だ。あるいはプルシャはプラクリティのひとつの変態だと仮定してみるのだ。そうすればいずれに
しても二元論は解消することになろう。――わたしは事をわかりやすくするために、プラクリティに意
志を、プルシャに認識主体を見ざるをえない。

 サーンキヤに見られる独特なせせっこましさと形式的拘泥は、数論、すなわちあらゆる特性その他を
数えあげ番号をつけることだ。しかしこれは、仏典などにも同じ行き方が見られるから、インドでは普
通に行なわれていることのように思われる。

113 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/30(水) 03:55:30.15 ID:Xc6bBWNX.net
    第一八八節

 インドのあらゆる宗教に見られる輪廻の道徳的意味は、われわれが犯すあらゆる不正に対して、われ
われはつぎに生まれかわったときにつぐないをつけなければならない、というだけではなく、われわれ
がこうむるあらゆる不正は、前世におけるわれわれの非行のむくいとして、当然なものと見なければな
らない、ということでもある。


    第一八九節

 インドの四姓のうち上の三つがふたたび生まれた者とよばれる理由は、普通いわれるように、若者た
ちの成年式にあたって神聖な血統に従ってそれぞれの世襲階級に編入することが、いわば第二の誕生で
ある、ということから説明されるかもしれないが、じつは本当の理由は、前世において顕著な功績をあ
げた結果としてのみ、生まれながらにそのカーストに属するのであった、つまり前世でもすでに人間とし
て存在したのに相違ないのにひきかえ、最下層ないしは、もっと卑賤な身分に生まれた者は、前世では
畜生であったかもしれない、というにあるのだ。

 きみたちは仏教の永遠であるカルパを馬鹿にしている! ――キリスト教のとった立場からは須臾の
時が見渡せるだけだが、仏教の立場からは、無限の時間と空間のうちにあらわれてきて、その主題とな
るのだ。――

 ラリターヴィスタラもはじめは単純・自然なものであったのに、次から次へと宗教会議のたびごとに
新しく改訂されて、複雑にして驚異すべきものとなったのだ。同じことは教義自体についてもいえる。
単純・壮大なわずかな教説が、しだいに綿密に仕上げられ、空間的・時間的に叙述され、擬人化を受
け、経験的に制限されたりして、しだいに多彩・乱雑・複雑となったのだ。それというのも、それが大
衆の好みに合うからだ。大衆の精神は幻想的な仕事をほしがる。単純で抽象的なことには満足させられ
ないのである。

114 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/01(木) 14:40:26.73 ID:p6MOwQ/h.net
 バラモン教のもろもろの教義、ならびにブラームとブラーフマー、パラマートとジーヴァートマ、
ヒラニヤ・ガルバ、プラジャーパティ、プルシャ、プラクリティなどの区別は(これらについての簡潔
な叙述は、オブリのすぐれた著作『ニルヴァーナについて』インド、一八五六年に見いだされる)、つ
きつめたところ、端的に本質的に主体的存在しかもたないものを、客体的に叙述しようとする意図から
なされた神話的虚構にすぎない。だから仏陀はこうした区別を捨てて、輪廻と涅槃しか認めなかった
のだ。なぜなら教義というものは、複雑・多彩になればなるほど、神話的になるからだ。この理を最も
よく理解しているのが、ヨーガ行者あるいは遁世者(サニアッシ)だ。彼らは方法論的に自己を正して、
外にむかっている感覚のすべてを内にひきもどし、全世界を忘れ、ついには自分自身をも忘れて無念
無想となる――そのときまだ意識のなかに残っているのは、根源的本体だけというわけだ。ただしこ
れは言いやすくして行ないがたいことではある。――

 かつてあれほど栄えたヒンドゥー教徒が沈滞したのは、彼らが七百年にわたって回教徒からおそろし
い圧迫を受けたためだ。回教徒は強引に彼らを回教に改宗させようとしたのである。――今日ではイン
ド人口の八分の一だけが回教を奉じている(『エディンバラ評論』一八五八年一月号)。――


    第一九〇節

 エジプト人(エチオピア人)あるいはすくなくともその僧侶たちがインドから渡ってきたということ
を示す証拠に、テュアナのアポロニウス伝の第三巻・第二〇章、第六巻・第一一章もあげることができる。

115 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/01(木) 15:00:03.73 ID:p6MOwQ/h.net
 ギリシア語およびラテン語が、あれほど離れているのにサンスクリットと似ているように、ギリシア
人およびローマ人の神話もまたインドの神話に似ているということは、ありそうなことであり、エジプ
トの神話がギリシア・ローマの神話に類する点もこれまたありそうなことだ。(コプト語はヤペテ語族あるい
はセム語族に由来するのではなかろうか?)ゼウス、ポセイドン、ハデスはもしかしたらブラーフマ
ー、ヴィシュヌ、シヴァに相当するのかもしれぬ。シヴァは三叉の矛を持っているが、これが海神ポセ
イドンではその使用目的がわからなくなっている。ナイルの鍵、柄のついた十字形、金星のしるし♀
は、まさにシヴァ宗のリンガムとヨニである。オシリスあるいはイシリスはもしかすると主なる神イス
ヴァラに相当する。――エジプト人もインド人も蓮を敬う。

 ヤーヌス(これについてはシェリングがアカデミーで講義をしており、根源的一者と説明している)
は、二つの顔、ときには四つの顔をもっている死神ヤマではなかろうか。戦時には死神の司る門があけ
られるのである。ひょっとしたらプラジャーパティはイアペトスではあるまいか?――

 ヒンドゥー教徒の女神アンナ・プルナ Anna Purna(ラングレス『インドの記念物』第二巻一〇七頁)
は、たしかにローマ人のアンナ・ペレナ Anna Perenna だ。シヴァの変え名のひとつであるバギス
Baghis は予言者バキス Bakis を思いだされる。(同上第一巻一七八頁)。『シャクンタラー』(六幕の終
わり、一三一頁)にインドラの添え名としてディヴェスペティル Divespetir というのが出てくるが、あ
きらかにこれはディエスピテル Diespiter だ。

116 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/02(金) 11:10:53.37 ID:lAwfUU2F.net
 (ラングレス『記念物』第二巻によれば)水曜日(Wodans-day)は?にも仏陀にも神聖な日という
が、これは仏陀 Buddha がウォダン Wodan と同一であることを大いに証している。――『ウプネカ
ート』にも出てくる「コルバン」Corbanは、マルコによる福音書七の一一に「コルバン Κορβαν すなわ
ち供え物」として出てくる。――しかし最も重要なことは次のことだ。水星?は仏陀にとって神聖で、
あるていど仏陀と同一視されるものであり、水曜日は仏陀の日なのである。ところでメルクールはマイア
の息子であり、仏陀はマーヤーMaja (摩耶)夫人の息子である。これは偶然ではありえない! シュ
ヴァーベン夫人が「そこに楽人が埋められている」と言うとおりだ。しかし『仏教便覧』三五四頁のノー
トおよび『アジア研究』第一巻一六二頁参照。――

 ある種の祭式で僧に贈られる衣は一日のあいだに織りあげられねばならないと、スペンス・ハーディ
(『東洋の修道生活』一二二頁)は報告しているが、同じことはヘロドトス(二の一二二)も報告して
いる。――

 ドイツ人の元祖はマヌス Mannus とよばれ、その息子はトゥイスコン Thuiskon だ。――『ウプネ
カート』第二巻三四七頁、第一巻九六頁では、最初の人間の名はマン Man とよばれている。――

 周知のようにサトヤヴラティ Satyavrati はメヌ Menu もしくはマヌ Manu と同じものであり――
他方ノア Noa とも同じである。ところでサムソンの父は(土師記・第一三章)マノア Manoe とよば
れている――つまり Manu, Manoe, Noa となる。七十人訳聖書は Μανωε および Νωε と書いてい
る。Noe というのは、まさに Manoe ではあるまいか。つまり最初の綴 ma が脱落したのではないか?――

 エトルリア人ではジュピターにあたる神がティナ Tina とよばれていた。これはシナ語のティエン
Tien と関係があるのではなかろうか? エトルリア人はヒンドゥー教徒のアンナ・プルナを奉じてい
たのではなかろうか。

 こうした類似点はすべてウィルフォードおよびバー (Burr) によって徹底的にしらべられ、『アジア
研究』におさめられている。

117 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/07(水) 20:19:49.94 ID:yWrnr0Bt.net
 性の名誉については、もっときめのこまかい観察が必要であり、この名誉の原則を根本までさかの
ぼってしらべてみる必要があるように思われる。そうすると、もともとすべての名誉は、役に立つかど
うかという考慮に最終的には依存していることが確かめられる。

 性の名誉は、その性質にしたがい、女の名誉と男の名誉に分けられる。そしてこれらは、男女両性の
側から自明の理とされる「団体精神」である。前者は後者よりもはるかに重要である。それは女性の
生活にあっては性関係が眼目だからである。――女の名誉について一般には、娘はいかなる男にも身を
まかせないこと、妻はおのれのつれあいだけに献身することにあると考えられている。この見解の重要
性は次の点にある。女性は男性からすべてを、すなわち、女性が欲し使用するものすべてを求め、期待
している。いっぽう男性は女性から、まず、直接的にただ一つのことを求めている。したがって、男性
は女性からこの一つのことを獲得できるかわりに、すべてに対する配慮を、とりわけ女性との結婚から
生まれでてくる子供たちの面倒をみることをひきうけるような仕組みがつくられなければならない。こ
の仕組みに全女性の幸福が依存している。この仕組みを確立するために全女性はかならず結束し、「団
体精神」を証明しなければならない。だが一団となって結束した女性は、もともと心身ともに力でま
さっているためこの世の財貨のすべてをわがものとしている男性を、共通の敵として打ちやぶり征服し
なくてはならぬ。そして、男性の所有物をわがものとすることによって、この世の財貨のすべてを手に
入れなくてはならない。この目的のため、結婚する以外に男に身をまかせてはならないというのが、す
べての女性にとっての名誉の格率である。こうして女性はだれでも一種の降服である結婚を強いられる
ことになるが、このしきたりによって全女性は扶養を受けることになる。だがこの目的は例の格率をき
びしくまもることによってだけ完全に達せられる。そこで全女性は真の団体精神に燃えて、同性の者す
べてがこの格率を遵守するよう監視する。

118 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/07(水) 20:20:20.85 ID:yWrnr0Bt.net
そうした事情から、婚外交渉をして全女性に裏切り行為をし
た娘は、もしこうした行為が一般化すると全女性の安寧はそこなわれるという理由から、全女性から排
斥され汚名をかぶせられる。こんな娘は名誉を失ったのだとされる。この娘はどの女性も交際するこ
とは許されない。彼女はまるでペスト患者のように避けられる。同じ運命は姦通した女にもふりかか
る。それはこうした女が、夫に対し行なった降服条件を守らず、こうした例を示すことによって男性
を結婚から尻込みさせるようになるからである。なんといっても結婚に全女性の安寧が依存しているの
だ。だから姦通した女はそのうえ、誓いの言葉を破り、行動をつうじて人をあざむいたために性の名誉ば
かりか、市民の名誉も失う。こうしたことから、かんべんしてやるという意味あいを含めて、「転落し
た娘」という表現が用いられるけれども「転落した妻」とはいわれない。誘惑者は、「転落した娘」の
名誉を結婚をつうじて回復させることはできる。だが姦通した男は、たとい相手の女が離婚したあとで
結婚しても、女の名誉をもとに戻すわけにはいかない。――こうしたいきさつをよく頭に入れ、たしか
に有益なばかりか必要な、それでいてじゅうぶんに計算ずみの、利害にもとくく「団体精神」を女性の
名誉の基礎として認めるならば、女性の生存にとって最も重要であり、絶対的とはいえないまでも相
対的に生とその目的をしのぐほど強力であり、生そのものと引きかえにされるほどの価値を、この団
体精神に与えることになるだろう。こうしたことからすれば、あまりにもはりつめ、悲劇的茶番にまで
変質してしまったルクレティアやウィルギニウスの行為を賞讃することはできないだろう。じつにこう
した点からしても、エミリア・ガロッティの結末はあまりにも不快なものであり、観客はすっかり沈黙
したまま劇場を去ることになる。これに反し、性の名誉が何をいおうと、『エグモント』のクレールヘ
ンには同情せざるをえない。女の名誉原則もあまりにも極端に走ると、他の多くの原則同様、手段のた
めに目的を忘れることになる。

119 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/07(水) 20:20:45.44 ID:yWrnr0Bt.net
それというのは、本来ならば性の名誉は、他のすべての名誉より以上
に、たんに相対的な価値をそなえているだけにもかかわらず、あまりにも過大に考えられるために、絶
対的価値ありとされるようになるからである。いや、そればかりではない。トマジウスの『畜妾論』を
ひもとけば、性の名誉などは単なる慣習的なものだということができよう。『畜妾論』によれば、マル
ティン・ルターの宗教改革まではほとんどいつの時代でもいかなる国でも畜妾は法律的に許され、容認
された制度であり、おめかけさんもそれなりの名誉をもっていた。このさいバビロンのミリッタ(ヘロ
ドトス、一の一九九)のことまで言及する必要はあるまい。もちろん、とくに離婚が行なわれないカト
リックの国々では、結婚という外的形式を不可能とする市民の制度が存在する。だがわたしの考えによ
ると、いやしくも支配する君主たるものは身分の低い家柄の娘と結婚するよりは、側室をおいたほう
がはるかに道徳的に行動することになる。いちど娘を王侯の奥方にまつりあげた家からは、時代が移っ
て王侯の嫡流の子孫が死に絶えたとき、王位継承権を主張する者が現われる。そのため、たしかにきわ
めて遠い因縁にはちがいないけれども、こうした身分違いの結婚から内乱が起こる可能性もある。それ
にもともと身分違いの結婚、すなわち、すべての外的な事情にもかかわらずこれを無視して結ばれた結
婚は、もとを正せば、できるだけ譲ることのないよう配慮すべき二つの階層である女と僧侶に大きな譲
歩をすることになる。さらにどの国でも、男はだれでも好みの女と結婚できるにもかかわらず、一人だ
けはこうした自然の権利を奪われている。その一人とは、哀れな君主であるということを考えに入れて
おく必要がある。君主の手は国に属しており、その手には、国家理性つまり国の福祉にあうかどうかに
よって妻が与えられるのだ。だがそうはいっても君主も人間であり、いつかはおのれの心の好みに応じ
て生きたいと思う。こうしたことからも、君主が愛妾をかかえるのを拒んだり、畜妾を非難するのは不
公平であり、君主に報いる道でもなく、さらにあまりにも偏狭な態度である。

120 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/09(金) 09:44:59.87 ID:T/ikkwBH.net
もっともその場合、愛妾が政治に嘴を入れないということが前提となっていることはいうまでもない。
いっぽうこうした側室たちは、性の名誉については例外的な存在であり、一般的法則から除外されている。
なぜなら彼女たちは、自分たちとしても愛しているし相手からも愛されてはいるものの、けっして相手に
結婚してもらうことはできない男だけに身をささげているからである。――だが一般的に、女の名誉原則
がけっして純粋な自然な源から出たものではないことは、この原則がもたらした数多くの血なまぐさい
犠牲――嬰児殺しや母親の自殺――が証明している。それはともかくとして、法に即さずに身をささげた
娘は、同性全体に対し背信したことになる。ただしこの場合の貞節は、ただ暗黙のものであって、決して
口に出して誓われたわけではない。そしてふつうの場合、問題の娘の利益は最も直接に被害を受けること
になるのだが、それも、彼女が悪いというよりは、彼女があまりにも愚かだったからである。

 男性の性の名誉は女性の性の名誉から派生するのだが、女のそれとはまったく対立した「団体精神」
に依存している。この団体精神は、相手がたにとって有利な降服条件、つまり結婚生活にはいった者は
だれしも妻が結婚の掟を厳守するよう監視することを求めている。それは結婚の掟がなおざりにされ裂
け目が生じてくるうちに、いつのまにかいかげんな結びつきに変化し、男たちがそのすべてを犠牲に
することにより代償として受けとるもの、すなわち妻を独占することすらあぶなくなるようなことが起
きないためである。したがって男の名誉は、妻の不貞を罰すること、すくなくとも離婚によって妻をこ
らしめることを求めている。妻の不貞を知りながらそれをこらえている夫は、仲間の男たちから誹謗さ
れる。そうはいってもこうした男の恥は、性の名誉を失った女がこうむるほど根の深いものではなく、
むしろ「あまり意味のない汚点」にすぎない。なぜなら男というものは、性的な事柄よりも他のもっと
多くのたいせつな事柄にかかわずらっており、性的な事柄は第二義的なものだからである。近世の二人
の偉大な詩人が、ともに二度にわたって男の性の名誉のテーマをとりあげた。

121 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/09(金) 09:45:27.32 ID:T/ikkwBH.net
すなわちシェークスピアが『オセロ』と『冬物語』で、カルデロンが『おのれの名誉の医師』と『秘められた
恥辱には、秘めら れた復讐を』を書いている。それはそれとしてこの名誉は、女を罰することだけを求めており、
単なる 「余分の行為」をしただけの間男の処罰を求めていない。このことからも、この男の名誉の源は男の
「団体精神」であるという仮説の正しさが証明される。――

122 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 21:27:10.06 ID:JjeKtLeM.net
           動物磁気と魔術

 一八一八年、わたしの主著が刊行されたころ、動物磁気ははじめておのれの存在を確保したば
かりであった。しかしこの現象の説明にかんして、たしかに消極面では、つまり患者がどのよう
なありさまになるかについてはいくらかはっきりしてきた。それというのも、ライルが強調した
大脳組織と神経組織の対立が、説明のための原則とされたからである。これに反し、積極面、つ
まり磁力所有者という治療師にこうした現象を起こさせる動因は、いぜんとしてわからないまま
である。そこでありとあらゆる物質による説明原則がさがしだされた。そのなかには、メスマー
のいう万物に浸透する世界エーテル、シュティーグリツが原因としてかかげる磁力所有者の皮膚
からの発汗などが含まれた。それに、神経霊なども説明原則にされたが、これなどは、たんにわ
からない事柄につけられた名称にすぎない。たといこの道に熟練した人の実際のやり方を知った
としても、やっと真相がわかりはじめたというだけのことである。しかしわたしは、こうした磁
気現象から、わたしの学説の直接の保証を得ようなどという気持ちはさらさらない。

 しかし「過ぎ去った日は、これから来る日を教える」ということもある。あの当時から、偉大
な師である経験は、例の現象の深奥にひそむ動因はじつは磁力所有者の意志にほかならないこと
を明らかにした。――もともと磁力所有者から発生した現象は、法則どおりの自然の経過にあま
りにも反する結果を生むために、これはおかしいという疑いがもたれ、絶対に信じないとする者
が出てきたばかりか、かのフランクリンやラボワジエを委員とする委員会によって断罪された。

123 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 21:28:36.10 ID:JjeKtLeM.net
もっとも、この動物磁気に対抗して、第一期および第二期に行なわれたことはすべて、完全に許
容されるべきものであろう。(ただし、イギリスでつい最近まで猛威をふるった、調査ぬきの粗暴
かつ馬鹿げた断罪は別である。)ともかく今日では、洞察をもって治療にあたる者のなかで、現
象の動因が磁気所有者の意志であることについて疑いをさしはさむ者はいないとわたしは信じて
いる。したがって、このことを確証する磁気所有者の無数の発言を例挙するのは余計なことであ
ろう。「欲せよ、そして信ぜよ!」というピュイセギュールおよびフランスの古い磁気所有者の
解答は、たんに時を経ても正しさを保っているばかりでなく、現象自体についての正しい洞察に
まで発展した。キーザーの『大地主義』は動物磁気についての最も基本的かつ詳細な教科書だ
が、この本は、磁気の動きが意志なくしては生起しえないこと、これに反し意志は外的行為なく
してもあらゆる磁気的作用を起こすことができることを、じゅうぶんに指摘している。触診は意
志行為とその方向を固定し、いわば具体化するための一手段にすぎないように思われる。この意
味でギーザー(『大地主義』第一巻三七九頁)は次のように述べ江いる。「人間の行為する活動
(つまり意志〔ショーペンハウアー〕)を最もはっきり表現する器官としての人間の手が、磁気をか
けるさいの活動する器官であるかぎり、磁気的な触診が発生する。」この点については、いっそ
う正確にフランスの磁気所有者ド・ローザンヌが、『動物磁気年刊』一八一四〜一六年・第四刷
のなかで、次のように述べている。

124 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 22:51:47.66 ID:JjeKtLeM.net
 「磁気所有者の活動は、もちろんただ意志によって拘束され
ている。しかし人間は外的な知覚できる形態をもっている以上、人間の使用に供せられるものす
べて、人間に作用するものすべてが、やはり外的な知覚できる形態を必ずもっていなくてはなら
ない。しかも意志が作用するためには、意志は一種の行為を利用しなくてはならない。」わたし
の学説にしたがえば、生体は意志の単なる現象、可視性、客体化、すなわちもともと頭脳のなか
に表象として直観された意志そのものである。したがって、触診という外的行為は内的な意志行
為と一致する。したしたとい触診が行なわれないとしても、同じことを迂路をつうじて人工的に
生起させることができる。空想が外的行為を、ときには人の存在を代用することもあるのだ。し
たがって触診なしで事を行なうのはずっと困難であり、めったいに成功しない。こうした事情から
してキーザーは、夢遊症患者に向かって、大声で「眠りなさい!」あるいは「そうしなくちゃい
けない!」と叫ぶほうが、磁気所有者の単なる意志よりも強力に作用すると述べている。――こ
れに反し、触診や外的行為一般は、もともと、磁気所有者の意志を固定させ活動させるうえで、
誤つことのない手段であう。それというのも、身体やその器官は意志の可視性自体である以上、
意志のまったくない外的行動などはありえないからである。このことからして、磁気所有者がと
きには、意識された意志の努力もなくほとんど無考えに磁気療法を施しても効果を生むことが説
明できる。一般に、磁気的に作用するのは、意志の意識や、それについての反省ではなく、純粋
にすべての表象からできるだけ分離された意志そのものである。したがってキーザーが書いた
(『大地主義』第一巻四〇〇頁以下)磁気所有者のための規則のなかにも、医師および患者が両者
の行為や苦しみについて行なうすべての思考や反省、もろもろの表象がよび起こすあらゆる外的
な印象、医師・患者間のあらゆる会話、あらゆる第三者の介在、それに日光のはいることなどが
はっきりと禁止され、すべてが、共感治療についてもあてはまるように、できるだけ無意識に行
なわれるよう奨められているさまがうかがわれる。

125 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 22:52:13.28 ID:JjeKtLeM.net
 これらすべてについての真の基礎は、ここで
は意志がその本源性において物自体として活動しており、意志からは異なった領域にある第二次
的なるものとしての表象ができるだけ除外されることが要求されている。磁気をかけるにあたっ
てもともと作用するのは意志であり、あらゆる外的な行為は、意志の運搬具にすぎないという真理
を事実のうえから裏づけするものは、磁気に関する最新・良質のすべての著作のなかに見いだ
される。このことをここで繰り返すのは、不必要な脱線であろう。それでもわたしは、そのうち
のひとつを掲げておくことにする。それというのも、この文献がとくに異常だからではなく、意
外な人によって書かれており、そうした人の証言として独特の関心がもたれているからである。その
人とはジャン・パウルである。彼はある書簡(『ジャン・パウルの生活の真相』第八巻一二〇頁
に転載されている)のなかで次のように述べている。「わたしはある大きな会合でK夫人を、だ
れにも悟られないうちにたんに意欲をこめて見ただけで眠らせてしまった。しかもそれ以前に、
K夫人は動悸がしたうえに顔面蒼白となり、S氏が助け舟を出さなくてはならなかった。」今日
でも通常の触診では、患者の手をたんにつかんで保ち、それとともに患者をじっと見つめる方式
が大きな成果をあげている。それというのも、こうした外的な行為が、意志を一定の方向に固定
するのに適しているからである。だが、意志を他人に向かって行使しようというこうした直接の
力を、他のだれよりもまずデュポテ氏とその弟子たちが、奇妙な実験をつうじて明らかにした。
デュポテ氏らは、さらにパリで公開実験を行ない、その間に彼は、いくらかの身ぶりに支援され
た単なる意志によって、縁もゆかりもない人間を思うがままに操縦し、さらには、こうした人び
とに前代未聞の奇妙な体形をとらせるにいたった。このことについての簡単の報告を、一見した
ところきわめてまじめに作成されたカール・ショルの小著『磁気の奇妙な世界への最初の一瞥』
(一八五三年)が行なっている。

126 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 23:18:31.30 ID:JjeKtLeM.net
 いま問題にしていることの正しさを別な角度から保証するものに、『ドレースデンにおける女
夢遊症患者アウグステ・Kにかんする報告』(一八四三年)がある。アウグステは、五三頁で次
のように述べている。「わたしは半分眠っていた。弟が彼の得意な曲を演奏しようとした。しか
しその曲はわたしの気に入らなかったので、わたしは彼に演奏しないように頼んだ。それでも彼
は演奏しようとした。そこでわたしがこれに反抗する賢固な意志をかためたところ、弟はいくら
努力しても、問題の曲を想起することができなくなった。」――しかしこの意志の直接の力は、
生命のない物体にまで及ぶときに最高潮に達する。このことはたしかに信じられないように思わ
れるけれども、ぜんぜん別の方面から伝えられたこれにかんする二つの報告がある。すなわち、
いま紹介した『アウグステ・Kにかんする報告』の一一五、一一六、および三一八の各頁はでは、
証人の引証つきで次のようなことが述べられている。アウグステというこの女夢遊症患者は、磁
石の針をいちどは七度、つぎは四度、四回にわたってくりかえし動かしていたが、そのさい彼女は手
をいっさい用いず、単なる意志の力で、眼を針に注ぐだけで、こうしたことをやってのけたので
ある。――つぎにイギリスの雑誌『ブリタニア』は、一八五一年十月二十三日付の『ガリニャー
ニ通信』にのった次のような記事を紹介している。パリから来た女夢遊症患者プリュダンス・ベ
ルナールは、ロンドンで開かれた公式会議の席上、たんに彼女の頭をあちこちに回すだけで、磁
石の針をそうした頭の動きをそのままに運動させた。そのさい物理学者の息子であるプリュースタ
ー氏と、観衆のなかの二人の紳士が、みずから審査委員の役にあたった。

127 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 23:18:58.17 ID:JjeKtLeM.net
 わたしが物自体、すべての存在における唯一の現実、自然の中核としてかかげた意志が、人間
個人から出発して動物磁気のなかで、さらにはこれを越えて、因果の結合すなわち自然の法則に
よっては説明できないようなこともなしとげるばかりか、自然の法則をいわばご破算にして、現
実に遠隔への作用を行ない、それとともに超自然的な、つまり自然に対する形而上学的支配を行
なうことを、われわれは考察してきた。したがってわたしはこれ以上に、わたしの学説を事実の
うえではっきり裏づけするものを望むことができない。そればかりか、磁力所有者のソパリ伯爵
は、疑うまでもなくわたしの哲学についていっさい知らず、おのれの経験を積み重ねてゆくうち
に、『動物磁気、魂の身体、および生の精髄』(一八四〇年)という自著の題名を説明するため
に、次のような熟考すべき言葉をつけ加えた。「本書の副題はいうなれば、動物磁気の流れはす
べての精神的・肉体的な生の要素であり意志であり、原理であることを物理学的に証明するものと
いうことになろう。」――こういうわけで、動物磁気はまさに実用的形而上学として登場する。
すでに、ヴェルラムのベーコンも諸科学を分類するにあたって(『学問の一大改革』第三巻)、魔
術を、この種のものとして記述した。魔術は経験的あるいは実験的な形而上学ということにされ
たのだ。――さらに動物磁気においては、物自体としての意志が登場するために、単なる現象に
属する「固体化の原理」(空間と時間)はやがて適用しなくなり、個人を分かつ境界は突破される。
磁気所有者と夢遊症患者とのあいだでは、空間はなんの境界でもない。思考および意志運動の共
通性が登場する。透視の状態は単なる現象に属し、空間と時間によって制約された関係である遠
近や、現在と未来を超越する。

128 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 23:35:08.02 ID:JjeKtLeM.net
 このような事実があるために、まったく正反対の主張や偏見があるのにもかかわらず、動物磁
気とその現象はかつての魔術の一部と同じであるという意見が出てきたばかりか、これは確実な
ことだとされるようになった。もともと魔術は悪名高い秘儀で、これをきびしく迫害したキリス
ト教成立後の各世紀ばかりではなく、未開人をも含めた地球上の全民族によって、あらゆる時代
をつうじて信奉されて伝えられてきた。しかも魔術の悪用を、ローマ人の十二表、モーセの五
書、それにプラトンの『法律』第一一章さえ、死罪に値するとしている。アントニウス治下の最
も啓蒙された時代のローマでも魔術がいかに大まじめに受けとられていたかは、アプレイウスが
自分に向けられた、彼の生命をもおびやかす魔術師という訴えに対して法廷で行なった、美しい
自己弁護の言葉が証明している(『魔術についての弁明』ビポンティウム版一〇四頁)。この弁明
のなかで、彼は、おのれに向けられた非難を取り除こうとけんめいに努力したけれども、魔術の
可能性をいっさい否定せず、むしろ中世の魔女裁判で行なわれるのを常としたように、ばかばか
しいほど微に入り細をうがった話をした。ただ十八世紀のヨーロッパだけが、こうした魔術信仰
について例外を形づくっている。しかもそれは、バルタザール・ベッカー、トマジウス、それに
他のいくたりかの人びとが、残忍な魔女裁判を一掃しようという善意から、あらゆる魔術は不可
能であると主張した結果である。十八世紀の哲学にも認められたこうした考えは、学者や教養あ
る階層の人びとの支持を得ただけである。民衆が魔術信仰をやめなかったばかりではない。とく
にイギリスでは、動と反動の法則、酸とアルカリについての法則をこえるようなすべての事実を
とり扱うにあたって、教養ある階層の人びとは、宗教問題についての彼らの品のない炭鉱夫なみ
の信仰と、トーマスあるいはトマジウス流の抜きがたい不信仰とを結合させた。

129 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 23:36:06.27 ID:JjeKtLeM.net
そして彼らは、天上・地上には彼らの哲学が夢想する以上のものがあることを偉大な同国人にはっ
きり語らせようとはしなかった。――往時の魔術の一部は、民衆のあいだではいまでも大っぴらに、
毎日実施されている。こうした魔術は福祉に役立っている。つまり感応療法に使用されているが、
この種の治療の有効性については疑う余地がない。最も普通に実施されているのは疣の感応療法で、
これが効果があることを、慎重で経験的なヴェルラムのベーコンも、すでにおのれの経験にもと
づいて確証している(『森また森』第九九七節)。さらにこれは顔面に生ずる丹毒の治療にもしば
しば効果的であるために、これなら大丈夫という確信をもつことができる。また同様に発熱のさ
いの治療にも成功した例がある。――このさい本源的な動因となるものは無意味な言葉や儀式で
はなく、磁気療法のときと同じく治療にあたる者の意志であることは、すでに磁気について述べ
てきた以上、詳細な説明を必要としないだろう。感応療法の実例は、この種の治療となじみのな
い人でも、キーザーの『動物磁気のための記録』第五巻・第三冊一〇六頁、第八巻・第三冊一四
五頁、第九巻。第二冊一七二頁、それに第九巻・第一冊一二八頁に見いだすことができる。『感
応的手段と治療について』(一八四二年)と題するモスト博士の著書も、この問題と、当面なじ
みになるうえで役立つ。――したがって、動物磁気ならびに感応療法という二つの事実は、経
験のうえから、物理的なるものとは対立する魔術的作用の可能性を確証してくれる。前世紀にお
いては、物理的なるもの、すなわち把握できる因果の結びつきから導かれた作用以外のものが
まったく承認されなかったために、魔術的作用は決定的に非難された。

130 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/11(日) 23:51:41.35 ID:JjeKtLeM.net
 現代になって行なわれたこの種の見解の修正が薬学からはじまったことは、幸運であった。な
ぜならこのことは同時に、意見の振り子が、まったく逆の方向にむかう強い衝動を再びもつこと
はなく、われわれが粗野な時代の迷信にまたもや投げ入れられることがないことを保証している
からだ。しかも、よくいわれているように、動物磁気ならびに感応療法によってその有効さが救
いだされたのは、魔術のなかのごく一部分である。同じ魔術といっても数多くある。その大部分
はさしあたり、昔と同様に有罪の判決を受けたままであるが、それとも死滅したものとみなされ
る。しかし他の一部は、動物磁気と類似していることからも、少なくともありうることだと考え
なくてはなるまい。ということは、動物磁気と感応療法は、治療を目的とする福祉的な作用を及
ぼすのだ。これらの作用は、魔術の歴史のなかで、スペインでいわゆる「サルダドレス」の仕事
として出現したもののやはり教会の有罪宣告をうけた作用と類似している(デルリオ『魔術論』
第三巻二〜四頁および七頁およびボディヌス『悪魔の魔術』第三巻・第二章)。これに反し、魔
術は、ずっとひんぱんに、腐敗した意図のもとに利用されてきた。類比推理をした結果によれ
ば、他人に直接作用しつつ効果的な影響を与えることのできる内在的な力は、少なくとも、他人
に有害に、破壊的に作用する点でも同様に強力であることは確かだ。したがって、動物磁気なら
びに感応療法にもとずくもの以外の古い魔術が有効であるときは、これはまさしく「妖術」、
「たぶらかし」として特筆されているものであり、ほとんどの場合、魔女裁判のきっかけをつ
くっている。前掲のモストの著書のなかにも、明らかに妖術とみなすべき二、三の実例がのって
いる(四〇、四一頁、それに第八九号、九一号、九七号)。またキーザーの例の記録のなかにも、
第九巻から第一二巻までつづく、ベンデ・ベンドセンの病歴をあつかったくだりに、転移させら
れた病気、とりわけこれがもとで死亡したイヌの症例がたくさんのっている。

131 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/12(月) 15:57:08.36 ID:t60GraR1.net
デモクリトスは「たぶらかし」をすでに知っており、これを事実として説明しようと試みたことが、
プルタルコスの『疑問の饗宴』のなかにうかがわれる(第五問、七の六)。もしここに書かれた物語
が真実であるとされるならば、魔法使いによる犯罪の謎を解く鍵となろう。この物語によれば、熱心
な魔女迫害はけっして根拠のないことではない。たしかに、魔女迫害は、ほとんど大多数の場合は誤
謬にもとづくものである。そうはいってもわれわれは、祖先の人びとが、じつはなにごとでもな
い犯罪をあのような残忍なきびしさで何世紀にもわたって迫害するほど眩惑されていたとは、考
えるべきではあるまい。こうした観点からすれば、今日にいたるまで、すべての国において、な
ぜ民衆がある種の病気をがんこに「妖術」のせいであるとし、かたくなにこの考えを変えよう
としないのかがわかってくる。――したがって、たといわれわれが時代の進歩の波に乗って、例
の悪名高き技術の一部を過去数世紀におけるように無益・無価値なものと考えないとしても、
ネッテスハイムのアグリッパ、ヴィールス、ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトらの
著作にふんだんに見うけられるような、いんちき、いかさま、でたらめのごみ箱から、一条の真
理を見いだそうとするときには、他のどんな場合よりも用心が必要である。なぜなら、世界いた
るところにある嘘いつわりでも、自然の法則から離脱し、ひいては自然の法則が廃止されたと宣
言されるところほど、自由に闊歩できる場所はないからである。したがってわれわれは、同じ魔
術でも真であるとされるわずか少数の魔術の貧弱な基盤の上に、このうえもないほどひどい冒険
で埋められた童話と、とてつもないしかめっつらの装飾がついた天までとどくような高い魔術と
いう高層建築が立っているのを見ることになる。しかもこうした魔術のおかげで、血なまぐさい
残忍さが、数世紀にわたって大手を振って行なわれてきた。このように観察してくると、まった
く信じられないそれこそ無限に無意味なことを人間の知性が受け入れている点や、こうしたもの
をひたすら残虐・非道な行動によって封じこめようとする人間の心のあり方を、ぜひ深く心理学
的に研究してみなくてはなるまいという気持ちになる。

132 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/12(月) 15:57:34.51 ID:t60GraR1.net
 今日のドイツの学会で魔術にかんする判断を変化させたものは、ただたんに動物磁気だけでは
ない。こうした判断の変化は、この分野でも他の分野でも、根本的には、ドイツ人の教養と他の
ヨーロッパ諸民族の教養とのあいだに基本的な区別を立てたカントによる哲学の変革によって、
準備された。――すべての秘密の感応、あるいはあらゆる魔術的作用を一笑にふすためには、世
界のことをすべて、すみからすみまで、ことごとく承知していなくてはならない。それにもかか
わらず、およそ平板なまなざしでしか世を見ることができない者が魔術的作用を馬鹿にしてい
る。こうした連中は、われわれがもろもろの謎と不可解な事柄の海中に沈んでおり、直接、事物
についてもわれわれ自身についても、根本的にはなにも知っていないし、わかってもいないとい
うことについての予感すらもちあわせていない。こうした平板な考え方にまっこうから対立する
事実がある。それは、偉大な人物には、そのほとんどすべてが、時代と民族の相違にかかわりな
く、一種の迷信家の傾向があったことである。もし通常の認識方法がわれわれに物自体を、した
がって、物と物のあいだの絶対的に真実な関係や関連を提供してくれるものであったとすれ
ば、もちろんわれわれは、未来のことにかんする予知のすべて、不在の者、死の床にある者、い
わんや死者が出現することのすべて、それに魔術的作用を、ア・プリオリに、したがって無制限
に非難する権利があるであろう。ところが、もしカントが教えるように、われわれが認識するの
は単なる現象であり、その形式・法則は物自体にまで及ばないのであれば、いま述べた魔術作用
などに対する非難が行きすぎであることは明らかだ。それというのも、こうした非難が依存して
いる法則の先験性は法則のあてはまるところを現象界だけに限っており、これに反し、われわれ
自身の内的な自我が属している物自体には法則は無縁だからである。

133 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/12(月) 15:58:07.20 ID:t60GraR1.net
 今日のドイツの学会で魔術にかんする判断を変化させたものは、ただたんに動物磁気だけでは
ない。こうした判断の変化は、この分野でも他の分野でも、根本的には、ドイツ人の教養と他の
ヨーロッパ諸民族の教養とのあいだに基本的な区別を立てたカントによる哲学の変革によって、
準備された。――すべての秘密の感応、あるいはあらゆる魔術的作用を一笑にふすためには、世
界のことをすべて、すみからすみまで、ことごとく承知していなくてはならない。それにもかか
わらず、およそ平板なまなざしでしか世を見ることができない者が魔術的作用を馬鹿にしてい
る。こうした連中は、われわれがもろもろの謎と不可解な事柄の海中に沈んでおり、直接、事物
についてもわれわれ自身についても、根本的にはなにも知っていないし、わかってもいないとい
うことについての予感すらもちあわせていない。こうした平板な考え方にまっこうから対立する
事実がある。それは、偉大な人物には、そのほとんどすべてが、時代と民族の相違にかかわりな
く、一種の迷信家の傾向があったことである。もし通常の認識方法がわれわれに物自体を、した
がって、物と物のあいだの絶対的に真実な関係や関連を提供してくれるものであったとすれ
ば、もちろんわれわれは、未来のことにかんする予知のすべて、不在の者、死の床にある者、い
わんや死者が出現することのすべて、それに魔術的作用を、ア・プリオリに、したがって無制限
に非難する権利があるであろう。ところが、もしカントが教えるように、われわれが認識するの
は単なる現象であり、その形式・法則は物自体にまで及ばないのであれば、いま述べた魔術作用
などに対する非難が行きすぎであることは明らかだ。それというのも、こうした非難が依存して
いる法則の先験性は法則のあてはまるところを現象界だけに限っており、これに反し、われわれ
自身の内的な自我が属している物自体には法則は無縁だからである。

134 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/12(月) 20:54:25.08 ID:t60GraR1.net
ではそれがどんな考え方かというと、われわれの恣意なくしてやってくるすべての表象(感官の表
象のようなもの)は、対象がわれわれを触発するのと別の方式で対象をわれわれに認識させること
はないし、そのさい、対象がそれ自体で何であるかは、われわれには不可解なままであるという
ことだ。それとともに、この種の表象にかんしていえば、われわれが悟性の提供しうるかぎりの
注意力と明瞭さをいかに駆使しようとも、単なる現象の認識に到達するだけで、けっして物自体
に達することはできない。そしてこうした区別が一度なされるやいなや、現象の背後に、現象で
はないなにか別のもの、すなわち物自体を認め、これを受容しなくてはならないという考え方で
もある」(第三版一〇五頁)。

 D・ティーデマンの『魔術の起源問題についての講義』という表題をもつ魔術史(マールブル
クで一七八七年に出版され、ゲッティンゲン学会から懸賞金を受けた論文)を読むと、いついか
なる土地でも、多くの失敗にもかかわらず人類が魔術思想を執拗に追求してきたのに驚かされ
る。そしてこのことから、そもそも魔術思想とは、事物一般とはいわないまでも少なくとも人類
の本性に深く根ざしでおり、けっして勝手に考えだされた気まぐれではないことが推し測られ
る。魔術の定義は著述家によってさまざまだが、根本思想はけっして誤りとされることはない。
すなわち、いつの時代でもどこの国でも、事物の因果の結びつきをつうじてこの世に変化をもた
らそうとする規則どおりの方式のほかに、因果の結びつきにはまったく依存していない別種の方
式がほかに存在しているにちがいない、という考え方が生まれた。

135 :神も仏も名無しさん:2015/10/12(月) 22:48:18.99 ID:ARxayyLi.net
このスレの趣旨って何なのですか?
語られていることはとても興味深いけれど

136 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/13(火) 08:02:24.07 ID:CrHReT3A.net
しがたって、その手段を第一の方式の意味において理解しようとするならば、これは明らかに不合理
このうえもないやりくちのように思われる。それというのも、これぞと意図した結果を生むために用
いられている原因がそれこそ不適当であることが明らかであり、原因・結果のあいだの結びつきが不
可能だからである。ところがこうした方式には、じつはこれから述べるようなさまざまな前提がある。
まず、「物理的な結びつき」もとづくこの世における諸現象間の結合のほかに、すべての事物の本質
を貫く別種の結合があるはずである。これは一種の地下の結合であって、これによって、直接現
象の一点から、他の一点に、形而上学的な結びつきをつじて作用することができる。したがっ
て、事物への内部からの作用においては、外部からの作用とはちがって、すべての現象にわたっ
て同一なる本質それ自身をつうじての現象から現象への作用が可能であるに相違ない。われわれ
が「創造された自然」として因果的に作用するように、われわれは「創造する自然」として作用
することもできるであろう。そして一瞬間、小宇宙を大宇宙としてうちだすことができるだろ
う。固体化と分離の壁はたしかに厚いものがあるが、それでも、いわば舞台裏で、あるいはテー
ブルの下での手品のように、ときには一種の伝達が行なわれる。たとえば夢遊症患者の透視で
は、個人個人によって認識が孤立されているような状態が消滅するのと同様に、個人個人に
よって意志が分断されているありさまがなくなることもありうるのだ。こうしたさまざまの前提
や考え方は、経験にもとづいて発生したものでなければ、たしかにあらゆる時代をつうじてすべ
ての国で保持されてきたとはいえ 経験によって確かめられたわけでもない 。

137 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/13(火) 08:44:29.50 ID:CrHReT3A.net
なぜなら、ほとんどの場合、経験はこうした考えとは逆の姿を見せるからである。したがってわたし
は、全人類をつうじてきわめて一般的に普及しており、もろもろの経験や、通常の人間の分別とはあ
からさまに対立しながらもの、けっして消滅させることのできないこうした考えたかは、きわめて深
いところ、すなわち意志自体の全能さについての内的感情に求められなくてはならないと考えている。
この意志たるや、人間の内的本質であるとともに全自然の内的本質である。またこうした考え方
は、それに結びついた前提、つまり、意志の全能さはいつか、なんらかの方法によって個体から
も発動されるという前提のなかに、求められるべきであるとわたしは考えている、物自体である
意志にとって、そして意志の個々の現象のなかにおいて、いったいどのようなことが可能である
かを探求し分析することはできない。ただ容認できるのは、意志が、ある状況下においては、個
体化の制限を打破することもありうることだ。なぜなら、これまで述べてきた例の感情は、経験
から押しつけられた認識に執拗に反抗し、次のような詩句となって出てくるからだ。

  わたしの胸のなかに住む神は、
  わたしの最も内なるものを深くゆり動かすことができる。
  わたしのすべての力を越えて座を占める神でも、
  なにものをも外から動かすことはできない。

 このようにして展開された根本思想にしたがって、われわれは、魔術のためのあらゆる試みに
おいては使用される物理的手段がつねに形而上的なるものの伝達物であるとみなされたことを
発見する。それというのも、そうでなくしては、明らかにこうした物理的手段は意図した結果へ
の関係をもちえないからである。ともあれこうした手段としては、外国ふうの言葉、象徴的なし
ぐさ、図型、それに蝋人形などがあげられた。しかも例の本源的な感情にしたがって、われわれ
は、こうした伝達物に担われたものは、とどのつまり、つねに、人びとがそれに結びつける意志
の行為であることを発見する。これについてのきわめて自然な契機は、人びとがおのれの身体の
動きのなかに、あらゆる瞬間において、完全に説明不能の、したがって明らかに形而上学的意志
の影響を知覚することであった。

138 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/13(火) 15:56:00.46 ID:CrHReT3A.net
人びとは、こうしたものは他人の身体にまでひろがってゆくことができないだろうかと考えた。
そのための方途を見いだすこと、すなわち、あらゆる個人において意志がおかれている孤立を廃止
し、直接の意志の領域を、意志する人の身体を超越して拡大させることこそ魔術の課題であった。

 そうはいうものの、もともと魔術を発生させたものであるように思われるこうした根本思想
が、ただちに明らかな意識に移行して抽象的に認識され、さらに魔術がおのれ自身をいちはやく
理解するということは、なかなかならなかった。以前の各世紀における主体物に物を考える博
学な著述家のなかだけに、やがてわたしが実例をあげて示すように、意志自体のなかに魔術的な
力が存在しており、悪霊を招きよせたり結びつけたりする手段とされている奇想天外なしるしや
行為、またそれらに随伴する意味のない言葉は、じつは意志の単なる伝達物であり固定手段であ
るといった、はっきりとした思想をもっていたことが見いだされた。さらにそれによって、魔術的
に作用すべき意志行為は、単なる欲望であることをやめて行為となり、(パラケルススが言うよ
うに)「肉体」を獲得し、そのうえ個人の意思についてのいわば明白な説明が行なわれ、個人の
意志はいまや一般的な意志そのものとして力を発揮するようになったことも発見された。なぜな
ら、あらゆる魔術的行為、感応療法、あるいはその種のものにおいては、外的行為(結合手段)は
磁気療法におけるおさすりと同じであって、もともと本質的なものではなく、唯一の本源的な動
因である意志が物質世界へ向かう方向・行くえを定め、これを現実界に出現させるための伝達物
にすぎない。――

139 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/10/13(火) 17:24:48.84 ID:CrHReT3A.net
 あの時代の他の著述家にあっては、例の魔術の根本思想に即して、ひたすら勝
手に自然に対する絶対的支配を実行しようという目的だけがはっきりしている。しかし、こうし
たことは直接的であらねばならないという思想を彼らはうちだすことはできず、ただいちずに間
接的な方途ばかり考えていた。なぜならいたるところで、諸国の宗教は、自然を神々と悪霊の
支配のもとに置いたからである。彼らをおのれの意志どおりに操縦し、使役に従わせるべく強制
しようというのが魔術師の努力であった。自分にとってうまくいってほしいことを、魔術師は神
々や悪霊のせいにした。その間の事情は、かのメスマーがはじめおのれの磁気療法で成功をおさ
めたとき、その原因を真の動因であるおのれの意志ではなく、手にもつ磁石の棒であるとしたの
と同じである。かくしてこのことは、多神教を信ずるすべての民衆に受け入れられた。そして、
プロティノス、とくにイアンブリコスは魔術を神的秘術(トイルギー)として理解したが、こう
した表現をはじめて用いたのはポルピュリオスである。こうした解釈にとっては、多神論という
この神の貴族政体が好都合であった。それというのも多神論は、自然のもろもろの力についての
支配を、少なくともその大多数が人格化された自然力である神々や悪霊に分配しているからであ
る。これによって魔術師は、あるときはこの神、またあるときはあの神をおのれのために獲得し
たり、あるいは使いこなすことができた。ところが全自然が唯一者に服従する神の君主制におい
ては、この唯一者と個人的に同盟を結ぶばかりか唯一者を支配しようと欲することは、あまりに
も大胆すぎる考えであろう。したがって、ユダヤ教、キリスト教、あるいは回教が支配するとこ
ろでは、前述の解釈に対して唯一神が立ちはだかり、これに対しては魔術師としてはなすすべも
なかった。

140 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/13(火) 18:04:31.75 ID:CrHReT3A.net
魔術師は、自然に対していぜんとしていくらか権力をもっているこうした反逆者、あるいは、アリマン
なる悪魔の直接の子孫と同盟を結び、これによってそうしたものからの援助を確実にした。これが
「黒い魔術」である。それではこれに対立する白い魔術とはどんなものかというと、魔術師は悪魔と
親交を結ばず、天使に頼んで唯一神の許可あるいは協力すら求め、たとえばアドナイといった奇妙な
ヘブライ語の名前や題目をしばしば唱えることによって悪魔を呼びだし、悪魔に対してはなんの約束
もしないのにもかかわらず、悪魔に服従を強いるのである。――これが地獄の強制である。――
しかも事物についてのこれらの単なる解釈や表現は、いずれも事物の本質であり、客観的な過程
であるととられた。したがってボディヌス、デルリオ、ビンズフェルトといった、魔術をみずか
ら実施せず他人から聞きかじっただけの著述家のすべては、魔術の本質を、自然力に依存したり
自然の道程を通るのではなく、ただ悪魔の援助によってだけ作用するものであると定義した。たし
かに、場所により、支配する宗教によってニュアンスのちがいはあるけれども、どこでもこうし
た考え方が一般的にあてはまるものと認められたし、いまでもそうなっている。しかもこうした
考え方が魔法使いを禁止する法律や魔女裁判の基礎であった。それと同様に、魔術の可能性を主
張しようとする者は、ふつうこうした考え方に挑戦した。しかし、この問題についてのこうした
客観的な理解や解釈は、古代や中世にヨーロッパで勢いをふるいデカルトによってはじめてゆさ
ぶられた決定的な現実主義のために、当然のことながら、出現せずにはすまされなかった。

141 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/13(火) 21:57:59.98 ID:CrHReT3A.net
それまでは、人類はおのれの内部の秘密に満ちた深奥には理論を展開しようとはせず、すべてをおの
れ自身の外に求めた。そして、おのれのなかに見いだした意志を自然の主人とすることは、当時
の人びとにとってあまりにも大胆すぎる考えであり、もしそうしたものに直面すれば、きっと驚
いて腰を抜かしたであろう。したがって人びとは、意志を虚構の実在に対する主人とした。当時
の支配的な迷信は、意志を少なくとも間接的に自然の主人とするために、自然に対する力を意志
に認めていた。さらにありとあらゆる種類の悪霊や神々は、形而上学的なるもの、すなわち、自
然の背後に横たわり、信者に存在と力を与え、したがって彼らそのものを支配することになるも
のを、人種や党派をとわずすべての信者につねに理解させてくれる基礎である。そういうわけ
で、魔術が悪霊の助力によって作用すると言われるときは、こうした考え方の基礎にはつねにい
ぜんとして、魔術は物理学的ではなく形而上学的な道程をつうじて作用するのであり、また自然
ではなく超自然の作用なのだという意味がある。しかし、われわれが魔術が現実にあることを保
証するいくつかの事実、つまり動物磁気と感応療法のなかに、ほかのときはただ欲望をもつ個人
の内部で勢いをふるうだけだが、これらの場合には欲望をもつ個人の外部にも直接、勢いをふる
う意志の直接作用を認識するとき、さらにまた、わたしがまもなく示すように、そして決定的に
はっきりとした実例をつうじて確かめられるように、古い魔術に通じた人びとは魔術のすべての
作用をただ魔術師の意志だけから導きだしたことを観察するとき、これらのことはすべて、形而
上学的なるもの一般、つまりただ表象の彼方にのみあるもの、世界の物自体は、われわれがおの
れの内部に意志として認めるものにほかならないというわたしの学説を、強力に、しかも経験的
に確かめてくれる。

142 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 13:14:34.75 ID:gNQVgRrb.net
 例の魔術師たちが、意志がときたま自然に対して行使する直接の支配を、たんに間接的な悪霊
の援助によるものと考えたとしても、一般にこうしたことが生起したことが見いだされさえすれ
ば、なにも問題の作用を妨げるものとはならなかった。なぜならこの種の事物においては、意志
はその本源性において、したがって表象とは分離して活動するために、知性の誤った概念が意志
の作用を妨害することはなく、理論と実践がここでは渾然一体となって分離しないからである。
理論が誤っていても実践の邪魔にはならないし、正しい理論も実践には役立たない。メスマーは、
はじめおのれの作用を手に持った磁石の棒のせいであるとし、そののち動物磁気の奇蹟を唯物論
の理論にしたがい、万物に浸透する微妙な流体によって説明したが、それにもかかわらずメスマ
ーの作用は驚くべき力を発揮した。わたしの知っているある地主のところで働いている農夫たち
は、昔から、彼らのあいだで熱病が流行しても、慈愛あふるるご主人のおまじないで治してもら
えるという習慣があった。地主としては、この種のことがすべて不可能であることを確信してい
たけれども、好意にもとづいて、伝統的な方式を用い、農夫たちの意志に従ってきた。するとし
ばしばすばらしい効果をあげた。地主は、農夫たちの深い信頼感のおかげで生じた効果だとおもっ
たが、同じようにまったく効力のない薬がしばしば、信頼感をもつ多くの患者の治療に役立って
いるにちがいないことを、考えてみようともしなかった。

 前述したように、大多数の者にとっては、神的秘術や悪魔学が事物の単なる説明、衣裳、単な
る外殻にとどまるとしても、事物の内部を見ぬき、なんらかの魔術的影響下に作用するものは
まったくもって意志にほかならないことをじゅうぶんに認識した人びとがいないわけではない。
しかし、このように深い洞察を行なった者は、魔術とは無縁であるばかりか魔術に絶対的な態度
をとる人びとのあいだには、見うけられない。

143 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 14:22:37.54 ID:gNQVgRrb.net
しかもこうした縁なき衆生が、大部分の魔術にかんする書物の著者なのだ。彼らは魔術について、たんに
魔女裁判の記録や証人の喚問をつじて知っているだけであり、したがって、たんい外面的なことしか記述
せず、本来の訴訟手続きのなかで被告の自白をつじて明らかにされたことは、魔術使用による恐るべき犯
罪を普及することになるとして黙して語らない。ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトあはこの
種の徒輩である。これに反し、われわれがこの問題の真の本質についての鍵を求めるべき人びとは、迷信
が勢いをふるったあの時代の哲学者や自然探究者である。しかし彼らの陳述には、魔術について
も、動物磁気についても、真の動因は意志にほかならないことがきわめて明瞭に示されている。
このことを敷衍するために、二、三の引用をしなくてはなるまい。ロジャー・ベーコンはすでに
十三世紀に次のように述べた。「だれか悪意をもつ人間が、はっきり他人を害そうと考えるとき、
しかもその人間がはげしくこれを願ったうえに、おのれの意図を明らかにこれにさしむけつつ相
手を真に害することができると確信するとき、自然がその人間の意志に服従するであろうことは
疑う余地がない」(『大著作』ロンドン、一七三三年、二五二頁)。しかし魔術の内的本質につい
て他のだれよりも多くのことを解明し、さらに裁判の訴訟手続きについて詳細に記述することを
恐れなかった人は、ほかならぬテオフラストゥス・パラケルススである(一六〇三年、シュトラ
ースブルクで刊行されたフォリオ版第二巻の著作集。とくに第一巻九一頁、三五三頁以下および七
八九頁、第二巻三六二頁および四九六頁)。彼はまず第一巻一九頁で次のように述べている。

144 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 15:17:19.66 ID:gNQVgRrb.net
「これを蝋人形について見るがよい。もしわたしが自分の意志のなかに、ある他人に対する敵意を
いだいたとしよう。そのとき敵意は、ある媒体つまりなんらかの物体をつうじて実行に移されねば
ならない。したがって、わたしの精神が、わたしの身体のたすけを借りずとも、わたしの熱心な
欲望をつうじて、わたしの剣で他人を刺したり傷つけたりすることもありうる。さらにまた、わ
たしがおのれの意志によって、わたしの敵の精神を人形のなかに具現させ、これをわたしの好き
なように曲げたりこわしたりすることも可能である。……諸君は、意志の作用は医学のなかの重
大な点であることを知るべきである。なぜなら、ある人物に好意をもたないばかりか憎んでいる
者の呪いが実現することは、可能だからである。なぜなら、呪いは精神の曇りから生ずるから
だ。したがって、像が、病気等々になるように呪われることもある、等々。……これらの作用は牛
のなかにも生ずる。しかもその場合は人間よりもずっと容易に生ずる。なぜなら人間の精神は、
牛の精神よりもずっと強く反抗するからである。」

 三五七頁。「このことから像が他人を魅了するということが出てくる。性格の力や同種のもの
からでも、蝋製のマリア像からでもなく、想像力がおのれ自身の星座を克服するために、想像力
はおのれの天の意志、つまりおのれの人間を完成させる手段となる。」

 三三四頁。「人間のすべての想像力は心臓から来る。心臓は小宇宙における太陽である。そし
て小さな小宇宙の太陽から来る人間の想像力は、物となるものの種子である、等々。」

145 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 16:06:46.89 ID:gNQVgRrb.net
 三六四頁。「諸君は、すべての魔術の仕事の発端である厳格な想像力が行なうことをよく知っ
ている。」

 七八九頁。「したがってわたしの思想は、ひとつの目的を洞察することである。わたしはおの
れの手を用い、眼を目標に向けることはできない。こういうことを、わたしの欲するがままにし
てくれるのは、わたしの想像力である。したがって、歩行についても理解すべきことがある。す
なわち、わたしは歩きたいと欲し、そのように決心するために、わたしの身体も動く。わたしの
考えがしっかりしていればいるほど、わたしはさきへ進む。そうしたわけで、想像力だけがわた
しの歩行を動かすものである。」

 八三七頁。「わたしに敵対して用いられる想像力は、わたしが他人の想像力によって殺される
かもしれない以上、慎重に用いられるべきである。」

 第二巻では二七四頁に次のように書いてある。「想像力は欲望と欲情からなる。欲望はねたみ
や憎しみを生じる。なぜなら、こうしたものは自然に生ずるのではなく、諸君がこうしたものに
ついての欲望をもつからである。そこで諸君が欲望をもったとすると、それにつづいて想像力の
いとなみが行なわれる。こうした欲望は妊婦の欲望のように、せっかちではげしく、しかもすば
やい、等々。……ふつうの呪いは一般に実現する。なぜだろう? 呪いは心臓からやってくる。
そして、心臓からやってくるということのなかで、精子ができ生まれてくる。したがって、父の
呪い、母の呪いも、やはり心臓からやってくる。貧しい人びとの呪いもややはり想像力の所産であ
る。等々。囚人の呪いもまた想像力の所産で心臓からやってくる。

146 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 20:15:30.12 ID:gNQVgRrb.net
……こうしたわけで、だれでも、他人をおのれの想像力をつうじて突き刺し、かたわにしようと
するときは、その人間は物と道具をまずおのれのなかにかかえこまなくてはならない。そのあと
その人間はこれを外に放出してもよい。なぜなら、いったん中にはいったものは、たとい思考の
なかであろうとも、あたかもそれが手を用いて行なわれたのと同じように、再び外に出てゆくこ
とになるからだ。……女は男よりも、こうした想像力においてはずっとすぐれている。……それ
というのも、女は報復において男よりも強烈だからだ。」

 同じく二九八頁。「魔術は、ちょうど理性がおおやけの偉大なる愚劣さであるように、偉大な
る隠された賢知である。……魔法に対しては、いかなる鎧を着ても身を守れない。なぜなら魔法
は人間の内なるもの、生命の精神をそこなうからだ。……いくたりかの魔法使いは彼らが心にか
けた人間の形をした像をつくり、釘をその足の裏に打ちこむ。すると当の人間は不可視のものに
打たれ、像から釘が抜きだされるまでずっとそのままでいる。」

 三〇七頁。「われわれは、ただ信仰と強力な想像力によって、あらゆる人の精神をひとつの像
のなかにもちこむことができるということを、知るべきである。……これにはなんらの誓いもい
らない。しかも儀式、円を描くこと、香を焚くこと、封印をすること等々はいずれも純粋の猿ま
ね、まどいにすぎない。……「小人間」と像がつくられる、等々。……そのなかでは人間のすべ
ての作業、力、意志が完成する。……人間の心情は偉大なるものであり、だれでもこれをはっき
り表現することはできない。神そのものが永遠であり不変であるように、人間の心情も永遠であ
り不変である。もしわれわれ人間がわれわれの心情を正しく認識しうるならば、この地上に不可
能なことはないであろう。……星からやってくる完全な想像力は、心情のなかに発生する。」

147 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/14(水) 20:21:38.27 ID:gNQVgRrb.net
 例の魔術師たちが、意志がときたま自然に対して行使する直接の支配を、たんに間接的な悪霊
の援助によるものと考えたとしても、一般にこうしたことが生起したことが見いだされさえすれ
ば、なにも問題の作用を妨げるものとはならなかった。なぜならこの種の事物においては、意志
はその本源性において、したがって表象とは分離して活動するために、知性の誤った概念が意志
の作用を妨害することはなく、理論と実践がここでは渾然一体となって分離しないからである。
理論が誤っていても実践の邪魔にはならないし、正しい理論も実践には役立たない。メスマーは、
はじめおのれの作用を手に持った磁石の棒のせいであるとし、そののち動物磁気の奇蹟を唯物論
の理論にしたがい、万物に浸透する微妙な流体によって説明したが、それにもかかわらずメスマ
ーの作用は驚くべき力を発揮した。わたしの知っているある地主のところで働いている農夫たち
は、昔から、彼らのあいだで熱病が流行しても、慈愛あふるるご主人のおまじないで治してもら
えるという習慣があった。地主としては、この種のことがすべて不可能であることを確信してい
たけれども、好意にもとづいて、伝統的な方式を用い、農夫たちの意志に従ってきた。するとし
ばしばすばらしい効果をあげた。地主は、農夫たちの深い信頼感のおかげで生じた効果だとおもっ
たが、同じようにまったく効力のない薬がしばしば、信頼感をもつ多くの患者の治療に役立って
いるにちがいないことを、考えてみようともしなかった。

 前述したように、大多数の者にとっては、神的秘術や悪魔学が事物の単なる説明、衣裳、単な
る外殻にとどまるとしても、事物の内部を見ぬき、なんらかの魔術的影響下に作用するものは
まったくもって意志にほかならないことをじゅうぶんに認識した人びとがいないわけではない。
しかし、このように深い洞察を行なった者は、魔術とは無縁であるばかりか魔術に絶対的な態度
をとる人びとのあいだには、見うけられない

148 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 11:15:49.59 ID:LUTdVDlz.net
 五一三頁。「想像力はなにかがほんとうに起こるのだという信仰によって確かめられ、完成す
る。なぜなら、あらゆる疑念は仕事をこわすからだ。信仰は想像力を証明しなければならない。
それは信仰が意志を完結するからである。……しかし人間がつねに完全に想像し、完全に信仰す
るということから、技術はたとい完全・確実なものであるとしても、やはりあてにならぬものと
いわねばならない。」――この最後のくだりの説明のためには、『精神と魔術の意味について』の
カンパネッラの著書の一節が役立つであろう。「外からの影響によってただ〔できないと〕信ずる
だけでその人の生殖行為がはたされないようなことが起こってくる。なぜならその人は、自分が
実行できると信じられないことを実行することができないからである。」(第四巻・第一八章)

 同じような意味のことを、ネッテスハイムのアグリッパが『哲学の神秘について』のなかで次
のように述べている。(第一巻・第六六章)。「身体は、他人の身体の影響と同様に、他人の精神の
影響下におかれている。」さらに第六七章にはこう書いてある。「強力な憎しみを感じ命令する精
神は、害を与え破壊する作用をもつ、この間の事情は、精神が〔きわめて〕強力な欲求をかかえて
いる場合にも、つねにあてはまることである。なぜなら、精神が文字、像、言葉、〔会話、〕態度な
どをつうじて行ないかつ命令するものすべてが魂の欲求を支持し、ある種の不可思議な力を獲得
するからだ。それは、この瞬間そうした欲求が魂をとくに満たしたとき作用すべく〔つとめる〕よ
うな力であることもあるし、精神をこうしたゆさぶりにもちこむような天からの〔機会および〕影
響の側から生ずる力であることもある。」――つぎに第六八章はこう述べている。「人間の精神
には、事物や人間を規定し、さらにこれらを精神が欲することに結びつける力が内在している。
そして精神が、おのれの結びつけたものを克服するほどなんらかの情熱ではげしくゆさぶられる
か、あるいは行動力を発揮するとき、すべての事物は精神に服従する。この種の結びつきの原因
は、魂自体のはげしい無制限の興奮である。」

149 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 11:18:15.70 ID:LUTdVDlz.net
しかもこうした縁なき衆生が、大部分の魔術にかんする書物の著者なのだ。彼らは魔術について、たんに
魔女裁判の記録や証人の喚問をつじて知っているだけであり、したがって、たんい外面的なことしか記述
せず、本来の訴訟手続きのなかで被告の自白をつじて明らかにされたことは、魔術使用による恐るべき犯
罪を普及することになるとして黙して語らない。ボディヌス、デルリオ、それにビンズフェルトあはこの
種の徒輩である。これに反し、われわれがこの問題の真の本質についての鍵を求めるべき人びとは、迷信
が勢いをふるったあの時代の哲学者や自然探究者である。しかし彼らの陳述には、魔術について
も、動物磁気についても、真の動因は意志にほかならないことがきわめて明瞭に示されている。
このことを敷衍するために、二、三の引用をしなくてはなるまい。ロジャー・ベーコンはすでに
十三世紀に次のように述べた。「だれか悪意をもつ人間が、はっきり他人を害そうと考えるとき、
しかもその人間がはげしくこれを願ったうえに、おのれの意図を明らかにこれにさしむけつつ相
手を真に害することができると確信するとき、自然がその人間の意志に服従するであろうことは
疑う余地がない」(『大著作』ロンドン、一七三三年、二五二頁)。しかし魔術の内的本質につい
て他のだれよりも多くのことを解明し、さらに裁判の訴訟手続きについて詳細に記述することを
恐れなかった人は、ほかならぬテオフラストゥス・パラケルススである(一六〇三年、シュトラ
ースブルクで刊行されたフォリオ版第二巻の著作集。とくに第一巻九一頁、三五三頁以下および七
八九頁、第二巻三六二頁および四九六頁)。彼はまず第一巻一九頁で次のように述べている。

150 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 12:06:32.02 ID:LUTdVDlz.net
「これを蝋人形について見るがよい。もしわたしが自分の意志のなかに、ある他人に対する敵意を
いだいたとしよう。そのとき敵意は、ある媒体つまりなんらかの物体をつうじて実行に移されねば
ならない。したがって、わたしの精神が、わたしの身体のたすけを借りずとも、わたしの熱心な
欲望をつうじて、わたしの剣で他人を刺したり傷つけたりすることもありうる。さらにまた、わ
たしがおのれの意志によって、わたしの敵の精神を人形のなかに具現させ、これをわたしの好き
なように曲げたりこわしたりすることも可能である。……諸君は、意志の作用は医学のなかの重
大な点であることを知るべきである。なぜなら、ある人物に好意をもたないばかりか憎んでいる
者の呪いが実現することは、可能だからである。なぜなら、呪いは精神の曇りから生ずるから
だ。したがって、像が、病気等々になるように呪われることもある、等々。……これらの作用は牛
のなかにも生ずる。しかもその場合は人間よりもずっと容易に生ずる。なぜなら人間の精神は、
牛の精神よりもずっと強く反抗するからである。」

 三五七頁。「このことから像が他人を魅了するということが出てくる。性格の力や同種のもの
からでも、蝋製のマリア像からでもなく、想像力がおのれ自身の星座を克服するために、想像力
はおのれの天の意志、つまりおのれの人間を完成させる手段となる。」

 三三四頁。「人間のすべての想像力は心臓から来る。心臓は小宇宙における太陽である。そし
て小さな小宇宙の太陽から来る人間の想像力は、物となるものの種子である、等々。」

151 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 12:07:25.19 ID:LUTdVDlz.net
 三六四頁。「諸君は、すべての魔術の仕事の発端である厳格な想像力が行なうことをよく知っ
ている。」

 七八九頁。「したがってわたしの思想は、ひとつの目的を洞察することである。わたしはおの
れの手を用い、眼を目標に向けることはできない。こういうことを、わたしの欲するがままにし
てくれるのは、わたしの想像力である。したがって、歩行についても理解すべきことがある。す
なわち、わたしは歩きたいと欲し、そのように決心するために、わたしの身体も動く。わたしの
考えがしっかりしていればいるほど、わたしはさきへ進む。そうしたわけで、想像力だけがわた
しの歩行を動かすものである。」

 八三七頁。「わたしに敵対して用いられる想像力は、わたしが他人の想像力によって殺される
かもしれない以上、慎重に用いられるべきである。」

 第二巻では二七四頁に次のように書いてある。「想像力は欲望と欲情からなる。欲望はねたみ
や憎しみを生じる。なぜなら、こうしたものは自然に生ずるのではなく、諸君がこうしたものに
ついての欲望をもつからである。そこで諸君が欲望をもったとすると、それにつづいて想像力の
いとなみが行なわれる。こうした欲望は妊婦の欲望のように、せっかちではげしく、しかもすば
やい、等々。……ふつうの呪いは一般に実現する。なぜだろう? 呪いは心臓からやってくる。
そして、心臓からやってくるということのなかで、精子ができ生まれてくる。したがって、父の
呪い、母の呪いも、やはり心臓からやってくる。貧しい人びとの呪いもややはり想像力の所産であ
る。等々。囚人の呪いもまた想像力の所産で心臓からやってくる。

152 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 12:25:45.50 ID:LUTdVDlz.net
……こうしたわけで、だれでも、他人をおのれの想像力をつうじて突き刺し、かたわにしようと
するときは、その人間は物と道具をまずおのれのなかにかかえこまなくてはならない。そのあと
その人間はこれを外に放出してもよい。なぜなら、いったん中にはいったものは、たとい思考の
なかであろうとも、あたかもそれが手を用いて行なわれたのと同じように、再び外に出てゆくこ
とになるからだ。……女は男よりも、こうした想像力においてはずっとすぐれている。……それ
というのも、女は報復において男よりも強烈だからだ。」

 同じく二九八頁。「魔術は、ちょうど理性がおおやけの偉大なる愚劣さであるように、偉大な
る隠された賢知である。……魔法に対しては、いかなる鎧を着ても身を守れない。なぜなら魔法
は人間の内なるもの、生命の精神をそこなうからだ。……いくたりかの魔法使いは彼らが心にか
けた人間の形をした像をつくり、釘をその足の裏に打ちこむ。すると当の人間は不可視のものに
打たれ、像から釘が抜きだされるまでずっとそのままでいる。」

 三〇七頁。「われわれは、ただ信仰と強力な想像力によって、あらゆる人の精神をひとつの像
のなかにもちこむことができるということを、知るべきである。……これにはなんらの誓いもい
らない。しかも儀式、円を描くこと、香を焚くこと、封印をすること等々はいずれも純粋の猿ま
ね、まどいにすぎない。……「小人間」と像がつくられる、等々。……そのなかでは人間のすべ
ての作業、力、意志が完成する。……人間の心情は偉大なるものであり、だれでもこれをはっき
り表現することはできない。神そのものが永遠であり不変であるように、人間の心情も永遠であ
り不変である。もしわれわれ人間がわれわれの心情を正しく認識しうるならば、この地上に不可
能なことはないであろう。……星からやってくる完全な想像力は、心情のなかに発生する。」

153 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 12:28:53.58 ID:LUTdVDlz.net
 五一三頁。「想像力はなにかがほんとうに起こるのだという信仰によって確かめられ、完成す
る。なぜなら、あらゆる疑念は仕事をこわすからだ。信仰は想像力を証明しなければならない。
それは信仰が意志を完結するからである。……しかし人間がつねに完全に想像し、完全に信仰す
るということから、技術はたとい完全・確実なものであるとしても、やはりあてにならぬものと
いわねばならない。」――この最後のくだりの説明のためには、『精神と魔術の意味について』の
カンパネッラの著書の一節が役立つであろう。「外からの影響によってただ〔できないと〕信ずる
だけでその人の生殖行為がはたされないようなことが起こってくる。なぜならその人は、自分が
実行できると信じられないことを実行することができないからである。」(第四巻・第一八章)

 同じような意味のことを、ネッテスハイムのアグリッパが『哲学の神秘について』のなかで次
のように述べている。(第一巻・第六六章)。「身体は、他人の身体の影響と同様に、他人の精神の
影響下におかれている。」さらに第六七章にはこう書いてある。「強力な憎しみを感じ命令する精
神は、害を与え破壊する作用をもつ、この間の事情は、精神が〔きわめて〕強力な欲求をかかえて
いる場合にも、つねにあてはまることである。なぜなら、精神が文字、像、言葉、〔会話、〕態度な
どをつうじて行ないかつ命令するものすべてが魂の欲求を支持し、ある種の不可思議な力を獲得
するからだ。それは、この瞬間そうした欲求が魂をとくに満たしたとき作用すべく〔つとめる〕よ
うな力であることもあるし、精神をこうしたゆさぶりにもちこむような天からの〔機会および〕影
響の側から生ずる力であることもある。」――つぎに第六八章はこう述べている。「人間の精神
には、事物や人間を規定し、さらにこれらを精神が欲することに結びつける力が内在している。
そして精神が、おのれの結びつけたものを克服するほどなんらかの情熱ではげしくゆさぶられる
か、あるいは行動力を発揮するとき、すべての事物は精神に服従する。この種の結びつきの原因
は、魂自体のはげしい無制限の興奮である。」

154 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 18:19:01.63 ID:LUTdVDlz.net
 またこれと同じようなことを、ユリウス・カエサル・ヴァニヌスが、『隠れた自然の驚異につ
いて』(第四巻・対話五、四三四頁)で次のように述べている。「精神と血液が服従するはげしい
想像力は、表象のなかでとらえられた事物を実際に表現させることができる。それは、内である
と外であるとをとわない。」

 これと同じように、ヨハン・バプティスト・ヴァン・ヘルモントは、魔術において意志を強調
するために、悪魔の影響をっできるだけ値引きしようとさかんに努力した。彼の著作の集大成であ
る『医学提要』から、個々の著作名をあげながら、その一部を紹介してみよう。

 『注射の処法』第一二節。「なんとしても自然の敵(悪魔)は、自分自身ではなにごともなしえ
ないために、女魔術師のなかにはげしい欲望と憎悪の観念を植えつける。こうした精神的・恣意
的な媒体をかりておのれの意志を転移させた悪魔は、すべてに影響を与えようとする努力をする。すな
わちこのために彼は、欲望と恐れの観念をあわせもつ呪いを、最高にいまわしい豚どもに植えつ
ける。――第一三節。「なぜなら例の欲望は空想力における情熱に等しいため、まったく空虚で
はなく、実際に作用し、魔法をひき起こす表象をも生みだすからだ。」――第一九節。「すでに述
べたように、魔法をかける主な力は、女魔術師の自然の表象によって拘束されている。」

 『物質の注射について』第一五節。「女魔術師はその自然な性格からして、想像力のなかに、恣
意的、自然、かつ有害な表象を形成する。……女魔術師は彼女らの自然な力によって作用する。
……人間は自分自身のなかから人をまどわす異様な、流出し命令する媒体を放出する。この媒体
がはげしい欲望の表象である。欲望とこれが欲求されたもののほうに動いてゆくこととは不可分
である。」

 『感応療法について』第二節。「すなわち欲望の表象は、たとい対象が距離的に遠くにあろうと
も、天を通る影響の道を経て大正のなかにはいりこむ。なぜなら、こうした表象は、特別な対象
のなかに向かう欲望によって操縦されるからだ。」

155 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 18:32:22.99 ID:LUTdVDlz.net
『隠れた自然の驚異について』四四〇頁。「アヴィケンナの言をかりれば、ラクダを倒そうと強力に思考
するだけで、その目的を達することができる。」また同書四七八頁で、彼は紐でつくった細工物について
次のように言う。「こうした魔術が使われると、だれしもが女と同居することはできない。」さらにつづ
けて述べるには、「ドイツでわたしはいわゆる死者をよびだす者たちと語りあったが、彼らははっきりと、
民衆が悪霊について伝えることは単なるおしゃべりの生んだ考え方にすぎないと言った。しかし彼らは自
分では、ある種の草木を用いて空想力をゆさぶったり、彼らが考えだした最高に愚劣な呪文に対する強
い信仰と想像力によってなにごとかをなしうると明言した。それも無知な女たちにこうした呪文を教
えたときに起こるのだが、女たちとしては、あの種の祈りの言葉をうやうやしく述べると、ただちに魔
術が行なわれると信じきっている。なんとしても物事を信じやすい女たちがしんそこから呪文の言葉を述
べると、彼女たちがみずから信じているように、言葉や文字の力によってではなく、彼女たちが魔術を
かけようというはげしい欲望に燃えて吐きだす(精気に富んだ)息によって、彼女たちのそばにいる者
どもが魔術をかけられてしまうことになる。そういうわけで、おのれにかんすることでも他人にかん
することでもよい。死霊を呼びだすことにたずさわる者が単独で仕事にかかるときは、不可思議なこ
とはけっして起こらない。それというのも、彼らには、なしとげようとう信仰がなにもないからだ。」

 『磁気療法について』第七六節。「したがって、血のなかにはある種の弾力があって、これが燃
えるような欲望になってゆさぶられると、外的人間の精神をつうじて、現在はそこにないなんら
かの対象のほうに導かれる。この弾力は外的人間には隠されているが、いわば潜在的に存在して
り。そして、この弾力は、想像力が燃えさかる欲望あるいは類似の手段によってたきつけら
れ、みずからもゆさぶられないときには、実効がない。」――

156 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 21:11:39.87 ID:LUTdVDlz.net
第九八節。「完全に精神である魂(つまり肉体的である)が生の息吹、さらに骨や肉を動かしたり
ゆさぶったりするためには、次のような状態にならねばならない。すなわち、魂に内在する力で魔
術的・精神的なるものが、魂から精神や肉体のなかに下降してゆく状態になることである。いかな
る方式によって肉体的精神が魂の命令にしたがうのか、それも、精神とそれにつづいて肉体を動かす
こうした命令が存在しなかったとしたらどうなるかを、言ってほしい。しかし諸君はただちに、こう
した魔術的な運動力について、こうした力がそれ自身の自然な住家にとどまらねばならないことに反
発するだろう。したがって、われわれがこうした力を魔術的なものと名づけたとしても、これはただ
名称の悪用、誤用である。それというのも、本来の迷信的な魔術は、その基礎を魂から得ることがで
きないからである。なんとしても魂は、おのれの肉体の外部でなにものかを動かしたり、変化させ
たり、ゆさぶったりすることはできないであろうと、諸君は反論するであろう。これに対してわ
たしは次のように返答しよう。まず例の魂にとっては自然な、外部に向かって働きかける力と魔
術は、人間が神の似姿であるということによって、すでにひそかに人間のなかに隠されており、
いわば眠っている状態となって、(原罪を犯したあとは)ゆさぶりを求めている。しかしこうした
力と魔術は、たとい眠りこけており、いわば泥酔しているとはいえ、とにかくわれわれのなかに
つねに存在している。こうした力と魔術は、おのれの肉体のなかで機能を果たすぐらいのことは
やってのける。そうしたわけで、人間には魔術についての知識と能力があり、ゆさぶりを受ける
とこれが活動するようになっている。」

157 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 21:41:56.13 ID:LUTdVDlz.net
第一〇二節。「したがって悪魔はこうした力を、彼と契約した者のなかによびさますことになる(こうした力は
普通眠っており、外に向かう人間の意識によって抑圧されている)。こうした力は、強者の手中にある剣のよう
に、魔女の手のなかで自在に用いられる。しかも悪魔は、ただ人間のなかに眠っている霊の力をよびさますこと
だけによって現実の殺人に関与している。」――第一〇六節。「魔女は遠くへだたったところにある厩の馬を殺
すことができる。一種の自然の作用力が、悪魔からではなく魔女から放出される。魔女は馬の息の根をとめ、首
をしめて殺すことができる。」――第一三九節。「わたしは磁気の守護霊を、天からくだってきた霊だとしたこ
とはない。まして地獄からやってきた霊などを問題にしていない。こうした守護霊は、小石のなかに火が発生す
るように人間のなかに発生する。すなわち人間の意志によって、影響力の大きい生命の霊からそのごく一部が取
りだされる。そしてこの一部の霊が理想的な本体となる。つまりおのれを完成するためにいわば一つの形をとる。
こうした本体となった、つまりは形の完成したあとでは、霊は一種肉体的なるものと非肉体的なるものと
の中間の状態になる。しかしこの霊は、意志が操縦するところにはどこにでも向かってゆく。霊
の理想的な本体は……場所、時間、距離といった制限によってなんら妨げられない。これはけっ
して悪霊やその種のものの作用ではなく、われわれにもたいへんなじみがあり親しい人びと、し
かしこうしたものに打たれた人びとの精神的作用である。」

158 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 22:25:07.60 ID:LUTdVDlz.net
第一六八節。「このような巨大な秘密を明らかにするために、わたしはこれまで次のようなことを、手に
とるごとくわかるようにすべくつとめてきた。すなわち、人間のなかには一つの精力があり、そのおかげ
で人間は、単なる意志と空想によっておのれの外部に作用し、ある種の力を発揮することができる。さら
には、持続しつつ、たとい遠くはなれたところにも到達できる影響力を行使することが可能である。」

 さらにポンポナティウスも、(著作集所載の『魔力』一五七六年、四四頁で)次のように述べ
ている。「そうしたわけで、この種の力を自由自在に駆使する人びとが出現することになる。こ
の種の力が想像力と欲望の力によって実際に行使されることになると、そうした作用力は現実に
あらわれ、血と精神に影響してくる。この種の力は蒸発によって外部に働きかけ、同種の作用を
ひき起こす。」

 この種のきわめて注目すべき謎ときを、イギリスのクロムウェル時代における神秘的な女神知
学者で幻視家のポーデージの女弟子ジェーン・リードが行なっている。彼女はまったく独自の道
を歩んで魔術に到達した。おのれの自我とおのれが信ずる神との合一を教えるのがあらゆる神秘
家の持続的な基本であるが、ジェーン・リードもそのひとりであった。しかし彼女の場合には、
人間の意志と神の意志との合一の結果、人間は神の全能にも関与し、これによって魔術的な力を
得るにいたったとする。したがって他の魔術師が悪魔との同盟に負うと信じているものを、彼女
はおのれの神との合一のおかげであるとした。そこで彼女の魔術は、すぐれた意味において白い
魔術である。そうはいっても、このことは、結果や実践においてなんらの区別をなすものではな
い。彼女の魔術も、当時としては当然のことながら控え目であり、しかも秘密に満ちていた。

159 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 23:19:28.92 ID:LUTdVDlz.net
だが彼女の場合には、魔術が単なる理論の所産ではなく、理論以外の知識や経験から発生したもの
であることがうかがわせる。主要な個所は『啓示のなかの啓示』(ドイツ語訳は、アムステルダム
で一六九五年に出版された)の一二六頁から一五一頁まで、とりわけ、「放出された意志の力」と
いう題がついたあたりに見うけられる。ホルストは、『魔術文庫』第一巻三二五頁以下にこの本の
一部を転載したが、それは一一九頁(第八七および八八節)についての言葉どおりの引用ではな
く、むしろ一種のまとめとなっている。「魔術的な力は、これを所有する者を創造主の状態にお
く。つまり、こうした者に植物=動物=鉱物界を支配させ、更新させる。したがって、一者のな
かで多者が魔術的な力を共同して用いることになれば、自然は楽園のように変化させられるこ
とになろう。……われわれはいかにしてこうした魔術的な力に到達できるだろうか? それは、
信仰をつうじての新生によって、つまりわれわれの意志と神の意志との一致によって行なわれ
る。なぜなら、われわれの意志と神のそれとの一致の結果、パウロの言うように、すべてがわれ
われのものとなり、すべてがわれわれに服従せねばならなくなったあかつきには、信仰は世界を
われわれに隷属させるからである。」ホルストのいわゆる引用はこれまでである。――ジェーン・
リードの著作といわれるものの一三一頁で彼女は、キリストがおのれの奇蹟をおのれの意志の力
によって行ない、そのさいライ病患者に「わたしは清められることを望む」と述べたくだりを次
のように説明した。「しかし彼らが主に対する信仰をいだいていることが確かめられたとき、主
はしばしば彼らの意志に関与された。そのさい主は彼らに向かって、《わたしがおまえたちにし
てあげようと思うことを、おまえたちは欲するのか?》と言われた。こうして、彼らにとって最
善のこと、とりもなおさず彼らが彼らの意志のなかで、ひそかに、主にしていただきたいと願っ
ていることが行なわれた。

160 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/15(木) 23:36:35.31 ID:LUTdVDlz.net
前述した救世主のこうした言葉は、たしかに注目に値する。それとい
うのも、そもそも意志が至高存在の意志と合一しているかぎり、最高の魔術は意志のなかにある
からである。人間の意志と神の意志が車の両輪のように進行し、いわば合体一致ということにな
れば、最高の魔術が出現してくる。」等々。――一三二頁では彼女は次のように書いている。「ど
うして神の意志と合致した意志に反抗することができようか? こうした意志はどんなところで
もおのれの企てを実行できる力をもっている。こうした意志は、おのれの衣裳や力を欠く裸の意
志ではない。こうした意志は克服されざる全能をそなえており、これによって、根こそぎ抜き
とったり、植えつけたり、殺したり、生かしたり、結んだり解いたり、病をいやしたり悪化させ
たりすることができる。そうした力はすべて堂々とした、自由となった意志のなかに集中し、ま
とめられている。さらにわれわれが精霊と一体となるか、あるいいはひとつの霊、本質として合体
したあと、われわれはこうした意志の認識に到達することになろう。」――一三二頁には次のよ
うに書いてある。「魂の混合した要素から生じた多くの各種各様の意志をわれわれはすべて蒸発
させるか、水中に沈めるか、奈落の淵に落とさなくてはならない。このような奈落からやがて処
女の意志が出現し、高くのぼってくる。こうした意志は、変質した人間にかかわりのある事物に
隷属することなどけっしてなく、完全に自由に、純粋に、最高・万能の力と結合し、けっして誤
つことなく万能の力と似た果実や結果を生みだすことになる。……かくて精霊の燃えあがる油が
生じ、そのなかから飛散する魔術の火花が燃えあがってくる。」

 ヤーコピ・ベーメも『六つの点の解明』のなかの第五点で、魔術をいまここで述べたのとまっ
たく同じ意味で語っている。とくに彼は次のように述べる。「魔術はすべての実在のなかの実在
の母である。なぜなら魔術はおのれ自身をつくり、欲望のなかで理解されるからだ。――真の魔
術は実在ではなく、実在の欲求する精神である。――結論をいえば、魔術は意志=精神における
行為である。」

161 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/16(金) 00:53:53.88 ID:8kmV8dEq.net
 意志こそ魔術の真の動因であるとして展開された見解を、確証するとはいかないまでもとにか
く説明だけはしてくれるものとして、かのカンパネッラが『事物の感覚と魔術』第四巻・第一八
章でアヴィケンナにしたがって語った次のような奇抜な逸話がある。「数人の婦人が暇つぶしに
どこかの公園に行く約束をした。そのうちひとりはやって来なかった。そこで他の女たちは冗
談にオレンジを取りだし、これを鋭い針で突き刺しながら、次のように言った。《こうやってわ
たしたちは、いっしょに来ようとしなかったあの人を突き刺したのだわ。》そのあと彼女たちが
オレンジを泉のなかに投げ捨て、帰宅すると、不参加だった例の婦人が苦しんでいるのを見いだ
した。彼女は、女たちがオレンジを突き刺してからというものは、まるで鋭い針で体をつきぬか
れたような感じをもちつづけたのだ。彼女は、例の者たちがオレンジから針を抜きとり、彼女の
健康と発展を祈るまでは、たいへん苦しい思いをさせられた。」

 ヌカヒヴァ島で、未開人の僧侶が、殺人的魔術でいわゆる効果をあげているが、この場合のプ
ロセスは現代の感応療法と酷似している。このことについてのきわめて注目すべき詳細な記述を
クルーゼンシュテルンが『世界周航記』(一八一二年)のなかに残している(第一部二四九頁以
下)。――この記述は、ヨーロッパ的伝統とまったく隔絶した土地でもヨーロッパと同様に事が
とり行なわれていることを示していることからしても、とりわけ注目すべきである。この記述と
比較されるべきは、ベンデ・ベンドセンがキーザー編『動物磁気のための記録』の第九巻・第一冊
についての注釈の一二八〜一三二頁で述べたくだりである。ベンドセンは、切りとられた髪をつ
うじてその髪の持ち主に魔法をかけ、頭痛を起こさせたのだ。このことをあつかった注釈の末尾
に彼は次のようなことを述べた。「わたしが経験したかぎりにおいて、いわゆる魔法は悪意の意
志作用と結びついた障害を与える魔術的手段の準備と適用以外のなにものでもない。これこそ悪
魔とのいまわしい同盟である。」

162 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/16(金) 12:38:56.76 ID:8kmV8dEq.net
 クルーゼンシュテルンは次のように述べている。「島民全員から重視されている魔術への
一般的信仰は、島民の宗教になんらかの関係があるように思われた。なぜなら、たしかに民衆の一部
の者は、おそらく他人におのれに対する恐怖心をいだかせて贈物を持ってこさせるために、秘密を保
持しているような顔をしているけれども、島民の話によれば、こうした魔術の力を駆使できるのは僧
侶たちだけだからである。彼らのもとでカハとよばれている魔法は、怨恨をもつ人間を緩慢なやり方
で殺すことである。それに必要とされる期間は二十日間である。そのさい、次のようなしくみで仕事
にとりかかる。すなわちおのれの復讐を魔法によってなしとげようとする者は、ねらった敵の唾液や
大小便を、なんらかの方法を用いて獲得しようとする。これが得られると粉末をまぜ、こうしてでき
た混合物を特別な方式で編んだ袋のなかに入れ、土に埋めるのだ。最も重要な秘密は、袋の編み方と
粉末のこしらえ方である。袋が埋められるやいなや、魔法をかけられた人間に対する作用がはじま
る。この人物は病気になり、日に日にやつれ、もろもろの力が失われて、二十日後には確実に死んで
しまう。逆に、この人間が敵の報復を妨げようとするならば、おのれの命を豚やなにかほかの重要な
贈物によって買いとるようにする。そうすれば、十九日目でも助かることができる。なんとしても袋
が土のなかから堀りだされさえすれば、おかしな病気はたちどころに退散するからだ。この人間は日
に日に回復し、数日後には完全な健康体に戻ってしまう。」

163 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/16(金) 12:50:33.21 ID:8kmV8dEq.net
 これらの著作家がすべて相互に一致していることもさることながら、近年、動物磁気によって
養われた彼らの確信が、結局のところ、わたしの理論的教説にしたがって推し測られるものと一
致していることは、きわめて注目すべき現象である。この点については、成果を生んだかどうか
はともかくとして、これまで行なわれた魔術にかんするあらゆる試みが、わたしの形而上学の先
取りにもとづいていたことが確かである。それというのも、これらの試みのなかには、因果律は
たんに現象の紐帯であり、事物の本質そのものは因果律に拘束されないという意識、さらに、事
物の本質そのもの、したがって、内部から直接自然に働きかけることが可能であるならば、そう
した働きかけは意志そのものをつうじてのみ行なわれるという意識が表明されているからだ。し
かし、もしここでベーコンの分類にしたがって魔術を実用的形而上学と定めるならば、この形而
上学と正しい関係にあるべき理論的形而上学は、世界を意志と表象とに分つわたしの方式以外の
なにものでもない。

 いつの時代にも協会は魔術を迫害したが、その熱心さをローマ教皇庁の『魔女の槌金』という
文書が、まったく恐ろしいばかりに示している。ではなぜそのようになったかというと、それは
たんに、魔術にしばしば結びついている犯罪的意図やまた前提とされる悪魔の関与のせいではな
いように思われる。教会の魔術迫害の熱心さの一部は、教会が自然の外の領域への追放を命じた
原初的な力を魔術が正しい源泉にひきもどそうとしているのではないか、という予感と不安にも
とづいているらしい。こうした憶測を保証するものとしては、心配性のイギリスの聖職者が動物
磁気に対して示す憎悪をはじめ、彼らが同様に無害な卓子回転にきわめて熱心に反対しているこ
と、さらにやはりこれに対して、同じ理由からドイツ・フランスの聖職者もたえず呪いの言葉を
投げつけていることがあげられる。

164 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 01:15:32.89 ID:XmnqGuza.net
    第三二章 狂気について
         (本章は正編第三六節の後半と関係する)


 精神の真の健全さは、追憶が完全であるという点にある。追憶が完全であるとはいっても、もちろん
これをわれわれがすべてを記憶にとどめているという意味に理解してはならない。というのは、来し方
を顧みる旅人には、たどり来った道もその空間が収縮するように、われわれの人生行路も、たどり来っ
たあとではその時間が収縮するからである。個々の年を区別するのが、ときとしてわれわれには困難に
なる日になると、たいていは知るよしもなくなってしまう。しかし事の真相は、まったく同じ出来事が
何度も繰り返され、その像がいわば重なりあって記憶のなかで合流し、個々に識別することができなく
なるにすぎない。これに反し、なにか独特の、あるいは重要な出来事なら、どういう出来事でも記憶を
さぐればふたたび見つけだすことができるに相違ない。もっともこれは、知性が正常で力があり、まっ
たく健全な場合のことであるが。――わたしは正編で、記憶というものは、このように内容がますます
空漠としたものになり、ますます不明瞭なものになりながら、むらなく継続するものであるが、この
記憶の糸の寸断されたものが、すなわち狂気にほかならぬと述べておいた。次の考察が、その確証に役立
てば幸いである。

 健全な人間の記憶は、彼がその目撃者であった出来事に関して、それが確実であることを保証する。
そしてこの確実性は、現に彼が或る事柄を眼前に見聞きしているのと同じぐらい確実で動かしえないも
のと見なされる。そこでこの出来事は、彼が誓言すれば法廷で確認されることになる。

165 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 01:16:23.21 ID:XmnqGuza.net
これに反し、狂気ではないかと疑われるだけでただちに、証人の陳述は無効になる。すなわちここに、精神が
健全かそれとも発狂しているかを判断する基準がある。わたしが、自分の記憶している出来事が実際に起こっ
たかどうかを疑うやいなや、わたしは自分自身に狂気の疑いをかけているのである。もっとも、それが単
なる夢でなかったかどうか自分に確信のない場合は別であるが。他人が、わたしが目撃者として語って
いる出来事の真実性を、わたしの言葉に嘘のないことを信じながら疑うならば、彼はわたしを気違いだ
と考えているのである。がんらい自分が捏造した事件をなんども繰り返して話すうちに、ついに自分自
身の言葉を信ずるようになれば、その人はほんらい、この一点ですでに狂っている。気違いにも、気の
きいた思いつきとか、ひとつひとつをとってみれば賢明な考えとかあるいは正確な判断さえ不可能でな
いことは認めてもよいが、過去の事件に関する彼の証言だけは認めるわけにはいくまい。周知のように釈
迦牟尼の伝記である『普曜経』には、釈迦生誕のおりに、全世界の病ある者はすべて癒え、盲たる
者はすべて物が見えるように、聾せる者はすべて音が聞こえるようになり、狂せる者はすべて「その記
憶を回復した」と語られている。記憶の回復に関しては、二個所にもわたって述べられている。

 これは、わたし自身の多年にわたる経験から推測するようになったことであるが、狂気は、俳優の場
合に比較的もっともひんぱんに現われる。じっさいまたこの連中は、彼らの記憶をなんと濫用すること
であろう。彼らは毎日、新しい役を覚えこむか、古い役を思い出さねばならない。ところがこれらの役
は、すべてなんの関係もなく、それどころか相互に矛盾撞着することさえあり、彼らは毎晩まったく別
な人間になるために自分自身を完全に忘れ去ろうと努力している。これがまさに狂気にいたる道を開く
のである。

166 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 10:05:16.39 ID:XmnqGuza.net
 われわれの利害や誇り、あるいは願望をひどく害する事柄を考えるのが、われわれにとっていかにい
やなことであるか、こうしたことを自分自身の知性でいっそう厳密かつ真剣に調べてみようと決心す
ることがわれわれにとっていかに困難であるか、ところが無意識のうちにそこから飛びだすか、あるい
はこっそり逃げだすほうがわれわれにとっていかに容易であるか、またこれと逆に、愉快な事柄はまっ
たく自然にわれわれの心に浮かび、追い払えばまたしても忍び寄ってきて、そのためわれわれが数時間
もそのことを反芻することがある、などということを思い出せば、狂気の発生に関して正編で述べてお
いたことが、いっそうよく理解できるであろう。意志は、自分の心に染まぬことを知性によって照らし
だすことに抵抗するのであるが、この抵抗が、狂気が精神に襲いかかることのできる場所である。すな
わち、新しい出来事はどんないやな出来事でも、知性によって同化せられねばならないとしても、つま
り、その出来事のために、いっそう満足な事柄が、その事柄のいかんを問わず追いだされねばならない
としても、われわえの意思とその関心に関係のあるもろもろの真理の体系のなかに、このいやな出来事
も席を獲得しなければならない。これがなされてしまえば、この出来事の与える苦痛は、はるかに減少
する。ところがこの同化の操作そのものがしばしば非常に苦しいもので、しかもそれがたいてい、抵抗
を受けながらおもむろにしか逆行しない。ところで、この操作がそのつど正確に遂行される場合にか
ぎって、精神が健全だと言いうるのである。これに反し、或る特殊な場合に、認識した事柄の受容にた
いする意志の抵抗ともがきが激しくなりかの操作が障害なく遂行されなくなると、そのため或る種の出
来事や事情が知性に完全に隠蔽されることになる。それは、意志がそれを見るのに堪えることができな
いからである。そしてつぎに、このために生じた空隙が、関連が必要なため勝手に埋められることにな
る。

167 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 10:23:52.29 ID:XmnqGuza.net
 ――こうして狂気が現われる。というのは、知性が意志の歓心を得るためにその本性を放棄したか
らである。人はいまや、ありもしないものを想像する。とはいえ、こうして生じた狂気が、いまは、忘
れがたい苦悩を忘却させるレーテの河となる。狂気こそ、苦悩を性とするもの、すなわち意志にたいす
る、最後の救治療であったのだ。

 ついでながら、わたしの見解にたいする注目すべき証拠を、ここで述べよう。カルロ・ゴッツィは、
戯曲『トルコの怪物』第一幕・第二場で、忘却をもたらす魔法の飲料を飲んだひとりの人物を登場させ
ているが、この者の所作を見れば、まったく狂人同様である。

 そこで以上述べたところに従って、なにか或る事柄をむりやり「自分の頭から叩きだす」ことが狂
気のもとである、と見ることができる。ところがこの「自分の頭から叩きだす」のは、なにか或る他の
事柄を「自分の頭のなかに押しこむ」ことによってのみ可能なのである。これより稀なのは、経過が逆
になることである。すなわち、「自分の頭のなかに押しこむ」のが第一で、「自分の頭から叩きだす」の
が第二になる。しかし、こういう経過をたどるのは、そのために発狂するにいたった誘因となるものを
つねに念頭に置き、それから脱れることができない場合である。たとえば、多くの恋狂い、色情狂の場
合がそうである。この場合には、誘因となったものが終始頭にこびりついて離れない。また。とつぜん
生じた驚愕すべき出来事から起こった狂気の場合もそうである。こういう患者は、一度思いこんだが最
後、偏執的にそれに執着し、そのため、ほかの考えが、少なくともそれに対立する考えが、どうしても
思い浮かばないのである。しかしこの二つの経過を見ても、狂気の本質は同じである。すなわち、追憶
がむらなく連なりあうことが不可能なのである。ところでこのような追憶が、われわれの健全な、理性
的な思慮の基礎である。――ことによると、ここで述べた、狂気の起こり方に見られる対立は、よく判
断して用いれば、真の妄想を鋭くかつ深く分類するための証拠の代わりにならぬものでもあるまい。

168 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 10:58:25.77 ID:XmnqGuza.net
 ところでわたしがこれまで考察してきたのは、もっぱら狂気の精神的な起源、すなわち、外的・客観
的な誘因によって生ずる起源であった。しかし狂気はそれよりも、純粋に身体的な原因、すなわち、脳
やその外皮の畸形、あるいは局部的な解体とか、また他の病的に衰弱した部分が脳髄に及ぼす影響な
どにもとづく場合のほうが多い。まちがった感覚的直観や幻覚が現われるのは主として、のちにあげた
種類の狂気の場合である。しかしこれら両種の狂気の原因は、たいていは互いに関係しあい、とくに精
神的原因は、身体的な原因を伴う。これは自殺の場合と同様である。自殺が外的な誘因のみによって生
ずるのは稀であって、或る種の肉体的な苦痛が自殺の根底にあり、この苦痛が達する程度に応じて、必
要とされる外部からの誘因が大きくもなれば小さくもなる。苦痛が最高度に達した場合にのみ、外部か
らの誘因がまったく不必要となる。したがって、どれほど大きな不幸であっても、すべての人に自殺を
決心させるとはかぎらず、また、どれほど小さな不幸であっても、それだけでもう自殺へ導く場合があ
る。わたしがここに述べたのは、狂気の精神的な発生で、少なくとも外見上はどう見ても健全な人間の
場合に、大きな不幸によって生ずるたぐいのものであった。ところが、身体的に狂気の強い素質をもっ
た人間の場合には、非常に些細な不満でも発狂するのにじゅうぶんである。たとえば、精神病院へ入れ
られたひとりの男をわたしは覚えているが、その男は兵士だったが上官から「あなた Er」呼ばわりさ
れたために、狂ってしまったのである。肉体的な素質が決定的な場合には、この素質が熟しさえすれ
ば、発狂する誘因はまったく不必要となる。単に精神的な原因から生じた狂気は、思考の歩みを無
理に逆転させることから生じ、そのため逆転によって、どこかの脳髄の部分に一種の麻痺やその他の変
敗を起こし、これは、早いうちに除かないと、永くあとに残ることになる。したがって狂気は、初期に
は治療が可能であるが、かなり時がたてば不可能である。

169 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/22(木) 11:31:32.25 ID:XmnqGuza.net
 発狂を伴わない躁病があるということは、ピネルが説き、エスキロルがこれに反対したが、爾来これ
にたいして、賛否両論が大いに戦わされてきた。しかしこの問題は、経験によって決定する以外方法は
ない。ところで、こういう状態が実際に現われるとすれば、それは次のことから説明できる。すなわ
ち、この場合には、意志は知性の、したがってまた動機の支配と指導から完全に脱れ、そのため意志は
盲目的で凶暴な、破壊的な自然力として登場し、途を塞ぐいっさいの妨害物を壊滅せずんばやまない執
念となって現われるのである。そうなると、このように解放された意志は、堤防を破った河や、騎手を
振り落した馬、制動するねじを抜きとられた時計に等しい。しかし、こういう休止状態に見舞われる
のは、理性すなわち反省的な認識だけであって、直観的な認識までそうなのではない。というのは、直
観的な認識までそうだとすると、意志にはなんの指導も与えられず、人間は動くことができないからで
ある。むしろ躁病患者は、客観〔事物〕に向かって襲いかかるのだから、客観を知覚しているのである。
また彼は、現在の行為を意識もしておれば、あとになってこれを思い出すこともできる。しかし彼に
は、反省、すなわち理性による指導がいっさい欠けており、そこで、現に存在しないもの、すなわち、
過去と未来に関する事柄を熟慮したり顧慮したりすることが、いっさい不可能である。発作が終わり理
性が支配を回復すると、理性の機能は正常に帰る。というのは、この場合には理性自身の活動は狂って
もそこなわれてもあらず、ただ意志が、理性からしばらく脱れる手段を発見したにしぎないからである。

170 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 00:01:19.34 ID:ozNsfsGL.net
     個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁


   人生を支配するは偶然にあらず。調和と秩序とのみ。
                    プロティノス『エンネアデス』四、四巻三五章

 私がここに伝えようとしている考えはしかるべき実を結びそうになく、むしろ形而上学的幻想と
よばれるべきものかもしれない。けれども私はこれを埋もれたままにしておく気になれなかった。少な
くとも同じ問題について自己の抱懐するところと比較するために、これを歓迎する人士もいようから
である。しかしながらかかる人士にたいしては、以下の考えはあらゆる点で、すなわち解決はおろか
問題すらもあやふやなのだ、ということを指摘しておかねばならない。したがって人はここでは断じ
て決定的な解決を期待してはならず、むしろまことにあいまいな事柄の風通しを多少よくしうる程度
と考えてもらいたい。しかもその事柄たるや、おそらくだれの場合にもその人生行路において、ある
いは半生を回顧するにおよんで、心底にしばしば湧きおこったことのあるものである。とはいえ著者
の考察は暗中模索の域を出ないかもしれぬ。暗がりでは何かがありそうにおもえても、どこに何があ
るか、しかとわからぬものなのだ。にもかかわらず私がときとして積極的な、いやむしろ独断的な
調子でものをいう場合ありとすれば、それは、このさいいっておくが、疑問と推測に満ちたいいまわ
しを反復することによって、だらけたしまりのない文章になることを避けるためにほかならない。で
あるから文字どおり深刻におとりにならぬがよい。

171 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 00:17:48.74 ID:ozNsfsGL.net
 個人の人生行路に特殊な摂理ありとし、あるいは出来事を導く超自然のものありとする信念は、い
つの時代にも世人に愛好せられきたったものであり、しかもものを考えるほどの、あらゆる迷信をし
りぞける人びとにおいてさえ、この信念はときに牢乎として抜くべからざるものがあって、しかもな
んらかの既成の教義とのいかなる関連もなしにそういうことになるのである。――まず第一にこの信
念にたいして断言しうることは、それはすべての神信心と同じく、そもそも認識からではなく意志か
ら生じたものだということ、すなわちさしずめわれらの欲求の子なのだということである。というの
は、かかる信念に論拠をあたえたのは認識のみであるとしても、その論拠はおそらくつぎのごとき事
実、つまりわれわれにむかっていろいろと意地悪でうまく仕組んだ陰険な仕打ちをする偶然なるもの
に帰着するからである。かかる場合われわれは偶然のなかに摂理の手を認めるのであり、偶然が、わ
れわれ自身の洞察に反して、いや、われわれが嫌悪した道程をたどって、ありがたい目標にまでわれ
われを誘導してくれたときは、とりわけ明瞭にその手を認めるわけである。このときわれわれは《難
破したとき、わたしは無事航海を終えていた》というのである。選択〔個人が行う選択〕と誘導〔個
人を超えたものからの誘導〕とが相対立することはまぎれもない事実であるが、同時にこの対立は誘導
のほうに有利であると感じられるものだ。まさにこの理由からして、われわれは逆境にあるときも、
「これはなにかのプラスになるかもしれぬ」というたびたび確かめられた言葉でみずからを慰めるこ
とになる。――これはもともと、《偶然は世界を支配しているが、また誤謬を共同統治者にしており、
われわれは等しく両者のもとに隷属しているから、いまわれわれに不幸とおもえるまさにそのことが
幸運であるのかもしれぬ》という理解から生じたものである。かくてわれわれは偶然から誤謬へと訴
えかけることによって、世界支配のひとりの独裁者の仕打ちをのがれて他の独裁者へと移るわけなのだ。

172 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 00:50:04.31 ID:ozNsfsGL.net
 しかしこの点を別としても、単純明白な偶然のなかになにかの意図が隠されているようにおもうの
は、盲蛇におじずの人を食ったものの考え方なのである。けれども私は何ぴともその人生において、
少なくとも一度はこの考えを手にとるようにはっきりつかんだことがあろうとおもう。またこの考え
はあらゆる国民に、またあらゆる信仰箇条とならんで見いだされ、とりわけ回教徒の場合に明瞭であ
る。これは理解の仕方によってはまことに馬鹿げているようにもまた深遠きわまるようにもみえる考
え方であり、他方この考えを立証する実例にたいしては、たといその実例がときには目をみはらせる
ようなものであろうと、いつも次のような非難攻撃が行なわれる。《もし偶然がわれわれの件をじょ
うずに、というよりわれわれの理解や見通しよりももっとじょうずに裁くことがまったくないとすれ
ば、それこそ最大の驚きであろう》と。

 およそ生ずることはすべて例外なしに厳密な必然性のもとに生ずる。ということは、ア・プリオリ
に理解しうる異論のない真理である。私はこれを《論証可能な宿命論》と名づける。これは私の懸賞
論文『意志の自由について』(六二頁)に、先行のあらゆる研究の結果として出ている。この真理を
経験的にかつア・ポステリオリに確証するものは催眠術にかかった夢遊病者、透視力(千里眼)を授
けられた人間、否ときには通常の睡眠中の夢も未来を正確無比に予言するというもはや疑う余地なき
事実である。生ずることはすべて厳密な必然性のもとに生ずるという私の理論が経験的に確かめられ
るのは透視力の場合に最も顕著である。というのは、透視力によってかなり以前に予言せられたこと
が、その後まことに正確に、また予言せられた副次的事態のすべてを伴って生ずることがあり、しか
もそれを払いのけるべく意図的にあらゆる手をつくしたとき、あるいは出来する事柄が、報じられた
未来図のごとくならぬように――少なくとも副次的事態においては――と、努力がなされたときです
ら、やはり結果は同じだからである。

173 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 01:09:22.67 ID:ozNsfsGL.net
 これらの努力はつねに徒労に終わり、まさに予言を無効にする
はずのことがつねにそれを招きよせるのに役立つ。それはまさしく古代人の悲劇や歴史において、神
託や夢で予言された不幸が、それにたいする防遏手段のためにかえって招きよせられるのと同断であ
る。実例として多数のなかからオイディプス王と、ヘロドトスの第一巻三五〜四三章の、クロイソス
とアドラストスの楽しい物語のみをあげておこう。これらの話によく似た透視力の事例がキーザーの
『動物催眠文献』八巻三冊に、正直そのもののベンデ・ベンツェンによって報じられている。(とくに
第四、一二、一四、一六例)。ユング・シュティリングの『幽霊学の理論』一五五節の一例も同様で
ある。さて透視の能力はまれにしか見られぬが、もし逆にありふれたものであったとすると、無数の
出来事が予言せられたとおりに正確に起こり、一切万事は厳密な必然性のもとに生ずるということの
否定しがたい事実的証明が、だれの手にもとどくところに普通に見られることになったであろう。そ
のときには、事柄の経過がいかに純粋に偶然なものに見えようとも、根本においてはしからず、むし
ろすべてのこれらの偶然事そのものが、深く隠されたひとつの必然性(宿命)――偶然その
ものはこれの道具にすぎない――によってとらえられているという点にもはや疑問の余地がなくなる
であろう。この必然性を見ぬくことが古来すべての占卜術(予言術)の努力目標であった。ところで、
想いおこされる実際の占卜術からしていえるのは、じつはあらゆる出来事が完璧な必然性のもとに生
ずるというにとどまらず、それらがなんらかの仕方ですでにあらかじめ決定的かつ客観的に確定せら
れているということ、しかも予言者の目には眼前の事柄として姿を現わす、ということである。もっ
ともこれなどはまだ、因果連鎖の結果としての出来事の必然的出現にすぎない、ということもできよ
う。

174 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 09:23:38.91 ID:ozNsfsGL.net
 いずれにしても《いっさいの出来事のかの必然性は盲目的な必然性ではない》という洞見ある
いはむしろ見方、したがってわれわれの人生行路が計画的かつ必然的に経過するという信念は、いち
だんと高次の宿命論であって、単純な宿命論のごとく証明しうるものではないが、しかもなお各人が
早晩これにつきあたり、各自の考え方に準拠しながら、一時的または永久的にこれに固執するので
ある。われわれはこれを通常の証明可能な宿命論から区別して超越的宿命論とよぶことができる。こ
れは単純な宿命論と違ってほんとうの理論的認識に由来するものでも、また理論的認識に必要な研究
の結果でもなくして――この方面の能力のある人は少ないであろう――、自己の人生行路の諸経験か
ら徐々に沈殿するものなのである。すなわち各人の経験のなかには、とくにきわだって或る種の出来
事があって、それは一方ではとりわけその人にとって大いに目的にかなっているために精神的ないし
内面的必然性という刻印を帯び、他面では外的なまったくの偶然性の刻印をはっきりと帯びている、
ということがあるものだ。かかることがよく起こるので、各個人の人生行路はそれがいかに入りくん
で見えようとも、内部統一のある、一定の傾向と教訓的意味を有する、考えぬかれた叙事詩のごとき
ひとつの全体であるとの見方になり、この見方はしばしば確信ともなるものである。けれども人生行
路をつうじて彼に授けられた教訓は彼の個人的な意思――結局は彼の個人的錯誤なのだが――にのみ
かかわるものであろう。なぜなら計画と全体性は大学教授の哲学が夢想するのとは違って、世界史の
うちにあるわけではなく、個人の人生に存するからである。諸民族というものは概念的に存在するに
すぎず、実在するのは個々の人間である。ゆえに世界史は直接的な形而上学的意義を有せず、元来ひ
とつの偶然的配列にすぎない。私はここで『意志と表象としての世界』正編三五節においてこれらに
ついて述べたところを指摘しておく。――かくて各自の個人的運命について多くの人の心にかの超越
的宿命論が生まれるわけで、自分の生涯を注意深く観察するなら、生涯を織りなす糸がかなりの長さ
にまで紡ぎだされたのちには、おそらくだれにでも一度はこの宿命論に到達する機会が訪れるであろう。

175 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 11:26:30.80 ID:ozNsfsGL.net
 否、人生行路のこまかい点をひとつひとつ考えぬくならば、その行路は彼にとっては、いっさい
が画策されたようにみえることもあろうし、また登場する人間たちは彼にはまるで俳優のようにみえ
もしよう。この超越的宿命論は多大の慰藉となるのみならず、多くの真実をも含んでいよう。ゆえに
いつの時代にもこれは教義として主張されもしたのだ。まことに率直な見解としてここに引用する値
打ちがあるのは、世故にたけた宮廷人の証言、しかもネストルの年齢〔高齢〕に及んでなされたもの
であって、九十歳のクネーベルは一書簡でこう述べている。「仔細に観察すると、たいていの人間の
生涯には一種の計画が存在する。それは自分自身の性質によりあるいはその性質を導く四囲の事情に
よって、いわば彼らの眼前に描きだされたものだ。彼らの生涯の諸状態がいかに変転きわまりないも
のにもせよ、結局はそれらは相互のあいだに或る種の一致がみられるごときひとつの全体として現わ
れる。…………或る特定の運命の手が、いかに隠れて働こうと、手の動きが外的作用によると内的衝
動によるとを問わず、はっきりと姿を現わす。否しばしばその手の進む路で、矛盾する動因が働くこ
とすらある。経過がいかに入りくんでいても動因と方向はつねにそれをとおして姿を現わす」(クネ
ーベル『文学的遺稿』二版、一八四〇年、三巻四五二頁)。

 さて以上に述べた各人の人生行路における計画性はたしかに部分的には、生まれつきの性格の不変
なること、あくまで固定的であることから説明できる。これらは人間をつねに同じ軌道へと連れもど
すからである。各自は自分の性格にとって何が最適であるかということをはなはだ直接的にかつ的確
に認識するがゆえに、一般にはこれを明瞭な反省された意識へと取りあえることをせず、人はいわば
本能的にこれに従って行動する。このたぐいの認識は、明確な意識に達することなく行動へと移行す
すかぎりにおいて、マーシャル・ホールの《反射運動》に比較することができる。

176 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 13:23:11.61 ID:ozNsfsGL.net
この運動によって各人は、みずからに事情の説明できぬまま彼個人に最も適切なものを追求し把握する
のであり、そのさい外からも、また彼自身の誤った概念や偏見からも圧力がかかるわけではない。砂中
で太陽によって孵化され、卵殻からはいでた亀が水を目にしえなくとも、すぐさまその方向へ歩みはじ
めるようなものだ。したがってこれは、唯一の適切な道へと正しく各人を導く心の羅針盤、隠れた性癖
であり、しかもその道が一定の方向を保っていたことは、通過し終えてのちはじめてこれに気づくもの
なのである。――しかしながら外部事情の強い影響や大きな圧力にたいしてはこれでは不十分とおもわ
れる。またその場合、この世で最も大切なもの、つまり多大の行為と心労と苦悩をつうじて購われた人
生行路が(たといこの人生を導く残りの半分、つまり外からくる部分だけにせよ)真に盲目の、そ
れ自身はなにものでもない、いかなる秩序をも欠いた偶然の手から、その部分のすべてを獲得するな
どとは信じられない。むしろ善人はこう考えたい。――《歪象》とよばれる(プイエ、二の一七
一)或る種の像は、肉眼にはゆがんだ不具の怪物にしかみえぬが、円錐形の鏡でみると正常の人間の
形姿となって現われる。――これと同様に世界の過程の純粋に経験的な把握はかの像を肉眼で見るの
に似ており、これにたいして運命の意図を追究するのは散乱せるものを結合し秩序づける円錐鏡での
観察に似る、と。けれども以上の見方にたいしてはこれと対立する見方も成りたつ。すなわち、人生
の出来事に計画的関連性が感じとれるようにみえるにしても、それは、ものごとに秩序をつけ図式を
あてはめようとするわれわれの空想力が無意識に作用するためであり、これは、まったく盲目的な偶
然によって壁面に汚物がまきちらされたのに、そこへ計画的関連性を読みこむ結果、明瞭な美しい人
物像や群像が見てとれるといった場合の空想力に似ている、と。

177 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 17:59:29.16 ID:ozNsfsGL.net
 ところで、われわれにとって言葉の最も高度な真実の意味において正しきもの有益なるものとは、計画
されるのみでついに実現に至らなかったもの、つまりわれわれの脳裏以外には存在せず――アリオストの
《陽の目をみぬ空しき計画》――、偶然による挫折をそのあと一生涯くやまねばならぬもの、おそらくそ
ういったものではなかろうとおもわれる。そうではなくて、現実という大いなる図像のなかにほんとうに
刻印されたもの、それが目的にかなっているところを見とどけたのち、それについてわれわれが確信をも
って《そうなる運命だったのだ》といえるもの、おそらくそういうものであるだろう。したがって、この
意味における偶然と必然の統一によって。この統一のおかげで人生行路を進むさいに、本能的衝動として
現われる内的必然性が、つぎには理性的な熟慮、そして最後に外部からの四囲の状況の働きかけ、これら
が相互に手助けをしあって、人生が終わりをつげたところで、それを円熟し完成したひとつの芸術作品
として現わす。ただしそれ以前、人生の進行の過程においては、着手されたばかりの芸術作品と同じ
く、計画も目的も認識されぬことが多い。けれどもその完成ののち仔細に観察する人ならば、だれで
もかかる人生行路を、慎重きわまる予見と知恵と忍耐の作品として驚きの目をみはるにちがいない。
ところでこの作品の意義は全体的にみれば、それの主体が普通一般のものか、それとも例外異常のも
のかということに応じてきまるものであろう。この観点からすると吾人は、偶然が支配するこの《現
象界の基底にはいたるところ《思惟界》があり、それは偶然そのものをも支配するものだ、とのは
なはだ超越的な思想に達することもできよう。――むろん自然はすべてのことを種族のために行なう
のであって、個体のためにではない。自然にとっては種族こそすべてであり、個体はなきに等しいか
らである。しかしながらわれわれが《作用する》としてここに前提したのは自然ではなく、自然のか
なたにある形而上学的なものであって、これは各個体のうちにおいて完全な不分割の姿で存在し、し
たがってあらゆる個体がそれにあずかるところのものである。

178 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 18:58:32.26 ID:ozNsfsGL.net
 いったいこれらの事物についてはっきりとした考えをもつためには、むろんまず次の問いに答えなく
てはなるまい。人間の性格と運命がまったく相容れないということがありうるのか? ――それとも
大ざっぱにいって、いかなる運命でもいかなる性格にも適合するのか? ――それとも、劇の作者に
も比すべき秘密のとらえがたい不可解な必然性があって、両者をそのつど便宜適合するのであるか?
――だがしかし、まさにここがわれわれの明確にしがたいところなのである。

 一方でわれわれは、一瞬一瞬のわれわれの行為がわれわれの左右しうるものであるごとくに信じて
いる。ところが、自分のいままでの生涯をふりかえり、とりわけわれわれの不幸な歩みとその結末を
眼中においてみると、どのようにしてこれをなしえたのか、またあれを中断しえたのか、という点が
わからぬことがよくある。それで、ほかの力がわれわれの歩みを導いたかのごとくにおもえてくる。
だからシェークスピアも、

  運命よ、力をお見せ。わたしたちではどうにもならぬ。
  定めはまぬかれようがない。なるようになるがよい。
                                『十二夜』一幕五場

といったのだ。

 古代人は詩にせよ散文にせよ運命の全能を飽くことなく強調し、そして運命にたいする人間の無力
を指摘した。いたるところにみられるのだが、これは彼ら古代人にしみこんだ確信であり、彼らは事
物の関連を感じとる場合に、はっきりと経験されるものよりも神秘的な、いっそう深みのあるものに
より強く惹かれた。(ルキアノス『死者の対話』一九、三〇、ヘロドトス『歴史』一巻九一章、九巻一
六章)。

179 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/23(金) 19:52:39.88 ID:ozNsfsGL.net
 ギリシア語中にこの概念を表わす語が豊富なのはこのためで、ポトモス、アイサ、ヘイマル
メネー、ペプローメネー、モイラ、アドラスティア、その他まだあるであろう。これにたいして《プ
ロノイア(先知、先見)》の語は、《ヌース(精神、知性)》すなわち第二次的なものから出ているので、
運命というものの概念を混乱させてしまう。この語によって概念はむろん平板明快になるが、また皮
相で誤ったものにもなってくる。ゲーテも『ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』(五幕)で「われ
ら人間と申すものは、われとわが身が意のごとく導けるものではない。われらが身を左右する力はす
べて魔の手に委ねてあるのじゃ。その彼らが思うままに邪念をふりまわしてわれらの悲運をつくるの
じゃ」と。また『エグモント』(五幕最終場)では「人間というものは、自分では自分の生活を導き自
分みずからの舵をとっているつもりだが、そのじつ内心そのものがあらがう術もなく自分の宿命のほ
うへ誘いよせられてしまうものです」といっている。いやすでに予言者エレミヤはいった。「人の道
はおのれによらず、かつ歩む人はみずからその歩みを定むることあたわざるなり」(一〇章二三節)。
こうしたことはすべて、われわれの行為が二つの要因の必然的所産であることにもとづく。そのひと
つ、われわれの性格は不変で固定しているが、ア・ポステリオリにのみ、すなわち徐々にしか知るこ
とができない。他は動因であってこれは外部にあり、この世の動きによって必然的に招きよせられ、
そして性格を、その固定的特性を前提としつつ機械的ともいうべき一種の必然性をもって限定する。
さてそのような経過をたどるのを判断する自我は認識の主体であり、それ自身は前記の二者にたいし
て無縁のまま、ときにはむろん驚きの目をみはることはあるにしても、たんに両者の作用の批判的傍
観者にすぎない。

180 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 00:22:41.19 ID:sn1aa+Y2.net
 一八五二年一二月二日の『タイムズ紙』に次のような供述がのっている。グロスターシャー
のニューエントで検屍官ラヴグローヴ氏のまえでマーク・レーンなる男の溺死体の検屍が行なわれた。溺
死者の兄弟は《マーク行くえ不明の第一報をきいて、ただちにそれは溺死だ″とわたしは答えました。
それはわたしが昨夜この件を夢で見たからです。わたしは深く水につかりながら彼を引きあげようとした
のです》と陳述した。次の夜彼はまたしてもマークがオクスンホールの水門の近くで溺れ、マークのそば
で鱒が一匹泳いでいる夢を見た。翌朝別の兄弟とともにオクスンホールへ出かけた。するとそこで水中に鱒が
一匹みえた。彼は即座にマークがそこにいるにちがいないと確信し、じっさいその場で死体をみつけた。
――一尾の鱒が眼前を泳ぎさえるといった些細な出来事でさえ、数時間もまえから一秒の狂いもなしに予見
されるわけである!

 過去のいろいろの情景を正確に想いおこしてみると、たくみに構想された小説におけるがご
とく、そこではすべてがじゅうぶんに計画されたもののごとくに見える。

 われわれの行為もわれわれの人生行路もわれわれのなす業ではない。ただしわれわれの本質
と存在は別である――だれもそうは考えぬが。というのは、われわれの行為と人生行路はこの本質と存在
の基礎の上に、また厳密な因果の結びつきのもとで現われる四囲の事情と外的な出来事の基礎の上に、完
璧な必然性をもって進行するからである。したがって人間の生誕のさいすでに彼の人生行路の全部がこま
かい点にいたるまで決定的に定まっているのだ。だからきわめて能力のある夢遊病の女は人生行路を正確
に予見しうるのであろう。われわれの人生行路と行為と苦悩とを考察し評価するにあたって、この大いな
る確実な真理をしっかりと心にとどめておくべきだとおもう。

181 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 01:47:22.19 ID:sn1aa+Y2.net
 ところで、ひとたび以上の超越的宿命論の視点を把握して、さてその立場から個人の人生を観察す
ると、出来事が明らかに物理的(外面的)には偶然であるのに、精神的(内面的)には形而上学的必然
性をもつという対照の著しさに、いかなる演劇にもまさるすばらしさを眼前に見る思いのすることが
ある。しかも形而上学的必然性のほうはけっして論証しえず、むしろ依然として想像されるのみなの
だ。こうした点を万人周知の実例によって――同時にこの実例は極端などころがあるから典型的な例
になるのだが――はっきりと思いえがくには、シラーの『鉄工所への用足し』をみるがよい。フリー
ドリーンの遅刻はミサの務めのためにまったく偶然にひきおこされるが、他方それは彼にとってはな
はだ大切で必要なことなのである。おそらくだれでもじっくり考えてみれば、かりにそれが格別重大
だとかはっきり印象に残るとかいうのではないにしても、自分の人生行路に類似の場合を見いだすこ
とができるにちがいない。かくして次のような見方をせざるをえない人も少なくなかろう。《秘めら
れた説明不可能な或る力がわれわれの人生行路の紆余曲折のすべてを導くが、それはわれわれの一時
の意図にさからってであるにしても、結局は客観的全体と主観的合目的性に副うように、つまりわれ
われの真の幸福に役立つように導くものである》と。だからわれわれは、愚かにも逆向きの願望をい
だいていたのだという事実に遅まきながら気づくこともよくあるわけだ。《運命は意欲ある者を導き、
意欲なき者を引きずる》――セネカ『道徳書簡』一〇七〔一一〕。さてかかる或る種の力はすべての事
物を見えざる糸で引きつらねながら、因果の連鎖がなんら相互の関連もつけずに放置しておく事物を
も連結して、必要なときにそれを出会わせることになろう。つまりこの力は現実生活の種々の出来事
を、あたかも劇詩人が劇中の出来事にたいしてなすがごとくに、思いどおりに動かすであろう。偶
然と錯誤、これはさしむき直接的には事物の規則正しい因果応報をかき乱すものであるから、かの見
えざる手のたんなる道具なのであろう。

182 :私だ:2015/10/24(土) 02:04:58.72 ID:FGNcdKk/.net
池田創価のせいで日蓮が疑われている。
実に危険思想の一面がある。

日本国内だけでも、そろそろ”全日本仏教会”のように”反創価連合”として運動してみてはどうか?
もちろん、「戦争」反対派の創価有志にもチャンスをやろう。
どうかな?

呼びかけようか?

183 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 17:30:23.36 ID:sn1aa+Y2.net
 必然性と偶然性が奥深い根底でひとつにつながっていて、そこからかかる端倪すべからざる力がで
てくるのだ。という大胆な臆説にわれわれが駆りたてられるのは、なによりもまず次のようなことが
考慮されているからである。すなわち、自然的、倫理的、知的な意味での各人独自の個性は、彼という人
間のすべてであり、したがって最高の形而上学的必然性に由来するに相違ない。だがいっぽうこの個
性は(和足が主著続編四三章で明示したごとく)、父親の倫理的性格、母親の知的能力および両者の全
結合の必然的な結果として生ずる。しかも両親のむすびつきはたいていはあきらかに偶然な事情によっ
て惹起されたものだ、ということである。ここにおいて、必然性と偶然性は究極的に統一的たるべし
との要求ないし形而上学的・倫理的要請が抗しがたい力でわれわれに迫ってくる。けれども両者を統
一する根底をはっきりした概念として把握することは不可能であろうと私はみるもので、ただ言いう
るのは、両者はともに古代人が《運命》(ヘイマルメネー、ペプローメネー、ファトゥム)とよ
んだもの、彼らが各人を導く《霊(守護神)》の語で理解したもの、またいっぽうキリスト教徒
が《摂理》として尊重したものであろう、ということである。この三者は、ファトゥムが盲目、
他の二つ――ゲニウスとプロノイア――は目がみえると考えられている点でたしかに相違しているけ
れども、しかしこうした神人同形観的な区別は、事物の内奥の形而上学的本質を問題にするさいには
消滅し、いっさいの意味を失うものである。しかもわれわれはそこに、かの偶然と必然の説明不可能
な一致――人間界万般の神秘的な導き手として現われる――の根本を探究しなくれはならない。

184 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 18:22:22.48 ID:sn1aa+Y2.net
 各個人にそなわっていて、その人生行路に采配を振る《霊》という概念はエトルリア起源とされ、
古代人には広く親しまれていたものである。その中心的内容がプルタルコスの引用したメナンドロス
の詩句にみられる(プルタルコス『心の平静について』一五、ストバイオス『抜粋』一巻六章四節、
アレクサンドレイアのクレメンス『ストロマテイス』五巻一四章)。

  生誕のときからすべての人に良き霊(ダイモン)が、
  人生行路の影の導き手として
  付きそいとなるものだ。

 プラトンは『国家』の末尾で、各人の霊魂が反復される再生をまえにして、自分に適した性格
をくじで引くさまをえがき、次にこういっている。《さてすべての霊魂たちが自分の生涯を選びおえ
たとき、みなくじの順にならんで、ラケシスのところへ進みでた。ラケシスはそれぞれに各自の選ん
だ神霊(守護霊)をつけてやり、生活の守り役、各霊魂の選んだ生活の実行者たらしめた》(一〇巻
〔一六〕六二一)。この個所についてポルピュリオスは熟読の価値ある注解を書き、ストバイオスがそ
れを『抜粋』二巻八章三七節(三韓三六八頁以下、とくに三七六頁)で伝えている。ところでプラト
ンはもう少しまえのところ(六一八)でこれについていう。《神霊が汝らをくじで引きあてるのでは
なく、汝らのほうが神霊を選ぶのだ。最初にひく番の者は最初に生涯を選びとるがよい。その者が必
然的にしばりつけられる生涯を。》――これをホラティウスは美しくいい表わしている。

  それを知るは守護神、生誕を導く友、人間性の神のみ
  そは各々の生涯に即して死すべきもの、
  相貌はうつろいやすく、明るくあるいは暗し。
                             『書簡』二巻の二の一八七〜一八九

185 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/24(土) 22:10:03.84 ID:sn1aa+Y2.net
 これが《霊》について一読に値するアプレイウスの『ソクラテスの神について』二三六頁にあ
り、短いが有意義な一章がイアンブリコス『エジプト人の秘儀について』九の六、《特殊な霊につい
て》にある。さらに注目されるのがプロクロスのプラトン『アルキビアデス』への注解のなかの個所、
クロイツァー版七七頁である。《われわれの全生活を導き生誕以前に選択されたわれわれの人生行路
を現実たらしめるもの、宿命と運命の神々の賜物を分与し、さらに節理の光明を提供し分配するも
の、これこそ霊である。云々。》テオプラストゥス・パラケルススは同じ思想をとりわけ深く把
握してこういっている。「各々の人間が一つの霊を有し、霊は人間の外部に住み、かつその座を上
天の星辰中に置くのは、《運命》がよく認識されるようにするためである。霊は人間が仕える主人の
独自の性格を利用する。出来事の兆を事前と事後に主人に示すのはこの霊だ。これらの兆は出来事の
後までも残るのであり、かかる霊が《運命》とよばれている」(テオプラストゥス『著作集』シュト
ラースブルク、一六〇三年、二巻三六章)。注意すべきは、まさにこの思想がすでにプルタルコスに
みえていることで、地上の肉体のなかに埋めこまれた霊魂の部分のほかに、より純粋な部分が外部の
頭上に浮遊していて、星として現われ、当然のことながら霊(ダイモーン、ゲニウス)とよばれる。
それは彼を導き、また賢い人はすすんでこの霊に従う、というのである。問題の個所はここに全文を
引くには長すぎる。『ソクラテスの霊について』二二章〔五九一E〕にあり、主要な文章は次のごとく
である。《さて肉体内に埋められた部分は霊魂とよばれるが、消滅をまぬかれる部分は多くの人び
とがこれを精神(知力)とよび、自分たちのなかに宿ると考える〔……〕。正しい見方をする人びとは
外部にあると考えており、それをダイモーンとよぶ。》ついでにいえば、キリスト教は周知のごとく
異教徒の神々や霊どもをすべて悪魔にしてしまったが、この古代人の《霊》からは学者や魔術師た
ちの守護神(スピリトゥス・ファミリアリス)をつくりだしたようである。――キリスト教の摂理の
観念はよく知られているから、ここでくどく述べる必要はなかろう。

186 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/25(日) 20:54:01.28 ID:vFtqngRy.net
――ただし以上のすべては、問題になっている事柄の比喩的・寓話的なとらえ方である。一般にわれ
われは、きわめて深遠なかくれた真理を図像や比喩以外の方法でとらえることは不得手なのであるが。

 ところでじつは、外部からの影響をさえ左右するかの隠れた力は、やはりわれわれ自身の神秘的な
内部にしかその根をもたぬのに相違ない。全存在の始めと終りはけっきょくわれわれ自身のうちにあ
るからだ。しかしその単なる可能性でさえ、われわれがこれを見きわめるのは、最も幸運な場合でも
類推と比喩によるのであり、しかもそのわずかなものをさえはるかに遠くから見るのみである。

 さて、かの力の支配の身近な模型をわれわれに示すのは自然の目的性である。それは合目的なるも
のを、目的の認識なしに生ずるものとして示す。外的合目的性、すなわち種々のものとくに異種のも
ののあいだに、無機物にも生ずる合目的性が現われるときにはとりわけそうである。たとえばその著
しい例が流木であって、流木はまさに樹木のない極地方へ海の力で大量に押し流されるものである。
もうひとつの例に、地球の大陸は完全に北極のほうへ偏っていて、北極の冬は天文学的理由で南極よ
りも八日短く、そのためにずっと温和だという事実がある。しかしながら、独立の有機体内で明瞭に
現われる内的合目的性、つまり自然の技術と自然の単なる機構とを、すなわち目的因と作用因とを媒
介する驚くべき一致(これについては私の主著続編二六章三三四〜三三九参照)、この一致からし
てもわれわれは類推によって、いろいろの点、否、遠くへだたった点から発するもの、見かけ上縁な
きものが、それにもかかわらず相互にしめしあわせて究極目的にむかい、そこでぴたりと出会う、し
かもこれが認識によって導かれたのではなくて、あらゆる認識の可能性に先んずる高次な必然性によっ
てそうなる、このような有様をながめわたすことができる。

187 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 00:52:31.43 ID:eYZVTZc/.net
――さらにまた吾人は、カントおよびの
ちにはラプラスによって提唱された惑星系の成因にかんする学説を――これが正確である度合いはか
なり高いであろう――はっきりと思いうかべ、かつ私が主著続編二五章三二四頁で試みた考察方法に
達し、かくして、不変の法則に従う盲目的な自然力の動きからついにこの秩序ある驚嘆すべき惑星の
世界が生じた事情を考えあわせるならば、ここでもまた或る種の類推がえられ、次の事態がありうる
ことを一般にまた遠方から見わたすことができるようになる。すなわち、個人の人生行路さえも、出
来事がしばしば盲目なる偶然の気まぐれのしわざであるにもかかわらず、やはりいわば計画的に導か
れ、その人の真の究極的な幸福にかなうものだ、ということである。かく考えてみると、摂理にかん
する教義はどこまでも神人同形観的な見方であるから、そのまま文字どおりに真実だとはいいえまい
が、しかしそれはひとつの真理の間接的、寓意的かつ神秘的な表現であり、あらゆる宗教的説話と同
様実用向きに、また主観的安心立命のためにはじゅうぶん事足りるものである。たとえばカントの道
徳神学の場合がそうで、これは精神修養のプランとしてのみ、つまり寓意的にのみ理解されるべきもの
である。――要するに一言でいうならば、それは真にあらざるも真に近し、であろう。かの鈍重かつ
盲目的な自然の原動力――その相互作用から惑星系が生じた――において、のちに世界で最も完璧な
現象〔人間〕中に登場する《生への意思》はすでに内部作用者、教導者であり、かつ厳密な自然法則
に従い、目的にむかって活動しつつ、世界とその秩序の建設のための基礎をすでに準備している。た
とえばまことに偶然な衝突ないし震動が黄道の傾斜と公転速度を永久的に決定し、最終結果は、かの
意志の本性全体の現われであるに相違ない。なぜならこの本性はすでにかの原動力そのもののなかで
働いていたのだからである。――さてこれと同様に、ひとりの人間の行動を規定するすべての出来事
と、それを招きよせる因果の結びつきは、この人間自身にも現われるのと同一の意思が客観化された
ものにほかならない。

188 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 11:15:09.83 ID:eYZVTZc/.net
 ここからして、出来事がこの人間の最も特殊な目的にすら合致し適合せざる
をえないことが、たといおぼろげにもせよ見通せるわけで、この意味で出来事は例の神秘的な力を形
づくるのであり、この力が各人の運命を導き、彼の霊とか摂理とかいうふうに寓意的に表現される
わけである。しかしながら純粋に客観的にみれば、これはあくまでもいっさいを包括する例外なしの
一貫した因果連関なのであり――この因果連関によってこそ、生起するいっさいは徹頭徹尾必然的に
生ずるのだが――、この連関は単なる説話ふうの世界支配に取って代わり、否、世界支配を名のる権
利を有するものである。

 以上の論点をいっそう明らかにするには、次の一般的考察が役立つ。「偶然的」とは、因果的に結
びつきのない事柄が時間において出会うことを意味する。ところで絶対的な意味で偶然的なものは皆
無であって、最も偶然的な事柄ですら遠い道から近づいてきた必然的なものにほかならない。因果の
連鎖の上位に位置する決定的な原因が、その事柄がまさに今、つまり他のことと同時に生じなければ
ならぬ、ということをとうの昔に決定的に定めたのだからである。個々の出来事は、時間の方向に前
進する因果の連鎖のひとつひとつの環である。しかしかかる連鎖は無数に、空間というもののおかげ
で相並列して存在する。しかもこれらの連鎖は相互にまったく無縁無関係というわけではなく、むし
ろ十重二十重に入りくんでいる。たとえば、いま同時に作用し、相互にも作用しあういくつかの原因
は、遠く共通の原因から発し、したがってひろりの祖父の曾孫たちのごとく、相互に縁者の関係にあ
る。またいっぽう、いま生ずる結果のひとつひとつは多くの相異なる原因の出会いを要することもし
ばしばあって、これら諸原因のそれぞれは、自分自身の連鎖の一環として過去のなかから近づいて
くるものである。かくて時間の方向に前進するすべての因果の連鎖は共通の、幾重にももつれあった
大きな網をなし、この網が幅いっぱいにひろがりながら時間の方向に移動しつつ、まさにこの世の推
移そのものを形成する。

189 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 16:46:46.14 ID:eYZVTZc/.net
 つぎにわれわれは、かの個々の因果連鎖を時間の方向に走る縦線で思いうか
べてみよう。そうすると、同時的なもの、しかも同時なるがゆえに直接の因果連関なきものはいかな
る場合にも横線で暗示されることができる。むろん同一横線上にあるものが直接相互に依存しあうわ
けではないが、しかし網全体の入りくみ、すなわち時間の方向に進展する因果の全体によって、やは
りそれは間接的には、遠くへだたるにもせよ、なんらかの意味で結びついているのである。したがっ
て現在の同時性は一つの必然的な同時性となる。高度な意味における必然的な出来事が生ずる場合、
それの起こる条件のすべてが偶然に出会うのは右の事情にもとづいている。――つまりそれは運命の
欲した事柄が出来したというべきである。たとえば、民族移動の結果野蛮の潮がヨーロッパに氾濫
したとき、たちまち『ラーオコーン』『ヴァティカンのアポロン』等々のギリシア彫刻の最高傑作は、
舞台の迫り出しを使用するごとくに忽然と姿を消して地下にもぐり、そこで、無傷のまま千年のあい
だ、芸術を解し尊ぶ高尚穏和な時代が来るのを待った。そしてついて十五世紀末、教皇ユリウス二世
の治下にこの時代が到来するや、保存のよい芸術の見本、人間的形姿の真の典型の範例として再び陽
の目をみたということは右の点にもとづいている。また個人の人生行路における重大かつ決定的な動
機や事情が適時に生ずることも、否、最後に、前兆が現われることさえ同じ事情にもとづく。――前
兆にたいする信念は一般に行きわたっていて抹殺しうべくもなく、にわかにものを信じない人びとに
さえもこれがみられるのはまれでない。――というのは、絶対的な意味で偶然的なものは存在せず、
むしろいっさいは必然的に生ずるのであり、人が偶然とよぶ、因果的に関連しないものの同時性さえ
も、必然的な同時性だからである。否、現在同時的なるものは、すでに遠い過去における原因によっ
てそのようなものとして規定されたのだ。

190 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 19:34:29.94 ID:eYZVTZc/.net
 かくていっさいはいっさいのうちに反映し、おのおのはおの
おののうちに反響し、そして有機体における相互作用によくあてはまるかの有名なヒポクラテスの
言葉は事物の総体についてあてはまる。《体流はただ一つ、体気はただ一つ。すべては共感》
(『滋養について』キューン版著作集二巻二〇頁)。――前兆を貴ぶ抜きがたい人間の性癖、内臓所見、
鳥占、聖書占い、カード占い、鉛占い、コーヒー出がらし占い等々は、人間が理性的根拠を欠く次の
ごとき前提に立てることの証左なのだ。すなわち現在の状態、眼前の明瞭なものを手がかりに、時
間的・空間的に隠蔽されたこと、遠くのことや未来のことを認識するのはなんらかの意味において可
能であり、したがって人間は、暗号を解く真の鍵さえ手に入れれば、おそらく占卜からして未知なる
ものを読みとることができもしよう、との前提がそれである。

 いま問題にされている超越的宿命論を別の方面から間接的に理解するのに役立つ第二の模型である
が、これは夢であって、そもそも人生はとうの昔から夢のごとしと認められており、またよくそうい
われてきた。そのためにカントの先見的観念論すらも、意識あるわれわれの存在のあたかも夢のごと
きこの状態をきわめて明瞭に叙述したものとみうるほどである。このことは私の『カント哲学の批判』
でも述べておいた。――かの神秘的な力は自分の目的を達するために、われわれに影響をあたえる外
部の現象をもわれわれ同様に支配し操縦する。ところで、この力がわれわれ自身の不可思議な本性の
奥底に根源をもつのはどのようにしてであるか、という点を漠然とではあるにせよどうにか見とおし
うるのは、この夢との比較によってなのである。すなわち、夢においてもわれわれの行為の動機とな
る四囲の事情は、外的な、われわれから独立した事情として、いやしばしばうとましい事情として、
まったく偶然にぶつかりあう。しかしそれにもかかわらずその事情のなかには神秘的で合目的な結合
があるのだ。

191 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 20:58:09.73 ID:eYZVTZc/.net
 夢のなかのすべての偶然事を支配する隠れた力は、これらの事情をも、もっぱらわれわ
れとの関連において操縦し決定するからである。この場合なによりも不可思議なことは、この力は要
するにわれわれ自身の意思以外のなにものでもありえず、しかもこの意志たるや、或る立場からすれ
ば、われわれの夢見つつある意識のなかへはいってこない、ということである。したがって、夢のな
かの出来事はしばしば夢のなかのわれわれの願望とまったく相反し、われわれを驚倒せしめ、立腹せ
しめ、否、恐怖と死の苦悶につきおとし、しかもわれわれがひそかに自力で操縦している運命はわれ
われを助けにきてくれない、ということになる。また、われわれが熱心にものをたずね、驚くべき答
えを得、あるいはまた――われわれ自身がたとえば試験かなにかの場合のごとく質問を受け、答える
ことができず、ほかのものが肯綮にあたる答えを出してわれわれを恥ずかしめることもある。しかもい
ずれの場合も、解答はわれわれ自身の素質から出る以外には出ているはずがないのだ。夢のなかの出
来事がかくも神秘的にわれわれ自身によって誘導されていることをいっそう明確にし、その過程をよ
り詳細に理解するには、それに適する説明がなおもうひとつあるが、しかしこれははなはだ猥褻なも
のにならざるをえない。ただし私は、本書を読むほどの読者はこれによって不快なショックを受ける
こともまた問題を滑稽な面からとらえることもなかろうとみなす。周知のごとく夢のなかにはその性
質上或る物質的な目的に役立つものがある。たとえば充満した精嚢を空にするという目的に役立つ。
こういうたぐいの夢はむちろんみだらな情景を呈する。しかしかの目的をまったく有しもせず、また達
することもない他の夢も往々にして同じ効果をもつ。ただしここには相違も出てくる。はじめのたぐ
いの夢のなかでは美人やチャンスがすぐに好都合なように到来する。かくして自然はその目的を達す
る。これにたいして第二の部類の夢のなかでは、われわれが最大限に願っている事柄につねに新たな
邪魔がはいり、これを克服せんとしても無駄で、結局は目的に達しない。

192 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 21:38:14.48 ID:eYZVTZc/.net
かかる妨害を行ない、われわれの切なる願いをつぎつぎと挫折させる者はだれかというに、これがわれわれ
自身の意思にほかならぬのである。けれどもそれは、夢のなかで表象を行なう意識をはるかに超えた領域か
らくるのであり、夢のなかでは仮借なき運命として登場する。――現実生活での運命と計画性――おそらく
だれもが自分の人生行路において運命からこの計画性を読みとるのだが――は、夢のなかで示される運命と
類似の事情をもつこともあるのではなかろうか? ときにはこんなことも起こる。われわれがひとつ
の計画を立て、それを鮮明に把握しながらそれがわれわれの真の幸福にとってまったく不都合であっ
たことがあとになって明らかになったりする。われわれがその計画をあくまで熱心に進めようとして
も、これに反対する運命の陰謀を経験することになる。運命は計画を挫折させるべくあらゆるからく
りを動員するからである。かくて運命は結局われわれの意思に反してはんとうにわれわれに適合す
る道へとわれわれを押しもどす。このような抵抗の裏になにか意図がありそうな場合、「そうすべき
ではない」といういい方をする人もいるし、それを不吉とよぶ人も、あるいは神のお導きとよぶ人も
いる。しかしともかくだれもが次の点では同意見である。《運命が或る計画にたいして非常に露骨な
頑固さで反対する場合には、われわれは計画を放棄すべきだろう。なぜなら計画は、われわれにか
んする自分自身すらも知らない決定に適合しないのであれば、実現される可能性がないし、またわれ
われはその計画を意地をはって押していっても、われわれが最後に正道にもどるまでは運命から手き
びしい突きを食うだけであり、あるいはまた、無理な計画遂行が成功したところで、それはわれわれ
の損失と破滅になるだけだからである》と。さきに引いた《運命は意欲ある者を導き、意欲なき者を
引きずる》はここにおいて完全に確かめられたわけだ。或る場合にはかかる計画の挫折がわれわれの
真の福利にとってまことに有益だったことが、あとになって明らかになる。それがわれわれに知られ
ない場合などとくにそうであって、われわれが真の福利を形而上学的・精神的なものとみなすならばと
りわけそういうことになる。――

193 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/26(月) 22:29:44.09 ID:eYZVTZc/.net
 さてそこでわれわれが、私の全哲学の主たる帰結すなわち《世界の
現象を現示し維持するものは、各個体内においても生きて働く意思である》を回顧し、同時に人生
と夢が類似すると一般に認められていることを想起するならば、いままでのいっさいをまとめていう
と、《各人が自分の夢の隠れた舞台監督であるのと同じく、われわれの現実の人生行路を支配するか
の運命も結局はやはりなんらかの仕方で、われわれ自身のものたるかの意思から発しており、しかも
意志は、それが運命として登場する人生行路においては、表象する個体としてのわれわれの意識をは
るかに超えでた領域から作用することが可能だ》と、一般論としては考えられる。これにたいしてわ
れわれの意識は、経験的に認識可能な個人的意思を導く動因を提供し、したがって、この個人的意思
は、運命として現われるかの意志――われわれの導き手である霊、「われわれの外部に住み、かつそ
の座を上天の星辰中に置く霊」――とはげしく相争わねばならぬことが多い。霊は個人の意識を広く
見わたしたうえ、この意識に発見してもらうわけにはいかぬもの、さりとて見のがしてもらいたくも
ないものを、外部からの強制として、仮借なくこの意識にたいして用意し確立する。

 以上の大胆な主張の有する奇怪な側面、否、度はずれた特質を緩和するには、まずなによりもスコ
トゥス・エリウゲナの一節が役立つかもしれない。そこで彼の《神》は認識を有せず、また時間・
空間や十個のアリストテレスの範疇を述語とすることができず、それには、意志という唯一の述語が
残されるだけである――、これはあきらかに私の場合の《生への意思》以外のなにものでもない、と
いうことが注意されねばならない。いわく、《神においては、またもう一種の別の無知がある。すな
わち、神が予知し予定したことも、現実の事物の過程において経験上いまだ現われぬかぎりは、神は
それを知らぬのだといわれる場合がそれである》(『自然の区別について』オクスフォード版八三頁)。
またそのすぐあとでいう。

194 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 09:46:38.49 ID:v3iC3QtK.net
《神の無知の第三の種類とは、行為・行動という経験をつうじて、結果と
して明確に現われたのでないものは、たとい神が、見えざる根拠を自己自身のうちに――みずから造
り、みずからに熟知されたものとして――所有しているにしても、神はこれを知らぬのだ、という場
合のことである》〔同、八十四頁〕。

 さてわれわれは、上述の見方を多少明確にするために、一般に認められている個人生活の夢の類似
性を引き合いに出したわけであるが、他面次のごとき相違にも注意が肝要である。すなわち、ただの
夢にあっては、関係は一方的であって、つまり一個のわたしが意志をもち感情をもつのに、他の人び
とは亡霊にすぎない。ところがこれにたいして人生という大きな夢においては、相互的な関係が生じ
て、甲が、乙の夢のなかでまさにそうあってほしいように登場するのみならず、乙もまた甲の夢のな
かに現われる。かくて現実的な一種の《予定調和》によって各人は、彼自身の形而上学的操縦に従っ
て自分にふさわしいことのみを夢に見、かつあらゆる人生の夢は人為的に入りくんでいるので、各自
は自分に都合のいいものを経験し、同時に他人に必要なことを実行するわけである、したがって世界
的な大事件も数千の人の運命にとって、それぞれの個人に独自の仕方で適合する。であるから、ひと
りの人間の生涯におけるいっさいの出来事は根本的に相違する二種類の関連のうちにあるといえる。
第一は自然過程の客観的・因果的関連であり、第二は主観的関連で、これは出来事を体験する個人と
のかかわりでのみ存在し、かつ彼自身の夢のごとく主観的である。しかし第二の関連においても、出
来事の継起と内容はやはり必然的に規定されているが、ただしそれは、劇の諸幕の継起が劇詩人の計
画によって規定されているがごとくにである。さてこの二種類の関連は同時に成立し、しかも同一の
出来事がまったく相違なる二つの連鎖のひとつの環として両者に適合し、その結果一方の運命はつね
に他方の運命に即応し、各人は自分自身の劇の主人公であり、かつ同時にまた別の劇の端役だという
こと、これはたしかに、われわれのあらゆる理解力を絶するもの、まことに奇異なる《予定調和》に
よってのみ可能と考えられるなにものかである。

195 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 13:35:41.26 ID:v3iC3QtK.net
 けれども他方から考えると、作曲家が彼の交響曲の
一見入り乱れる多数の響きに統一と調和をあたえうるごとく、あらゆる人間の入りくんだ人生行路
もこれと同じ程度の統一と調和を有する、ということがありえないと考えるのは、偏狭な小心者のす
ることではあるまいか? また人生という大きな夢の主体は或る意味では唯一のもの、生への意思で
あること、多種多様な現象は時間と空間に条件づけられていること、などを想起するならば、このス
ケールの大きな思想をまえにしてそうひどくたじろぐこともなくなるであろう。それはかの一つの存
在者(意志)が夢見る大いなる夢である。しかし同時にその夢をすべての人物がともに夢見るわけだ。
だからいっさいは相互にからみあい、適合しあうのである。さて人が以上の点に同意し、あらゆる出
来事のかの二重の連鎖を仮定するならば――この連鎖によって個々の人間存在は一方では自己自身の
ために存在し、その本性に従って必然的に行為し働きかけ、自分の道を進みつつ、他面ではまた別の
存在を把握しかつそれに働きかけるために、夢のなかの像のごとくまったく規定され、適合している
――、もしそう仮定するならば、人はこれを全自然界に、つまり動物や認識なき諸物にも拡張せねば
なるまい。すると前兆、予感および異象がありうるという見込みもでてくる。自然の歩みに従って
必然的に生ずるものもやはりまた他面では、わたしにとっての単なる象徴として、わたしの夢の人生
の点景として、わたしとのかかわりでのみ生じかつ存在し、あるいはわたしの行為や体験の単なる反
映・反響としてみなすこともできるからである。したがって或る出来事の自然的側面と、原因から証
明しうる必然的側面があるからといって、その出来事の吉凶を廃棄しうるわけでもなく、逆に吉凶
が自然性・必然性を排除するわけでもない。もし人が、或る出来事の自然的・必然的な諸原因を非常
に明確に――それが自然現象である場合には学者顔で物理学的に――証明し、それでその出来事の到
来の不可避なことを立証するなら、それは出来事の吉凶を除去したことになるのだ、と考えるとすれ
ば、これはとんでもない誤りを犯しているのである。

196 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 15:41:06.14 ID:v3iC3QtK.net
 理性的な人間はだれもかかるもの〔自然的諸原
因〕を疑わぬし、前兆を奇蹟だなどとは何ぴともいわぬであろう。そうではなくて、無限に後退する
原因・結果の連鎖、その独自な必然性と思議すべからざる予定、これが、この出来事の到来を
かかる重大な瞬間に不可避的なものに定めたのであり、まさにそのことから、その吉凶が生じてくる
のである。だからかの小ざかしい連中にむかっては、とりわけ彼らが物理学を解する場合には、《こ
の天地にはきみの哲学が夢想するよりもずっとたくさんのことがあるのだ》(《ハムレット』一幕五場)
の一句をとくにはっきり聞かせてやるべきである。それにまたわれわれは、前兆を信ずるとすれば占
星術にも門戸が解放されていることがわかる。前兆として通用するごくわずかな出来事、たとえば鳥
の飛びざま、人間のしぐさ等々があたえられた或る時刻において、算定可能な星辰の位置と同じよう
に、無限に遠い、はなはだ必然的な因果連鎖で条件づけられているからである。ただ星辰はむろん非
常に高所にあるから、地球の住民の半分は同時にこれを眺めうるのに反し、前兆は当該個人の圏内で
のみ現われるものである。ちなみに前兆が可能であるということを比喩によって手に取るごとく明ら
かにしたいならば、われわれは、人生行路において、結果がまだ先のことではっきりしないような重
大な場合に一歩を踏みだすにあたり、吉兆あるいは凶兆を目にし、それで警告を受けあるいは勇気づ
けられる人がいるとして、その人を一本の弦に比することもできよう。一本の弦は、弾かれるとき
自分自身の音を聞くことはないが、しかしその振動によって共鳴する他の弦を聞きわけるともいえる
からである。

 カントが物自体をその現象から区別したこと、また私が物自体を意志へ、現象を表象へと還元した
こと、それによって三つの対立のそれぞれを一本化するということが、不完全不十分ながら見通せる
ようになってきた。

197 :神も仏も名無しさん:2015/10/27(火) 15:46:42.56 ID:hN0VNYAB.net
e

198 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 16:01:52.03 ID:v3iC3QtK.net
その対立とは、

(一) 意志の自由そのものと、個人のいっさいの行為を貫く必然性との対立。
(二) 自然の機構と技巧との、すなわち作用因と目的因との、あるいは自然の産出物の純因果的な
説明根拠と目的論的なそれとの対立(これについてはカントの『判断力批判』七八節および私の主著
続編二六章三三四〜三三九頁参照)。
(三) 個人の人生行路におけるいっさいの出来事の明らかな偶然と、それの形成にあずかる精神的
(内的)必然性――これは個人のための超越的合目的性による――との対立。通俗の言葉でいえば自
然過程(自然のなりゆき)と摂理の対立である。

 これら三つの対立のそれぞれを一体化しうるというわれわれの見解は、むろんどの場合にも完全で
はないけれども、第一においては第二の場合よりもはるかに明確であり、第三において最も明確さを
欠いている。他面これら三対立のいずれか一つの一体性を理解することは、よしそれが不完全な理解
であろうと、必ず他の二つに光明をあたえる。つまり比喩ないし象徴として役立つのである。――

 さて最後に、以上考察してきた個々人の人生行路にたいするこの神秘的な操縦は、全体としていっ
たい何を狙いとしたものであるか、という点になると、ごく一般的にしか答えることができない。個
々の場合にとどまるかぎり、かの操縦はわれわれの現世における、一時的な安穏を眼中においている
かにみえることも多い、けれどもこれは、その微弱、不完全、空疎かつ不安定さからみて、まともな
意味でその究極目標ではありえない。だからわれわれは目標をわれわれの永遠の、個人の生活を超え
た存在のうちに求めなくてはならない。その場合ごく一般的にいえるのは次の点である。われわれの
人生行路はかの操縦により次のように調節される。すなわち、人生行路をつうじてわれわれに現われ
てくる認識の全体からして形而上学的にみてまことに有効な印象が意志にむかって生じてくるよう
に、である。

199 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 16:31:44.91 ID:v3iC3QtK.net
 意志は人間の核心であり本性そのものであるからだ。というのは、生への意思は、その
努力の表われとしての世界の歩み一般のなかに解答を得るのであるけれども、しかしやはりおのおの
の人間こそが個別的な唯一の仕方によってかの生への意思となるのであり、いわばかの意志の個体化
された作用だからである。したがってそれへのじゅうぶんな解答は、彼独自の体験においてあたえら
れる、世界の歩みの完全に限定された形成でしかありえない。さて私の真摯な哲学(ただの教授哲学
や冗談哲学に対立する)の結果からして、生からの意思の離脱を現世の生存の究極目標として認識し
たのであるから、われわれは次のように想定しなくてはならない。すなわち各人はそれぞれ自分に適
した仕方で、ときには回り道をしながら、そちらの方向へ徐々に導かれてゆく、ということである。
さらに、幸福と悦楽とは本来この目的をはばむものなのであるから、これに応じて、不幸と苦悩がど
の人生行路にも必ず織りこまれること、しかもその程度はさまざまで、過度になることつまり悲劇的
結末に終わることはきわめてまれであることがわかる。悲劇的結末にさいしては、意志はほとんど暴
力的に生の回避〔死〕へと追いやられ、いわば帝王切開をもって再生に達するごとくにもみえる。

 かくして、見えざる、あるかなきかの光のなかに現われるかの操縦は、人生の本来の結果でありま
たそのかぎりで人生の目的である死に至るまで、われわれに随行するわけである。死の時がくると、
神秘的なすべての力(もともとはわれわれ自身に根をもつものだが)、人間の運命をたえず規定する
力がいっせいに押し寄せてきて行動を起こす。これらの諸力の葛藤からして、彼がいまや歩むべき道
ができあがる。つまり彼の再生がいっさいの快苦とともに準備され、これらの快苦は再生のなかに
含まれ、爾後再び撤回を許されぬように定められる。――臨終の厳粛な重大な荘厳な恐るべき性
格はここにある。臨終は言葉の最もきびしい意味において《分かれ目(危機)》――ひとつの世界審判
なのである。

200 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/27(火) 23:26:35.91 ID:v3iC3QtK.net
     視霊とこれに関連するものについて


   では教えてやろう。
   太陽や星ばかりにこだわらず
   さあ、暗い国へ向かってわたしについて来い。
                              (ゲーテ)

 理知が過度に重んじられた前世紀には、それ以前の時代とはちがい、もろもろの幽霊が、かつての魔
術のように追放され、軽蔑された。ところがこうした幽霊も近々二十五年間にドイツで復興してきた。
それもおかしいとばかりはおそらく言えないだろう。なぜなら、幽霊の存在を否定する論拠のひとつ
はおよそ不確かな理由にもとづく形而上学的な論拠であり、もうひとつは次のようなことしか証明でき
ない経験的論拠だからである。すなわち、偶然にあるいは故意につくられた像が発見されないときは、
光線の反射によって網膜に、あるいは空気の振動をつうじて耳の鼓膜に作用するであろうような、なに
ものも存在しないということしか証明できない論拠なのだ。しかしこの論拠は、いまあるかどうかにつ
いてはだれもはっきり主張できない物体の存在が問題になるときだけ、あるいは物理学的方法を用いて
は霊が存在することの正しさが示されるときだけ通用する。それというのも、もともとすでに霊の概
念のなかには、霊の有無は物体の有無とはまったく異なった方法でわれわれに知らされる、ということ
が含まれているからである。おのれ自身をよくわきまえ、おのれを表現することが巧みな視霊者の主張
は、直観する知性のなかに存在する像は物体によって光と眼をつうじてひきおこされるものの、実際に
はそうした物体が存在しない場合に生ずる像とはまったく区別できないということである。たとえば、
どんなときにこうした像が生ずるのだろう。それはなにかが聞こえてくるとき、すなわち騒音、音声、
響きなどが耳にはいってくるときだ。

201 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 09:07:47.06 ID:qvpiHSzA.net
 これは振動する物体と空気をつうじて耳のなかにもたらされるも
のとまったく同じえある。ところが、じつは振動体があるのでもなく、また振動体が運動しているので
はない場合がある。霊的存在の有無を論ずるすべての議論のなかに示される誤解のもとはここにある。
すなわち霊的現象は、物体の現象とまったく同様にあらわれるという考え方である。もしそのように霊
的現象があらわれるのでなければ、霊的現象などはあるはずがないという見方である。霊的現象と物体
の現象との区別はむずかしく、専門知識つまり哲学的・生理学的な知識を必要とする。なぜなら大切な
のは、ある物体によってひきおこされるのと同じ作用が、かならずしも、なんらかの物体の存在を前提
としてはいないという事実を理解することだからである。

とくに重要なのは、わたしがこれまで何度も詳述してきたことをふりかえり、しっかりと心にとめる
ことである。(とりわけ、拙著『根拠律の四つの根について』第二版・第二一節、『視覚と色彩につい
て』第一節――ラテン語論文『色彩論』第二章、『意志と表象としての世界』正編一二〜一四頁〔第三版
では一三〜一五頁〕それに続編・第二章である。)すなわち、われわれの外界についての直観はたんに感
覚的なばかりでなく、主として知的である。(客観的に表現すれば)脳的であるということだ。――感
官は、それぞれの器官のなかに単なる感覚以上のものを与えない。したがって因果律と、やはりア・プリオリ
に悟性に内在する時間と空間という形式を適用することによってはじめて、物体の世界がつくられる。
こうした直観行為への刺激は、覚醒した普通の状態であればもちろん感官の感覚から生ずるが、こうし
た感覚も、もとはといえば、悟性によって設けられた原因の結果である。しかし、いつか、まったく別
の側から、いうなれば内部から、生体自身から生じた刺激が脳に達し、ついで脳から脳特有の機能と
機構をつうじて、あのような感覚を生ずることがありえないであろうか? それに脳がこうした加工を
してしまえば、もとになる材料がちがっていたことなどは、もはや見分けがつかないであろう。乳糜に
なってしまえば、もとになった食物がなんであったかわからなくなるのと同じ事情にある。

202 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 09:49:01.76 ID:qvpiHSzA.net
実際になんらかのこの種の場合に遭遇したときには、これによってもたらされた現象の原因はいかに遠いと
いっても、生体の内部以外には求められないのではないか、それとも、たといその現象の原因がなんら感官
の感覚に由来しないとしても、もちろん物理的あるいは物質的なものでないにしても、とにかく外的なも
のではないかという疑問が生じてくるであろう。さらには、与えられた現象がこうしたかけ離れた外的
原因の状態になんらかの関係をもっているにせよ、こうした外的原因がはたして問題の現象の指標を示
すばかりか、現象の本質を表現しているのだろうか、とう疑問が生じてくる。こうした事情からして
も、この問題を扱う場合にも、物質の世界を扱う場合と同様に、われわれは、現象と物自体との関係は
どうなっているかという疑問に導かれるだろう。だがこのことは超越的な立場に立つことであり、そし
ていったんこの立場に立つ以上、おそらく、霊の現象とても周知のように不可避的に観念論に従わざる
をえない。したがって、霊の現象も、大きな迂回をしてはじめて物自体に、つまり真に現実的なるもの
に達することのできる物体の現象と寸分変わらぬ観念性に従うことになるという結果が出てくるであろ
う。ところがわれわれは、この物自体は意志であることを認識している。したがって物自体は物体の現
象とまったく同じように霊的現象の基礎にあると推測される。霊的現象についての従来の説明はすべて
唯心論的であった。そうであったからこそ、ここでは観念論的な説明をしてみようと思う。――

 このようにざっと展望し、何が出現するかを予想したまえおきを終えたあとで、いよいよつまびらか
に問題をしらべてゆくわけだが、わたしはテーマに即してゆっくりと歩をはこぶことにする。ただし
ここで取り扱われる事柄が読者にはすでによく知られているものとわたしが前提としていることを指摘し
ておこう。

203 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 10:46:29.72 ID:qvpiHSzA.net
 それはひとつには、わたしの専門は物語をすること、つまりものごとをあれこれと述べたて
ることではなくて、ものごとの理論にとりくむことであるからであり、またひとつには、もしわたしが磁
気に関係する病気、夢、幽霊現象など、われわれのテーマの基礎となる材料であって、すでに多くの本
のなかに書かれていることすべてを再びくりかえすとなると、それこそ巨大な本を書かねばならないか
らである。そのうえ、偉そうな態度をとってはいるものの、このところ日に日に信用を失い、じきにイ
ギリスだけで余命を保つようになる無知からくる懐疑主義に戦いを挑むことなどは、わたしの務めでは
ないからである。今日では動物磁気ならびに透視が明白な事実であることを疑う者は、たんに信仰がな
いばかりでなく無知であるといわれる。しかしわたしは多くのことを前提としてかかげなくてはならな
い。少なくとも、霊の出現あるいは霊についての他の報告をとりあげた現存する巨大な量の本の幾冊か
について読者が熟知していることを前提としなくてはならない。そこでわたしは、とくにきわ立ったこ
とが書いてあるところ、論争点になっているところが出現したときだけ、そうした本から引用したこと
を明らかにしよう。その他の点については、わたしは、読者がすでにわたしの他の著述を知っているも
のと考える。そこでわたしがなにかを事実上確立したものとして示した場合には、その基礎資料は確か
なものであるか、それともわたしがおのれの経験に照らして確実だとしたものであることについて読者
の信用がえられるのを確信している。

 ここでまず問題となるのは、実際にわれわれの直観する知性あるいは脳のなかで見られる像は、外的
感官に作用する物体の存在によってひきおこされる像と完全にまったく区別なく、しかもこうした外の
物体に影響されずに生ずるかどうかである。幸いにも、われわれときわめてなじみの深い現象が、この
点についてのあらゆる疑念をとりはらってくれる。それは夢である。

204 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 13:07:39.87 ID:qvpiHSzA.net
 夢を単なる思考の遊びあるいは単なる空想が生みだす像とすることは思慮の不足あるいは公正さの欠
如を示している。なぜならこうしたものは明らかに夢とはまったく異なっているからだ。空想が生みだ
す像は、いずれも弱々しく、うすぼけており、不完全、一面的であり、それにごく一時的である。した
がって人は、眼のまえにいない人の像を、数秒間もまざまざと思い浮かべるわけにはいかない。それば
かりか、いかに空想力をたくましてしても、空想が生みだすものは、夢がわれわれに与えてくれる手で
とらえることのできるような、はっきりした現実とはほど遠い。夢のなかでのわれわれの表現能力は、
われわれの想像力をはるかに凌駕する。夢のなかで見える対象は、空想力をたくましくしてもけっして
及びもつかないほど現実とまったく同じく、きわめて偶然的な特性にいたるまで、いずれも真実、完全
さ、それに首尾一貫した全面性をそなえている。そのため、もしわれわれが夢の対象を自分で勝手に、選
びだせるとすれば、夢はわれわれに、まったくすばらしい光景を提供してくれるであろう。空想が生み
だすもろもろの像が、同時に受ける現実の外界からの印象によって妨げられ弱められる、という事情に
もとづいて夢を説明しようとするのは、まったく誤っている。なぜなら、真夜のきわめて深い静けさの
なかでも、空想は夢がもたらす客観的ないきいきとした明瞭さに匹敵するようなものを生みだすことが
できないからだ。それに空想が生む像は、つねに思考の連鎖あるいは動機によってもたらされ、こうし
た連鎖、動機の勝手気ままな意識に伴われる。これに反し夢は、ちょうど外界のように、まったく異質
的なもの、われわれの力とは関係なく、そればかりかわれわれの意思に反して迫ってくるものとしてあ
らわれる。それに、きわめて些細なものであっても夢の動きがまったく予期できないことも、夢には客
観性と現実性があることのはっきりした印を与えている。夢のなかのすべての対象は、現実さながらに
はっきり、明白にあらわれる。

205 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 13:25:29.97 ID:qvpiHSzA.net
 そのことは、たんにわれわれに関連のあるところ、すなわち、平面的・
一面的な、あるいは、おもな一般的な輪郭のなかばかりではなく、最も小さな偶然的な個々の点まで、
つまりわれわれにとってしばしば妨げとなり、われわれの進路を阻むような事情のこまかい点について
まで、はっきりと示される。夢のなかでもすべての物体は影をもち、すべての物体は、いずれもそれぞ
れ特有の重さにしたがって重力によって落下し、あらゆる障害物は、まったく現実におけるのと同様に
しなければ取り除くことができない。また夢がまったく客観的であることは、夢のなかの動きのほとん
どがわれわれの期待に反し、しばしばわれわれの希望とは逆に進むばかりか、ときにはわれわれの度胆
をぬくことによっても示される。さらに、登場人物が、それこそ言語道断の無遠慮さでわれわれに立ち
むかうこと、また夢見る人はだれでもシェークスピアであるという適切な言いまわしを生んだように、
彼ら登場人物が、夢のなかで、純粋客観的な性格と行為について劇的な真実性をそなえていることも、
夢が客観的であることを示している。なぜなら、夢が全知全能であることによって、夢のなかでは、自
然のあらゆる物体は本質的な性質どおりに活動し、また夢のなかではあらゆる登場人物はそれぞれの性
格に完全に即して行動し、かつ語るということになるからだ。これらすべての事情からして、夢が生み
だす幻想はあまりにも強力である。そこで、覚醒したときわれわれが直面する現実自体ですら、いった
ん夢と戦い、もはや夢は存在しなくなったのだ、単なる夢だったのだと夢の迷妄についてわれわれに確
信させるためにおのれ本来の姿を示すまでに、かなりの時間をかけなくてはならない。ものごとを想起
するにあたっても、とりわけ些細なことを思いだそうとするときには、われわれはときに、あのことは
夢のなかで起こったのか、それとも実際に生起したのかを疑うこともある。これに反し、だれかが、あ
るものごとを思いだすとき、これは実際に生起したことであったのか、それとも自分がたんに空想した
ことであったのかと思い悩むようなことがあれば、その人はおのれに狂気の疑いをかけることになる。

206 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 14:29:47.75 ID:qvpiHSzA.net
これらのことすべては、夢はわれわれの脳がもつまったく特有の機能であり、単なる空想力とその反芻
とは異なっていることを証明している。――アリストテレスも「夢の像はある意味では知覚である」と
言っている。(『夢と覚醒について』第二章)。また彼は、われわれは夢のなかでさえ、現にないものを空
想によって思い浮かるという微妙にして正しい指摘をしている。このことからしても、夢のなかでも
空想は役に立つが、空想自体は夢の媒介物でも器官でもない。

 他方、夢は狂気と否定できない類似点をもつ。夢見る意識と覚醒した意識とのおもな違いは、夢見る
意識には記憶が欠けていること、あるいはむしろ首尾一貫した思慮深い追憶が欠けていることである。
われわれは驚くべき、そればかりか不可能な状況や事態のなかで夢を見るが、そのさいわれわれは、こ
れらの状況や事態と登場しない人物との関連や、これらの人物がいざ登場した場合の原因を探ることは
思いつかない。われわれはつじつまの合わない行動をするが、それはわれわれが、これらの行為と対立
したことを思い浮かべないからである。夢のなかでは、かなり以前に死んだ人がいぜんとして生存者と
して姿をあらわすが、その理由は、夢のなかでわれわれが彼らの死んだことに思いをいたさないからで
ある。しばしばわれわれは、若いころの状況に再び身を置き、当時の人びとに囲まれ、すべてが昔のま
まという夢を見ることがある。それというのも、その後はいりこんできた変化や変貌をわれわれが忘却
しているからである。したがって夢のなかでは、すべての精神活動のうち記憶だけはあまり役立ってい
ないというのは、ほんとうのことであるように思われる。この点に夢と狂気の類似性があるのだが、こ
のことは、わたしがすでに(『意志と表象としての世界』正編・第三六節ならび続編・第三二章で)示
したように、本質的には、記憶能力があるていど混乱することに帰せられる。こうした見方に立てば、
夢は短期の狂気、そして狂気は長期の夢と名付けられよう。したがって全体として夢のなかでは、眼前
の現実の直観はまったく完全なきめこまかなものである。

207 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/28(水) 22:01:34.98 ID:qvpiHSzA.net
これに反しわれわれの視界は、欠けているも
の、過ぎ去ったものが、それも偽りのものであってもほんのわずかしか意識のなかにあらわれない以
上、まったく限られている。

 現実の世界では、あらゆる変化がかならず、それに先行する他のものつまり原因の結果としてだけあ
らわれるように、われわれの意識のなかへのすべての思想や表現の登場は、根拠律にしたがっている。
それゆえ、こうした思想や表象はいつも、感覚に対する外的印象、あるいは連想の法則にしたがい(こ
れについてはわたしの主著続編第一四章に書いてある)、先行するものによって出現しなければならな
い。それ以外にはこうした思想や表象はあらわれない。われわれにとって存在するすべての対象を拘束
し制限する例外のない原則である根拠律には、もろもろの夢も、それが出現するさいにはしたがわなく
てはならない。そうはいっても、夢がこの原則にいかにしたがっているかを解明するのはきわめて困難
である。なぜなら夢の特徴は、これがもともと眠りによって制約されていること、つまり頭脳と感官の
普通の活動が停止されていることだからである。これらの活動が休止して、はじめて夢が登場できる。
その間の事情は、部屋の照明が消されてはじめて幻燈の像があらわれるのと同じことである。したがっ
て夢の出現、ひいては夢の材料も、まずは感官に対する外的印象によってひきおこされるものではな
い。浅い眠りのさい、外部の音、それに匂いなどが意識のなかにはいり、夢に影響を与える個々の場合
もあるが、わたしはこれらを特別の例外として無視することにする。だが、夢が思考の連鎖をつうじて
ひきおこされるものでないことも注目すべきである。なぜなら、夢は深い眠りのただなかに、したがっ
て完全な、それこそまったく無意識な状態とみなされるべきであり、思考の連鎖の可能性などはみじん
もないような、脳の本源的休止のときに生ずるか、それとも、夢は眠るとき、ということは覚醒した意
識から眠りへはいる移行のさい生ずるからである。そのうえ、眠りにはいる寸前にも夢が出てくる。

208 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 00:16:38.35 ID:+lAD4wrl.net
 また夢はなんらかの思考の連鎖によって覚醒時の表象と結びつくことはなく、その材料と登場する機会
を、われわれが知らないどこかから取ってくる。したがって、夢は覚醒時の思考の連なりの糸とは無関
係であることを確信できるようになる。眠りにはいった人がまず見る夢の像は、容易に観察できるよう
に、眠りにはいるときのその人の思考とはなんの関連もないばかりか、こうした思考とはまったく異質
的である。そのために、まるで夢が、世界におけるすべての事物のなかで、われわれが最も少なくしか
考えていなかった事物をわざわざ選びだしたかのように思えてくる。したがってこのことを熟考する人
は、いったい何によって夢の選択と夢の状態が定められるのかという疑問をもつ。彼らは、これについ
て(ブールダハが『生理学』第三巻で、微妙にしかも正しく指摘したように)眠りにはいったとたんに
あらわれる夢はけっして首尾一貫した出来事をあらわしておらず、われわれも他の夢のときとはちがっ
て、ほとんどの場合、行動する者としてはあらわれない。さらにこの種の夢は、眠りにはいったとたん
にあらわれる個々の像からなる、純粋客観的なドラマかあるいはきわめて単純な出来事かのいずれかで
あると特徴づけられている。われわれはこんな夢を見ると、しばしばすぐに目をさます。そのようなとき、
われわれは、こうした夢が、眠りにはいる寸前に存在した思考とは似た点などは少しもなく、類比しよ
うもないほどかけはなれており、あるいはまったく無関係であることを完全に確信できる。むしろわれ
われは、眠りにはいるまえの思考の動きとあまりにちがっている夢の内容の異様さに驚かされる。そ
のありさまは、ちょうど、現実のなんらかの対象が覚醒時に、あまりにも偶然な経路でとつぜんわれわ
れの知覚のなかに出現するのと同じである。しかもこうした夢の現われ方は、しばしばくりかえされ、
夢の内容もあまりにも驚くべきほど盲目的に選ばれるため、まるで、くじ引きかそれともサイコロの目
によってそれがきめられているかのようだ。――根拠律がわれわれの手中に与える糸も、夢のなかでは
内と外の両端で切断されたかのように思われる。しかしそんなことは不可能であり、考えることもでき
ない。

209 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 01:14:43.65 ID:+lAD4wrl.net
 必ずや夢のなかに、もろもろの像をもたらし夢の状態をはっきりときめるような何らかの原因が
あるにちがいない。したがてこうした原因から、たとえばわたしが眠りにはいる寸前までは他のこと
を考えていたのに、眠りにはいるやいなや、ほかならぬ風に軽くそよぐ豊かな樹木が、やにわにあらわ
れるのはなぜか、また他のときには頭上にかごをのせた娘が、さらに他のときには兵士の一群などがあ
らわれるのはなぜかということが解明されるにちがいない。

 ところが、眠りにはいったとたんでも、眠ってからしばらくたってからでもよいが、とにかく夢があ
らわれてくると、すべての表象の唯一の座であり器官である脳において、外界および身体の内部からの
感官をつうじての刺激が思考によって中断される。そんなわけで、脳は生体の内部から生ずるなにか純
粋な生理的な刺激を受けるのだというほか説明のしようがない。脳に対するこの種の影響には神経およ
び血管の二つの道が開かれている。生命力は睡眠中、したがってすべての動物的機能がとまっていると
きは、まったく有機的な生そのものに還元させられる。生命力はそのさい呼吸、脈搏、体温、それにほ
とんどすべての分泌活動をいくらか減少することによって、もっぱら緩慢な再生産、害を受けたあらゆ
る個所の治療、就眠前にはいりこんできたすべての無秩序の除去にとりくむことになる。したがって睡
眠こそ、その間に「自然の治療力」があらゆる病気に治療効果のある峠をつくり、のさばる害悪に決定
的な勝利をおさめる時間である。そのため眠りのあとの病人は、病気がなおるときも近づいたというはっ
きりした感情に満たされ、心も軽く嬉々として目ざめるのである。いっぽう健康者の場合にも同じよう
なことが起こるけれども、その効果は、すべての必要な点について、病人とくらべればずっと少ない割
合でしかあらわれない。そうはいっても健康者も、目ざめたときには再生、更新の感情に満たされる。
とくに睡眠中、脳は覚醒時には入手不能の栄養を獲得する。その結果えられるものは意識の明瞭さであ
る。

210 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 13:25:59.15 ID:+lAD4wrl.net
 これらすべての操作は、形成的な神経組織、ということは体全体のなかでおもな神経の線と他の線
とを結びあわせることによって巨大な交換性神経あるいは内的な神経群を形成するすべての巨大な神経
節の指導と制御のもとにある。これらの操作はもっぱら外的関係の指導にあたり、そのために外部にむ
けられた神経器官と、これによってもたらされる表象をかかえる外的神経群つまり脳とは、まったく分
かれ、孤立している。したがって普通の状態ではこうした操作は意識にのぼらず、感じられることもな
い。しかもこの操作は、かぼそくわずかに吻合するだけの神経をつうじて脳組織と間接的な弱い結びつ
きをもつだけである。異常な状態のもとで、あるいはさらに内的部分が損傷したときこの操作が行なわ
れると、例の孤立であるていど揺るがされ、鈍い鋭いのちがいはあれ、そのことが苦痛として意識にの
ぼってくる。これに反し普通の健康状態では、きわめて複雑でしかも活動的な有機的生命の仕事場にお
ける動きや運動、それにこの仕事場の軽やかなあるいは重々しい発展からは、この経路をたどっても、い
かにも弱々しい失われた反響しか意識に到達しない。有機体の生命の仕事場での成り行きは、脳がおの
れ自身の操作、すなわち外部の印象を受け入れること、そのさい物を見ること、考えることに忙殺されて
いる場合には、まったく知覚されることなく、たかだかひそかな無意識的な影響を及ぼすだけである。
こうした影響から客観的理由によっては解明されえない気分の変化が生ずる。ところが、外からの印
象が活動を停止し意識内部での思考の活発な動きもしだいに消滅してゆく睡眠のさいには、有機的生命
の内的神経群から間接的な経路をたどってあらわれでる例の弱いもろもろの印象も、脳の血管に波及す
る血液循環のわずかながらの変化とともに実感されるようになる。そのありさまはちょうど、夕闇がせ
まってくると蝋燭の火が輝きはじめ、昼間は他の物音のために聞こえなかった泉のほとばしる音が夜に
なると耳にはいるようになるのと同じである。覚醒した、つまり活動する脳に作用するにはあまりにも
弱々しいもろもろの印象も、脳の活動がまったく停止したときには、その個々の部分の軽い動きとこれ
らの動きを表象する力を生み出すことができる。――

211 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 15:00:03.70 ID:+lAD4wrl.net
 そのことは、竪琴が、外部の音に共鳴しなくても
静かにつりさげられていると、おのずから音を発するのと同じ事情にある。この点こそ、例の眠りに
はいったとたんにあらわれる夢の像の原因、ひいては、この種の夢の像のきわめてはっきりとした規定が求
められるにちがいない。さらに、深い眠りにはいったときあらわれる、劇的な結合をもつ夢の原因そ
の規定もはっきりするにちがいない。最も深い眠りのさいに見られる夢は、なんとしても脳がすでに完
全に休止し、栄養をとることに専念している以上、内部からいっそう強力な刺激を必要とするにちが
いない。したがって、個々のしかもきわめて限られた場合に生ずる、予言的な夢あるいは事実と一致す
るような夢は、この種の夢だけである。ホラティウスはこれについて正しくも次のように歌っている。

     ほんとうのことを夢みるのは真夜中を過ぎてからだ。

 けだしこの点については、朝まだき見る夢も、眠りにはいるときに見る夢と同じ事情にある。それは、
じゅうぶん休み、飽きるほどくつろいだ脳はふたたび、いささか刺激に応じやすくなるからである。

 したがって有機的生命の仕事場からの反響は、感情鈍磨ああるいはそうなりつつある脳の意識の活動の
なかにとびこみ、たしかに異常な方法によっておりしかも覚醒時とは別の面ではあるけれども、こうし
た脳の活動を少しくゆさぶる。しかし他のすべての刺激に対する戸口が閉ざされているため、この有機
的生命の仕事場からの反響が基礎となって夢の像形成のための機会と材料がつくられる。そのさい夢の
像と例の反響の印象とはおそろしくちがっていてもかまわない。なぜなら機械的な振動や内部神経の痙
攣によって眼も、外の光がもたらす明るさや光とまったく同じ感覚をもつことがあるからである。それ
に耳は、内部の異常な動きの結果、あらゆる種類の音を聞くことがしばしばあるし、嗅覚の神経は、な
んらの外的原因もないのに特別の限定された匂いを感じることがある。さらに味覚神経も似たような方
法で刺激される。けっきょくすべての感官の神経は、内部からも外部からも、それぞれ固有の感覚を刺
激される。

212 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 21:28:41.09 ID:+lAD4wrl.net
 これと同じぐあいに脳も、生体内部からの刺激によって、空間を満たすもろもろの形姿を見
る機能をはたすようになる。そのようにして出現した像は、外的原因によってよびおこされて感覚器官
のなかに生じてくる像とはまったく区別されない。このことは、胃が取り入れたすべてのものから乳糜
をつくり、はいりこんできたすべてのものから腸は糜汁をつくるが、これらの乳糜や糜汁は原材料とは似
ても似つかぬものである、ということと同じような事情にある。これと同様に脳も、脳特有の機能を発
揮して、脳に到達するすべての刺激に反応する。第一の反応は、脳自身の直観形式である空間に、三次
元すべてにわたるもろもろの像をくりひろげることである。それにつづく反応は、これらの像を空間の
なかで、因果律にもとづいて動かすことである。時間と因果律にしたがってゆくことは脳特有の活動機
能である。なぜなら脳はつねに、脳特有の言葉を語らなくてはならないからだ。したがって、こうした
言葉によって、脳は睡眠中、内部からやってくる弱いもろもろの印象を翻訳する。その間の事情は、覚
醒時に外部から強力なしかもこれときまった印象を受けたときと同じである。内部から受ける印象もも
ろもろの像をくりひろげるが、これらは外部から感官を刺激されるさいに生じるもろもろの像とまった
く変わらない。もっとも、内外からの二重の印象をいかにして受けるかという経路には少しも類似点は
ない。しかし内部からのこうした印象を受ける人の態度は、耳に到達したいくつかの母音をもとに、も
ちろん誤ってはいるものの、なんとはなしにまとまった文章をつくりあげる耳の悪い人の態度にそっくり
である。あるいは、偶然にちょっとした言葉が耳にはいると、やにわに固定観念にもとづいてものすご
い妄想をたくましくする狂人の態度とも似ている。ともかく脳のなかまで踏み迷い、夢をつくる機会を
与えるのは、生体内部のある種の動きの弱い反響である。したがって夢はこの反響の印象の種類にした
がってそれぞれ独特の姿を示す。少なくとも夢は霊の印象から合図を受ける。そればかりか夢は、たと
い霊の印象とはまったくちがったものであるにしても、どことなくそれに似ているが、少なくとも象徴
的に対応している。

213 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/29(木) 22:16:59.03 ID:+lAD4wrl.net
 このことは深い眠りにはいったときに脳を刺激する印象について、とくにはっきり
言える。それは、こうしたときこそ印象はきわめて強力なものとなるにちがいないからだ。そのうえ、
有機的生命の内的な動きは、外界の知覚にたずさわる意識に異様かつ奇妙な方法で作用するために、こ
うした経路で生ずる夢のなかの視覚は、まったく予想外のものであり、こうした夢を見るまえに存在し
た思考の動きとは完全に異質的かつ異様な形姿にとりくむことになる。われわれも、眠りこけたとき、
そしてすぐに目ざめたとき、このことをみずから観察できる。

こうした説明のすべてはさしあたり夢があらわれる直接の原因、あるいはその機会を教えるだけであ
る。しかも夢のあらわれる原因や機会はたしかに夢の内容にも影響を与えるけれども、夢の内容とはあ
まりにも異なっているために、両者の類似性がいかなる性格のものであるかはいぜんとして解明しがた
い。そのうえ、もともと夢が出現する場所である脳内部の動きはますます謎に満ちている。眠りは脳の
休止だが、夢はいくらかではあるが脳の活動である。したがってわれわれは矛盾におちいらないため
に、脳の休止といっても相対的なものであり、いっぽう夢見る脳の活動はきわめて制限された部分的な
活動であると、説明しなくてはならない。だが、どういう意味で夢が脳の制限つきの部分的な活動であ
るのか、それは脳の一部の活動あるいは活動の度合いの少なさなのか、あるいは脳内部の運動の種類の
ちがいなのかといったこと、それに、もともと夢を覚醒時の状態から分けるものは何かということをわ
れわれは知っていない。――夢のなかで活動しないような精神力はない。それでも夢の経過や、夢のな
かでのわれわれの振舞いは、しばしば異常なまでの判断力の欠如や、すでに述べたように記憶の喪失を
示している。

214 :むくう:2015/10/29(木) 22:45:29.19 ID:5/L3cqga.net
      「寝てる夢とシルバーコードとの関係について」

脳の働きのレム睡眠に夢を観るとかあるけど、シルバーコードが霊肉と繋がっている
ことが条件であり、シルバーコードが肉と霊との繋がりが切れてしまうと、夢を観て
いても、心臓の働きが止まっていることであり、脳の働が止まっていても、夢の続き
を観ることになると思われ、ただ、この場合は、夢から醒めないことになるのかも知
れないと思われる。

215 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/30(金) 00:54:40.74 ID:dFPo5sUY.net
 いまとりくんでいるテーマに関連して、われわれは空間を満たす対象を見てはっきりと表象したり、
ありとあらゆる種類の音や声を聞きかつ理解する能力をもっているが、両者の能力はともに感官、感覚
の外的な刺激を夢のなかでは必要としないこと、他方、覚醒時にはこうした感官による感覚の外的刺激
はわれわれの直観に材料あるいは経験的基礎を与えるもととなるものではあっても、けっしてわれわれ
の直観と同一ではないという事実がある。なぜならわれわれの直観はまったく知的であり、けっして
たんに感覚的ではないからである。この点についてはわたしは何度も述べてきたし、それぞれ関連する
場所で説明しておいた。この疑う余地のない事実はしっかり心にとめておかなくてはならない。なぜな
らこの事実こそ、われわれのこれから述べるすべての説明のもとになる原現象だからである。そしてわ
れわれは霊の能力のいっそう幅広い活動の説明にとりくんでいくことになろう。スコットランド人は、
経験の賜物である適切な機転に導かれてきわめて意味深長な言葉を選び、この能力を最もすばらしく表
現した。彼らはこの能力の現われ方あるいはその用途の特別な持ち味に目をつけた。彼らのその表現は
「セカンド・サイト」つまり第二視覚である。なぜなら、いまここで述べている夢を見るという能力は
じじつ第二の能力であり、外的感官をつうずる直観能力、つまり第一の能力ではないけれども、その対
象となるものは、種類・形式からして第一の能力と同じだからである。このことから推論されるのは、
第二の能力も第一の能力同様、脳の機能だということだ。したがって例のスコットランド人の命名は、
関連現象のすべての種類を記述し、これらひとつの根本能力に帰するうえで、たしかに最適のもので
あろう。しかしこの言葉を発明した人はこれを第二の能力の、めったにあらわれない特別な注目すべき
表現を記述するときにだけ用いている。したがってわたしとしては、どんなにこの言葉を用いたくと
も、霊の直観の種類、もっと正確にいえば、これらの直観のなかに展開される主観的能力すべてを名づ
けるために使用するわけにはいかない。

216 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/10/30(金) 16:48:25.70 ID:dFPo5sUY.net
 それに代わるものとしては、いまのところ夢の器官という言葉
以上に適切なものはない。これならば、だれにでもよく知られており、周知の現象のあらわれをつうじ
て、問題の直観方式をうまく表現できる。そこでわたしはこの言葉を、これまで示してきた感官への外
部からの印象とは独立した直観能力を記述するさいに用いることにする。

夢の器官が普通の夢のなかで示す対象を、われわれはまったく幻想的なものとみなす傾きがある。そ
れはこうした対象が覚醒と同時に消失するからである。ところが、いつもそうだとはかぎらない。われ
われの主題にかんしては、例外をおのれの経験に照らして熟知することがきわめて重要である。おそら
くだれでも、それ相応の注意力をこのことに向けるようになれば、じゅうぶん納得することができるだ
ろう。すなわち、われわれはたしかに眠り、夢を見てはいるのだが、それとともに、われわれをとりま
く現実自体もいっしょに夢見ているという状態がある。こうした場合には、われわれは寝室とそのなか
にあるものすべてを見ているし、さらに寝室にはいってくる人の姿を見る。そしてわれわれは寝台に寝
ながらにして、これらすべてを正しくそしてじゅうぶんにわきまえている。それでもわれわれはまっ
たく眼を閉ざしたままである。われわれは夢を見ている。しかしわれわれが夢で見ているものは、真実
であり現実である。これはまるで、われわれの頭蓋がすっかり透明になり、そのため外界はもはや感官
のせまい扉を通る迂路を経るのではなく直接脳に到達したかのよおうな状態に他ならない。この状態は
普通の夢とちがって、覚醒時の状態とほとんど区別しがたい。だがそうはいっても(これについては
『意志と表象としての世界』正編・第五節一九頁、〔第三版一九頁以下〕を参照のこと)覚醒は、目ざめ
た状態と夢のあいだの唯一の基準であり、夢ではその客観的なおもな側面の半分がなくなる。すなわ
ち、これまで述べてきたような種類の夢からさめると単にわれわれの主観的変動が生ずるだけだが、こ
れはわれわれが突然われわれの知覚器官の変化を認めることにある。

217 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/01(日) 17:18:27.80 ID:Pe2301H8.net
 しかし認めるといっても、かすかにやっと認めるという程度である。それはなんら客観的な変化に伴わ
れていないため、気づかれないですまされることもある。こうした事情のために、現実を示す夢には、多
くの場合、現実には属さない像が混合され、こうした像が覚醒と同時に消失するとき、あるいは、そのこ
とについてはすぐに後述するが、こうした夢の濃度がきわめて濃いときにかぎって夢を見たことが知覚さ
れる。いま述べたような種類の夢はふつう睡眠中の覚醒といわれる。それはなにもこの種の夢が覚醒の中
間にあるからではなく、この種の夢は睡眠しているあいだに覚醒すること自体を示しているからである。
したがってわたしはむしろこれを正夢と名づけようと思う。たしかにこの種の夢については、ほとんどの
場合、早朝あるいは眠りにはいってからしばらくたったあとの夜間、自分が見たことに気づくであろう。
それはただ夢を見た記憶が残っているのは眠りが深くなく、すぐ目ざめる機会があるときだという事情が
あるからだ。じつは、この種の夢がはるかにひんぱんに深い眠りのさいにあらわれることは確実である。
夢遊症患者の眠りが深ければ深いほど、彼らはよりはっきりと夢見ているというのが通例となっている。
だが彼らは、自分が見た夢についてなんらの記憶も残していない。これに反し、この種の夢が浅い眠り
のさいによくあらわれるということは、眠りが浅いときには、催眠術にかけられて見る夢からさえ例外的
に記憶が意識のなかに残っていることによって説明できる。このことについての実例はキーザーの『動物
磁気のための記録』第三巻・一三九頁に見いだされる。それによれば、こうした直接に客観的な
正夢の記憶は、われわれがすぐに目ざめるような、たとえば朝の浅い眠りのなかに出現したときだけ残っ
ている。

 身近な眼前の現実を夢見るという特徴あるこの種の夢は、夢見る人の視野を拡大させ、その人を寝
室から出て行かせることによって、ただでさえふしぎな性質をさらにいっそう謎めいたものにする。

218 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/09(月) 19:05:08.12 ID:WXtNkUuL.net
――すなわち、夢見る人にとって、窓のカーテンや雨戸が視覚の障害とならなくなり、これら障害物の
背後にある内庭、庭園、道路あるいは道路に面した家々などをはっきり見るようになることである。し
かし見るといっても実際に生理的視覚が出現するのではなく、ただ単に夢なのだということを考えれ
ば、なにもそんなに驚くことはない。そうはいっても、ここで見ているものは、いま現実にあること、
したがって正夢であり、さらに、光線の間断のない通過という条件には束縛されない夢の器官をつうじ
ての知覚である。もともと頭蓋自体が、まず知覚の特殊な性格をそのままそっくり保っておく最初の隔
壁である。ところがこの隔壁がいくぶんか取り除かれれば、カーテン、ドア、壁のたぐいは知覚にとっ
ての障壁ではなくなる。ではどうしてそのようになるかということは、いぜんとして謎である。われわ
れにはここではほんとうのことが夢みられていること、つまり夢の器官による知覚が生じたということ
以上はわからない。われわれの観察にとって基本的な事実はこれで終わりであろう。もしそうしたこと
ができるとして、われわれがこの説明のためにできることは何であろうか? それはまずこれに結びつ
いているすべての現象をとりまとめ、段階的に整頓することである。しかもその目的はおそらく、問題
の現象の真髄をもっとよく洞察できるのではないかと期待しつつ、諸現象相互のあいだの関連を認識す
ることである。

 ところで、自分でこうした経験をいっさいもたない人でも、夢の器官をつうじての前述の描写の正し
さを、本来の自然な夢遊症によって信じるようになるだろう。この病気にかかった人がすっかり眠って
おり、眼ではなにものも見ることができないことは確実だ。それにもかかわらず夢遊症患者は身近な環
境のすべてがわかり、あらゆる障害物を避けて長い道のりを歩き、きわめて危険な谷間にかかる狭い橋
を通り、まちがいなく目標に達することもできる。こうした患者のうちのいくたりかは、睡眠中であっ
ても正確にきちんと日常の家事をかたづけることができるし、他の患者は、まちがいなく文案を練り文
章を書くことすらできる。

219 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/09(月) 22:58:54.69 ID:WXtNkUuL.net
これと同じような仕方で、催眠術をかけられた夢遊症患者は、まわりの環境
がわかり、透視ができるようになると、きわめて遠いところにあるものを知覚するようになる。ある種
の仮死状態にある人が、体が硬直して腕一本動かすことができずに寝たきりなのにもかかわらず、身のま
わりに起こることを知覚することがあるが、この知覚もあきらかに、この種の夢遊症患者流の知覚と同
じである。この仮死状態にある人も現在の環境を、感覚とは別の経路で意識にのぼらせている。こうし
た知覚の位置、あるいはそのための生理学的器官がどこにあるかをつきとめるために、数多くの努力が
払われてきたけれども、これまでに成果らしい成果はあがっていない。夢遊症の状態が完全に出現した
とき、外的感覚の機能がまったく停止することは、論争の余地のない事実である。そのさい、外的感覚
のなかでも最も主観的な感覚である自分の肉体についての感覚もまったく消滅するために、きわめて苦
痛を伴う外科手術を催眠中の患者に行なったにしても、その患者はそれについての感覚をいささかも示
すことはないだろう。この最も深い眠りの状態にあるときには、脳もまったく活動していないようだ。
夢遊症患者自身の発言、供述なども加味して考えると、次のような仮説が立てられよう。すなわち、夢
遊症の状態にあっては脳の力はまったく奪われ、生命力は交感神経のなかに集められる。交感神経のな
かでも大きな網状組織つまり「太陽叢」はいまや意識の座に変化し、代行として脳の機能を受けもつよ
うになる。この代行機能はなんらの外的器官の道具のたすけによることなく、しかも外的器官よりはる
かに完全に作動する。これが問題の仮説である。わたしが信ずるところによればライルによって立てら
れたこの仮説には、もっともらしさがないわけではなく、これが発表されていらい高く評価されてい
る。この仮説の支えとなっているのは、透視ができるほとんどすべての夢遊症患者が、彼らの意識の座
は完全にみぞおちに移り、かつては頭で行われた思考や知覚がいまやみぞおちで展開すると述べてい
ることである。

220 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/10(火) 22:41:16.26 ID:zVmY+QrN.net
 これら夢遊症患者の多くははっきり見たい対象を胃のあたりに置く。それにもかかわら
ず、わたしはそんなことはありえないと思う。「腹腔神経叢」ともよばれているこの器官「太陽叢」を見
るがよい。まったく小型であり、神経物質が環状になっていて、多少ふくれあがっているだけの、それ
こそきわめて単純な構造だ! もしこうした器官が物を見たり考えたりする機能を果たせることになれ
ば、他の点ではどこでも確かめられている「自然は無駄なことをしない」という規則があてはまらない
ことになる。それというのも、もしそうなら脳はいったい何のためにあるのかということになるから
だ。大多数の人びとにあっては三ポンド、特別の人でも五ポンドの重さしかないけれども、脳はきわめ
て貴重であり、じゅうぶんに保護されている。脳の各部分はいずれもきわめて芸術的につくられてお
り、複雑にいりくんでいる、そのためにこの器官の構成の関連性を理解し、内部の多くの部分の驚くべき
形態と結合についておおよそのイメージをつくりあげるためにも、各種各様の解剖分析をくりかえし行
なう必要がある。第二に考慮すべきことは、夢遊症患者の歩みと動きがすこぶる迅速で、夢の器官に
よってのみ知覚される身のまわりの環境に性格に適合していくことである。したがって夢遊症患者は、
敏捷に、どんなに頭のはっきりした人でもかなわないほど巧みに、あらゆる障害物をあわやというとき
によけ、やはりきわめてじょうずに、これと定まった目標へと進んでいく。ところが原動力となる神経
は脊髄から出ている。しかもこの脊髄は延髄をつうじて、運動の規制をする小脳と結びつき、そして小
脳は、もろもろの表象である動機が鎮座する大脳と結びついている。このような結びつきがあるおかげ
で、瞬間的にどんなに速い運動でも、それこそすばやい速さで通過する知覚に適合することが可能とな
る。しかしもし動機として運動を規定するもろもろの表象が、困難で頼りにならぬ迂路をとって間接的
に脳と結びつくことがやっとできるだけの「腹腔神経叢」のなかに置きかえられたとしよう。

221 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/10(火) 23:55:16.39 ID:zVmY+QrN.net
そうすれば(われわれは健康状態にあっては、われわれの有機的生命力の強力で休みない活動をまっ
たく確かめることができない)この神経叢のなかに生ずるもろもろの表象は、いかにしてそれも電光の
ようなすばやさで、危険がいっぱいの夢遊症患者の歩行を導くことができるのだろう? ――ついでなが
ら言っておくが、夢遊症患者がきわめて危険な道を、覚醒時にはけっしてできないほどなんらの失敗や
恐怖心もなく進んでいけるのは、こうした病人の知性が完全無欠でなく一面的であること、すなわちその
知性がおのれの歩行を導くのに必要なだけしか活動していないことから説明できる。こうした事情があ
るために、このような病人にあっては、反省やそれに伴うためらいとか戸惑いといったものがすべて消
失する。――少なくとも夢は脳の機能のひとつであるということは、トレヴィラヌスが(『有機的生命
の諸現象について』第二巻・第二部一一七頁で)ピエルカンにしたがって提示した事実によって実際上
確立されたものであることが、ついに判明した。「ある少女の頭蓋骨はカリエスによって一部損傷を受
けた。そのための脳髄はまったく露出し、覚醒時にはとびだし、睡眠中はひっこむようになった。静か
な眠りのさいにはこのひっこみ方がいちじるしい。活発に夢を見ているさいには、組織の緊張状態が生
ずる。」だが夢遊症も夢とただ度合いの点でちがっているだけだということは明らかである。夢遊症患
者の知覚は夢の器官によって生ずる。こうした人はいわば直接的正夢を見ていることになる。

 ところで、反駁されている例の仮説を次のように変更できるであろう。すなわち腹腔神経叢はみずか
ら意識の座となるのではなく、意識の外的な道具の役割、つまりやはり完全に代行された感覚器官の役
割を演ずる。それとともに、脳に伝えられる外からの印象を受け入れ、それを脳の機能に即して加工
し、外界の状況を、通常時に感覚器官での感覚にもとづいて行なうように図式化し形成するというので
ある。だがこの主張でも難点がくりかえされる。それはこの内的神経の中心部で受けたもろもろの印象
を、きわめて遠方にある脳の電光のようなすばやさでいかにして伝えるかということである。

222 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/11/11(水) 23:27:36.49 ID:a5xUzqaO.net
しかもこの場合、太陽叢はその構造からして、思考の器官とともに視覚や聴覚の器官となることにも適して
いない。それに皮膚脂肪、筋肉、腹膜それに内臓による厚い壁は光の印象をまったく遮断する。さらに夢遊
症患者の大部分が(これについては、フォン・ヘルモントが『医学の園』一六六七年、「狂気」第一二節
一七一頁に詳述している)、たとい彼らの見ること考えることは胃のあたりで生じていると証言してい
るにせよ、われわれは、これを客観的に妥当であるとはただちに受けとれない。それに夢遊症患者のう
ちのいくたりかがこのことを否定している以上、なおさら受けいれるわけにはいかない。たとえば、か
の有名なるカールスルーエのアウグステ・ミュラーは(この女性夢遊症患者をあつかった報告の五三頁
で)自分はみぞおちではなく眼で見ていると述べ、さらに他の夢遊症患者の多くはみぞおちで見ている
と述べている。そして「思考力もみぞおちに移しかえられるのか?」という質問に対し、この夢遊症患
者は、「そうではない。しかし視力、聴力は移される」と答えている。キーザーの記録の第一〇巻・第
二冊一五四頁に出てくる他の夢遊症患者の供述はこれに即応している。この患者は、あなたは脳全体で
考えるのか、それとも脳の一部で考えるのか?」という質問に対し「わたしは脳全体で考える。だから
そうするとたいへんくたびれる」と答えている。これら夢遊症患者のすべての証言の成果は、彼らの脳
の見る活動への刺激や材料は覚醒時のように外から感覚をつうじてやってくるのではなく、夢の場合に
説明したように、生体内部からくるということ、また生体を制御し指導するのは周知のように巨大な交
感神経叢であり、これは神経の活動にかんするかぎり、頭脳組織を別として、生体全体を代行し、代表
するものであるということにあるように思われる。これらの証言は、われわれがじつは脳のなかで感じ
ているにもかかわらず足で感じられているように思っている痛みは、足に至る神経の糸が中断されるや
いなや消失するということと比較できる。したがって夢遊症患者が胃のあたりで物を見たり読んだりす
るばかりか、こうした機能を指、爪先あるいは鼻の先ではたすことができると主張しているのは、まっ
たくの迷妄である。

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