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原始仏典(パーリ語仏典)・日本語訳ベストを探せ

1 :神も仏も名無しさん:2014/10/06(月) 22:04:51.03 ID:XHnN+5r4.net
スレタイ通りです
中村元博士の「原始仏典シリーズ」「原始仏典IIシリーズ」は大きくて高いです
最近では片山一良氏の翻訳が入ってきました

すべての仏典を網羅している日本語翻訳された原始仏典(パーリ語仏典)はどれが良いでしょうか?

分冊(文庫)では中村元博士の「スッタニパータ」や「ダンマパタ」、「ブッダ最後の旅」などがお手頃価格で携帯に便利です
しかし、注釈が後の方に書かれていて読みづらいのはあります
ただ、注釈を途中でつけない分、丸暗記にはうってつけ?かもしれません

一長一短がありそうな原始仏典(パーリ語仏典)、いったいどれがベストでしょうか?

2 :神も仏も名無しさん:2014/10/06(月) 22:14:39.18 ID:QYpZSCmC.net
岩波文庫の原始仏典
それ以外はオカルト

3 :神も仏も名無しさん:2014/10/07(火) 04:03:10.00 ID:Pt0dJ8sV.net
光明寺経蔵
http://komyojikyozo.web.fc2.com/index.html
(長部経典と中部経典)

正田大観 訳 パーリ仏典
http://tipitaka.cocolog-nifty.com/blog/
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/
(小部経典と清浄道論)

4 :土いぢり:2014/10/07(火) 08:31:53.31 ID:+IGUSs2g.net
中味はよくないか安いのは
増谷文雄「阿含経典」 私は相応部に対応する第一巻から第四巻を所有。
一冊2000円程度。

いちおー表向きはパーリから訳したとあるがかなり疑わしく
『南伝大蔵経』(我が国初のパーリ仏典訳)と英訳本を参照したとされるが
訳語が漢訳・雑阿含経に寄りすぎ。これは参照したとされる『南伝大蔵経』が
漢訳・雑阿含経のタームを使っているためだろうが学術レベルとは言えない。

二つ目の問題点は抄訳であること。相応部は似たような経典というか
同じ経典の少し違うバリエーションの異本が他経典として多数収められている
のだが、全訳ではないのはマイナスポイント。

そして最大の難点は経典の順番では無く、増谷氏がテーマごとに
分類した順序に並び替えられている。
まあ索引はあり参照はできるのだが。。。

5 :土いぢり:2014/10/07(火) 08:36:38.38 ID:+IGUSs2g.net
長部 中部は中村元監修「原始仏典」シリーズ
小部の代表経典は中村元の岩波文庫本すべて

相応部は増谷文雄「阿含経典」四巻と
参考として、漢訳の現代語訳の新国訳大蔵経「雑阿含T」

私の陣容はこんなところだな

6 :神も仏も名無しさん:2014/10/07(火) 13:27:18.61 ID:datQAuyb.net
>>ALL
聖書みたいに解説文を省略して一つの書籍にならないものですかねぇ?
長部・中部・相応部ならそれぞれ普及用の新約・旧訳聖書(小型)1冊くらいの大きさで3000円くらいからとか
小部なら1つにまとまって新約聖書+詩編くらいの大きさで1500円〜2000円以上とか
岩波は懇切丁寧なんだけど分冊されているんだよ それこそ翻訳された仏典をひとつにまとめて一冊とし、
解説は「仏典注解」とか別個にして売ってくれれば
「まず読む」人用と「学術的・宗教的に調べて説法する人用」に区分けできるでしょうに

中村元博士の岩波版仏典(日本語訳)が広まらなかった理由がこれとしか思えん
だから仏教カルトが未だになくならないんだよ

7 :グノーシスLv.99 ◆/bVPRrlaFM :2014/10/09(木) 20:40:47.29 ID:wurxbCnn.net
>>6

そもそも日本には、仏典は読むものだという一般認識がないから。
これは奈良仏教以来からで、当時から漢訳仏典の読経はできても仏典として
内容を十分に咀嚼している僧侶は少なかった。
僧侶ですらその体たらくなのに、いわんや仏典を一般向けに廉価版で出すとか、
そんな赤字覚悟のボランティアしてくれる出版社は存在しないだろ。
もっといえば、日本の仏教はすべて儒教・道教の中華思想に汚染された漢訳仏教だから。
あえて、仏典をサンスクリットやパーリ語で読むなんて、一部の学者や宗教学者、好事家ぐらいのもんだろ。

8 :神も仏も名無しさん:2014/10/10(金) 08:46:55.04 ID:njsOQO4S.net
>>7
パーリ語訳なら問題ないと思ったけど…てか日本語訳してから原文訳だけをコンパクト装丁してくれって話

9 :神も仏も名無しさん:2014/10/10(金) 20:57:11.98 ID:OshsnYKA.net
>7
>日本の仏教はすべて儒教・道教の中華思想に汚染された漢訳仏教

グノーシスさんに教わり納得

コレ悟りか!

10 :神も仏も名無しさん:2014/10/10(金) 22:58:29.84 ID:njsOQO4S.net
>>7
> そもそも日本には、仏典は読むものだという一般認識がないから。
世の中は変わったんだよ
聖書が日本を始め東南アジアに伝わったときから「布教のための仏典(経典)複製・頒布」は意識しておくべきだったんだよ
そして活版印刷と洋書製本ができるようになってから一気に印刷会社を設立して廉価で売り出す
これを大乗仏典の段階でしないで、問法説法に拘っていたからキリスト教の布教力に水をあけられるようになったんだよ
経典で出版の習慣がついていたら、21世紀になって中村元博士が全部仏典を翻訳しきったときに
解説抜きの全仏典だけをコンパクトに出版するだけの出版社があったはずだ

てか、今からでも遅くないから日本聖書教会にノウハウを学んでこいってんだ

せっかく江戸時代に識字率が上がっていたのにお経を出版(写本?版画?)しない僧侶も悪いってことだ

11 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/11(土) 09:18:02.97 ID:0LXadWSI.net
○決して死を味わうことのない境地と妄執 体験  神がいるかもしれないと思っていた頃、【神の右の方々】が存在した

 ―言語表現だけのものとして、〔仮りに〕そのような表現をしてもよいのである(神々との対話)
 ―見られたことは見られただけのものと知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことは同様に考えられただけのものであると知り
 (感興のことば)

   ブッダのことば・真理のことば、感興のことば・神々との対話などは近い。経典は誰でも作れる、それが仏の教えと思われると危険。

 〔安らぎは虚妄ならざる真理〕〔平安の境地〕
   他者(神や神々)を思って認められる者は誰もおらず、―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが(神々との対話)
   ―何ものかを信ずることなく、作られざるものを知り〜人のいない林は楽しい(真理のことば)

12 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/11(土) 09:18:54.42 ID:0LXadWSI.net
□信仰無く生まれ、善悪から離れた境地

 釈尊が神通力あったように ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった(ブッダのことば)
 
 その清浄な行者の方法のみ近い。在家信者にとって、自制心あり【清々しい朝だ・何事も思い煩わない喜び】は神通力の領域に近いから、日本の仏教は原始
 仏典を読ませ、そういった人間にするよう指導すべきである。何事も思い煩わないことが第一なのである。

□どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである

 ―この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を懸けて護るように〜慈しみの心づか
 いをしっかりたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば)
 ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話)

13 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/11(土) 09:21:27.61 ID:0LXadWSI.net
1.世捨て人・わずかな食物で暮らす生活・安らぎは虚妄ならざる真理で、森に住み、心静まり、清浄な行者  は一番神通力の域に近い
   釈尊や修行僧の行いを善いと受け入れ、世にあり人の心で感じることができる【大自然の静けさを喜んだり、よい天気ですねと挨拶したり】

     在家信者が、そういった健康的な、何事も思い煩わない心に熱心になるよう指導する。

2.全てのものが幸福であり、安穏・安楽な生き方ができますように・・・慈しみのこころは、神通力の域に近い。その心を保つよう指導すること。
  貧窮なる人々・悩み苦しみ思い煩っている人々への配慮ある心も、神通力の域に近い。その心と行為を思い上がらない程度に行えるよう指導すること。

 世捨て人と安らぎの希求を常に楽しんでいる人々は、妄執を乗り越え、この世に生を受けない。在家信者全てが、幸福と安穏・安楽な暮らしを望んで、再び生
 を受ける。離欲と安らぎに安住しない者は、再び生存状態となり、この世で大自然を楽しむような清々しい心や慈しみのこころづかい・あわれみの心による行動 
 で自己を乗り越え神通力の域に従って、益をもたらすことができるから、仏教はそういったことを指導すること。

  自分も愛しい、他人にとってもそれぞれ自己がいとしい。そのことが理解でき善悪を知れる人間と人間の役割。悪を行った者は、隠れて行ったこともわかるの
  で、地獄行きとならないよう指導する。 決して死を味わうことのない境地も神々も存在する、原始仏典は真実を書いた書物、人類にとって大切な書物である。

14 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/15(水) 19:42:27.08 ID:VegY/Yv8.net
ブッダの真理のことば・感興のことば・ブッダ 神々との対話 岩波文庫(中村元訳)
 
―そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、一切の苦しみ
から全く解脱する(感興のことば)

 遠ざかり離れた止滅の境地―安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る(ブッダのことば 岩波文庫 中村元訳)

 平安の境地=無量の慈しみ、神通力ありの境地 そういった遠ざかり離れた境地は在る。悪というものも一切無い。

15 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/15(水) 19:46:47.63 ID:VegY/Yv8.net
離欲と世捨て人、安らぎを楽しむ修行
 ―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが(神々との対話 中村元訳)
 ―世間は妄執によって導かれる〜妄執という一つのものに、一切のものが従属した ―妄執が人を生まれさせる〜生存するものが輪廻に堕している(神々との対話)

 私たち人間は全員輪廻する。一切の苦しみから離脱する境地があるのに、【離欲と安らぎに安住しよう】という行為を常としなかった全ての人々は、妄執という
 一つのものに従属して、再び人間の境地に至り輪廻する。

  ※仏典は真実を教えようとしている。人間の境地をもたらす妄執は誰がつくったのか?サンバラ(父さん!)悪魔との対話 中村元訳

 とにかく何ものかが生存者全てを、妄執という一つのものに従属させた。

16 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/15(水) 19:48:00.50 ID:VegY/Yv8.net
―われらは一物をも所有していない。大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となろう(真理のことば)

 神々と呼ぶ人々もいる。離欲を達成し一切の苦しみから離脱した世界で人格ある。離欲を喜ぶのみで、人間には何もしてくれない。

 悩み苦しみ思い煩いを厭う境地で、輪廻する一切の者=人類を憐れんで、説く教えも多い。

―自分のなすべきことを行う人を、世人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せよ、教えさとせ(感興
のことば) 

 原始仏典ほど大事なものはない。本当のことを伝えようとされた。新約聖書と違うのは、誰でも仏教の名を借りて教えをつくれる危険性と、神という厄介なものを除外
 したよい点だ。釈尊や修行僧の行い以外、神にも何も善いとされないからだ。もともと人間は、からし種一粒ほどの信仰の無い者だったのだ。

17 :神も仏も名無しさん:2014/10/15(水) 19:50:43.16 ID:1QmQaZwz.net
誰かがどこかに書いていたが聖書みたいな感じで主要な原始仏典の日本語訳を1冊本で出せばいいんだがな
3500円くらいで。

18 :神も仏も名無しさん:2014/10/15(水) 19:52:07.24 ID:1QmQaZwz.net
あ、このスレの上のほうのレスだった

19 :神も仏も名無しさん:2014/10/16(木) 08:53:35.50 ID:vxSiZP/i.net
そういえば増支部と小部も必要だな >>6

20 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/16(木) 23:38:18.80 ID:MK22UKvV.net
平安・安らぎと神通力の境地は在る。実際在るものが解明できれば、ノーベル賞かもしれない。

 日本のお坊さんが皆原始仏典を熱心に学べば、【他人を訓戒し教えさとす】ことを行い、世の様々な問題を解決できるような宗教の役割を果たすことができるだろうが、

基本的には「すべては水の泡かがげろうのごとし、一切は虚妄である。一切の苦しみから解き放たれ、平安に満ち安らぎに満ち、釈尊が神通力の領域に達したことが理解でき
る」しかし、一切のものは妄執という一つのものに従属し、人間の境地に戻るということを知っている。悪い者でなかったら神通力の領域に達し、その境地から世の人々を救
うためにも説いたのが原始仏典である。

誰かが原始仏典をまとめるなら、欲得に満ちた世から遠ざかり離れ、悩み苦しみ思い煩わない心を善いように教えねばならないし、このような自己は永遠でなく、何ものも信
じないまま(妄執を乗り越えたら)平安と一切の苦しみも味わうことも無いから、宗教で何ものかを信じさせる洗脳はいけない。

 信じられるものがある時点で妄執なのである。しかし、遠ざかり離れ苦しみを味わうことの無い(安らぎ)と平安は妄執ではない。

21 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/16(木) 23:49:52.77 ID:MK22UKvV.net
在家の人々が生存状態を繰り返すのは間違いなく、世捨て人とわずかな食物で暮らす生活と安らぎに努める修行僧が安らぎに至るのは間違いない。妄執に導かれた生存状態を
厭い離れることに懸命な者は、妄執に導かれた生存状態に戻らない。

―世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ(真理のことば)
―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちよく起き上がった(ブッダのことば) 快楽・享楽・欲楽や未来のことにあくせくする営みなどは清浄な境地
から離れるが、あの世もこの世をも望まず、遠ざかり離れた者のように、何事も思い煩わない清々しい心を喜びとしている者に悪は少ない。

―人のいない林は楽しい(真理のことば)大自然の清々しさを楽しみにしている人、或は足り、何事も思い煩わない心で満足している者に悪は少ない。
 わが物という執着から離れ、憂うるものという法を理解し、他人の過失を見ず、―母が己が独り子を命を懸けても護るように(ブッダのことば)皆、幸福と安穏・安楽な暮
 らしを望んで生まれてきたわけで、

22 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/16(木) 23:52:45.05 ID:MK22UKvV.net
世は一切皆苦で、決してわが物という執着心があってはいけない。憂うるものと予め心得ておけばよい。皆、幸福と安穏・安楽な暮らしを望む『目的』があって生まれてきた
のだそうだ(=妄執は絶つものかという質問に対して) 他者信仰(神や神々など)は生きながら彼岸に達した釈尊だけで、離欲を達成しようとする修行僧もそれで信仰あり
の者。慈悲・あわれみの修行完成者を善いとすることは、人間のため。離欲を達成し、他者に認められる者となる。

修行僧の清浄行を行わねばならないものとして「足る」ことを善いと受け入れねばならない。妄執を善いことのように思い、未来のことにあくせくし、五欲の対象の貪りにあ
くせく思い煩い悩み苦しんでいる者は、益から全く離れてしまっている。

妄執は ―園に植え、林に植え、橋を作り、井戸の舎や貯水池を作る人々、休息所を与える人々、かれらの功徳は、昼夜に増大する(神々との対話)
 
 人々が人々の幸福と安穏・安楽な暮らしに働き仕えるためで、もっと得ようとする心と共に、人々の暮らしを快適にする。しかし、世の貪りも適度にしないといけないので
 ある。自制は大事なことで、離欲を達成して喜びを食む(神々と呼んだ)人々もいる。人間は人間でいたいという目的(欲界)の位置だが、その欲求のために他人を悩まし
 苦しめ思い煩わせ困難を味あわせて平気な人々は、決して善い者ではない。

23 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/17(金) 20:45:41.96 ID:pRqLGFMG.net
□妄執を断じる 神など他者が説教することは一切無い

 ―何ものかを信じることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、善悪をなしによしくなく、欲楽を捨て去った人、かれこそ実に最上の人であ
 る〜人のいない林は楽しい(真理のことば)
 ―あなたは悪魔の征服者です〜あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡り終わり、またこの人々を渡すのです〜あなたは善悪の両者に汚されません
 (ブッダのことば)

  妄執を断じることのみに、他者(神など=名称)に信仰がある。神の言葉などがあるが、妄執を断じた世界のみである。人間の状態ではないのである。
  一切皆苦の世を信じられる者がいると喜ばれず、離欲を喜ばれ、離欲をせず世で必要な物と暮らすなら、「苦」のみと喜ばれない。

 ―かれらには無が有であるかのごとくに見られている。真理を見る人には何ものも存在しない。人々には自我観念にたより、また他人という観念にとらわれている
 (感興のことば)
   妄執=自己が、何か信仰ありなど全く無いので、大自然などを喜び心を清浄にしないといけない。これは絶対的な法である。

24 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/17(金) 20:47:32.87 ID:pRqLGFMG.net
□平安の境地に達しての慈しみ

 妄執を断じた不死の境地では、一切のものが悩み苦しみ思い煩わないことを喜ぶ。悩み苦しみ思い煩いから解き放たれた境地を何よりも喜ぶのである。だから、妄執=自己
 を制して、生けるものの幸福と安穏・安楽に施すことは善い、自己や益のを欲するため、他者の幸福と安穏・安楽な暮らしを奪っては悪いと、誰かに言われなくとも行うの
 が通常で、生存状態は人間でいたいという幸福と安穏・安楽な暮らしをしたいという目的があって生まれたことを確認して、法に反した者を教えさとせねばならない。

□修行完成者のあわれみと道から外れることはない

 妄執=自己を得ても、他者(神=名称)は全ての生ける者を尊重されておられる。離欲と世捨て人のみならず、生ける者の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげることは善
 いと教えようとされた。生ける者には悩み苦しみがある、これを取り除いてあげようとすることを善いと教えさとさねばならない。また、死んだ人をいつまでも思う供養は
 全くの無効、過ぎ去るものは虚妄と時と共に忘れ去ることが善いのである。

25 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/17(金) 20:49:03.96 ID:pRqLGFMG.net
□わかち与え 学び修めた賢明な人

 ―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与える人には功徳が増大する(感興のことば)
 ―信仰心あり、学び修めた懸命な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る。かれは、天
 が雨降らすごとくに、その轟きを発するのである。その豊かな功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ。貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとし
 て与えよ(神々との対話)

  死も無く、必要な物も無く、妄執を乗り越えた境地では、働くことさえ無い。仏が無所有で、わずかな食物で暮らす生活を守るのもそのためだ。妄執がなければ、生存
  状態でも皆裸である。食物を作ることも無く、生存状態は無い。しかし、他者から得た妄執を、善い状態の自身が制して、生けるものの幸福と安穏・安楽な暮らしのた
  めに働く。全ての人々に必要な物を得させるためで、それを行っても善い者と自任できる者はいないが、重い荷に耐え、得た物をわが物だけと執着せず、わかち与える
  ことは、功徳を得るための法である。悪い者=一切皆苦を喜んで生まれた人間でも、善い(悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようという)心に従うなら、善い状態
  に生まれることができる法である。

26 :神も仏も名無しさん:2014/10/22(水) 20:33:06.75 ID:RviNP1Wk.net
テーラワーダ系が隆盛すれば原始仏典集も出せるだろう

27 :神も仏も名無しさん:2014/10/23(木) 13:07:39.78 ID:F3tu/xA3.net
>>19
それをいうなら増支部と相応部じゃないか?
ただ、仏典にも欠点があって「何度も何度も繰り返し同じ事が書かれていて冗長であること」
聖書はかなり文学的になっていて読みやすいと思う人は多いが
仏典は1つの章が長部にあったら、その次の章に同じ内容の話が書かれてあったなんてのがある
それを編集・圧縮すると1冊本にはなるだろうけど、仏典としての価値は下がるだろうし翻訳の問題がある

>>26
果たしてテーラワーダ系が隆盛するだろうか?一応日本では大乗仏教が「檀家制度」として根強く残っている以上
テーラワーダが隆盛したら盛り返しを果たしたなんて話になったら過酷な競争になる
キリスト教が近寄りづらい理由が「すでに自分の家の宗教が大乗仏教として決まっている」「お墓が大乗仏教系だ」
などでは?
葬式仏教と大乗仏教が揶揄されている最大の理由が上記 それ故衰退の一歩を歩み始めているというのもある
(もっとも今のところスピリチュアルブームなどでカリスマ禅僧を用いて持ちこたえているが)

28 :神も仏も名無しさん:2014/10/23(木) 17:06:03.53 ID:1EvLIA4g.net
テーラワーダの需要は既存の仏教とに対してではなく、現在無宗教に含まれる人々にある。

29 :グノーシスLv.99 ◆/bVPRrlaFM :2014/10/25(土) 23:07:07.04 ID:tjsuiheY.net
仏教拡大の問題
@そもそも仏教は大々的な布教など考えてない。
キリスト教は全世界に福音を述べ伝えるという指針の元で行動してるが、それがない。
Aそもそも内容が哲学的で大衆に受けない。
浄土思想(これ自体も中国仏教の産物)とか一部の大乗思想を除き、救済宗教(受ける要素)
としての特質がない。修業して悟れば人生が苦じゃなくなって涅槃に入れますよ、とかかったるくてやってられない。
B組織性がない。
カトリックは早い段階で聖職位階制と教会会議等でドグマを定め、逸脱する教えを排除してきたが、
仏教は部派の時代すら数十に分岐し、キリスト教で言えば偽典にあたる大乗思想も混淆して、
組織的にも教義的にもまとまる余地がない。

30 :神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 13:25:50.81 ID:Bla8bd/T.net
>>29
岩波文庫の中村元訳の書籍を一冊の本にまとめて週に一度読書会or法話をやるにしても?

31 :神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 13:27:32.70 ID:Bla8bd/T.net
追記:中村元博士は訳本だけではなく、原始仏教の解説本も出していて精力的だった これをアンチョコにしたら?

32 :グノーシスLv.99 ◆/bVPRrlaFM :2014/10/26(日) 16:11:36.32 ID:Nl5CAiDJ.net
>>30

どこの誰がそれを出版するの?
岩波書店が出すの?邦訳聖書は日本キリスト教団が布教の一環として出してるから
廉価で入手できるが、岩波はただの営利目的の一出版社に過ぎない。
岩波が旧約一式を学術的に翻訳して出版した「岩波訳聖書」は廉価版でも、一冊4〜5千円で4分冊だ。

33 :神も仏も名無しさん:2014/10/26(日) 19:00:29.27 ID:4DxmSGjX.net
>>32
だから>>10のような習慣が日本に根付けば良かったんだよ
下手に檀家制度を取ったから教えを広める、守るということに弱いんだ
信長の時代にキリスト教が伝道され、聖書が手に取られた時から対抗策をとっておけば
聖書と同様の頒布組織が出来上がっていたはず

てか、本当に今からでも遅くないから日本聖書教会に聖書を作って頒布するノウハウを学んでこいと
今はそれが具体的な方法

34 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/27(月) 23:00:55.14 ID:tgd3eV/T.net
決して死を味わうことのない境地 在る

 ―あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、
 移るであろう。このようにあなたがたにできない事は、何もないであろう。(しかし、このたぐいは、祈りと断食とによらなければ、追い出すことができない)
 (マタイ)

 確かにこの世の者ではない境地と、神通力が一つになる境地が在る。そして、神がいるかもしれないという迷いと共に、現れた人々が『神の右』の人々であった。
 その人々が地上のものに心を一切引かれない国を義として説き、人間として生まれ続ける存在は、創から『からし種一粒ほどの信仰の無い』者として天と地を分けられた。

 『聖霊に満ち荒野』『森に住み心静まり清浄な行者』しか、いくら信じても近い者すらなれない。信仰の「し」宗教の「し」神の「か」でもあれば、近い者の行いしか
 喜ばれない。その他の人間は、信じれば信じるほど、神に対する罪は大きい。

35 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/27(月) 23:04:58.73 ID:tgd3eV/T.net
人間という状態は、「誰もが自分を愛し生まれた者」しかも、天に在る存在は、からし種一粒ほどの信仰も無いが、全世界の「人間でいたいと生まれた人間を尊重されている」

 自分の命を憎めに対し―自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ)
 ―どの方向に心でさがし求めても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己がいとしいのである(感興のことば)

 ―イエスがイスラエルの失われた羊以外の者には、つかわされていない(マタイ)ように、貧しい人々・世に打ちひしがれた人々が「ただ衣食があれば足る」ような心を
 よしとし、何事も思い煩わないで生きる者しか神によしとされず、その他の人々は、妄執に従い生まれ続けるが、何も信じないで、ただ「人間でいたいと自分を愛し生ま
 れた」状態でしかない。

    在家者として世で暮らす限り、現実を受け入れて暮らすしかないのだ。神頼み、信仰頼み、宗教的行為で救われるなど一切無い。

36 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/27(月) 23:06:08.31 ID:tgd3eV/T.net
 ―この平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を懸けて護るように〜慈しみの心づか
 いをしっかりたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ(ブッダのことば)
 ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話)

  無所有でわずかな食物で暮らす生活を守る者が、右として在り、生けるものの幸福と安穏・安楽、あわれむ者の罪過は存在しない 妄執の配下の地があるのみ。
  人間は信じて救われる者はおらず、そのままの法のみがあるだけ。無知無明になってはならず、人間は全知全能の肉(身体)とならねばいけない。

―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ
よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば)
―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧
める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ)

  人間には知っているはずの法があるだけだ。原始仏典に従い、妄執に導かれた人間が、勝手な法をつくってはいけない。

37 :神も仏も名無しさん:2014/10/28(火) 00:31:24.48 ID:9I+JyoNN.net
>>36
自分の書き込みが、
スレタイ及び>>1の希望に、まったく沿っていない、
それどころか反しているということに気付いてる?

気付いてないんだろうなぁ・・。 親切心で書き込んでるんだろうなぁ・・。
一番、たち悪い、迷惑で厄介なパターンだろうなぁ・・・w

38 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/28(火) 21:51:32.79 ID:frrhe27j.net
そもそも釈尊が教えを説いた意味が理解できていない。

 ―何ものかを信じることなく、作られざるもの(=ニルヴァーナ)を知り、生死の絆を断ち、善悪をなしによしくなく、欲楽を捨て去った人、かれこそ実に最上の人であ
 る〜人のいない林は楽しい(真理のことば)
       ―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが(神々との対話 中村元訳)

  修行僧は世を捨て、わずかな食物で暮らす生活を守り、安らぎであるニルヴァーナを目指すことを書いてあるのが、釈尊の教えの修行僧である。
 そして、解脱者として平安の境地に達し、慈しみ(ブッダのことば)が書いてあるのが、ベストなのである。
 妄執を乗り越えた生死も無い境地が、一切のものが悩み苦しみ思い煩わない境地から、
 ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない(神々との対話)もベストなのである。

39 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/28(火) 21:52:48.20 ID:frrhe27j.net
妄執に従い生まれ続ける在家信者が、―すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、これが仏の教えである。わかち与える人には功徳が増大する
(感興のことば)もベストなのである。

 妄執に従わない自身(平安の境地・安らぎ)から、妄執に従いアートマンとして自己(人間)として生き続ける。釈尊はその法あるがままを説いたのであり、どれがベスト
 の原始仏典かなど、釈尊自身が望まない。

 言語表現されたものに執着することも釈尊の意思ではない。出家修行僧に言語表現だけのものとして書くことをよいだとうと書かれた教えは、注釈などにこだわることさえ
 釈尊の意思と正反対なもの。弟子たちが伝えたのだから、間違った教えもある。

 教えの中から真実のものを選び出し偽りのものを捨て去らねばならないが、これがベストという経典にこだわらず、原始仏典を読んで、今の状態、在家の暮らしにあった
 ものを選び出し、教えを行う喜びがないと、釈尊自身の意思に反し、平安の境地・安らぎの境地に反する。

40 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/28(火) 22:05:52.57 ID:frrhe27j.net
不死の境地を実体験した者から、ブッダのことば・真理のことば・感興のことば・神々との対話(中村元訳)はベストだ。
 
 ―見られたことは見られただけのものであると知り、聞かれたことは聞かれただけのものであると知り、考えられたことはまた同様に考えられただけのものであると知り、
 また識別されたことは識別されただけのものであると知ったならば、苦しみが終滅すると説かれる(感興のことば)

 当たり前だ、真理を見る人には何ものも存在せず、今あったことすら無い。言語表現されたものに執着させる者たちは、反駁仏教者のやること、無知無明の者にする愚か
 かな者なのだ。反駁仏教者を教えさとすことは、釈尊の意思に反しない。

 >>一長一短がありそうな原始仏典(パーリ語仏典)、いったいどれがベストでしょうか? 自分に合ったベストの教えは経典から自分で見出しなさい。
   >>ただ、注釈を途中でつけない分、丸暗記にはうってつけ?かもしれません 教えを丸暗記するだけの者は、釈尊の意思ではありません。
      自分にあった教えを行い、その行いで喜ぶ心がないと、何ひとつ釈尊の意思に従ってはいません。

41 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/29(水) 22:42:31.30 ID:pjAdWX8A.net
鈍感な者がいくら論じ合っても、愚鈍な者をつくり出す。

妄執を断じる信仰の確立、つまり離欲、世捨て、無所有、静けさを目指し安らぎを楽しむこと。究極の理想に通じた人がこの平安の境地に達して(ブッダのことば)
 修行完成者(神々との対話)で人として重要なことを教えた。それを大切な教えだと思いもしない者は、心も無い者の証拠なのである。 

 ―ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
  (真理のことば)
 ―学ぶことに生きがいを認め、奉仕(看護)を楽しむために〜これは一つの極端説 「快楽は享受されるべきであり、清らかである。快楽のうちに欠点は存在しない」
 とこのように見なす愚者どもがいる〜これは第二の極端説〜賢者たちは、それで思い上がることはない。かれらには決まった道が存在しないのである。世の中は泡沫
 のごとしと見よ〜身体は泡沫のごとしと見よ(感興のことば)

  真理を見る人には何ものも存在せず、言語表現されたものすら無い。何事もこだわらず、執着する苦しみも無く、清浄である。言語表現されたものを、それらの
  執着から離れ、こだわらない事のほうが善いのである。

42 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/29(水) 22:43:51.30 ID:pjAdWX8A.net
―いまやわたしは、離欲を達成したからには、見たことでも、聞いたことでも、考えたことでも、すべて知った上では、捨て去らねばならぬ(悪魔との対話)

 見たことも、聞いたことも、考えたことも無くなり、一切の苦しみも無く清浄な境地が在るのに、それらの執着により何がベストかなど決められることは無い。

もし、人々の幸福と安穏・安楽な暮らしに誠実に仕え働き富を得て、―自らを楽しませ喜ばせ〜妻子を楽しませ〜愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人に
も与えない。健き人・智慧のある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす。ことばと心とを正しくするようにこころがけ、身に悪事をなさないで、も
しも飲食豊かな富んだ家に住んでいるならば、まことあり、柔和で、よく分かち与え、温かい心でいるならば、これらの四つの事柄に安住している人は、来世を恐れる要
がない(神々との対話)

 重い荷に耐え、働き富を得た。しかし、その富はわが物といつまでも執着できるわけではなく、幸福を望んで生まれてきたことをその知恵で理解し、自らや妻子を楽し
 ませ喜ばせ、あわれみの心でよく分かち与えれば、罪過もなく来世を恐れることもない。理解し喜んで行うなら、その人にとってベストなのである。

43 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2014/10/29(水) 22:46:53.68 ID:pjAdWX8A.net
しかし、世間で悩み苦しみ思い煩いそれどころではない。―孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、熱のような悩みも無く〜真理の喜びの味をあじわいながら
(感興のことば)

 一切のものは妄執という一つのものに従属した。しかし、その世間から離れ、独り静かに心の安らいを善いと喜ぶなら、むしろ善いことで問題ない。世間で悩み苦しみ
 思い煩い熱のような悩みに苦しんでいるよりも、独り遠ざかって心の安らいを味わっている事のほうが、妄執から遠ざかっている。悩んで自殺など無いのである。
 その法のまま悩みが無くなればその人にとってベストなのである。

―この神の子が、むかし人間であったときには、貧しい人、哀れな人、みじめな人であったのに〜その人の見識が真直ぐであるならば、その人を貧しからずと呼ぶ。その
人の生活は空虚ではない(悪魔との対話)

 自己に克ち神通力に領域に達した釈尊と離欲を達成しようとする修行僧。人間は一切皆苦の領域から離れられないだけで、五欲の対象を享受できない者のほうが、神々
 にとっては良く、もし、神通力の領域に生まれることができれば、神々にとってはベストなのである。勝っている劣っている中くらいであるというものは何も無く、
 迷ったり苦しんだりしなければ、その人にとってベストなのである。

  というように原始仏典そのものが、人それぞれベストになるよう説いてある。隠れた法を説いたのが釈尊の教え。

44 :神も仏も名無しさん:2014/10/29(水) 22:59:43.45 ID:BjSC1EG7.net
>>43
ブログでやれ。
スレ違い。
各種ある日本語訳現代語訳のうちの、どれが良いかという情報もない。

君の書き込みは、
 迷惑
 自己満足
 書き込むことでの愉悦、満足のためのパラノイア
だよ。

45 :神も仏も名無しさん:2014/10/29(水) 23:52:41.55 ID:ARKI/HAs.net
小池龍之介『超訳 ブッダの言葉』はどう?

46 :神も仏も名無しさん:2014/10/31(金) 18:59:26.80 ID:NRH1Nf5t.net
>>45
Amazonでの評判が悪かったので買う気になれなかった
ひょっとすると片山氏や中村博士よりも読みやすい翻訳かもしれないとはおもうけど、出版社もアレだし…

他にレアでネット通販でも出てこない翻訳書があったらいいですね

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