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ショーペンハウエル 「宗教について」

1 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:05:55.82 ID:jU2IaMdC.net
宗教について

第一七四節 ある対話

デモフェーレス: ねえきみ、ここだけの話だけれど、きみがときどき宗教を皮肉ったり、いや、明ら
かに嘲笑して、きみの哲学的能力を示すのは、どうもぼくの気にくわないね。人それぞれの信仰はその
人にとって神聖なものだ。だからきみにとっても神聖なはずじゃないか。

フィラレーテス: そういう推論は否定するね! ひとさまが単純だからといって、なぜぼくまでが欺
瞞をありがたがらねばならないのか、ぼくにはわからないよ。どんな単純な場合も、ぼくが尊重するのは真理
だ。だから真理に反するものは、尊重しないだけのことだ。きみたちがそういう調子で人びとをしばり
つけているかぎり、真理の光がこの地上にさすことは絶対にないだろうよ。ぼくの標語は、「たとえ世界
は滅ぶとも、正義は行なわれよ」という法律家たちの標語をまねて、「たとえ世界は滅ぶとも、真理は
存続してあれ」というんだ。どの部門にも似たような標語があってしかるべきだね。

デモフェーレス: だったら医学の標語は、「たとえ世界は滅ぶとも、丸薬はまるめられてあれ」ぐら
いだろうかね ― こいつはいちばんてっとりばやく表現できるだろうて。

フィラレーテス: まさか! なにごとも「ほどほどに匙かげん」ということがあるさ。

2 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:07:04.31 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス: まあね。だからこそぼくの気持ちとしては、きみも「ほどほどに」宗教を理解して
くれて、民衆の欲求には彼らの頭に応じてこたえてやる必要があることを悟ってほしいんだ。宗教とい
うのは、低級な営みや物質的仕事に追いまくられている大衆の粗野な心や硬直した頭脳に、人生の高い
意味を告げ知らせ、それに気づかせるただひとつの手段だからね。というのは、普通の人間は、もとも
と肉体的欲求や情欲を満足させることだけに夢中で、それがすめば、おしゃべりとか気晴らし以外にべ
つにこれといって関心はないんだ。こういう人間をその惰眠からゆさぶり起こして、生存の高い意味を
指示するために、教祖とか哲学者とかいうものがこの世にあらわれてくるわけだが、哲学者は少数の例
外者のためだろうけれど、教祖というのは大勢の人たちのため、人類全体のために出現するわけさ。だっ
て、きみの尊敬するプラトンもすでに言っているとおり、「大衆は哲学者たりえず」だからで、まさか
きみもこの言葉は忘れちゃいまい。宗教は民衆の形而上学だ。これは絶対に民衆にまかせておくべき
で、だからわれわれも外面的には尊重しないといけない。これにけちをつければ、それは民衆からこの
形而上学をとりあげることになるからだ。世には民謡といったものもあり、諺には民衆の知恵が出てい
るように、民衆の形而上学もなくてはいけないんだ。なぜかというと、人間にはどうしても人生の説明
が必要だし、それは彼らの理解力に応じたものでなければならない。だから民衆むきの解釈は、いつで
も真理には比喩の衣を着せて、たとえ話に仕立てる。これが実際の場では行動の指針となり、気持ちのう
えでは、苦悩や死に臨んでの安心や慰めになって、真理同様の―といってもわれわれがかりに真理を
もっていると仮定しての話だが―、真理そのものの果たす役割とおそらくは同じ役割を演じるのだ。
その形式が混乱してまとまりがなく、一見理屈に合わないところがあるからといって、腹を立ててはい
けないよ。だって、きみの教養と博識をもってしても、深い真理をたずさえてあの荒削りな民衆に近づ
くには、どんな回り道をしなければならないか、想像を絶するものがあるからだ。

3 :幸ちゃん ◆m9SwOOeiO5OB :2015/09/02(水) 20:08:20.38 ID:jU2IaMdC.net
いろいろな宗教は、民衆がそれだけではどうにも把握できない真理をつかんで心のなかに描きだすための、
いろいろな図式といってよく、民衆にとっては、真理はこういう図式と不可分に癒着しているんだ。だから、
きみ、わるくとってもらっては困るが、きみが宗教を馬鹿にするのは、偏狭であると同時に不公正なんだ。

フィラレーテス 偏狭で不公正といえば、民衆の欲求や理解力にあわせて仕立てあげられた形而上学
以外に、どんな形而上学もあってはいけないと望むことだって、まったく同断じゃないか? 民衆形而
上学の説くところが人間の研究心の境界石であり、あらゆる思惟の基準であるべきであり、したがって
きみのいう少数の例外者のための形而上学も、民衆形而上学を確証し、確立し、解明することに落ち着
くべきだと注文をつけること、つまり人間精神の最高の力を利用せず伸ばさないで抑えておくばかり
か、芽生えのうちにつみ取って、この力の活動が例の民衆形而上学と衝突することがないようにしなく
てはいけないなどという言い分は、やはり偏狭で不公正じゃないか? そして宗教はいろんな要求を
かかげているが、結局はこれと変わらないではないか? 自分では不寛容・無慈悲そのものであるくせ
に、ひとさまに寛容や、やさしい慈悲を説くなんて、おかしいではないか? ぼくはその証拠に、宗教
裁判や異端糾問、宗教戦争や十字軍、ソクラテスの毒杯やブルーノやヴァニーニの火刑をあげる! な
るほど今日こういうことは過去の話になったとはいえ、ほんとうの哲学的努力、誠実な真理探究という
う、最も高貴な人類のこの最も高貴な仕事を邪魔だてしているのは、国家から独占権をあたえられてい
る例の因襲的形而上学で、その命題はだれの頭にもきわめて若い時代に焼きつけられる。それが真剣
に、深く、しっかり刻みこまれるため、奇蹟的な弾力性をもった頭でもないかぎり、どうにも消せな
いほどにこびりつき、健全な理性はこれを限りに調子っぱずれになってしまう。つまり、自分で考えて
偏見のない判断をくだすという、もともと薄弱な能力が、嗜好や判断に関連するすべての点で永遠に働
かなくなって台なしになるというわけなんだ。

4 :神も仏も名無しさん:2015/09/02(水) 20:11:50.91 ID:L6rJSFXi.net
終了



                            

5 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 20:46:17.45 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス それはこういうことだろう。ともかくそれでいったん信念ができた以上、世間の連
中はそれを捨てて、いまさらきみの考えを受けいれる気にならないだけの話さ。

フィラレーテス ああ、その信念とやらが、認識にもとづいているなら文句はないんだけどね!
そうなれば根拠をあげて迫ることもできるし、双方、同じ武器で戦える場がひらかれるわけだ。ところ
が宗教というのは、はっきり言って、根拠をあげて信念に対するのでなく、啓示をもちだして信仰に頼
るのだ。ところで、あたまから信じこむ力というのは、子供時代がいちばん強い。だからこの気持ちの
やわらかい子供時代をねらうことがまっさきに考えられる。そのほうが、あとから威嚇したり奇蹟を教
えたりするより、はるかに強く教義が根をおろす。つまり、ごく若い時代に、ある種の根本的見解や教
説を、それこそ並々ならぬいかめしさで、その子供がはじめてお目にかかるような厳粛きわまりない表
情で、くりかえしたたきこむ。それに対して疑問がきざすかもしれぬなどということは、完全に素通り
だ。あるいはそれに触れるにしても、疑いをいだくことこそ永遠に堕落する第一歩だというふうにほの
めかすといったぐあいにやれば、その人の受ける印象は深刻で、普通は、ということは十中八九、その
人間が例の教説を疑うことができなくなることは、ほとんど自分自身の存在を疑いえないのと同じこと
になるだろう。そうなれば、「それがはたしてほんとうなのか?」と、まじめに率直に問うだけの精神
の堅固さをもつ者は、何千人中に、ほとんどひとりもないことになろう。それにもかかわらずあえて問
うことのできる人たちを「強い精神」(esprits forts)と呼びならわしてきたのは、だから普通に考え
られている以上に適切な言い方なんだ。ところが、それ以外の人びとにとっては、例の方法で注入され
たのに、いっこうゆるぎない信仰が根をはらぬということぐらい、理屈に合わぬ腹立たしいことはな
い、ということになる。

6 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 20:46:53.83 ID:jU2IaMdC.net
たとえば、異端者や無信仰者を殺すと、それがあの世で魂が救われるたいせつ
な所業だということにでもなれば、ほとんどだれもかれもがそれを人生の一大事と心得て、往生ぎわ
に、人殺しがうまくいったことを思い出して、そこに慰めと安心を見いだすということになろう。現に
昔はほとんどすべてのスペイン人が異教徒火刑を最も信仰のあつい、最も神意にかなった所業とみてい
たし、インドでこれと好一対をなすのはサグという宗教の秘密結社だ。これは最近やっと大量処刑に
よってイギリス人が弾圧したが、それというのも、この結社の仲間は、女神カーリーに対する彼らの信
心と尊崇をを示すために、機会さえあれば、友だちでも旅の道づれでも暗殺してその所持品を奪うという
ありさまで、しかもなにか大いに賞賛すべきこと、自分たちの永遠の救いのたしになることをやった
と、それこそ本気に盲信していたからだ。こういうふうに、若いときに焼きつけられた宗教上の教義は
じつにすさまじい威力を発揮するもので、その力は良心を眠らせ、はてはあらゆる同情や人情の息の根
をとめることさえできるのだ。ところできみが、信仰を若い時代に植えつける行き方の結果を自分の目
でまぢかに見たければ、イギリス人を見ればいいのだ。世の中のあらゆる国民より自然に恵まれ、悟性や精
神や判断力はゆたかにそなえ、節操もかたいこの国民が、彼らの愚昧な教会的迷信のために、他のあら
ゆる国民のはるか下位に蹴落とされ、いや、まさに天下の笑いものになっていることを見てほしいの
だ。その教会的迷信は、彼らのほかのいろいろな能力のなかにあって、まさに一種の固定妄想、偏執狂
と思われるのだが、それはただただ教育が僧侶の手に握られているせいなのだ。僧侶たちはありとあら
ゆる信仰箇条を、ごく若い時期に彼らの頭にたたきこむように心がける、それは一種の局部的な脳髄麻
痺を引き起こす。この脳髄麻痺は生涯、あの愚鈍な頑信となってあらわれる。

7 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:07:54.61 ID:jU2IaMdC.net
彼らのなかで、ほかの点
ではたいへん分別もあり才気も、ある連中でさえこの頑信のために退化し、われわれを途方に暮れさせ
るというわけだ。こういう傑作にお目にかかれるというのも、要は心のやわらかい幼年期に信仰を植え
つけるからだということを考えてみると、布教事業などというのも、現に成果をあげているのが、
ホッテントット族とかカフェル族、南洋諸島の住民とかその他、まだ幼年期の状態にある民族に限られ
ているのもうなずけるが、しかしそれ以上に出ると、もはやたんに人間の厚かましさ・出しゃばり・無
恥の骨頂と思われるだけでなく、馬鹿げたことに見えてくるのだ。インドあたりでも、キリスト教の布
教者の講話となると、バラモンの僧侶たちはうなずくように愛想笑いをしたり、あるいは肩をすぼめて
みせるだけで、概してこの民族のあいだでは、絶好の機会があったにもかかわらず、布教者たちの改宗
の試みはまったく失敗したのだ。『アジア雑誌』第二一巻におさめられている一八二六年の信ずべき報
告によると、布教者たちが多年にわたって活動したあえく、インド全土で(そのうちイギリスの領土だ
けで、一八五二年四月の「タイムズ誌」によれば、人口は一億五千万だ)、現に生きている改宗者は三
百に満たないそうで、しかもその内情は、こういうキリスト教に改宗した者にかぎって品行がきわめて
わるいということだ。つまり億をかぞえる住民のうちで、わずか三百の魂が売りに出され、買い取られた
ということだろう。その後、インドのキリスト教の事情が好転したようすは、どこにも認められない。
もっとも布教者たちは、いまのところ宗教教育でなく、もっぱら世俗的なイギリス式教育をやる学校で、
協定に反して、彼らの精神を子供たちに及ぼそうとつとめており、いわばキリスト教の密輸をはかって
いるが、これに対しては、インド人は非常な猜疑心をいだいて警戒している。なぜかというと、まえに
も言ったとおり、信仰の種をまくには幼年期にかぎるので、おとなになってからでは手遅れであり、と
りわけまえの信仰がすでに根をはっている場合はだめだからだ。

8 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:08:21.69 ID:jU2IaMdC.net
ところで、おとなになって改宗した連
中が新しい信念を得たと称するのは、普通は、なんらかの個人的利害の仮面にすぎないのだ。それ以外
の理由はほとんどありえないということが、だれにでも一見してわかるものだから、いい年をして宗旨
がえするような人は、どこでもみんなから馬鹿にされるのだが、しかしこのことで何か明るみに出て
いるかといえば、たいがいの人が、宗教を理性的な信念の問題とは考えておらず、ただ若い時期に、な
んの検討も加えないで植えつけられた信仰の問題だとみなしていることなんだ。だが、それも無理から
ぬことは、盲目的に信仰している大衆のみならず、どの宗教の僧侶も、その身分上、宗教教典や論拠、
教義や論点まで研究しつくしているにもかかわらず、あげて自分の生まれた祖国の宗教を熱烈・忠実に
信奉しているという事実からも判明する。だから、ある宗教もしくは宗派の僧侶が他の宗教に移るなど
ということは、世にもまれなことなのだ。たとえば、われわれは、カトリックの僧侶が彼らの教会のあ
らゆる教条の真理性をかたく信じているのにお目にかかる。だがプロテスタントの僧侶も新教の真理性
にはゆるぎない確信をもっているんだ。そして双方、たがいに劣らぬ熱意で彼らの宗派の教条を弁護し
ている。だがこの確信は、めいめいが生まれた国しだいにすぎない。つまり南ドイツの僧侶には、カト
リックの教義の真理が完全にのみこめるし、北ドイツの僧侶には新教の教義がよくわかるというわけ
であるに相違なく、植物と同じように、一方の信念はこの土地でだけ、他方の信念はあの土地でだけ栄
えるにきまっているわけだ。ところで民衆は、どこでも、こういう地方的信念居士の確信を、そのま
ま、まともに頂戴するものなのだ。

デモフェーレス 同じキリスト教である以上、本質的に差があるわけでもないんだから、それはそれ
でもかまわないんじゃないか。そのうえ、たとえば現に新教は北に適しているし、旧教は南にうってつけ
だよ。

9 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:35:15.75 ID:jU2IaMdC.net
フィラレーテス そういうふうに見えるね。しかし、ぼくはもっと高い立場から、もっと重要な問題
に目をつけているんだ。すなわち人類における真理の認識の進歩ということだ。この進歩にとってじつ
におそるべき事柄は、ある種の主張が、だれかれかまわず、その出生地がどこであろうと、すでにごく
若い時期に焼きつけられるということだ。しかも、疑えば永遠の救いもふいになる危険があるから、疑
うことは絶対まかりならぬなどと駄目押しまでついているんだから、これはまったくゆゆしい問題なん
だ。つまり、ここで主張といったのは、われわれの他のあらゆる認識の基礎に関係しているような主
張、したがって認識の観点を永久に確定し、もしこの主張自体がまちがっている場合には、認識の観点
をも永久に狂わせてしまうような主張のことだ。さらにその結論はいたるところでわれわれの認識の全
体系に食いこんでくる関係上、人間の知識全体がこの主張のために徹頭徹尾まがいものになってしまう
のだ。これはすべての文献の証明するところだ。とりわけ中世の文献が最も顕著な証明材料だが、十六
世紀および十七世紀の文献だってこれに劣らない。だって、これらのどの時代においても、一流の精神
人までが、例の誤った根本観念のために、まるで麻痺したようになっており、とりわけ自然の真の本質
や活動を見ぬくことになると、目隠し同然であることが見られるではないか。それというのも、キリス
ト教が勢力をもった全期間をつうじて、有神論は、あらゆる精神的努力、とりわけ哲学のうえに、重苦
しい夢魔のようにのしかかり、あらゆる進歩を妨害し、あるいは萎縮させてきたからだ。神・悪魔・天
使・悪霊といったものが、あの時代の学者たちの目から、自然をすっかりおおい隠していた。どういう
研究もとことんまで押し進められることはなかったし、どういう問題もその根本まで掘りさげられるこ
とはなく、明らかな因果関係をこえるものはすべて、神や悪魔といった例の人格をもちだしてきて、た
だちに葬り去られてしまったのだ。

10 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:35:43.99 ID:jU2IaMdC.net
そういう場合に、ポンポナッツィ(『魔法について』第七章)の言
うせりふは、この男の皮肉じゃないかと疑えないわけではない。なにぶんこの男の陰険ぶりは、この場
合にかぎらず、世間周知のことだからね。だがじつは、彼はこの言葉で、当時の一般的な考え方を言っ
たまでなのだ。もし実際に、いろいろな鎖を断ち切る唯一の力である珍しい精神の弾力性でももってい
た日には、その著作どころか、おそらく彼自身が、ブルーノやヴァニーニと同じように、火あぶりの刑
にあっただろうからね。―ところで、若い時代に例の形而上学的手ほどきを受けたりすると、凡庸な
頭がどれくらい麻痺するものか。これがいちばんはっきりわかり、しかも滑稽な側面から見られるの
は、そういう頭脳の持ち主が自分とは無縁な、ほかの教義を批評しようとくわだてる場合なんだ。そう
いう場合にふつう見られる図は、ほかの宗教の教義が自分の信じている宗教の教義と合わないというこ
とを、やっきになって証明しようとかかることだ。すなわち、ほかの宗教の教義には、自分の信奉して
いる宗教の教義に説かれていることと同じことが言われていないばかりか、その意味するところもたし
かに違っているということを、苦労して証明するだけなんだ。まことに素朴きわまる話だが、これで本
人はほかの教義のまちがいを論証したつもりなのさ。どちらかが正しいのだろうか、といった疑問を提出
することなどまったく念頭になく、自分自身の信仰箇条はア・プリオリな原理として動かないわけだ。
『アジア雑誌』第二〇巻でモリソン師は、シナ人の宗教と哲学を批評した一文で、この種の愉快な実例
を提供してくれているが、―まったく楽しくなってくるよ。

11 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:47:17.29 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス じゃ、それがきみのいちだんと高い立場だというわけだね。。だが、もっと高い立場
があると、ぼくは断言する。「まず生活し、つぎに哲学する」という格言があるが、この言葉は、すぐ
のみこめる意味よりも、もっと広い意味をもっているのだ。―とりわけ肝心なことは、大衆の粗暴で
低劣な気持ちを抑制して、彼らを極端な不正や残虐から遠ざけ、暴力ざたや醜行に近づけないようにし
なければならない。大衆に真理がのみこめるまで待っていた日には、後手になることは必至だ。だっ
て、真理がすでに発見されていると仮定したところで、それは大衆の理解力に余るだろうからね。大衆
に役立つのは、いつでも真理を比喩の衣にくるんだもの、つまり寓話とか神話だけだ。カントも言って
いることだが、法と徳の公的な旗じるしがなくちゃいけない、いや、その旗をしょっちゅう空高くひる
がえしておく必要があるんだ。その旗にどんな紋章が描かれていようと、意図するところをあらわして
さえいれば、どんな紋章だってかまわないのだ。真理のこういう寓話は、時と場所のいかんを問わず、
大衆には、けっこう役立つ代用品の一種で、けっきょく彼らには永遠に近づけない真理そのものや、絶
対彼らにはわかりっこない哲学のかわりをつとめるものなんだ。といっても、哲学は毎日すがた形を変え
ているし、どんなすがた形にせよ、まだ一般の承認を得るまでにはなっていないが、それはここでは別
問題としての話だ。そういうわけで、フィラレーテス君、実践的目的のほうがあらゆる点で理論的目的
より優先するわけだよ。

フィラレーテス むかし、ピュタゴラス学派のロクリスのティマイオスが、「ほんとうのことを言っ
ても実効があがらない場合は、いつわりの話で人びとの心を御してゆく」と言っているが、きみの立場
というのも、ほぼそれに近いね。かんぐるわけじゃないが、きみは、近ごろの流行で、

 でもね、きみ、ゆっくり落ち着いてなにかうまいものでも食べたいと
 思うときが、またやってきますぜ

ということをぼくに説きつけようというんじゃないかな。つまりきみの勧めることは、不平から乱暴を
しでかす大衆にぼくたちの食卓を荒らされないように、いまのうちに気をくばっておけ、ということに
帰着するわけだろう。

12 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 22:47:43.85 ID:jU2IaMdC.net
なんだかそんなふうに邪推したくなるね。だが、そういう立場は、なるほどこん
にち一般的に人気があるけれど、断然まちがっているよ。だからぼくは間髪をいれずに意義を申したて
るわけだ。国家や法や法律が宗教およびその信条の助けをかりないと維持されえないし、司法と警察は
法の秩序を貫徹するために、そのやむをえない補充として宗教を必要とする、と考えるのはまちがって
いる。たとえ百ぺんくりかえされたって、まちがいはまちがいだ。というのは、古代人、とりわけギリ
シア人が、れっきとした事実上の反証をわれわれに提供してくれているからだ。つまり、こんにちわれ
われが宗教と解しているものは、ギリシア人にはまったくなかったものだ。彼らは聖典なんか持ってい
なかったし、若いときからたたきこまれ、すべての人に押しつけられるような教義なんかは彼らのあず
かり知らぬところだった。―同様に、坊主ふぜいが道徳のお説教をしたり、ひとさまの品行を気にか
けたり、一般に庶民のなすこと、なさぬことに頭をつっこむなどということは、まったくなかったこと
なんだ! それどころか神官の任務は神殿の儀式、祈祷、歌唱、供物、行列、清祓式などに限られ、そ
れもひとりひとりの個人の道徳的向上などという大それたことを目的とするものでは、さらさらなかっ
た。当時のいわゆる宗教は、ごく局限されたものだ。つまり、ほうぼうの都市国家に「偉大な氏族の神
神」の、ここではこの神、あそこではあの神を祭る神殿があって、ここでその筋の命令で上述の礼拝が
行われただけなのだ。だから、この宗教的儀式は、つまるところ警察事項だったわけだ。この儀式で
働く職員以外は、だれひとり、参列の義務もなかったし、その神を信じるように強いられることはな
かった。なんらかの教義を信奉する義務を負うというようなことは、古代全体をつうじて、どこにも見
あたらない。ただ神々の存在を公然と否認したり、あるいは神々を誹謗した者だけは、処罰された。そ
れは、この神々に仕える国家を侮辱するものだったからだ。

13 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:08:51.83 ID:jU2IaMdC.net
デモフィーレス しかしなにも真理と宗教は対立するものじゃなくて、宗教はそれなりに真理を説く
ものなんだ。ただ、宗教の活動範囲はせまい講堂じゃなくて、世間であり、大きな意味の人類だから、
こういう多数の、いりまじった大衆の要求や理解力に合わせる必要上、むきだしに裸のまま真理をもち
だすことはできないという制約があるだけだ。医学的なたとえを使えば、宗教は真理という薬を大衆に
服用させる場合、真理に混ぜものをする、つまり「転位」させるわけで、一種の溶剤として、神話の衣
をかぶせざるえないだけの話なのだ。この観点からいえば、きみのいう真理なんかも、本来は気体
の、ある種の化学的物質にたとえることもできるわけなんだ。これは放っておけば発散してしまうか
ら、薬として使う場合、あるいはまた保存したり発送したりする場合には、この気体を、固形の、手に
触れうる基底に結びつける必要が出てくるわけだ。たとえば、塩素が、こうしたすべての用途に、塩化
物のかたちでしか用いられなようなものさ。ところで、あらゆる神話的なものと無関係な、純粋で抽
象的な真理なんか、未来永劫、どんな人にも、哲学者さえ、到達できないとすれば、そういう真理
は、単独では絶対に析出できなくて、いつでも他の物質と化合してあらわれる弗素にくらべたらいいだ
ろう。あるいは、―もっと平たくいえば、神話や寓話のかたちでしか言いあらわしえない真理は、容
器がなければ運べない水にくらべてもいいだろう。ところが哲学者たちは、そういう混ぜものを入れな
いで真理を所有しようとがんばっているわけで、彼らは、水そのものを持ちたいばかりに、容器をこわ
してしまう人みたいなものなんだ。ひょっとしたら、これはたとえ話でなくて、じじつ、そういうこと
だろう。ともかく宗教というものは、寓話や神話をかりて言いあらわされた真理なのであり、またそのお
かげで大衆にも手がとどいて消化できるようになった真理なのだ。大衆なんて、混じりけなしの純粋な
真理には、絶対に耐ええないだろうからね。それはちょうど、われわれが純粋な酸素のなかでは生きる
ことができなくて、五分の四の窒素という添加物が必要なのと同断だろう。

14 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:09:18.19 ID:jU2IaMdC.net
たとえ話はこのへんで切りあげるとすると、人生の深い意味と高い目標を大衆にもちこみ、これを開示
するには、象徴に限るのだ。だって大衆には、自分の頭でそこまで理解する能力がないからね。これに
反し哲学は、エレウシスの秘儀同様、少数の選ばれた者たちのためにあるべきものなのだ。

フィラーテス もうわかったよ。問題はけっきょく、虚偽の衣をつけた真理ということに帰着する
わけだ。しかしこの組合せは、真理にとって破滅的だよ。だって、真理を大衆のところへ運ぶ車として
非真理を使う権能をもっている人たちに、いかにも危険な武器が手渡されることになるじゃないか!
こうなっては、宗教にくっついている虚偽のひき起こす害のほうが、宗教のふくむ真実がもたらす利益
をうわまわることになるのではないかと、心配になってくる。じっさい、寓話がはっきり寓話と名乗っ
て出てくるぶんには、それはそれでさしつかえないだろう。だがそうなっては、寓話を尊重する気が
すっかりなくなって、したがって効果もゼロになってしまう。だから、寓話が真実なのは、せいぜい比
喩の意味にすぎないのに、本来の意味でも真実としてまかり通り、真実だと言い張らざるをえなくなる
のだ。この点に、どうにもならない害、永続的な弊害がある。だからこそ宗教は、純粋な真理を求める
とらわれない高貴な努力とたえず衝突してきたし、これからさきもくりかえし衝突することになるわけ
なのだ。

デモフェーレス いや、そうはならないさ。そうならないように、ぬかりなく手は打ってあるんだ。
たとえ宗教が、その寓話的な本性をあけすけに白状しなくたって、いやというほどそのことは暗示して
いるんだからね。

 フィラレーテス というと、どこにそういう暗示があるんだ?

15 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:58:53.50 ID:jU2IaMdC.net
デモフェーレス 密儀さ。それどころか「密儀」(Mysterium)というのは、結局のところ、宗教的寓
話に対する神学上の術語にほかならないんだ。それにまた、あらゆる宗教に密儀はつきものだ。そもそ
も密儀はあきらかに不条理な教義だ。だがこの教義には、それだけでは粗野な大衆の平凡な悟性のまっ
たく解しえないほどの、高遠なひとつの真理が秘められている。ところが大衆は、彼らでさえ気づくよ
うな不条理な点にはちっとも迷わされないで、素直に、この覆いのままで真理を受けいれ、そのおかげ
で、彼らにできる範囲においてではあるが、事柄の真髄にあずかるのだ。注釈としてつけ加えると、哲
学の畑においてさえ、密儀を使うこころみがなされている。たとえばパスカルだが、彼は敬虔主義者で
あり、数学者であり、同時に哲学者であるというこの三重の特性を生かして、「神はいたるところ中心
であって、周辺ではない」と言っているし、マルブランシュも、「自由とは一種の密儀だ」と、いみじ
くも述べたのだ。―われわれはさらに進んで、もともと宗教にあってはすべてが密儀なのだと、主張
することもできるだろう。というのは、本来的な意味での真理を粗野そのものの民衆に教えこむのは、
あたまから不可能であって、ただ真理の神話的・寓話的な残照だけが、民衆にあたえられ、その心を照
らすことができるからなのだ。なんの覆いもないむきだしの真理なんかは、在俗の民衆の眼前にさしだ
せるものでなく、深々とヴェールをかぶった場合にだけ、真理は民衆の目に触れてもさしつかえないよ
うになるのだ。だから、宗教が本来的な意味で真理たるべしというのは、宗教に対するまったく不当な
要求だし、したがってまた、ついでながら言わせてもらうと、現代の合理主義者も超自然主義者も、筋
の通らぬことを言っているからだ。というのは、両者とも、宗教が本来的意味で真でなければならないと
いう前提から出発しているからだ。そしてこの前提のもとで、合理主義者は、宗教は真ではないというこ
とを証明しようとし、超自然主義者は、宗教こそ真であると頑強に主張しているわけなんだ。

16 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/02(水) 23:59:22.56 ID:jU2IaMdC.net
あるいはむしろ合理主義者は寓話的なものに刈りこみを加え手かげんして、それが本来的意味で真であ
るようにするわけだが、こうなれば寓話も陳腐な言葉にすぎなくなる。他方、超自然主義者は、なんの
調整も加えないで、寓話こそ本来的意味で真なんだと主張するわけだが、―これはしかし、彼らとて
当然わかるはずだけれど、異端裁判と火あぶりの薪なしには、とうてい貫徹しえないことだ。ところで、
神話や寓話は、実際に宗教の本来の要素なんだ。大衆の頭が低いんだから、宗教がそれを借りること
は避けがたい制約だけれど、それでも宗教はどうにも抹殺できない人間の形而上学的欲求をじゅうぶん
に満足させ、達成のきわめて困難な、ひょっとしたら絶対できないような、純粋な哲学的真理の代用
になるのだ。

フィラレーテス なんのことはない、木製の義足がほんものの足のかわりになるみたいなもんだろ
う。なるほど義足も代理はつとめ、どうにかこうにかその役目をはたし、そのうえほんものの足に見ら
れたいと思いあがり、ときには巧妙につくられたり、ときにはぶざまにできていたりする、といったぐ
あいだ。しかしひとつ違いがある。義足よりさきに、ほんものの足があるのが普通だが、宗教はどこで
も哲学に先んじていたということだ。

デモフェーレス 文句のつけようもないところだが、でも、ほんものの足をもたない者には、義足
だってたいしたものだよ。見のがしてもらっては困るが、人間の形而上学的欲求は絶対に充足を求めて
いるということだ。なぜなら、人間の思想の地平線は、無際限というわけにはいかず、閉じられる必要
があるからだ。ところで、さまざまの根拠を考量して真偽の決定をする判断力は、人間はふつうもって
いない。そのうえ、自然と自然の困苦によって人間に課せられた仕事は、そういう研究をする暇も、そ
ういう研究が前提とする教養の余裕さえあたえてはくれない。だから普通の人の場合、論拠に立脚した信
念は問題にならず、宗教と権威に頼らざるをえないのだ。

17 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 08:11:06.47 ID:erdeu88j.net
よしんばそれが寓話的に表現された真理にすぎないにしてもだ。さてこの真理は、権威に支えられて、
まず第一に人間の本来的に形而上学的な素質に訴える。つまり、われわれの生存の迫りくる謎を解きたい
という欲求や、世界の自然的なものの背後に、なんらか形而上学的なものが、すなわち不断の変化の基礎
となる不変なものがひそんでいるにちがいない、という意識から発する理論的欲求にまず答えるのだ。
つぎにこの真理は、たえず苦しみながら生きている人間の意志に訴え、恐怖や希望に答える。だからこの
真理は、人間どもが呼びかけたり、なだめたり、味方にしたりすることのできる神々や悪霊を、人間の
ために創りだすわけなのだ。最後にこの真理は、否みがたく存在する人間の道徳的意識に訴える。つまりわ
れわれに外部から保証と拠点をあたえてくれるのだ。この支柱がなかったら、さまざまな誘惑と戦いな
がら、われわれはとうてい毅然たりえないだろう。まさにこの側面から、人生の数知れぬ大きな悩みに
さいして、宗教はなぐさめと安心の無尽蔵の源泉となるのであって、この泉は臨終に及んでもわれわれ
を見放すことはなく、むしろ死においてこそその働きを全面的に展開するのだ。だから宗教は、盲人の
手をとって導いてやる人に等しい。なぜなら、盲人は自分ではものが見えないのだし、しかも肝心なこ
とは彼が目標に達するということであって、一から十までなにもかも見ることではないからだ。

フィラーテス その面はじっさい、宗教の頂点だ。宗教が一種の「欺瞞」(fraus)だとしても、た
しかにそれは「敬虔な欺瞞」(pia fraus)ではある。そのことは否定できない。しかし、そうなると、
僧侶というものは、詐欺師と道学者の奇妙な混血児ということになる。

18 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 08:11:38.64 ID:erdeu88j.net
というのは、きみ自身がまったく正しく説明したように、僧侶は本来の真理を知らないわけだが、たとえ
知っていたところで、人に説いてはならないからだ。しょせん、真の哲学というものはありうるが、真の
宗教など、まったくありえないものだ。ぼくが「真」というのは、言葉の真実・本来の意味でいうので、
きみがやったように、ただ文章の綾で比喩的にいうのではない。きみがいうような意味なら、どんな比喩
だって、程度の差こそあれ、真だろうからね。ところで、真理のなかで最も重要な、最高かつ最も神聖な
真理が、虚偽を混じえてしかあらわれないということ、それどころか、比較的強力な作用を人間に及ぼす
虚偽から真理が力を借りて、啓示として、虚偽によって導きいれられなければならないということは、こ
の世にあまねく行きわたっている解きがたいからみ合い、すなわち幸と不幸、正直と不正、善意と悪意、
高潔と卑劣といったものが混ざりあっていることと完全に符合しているわけだ。われわれは、最高の真理が
虚偽とからんでいるというこの事実を、道徳的世界の花押とみることもできよう。ところでわれわれは、
人類がいつかは、一方では真の哲学を創造し、他方ではこれを受けいれることのできるような、成熟と
形成の時点に達するだろうという希望を捨てたくはないのだ。だって「単純は真理の印章」というではな
いか。裸の真理はきわめて単純で理解しやすいものでなくちゃならん。神話や寓話(嘘八百)なんか混ぜ
なくても――つまり宗教という覆面をかぶせないで、その真の姿のままで万人に伝えなくちゃいけないんだ。

19 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:11:32.68 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス きみは大衆のおそまつな能力をじゅうぶんつかんでいないよ。

フィラレーテス ぼくはただ希望としてそう言っただけなんだが、この希望は捨てるわけにはいかな
い。この希望が実現すれば、単純で理解しやすい形の真理は、宗教が長いあいだ代理的に占めていた座
から宗教を突き落とし、宗教が真理のためにあけておいてくれた座におさまることになろう。そうなれ
ば、宗教はその任務を完遂し、自分のたどるべき道程を完走したことになり、成年に達するまで導いて
きた人びとを手放して、みずからは静かに消え去ることができよう。これこそ宗教の極楽往生だろう。
しかし宗教が生きているかぎり、二つの顔をもちつづけるわけだ。真理の顔と、虚偽の顔だ。そのどち
らかに注目するのに応じて、宗教を愛する人もあろうし、また宗教を敵視する人も出てくるだろう。だ
からわれわれとしては、宗教を一種のやむをえない禍とみざるえない。それがどうしても必要だとい
うのは、真理を把握する能力のない、したがってまたさし迫った場合には、真理の代用品が必要となっ
てくる大多数の人間のあわれむべき精神の弱さにもとづいているわけだ。

デモフェーレス 正直なはなし、きみたち哲学者が真理をもうすでにできあがったかたちでもってい
るとしたところで、そいつを把握するのが問題だってことも、考えてみるべきじゃないか。

20 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:11:58.87 ID:erdeu88j.net
フィラレーテス われわれが真理をもっていないのは、主として、あらゆる時代、あらゆる国々で、
哲学が宗教におさえつけられてきた重圧のせいだよ。真理を口に出して言うこと、伝達することばかり
か、いや、それだけではない、真理を考えたり発見したりすることでさえ、よってたかってできないよ
うにしようとこころみられてきたのだ。その方法は、ごく幼いときに、人びとを僧侶の手にゆだねて、
その頭に手を加えさせることだった。すると僧侶は、これからさき、思想の根幹のところがたどるべき
軌道を、それこそがっちりとみんなの頭にたたきこむものだから、だいたいにおいて、その根本思想は
一生涯、固定して動かなくなってしまったのだ。ぼくは、とりわけぼくの東洋研究のためだけれど、十
六・十七世紀の著作を手にすることがあるが、これらの著作が、最もすぐれた人たちのものえさえ、い
たるところユダヤ的根本思想のために麻痺してしまい、あらゆる側面から束縛されているのを知って、
ときとして驚かざるえないのだ。こういう仕組みじゃ、真の哲学など考えられるはずがないよ!

デモフェーレス その真の哲学とやらが見つかったにしたって、きみが考えているように、宗教がこ
の世から姿を消すことにはならないだろうよ。だって、たったひとつの形而上学で、万人にむくなんて
ものは、ありえないからだ。人それぞれ、精神力にはもって生まれた差異があり、それに加えてその精
神力を育てる違いも出てくるから、ただひとつですべての人間に間に合うということは、絶対ありえない
のだ。大多数の人たちは、全人類の際限もない需要をみたすために不可欠な、重い肉体労働にいやでも
従わねばならぬ。そのため彼らには、教養や勉強や思索の余暇もあたえられないばかりか、刺激性と感
受性の決定的な対立のために、多くの張りつめた肉体労働は、精神をぼけさせ、鈍重・無骨・不可発に
する。したがってきわめて単純な、具体的な事情しか理解できないようにしてしまう。ところで少なく
とも人類の九割はこの範疇に属するのだ。

21 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:38:31.84 ID:erdeu88j.net
 しかし、それでも人びとは、形而上学というものを、す
なわち世界とわれわれの生存についての説明を求める。それは人間の最も自然な欲求のひとつだから
だ。しかも彼らが必要とするのは、民衆形而上学なのだ。これが、民衆のための形而上学であるために
は、じつに多くの珍しい特性をあわせもっていなくてはならない。すなわち、しかるべき点で、ある種
のあいまいさを、いや、不可測性をもちながら、非常にわかりやすいということ。つぎにそのさまざま
な教義に、正しいじゅうぶんな道徳が結びつけられているということを。しかしなににもまして、苦しみ
や死の場合に、汲みつくしえない慰めをもたらすものでなくてはいけないということだ。このことから
すでに、民衆形而上学なるものが、比喩的な意味でのみ真でありうるのであって本来的な意味では真
でありえない、という結論が出てくる。さらに民衆形而上学は権威の支持を得なくてはならないが、そ
れは年代が古いとか、世間一般が認めているとか、聖典があってその語調も文体もすばらしいといった
ようなことから起こってくるのだが、そういう性質がすべてそろっているとなると、なかなかむつかし
いことだ。だからこういう点を考える人だったら、そう簡単に宗教をひっくりかえすことに片棒をかつ
がないで、宗教こそ民衆の宝なのだと考える人も少なくはないだろう。宗教について判断をくだそうと
する者は、宗教が相手とする大衆の性質・状態をつねに注視する必要がある。道徳的にも知的にも、大
衆がおそろしく低いということを念頭におかなくてはいけない。その低調さはお話にならぬが、奇怪な
作り話やグロテスクな儀式のきわめて粗野な被覆の下にさえ、真理が隠然として微光を放っているさま
は、信じがたいものである。それはちょうど、麝香の匂いが、いちどそれに触れたすべてのものにしみ
ついて、なかなかとれないのと同じだ。こういう消息を解きあかすには、ウパニシャッドにこめられてい
る深いインドの知恵を考察したうえで、巡礼や行列や祭典に示されている今日のインドの気違いじみた
偶像崇拝や、当今のサニアッシの荒れ狂う奇怪な行状をながめてみればよいのだ。

22 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:39:00.12 ID:erdeu88j.net
 しかし否定すべくもないことは、こうしたすべての奇々怪々な狂乱ぶりのなかに、右に述べた深い知恵
と一致するもの、あるいはその知恵の反射を示すなにものかが、深くおおい隠されているということだ。
獣じみた大衆には、こういう仕組みが必要だったわけなんだ。――われわれがこの対照で眼前にしている
のは、人類の両極、すなわち個々人の知恵と大衆の獣性だが――しかし両者は道徳の畑で一致する。ああ、
ここであの『クラル』の箴言を思いださない人があろうか。それは「賤民というやつは人間面はしている
けれど、はじめてお目にかかるしろものだ」(1071行)というのだ。――相当程度に教養をもった人
だったら、宗教を適当な匙かげんで解釈することもあろうし、学者、思索的な人だったら、宗教をひそ
かに哲学と取っかえることもあろうが、しかしこの場合だって、ただひとつの哲学で万人にあつらえむ
きというわけにはいかない。それぞれの哲学が、親和力の法則に従って、その教養なり精神力なりがそ
れなりに相応している相手をひきつけるのだ。だからいつの世にも、博識な民衆むきの低級な学校式形
而上学と、選ばれた人むきのそうとう高度な形而上学とが存在するわけさ。たとえばカントの高遠な学
説もフリース、クルーク、ザラート、といった連中によって、まず学校のために引きさげられ、台なし
にされる羽目になったではないか。要するに、この場合こそ、「一事が万人に適合することはない」と
いうゲーテの句が、まさにそのものずばりなのだ。純粋な啓示信仰と純粋な形而上学とは両極端のため
のもので、その中間層のためには、二つのものが無数の組み合わせと等級をなして、入り混じり変化してゆ
くのだ。人間の生まれながらの性質と教養からくる千差万別が、まさにこのことを要求するわけだ。も
ろもろの宗教こそがこの世に充満し、この世を支配している。そして人類の大部分の者が、これらの宗教に
服している。それと並行して、ゆっくりながら次から次と哲学者が物静かに立ちあらわれ、素質と教養
によってそれだけの力をそなえた少数者のために、大きな神秘の謎解きにあたるのだ。だいたい平均し
て、哲学者の出現は一世紀に一人だ。こういう哲学者は、ほんものだとわかると、たちまち歓呼をもっ
て迎えられ、世人も注意ぶかく耳を傾けることになるのだ。――

23 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:53:59.55 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス そういう話を聞くと、さっききみが言った古代人の密儀のことを真剣に考えてみよ
うという気になるね。あの密儀の根底には、精神的素養や教養の違いからくる弊害を取り除こうという
意図がひそんでいるように思われるからだ。その意図というのは、ヴェールをかぶらない真理などに、
どうしても近よれない大多数の人々から、ある程度まで、そのヴェールをはいでみせられるような若
干の人たちを選びだし、そのつぎにまた、このなかから、もう少し理解力が進んでいるために、もう少
し打ち明けられるような数名の者を選ぶというぐあいにして、だんだんのぼって、奥義伝授者に至ると
いうことだった。そういうわけで密儀にも、「小さい密儀、より大きな密儀、最も大きな密儀」と段階
があったのだ。人間の知性が平等ではないという正しい認識が、このことの根底にあったわけなんだ。

デモフェーレス 現代では、下級、中級および上級学校の教育が、あるていど、そういう段階をもっ
た密儀の得度式のかわりになっているね。

フィラレーテス ごくだいたいの話にすぎないよ。それも、高度の知識の対象について、もっぱらラ
テン語で書かれた時期に限るのだ。ラテン語で書かれなくなってからは、どんな密儀もすべて俗化して
しまったからね。

デモフェーレス それはともかくとして、宗教については、きみがもう少し理論面は軽くみて、もっ
と実践面を重視するよう、注意をうながしたいと思うね。たとえ人格化された形而上学が宗教の敵だと
しても、人格化された道徳は宗教の味方だろう。もしかしたら、あらゆる宗教で、形而上学的な点は
誤っているかもしれないが、道徳面では、どの宗教も真だ。このことはすでに、形而上学の問題では、
あらゆる宗教がたがいに抗争しているのに、道徳面ではすべて一致していることからも想像される点
で、――

フィラレーテス つまり、誤った前提から、真実の結論が出てくることもあるという論理学の法則の
一例というわけ。

24 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 15:54:26.71 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス だったら、その結論だけはつかまえて、宗教には二つの側面があるということを、
いつも忘れないでほしいんだ。たんに理論的な、つまり知的な面から見れば、宗教など、まともに一本
立ちできないにしたって、道徳的な面からすれば、理性をさずかった人間という動物をみちびき、飼い
ならし、なだめすかす唯一の手段なんだ。だって人間は、猿と血つづきだといっても、虎の血を引いて
いないわけでもないからね。と同時に宗教は、人間のもっているおぼろげな形而上学的要求を、普通な
らじゅうぶん満たすものなのだ。ぼくに言わせると、きみはどうも、そのきみの博学な頭脳、考える修
練をつんだ明晰な頭脳と、駄馬同然の人たちの、にぶくて無骨な、濁ってのろのろした意識とのあいだ
に、天と地ほどの差、深い断層があることを、じゅうぶんつかんでいないように思えるのだ。人類のな
かのあの駄馬のような連中の思考は、生計の心配で釘づけになっていて、ほかの方向に動かせるもので
なく、もっぱら筋肉の力だけを働かせる結果として、知性のもとになる神経の力のほうは、ひどく低下
してしまうのだ。あの連中だって、滑りやすくて刺の多い彼らの人生行路を渡ってゆくうえで、頼りに
できるなにか確たるものを、どうしてももつ必要があるわけだ。つまりなにか美しい寓話をもたざるを
えないのだ。この寓話のおかげで、彼らの粗野な悟性が象徴や比喩でしか受けいれられないような事柄
が、彼らに伝えられることになる。

フィラレーテス 正直も嘘、徳も欺瞞だから、せめて寓話の衣でも着せて飾る必要があるとでも、き
みは思っているのかね?

デモフェーレス とんでもない! でもあの連中だって、彼らの道徳的感情や行動を、なにかに結び
つけざるをえない。深い説明や繊細な区別などしてみたところで、彼らの心をつかまえられるものじゃ
ない。宗教の真理は比ゆ的な意味のものだと言うかわりに、カントの道徳的神学がそうであるように、
実践的目的のための仮設、あるいは入門的図式とよんでもいいかもしれない。

25 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 20:34:56.58 ID:erdeu88j.net
磁気を説明するために物理学で電流の仮設を設けたり、化学の畑で化合の関係を説明するのに原子の仮設を立て
たりするのと同じ流儀の調整手段だ。こうした仮設は客観的に真だときめてかかるには用心しなければならぬが、
いろんな現象を結びつけるために使われるというのも、その結果や実験の点では、ほぼ真理そのものと同じ
役割をはたすからだ。こうした仮設は行動の指針となり、思索する場合には主体に安心をあたえてくれ
る。きみが宗教をそういうふうに受けとって、その目的とするところは主として実践面にあり、理論は
従だと考えるなら、宗教だって大いに尊重すべきものだというふうに思えてくるだろうよ。

フィラレーテス けっきょく、目的は手段を神聖にするという原則を、どれほど尊重するかだろう
が、ぼくはそういう原則にもとづく妥協には、応じる気にはないね。たとえ宗教がこの二本足の動物、つ
むじまがりで、鈍感で、意地のわるいこの動物を飼いならし、仕込むには、まことにすぐれた手段だと
したって、真理を友とする者の目には、たとえそれが「敬虔な」ものであろうと、すべて「欺瞞」は唾
棄すべきものだ。嘘や欺瞞は珍しい道徳の手段かもしれぬが、ぼくが誓いを立てた旗は真理なので、ど
んな場合もこの旗に忠誠を守って、効果なんか気にかけず、光と真理のために戦いぬくよ。宗教を敵の
隊列に見かけたら、ぼくは――

デモフェーレス ところがきみは敵の隊列なんかに宗教を見いだすことはないよ! 宗教は欺瞞じゃ
ない。それは真であり、あらゆる真理のなかでいちばん大切な真理だ。しかし、まえにも言ったよ
うに、その説くところが、大衆には直接理解しえないほど高い性質のものであり、いいかね、その光で大
衆の目がくらんでしまうくらいだから、宗教は寓話のヴェールをかぶってあらわれるのだ。そしてその
説くところは、それ自体として真ではないにしても、そこにふくまれた高い意味からすれば真なん
だ。こう解すれば、宗教は真理だよ。

26 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 20:35:22.97 ID:erdeu88j.net
フィラレーテス それはたしかに聞くべき意見だろう――もし宗教がただの寓話としてのみ真だと言う
のならね。ところが宗教は、言葉のまったく本来的な意味で、端的に真だと言いはりながら出てくるの
だ。ここに欺瞞がある。この点こそ、真理を友とする者が、宗教に敵対せざるえない点なんだ。

デモフェーレス しかし、それは必然的制約だ。もし宗教が、その教えの寓話的意味だけが真だと、
その内情を打ち明けようものなら、効果はあがったりで、人間の道徳面・情操面に及ぼしていた宗教の
測りしれない好影響は、そういう厳格主義のために失われることになろう。かたくなに杓子定規をふり
まわさないで、実践面で、つまり道徳や情操方面で宗教が果たしている大きな仕事に注目すべきだ。行
動の指針として、生や死における悩める人間の支えとして、また慰めとして、宗教があげている実績を
見るべきだ。そうすればきみだって、民衆の慰めと安心の無尽蔵の源泉になっているものに、いたずら
に理論的酷評を加えて、これを疑わしいものにし、ついに民衆の手からそれを取りあげるようなことは
しまいと、大いに気をつけるようになるだろう。だって民衆は、われわれ以上につらい運命にさらされ
ており、われわれ以上にこの源泉を必要としているのだ。その意味だけからも、絶対に手を触れてはい
けないのだ。

フィラレーテス そういう論拠なら、免罪符の売買を攻撃したルターを槍玉にあげることだってでき
ることになるぜ。だって、免罪符は、じつにたくさんの人にとって、代えがたい慰藉、完全な安心の源
泉になったんだ。彼らは、臨終の床で免罪符をしっかりにぎりしめ、それに全幅の信頼をよせ、これで
九重の天のどこへでもはいれると確信しながら、安心して死んでいったのだ。――だまされていたのが
わかるという、いわばダモクレスの剣がいつも上にぶらさがっているような慰藉や安心の根拠など、な
んの役に立とう! ねえきみ、真理だけが確実なんだ。永持ちし、忠実なんだ。真理の慰めだけが堅い
慰めだ。真理は不壊のダイヤモンドだよ。

27 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 21:44:40.84 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス なるほど、きみたちがポケットに真理を忍ばせていて、お望みに応じて、われわれ
をうれしがらせてくれるというのならね。だが、きみたちのもっているのは、さまざまな形而上学の体
系にすぎぬ。そのために頭をくだくこと以外に、確かなものはなにひとつ、そこにはないのだ。ひとさ
まからなにかを取りあげる以上、なにかそのかわりに、もっとよいものをさしだせなくちゃ。

フィラレーテス そんなことをいつまでも聞かされちゃ、たまらないよ! ある人を誤謬から解放す
るということは、その人からなにかを奪うことではなくて、あたえることだよ。あることがまちがって
いるという認識は、まさに一つの真理だからね。誤謬で有害なものはないんだ。おそかれはやかれ、誤
謬をいだいている人に禍をあたえることになるのさ。ひとをペテンにかけてはいけない。知らないこと
は知らないと白状するほうがましだ。そしてだれにでも、めいめい自分の教義をつくるように任せたら
いいのだ。いろんな教義が出てきたって、さしてひどいことにもならんだろう。おたがいに摩擦し、修
正しあえば、なおさらだ。いずれにせよ、見解の多様性は寛容の基礎になろう。しかし、知識や能力に
めぐまれた人たちは、哲学者の研究にとりかかるか、自分で哲学史を一歩さきへ進めればいいんだ。

デモフェーレス そうなったら壮観だろうて! めいめい縄張りをもって、甲論乙駁し、ときにはな
ぐりあいも辞さない形而上学者がわんさかと出てくるわけだ!

フィラレーテス なあに、たまに棍棒の飛びかうのも人生の薬味さ。あるいは、僧侶政治、俗人の掠
奪、異教徒迫害、宗教裁判、十字軍、宗教戦争、聖バルトロメウス祭の夜の虐殺などに比べたら、少な
くともほんのちょっとした悪だ。こうした事件は、なんといっても天下ごめんの民衆形而上学の結果
だった。だからぼくは、いばらのやぶから葡萄がとれる見込みはなく、欺瞞から救いは期待できないと
いう説を曲げないのだ。

28 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 21:45:07.39 ID:erdeu88j.net
デモフェーレス くどいようだが、宗教は断じて欺瞞じゃない、真理そのものだよ。ただ神話や寓話
の衣をつけているだけだよ。――みんながめいめい自分の宗教の開祖になればいい、というきみの腹づ
もりについては、ぼくには文句がある。そういう分離主義はまったく人間の本性に反しているよ。それ
を許したら、社会秩序なんかすべてめちゃくちゃになるぜ。人間は形而上学的動物だ。つまり、きわめ
て強い形而上学的欲求の持ち主なんだ。だから人生の形而上学的意義をまっさきにつかみ、そこからす
べてが導きだされることを求めるのだ。あらゆる教義が不確かなんだから、とても変に聞こえるかもし
れないが、形而上学的根本見解の点で一致していることが、人間にとって肝要なことなので、それはそ
の点で同じ考えをもっている人たちの間でだけ、真の永続的共同体が可能になるくらいなんだ。そのた
め諸民族の離合集散だって、政府や、それどころか言語によるよりも、むしろ宗教しだいなのだ。だか
ら、社会という建物も、つまり国家も、その土台に、一般に承認された形而上学の体系があってはじめ
て、完全にゆるぎないものとなるのだ。もちろんそういう体系といえば、民衆形而上学、すなわち宗教
以外にはありえない。しかしそれはやがて憲法や、民衆のあらゆる社会的生活様式や、さらにまた個人
生活のあらゆる儀式と融けあう。古代インドでもそうだったし、ペルシア人、エジプト人、ユダヤ人に
おいても、またギリシア人、ローマ人においても、さらにまたバラモン教や仏教や回教の諸民族の場合
もそうだった。シナでは、三種の教義が行なわれている。そのうちいちばん普及している仏教が、国家
から保護されることがいちばん少ない現状だ。しかしシナで一般に通用している、日常使われている格
言に「三教は一なり」というのがあるが、大筋のところで三つの教義が一致するというのだ。皇帝もま
た三教をすべて同時に、一つにして信奉する立場を表明している。

29 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:18:29.87 ID:erdeu88j.net
最後にヨーロッパはキリスト教的国家同盟だ。キリスト教が各同盟国家の基礎になっており、そのすべて
の国をつなぐ共同の紐帯になっている。そういう意味から、トルコはヨーロッパに位置してはいるけれど、
ほんらいヨーロッパには数え入れられないのだ。したがってヨーロッパの君主は、神の恵みによって
「天佑を保全せる」君主なのであり、ローマ教皇は神の代官というわけだ。だから教皇は、その威勢の最も
盛んであったときには、あらゆる帝位を彼の授けた采邑とみなすように求めたのだ。同様に、大僧正や僧正
も、そういう立場から世俗的権能をもっていて、現にイギリスでは上院に議席と発言権をもっているわけな
んだ。プロテスタントの君主たちは、その建前上、その教会の長でもあるわけで、イギリスではそれが十八歳
の少女だったのも、そう昔の話ではない。宗教改革は、教皇から離れることだけですでに、ヨーロッパの
国家組織を動揺させたが、とりわけ信仰の共同体を破ることによって、ドイツの真の統一を解体したのであ
り、事実上この統一が崩壊してしまったあとから、人為的な、たんに政治的な紐帯でこれを再興せざる
をえなくなったのだ。こうして見ると、信仰と信仰の統一が、社会秩序および国家とどんなに本質的に
関連しているか、きみにもわかるだろう。信仰はどこでも法と憲法の支柱であり、つまりは社会組織の
基礎なのだ。もし信仰が政府の権威や君主の威厳をあと押ししなかったら、社会という建物の存立も困
難だろう。

フィラレーテス まったくのはなし、君主たちにとって主なる神は、サンタクロースのおじいさんな
んだ。ほかに手がないと、彼らはこのおじいさんを使って大きな子どもたちを寝床に追いやる。そこで
大いに尊重しているわけさ。もっともな話さ。それはそうと、ぼくはすべての君主にすすめたいことが
あるよ。半年に一度、はっきり決められた日に、サムエル記上の第十五章をまじめに注意して読みとも
すことだ。王位を祭壇で支えておくことが、どんなに大切かということを、いつも忘れないためにね。

30 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:18:56.09 ID:erdeu88j.net
そのうえ、「神学者の最後の根拠」ともいうべき火あぶりの薪が使われなくなってからは、宗教を笠に
きて統治するという手は、ひどくききめがなくなってしまった。というのも、きみも知ってのとおり、
宗教は蛍のようなもので、光るためには闇がいるからなんだ。一般の人びとがあるていど無知だという
ことが、あらゆる宗教の条件であり、宗教が生きうる唯一の要素なんだ。ところが天文学・自然科学・
地質学・歴史・地理学・民俗学といったものが、その光を一般にひろげ、最後に哲学まで発言を許され
るとなると、奇蹟や啓示に支えられていたすべての信仰は、たちまち没落の憂き目で、哲学がその座を
占めるということになる。ヨーロッパでは、十五世紀の末ごろ、新しくギリシアを研究した人たちがあ
らわれて、認識と学問のあの一日の明けそめ、その太陽は、実りゆたかな十六世紀、十七世紀において
ますます高くのぼり、中世の霧をはらいのけたわけだ。それにつれて、教会や信仰はしだいに沈まざる
をえなかった。だから十八世紀になると、イギリスやフランスの哲学者どもが、教会や信仰に対して直
接反旗をひるがえすこともできるようになり、ついにフリードリッヒ大王の治下にカントがあらわれ、宗
教的信仰から従来の哲学の支柱を取り去り、「神学の侍女」を解放したのだ。カントがこの問題に取り
組んだやり方は、まことに泰然として徹底的だったから、宗教問題も浮わついた調子でなく、いよいよ
厳粛なおももちを呈するようになったのだ。その結果として十九世紀になると、キリスト教はすっかり
弱体化してしまい、本気に信じる者なんかほとんどなく、それどころか、すでに死ぬか生きるかの最後
のあがきまで見せるようになる。いっぽう、これを気づかう君主たちは、あたかも瀕死の重病人に医者
が麝香を使うように、人為的な刺激剤でキリスト教を助けおこそうとかかるしまつだ。だがここで聞い
てほしいのは、コンドルセの『人間精神の進歩』の一節だ。これはまるで現代の警告として書かれたよ
うにも思えるのだ。「哲学者たちや偉い人たちが宗教に熱をあげたのは、政略的な信心でしかなかった。
どんな宗教も、民衆にゆだねたほうが有利だと思いながら、それでも防衛してゆくというふうになった
ら、長い短いの差はあれ、けっきょく苦悶のはてに死ぬ以外の望みはないのだ。」

31 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:30:16.54 ID:erdeu88j.net
 いままで述べてきた経過全体で観察できることは、信仰と知識の関係が天秤の二つの皿のようなもの
で、一方が上がるにつれて、他方が下がるということだ。しかもこの天秤は非常に敏感にできていて、
瞬間的な影響でも表示する。たとえば、今世紀のはじめ、ボナパルトを首領としてフランスの賤民ども
が掠奪を行ない、その後これらの輩を追いだしたり懲戒したりするのに、たいへんな苦労を払わされた
結果として、一時的ながら学問を等閑視することとなり、そのため知識の一般的普及も、あるていど低
下したとなると、とたんに教会はふたたび頭をもたげはじめ、信仰はただちに新しい活気をみせたの
だ。もっとも活気といっても、時代が時代だけに、一部はたんに詩的な性質のものにすぎなかったけれ
どもね。ところがそれにつづく三十年以上にわたる平和時代には、閑暇と福祉が学問の開拓と知識の普
及を珍しく促進したその結果として、まえにも言ったように、宗教はいまにも解体しそうなくらい衰退
したわけなのだ。もしかすると、宗教がヨーロッパの人間におさらばをする時点が、しばしば予言され
ていたように、やがてやてくるかと思われたほどだ。それはちょうど子供が大きくなって、お守りが
いらなくなると、乳母がさよならをするのと同じことで、こんどは子供は家庭教師に教えてもらうこと
になるわけだ。というのは、権威や奇蹟や啓示にもとづくただの教義が、人類の幼年期だけ適した一
時のまにあわせにすぎないことは、疑いをいれないからだ。ところで、人類の全存続期間は、自然的お
よび歴史的資料の一致して示すところによえうろ、今日までで、六十歳の男の生涯のおよそ百倍以上には
ならず、まだほんの初期幼年時代にあることは、だれでも認めるところだろう。

デモフェーレス ああ、もしきみがキリスト教の没落を予言してそんなに得々としていないで、ヨー
ロッパ人がその真の古い故郷であるオリエントから発して、その後、彼らにつき従うことになったこの
宗教に、どんなに無限に多くを負うているかを見る気になってくれればね! ヨーロッパ人はこの宗教
によって、それまで彼らの知らなかった目的を得たのだ。つまり、人生は自己目的ではありえない、わ
れわれの生存の真の目的は生存の彼岸にあるという根本真理を認識したのだ。

32 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/03(木) 23:33:14.74 ID:erdeu88j.net
というのは、ギリシア人やローマ人は、生存の目的をまったく生そのもののうちに置いていた。この意味で彼らは、
たしかに盲目的異教徒とよんでもさしつかえないのだ。したがって彼らのあらゆる徳は、公益に役立つもの、――
有用なものに還元される。アリストテレスなんかも、きわめて素朴に、「他の人たちに最も役立つ徳が、
必然的に最大の徳でなければならない」(『弁論術』一の九)と言っている。だから、じっさいまた祖国
愛が古代人の最大の徳なのだ、――といっても、偏狭・偏見・虚栄・良い意味の利己心などがこれに大
いにあずかっているから、もともとこれはあいまいな徳ではあるがね。いま引用した個所のすぐまえの
ところで、アリストテレスはすべての徳目を数えあげ、ひとつひとつこれを説明している。それは、正
義・勇気・節度・鷹揚・雅量・寛仁・温情・思慮および聰明といったもので、キリスト教の徳目とずい
ぶん違っているね! キリスト教以前の古代で超越的な点では比較を絶している哲学者プラトンでさ
え、正義以上の高い徳を知ってはいない。しかもこの徳を、無条件的に、それ自体のためにすすめてい
るのはプラトンだけで、他のすべての哲学者は、あらゆる徳目の目標を「幸福な生活」に置いており、
道徳はそういう生活への手引きだった。キリスト教は、こういうはかない、不確かで味気ない生存に、
平板粗雑に頭をつっこんでいるヨーロッパ人を解放し、

    その目を天に向けさせ
    そのまっすぐな顔を星座に向けさせた

のだ。だからキリスト教はただ正義を説くだけでなく、博愛・道場・慈善・宥和・敵に対する愛・忍
耐・謙遜・断念・信仰および希望を説いたのだ。いや、さらに進んで、この世が悪に由来すること、わ
れわれが救済を必要とするものだということを教え、したがって、現世を軽蔑し、自己を否定し、純潔
を保ち、我意を捨て、人生とその欺瞞的な享楽に背を向けるように説いたわけだ。それどころか、受苦の
救いの力を認識するように教えたのであって、ある拷問具がキリスト教の象徴になっているしだいなのだ。

33 :神も仏も名無しさん:2015/09/03(木) 23:35:49.20 ID:ErzGISQy.net
愛犬にウパニシャッドとかつけてたね、ショーお爺ちゃんwww

34 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 00:21:23.85 ID:fxC3YCHC.net
 しかも日常生活は、クセノポンの『饗宴』がそのおもかげを描きだしてくれているように、きわめて高雅な社交に
よって美化されていた。さてこんどは、きみには辛いだろうが、中世を見たまえ。――この時代は、教会が精神を
しばり、暴力が肉体をしばっていた時代だ。それというのも、騎士と坊主が彼らの共通の駄馬である第三身分の者ども
に、生活の重荷をすっかり負わせたためなんだ。そこにきみが見いだすのは、緊密に結びついた武断政治と封建制度と
狂信であり、またその結果としてひどい無知と精神の闇、この無知にふさわしい非寛容、宗門争い、宗教戦争、
十字軍、異端者迫害、そして宗教裁判といったものだ。ところで社交の形態としては、粗野とお
しゃれをつなぎあわせてできた騎士道があった。そこには酔狂きわまることが、ことこまかにきめられ
てひとつの体系をなし、人間の品位を落とすような迷信、猿にふさわしいような女性尊重がつきもの
だった。そのなごりがいまの女性上位の慇懃だが、そのむくいとして女性が威張るのは当然な話で、
あらゆるアジア人にいつも笑い草を提供しており、ギリシア人だってこれに吹きだすにきまっている
よ。これが中世の黄金時代には、形式的で整然とした婦人崇拝に発展した。つまり英雄的行為を務めと
して果たしたり、愛の奉仕をしたり、トルバドゥール流の誇張した歌をつくるといったことだ。最後に
あげた茶番には、それでもどうやら知的な一面があるが、これもフランスが本場だということに注目し
なくちゃならぬ。ところが実質本位で愚鈍なドイツ人ときては、騎士も大酒をくらったり掠奪したりす
ることのほうが得手で、大杯と盗賊騎士の城のほうが彼らの関心事だったのだ。もちろん諸方の宮廷で
は、幾人かの気のぬけた恋愛歌人にこと欠いたわけではない。古代と中世と、どうしてこんなに光景が
一変したのか? 民族移動とキリスト教のためだ。

35 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 00:22:07.53 ID:fxC3YCHC.net
デモフェーレス その指摘はいい。民族移動は禍の源流だった。キリスト教はその流れをせきとめた
堤防なのだ。民族移動の洪水で押し流されてきた粗暴野蛮な遊牧民にとって、キリスト教はさしずめ彼
らを飼い馴らし仕込む手段になったのだ。粗暴な人間はまずひざまずくことを学び、崇敬と従順を会得
する必要があった。そのうえではじめて教化も可能になったのだ。アイルランドでは聖パトリックがこ
のことをなしとげたのだが、ドイツでそれに相当するのはサクソン人ウィーンフリートで、彼は文字ど
おりボニファキウスとなったわけだ。アジア人種がヨーロッパへとどんどん押しかけてきたその最後が、
民族移動とよばれるわけだね。こういう動きは、アッティラやジンギスカンやティムールのときにも試
みられたが、なんの実もむすばなかったし、滑稽な後奏曲としてはジプシーの流浪なんかがあったわけ
だ。ところでこの民族移動こそ、古代の人間性を洗いおとしてしまったのだが、キリスト教はまさにこ
ういう粗野に対抗する原理だった。それは中世全体をつうじて教会が教権制度でもって、現世の実力
者、君主や騎士たちの粗暴と野蛮を抑えるのに、大いに必要であったのと変わらない。つまり教会はこ
れらの巨大な氷塊の砕氷船になったのだ。ところで教会の目的とするところは、現世の生活を快適にす
るというよりも、むしろわれわれをよりよい生活に値する者にすることにある。このしばしの時、この
はかない夢には目もくれずに、キリスト教はわれわれを永遠の救いにみちびこうとするのだ。そのねら
いは、それまでヨーロッパには知られていなかった言葉の最も高い意味で、倫理的なのだ。さっきも、
古代人の道徳と宗教をキリスト教のそれと対比して、きみに注意したようにね。

フィラレーテス 理論だけなら、それでいいんだ。しかし実際を見てもらいたいんだ。中世期には、
不自然な死の拷問や火刑が無数に行われたね。古代人が、このキリスト教的数世紀にくらべれば、さ
ほど残酷でなかったことは、議論の余地がない。さらに古代人は非常に寛容で、とりわけ正義を重ん
じ、しばしば祖国に身をささげ、あらゆる種類の高邁な性向と純粋な人間性を示した。だから、今日に
いたるまで彼らの行動や思惟を知ることが人文研究とよばれているくらいなんだ。

36 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 10:41:31.35 ID:fxC3YCHC.net
宗教戦争、宗教的人殺し、十字軍、宗教裁判、そのほかの異端審問、アメリカ原住民の絶滅、そしてそのかわりに
アフリカ奴隷の移入――こうしたことが、キリスト教のもたらした実で、これに類すること、これに匹敵する
ことは古代人では見あたらない。というのは、ファミリア(familia. 家族)とかヴェルナ(vernae.家
内奴隷)とかよばれる古代人の奴隷は、主人に忠実に仕えて満足している人たちであって、砂糖きびの
農場でこきつかわれて、人類を呪っている不幸な黒人とは雲泥の差があることは、その皮膚の色の違い
と同様だからだ。古代人の道徳でおもに非難の的になっているのは、男色を大目に見ていることだが、
これはもちろん非難すべきことではあるけれど、右に述べたようなキリスト教の暴虐にくらべれば、と
るにたらぬ些事だし、近代人においても、男色は表面化するのは減っているかわりに、珍しくなったとい
うには程遠いのだ。あれこれ考えあわせて、きみは、キリスト教によって人類がほんとうに道徳的によ
りよくなったと主張できるかね?

 デモフェーレス キリスト教の成果が必ずしもその教説の純粋さと正しさに照応しなかったのは、そ
の説くところが人類にとってあまりに高貴・崇高にすぎ、目標があまりに高いところに置かれていたせ
いだろう。異教の道徳に従うことは、回教の道徳の場合と同様、もちろん比較的容易だった。最も崇高
なものほど、どんな場合にも、濫用と欺瞞にさらされている度が高いのだ。「最上のものの濫用は最悪
となる」という格言どおりだ。そういうわけで、じっさいまたあの高遠な教えが、ときとしてじつに忌
まわしい所業やほんとうの犯行の口実に使われたこともあるわけさ。――ところで古代の国家組織が没
落したこと、また古代世界の芸術や学問が没落したのは、まえにも言ったように、外国から野蛮人が侵
入してきたせいだ。そこで無知と粗暴がのさばり、その結果、暴力と欺瞞が横行して、騎士と坊主ども
が人類の上にのしかかる重荷になったことも、避けがたいことだった。こうなったことについては、一
部分はキリスト教の性質から説明することもできる。

37 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 10:42:09.53 ID:fxC3YCHC.net
すなわちこの新しい宗教は、現世の救いではなくて、永遠の救いを求めることを教えたのであり、
したがって頭の知識よりも心の素朴を尊いものとみなし、結局は学問や芸術の奉仕するあらゆる
世俗的享楽を好まなかったということだ。しかし学問や芸術も、宗教に仕えるかぎりでは、
奨励もされ、ある程度の花を咲かせることもできたわけだ。

 フィラレーテス そうはいうけれど、人類がそれまでに獲得した知識、古代人の文書のなかに書きと
められていたものを没落から救ったのは、もっぱら僧侶であり、とりわけ修道院の僧侶たちじゃない
か。キリスト教がその直前にあらわれたからよかったものの、そうでなかったら、民族移動でこういう
ものがどうなっていたか知れないではないか!

 フィラレーテス もろもろの宗教によって得られた利益と、それによってひき起こされた損失とを、
いつかきわめて公平に冷静に、どちらの側にも立たないで、厳密に正しく秤る試みがなされるなら、そ
れはほんとうに役立つ研究になるだろうね。もちろんそのためには、われわれふたりの使えるよりも、
はるかにたくさんの量の歴史的・心理学的資料が必要だけれどもね。学士院なんかも、これをひとつ懸
賞問題の題目にしてもよいだろう。

デモフェーレス そんな無茶はやるまい。

フィラレーテス きみがそんなことを言うなんて、おかしいね。宗教に歩がわるいからだろう。もっ
とも学士院といったって、せっかく問題を出しても、うまく調子を合わせるこつを心得ているやつが賞
をもらうといったことが、暗黙の条件になっているような学士院だってないわけではないからな。――

38 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:01:43.92 ID:fxC3YCHC.net
さしずめだれか統計学者が教えてくれると、ありがたいね。毎年、宗教的動機から犯罪を思いとどまる
者がどれくらいの数になり、宗教以外の他の動機で中止する者がどれくらいの数になるかだ。前者はご
くわずかだろう。というのは、なにか罪を犯そうという誘惑を感じた場合、それを思いとどまらせる第
一のものは、そういう犯罪に課せられた罰と、そういう罰にひっかかるかどうかという可能性であるこ
とはまちがいないからだ。そのつぎに第二の問題になるのは、名誉を損じる危険性だ。ぼくの考え違い
でなければ、地獄に落ちるかもしれんといった宗教的な考えがちょっとでも頭に浮かぶさきに、まずこ
の二つの障害にぶつかって、何時間も考えあぐむのが普通だろう。だがこの二つの犯罪の歯止めを乗り
こえてしまった場合に、宗教だけで思いとどまるなんて、ごくごく稀だと思うな。

デモフェーレス いや、あんがい多いとぼくは思うね。とりわけ宗教の感化は、習い性となって、だ
れでも大きな犯罪にはすぐ尻込みするから、なおさらだ。若いときに刻みつけられたものは、なかなか
抜けないものだ。その証拠に、考えてもみたまえ。いったん約束したからには、とりわけ貴族だが、と
きにはひどい犠牲を払っても、これを果たす人が多いのも、若いときに、「名誉を重んじる者は、紳
士とか騎士は――いつでも固く約束を守るものだ」と、まじめな顔つきで父親から言ってきかせられた
せいだよ。

フィラレーテス 持って生まれた誠実さがなければ、そうはならないよ。この生得的な品性のよさか
らそうなるのに、きみのようにそれを宗教のせいにしてはならない。過失や犯罪をおかした人に、同じ
人間として同情を感じるところから、そういう非行を思いとどまるというのも、持って生まれた性質が
よいからだ。そしてそれは純粋な道徳的動機で、その性質からいって、あらゆる宗教とは無関係なものだ。

39 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:02:30.38 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス しかし、大衆の場合、道徳的動機も、これを補強する宗教的動機にくるまないと、
いっこうにききめはないな。きみのいう持って生まれた性質がない場合だって、宗教的動機だけで犯罪
の防止になることは、よくあることだ。だいたい高い教養をもった連中でさえ、寓話的な意味の真理を
根底にもつ宗教的動機なんかの影響ではないにしても、きわめて荒唐無稽な迷信にさえ左右され、一生
そんなものに引きまわされているじゃないか。たとえば、金曜日には新規なことに手を出さないとか、
十三人では食卓につかないとか、偶然的な前兆に従うとか、そのほか、いろいろあるね。大衆の場合が
もっとひどいとあっても、べつに驚くにはあたらないよ。きみなんか、粗野な大衆の偏狭さがどんなも
のか、とても想像できないんだ。それはまっ暗闇なんだ。とりわけその性根がよこしまで、意地わるく
できているのがざらだから、なおさらだ。人類の大部分を占めているこの手合いを、われわれとして
は、ともかくできるかぎり指導したり抑制したりしなくちゃならない。その場合、やつらを動かすの
に、ほんとうに迷信的なものでもかまわないのだ。あの連中に、もっとましな正しい動機を受けいれる
日がくるまではね。だが、宗教が直接ききめをあらわす場合も、ないではない。たとえば、とくにイタ
リアではそうだが、泥棒をしても聴罪師の手をへて盗品をかえすといったことがあるね。これが赦免の
条件になるからさ。つぎに考えてほしいのは、宗教が決定的な役割を果たす宣誓のことだ。これにはい
ろんなやり方がある。フランスあたりでは、簡単に「わたしはそれを誓います」という宣誓方式がとら
れていて、人間はもっぱら道徳的存在の立場に立ち、厳粛に呼びかけられるという自覚を基本としてい
るように思われるし、クェーカー教徒なんかも同様で、厳粛に「はい」とか「いいえ」といえば、それ
で宣誓のかわりになるのだ。あるいはまた、宣誓の場合に口にするとおりに、自分の永遠の至福が失わ
れると本気に信じる場合もあろう。こういう信念は、その人の気持ちを宗教的に言いあらわしたものだ
といえる。

40 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:25:55.35 ID:fxC3YCHC.net
ともあれ宗教的表象は、われわれの道徳的本性をめざめさせ、呼びおこす手段なのだ。偽り の誓いを立てても、
いざとなると、ころりとひっくり返ることもよくあることだ。こうして真実と正義が勝つことになるわけだ。

 フィラレーテス しかしそれ以上に、実際に偽誓がまかり通って、その事件の証人がみんなはっきり
事情を知っているのに、真実と正義が踏みにじられることだって、なかなか多いよ。宣誓は法律家の形
而上学虎の巻だ。だから、できるだけ使わないにこしたことはない。けれども、やむをえない場合は、
いと厳粛に、僧侶の出席のもとに、しかも教会とか法廷付属の礼拝堂でやるべきだ。きわめて疑わしい
場合には、学童を陪席させるのも適切だ。その意味で、フランス式の宗教ぬきの宣誓方式は役に立たな
い。あたえられた既成宗教をぬきにするかどうかは、その当人の教養の程度に応じて、めいめい各自の
思いどおりにまかせるべきだろう。――ともかくきみが、誓いを宗教が実際に役立つ明瞭な実例として
あげたのは正しい。しかし、きみはいろいろ言ったけれど、宗教の実効がそんなにあるなんて、疑わざ
るをえないな。考えても見たまえ。いまとつぜん、おおやけの布告であらゆる刑法が廃止されたとした
ら、きみもぼくも、宗教的動機の保護だけで、ただこの場所から帰宅するだけの勇気さえも持てないと
思うよ。だが同じようなぐあいに、すべての宗教がまちがっていると言われたって、ぼくたちは別にこ
とさら心配したり警戒したりしないで、法の保護だけで従前どおりの生活ができるじゃないか。――も
う少し言わせてもらうと、宗教にはとかく道徳をひきさげる力があるということだ。一般的に言えるこ
とは、神に対する義務さえ果たせば、人間に対する義務が免除されるということだろう。人間どうしの
あいだで落ち度があっても、そのかわりに神さまにとりいれば帳消しだとあれば、そのほうがうんと楽
だからね。だからいつの時代にも、どこの国でも、たいがいの人びとは、善行をつんで天国入りの資格
を得るよりは、簡単にお祈りですべりこもうとするわけだ。

41 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:26:30.66 ID:fxC3YCHC.net
神さまの思召しにかなういちばん手近なことも、道徳的行為なんかではなくて、まず信じることであり、寺院における
いろいろな種類の儀式や礼拝だというふうに、どんな宗教でもやがてなってくる。それどころか、それが僧侶の利益と
結びついて、お寺まいりのほうが、しだいに道徳的行為の代用と見られるようになる。十字架像を寄進したりすること
も、それでひどい犯罪のつぐないができるとあれば、たいへん歩のいい仕事ということになる。この種のもの
には、懺悔、僧侶の権威に対する服従、告白、巡礼、寺院や僧侶への寄付、修道院建設などいろいろあ
るから、ついには僧侶は、賄賂のきく神々との取引を仲立ちする者ぐらいにしかみえなくなる。たとえ
それほど極端にならないとしても、その信者たちが、すくなくとも祈禱や賛美歌やいろいろな礼拝を、
一部は道徳的行状の埋合せと見ないような宗教があるだろうか? たとえばイギリスを見たまえ。あの
国の坊主どもの図々しさったらないね。もともとユダヤ教の安息日に対抗してコンスタンティヌス大帝
が制定したキリスト教の日曜日を、彼らはそんなことにおかまいなしに、ユダヤ教の安息日と同一視し
ているんだからね。名前まですりかえているんだ。エホバが安息日に対して定めたところによると、六
日間の仕事で疲れ給うた全能の神が、この日にお休みにならねばならないとなっているね。つまり安息
日とは本質的に一周の最終の日になるわけだ。それなのにイギリスの坊主どもは、この掟をキリスト教
徒の日曜日にもちこんでいる。日曜日とは「太陽の日」、はなばなしく週の開始を告げる第一日、敬虔
と喜悦の日だ。この密輸入の結果、現にイギリスには、「安息日違反」(sabbathbreaking)とか「安息日
の神聖冒涜」とかよばれるものがあるね。つまり日曜日に、有用あるいは快適などんな軽い仕事をして
も、遊戯でも音楽でも、宗教書以外のどんな読書も、靴下を編むことまで、重い罪に数えられているのだ。

42 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:45:13.64 ID:fxC3YCHC.net
 こうなると、くだらないやつが、その宗教的指導者の教えるとおりに、いつでも「神聖な安息日の
厳守」と「礼拝への几帳面な出席」とを守っているかぎり、つまり日曜日にまちがいなく徹底的に仕事
を怠け、教会に二時間すわることは欠かさず、同じ連祷を千回も聞き、拍子にあわせてムニャムニャ
やってさえいれば、ときに犯すあれやこれやのことも大目に見てもらえると思うのも、当然じゃないか
ね? 北アメリカの諸共和国(奴隷国とよんだほうがよいが)で奴隷を売買したり所有したりしている
連中は、それこそ人間の姿をした悪魔というべきだが、じつは彼らは通例、正統のそして敬虔な英国国
教徒なんだ。だからあの連中も、日曜日に働いたりしたら重い罪だと考えるはずなのに、奴隷には平気
で働かせておいて、自分たちは几帳面に教会へ通って永遠の救いを望んでいやがる。――だから、宗教
が道徳を引きさげる影響力をもっていることは明らかで、どれほど道徳を支える力があるかは眉つばだ
よ。宗教のそういう教化力がとてつもなく大きく、そしてしっかりしていなければ、もろもろの宗教、
とりわけキリスト教や回教がひき起こした暴虐な仕業やこの世にもちこんだ悲歎の穴埋めは、とうてい
できっこないね! あの狂信と果てしのない迫害を考えてみたまえ。まず宗教戦争だ。これなど古代人
には見当もつかない血なまぐさい狂気のさただ。つぎは十字軍だ。愛と寛容を説いた人の墓を占拠しよ
うと、「神意のままに」という鬨の声をあげながら、まったく許しがたい殺戮が二百年もつづいたんだ。
また、ムーア人やユダヤ人をスペインから無慈悲にも追放して根絶したことを考えてみたまえ。聖バル
トロメウス祭のユグノー派の虐殺、宗教裁判、その他の異端審問、三大陸にわたる回教徒の血なまぐさ
い大規模な占領など、考える種はいくらでもある。キリスト教徒のアメリカ占領などもそれだ。彼らはア
メリカの原住民をあらかた根だやしにしてしまった。キューバ島では全員殺戮だ。ラス・カサスによる
と、彼らは四十年間に千二百万人を殺害したという。それがあたりまえと受けとられたのは、「神の栄
光を増さんがため」、福音を普及せんがためであり、とりわけキリスト教徒でない者は人間扱いもされ
なかったせいなんだ。

43 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:45:40.54 ID:fxC3YCHC.net
こういう問題はまえにも触れたことがあるが、いまでも「神の国からの最新の報
告」が出版されている以上、われわれだってこうした古い報告を思いだすことを怠ってはならない。と
りわけ忘れてはならないのがインドだ。この人類の揺籃、すくなくともわれわれの属する人種の発祥地で
あるこの神聖な国を忘れないでおこう。そこではまず回教徒が、つぎにはキリスト教徒が、人類の原始
信仰の信者たちに対してじつに身の毛のよだつ暴行をあえてしたのだ。思いだすのも忌まわしいことだ
が、マハムード・ガズナヴィーから始まって、兄弟殺しのアウラングズィーブにいたるまで、回教徒ど
もは気まぐれに、またむごたらしく太古の寺院や神像を破壊・毀損したのだ。これは永遠に慨歎に耐え
ないところで、今日なおわれわれに回教徒の一神教的凶暴の痕跡を見せつけているのだ。その後、これ
に敗れまいとして、ポルトガルのキリスト教徒たちも、寺院を破壊したり、ゴアの宗教裁判で火刑を
やったりしたのだ。

 それから「神に選ばれた民」と自称するユダヤ教徒のことも逸してはならない。彼らはエジプトでエ
ホバのきびしい命令によって、彼らを信頼している旧友たちから金と銀の容器を盗んだあと、こんどは
殺人者モーセを先頭にして、人殺しや盗みを働きながらカナンに侵入し、ここを「約束の地」として、
同情は絶対無用という同じエホバのたえずくりかえされた厳命にもとづいて、原住民を、女・子供にい
たるまで、まったく情容赦なく皆殺しにして、この土地を正当な所有者たちから奪い取ったのだ(ヨ
シュア記・第十章・第十一章)――それは原住民が割礼を受けておらず、エホバを知らなかったとい
うだけの理由からだったが、これだけでも彼らにあらゆる暴虐をふるう正当な理由としてじゅうぶん
だったのだ。同様に、同じ理由から、族長ヤコブとその選ばれた部下たちが、サレム王ヘモルとその民
に対して恥ずべき非行を行なったことが、まことに輝かしいこととしてわれわれに語られているが(創
世記・第三十四章)、これらもその理由はサレムの民がエホバの信者でなかっただけのことなのだ。

44 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 11:56:02.38 ID:fxC3YCHC.net
 ユダヤ人のカナン侵入…タキトゥス(『歴史』第五巻・第二章)およびユスティヌス(第三十六巻・第二章)が
出エジプト記の歴史的資料を我々に残してくれている。これは楽し読みものであると同時に教えられるところの
多いもので、旧約聖書の他の諸記の資料がどうなっているかについても、われわれはここから推測できるの
である。前記のところ(右に指摘した個所)から知りうることは、潜入してきた不潔なユダヤ民族が、伝染
のおそれのある厄介な病気(らい病)をもっていたところから、エジプト王は彼らが純潔なエジプトにとどま
ることを望まず、彼らを船に乗せてアラビア沿岸に捨て去らせたのである。彼らのあとからエジプト人の分
遣隊が送られたことは事実であるが、これもわざわざ追いだした者を連れもどそうというのではなくて、彼
らが盗みだした貴重品を取りもどすためだったのだ。じつは彼らは神殿から金の容器を盗みだしていたから
だ。こんなやくざ者にかねなど貸す者があろうか! ――上述の分遣隊が自然現象のために絶滅のうき目に
あったことも、これまたまちがいない。当時、アラビア沿岸地帯は飢饉で、とりわけ水飢饉だった。そこへ
ひとりの向こうみずな男があらわれて、自分についてきて言うことをきくなら、なんでも調達してみせると
切りだしたわけだ。この男は野生のロバを見た、などといったことが書かれている。――わたしはこれを歴
史的資料とみなす。なぜならこの散文を基礎として出エジプト記という詩が書かれているからだ。この場合
たとえユスティヌス(すなわちポンペイウス・トゥログス)が、(出エジプト記にもとづくわれわれの想定
からいって)途方もない時代錯誤をおかしているとしても、そのためにわたしは迷わされはしない。なぜな
ら、時代錯誤の百くらいは、わたしにはたった一つの奇蹟ほどにも憂うべきこととは思われないからだ。
――そのうえ右に引用した二人の古典文学者の著作から見てとれることは、あらゆる時代、あらゆる民族に
おいて、いかにユダヤ人が嫌悪され軽蔑されていたかということだ。そのよってきたる一部の理由は、彼ら
が人間の輪廻などというこの生を超えたどういう存在をも認めない地上唯一の民族だったからで、したがっ
て彼らは家畜、人間の屑――だが嘘つきの名人――と見られたのだ。

45 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:10:38.49 ID:fxC3YCHC.net
 じっさい、ある宗教の信者が他のすべての宗教の信者に対してどんなことをしようと勝手だと思いこ
み、したがって彼らに対して途方もない残虐無道な仕打ちをするのは、宗教の示す最も悪い面だ。回教
徒がキリスト教徒やヒンドゥー教徒に対する仕打ちもそうだし、キリスト教徒がヒンドゥー教徒・回教
徒・アメリカの諸民族・黒人・ユダヤ人・異端者などに対する仕打ちもそうだ。しかし、すべての宗教
がそうだと言っては、おそらく言いすぎになるだろう。というのは、真理のために付言しなければなら
ぬが、こういう原則に発する狂信的残虐行為は、もともと一神教の宗教、つまりユダヤ教とその二分派
であるキリスト教ならびに回教の信者にかぎられていることは周知の事実だからだ。ヒンドゥー教徒や
仏教徒については、この種の報告はなされていない。仏教がおおよそ西洋紀元第五世紀に、その発祥の
地であるインド最先端の半島から、バラモン教徒によって追いだされ、その後アジア全域に普及したこ
とは、われわれも承知していることだけれど、ぼくの知る範囲では、その普及にあたって腕力ざたや戦
争や残虐行為がなされたというような確たる報道はない。もちろんそれは、これらの国々の歴史が暗黒
に包まれているせいかもしれない。しかし、生きとし生けるものを愛護せよと、たえず感銘ぶかく説い
ているこれらの宗教が、きわめて温和な性格をもっていること、またバラモン教がその身分制度のため
にほんらい改宗者を認めないという事情などは、これらの宗教の信者たちが大規模な流血の惨事や各種
の残虐行為を犯さなかったという期待をわれわれにいだかせるものだ。スペンス・ハーディはその名著
『東洋の修道生活』四一二頁で、仏教徒が非常に寛容である点を賞賛し、仏教の年代記には、他の宗教
の年代記の場合よりも宗教的迫害の実例が少ないという証言をつけ加えている。じじつ、不寛容は一神
教にのみ本質的なものだ。唯一神というものは、その本質上、他のいかなる神をも生かしておかない嫉
妬ぶかい神だ。これにひきかえ、多神教の神々は、その本性上、寛容なものなのだ。これらの神々は自
分が生きると同時に、他の神々をも生かしておく。

46 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:43:52.99 ID:fxC3YCHC.net
まず第一に、これらの神々はその仲間、つまり同一 宗教の神々をよろこんで許容し、のちにはこの寛容
は他の宗教の神々に及んでゆく。だから、これら他 宗教の神々も客分として受けいれられ、のちにはと
きとして市民権を得る場合だって出てくるのだ。それはローマ人の実例が示しているとおりだ。彼ら
ローマ人は、フリギアやエジプトの神々をはじめとして、そのほか異国の神々もすすんで受けいれ、崇敬
したものだ。だから宗教戦争・宗教的迫害・宗教裁判といった芝居をわれわれに提供し、偶像や異国の神
像を破壊したり、インドの寺院や三千年ものあいだ天日をにらんでいたエジプトの巨像を破壊するといっ
た見物を見せてくれたのは、一神教的宗教にかぎられるのだ。というのも、一神教の嫉妬ぶかい神が、
「なんじ、偶像をつくるべからず」といったためなんだ。

 ところで話を本筋にもどすと、きみが人間の強烈な形而上学的欲求を力説するのは、たしかに正し
い。しかしぼくには宗教というものが、その欲求の充足というよりは、むしろその濫用であるように思
われるのだ。道徳性を促進するうえで宗教が役立つかどうかは概して疑わしいのに対して、すくなくと
もその害悪、またその結果として生じてくる残虐行為がかくれもない事実であることは、右に見たとお
りだ。もちろん王位の支柱として宗教が有効であるという点を考慮にいれれば、話は別になる。なぜな
ら、王位が神の恩恵によって授与されるかぎり、祭壇と王位は親密な近親関係にあるからだ。したがっ
て、自分の王位とその一族を愛する賢明な君主だったらだれでも真の信心の規範として、国民の先頭に
立つだろう。現にマッキャヴェッリでさえ『君主論』第十八章で、君主は信心をもつべきことを切にす
すめている。そのうえ、もろもろの啓示宗教と哲学との関係は、天佑を保有する君主と国民の主権との
関係に対応するという点をあげてもいいだろう。だが、この方程式の二つの前項、すなわち啓示宗教と君
主とはおのずから同盟関係にあるわけだろう。

47 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 12:44:19.85 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス ああ、そんな調子はやめにしてくれ! そんなふうに言ったら、きみはあらゆる法
的秩序や文明や人道の大敵である暴民政治と無政府主義を謳歌する羽目になることを考えてほしいね。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ。ぼくの議論はまさに詭弁か、あるいはフェンシング教師が
めった打ちと名づけるやつだったものね。撤回するよ。議論というやつは、とかく誠実な人でもどんな
に不正陰険にしかねないものか、わかるだろう。打ち切りにするよ。

 デモフェーレス いろいろやってみたけれど、宗教についてきみの気持ちを変えられなかったこと
は残念だ。しかし、ぼくのほうも断言できるが、きみがいろいろもちだした論点でも、宗教が高い価値
をもっていて必要なものだというぼくの確信は、いささかもゆるがなかったよ。

 フィラレーテス それはそうだと思うね。『ヒューディブラス』にも、

  無理に納得させられても
  心のなかでは意見は変わらぬ

とあるものね。しかし、論争や鉱泉浴というものは、あとからのききめが本当のききめだということ
で、みずから慰めるよ。

 デモフェーレス で、その諺というのは?

 フィラレーテス Detras de cruz está el Diablo.

48 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 13:05:35.96 ID:fxC3YCHC.net
 デモフェーレス ドイツ語で頼むよ!

 フィラレーテス よしきた! ――「十字架のうしろに悪魔がいる。」

 デモフェーレス ねえ、あてこすりを言いあって別れるのはよそう。むしろ、宗教には、ヤーヌス神
のように――あるいはもっと適切には、バラモン教の死神ヤーマーのように、二つの顔があり、これま
たヤーマーと同様、たいへん愛想のいい顔と、ひどく暗い顔とがあるということを認めようじゃない
か。ところでぼくたちは、それぞれ別の顔を見ていたわけなんだ。

 フィラレーテス きみの言うとおりだ!

49 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 16:13:52.23 ID:fxC3YCHC.net
  第一七六節 啓示

 人間のはかない世代は矢つぎばやに興っては滅び、滅びては興り、その間にあってもろもろの個人
は、不安と困窮と苦痛にあえぎながら、死神の腕にだかれるまで踊り狂う。踊りながら彼らは倦まず
に、自分たちがどういうものなのか、この悲喜劇的茶番のすべてが何を意味するのかと問い、その返答
を求めて天に呼びかける。しかし天は黙して答えない。そこへ坊主どもが啓示をもって登場するのだ。

 人間の運命には多くの過酷な嘆かわしい点があるが、そのなかでも、われわれが現に生きていなが
ら、どこから来て、どこへ行くのか、なんのために生きているのか、わかっていないということは、
けっしてささやかな嘆きではない。この不幸感にとらえられ、これを痛感した人は、このことについて
の特別の知らせをもっていると称して、啓示という名のもとでそれを伝えようとしている連中に対して
は、いくぶんの腹立たしさをおぼえないわけにはいくまい。――このような啓示を説く諸氏に対して、
わたしは、今日では啓示についてあまり多くを語らないようにと勧告したい。そうすればいつか、啓示
がほんらい何であるかが、たやすく彼らに啓示されるかもしれない。――

 さて、人間でないような存在者がかつてわれわれに、人類と世界との存在ならびに目的について解明
をあたえてくれたのだと、本気で考えることのできる人は、まだほんの大きな子供にすぎない。賢者た
ちの思想以外に啓示などあるわけはない。もとより賢者の思想といっても、すべて人間的なものにつき
ものの運命によって、誤りにおちいる場合もあり、ときにはふしぎな寓話や神話のよそおいをこらすこ
ともあって、これがやがては宗教とよばれるのである。

50 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 16:14:18.86 ID:fxC3YCHC.net
 したがって、そのかぎりにおいては、ある人が自分の思想に頼って生き死にしようと、これを他人の思想に
まかせようと、どちらにしても変わりはない。というのは、彼が頼りにするのは、つねに人間の考えだした
思想にほかならないからだ。ところが人間はふつう、自分自身の頭脳を信じるよりも、超自然的な源から出て
きたと称する他人のほうをとかく信頼するという弱点をもっている。ところで同じ人間でもその知性には雲泥
の差があることに着目すれば、甲の思想が乙の人にはあるていど啓示と思われるかもしれないのである。――

 これに対して、あらゆる坊主の根本秘密と根本策略は、古今東西を問わず、バラモン教の場合であれ
回教の場合であれ、仏教においてであれキリスト教においてであれ、次のようなものだ。彼らは、人間
の形而上学的欲求が非常に強烈であって、抹殺できないものがあることを正しく看破し、じゅうぶんに
把握したのである。そこで彼らは、大きな謎の言葉が異常な方法で直接自分たちには授けられたのだか
ら、この欲求を満足させることができると称するのだ。いったんこのことを吹きこんでしまえば、人び
とを導き支配することは意のままである。だから君主のうちで比較的賢明な者は坊主と同盟を結び、そ
うでない君主たちは坊主に支配せられることになる。ところであらゆる例外中の最もまれな場合とし
て、ひとたび哲学者が王位につくことになれば、喜劇全体のきわめて不都合な混乱が起こってくる。

51 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 17:00:00.91 ID:fxC3YCHC.net
  第一七七節 キリスト教について

 キリスト教について公平に判断するためには、キリスト教以前にあったもの、キリスト教によって駆
逐されたものを考察しなければならない。第一はギリシア・ローマの異教だ。これは民衆形而上学と考
えた場合、ほんらい特定の教義もなく、はっきり言いあらわされた倫理もなく、それどころか真の道徳
的意図もなく、聖典さえもっていないきわめて取るにたらぬ現象であって、宗教の名にほとんど値しな
いものであり、むしろ空想の遊戯、民間童話を題材にして詩人がでっちあげたこしらえたものにすぎず、
せいぜい自然の威力の明らかな擬人化にほかならない。こういう子供じみた宗教を大のおとなが本気に
したとは、ほとんど考えられぬことだ。それにもかかわらず、古人の著書の多くの箇所は、それが本気
であったことを証明している。とりわけヴァレリウス・マクシムスの第一巻、さらにまたヘロドトスの
多くの個所がそうであるが、わたしはそのなかでヘロドトスがまるで老婆のような語り口で彼自身の意
見を述べている最終巻・第六五章を指摘するにとどめておく。時代が進み、進歩した哲学があらわれる
と、この子供じみた宗教を本気にすることは、もちろんなくなった。おかげでキリスト教は、この国家
宗教を、外面的には国家の支えがあったにもかかわらず、押しのけることができるようになったのだ。
しかし、この国家宗教がギリシア最盛期においてさえ本気にされなかったということ、それはあたかも
近世におけるキリスト教と同様であり、またアジアにおける仏教やバラモン教や、あるいはまた回教と
同様であったということ、したがって、古代人の多神教は一神教の単なる服数とはぜんぜん別のもので
あったことは、アリストパネスの『蛙』がじゅうぶんに証明している。この作品では、ディオニュソス
がおよそ考えられるかぎりの最も憐れむべき馬鹿者・臆病者として登場し、衆人の嘲笑にさらされるの
であるが、しかもこれはディオニュソス自身の祭典、ディオニシアで公然と演出されたものなのだ。――

52 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 17:00:27.38 ID:fxC3YCHC.net
 キリスト教が駆逐しなければならなかった第二のものは、ユダヤ教であった。キリスト教はユダヤ教
の粗野な教義を純化し、言わず語らずのうちに寓話化したが、だいたいにおいてキリスト教はまったく
寓話的性質のものなのだ。というのは、俗世間で寓話とよばれるものが、宗教では教義と言われるの
だからである。愛・宥和・敵に対する愛・諦念・我意の否定といった教えを、もっぱら――といっても
西洋では、ということだが――独自のものとしてもっている道徳においてだけでなく、もろもろの教義
においても、キリスト教がギリシア・ローマの異教やユダヤ教よりはるかにすぐれていることは、認め
ざるえない。ところでどうしても真理を直接に把握できない大衆には、実際生活に対する手引きとし
て、また慰めと希望の錨としてじゅうぶんまにあう美しい寓話以上に適当なものがあるだろうか。しか
しこういう寓話には、寓話につきものの必然的要素として、いくらか理屈に合わないものが混入してく
るのであって、キリスト教の教義を本来的意味で解するかぎり、ヴォルテールの言いぶんは当たってい
るのだ。これに反し、寓話として受けとれば、キリスト教の教義は一種神聖な神話であり、それ以外に
はどうしても民衆の手にはとどかないような真理を、民衆のもとまで運んでやる車の一種だ。それは
ファエッロの唐草模様、あるいはまたルンゲの模様にくらべることもできよう。というのは、こうした
唐草模様はあきらかに不自然また不可能なことを表現しながらも、そこに深い意味が語りでているから
だ。宗教の教義においては理性はまったく無力であり、盲目であり、しりぞけられるべきであるという
教会の主張も、つまるところその意味するところは、これらの教義が寓話的性質のもので、したがっ
て、すべてを本来的意味に受けとる理性だけの物差では評価すべきでないということなのだ。教義の不
合理な点こそ、寓話的・神話的なものの烙印であり、符号なのだ。もっともキリスト教の教義につじつ
まが合わない点が出てきたのは、旧約聖書と新約聖書といった異質の二つの教説を結びつける必要が
あったためだ。

53 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:13:38.96 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学である
熱狂信者一人作るに他人三人は関連死しているのである
違うという者は生活が順調だったりしてこの実態と向き合わないのである
奴隷学に住み分けはなく入信していない者を一人づつ生活を破壊して弱ったところに勧誘話を持っていくのである
この奴隷学は数千年にわたり人を騙して殺しあわせてきたノウハウがあり個人が裏をあばいたり
撲滅はできないのである

54 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:14:07.18 ID:fg184byN.net
しねゴキエタ在日ザイコパス

55 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:30:07.24 ID:MfJGCMsk.net
>>53
要は宗教が世の施政のために用いられた創作物を言いたいんだろ。

そうではない。

まず真理があるわけよ。大衆が自身に解らない真理を客観的に見て

創作したものが宗教だ。

解らないけど、こうじゃないかな?が宗教ともいえる。

違うwそうじゃないw真理側から見た宗教とは理想形に他ならないんだよ。

それは個人の範疇で達成されるものだ。他者とか社会環境、奴隷、施政とかとは

無縁で一切関係ないからw

尚、理想形とは、あなたにとってでなく、万人、万物に対して言えることだ。

あたな個人が考えてる欲望からなる理想形でなく、肉体そのものが

絶えず欲してるもんだ。故に頭で理解はなかなか難しいもんがある。

56 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:37:37.77 ID:k7D2Pncy.net
>>55のようなのは奴隷学にはめられた典型で
熱狂信者一人作るに他人三人は関連死する内の熱狂信者であり
やはりこの実態と向き合ってはいないのである
しかし愚かではなく数千年にわたり人間をいかに騙すかを積み上げた奴隷学の前には誰もが無力で
はめられるかバレないやり方で殺されるしかないのである

57 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:44:04.08 ID:MfJGCMsk.net
キリスト教というのは実は弟子達が真理に達してない。
だから、想像、創造が入っている。
この点、原始仏典の初期段階に限り、仏教というのは真理側からの視点が見て取れる。
だから、読んでいて面白くない、不快になるような要素もある。
誰がメリットのないものに対し面白くない、不快になることを説きますか?ってことだ。
それを補ってあまりある、メリットを内在してるに決まっている。
だから、それ自体が真理である可能性が高いと見抜いた者は、そりゃ悟れる。

58 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 17:46:49.77 ID:MfJGCMsk.net
>>56
単純に君を仏教では無明の者という。

59 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:12:59.36 ID:k7D2Pncy.net
>>58も奴隷学の実態と向き合ってはいないのである
疑問や功罪の追及をせず見て見ぬふりをするか
ごまかすために編み出した言葉の1つが無明である
追及をあしらうための意味しかないが無明という
「ごまかしてるのになぜか追及してる側におまえはわかってないと煽れる」効果があるというのが
数千年にわたり積み上げた奴隷学の言葉技である

60 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:14:17.53 ID:fxC3YCHC.net
 キリスト教のあの偉大な寓話は、偶然的な外的な事情を機縁として、これを解釈するこ
とにより徐々に成立したものだが、そこには、はっきり自覚されないながらも奥深いところに根ざす真
理が静かにかよっているのだ。この寓話が完成をみたのは、この寓話の意味を最も深く究め、ひとつの
体系的全体として把握する力をもち、欠けている点を補うことができたアウグスティヌスによってであ
る。したがってアウグスティヌスの教説、さらにルターによって裏づけられた教説こそ、完全なキリス
ト教なのであって、「啓示」を本来的意味にとって、救世主ただひとりに限定する今日の新教徒が主張
しているように、原始キリスト教が完全なキリスト教なのではない。――芽は食べられない、食べられ
るのは実であるのと同じことだ。――

 しかしあらゆる宗教の難点は、その寓話的性質を公然と標榜することができず、その点を隠す以外に
手はなく、したがってその教説を大まじめに本来的意味で真なるものとして持ちださざるをえないこと
だ。教義に不合理な点があることは本質的に避けえないことなのだから、このことはたえずごまかしを
つづけることになり、ひとつの大きな弊害となる。さらに困ったことは、時がたつにつれて、その教義
が本来的意味で真ではないことが明白になることで、こうなるとその教義は崩壊するのである。そのか
ぎりにおいては、寓話的性質を宗教側ではじめから認めたほうが、ましであろう。しかし、あるものが
真でありうると同時に真でない場合もあるといったことを、どのように民衆に説いたらよいであろう
か。あらゆる宗教が多かれ少なかれこういう性質をまぬかれないことを見るにつけても、われわれは、
つじつまの合わないことが人類にはある程度かなっているのであり、それどころか生活の一要素であ
り、欺瞞が人類にとって不可欠であろうことを承認せざるをえない――これは他の現象によっても裏書き
されていることだ。

61 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:14:43.36 ID:fxC3YCHC.net
 上述したように旧約聖書と新約聖書を結びつけたために生じたつじつまの合わぬ点の例証となるの
は、とりわけ、神の恩寵によって永遠の救いに予定されるというキリスト教の教義である。これはルタ
ーの導きの星であるアウグスティヌスによってつくられた説で、甲は乙に優先して恩寵にあずかるとな
すものであり、したがってこの恩寵は、来世というきわめて重要な問題について、生まれたときすでに
手に入れていて、そのままこの世にもちこんだ一種の特権ということになる。この説が不合理で気に
くわない点があるというのも、人間が或る他の意志によってつくられたものであり、この意志によって
無から呼びだされたものだとする旧約聖書の前提から来ているのだ。これに反して――純粋な道徳的特
性がほんとうに生得的なものだという観点からみて――バラモン教や仏教の輪廻の前提では、この問題
はもっと筋の通った、まったく別の意義を帯びてくるのだ。というのはこの前提によれば、ある人が生
まれながらに持っているもの、すなわち前世という別の世界から携えてきて、他の人びとよりすぐれて
いる点は、他からの贈り物ではなくて、前世で行なった自分自身の業績の結実にほかならぬからであ
る。――ところでアウグスティヌスのあの教義には、さらに別の教義がつけ加えられている。すなわち
それは、堕落して永劫の罪におちた人類大衆のなかからほんの少数の人だけが、神の恩寵によって選抜
されて、正しいものと認められ救われるけれども、それ以外の者は当然の堕落、すなわち永遠の地獄の
責め苦をまぬかれないという教義だ。

62 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:31:09.26 ID:k7D2Pncy.net
↑これも言ってることは奴隷にならなければ殺すということなのである
ストレートにかくと奴隷が激減するため
大層な意味がありそうな言葉で飾っているのである
宗教は奴隷学で
人を騙して支配する技を数千年にわたり積み上げてきたのである

63 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:41:57.06 ID:fxC3YCHC.net
 本来的意味にとれば、この教義はここに至って腹立たしいものとなる。というのは、ときには二十年
にも満たないことのあるこの人生で犯した過失、あるいは不信仰を、この教義では永劫にわたる地獄の
刑罰によって、果てしもない苦悩であがなうことになるからだ。さらに、このほとんど一般的といって
いい堕罪は、もとはといえば原罪の結果なのであり、したがって最初の人類の堕落の必然的な帰結とみ
られていることだ。しかしこの最初の堕落など、神はあらかじめ見透していられたにきまっているでは
ないか。そもそもはじめから人間をあまり上等に創っておかないでいて、そこに落ちることを承知のう
えで、神は罠を仕掛けられたことになる。万物はあげて神の作品であり、神に隠されているものはなに
ひとつないからだ。したがって神は、罪におちるような弱い人間を無から存在へ呼びだしておきなが
ら、そのあとではこれを果てしのない苦悩にまかせて顧みないということになろう。さらに最後につけ
加えていいことは、寛容やあらゆる罪のゆるしを説き、敵を愛せよとまで定めている神が、自分ではそ
れをひとつも実行しないで、むしろその正反対に落ち着くということだ。というのは、なにもかもが過
去になり永遠に終わったというとき、あらゆる事物の最後にあらわれる罰は、改善や威嚇を目的とする
ことはありえぬことで、ただの復讐にすぎないからだ。このように見てくると、――どういう理由に
よってか不明ではるが、恩寵の選抜によって救われる少数の例外者を除けば――全人類はじじつ、永
遠の苦悩と永劫の罰を受けるように決定され、故意にそのために創られているようにさえ思われてく
る。例の少数者を問題外とすれば、まるで神さまは、悪魔にさらって行ってもらうために世界を創造し
給うたような結果になるのであって、それくらいならむしろ世界創造を中止されたほうが、はるかにま
しだったということになろう。

64 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 18:42:20.77 ID:fxC3YCHC.net
 教義については、本来的意味にこれを受けとめれば、以上述べたようになるわけだが、比喩的意味に
受けとめる場合においては、じゅうぶんな解釈に耐えるものだ。まず第一に、この教義のつじつまの合
わぬ点、腹立たしい点というのは、上述したとおり、ユダヤ教的有神論の帰結にすぎない。ユダヤ教は
無からの創造をとなえ、これと関連して、じつに逆説的に、また不快な話だが、輪廻を否定するのであ
る。この輪廻説というものは、自然な考え方、ほとんど自明的といってもいい思想で、ユダヤ人を除い
ては、あらゆる時代に、ほとんど全人類に受けいれられている教説なのだ。この輪廻説を否定すること
から生じる大弊害を除去し、この教義の腹立たしい点を緩和するために、六世紀、はなはだ賢明にも教
皇グレゴリウス一世は、本質的にすでにオリゲネス(ベールのオリゲネス論、脚注B参照)に見いだ
される煉獄の教説を仕上げて、教会の教義に正式に組みいれたのである。これによって事態はたいへ
ん緩和されたし、いくらか輪廻のかわりにもなった、というのは、煉獄も輪廻も一種の浄化過程を示す
ものだからである。ギリシアの万物回帰の説も同じ意図で唱えられたもので、この説によれば、世界喜
劇の最後の幕では、罪びとでさえ、だれかれの別なくもとのありさまに戻されるのである。――新教徒
だけは、そのがんこな聖書信仰にとらわれて、永劫の地獄の罪という考えを捨てなかった。「ろくなこ
とにならないぞ」――と意地のわるい人なら言うところだろう。しかしこの場合も安んじていいこと
は、彼ら新教徒もほんとうにそう信じているわけではなく、かりにそうしておくだけのことで、心のな
かでは「まあ、そんなひどいことにもなるまい」と思っていることだ。

 アウグスティヌスは、そのがんこな組織的頭脳によって、キリスト教を厳密に教義化し、いかにもき
びしいものとして仕上げた。すなわち聖書ではただ暗示されているにとどまり、なんとなく漠然とした
根拠の上にただよっているだけの教説をしっかり規定して、これに厳格な輪郭をあたえたのである。そ
のためこの教説は今日ではわれわれの気にさわるものとなり、彼の時代にペラギウス主義がこれに反対
したように、われわれの時代では合理主義がこれに反対する結果となったのだ。

65 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 18:47:17.15 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学で
その数千年にわたり人間を支配し騙して殺しあわせて積み上げたやり方の前には
個人は無力で完全にはめられて奴隷となるかバレないやり方で殺されるしかないのである
あばいてるおれも時間の問題なのである

66 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:10:54.46 ID:fxC3YCHC.net
たとえば、『神の国』第一二巻・第二一章によれば、事態は、抽象的に解すれば、ほんらい次のようになる
のだ。神は無からある存在者を創り、これにいろいろな禁止と命令とをあたえられる。しかしそれが守られ
ないので、神はこの存在者の果てしのない永遠をつうじて、およそ考えられるかぎりの苦悩によって呵責する。
そのために神は(『神の国』第一三巻・第二章、第一一章の終わり、第二四章の終わり)肉と霊とを不可分に
結びつけられる。それは、この苦悩のためにこの存在者が解体破滅して苦悩を免れることが絶対ないよう
に、永遠に生きて永遠の呵責を受けられるようにするためなのだ。――この哀れなやつは無から創られ
た以上、せめてその根源の無に帰る権利ぐらいはあるわけで、――そうひどいものでは絶対ありえぬこ
の最後の隠れ場ぐらいは、なんといっても正当な相続財産として保証されているべきであろう。すくな
くとも、わたしはこういう哀れむべき存在者に同情を禁じえない。――ところでさらにアウグスティヌ
スの他の教説、すなわちこれらすべては本来われわれの為すこと。為さぬことに依存するのではなく、
恩寵の選抜によってあらかじめ決定されているのだという説をつけ加えると――もう二の句がつげなく
なる。もちろんわれわれの教養高き合理主義者たちは言うだろう。「そんあことはみな、でたらめさ。
ただのかかしだ。われわれは一段また一段とたえず進歩しながら、いよいよ完全の域にのぼって行くの
さ」と。――とすると、いかにも残念なのは、もう少し早くわれわれがのぼり始めなかったことだ。そ
れさえ始めていれば、もうすでに完全の域に行きついているはずじゃないか。こういう言いぶんを聞く
と、われわれの頭は混乱するが、そこへ手ごわい論客で焼き殺されさえした異端者ヴァニーニの声に耳
を傾ければ、なおさらなのだ。「もし神がこの世で極悪・低劣な行為がのさばることを欲し給わないな
ら、神は目くばせひとつであらゆる恥ずべき行為を世界の境界外に放逐されるであろうことは疑いな
い。なぜなら、われわれのなかで神の意志に抵抗できるものがあろうか? 

67 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:11:23.67 ID:fxC3YCHC.net
犯罪者が犯行をやりおおせる場合、なんといっても神がその犯罪者たちにそれだけの力をあたえ給うたので
ある以上、どうしてわれわれは犯罪が神の意志に反して犯されるなどと考えることができようか? ところ
で、もし人間が神の意志に反してあやまちを犯すとするなら、神のほうがその人間よりも弱いということに
なる。というのは、その人は現に神にさからい、またそれだけの力をもっていたのだから。以上のことから
結論されることは、神がこの世を現にあるとおりにもつことを望んでいられるということだ。なぜなら、も
う少しましな世界を望まれるならば、神はもう少しましな世界を持ち給うはずだから。」というのは、ヴァ
ニーニはまえの頁でこう述べていたのだ。「もし神が罪を欲し給うなら、罪を犯すのは神そのひとだ。もし
神が罪を欲し給わないとしても、それにもかかわらず罪は犯されるのである。したがってわれわれは神につ
いて、神は先見の明がないか、無力であるか、あるいは残酷であると言わざるをえない。なぜなら、神はそ
の欲するところを実現させるすべを知らないか、あるいはその力をもたないか、あるいはその実現を怠った
のであるから。」ここで同時に明らかになることは、どうして今日まで自由意志説が頑強に固執されるかと
いう問題である。ホッブス以来わたしに至るまで、まじめで誠実な思想家すべてこの説を不合理なものとし
てしりぞけているにもかかわらず。これは意志の自由についてのわたしの懸賞当選論文から見てとれることだ。
――もちろんあのヴァニーニを反駁するよりも、火刑に処すほうが、ことは簡単であった。だから彼はまず舌
を切られたうえで、焼き殺されたのだ。反駁のほうは、今日だれでもやっていいことだ。ひとつ試みてみられ
るがよい。ただし空虚な言葉をならべることによってではなく、真剣に、思想によって。――

68 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:37:13.97 ID:fxC3YCHC.net
 人間の圧倒的多数は罪びとであり、永遠の浄福に値する者はごく少数だという、それ自体正しいアウ
グスティヌスの見方は、バラモン教にも仏教にも見いだされる。しかしここでは輪廻があるために、わ
れわれの感情を害することはない。つまりバラモン教での「最終の解放」、仏教での「涅槃(ニルヴァ
ーナ)」(ともにキリスト教の「永遠の浄福」と等価)は、やはりごく少数の人にしか認められていない
のだ。しかしこの少数の人も、そういう特権があたえられているというわけではなく、前世でそれだけ
の功徳を積んでこの世に生まれてきたのであり、そしてその同じ道を歩みつづけるわけなのだ。またそ
れ以外の人たちも、永遠に燃えている地獄の池に突き落とされるわけではなくて、それぞれの行状に応
じた世界へ移されるだけなのである。したがってこれらの宗教の教師に、「救済に行きつけなかったあ
の残りの人たちは、いったいいまどこにおり、どうしているのか」とたずねる人があれば、その人には
次のような答えがあたえられるであろう。「きみの周囲を見まわすがいい。ここにいるのが彼らであり、
彼らはこのざまなのだ。この世こそ彼らのどうどうめぐりの場所、これが輪廻(Sansara)、すなわち欲
と苦、生・老・病・死の世界なのだ」と。――ところでいま問題になっているアウグスティヌスの教
義、選ばれる者はごく少数で、大多数は永遠の地獄に落とされるという教義を、たんに比喩的意味に
とって、われわれの哲学の意味で解釈するならば、意志の否定に達する者、したがって(仏教徒が涅
槃に達するように)現世からの救済に達する者はもちろんごく少数の者に限られるという真理と合致す
るのである。そしてこの教義が永劫の堕罪として実体化しているものが、ほかならぬこのわれわれの世
界なのであり、例の大多数を占める残りの者はこの世界に帰属するのである。この世界はまことにひど
いものであって、これこそ煉獄であり地獄であり、そこには悪魔も欠けてはいないのだ。

69 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 19:37:16.12 ID:k7D2Pncy.net
宗教は奴隷学で
カーテンをめくるとまたカーテンがあるように闇は底無しである

70 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 19:37:44.07 ID:fxC3YCHC.net
時あって人間が人間にわざわいを及ぼし、考えぬかれた拷問でいじめぬいてたがいに徐々に死に至らし
めるかを考えてみるがよい。そのうえで、悪魔とてもこれ以上のことをなしうるかどうか自問してみるがよ
い。心をいれかえることなく、生きんとする意志の肯定に執心するすべての人にとって、この世の滞在は
果てしもないものとなるのだ。

 じっさい、もしアジア高原地方の人が「ヨーロッパとは何か」とわたしに尋ねたとしたら、わたしは
彼にこう答えざるえないだろう――「ヨーロッパとは、人間の誕生が人間の絶対始原で、人間は無か
ら発したという前代未聞の信じられないような妄想にすっかりとりつかれている大陸だ」と。――

 双方の神話は別として、最も深い根本において、ブッダのサンサラ(輪廻)およびニルヴァーナ(涅
槃)は、アウグスティヌスの二分された国、すなわち「地の国」(civitas terrena)と「天の国}(civitas
coelestis)に等しい。これは彼が『神の国』の諸巻、とりわけ第一四巻・第一章、第一五巻・第一章お
よび第二一章、第一八巻の終わり、第二一巻・第一章で述べていることである。――

 悪魔はキリスト教では、きわめて慈悲深い全知・全能の神の対重として、必要欠くべからざる人物だ。

71 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:27:07.26 ID:fxC3YCHC.net
というのは、悪魔がいて、この世の無数・無限で優勢きわまる悪を引き受けてくれるのでなけれ
ば、全知・全能の神の足もとでどこからそういう悪が出てくるのか見当がつかないことになるからだ。
だから、合理主義者たちが悪魔を片づけてしまってからは、ほかの面でいろいろ困ることが出てきた
し、それがいよいよ痛感されることになってきた。これくらいのことはまえから見当のついていたこと
で、現に正統派の信者たちは予知していたのだ。柱を一本ぬけば、建物の他の部分にがたがくるのは当
然だからだ。――ここで確証されることは(これは他の方面からも確かめられることだが)、じつはエ
ホバはオルムズドの一変形なのであり、サタンはオルムズドと不可分なアフリマンだということだ。そ
してオルムズドそのものがじつはインドラの変形なのだ。――

 キリスト教には固有の欠点がある。それは他の宗教のように純粋な教説ではなくて、主として、また
本質的にひとつの歴史であるということだ。つまり一連の出来事、もろもろの事実や個人の行為と受苦
の集合なのであり、ほかならぬこの歴史が教義をなしていて、それを信じることがわれわれに至福をあ
たえるのである。他の宗教、とりわけ仏教も、なるほどその開祖の生涯について歴史的付加物をもっ
てはいるが、これは教義そのものの部分ではなくて、教義と並行しているのである。たとえば『ラリタ
ーヴィストラ』が釈迦牟尼すなわち現世の仏陀の生涯を内容としているかぎりでは、これを福音書と比
較できるけれども、釈迦牟尼の生涯はあくまで教義、すなわち仏教そのものとはまったく別な問題なのだ。

72 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:27:38.76 ID:fxC3YCHC.net
 つまり釈迦以前の仏陀たちの閲歴はまったく違っていたし、また将来の仏陀たちの経歴もこれとは
完全に違ったものになるわけだからである。ここでは教義はけっして開祖の閲歴と癒着しておらず、個
別の人物や事実にもとづいているのではなくて、普遍的な、いつの時代にも同様に妥当する教義なので
ある。だから『ラリターヴィスタラ』は、言葉のキリスト教的な意味での福音書、すなわち救いの事
実についての「楽しい知らせ」ではなくて、めいめい各自がどうして救われうるかという指針をあたえ
た人の経歴にとどまるのである。――ところで、シナ人が宣教師をおとぎ話の話し手だといって嘲笑す
るのも、キリスト教のこういう歴史的性質から来ているのだ。

 この機会に、キリスト教に見られるもうひとつ別の根本的誤謬に言及しなければならない。これは簡
単に解明できない誤謬絵あるが、その恐るべき結果は日々明らかになっているところだ。すなわちキリ
スト教は不自然にも、人間が本質的にそこに所属している動物界から人間を切り離し、動物をまさに事
物と見て、人間だけを認めようとしている点だ。――ところがバラモン教や仏教は、事の真相に忠実に
従って、人間が全般的に自然全体とつながっていること、とりわけ動物界とはいちじるしい親戚関係に
あることも断固として承認し、輪廻その他の方法によって、つねに人間を動物界と緊密なつながりのう
ちに説明しているのである。バラモン教や仏教では動物が断然重要な役割を演じており、これをユダヤ
的キリスト教における動物のほとんどゼロに等しい役割と比較すれば、たとえヨーロッパではそういう
筋の通らぬ話に慣れているとはいっても、完全さにおいてキリスト教はまったく論外なのだ。この根本
的誤謬を言葉でごまかすために――じつはそれによって輪に輪をかけるだけなのだが――すでにわたし
の『倫理学』二四四頁(第二版二三九頁)で槍玉にあげておいたような、じつに浅ましくも図々しい奸
策が弄されている。

73 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 20:35:50.76 ID:k7D2Pncy.net
>>70
>悪魔とてもこれ以上のことをなしうるかどうか自問してみるがよい

それをやるのが悪魔なのである
宗教は奴隷学で悪魔も奴隷学が数千年かけて編み出したイメージキャラクターである
悪魔教なんて真剣にやる者もいるがそれも奴隷学が積み上げた派生産物であり
自分が悟れた感覚の横でそんな人間が出来上がってしまうことも向き合わなくては
信者一人作るに他人三人は関連死するという万人救済とはほど遠い実態なのである

74 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:49:10.71 ID:fxC3YCHC.net
すなわち、動物がわれわれ人間と共有しており、人間の本性と動物の本性が一体
であることを立証するすべての自然的機能、たとえば飲食・妊娠・出生・死亡・死体などを、動物の場
合、人間におけるのとはまったく別の言葉で言いあらわすのである。これはまことに卑劣な策略だ。と
ころでこのような根本的誤謬は、無からの創造ということから出てくるのだ。犬を売る商人でさえ、そ
の手がけた動物を手放すときには、「かわいがってやってください」というとりなしの言葉をつけ加え
るのに、創世記・第一章および第九章によれば、造物主は、そういうとりなしはいっさい抜きに、まっ
たく事物同然に、あらゆる動物を人間にゆだねるのである。それも人間が動物どもを支配するように、
つまり人間が自分の好き勝手なことを動物に加えていいというのである。さらに第二章では、造物主は
人間を動物学の筆頭教授に任命し、これからさき動物たちのもつべき名称をそれぞれの動物にあたえる
ように委嘱する。これこそまさに動物が人間に完全に依存しているということ、すなわち動物がなんら
権利をもたないということの象徴にほかならぬ。――聖なるガンジスの流れよ! われわれの種族の母
よ! こういう造語がわたしに及ぼす影響は、べとつくアスファルトやユダヤ的悪臭のごときものがあ
るのだ! これというのも、動物を人間の好き勝手に使える製品のように見るユダヤ的見解のせいだ。
しかしその影響は残念ながら現代にも及んでいることが感じられる。というのは、これらの物語がキリ
スト教に移行したからだ。だからキリスト教の道徳がこの世で最も完全なものだなどと吹聴すること
は断然やめるべきだ。じっさい、キリスト教の道徳がその掟を人間だけに限って、動物界全体をなん
の権利ももたないものとして放置していることは、ひとつの大きな欠陥であり、本質的に不完全な点で
ある。だから粗暴・冷酷な、ときには野獣にも負けぬような大多数の人間どもから動物を守るために
は、警察が宗教の役割を代行せざるをえぬのであり、それだけではじゅうぶんでないため、現今ではヨ
―ロッパやアメリカのいたるところで、動物愛護協会などが結成されているしまつだ。

75 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 20:50:39.68 ID:fxC3YCHC.net
しかしこういう協会などは、割礼を受けない全アジアでは無用の長物の最たるものであろう。というのは
アジアでは、宗教が動物をじゅうぶんに保護し、積極的に親切に取り扱っているからで、現にその成果は
たとえばスラテの大きな家畜病院に見られる。この病院へは、キリスト教徒も回教徒もユダヤ人も病気に
かかった動物を入院させることができるが、治療がうまくいっても、まことに適切な処置だが、その動物
を返してもらえないのだ。同様にバラモン教徒や仏教徒は、自分の身に幸運が舞いこんだり、あるいは事
がうまく運んだりした場合はいつでも、「神なる汝を」などとわめきたてないで、市場に行って鳥を買
い、市門のまえでその鳥籠をあけてやるのだ。これはあらゆる宗教の信者が集まっているアストラハン
などでいくらも見る機会があることだ。またこれに類することはいくらでもある。

 これにひきくらべ、われわれのキリスト教の賤民どもが動物を遇する、あの悪逆無道ぶりを見るがい
い。彼らはまったくなんの目的もないのに、笑いながら、動物を殺したり、かたわにしたり、いじめた
りする。そして自分たちを養ってくれた稼ぎ手の馬でさえ、老齢に至っても酷使し、その鞭の下にくた
ばるまで、哀れにも骨の髄までもしゃぶるのだ。じっさい、人間は地上の悪魔で、動物たちは苦しめられ
る魂だ、と言いたいくらいだ。これこそエデンの園におけるあの任命の場面の結果なのだ。賤民どもを
おさえるには、暴力か宗教しかないのに、キリスト教は不名誉にもこの場合、われわれを見殺しにする
のだ。確かな筋から聞いた話だが、ある新教の牧師が動物保護協会から動物虐待に反対する説教をして
くれと頼まれたとき、宗教上なんの手がかりもあたえられていないので、どうしてもできないと答えた
という。この牧師は正直者だったのだ。彼の言うとおりなのだ。たいへん称讃に値するミュンヘン動物
愛護協会が一八五二年一一月二七日付で出した告示は、すばらしいねらいで聖書から「動物愛護を説
いている規定」を集めようと骨折っている。

76 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:06:17.20 ID:fxC3YCHC.net
そのあげている個所はソロモンの箴言一二の一〇、ジーラハ七の二四、詩編一四七の九、一〇四の一四、
ヨブ記三九の四一、マタイ一〇の二九であるが、これはだれもその個所をあけて見ないだろうということ
を当てにした一種の「敬虔な嘘」にすぎないのだ。ただ非常に有名な最初の個所だけは、弱いながらも、
この問題に触れたことを述べている。それ以外の個所は動物について語ってはいるけれど、動物愛護の
ことは言っていないのだ。ではその最初の個所は何と言っているか? 「正しい人はその家畜を憐れむ」
――「憐れむ!」とは、なんという言葉か! わるいことをした罪人や犯人ならば憐れむこともあろうが、
なんの罪もない忠実な動物、ときにはその主人に飯を食わせてやりながら、わずかな餌しかあたえられぬ
動物に対して「憐れむ」というのは当たらない。「憐れむ!」憐れみではなくて、公平こそ、われわれが
動物にあたえてやらねばならぬものだ、――しかしこの公平こそ、ヨーロッパ、すなわちユダヤ的悪臭に
みちみちているため、「動物は本質において人間と同じものだ」という明白・単純な真理が、一種不快な
逆説となっているこの大陸にあっては、実現されぬままにとどまっているのである。――

 動物の保護は、したがってそれを目的とする協会や警察の仕事になるわけだが、両者とも賤民ども
のあの一般的な無道な仕打ちに対しては、ほとんどお手あげのかっこうだ。なにぶんにも訴えることの
できない動物相手のことであり、百の残虐行為で見つかるのは一つあるかないかであり、とりわけその
刑罰が軽きにすぎるからである。最近イギリスでは苔刑が提案されたが、わたしには至当のことと思わ
れる。しかし、人間と動物が本質的には同一であるという熟知の事実さえ承認せず、誠実で理性的な仲
間の者が、人間を動物の当該部門に編入したり、あるいは人間がチンパンジーやオーラン・ウータンに
酷似していることを証明したりすると、それこそ躍起になって反駁したりするほど、はなはだ頑迷・愚
昧な学者どもや動物学者までいるありさまでは、何を賤民どもから期待できよう。

77 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:09:07.65 ID:fxC3YCHC.net
しかしほんとうに腹が立つことは、きわめてキリスト教的な考えをもった敬虔なユング=シュティリングが、
その著『幽界の光景』第二巻・第一景一五頁で、次のような比喩をあげていることだ。「突如として骸骨は
収縮して、 言いあらわしようのないほど不気味な小さな侏儒となった。それはちょうど、大きな女郎蜘蛛を
沸騰点 にあるビーカーに入れて、膿のような血が灼熱のなかでぐつぐつと煮えたぎったときのようであった。」
つまりこの神のしもべは、こういう恥さらしの行為を自分でやったか、あるいは平静な観察者として傍
観したのだ。――この場合、どちらでも同じことだ。――じっさい、彼はそういうことを悪いともなん
とも思っていないから、話のついでに淡々として語っているのだ! これは創世記第一章、一般にユダ
ヤ的自然観の影響である。これに反して、インド教徒や仏教徒にあっては、偉大な言葉「それはおまえ
なのだ」(Tat-twam asi)が重んじられる。これは動物と人間んお内的本性が同一であることを銘記する
ために、われわれの行動の基準として、どういう動物に向かってもたえず口にする必要のある言葉なの
だ。――まことにいたれりつくせりの道徳ではないか!――

 わたしがゲッティンゲン大学で勉強していたとき、ブルーメンバッハは生理学の講義で、生体解剖の
おそろしい面について切々とわれわれに語った。それがいかにも残忍でおそろしいことであること、し
たがってめったに用うべきではないこと、ごく重要で、直接役立つ研究にだけこの措置に踏みきるべきで
あること、それを行なう場合には、科学の祭壇にささげられた残忍な犠牲が最大の利益をもたらすよ
う、大講堂で最大限に公開し、あらゆる医学者を招待したうえで行わなければならない、と説明して
くれたのである。

78 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:54:17.62 ID:fxC3YCHC.net
――ところが今日では、どんな藪医者でもいろいろな問題を決定するために、その拷問室で残忍きわまる
動物虐待をやる権能があると思っている。じつはその問題の解決はとっくに書物に載っているのであって、
ただ彼らがあまり怠惰・無知であるために、その書物をのぞかないだけのことなのだ。昔の医者は古典的
教養によって、ある種の人間性と気品をそなえていたが、いまの医者はもはや古典の素養をもっていない
のだ。いまはできるだけ早く大学に行って、そこでせめて膏薬塗りだけでも覚え、それで世間的成功を
得ようというわけだ。

 生体解剖ではフランスの生物学者が先例を示したように思われる。そしてドイツ人はフランス人と張
り合って、しばしば大量に、罪のない動物に残虐きわまる拷問を加えるのであるが。その目的とすると
ころは純理論的な、往々愚にもつかない問題を決定するためにすぎない。わたしはここにとくに憤慨に
たえない二つの実例をあげたいと思うのであるが、それはけっして散発的なものでなく、似たような例
は百をもって数えることができる。マールブルクのルートヴィヒ・フィック教授はその著『骨の形の原
因について』のなかで、幼い動物の眼球を摘出したことを報告している。それは何のためかといえば、
そのあとの間隙に骨が成長していくという彼の仮設を確証するためなのだ!(一八五七年十月二十四日
付「中央新聞」を見よ。)

 ニュルンベルクのエルンスト・フォン・ビブラ男爵が行なった非道の仕打ちは、特記するに値する。
彼がその著『人間ならびに脊椎動物の頭脳にかんする比較研究』(マンハイム、一八五四年、一三一頁
以下で、いかにもしたり顔に、不可解なほど素朴に、読者に語っているところによると、二匹の兎を
計画的に餓死させたというのだ! しかもそれは餓死によって脳髄の化学的成分に比例的変化が起こる
かどうかという、まったくのんびりした無益な研究のためなのだ! 学問のために――とおっしゃるの
でしょ? いったい解剖刀や坩堝のこの先生がたは、自分がまず人間であること、科学者であることは
二の次だということを、夢にもお考えにならないのか?

79 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 21:55:10.47 ID:fxC3YCHC.net
――母親の乳を飲んで育っている無邪気な動物を南京錠やかんぬきをかけて閉じこめ、拷問にも似てじわり
と餓死させながら、どうして高枕で眠れるのか? 眠っていてもびくりととび起きはしないのか? こうい
うことがバイエルンでは起こるとは? バイエルンでは王子アダルベルトの保護のもとに、尊敬すべき功績
顕著な宮中顧問官ペルナー氏が、粗暴・残忍から動物を守るために全ドイツに範をたれているではないか。
ニュルンブルクには、大いに成果をあげているミュンヘン動物愛護協会のごときものがないのか? ビブラ
の残虐行為は、たとえ阻止されえなかったとしても、罰せられずにすんだのであろうか?――このフォン・
ビブラ氏のように、まだまだ多くのことを本から学びとらねばならぬような人は、自分の知識を豊富にしよ
うとして、つまりはおそらくはとうの昔に知れわたっているような自然の秘密をしぼりだすために、残忍な
方法で究極の答えをしぼりだそうと考えたり、生き物を拷問にかけようと考えたりしてはいけないのだ。と
いうのは、この種の知識のためならば、哀れなよるべない動物を拷問で殺す必要はさらさらなく、まだ他に
罪のない宝庫がいくらもあるからである。いったいなんのために哀れにも無邪気な兎を捕えて、徐々に餓死
する苦しみをなめさせるような罪なことをするのか? 研究されるべき関係について書物に記載されている
ようなことを、完全にすべて熟知していないような者は、生体解剖をする資格はないのである。

 すくなくとも動物にかんするかぎり、たしかにいまこそユダヤ的自然観に終止符をうつべき時であ
り、われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質を正
しく認識し、保護し、尊重すべき時である。わたしはそれを本気で言っているのであり、たとえ全ヨー
ロッパがユダヤ人の教会堂で蔽われようとも、一歩もゆずる気のないことを銘記しておいてもらいたい!

80 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:13:07.54 ID:fxC3YCHC.net
動物は本質的に、また主要な点で、われわれ人間とまったく同一なものであり、その差はたんに
偶有的属性、すなわち知性にあるだけで、意志という実体にあるのではない。こういうことがわからぬ
のは、あらゆる感官がめくらであるか、ユダヤ的悪臭のクロロホルムで完全に麻酔にかかっているに相
違ないのだ。世界はわれわれが使うためにこしらえたものではなく、動物はわれわれが使うための製品で
はない。こういう見解はユダヤ人の教会堂や哲学の講堂にまかせておけばよい。この二つは、べつに本
質的に大差はないのである。これに反し上述の認識は、動物を正しく取り扱うための規則をわれわれに
手渡してくれる。狂信的にいきまく連中や坊主どもに対して、この問題ではあまり反対しないようにわ
たしは勧告する。というのは、この場合、真理だけではなく、道徳までもわれわれの味方についている
からである。

 鉄道がもたらした最大の恩恵は、そのおかげで何百万の輓き馬が苦役を免れたことだ。――
 イギリスには菜食主義者というのがいるけれども、北方に押しよせて行って、そのために白色になっ
た人間が動物の肉を必要とするということは、残念ながら真実である。しかしその場合でも、クロロホ
ルムを用いたり、致命的な急所をすばやく一撃を加えたりすることで、動物たちがその死を感じないよ
うにしてやるべきだ。しかもそれは旧約聖書が言いあらわしているような「憐れみ」からではなくて、
われわれのなかに生きているのと変わりなく、あらゆる動物のなかにも生きている永遠の本質に対する
どうしようもない責任からである。屠殺されるあらゆる動物にはあらかじめ麻酔をかける必要があろ
う。これこそ人間の名誉をそこなわない高貴なやり方と言えるだろう。西洋の高度な科学と東洋の高度
の道徳が、このやり方ならば手に手を携えて行けるであろう。バラモン教や仏教はその掟を「隣人」に
限定することなく、「生きとし生けるもの」をその保護のもとに包容する域に達しているからである。

81 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:13:40.65 ID:fxC3YCHC.net
 ユダヤ的悪臭のためにその頭が朦朧となっていない人、倒錯した考え方をもっていない人ならば、だ
れにでもおのずからわかる真理、端的に確実な真理が、あらゆるユダヤ的神話や坊主どもの威嚇をしり
めにして、いいかげんヨーロッパでも認められるべきであり、これ以上握りつぶされるようなことがあっ
てはならない。それは動物が、主要な点で、本質的に、われわれとまったく同一なものであり、その差
はたんに知性の度合い、すなわち頭脳の活動にあるだけだということだ。もちろん知性の程度は、動物
の種の異なるに応じて非常なひらきがあるけれども、この真理を認めることによって、もっと人間らし
い取り扱いを動物たちにあたえることができよう。というのは、あの単純であらゆる疑問をこえた真理
が民衆にしみわたったときになってはじめて、動物たちはもはや権利をもたないものとして放置された
り、粗暴な悪童どもの意地悪い気まぐれや残忍性の犠牲になったりすることもなくなるからである。
――そして今日行なわれているように、あらゆる藪医者どもが、自分の無知からくる冒険的気まぐれ
を、無数の動物の身の毛のよだつ苦痛によって実験するような勝手なまねもできなくなるだろう。もち
ろん今日では動物もたいがいの場合クロロホルムで麻酔がかけられることを頭におく必要はある。おか
げで手術中も苦痛をまぬかれるし、手術後は急速に死をあたえて彼らを救うこともできるのである。し
かし今日しばしば行なわれている、神経系統の活動とその感受の度合いをしらべる目的の手術では、麻
酔という手段はとうぜん使うことはできない。つまりまさに観察しようとする活動が停止するからであ
る。そして残念なことには、生体解剖に最も頻繁に用いられるのは、あらゆる動物のなかで道徳的に最
も高尚な動物、すなわち犬である。しかも犬はその神経系統が非常に発達しているため、苦痛の感受度
は他の動物よりも高いのである。良心のやましさを感じるような動物の扱い方は、ヨーロッパでもこの
あたりでやめなければならない。――

82 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:52:41.56 ID:fxC3YCHC.net
 犬について: 犬を鎖につなぐことの残虐さについて。人間のこの唯一真実な仲間、最も忠実な友、Fr.キュ
ヴィエのことばで言えば、かつて人間が獲得したなかでもいちばんだいじなこの腹心、しかも最高にものわ
かりがよく感受性も鋭敏なこの生き物を、まるで犯罪者のように鎖につなぐとは! つながれた犬は朝から
晩まで、自由と運動にあこがれるばかり。その切なる願いもかなえられることなく、その一生は緩慢な拷問
と化すのだ! こうした残虐さのために、はては犬も犬の本性を失って、かわいげのない、野性むきだし
の、忠実さの欠いた畜生となり、また人間という悪魔にいつもおののいて、びくびくはいつくばる姿に変
わってしまうのである! このようなみじめな姿がもしわたしのせいであり、あけくれその歎きを見ていな
ければならないとしたら、むしろわたしは犬など飼うのをやめて、泥棒にあったほうがましだと思う。(あ
る貴族と彼の鎖につないだ犬については、第一五三節参照。)籠の鳥も恥ずかしいおろかな残虐行為だ。こ
んなものは禁止されるべきで、この場合も警察が人間性の代役をなすべきだろう。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 動物界についてのユダヤ的見解は、道徳にそむいているから、ヨーロッパから一掃される必要があ
る。本質的に、また主要な点で、動物がまったくわれわれと同じものである、ということ以上に明白な
ことがあろうか。そういうことを見誤るようでは、五官のすべてがめくら同然であるにちがいないか、
あるいはむしろ見ようという気がないにきまっているのだ。それというのは、だれでも真理よりは飲み
しろのほうがありがたいからだ。

83 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/04(金) 22:53:07.17 ID:fxC3YCHC.net
  第一七八節 有神論について

 多神論が自然の個々の部分と力を人格化したものであるように、一神論は全自然を――打って一丸と
して人格化したものである。――

 ある個人的存在者のまえに立ったわたしが、そのかたに向かって次のように言う。「わが創造主よ!
わたしはかつては無でありました。しかしあなたがわたしを生みなしてくださったおかげで、わたしは
いま何ものかであり、しかもわたしというものなのです。」――さらにつけ加えて、「この恩恵に対しわ
たしはあなたに感謝いたします。」――そして最後に、「わたしがなんの役にも立たなかったとしたら、
それはわたしの罪です」とさえ言う。ところでそういう場面を思い描こうと試みた場合に、わたしは、
自分が哲学を研究したりインドのことを勉強したために、わたしの頭がそういう考えを受けつけられな
くなっていることを告白せざるをえない。わたしがこういうことを考えたのは、じつはカントが『純粋
理性批判』(「宇宙論的証明が不可能であることについて」の節)で次のように述べているからで、いわ
ばその対幅にすぎないのだ。「われわれは次のような場面を考えないではおれないが、しかしそういう
考えに耐えることはできない。すなわち、ありとあらゆる存在者のなかで、われわれが最高の存在とし
て思い描くかたが、いわばひとりごとをなさるのだ。《わたしは永遠から永遠にわたって存在する。わ
たしのほかには、わたしの意志によっていささかのものであるもの以外には、なにものも存在しない。
ところでこのわたしはいったいどこからきたのであろうか?》と。」――

84 :神も仏も名無しさん:2015/09/04(金) 23:28:50.09 ID:f9vKHgcl.net
悟りは脳トレ

85 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:21:53.06 ID:KoiEsG0R.net
 ついでながら言っておくが、この最後の問いも、いま引用した節全体と同様、カント以後の哲学教授
連が、絶対者、つまり平たくいえば原因をもたぬものを、しょっちゅう彼らの哲学的思索の主題にする
ことを押しとどめはしなかった。これこそまさに彼らにうってつけの思想なのだ。一般にこの教授連は
救いがたい人種だ。彼らの書物や講演のために貴重な時を失わぬよう、わたしは切にすすめてやまない。

 木や石や金属から偶像をつくろうと、抽象的概念からそれをつくろうと、結局は同じだ。人格的存在
者をまえにして、それに犠牲をささげたり呼びかけたり、感謝したりすれば、とたんにそれは偶像崇拝
になる。自分の羊を犠牲にささげるか、それとも自分の気持ちをささげるかは、根本においてそれほど
違ったことではない。どんな儀式あるいは祈祷も、文句なく偶像崇拝の根拠である。だからあらゆる宗
教の神秘的宗派は、その最奥義を究めた人に対しては、いっさいの儀式を抜きにする点で、一致するの
である。

86 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:22:28.63 ID:KoiEsG0R.net
  第一七九節 旧約聖書と新約聖書

 ユダヤ教の根本性格は現物主義と楽天論だ。この二つは血筋の近いもので、本来の有神論の条件であ
る。というのは、有神論は物質界を絶対に現実と見て、人生をわれわれのためにつくられた、快適な一
種の贈り物とみているからである。これと反対に、バラモン教や仏教の根本性格は、精神主義と厭世観
だ。というのは、バラモン教や仏教は、世界を一種の夢のようなものと見ており、人生をわれわれの罪
の結果と見ているからである。周知のようにユダヤ教の源流であるゼンド・アヴェスタ教では、厭世的
要素を代表するものにアフリマンがある。しかしユダヤ教では、このアフリマンがサタンになって、従
属的地位を占めるにすぎなくなる。といってもサタンが蛇やさそりや毒虫の元祖であることは、アフリ
マンと同様である。ユダヤ教はサタンの化身である蛇を人間の堕落に登場させる。つまり楽天観という
ユダヤ教の根本的誤謬を修正するために、サタンを利用するのだ。ところでアダムとイヴの堕落は、明
白な真理には絶対必要な厭世的要素をユダヤ教にもちこんだもので、この宗教では最も正しい根本思想
である。ただし罪に堕ちるということは人間生存の根拠であり、生存に先行するものとして叙述される
はずのものであるが、アダムとイヴの堕落はこれを生存の経過へ移しかえているのである。

 エホバがオルムズドであるという適切な確証を提供しているのは、七十人訳エズラ書・第一巻、すな
わちο ιερευς Α(六の二四)だが、ルター訳では省かれている。「王キュロスはイェルサレムに主の家を
建造せしめた。そこでは不断の火によって主に犠牲がささげられていた。」――またアカベア第二書・第一
章および第二章、さらに第三章、最八節も、ユダヤ人の宗教がペルシア人の宗教であったことを証明
している。

87 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:40:57.05 ID:KoiEsG0R.net
 というのは、バビロンの捕囚に連れ去られたユダヤ人たちは、ネヘミヤの導きのもとに、あ
らかじめ聖火を乾いた天水槽のなかに隠しておいたため、水につかることになったが、そちに奇蹟に
よってふたたび火があおりたてられたので、ペルシア王に大なる感化をあたえた、と語られているから
である。ユダヤ人と同様、ペルシア人もまた偶像崇拝をきらい、したがって神々を像の姿であらわすこ
とはなかったのである。(シュピーゲルもまた、ゼンド宗教について、それがユダヤ教徒親近性をもっ
ていることを説いているが、しかし彼はゼンド宗教がユダヤ教に由来すると主張している。)――

 エホバがオルムズドの一変形であるように、アフリマンの変形がサタン、すなわちオルムズドの敵対
者なのだ。(ルターは七十人訳で、「サタン」となっているところを「敵対者」と訳している。たとえ
ば列王紀略上・第一一章、第二三節。)エホバ崇拝はヨシュア王の治下にヒルキアの援助によって生じ
たらしい。すなわちゾロアスター教徒によって受けいれられエズラによりバビロン追放から帰還した
さいに完成したと思われる。というのは、ヨシュアやヒルキアまでは、あきらかに自然宗教・星辰崇
拝・ベル崇拝・アスタルテ崇拝などがユダヤ王国で行われていたからであり、ソロモン王治下でも同
様である。(ヨシュアおよびヒルキアについての列王紀略を見よ。)

88 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 00:41:23.35 ID:KoiEsG0R.net
 列王紀略: キュロスやダリウスが(エズラ以降)ユダヤ人に好意を示し、その神殿を再建させているが、
これはおそらく、それまでバアル、アスタルテ、モロッホなどを崇拝していたユダヤ人たちが、バビロンに
おいて、ペルシア人が勝利をしめしたときから、ゾロアスター教を受けいれ、エホバという名のもとでオルム
ズドに仕えるようになったせいではあるまいか。そうでなければ、あの好意は不可解である。キュロスがイ
スラエルの神に祈りをささげた(七十人訳聖書のエズラ書・第一巻二の三)ということも、このことと符合
する(そう考えなければ筋が通らないだろう)。旧約聖書のあらゆる先行諸書はのちに、すなわちバビロン捕
囚以後に作成されたが、あるいはすくなくともエホバの教えはのちに挿入されたかしたのだ。とにかくわれ
われはエズラ書・第一巻・第八章および第九章によって、ユダヤ教の最も恥ずべき面を知る。この選ばれた
民はここでその祖先アブラハムの不快・無道な手本にならって行動している。すなわちアブラハムがハガー
ルをイスマエルとともに放逐したように、バビロン捕囚のあいだにユダヤ人と結婚した婦人たちは、ただ人
種的にMauschelでないという理由から、その子供とともに追放されたのだ。この民族のより大規模な非行
を曲飾するために、あのアブラハムの非行があみだされたものでないとしたら、これ以上卑劣なことはほと
んど考えられない。

89 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:22:25.45 ID:KoiEsG0R.net
 ユダヤ教の起源がゼンド宗教にあることを確証するものとして、ここについでながらあげておきたい
ことは、旧約聖書やその他のユダヤの典拠によれば、天使が雄牛の頭をもったものになっており、エホ
バがそれに乗って歩くということだ。(詩篇九十九の一.七十人訳聖書列王記略・第二書六の二、および二
二の一一。第四書十九の一五には「ケルビムの上に座したまう汝〔エホバ〕」とある。)エゼキエル書・
第一章および第一〇章の記述などに見られるように、半ば雄牛で半ば人間、また半ば獅子といったこう
した動物は、ペルセポリスにあるいろいろな彫刻、ことにモズルやニルムードで発見されたアッシリア
の彫像のなかに見られる。それどころかヴィーンにある彫像を施した石には、オルムズドがこのような
雄牛のケルビムに乗った姿が描かれている。このことの詳細はヴィーン文学年間一八三三年九月「ペル
シア旅行記」にある。なおユダヤ教のゼンド宗教起源についての詳しい説明は、J・G・ローデがその
著『ゼンド民族の聖なる伝説』で提供してくれる。これらすべてはエホバの系譜に光をあたえるものだ。

 これに反して新約聖書はとにかくインド的な由来のものであるにちがいない。道徳を禁欲に移すまっ
たくインド的なその倫理、その厭世観およびその降化がこれを証拠立てている。しかし、まさにそのた
めに新約聖書は旧約聖書と決定的に内面的に矛盾することになり、けっきょくアダムとイヴの堕罪の物
語だけが、両者のつなぎになったのである。というのは、あのインドの教えが約束の国にはいってきた
とき、この世が堕落していて悲惨であり、したがってそれを救う必要があるという認識、降化をはじめ
として、自己否定と懺悔の道徳によって救われるという認識を――ユダヤ的一神教ならびにその楽天的
な「すべてはたいへん良かった」に結びつける課題が発生したのだ。そして、それは事情のゆるすかぎ
り、つまりこれほどまったく異質的な、否、対立的でさえある二つの教えを結びつけうるかぎりにおい
て、成功したのであった。

90 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:23:06.87 ID:KoiEsG0R.net
 支柱や手がかりのいる常春藤のつるが、荒削りな棒杭にからみついて、どんなところでもその不格好
な形に順応し、その形を再現しながらも、自分の生命と優雅でそれに覆い、こうして棒杭ではなしに、
こころよい眺めをわれわれに見せてくれるのと同様に、インドの知恵に発したキリスト教の教えが、これ
とまったく異質的な荒けずりなユダヤ教の古い幹を覆ってしまったのだ。そしてもとの形のうちで保存
されなければならなかったものは、キリストの教えによってまったく別のものに、いきいきとした真実
なものに変えられたのである。それは同じもののように見えながら、ほんとうは別なものなのだ。

 つまりこの世と切り離されていた無からの創造者は救世主と同一視され、またそれをつうじて救世主
を代表者とする人類とも同一視されたのだ。なぜなら、人類はアダムにおいて堕落し、それ以後、罪・
堕落・苦悩・死のきずなに巻きこまれていたけれども、救世主において救われることになるからだ。仏
教におけると同様に、ここでもこの世は罪や堕落、苦悩や死としてその姿を示すからである。――「す
べてをたいへん良い」と見たユダヤ的楽天観の光は消えて、いまや悪魔そのものが「この世の君」(ヨ
ハネによる福音書一二の三一)、文字どおりに世界支配者とよばれるのだ。この世はもはや目的ではな
く、手段となる。つまり永遠のよろこびの国は、この世の彼岸、死のかなたにあるのだ。この世におけ
る諦念とあらゆる希望をよりよき世界へ向けることが、キリスト教の精神である。しかしこのような世
界への道をひらくのは、贖罪、すなわちこの世とその道からの解放である。道徳においては、報復権の
かわりに、敵を愛せよという掟があらわれる。無数の子孫を約束することに取ってかわって、永生の約
束があらわれる。犯罪に対する神罰が四代の子孫にまで及ぶということにかわって、すべてを庇護する
聖霊が立ちあらわれるのである。

91 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:50:40.13 ID:KoiEsG0R.net
 こうしてわわわれは新約聖書の教えによって、旧約聖書の教えが修正され、転釈を受けていることを
見いだす。このことによって旧約の教えは内面的・本質的にインドの古い宗教と一致するようになった
のだ。キリスト教のもっている真実な点は、すべてバラモン教や仏教にも見いだされる。しかし、無か
ら生命をあたえられ、しばしの時をおくるこの神のこしらえものである人間が、歎きと不安と困窮にみ
ちたこのはかない生存をあたえられたことに対して、いくらへりくだって感謝してもじゅぶんではな
く、そのためにエホバをどのように讃えても讃えきれるものではないというユダヤ的な考え方は、ヒン
ドゥー教や仏教にこれを求めてもむだであろう。なぜなら、新約聖書には、インド的知恵の精神が、は
るかな熱帯の原野からいくたの山河を越えて吹いてくる花の香りのように感知されるけれども、旧約聖
書では、インド的知恵に適合するものは人類堕落論以外にはなにものもないからだ。この堕落論は楽天観的
な有神論を修正するものとして、旧約聖書につけ加えられる必要があったのであり、じじつまた新約聖
書はこれを唯一の手がかりとして、堕落論に結びついたのである。

 さてある種を徹底的に知るには、その類を知る必要があり、またその類そのものはふたたびその種
的様相においてのみ認識されるものだ。それと同様に、キリスト教を徹底的に理解しようとすれば、世
界否定的な二つの他の宗教、すなわちバラモン教と仏教を知る必要がある。しかも確実に、できるだけ
精密に知る必要があるのだ。というのは、サンスクリットがギリシア語とラテン語を真に徹底的に理解
する道をわれわれにひらいてくれるのと同様に、バラモン教と仏教こそ、キリスト教を真に理解する道
であるからだ。

92 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 01:51:14.82 ID:KoiEsG0R.net
 いつか将来、インドの宗教に精通した聖書研究家があらわれて、キリスト教がインドの諸宗教と親縁
関係にあることをその特色をつうじて証明してくれるだろうという期待をさえいだいているわたしだ
が、さしあたって次のような点を注意しておこう。ヤコブの手紙(三の六)に見られる「生存の車輪」
(逐語的には「発生の輪」)という表現は、昔から「解釈者にとっての十字架」つまり難問のひとつだっ
た。ところが仏教では輪廻の車輪はきわめてありふれた概念である。アベル・レミュザの『仏国記』訳
二八頁には、「車輪は輪廻の象徴である。輪廻には円と同じように始めも終わりもないからである」と
書かれており、一七九頁には「車輪は仏教徒にはなじみの象徴である。その意味するところは、魂がさ
まざまな形をとる生存の円のなかで、次から次へと移ってゆくということである」と見える。二八二頁
には、仏陀自身が「真理を悟らぬ者は、車輪の回転によって、生と死におちいるであろう」と述べてい
る。われわれはビュルヌフの『仏教史序論』第一巻四三四頁に、次のような重要な個所を見いだす。
「彼は輪廻の車輪がどういう点にあるかを悟った。この車輪は動くと同時に動かないものであり、それ
には五つの目じるしがあるのである。彼は世人がこの世にはいって行くあらゆる道を破壊することによ
り、この道に対して勝利をおさめたのであった」と。スペンス・ハーディの『東洋の修道生活』(ロン
ドン、一八五〇年)六頁には次のように読まれる。「車輪の回転のように、そこには死と生誕の規則正
しい継起がある。その道徳的原因は物への執着であるが、それをひき起こす原因は業なのである」と。
同書一九三頁および二三三頁参照。また『プラボード・チャンドロー・ダヤ』(第四幕・第三場)には、
「無知は、この死すべき存在の車輪をまわしている情念の源泉である」と見える。継起する諸世界が不
断に生じては消えてゆくことについて、ビルマ原典によるビュナカンの仏教の説明(『アジア研究』第
肋間一八一頁)には、『世界の連続的破壊と再生は、大きな車輪に似ている。この車輪においては、わ
れわれは始めも終わりも認めることはできない」と言われている。(これより長い文章ではあるが、同
じ個所はサンジェルマーノの『ビルマ帝国解説』ローマ、一八三三年、七頁にもる。)

93 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:11:24.23 ID:KoiEsG0R.net
 グラウル専門語辞典によると、Hansa とは Saniassi の同義語である。――Johannes (これからドイ
ツ語では Hans がつくられる)という名前は Hansa という語(およびその砂漠における隠遁生活)と
奸計が或るのではあるまいか。――

 仏教が外面的に、たまたまキリスト教と類似しているひとつの点は、仏教がその発生地では優勢では
ないことで、つまりどちらも「予言者は自分の故郷では敬われないものだ」と言わざるをえないことだ。

 キリスト教がインドのいろいろな教えと一致していることを説明するために、あらゆる推測をほしい
ままにするなら、エジプトへの逃避という福音書の覚え書の根底にはなにか史実があって、イエスがイ
ンド起源の宗教をもつエジプトの僧侶たちによって教育され、彼らからインド的倫理と降化の概念を受
けいれ、のちに故国に帰ってからこれをユダヤの教義に適合させ、古い幹に接木しようと努めたのだ、
と仮定できるかもしれない。イエスは、自分が道徳的にも知的にもすぐれているという気持ちに駆られ
て、ついに自分自身を一個の降化者と見るようになり、したがって自分を「人の子」とよび、ただの人
間以上の存在であることを暗示しようとしたのではあるまいか。一般に物それ自体としての意志には全
能の力があり、それはわれわれも動物磁気やこれに類する魔術的作用などから知っているところだが、
イエスもその意志が強固で純粋であったために、この全能の力によって、いわゆる奇蹟を行なうこと、
つまり意志の形而上学的感化を使って働きかけることができたのだとさえ考えられるであろう。この場
合にもやはりエジプトの僧侶たちの教育が役に立ったのであろう。そしてこうした奇蹟のかずかずを、
のちに伝説が拡大・増大したわけであろう。

94 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:11:56.74 ID:KoiEsG0R.net
というのは、本来の奇蹟というものは、どんな場合も、自然が自分自身にあたえる一種の否認であるは
ずだからだ。ところで、パウロの主要な手紙はなんといってもほんとうのものであるにちがいないが、
そのパウロがしばらくまえに死んだばかりの人を、したがってその同時代者がたくさんまだ生きている
という状況下で、どうして大まじめに受肉して人間となった神であり、世界創造者と同じものであると
説明できたかは、そういう前提のもとで、はじめていくらかのみこめるものになる。普通ならば、この
種の、またこの程度の、まじめに考えられた神化が徐々に熟してゆくには、何世紀もかかるはずだから
だ。しかし他方ではパウロの手紙一般の真正さに対する反証を、ここから引き出してくることもできよう。

 一般にわれわれの福音書の根底には、なんらかの原典、あるいはすくなくともイエス自身の時代と環
境に由来する断片ぐらいはあったと思われる。わたしがこういうことを推定するのは、世界の終末がお
とずれて、主なる神が雲のなかに輝かしく再臨されるという、はなはだ不快な予言が行なわれており、
しかもそれは、この約束に立ち会った二、三の人びとがまだ生きているうちに実現するはずになってい
た点からなのだ。ところがこの約束がいつまでたっても果たされなかったことは、じつに困った事情
で、後世になって物議をかもしただけでなく、すでにパウロやペテロも困りぬいていたのだ。このこと
はライマールスのすぐれた著書『イエスとその使徒たちの目的について』第四二節から第四四節にかけ
て詳論されているところである。さてもし福音書が約百年もたってから、当時存した記録もなしに著作
されたとしたら、それが実現しないことが不快にもすでに明白になっていたこの種の予言を福音書のな
かにもちこまないような作者たちは気をつけただろうと推定されるのである。同様に、ライマールスが明
敏にも使徒たちの最初の体系と名づけているものにあたるあの個所を福音書に挿入することもなかった
であろう。この体系に従えば、イエスは彼ら使徒たちにとって、ただ俗世における一介のユダヤ人解放
者にすぎなかったのだ。

95 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:38:10.26 ID:KoiEsG0R.net
 こういう挿入がなされたというのも、福音書の起草者たちが、こうした個所をふくむ同時代のいろいろな
記録ををもとにして仕事をしたからだと思われるのだ。というのは、信者たちのあいだで口伝えにつたえら
れていた伝説でさえも、信仰に不都合をきたすようなことは落としてしまったと想定されるからだ。ついで
ながら、ライマールスが彼の仮設にとくに好都合な個所をいろいろ見落としているのは不可解だ。たとえば
ヨハネ一一の四八(この個所を一の五〇、六の一五と比較すること)、マタイ二七の二八ー三〇、ルカ二三
の一ー四、三七、三八、ヨハネ一九ー二二である。しかし、この仮説を真剣に妥当・貫徹させようと思うな
らば、次のような想定が必要となるだろう。すなわち、キリスト教の宗教的・道徳的内容は、ヒンドゥー教
や仏教の教義に精通したアレクサンドレイアのユダヤ人たちによってつくりあげられたのではないか、そこ
へひとりの政治的英雄が悲しい運命を背負って現われたので、もともと後世のメシアであったものを天上的
な救世主につくりかえることによって、これらの教義の結び目にされたという想定である。もちろんこの想
定は矛盾する点が非常に多い。しかし福音書の物語を解明するためにシュトラウスが提示した神話の原理は、
すくなくともその細部に対しては、たしかに正しい。それにしても、この原理がどこまで及ぶかをきめるこ
とは、むつかしいであろう。一般に神話的物語がどういう事情にあるかは、もう少し手近な疑義の少ない実
例について明らかにしなければならない。たとえば中世全般にわたって、フランスでもイギリスでも、アー
サー王はきわめて事蹟の多い、驚くべき人物ではあるが、輪郭ははっきりしており、いつも同じ性格をもっ
て、同一の従者を伴って登場する。王の円卓やそれを囲む騎士たち、王のかずかずの前代未聞の英雄的行為、
その風変わりな執事、その不貞な妃、妃の愛人ランスローなどといったお膳立てで、この王は何世紀もの詩
人たちや物語作者のおきまりの主題になっているが、これらの作者たちはすべて同じ性格をもったもろもろ
の同一人物を登場させており、事件の点でもかなり一致しているのである。ただ服装や習慣の点では、作者
自身のそのつどの時代に応じて、相互にひどく違っているだけの話だ。

96 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 02:51:14.45 ID:KoiEsG0R.net
 ところで数年前、フランスの内閣は、アーサー王の伝説の起源をしらべるために、ド・ラ・ヴィルマルク氏
をイギリスへ派遣した。そのときの結果は、伝説の根底にある事実については、次のようなことであった。す
なわち、六世紀の始め、ウェールズにアーサーという名の小領主がいて、侵入してきたサクソン人と根気よく
戦ったけれども、そのささいな事蹟は忘れられてしまった、というのである。してみると、この男が、どうし
てだかわからないが、幾世紀もつうじて無数の歌謡・物語詩・物語のうちに讃えられてきたあの輝かしい人物
になったわけなのだ。ヴィルマルケ著『古代ブルターニュの民話。アーサー王の円卓にまつわる叙事詩の起源
についての試論付』(二巻、一八四二年)を見られたい。この『アーサー王伝』では、アーサーは霧のなかの
人物のようにぼんやりとした遠くはるかな存在としてあらわれているが、それでも現実的な核心がないわけで
はない。――中世紀全体をつうじての英雄であるロランについても、事情はほとんど同じである。ロランも無
数の歌謡・叙事詩・物語で讃えられ、さらにロランの甲冑騎士柱像によって称揚され、ついにアリオストにま
でもその素材を提供して、この作品から変容して復活するようになったのである。ところでロランについては、
歴史はたった一回、たまたま、しかも三語をもって言及しているにすぎない。すなわち、アインハルトが彼ロ
ランをロンセスヴァリエスに滞在した名士のなかに「ブリテン王辺疆伯」(Britannici limitis praefectus)
たるロードランドゥスとして数えあげているのだ。そしてこれがわれわれのロランについて知っているすべて
であることは、ちょうどイエス・キリストについてほんとうにわれわれの知っていることが、タキトゥス
(『年代記』第一五巻・第四四章)の一個所につきるのと同様なのだ。別の例を示すものに、世界的に有名な
スペイン人シッドがある。

97 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 03:07:50.03 ID:KoiEsG0R.net
多くの伝説や年代記、とりわけあの有名なすばらしい『ロマンツェーロ』におさめられている民謡、はて
はコルネイユの最上の悲劇までが彼を讃美しており、しかも主要事件については、とくに妻になったシメ
ーネのことではだいたいにおいて一致している。ところがわずかな歴史的資料が彼について伝えているこ
とは、彼はなるほど勇敢な騎士、すぐれた将軍ではあったが、非常に残酷・不実な性格の持ち主であり、
それどころか、ときによって仕える党派を変え、キリスト教徒に奉仕するよりもむしろサラセン人に味方
するほうが多かったような節操のない人物であり、それはまるで一介の傭兵隊長に類するが、シメーネの
ひとりと結婚している、といったこと以上に出ないのである。こうしたことの詳細は、はじめて正しい
典拠に行きついたと思われるドージの『スペイン史研究』(一八四九年)第一巻から知ることができる。
――イリアスの歴史的根拠ははたして何であろうか?――じっさい、こうした問題の実態につきあた
るには、ニュートンのりんごの逸話を念願におくがよいのだ。この話に根拠がないことについては、わ
たしはすでに第八六節で説明したとおりなのだが、それでも何千という本でくりかえされているところ
で、現にオイラーさえも、『皇女あての書簡』の第一巻で、麗々しく述べたてているのだ。――およそ歴
史的事実はたいせつにすべきものである以上、残念ながら現状に見られるように、われわれは大嘘つき
であってはなるまい。

98 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 09:55:59.35 ID:KoiEsG0R.net
  第一八〇節 宗派

 原罪ならびにこれと結びつく点を教義にかかげているアウグスティヌス主義は、すでに述べたよう
に、理解のゆきとどいた本来のキリスト教である。これに反してペラギウス主義は、キリスト教を粗
野・平板なユダヤ教とその楽天観に逆転させようとする努力である。

 教会をたえず二分してきたアウグスティヌス主義とペラギウス主義の対立は、その究極の根源までお
しつめれば、前者は事物の本質そのものを論じているのに対して、後者は自分では本質と思いながら現
象を問題にしているにすぎない、というふうに還元できよう。たとえばペラギウス派は、まだなんにも
していない子供には罪がないにきまっているという理由から、原罪を否定する。――こういうことを言
いだすのは、なるほど子供は現象としては存在しはじめたばかりではあるけれども、物それ自体として
はそうでないことを、彼らが見ぬいていないからなのだ。意志の自由についても、救世主の贖罪の死に
ついても、恩寵についても、要するにすべての点について、同じことが言える。――それがわかりやす
く平板であるために、ペラギウス主義はいつでも優勢であるが、現代ではとりわけ合理主義として幅を
きかせている。ギリシア正教教会はペラギウス主義をやわらげたものである。トリエント公会議いらい
カトリック教会もこれと同様で、そのためカトリック教会は、アウグスティヌス的立場に立つがゆえに
神秘的な思想をもったルターや、さらにまたカルヴァンに対抗しようとしたのだ。同様にイエズス派も
半ばペラギウス主義的である。これに反してヤンセン派はアウグスティヌス主義を奉じており、彼らの
見解がおそらくキリスト教の最も純正な形であろう。というのは新教は、独身や一般に本来の禁欲を否
定し、禁欲の代表者である聖者を否認したことによって、すりきれた、あるいはむしろ画龍点晴を欠い
た腰くだけのキリスト教になってしまったからだ。こうなってはどうにもならない。

99 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 09:56:29.39 ID:KoiEsG0R.net
  第一八一章 合理主義

 キリスト教の真髄は、アダムとイヴの堕落・原罪の教えである。すなわち、われわれの自然の状態は
度しがたく、自然的人間は堕落しているという教えであり、これに救世主による代理と贖罪が結びつ
き、われわれはこの救世主に対する信仰によって贖罪にあずかるというのである。このためキリスト教
は厭世観とみられるのであって、したがってユダヤ教の楽天観や、またユダヤ教の正統の子供である回
教の楽天観にはまさに対立するが、バラモン教や仏教とは類似するものとなるのである。――すべての
人はアダムにおいて罪を犯し、永劫に罰せられているが、救世主において救われるということには、人
間の本来の本質と真の根源が個人にあるのではなくて、人間の(プラントン的な)イデアである種にあ
るということ、個人は時間のうちにくりひろげられるイデアの現象にすぎないということも、表現され
ているのである。

 もろもろの宗教の根本的差異は、それが楽天観であるか厭世観であるかという点にあるのであって、
一神論であるか多神論であるか、三神一体であるか三位一体であるか、汎神論であるか、それとも(仏
教のように)無神論であるかといった点にあるのではない。だからこそ、旧約聖書と新約聖書はたがい
に正反対なのであって、これを結びあわせると一個奇怪な半人半馬ができあがるのだ。つまり旧約聖書
は楽天観、新約聖書は厭世観だからだ。旧約聖書はたしかにオルムズド教に由来するが、新約聖書はそ
の内面的精神からいえば、バラモン教や仏教に親縁で、たぶん歴史的にもなんとかこれらの宗教から導
きだすことができよう。音楽にたとえれば旧約は長調、新約は短調だ。ただ人類堕落論だけは旧約聖書
のなかでひとつの例外をなしており、キリスト教が唯一の接点としてふたたびとりあげるまでは、利用
されないままに一種の前菜にとどまったのである。

100 :幸ちゃん ◆CHXfX7dmeM :2015/09/05(土) 10:23:27.72 ID:KoiEsG0R.net
 右に述べたキリスト教の根本性格は、アウグスティヌス、ルター、メランヒトンがきわめて正しく把
握しており、これを最大限に体系化しているのであるが、われわれの現代の合理主義者たちは、ペラギ
ウス派の亜流として、この根本性格をできるだけ抹消し、あらぬ解釈をほどこして、キリスト教を味気
ない、利己主義的・楽天観的なユダヤ教に還元しようとしている。そこへ彼らはよりよき道徳をつけ加
え、論理的に徹底した楽天観が要求するものとして来世を説くのだ。つまりこのすばらしい人生があま
りに早く終わらないようにというわけだ。つまり彼らの楽天観的見解を大声で打ち消すやつ、しかし結
局は石の客として陽気なドン・ファンをおとずれるあの死神を片づけたいわけなのだ。――

 こうした合理主義者たちは誠実な人種ではあるが、平板な頭しかもっていない連中だ。彼らには新約
聖書の神話の深い意味など、見当もつかない。彼らは自分たちの把握できる、また彼らにふさわしいユ
ダヤ的楽天観を超えられないのである。その欲するところは、歴史的な面でも、教義的な面でも、むきだ
しの無味乾燥な真実で、われわれは彼らを古代のエウヘメロス主義に比較することができる。もちろん
超自然主義者の唱えるところは、本質的には一個の神話である。しかしこれは重要で深遠な真理をはこ
ぶ車なのであって、真理を大衆の理解に近づけるには、他の方法では不可能であろう。ところでこれら
合理主義者たちが、キリスト教の意味と精神を認識するどころか、その見当もついていないことは、た
とえば彼らの偉大な使徒ヴェークシャイダーがその素朴な教義論で示しているところだ。すなわち彼は
その『教義論』(第一一五節および注)で、原罪ならびに自然的人間の本質的堕落についてのアウグス
ティヌスや宗教改革者たちの深い発言に対して、『義務について』の諸巻に見られるキケロの気のぬけ
たおしゃべりを対置してはばからないのである。彼にはこのおしゃべりのほうがずっと気にいるから
だ。われわれはじっさい、この男がなんのこだわりもなく自分の無味乾燥ぶりと平板さをさらけだし、
それどころかキリスト教の精神に対する理解が皆無であることを見せびらかすのを見て驚かざるをえな
い。しかし彼はたんに「多くのなかのひとり」にすぎない。

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