2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

"信じる"という思考停止の正当化

1 :神も仏も名無しさん:2014/10/05(日) 16:24:58.47 ID:OrK2iXh2.net
宗教なんて結局人を馬鹿にするための政治政策に過ぎなかったのにね

2 :神も仏も名無しさん:2014/10/05(日) 19:38:55.53 ID:/B91Ch+A.net
お前はそう信じている

3 :神仏信じない:2014/10/06(月) 14:58:43.52 ID:un/1F0tg.net
なにもかも信じなくなって・・・・・いって・・・・・結局残るものこそ

一番たしかなものじゃねーんか・??

4 :神仏信じない:2014/10/08(水) 09:45:32.34 ID:oss7Ko/u.net
信じるってのは、そんなにお前の心は安っぽいのかよ?

心や自分を安売りしちゃいかーーーーーーーーーーんぜよ

「神仏信じない」 でしたぁ

5 :神も仏も名無しさん:2014/10/08(水) 13:02:13.36 ID:F7WUjsFU.net
>>3
デカルト乙。

6 :神も仏も名無しさん:2014/10/10(金) 21:53:55.22 ID:iqG0OFTc.net
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課

二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪

7 :おてんば私立学院総長 ◆Sh04QfwaGE :2014/11/05(水) 07:18:33.64 ID:v3cogBGl.net
>>1
天理教や幸福の科学なんかは特にそれが酷い。

…ま、「信じる」しか能がない宗教家である以上は
「解する」ことに重点を置く創価学会なんかよりも格が低いわけだから
実になさけない。

8 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 08:20:31.97 ID:DrXN0Rs9.net
>>1
「信じないという割り切り」の方が思考停止だぞ。
勘違いしてるのが多いけど。

9 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 08:38:52.31 ID:WUsDuyJD.net
試しに一切の信じる行為をやめた状態を考えてみればいい。
言語体系は崩壊しテクノロジーは破滅、貨幣はその力を失い、全ての信用取引も
成立しなくなって、人類は即座に滅びるだろう。

10 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 09:35:49.26 ID:IZOD96CX.net
すべては欺瞞に満ちている

11 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 10:32:39.91 ID:caAaZETy.net
じゃあ全てを疑い続けたらいい

12 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 10:39:33.62 ID:IZOD96CX.net
在日だろうと神々だろうと真実をひた隠しにしたがるという点では大して変わらないということが最近分かってきた

結局のところ神ってのも超国家的な一つの権力に過ぎないのだと思わざるを得ない

13 :年金暮らし:2014/11/05(水) 11:40:15.37 ID:jM1Ht+CO.net
自己流の「ねむり座禅」

   それで、一方、阿弥陀様に「心を預け、心身を御任せして、
 阿弥陀浄土に生まれる」事を楽しみににしている。

  年金暮らしでも、粗食も「美味」。菩薩の境地。

14 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 12:26:04.24 ID:oZYAff0f.net
>>1
自分ひとりで考えぬいた答えが間違ってても文句言うなよ
社会や他人の責任にするなよ

15 :神も仏も名無しさん:2014/11/05(水) 12:58:39.84 ID:KuclVBdy.net
これは良スレ
清々しいほどな>>1の負けっぷり
>>8-9,>>14には目からウロコ

16 :神も仏も名無しさん:2015/01/08(木) 00:20:19.29 ID:JzNUSo3a.net
信じるとは何か?
何を信じるのか?
何が信じるのか?

17 :神も仏も名無しさん:2015/03/14(土) 09:00:06.68 ID:0igTzdZ0.net
a

18 :神も仏も名無しさん:2015/03/22(日) 18:52:19.11 ID:IMKB608e.net
ハゲハゲドン

19 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/22(日) 19:39:50.66 ID:IMKB608e.net
この現実で体験し、経験していることは事実だよw
信仰とは、事実かどうか明らかでないことを、事実だと思って信じることを言う。
たとえば、キリスト教の「贖罪説」や、大乗仏教の「空」のことだよ。
 
事実かどうか明らかでないのに、事実だと信じるのは軽率だろうw
福袋だと言ってるから、福袋なんだろうと思って、福袋を買ってしまう。
開けたら不用品ばかりのゴミだったとかねw
 
中身がわからないのに何やってんだよと自嘲し、
ああ、バカなことをやったと自己嫌悪するのが信仰ではなかろうか。
既成の宗教を信じたら、まず救われないということだね。
 
おのが信仰を捨てよ、と釈迦が教えている。 

20 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/22(日) 23:56:31.85 ID:IMKB608e.net
では、実際に神に出会ったらどうなのか。
もちろん神は物質ではないから、神との出会いは心の中のドラマとして
体験する。これはもう信仰ではない。
その人の中では、神の存在は事実であり、実際に存在するのである。
そうなれば外見的にどう見えようが、その人は神とともに歩んでいる。
心の中で、神を感じながら生きているからである。
 
神との出会い、そんな体験が可能なのか。
じつは可能なのであり、それを聖書が物語にして上手に伝えている。
そのひとつが創世記にあるヤコブの話である。

21 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 08:33:02.75 ID:cGnQULIs.net
読んだことがあるかもしれないが、旧約聖書の創世記にヤコブの物語が
ある。その主要部分(創25.19−34、26.34−36.8)は
それほど長くはないが、その内容はけっこう難しい。
 
双子の兄エサウとの確執から、ヤコブは家を追い出され、母の兄ラバンの
下で20年間苦労する。ついにヤコブは、妻子や下僕や家畜を引きつれ、
生まれ故郷へ脱出をはかった。しかし、それを許すまいとするラバンに
追跡される。ラバンとの間には一波乱あるが、二人の間に境界線を設ける
ことで何とか切り抜けることができた。
 
そして今度は、兄エサウが四百人の部下を引きつれ、場合によっては
ヤコブを殺そうとやって来る。エサウは親の近くで暮らし、親の遺産を
結局は独り占めしてしまうような男である。
兄エサウとの再会を前に、苦悶するのがヤコブの物語の山場、
ペヌエルでの格闘(創32.23−32)である。

22 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 10:42:16.21 ID:cGnQULIs.net
これについては他スレで書いたものを再掲したい。

ヤコブのぺヌエルでの格闘は、天使との格闘として描かれている。
しかし実際は、心の中で格闘したのであり、その挙句に自分の悪さ、
罪に気づいたという話だろうと思う。
 
神はそんなヤコブを祝福し、ヤコブは聖霊体験をすることになる。
神が認めた以上、ヤコブは罪を洗われた義人なのだね。
神は野の人エサウを義人として認めない。
(聖霊は取り合えずヨハ14.15−31にある説明に従っておこう。)
 
ヤコブは格闘の翌朝、自分は何も悪くないのに、兄エサウに
七度ひれ伏して謝罪する。これはエサウに謝るというより、
自分自身の罪や悪を神に謝罪するという心境ではなかったろうか。

23 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 10:51:16.75 ID:cGnQULIs.net
ヤコブと戦った者は誰か
 
ヤコブはひとりヤボクの渡しに残る。普通に想像すれば、迫り来るエサウ
に、どうしたら殺されないかを必死で考えていた。
夜の闇が深くなるにつれ、ヤコブの集中力はいよいよ研ぎ澄まされる。
 
何者かとの格闘はそういった精神状態で始まる。
それは内心の葛藤であり、
生きたいと願う心(欲望)と、正義を願う心(良心)の格闘である。
 
そのまま瞑想状態に入り、生きたいと願う心を自分から折ってしまう。
外見的には正義を願う心が折ったようにも見える。しかし実際は、
神とは無関係に、自分が罪人だと洞察し、自分を自分で折る。
それが悔い改めの純粋性を保証し、聖霊体験につながる。
→ 神とは無関係に、と言うところが悔い改めのポイントなんだね。

24 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 10:59:51.42 ID:cGnQULIs.net
つぎは祝福の話に飛ぼう。この祝福が聖霊体験になるが、ヤコブは
「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、
その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。この話からわかるのは、
神との出会いが聖霊体験だというである。
 
以上から、ヤコブが戦っていた相手は二通りに解釈できる。
@ 生きたいと願う心(欲望)を強めるサタンである。
ヤコブは【神とは無関係】に、正義を選択、自分から自分の罪を悔いた。
A ヤコブが正義を選択したからこそ、正義の神が姿を見せ、
神の祝福である聖霊体験が起こる。→ そこに神もいたことになる。
B ということは、ヤコブの心の中に、最初からサタンが住んでおり、
ヤコブを祝福した正義の神も住んでいたことになりそうである。
C ヤコブは、サタンに勝ったのであり、正義の神に勝ったわけではない。
ただし、サタンは神の使いだから、この辺は微妙な話ではある。
D ヤコブは、神からイスラエル(神に勝つor神が勝つ)の名をもらう。

25 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 13:06:21.05 ID:cGnQULIs.net
神との出会い、聖霊体験は、悔い改め → 聖霊体験の順序になる。
このとき重要なのは、無信仰の状態で悔い改めをすることだ。
 
なぜなら、どんな宗教であれ信仰すると、それによって精神的に救われ、
本格的な悔い改めが生じなくなるからである。
何かあっても、すでにある信仰に頼り、小手先の悔い改めで終了する。
スレタイにあるように、信仰は思考停止を引き起こすのだ。
こんなことなら唯物主義者の方がましだw
 
信仰すると神との出会い、聖霊体験のチャンスを奪われてしまう。
だから釈迦が、「おのが信仰を捨てよ」と言っている。

26 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 13:35:02.93 ID:cGnQULIs.net
ではヤコブはどうだったのか。
聖書では神を信じているように書いているが、ラバンの所で自分の羊を
増やしていく経過は唯物主義者そのものである。エサウからレンズ豆で
長子の権利を奪ったり、目が悪いイサクをだまして祝福を受けるのも
唯物主義者の面目躍如ではないか。神を恐れていない。
 
ヤボクの渡しで苦悩するのは信仰がないからに他ならない。
信仰があるなら神に祈るはずなのにwww
 
創28.10−22に、天から地への階段とか、天の門とか神の家とか、
ヤコブの夢の話がある。これらは筆記者の作り話だと思っていい。
だいたい神がしゃべるはずないw 神がしゃべったらマユツバである。
 
そういえば、神からイスラエルという名前をもらったとあるが、 
これも実際には筆記者の勝手な編集なんだろうね。

27 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 14:54:10.19 ID:cGnQULIs.net
ヤコブはヤボクの渡しで何を悔いたのだろうか。
かれが考えていたのは、双子の兄エサウのことだったのではないか。
 
エサウは巧みな狩人で野の人となった。 創25.27
かれは長子の権利をレンズ豆で売ってしまう愚か者である。創25.30
 
エサウは、ヤコブが長子の権利を奪い、父親の祝福を奪ったと、二度も
自分の足を引っ張り、欺いたことを怒っている。創27.36
そしてヤコブを家から追い出し、親の財産を自分のものにする。
 
ヤコブは、エサウを考えているうちに、エサウが自分に重なる。
兄の足を引っ張ろうとした出生の時から、自分のことしか考えない道を
歩んできたことに、やっと気づいたのである。何ということだ!
もはや取り返しのつかない過ちに、真っ暗な絶望しか残されていない。
これがヤコブの悔いである。→ その瞬間、聖霊と出会う。

28 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 17:56:29.94 ID:cGnQULIs.net
欲望と暴力で生きる、野の人エサウは祝福されなかったw
祝福されたのは、苦労に苦労を重ねたヤコブだ。
なぜか、生きることそれ自体が罪であり悪だからだw そう気づき
自分を完全に否定したとき、神が逆に完全に肯定してくれる。
神が姿を見せる。これが聖霊体験だね。
 
神とは何か。命だよ。聖霊とは何か。命の雫だよ。
これは、あちこちのスレでずいぶん書いたから知ってる人もいるだろう。
聖霊体験をした者は、命そのものを見たのであり、神を見たのだ。
イエスなど、どこにもいない。そこには聖霊しかいない。
 
ここから言えるのは、宗教もない太古、人間は唯物的に生きているが、
その状況で、それでも神を見つけた人間がいたということだよね。
たとえばツアラストラ、釈迦もたぶんそうだろうと思う。
イエスはパウロに利用された憐れな若者でしかないw

29 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 18:17:41.86 ID:cGnQULIs.net
宗教など、全部滅びてしまえばいいw
宗教がなくても、神がいるという真理は永遠に滅びない。
その方がむしろ、人間は神に近づくことができる。
 
イエスを崇めるキリスト教はパウロの妄想の産物だし、
空を崇める大乗は竜樹の妄想の産物だw
 
妄想の闇がだんだん深くなれば、逆に真理の夜明けも近づいて来るw
人間には寿命があるから、寿命との競争だね。
光あるうちに光のなかを歩めw

30 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/23(月) 18:32:54.19 ID:cGnQULIs.net
世の中の宗教を根こそぎにしてやったw ^^

31 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 05:23:45.09 ID:89zk3qIN.net
ヤボクの渡しは三途の川のようなものである。皆を導いて川を渡らせ、
持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。創32.24−25
→ ヤコブには迷いがあった。エサウの前に立つ勇気がなかった。
集団の先頭ではなく、集団の後ろで身を守ったのである。
 
その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、
格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。創32.26
→ 実際に腿の関節がはずれたのではない。利己的な生き方を悔い改め、
生きようとすることをやめ、精神的に死んだのである。
 
ペヌエルの格闘の翌日、ヤコブは、自分の集団の先頭に進み出て、
兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。創33.3
→ ヤコブは、死ぬ覚悟ができたから、集団の先頭に立つことができたし、
精神的に死んでいるから、神の前にひれ伏すように【腰を折り】、
素直な気持ちでいくらでもひれ伏せたのである。

32 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 06:03:53.96 ID:89zk3qIN.net
聖霊体験がどれほどすごい体験なのかは、
当たり前だが、やってみないとわからないだろう。
それは神(命)との出会いである。
誤解されないように言うが、イエスとはまったく無関係だよ。
 
ユダヤ人は、この聖霊体験を忘れないために肉の割礼をやる。
洗礼は、心の汚れを落とすこと(悔い改め)の象徴になっている。
同じように肉の割礼は、聖霊体験の象徴なのである。
  
信仰の時代になってから、聖霊体験をする人がいなくなり、
肉の割礼が何を意味するのかわからなくなっている。
じつはそれは聖霊体験なのであり、これが心の割礼の正体である。
ローマ書にある心の割礼とは、聖霊体験のことを言う。
そして聖霊体験は肉の割礼で象徴される。 

33 :神も仏も名無しさん:2015/03/24(火) 14:03:34.46 ID:xObqDY7n.net
前世・来世に関する信仰は要注意です。
これは最も洗脳に適したテーマのひとつであります。

(1)前世を信じることによって生まれる無慈悲

現世が不幸なのは前世に罪があるからだ。
そして現世にいる弱者たちは即ち罪人であって償いをしなければならない。
だから我々は彼らを助ける必要など微塵もない。

(2)来世を信じることによって失う罪の意識

来世の幸せを手にするためには現世を犠牲にしなければならない。

そして、もし愛する人の来世での幸福を約束するために、
彼女の現世での死が必要なのであれば、我々は彼女のためを思い、
ときに「善い殺人」をおかすこともあるだろう。

このように、前世・来世に重点を置きすぎると目の前の現実の価値が著しく下がります。

見ることができない世界はその存在を決定的に否定できません。
両極に振れやすい人は否定できない=あるかもしれないとなってしまうのです。

そして前世・来世の考え方は実を言うとすべて自己中心的です。

前世・来世は自分の死後も自分は生まれ変わるという考え方ですので、その思想の中心には永続的に存在していたい自分がいるのです。

前世・来世は時間という人工的な概念にとらわれた俗な思想です。
そもそも時間というのは実在するでしょうか。
時計の針が動くためにはたして時間は必要でしょうか。

本来はこの「今」というものこそ超越的な存在と言えるのではないでしょうか。

34 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 18:03:44.13 ID:89zk3qIN.net
>>33
何が言いたいのかは理解できる。
 
前世の記憶がないのだから、前世が在ったかどうかはわからない。
同じように来世があるかどうかもわからない。
そしたら現世をしっかり生きた方が合理的で、正しいではないか。
それゆえ、過去や未来に拘るのではなく、
今現在に集中することこそが大切ではないか、ということですね。
 
簡単に答えれば、前世来世のテーマが、人生における過去現在のテーマに
変換されている思う。今が大切だという普遍的な根拠がほしい。
それがなければ万人を説得できないだろうね。

35 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 18:23:01.83 ID:89zk3qIN.net
それからもうひとつ、自分中心に生きていることを棚に上げ、
今を大切にしたら、自分中心に生きているだけではないだろうか。
そうではなく自分中心であることが問題なのにw
 
常識で考えれば人間は普通、今を大切に生きている。
自暴自棄になった人間を除いて。

36 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 18:42:12.10 ID:89zk3qIN.net
世間には、今を大切にしようという精神的な潮流もあるけど、
それって結局、自分信仰じゃないですかとw

37 :神も仏も名無しさん:2015/03/24(火) 19:09:52.75 ID:rlLjxwyj.net
聖霊体験かどうか知りませんが私の場合は夢の中で前世みたいな
不思議な印象と空間の夢と、暗示的でハッキリ異世界などを悟った夢の
二つの疑似体験が有りましたね
それは聖書から真理を見いだした事とは別です、聖書を悟ったのは、
その後の現実的な、個人的に悲惨な状況から、哲学等が無力化し
教えの様なものから真理を求めた結果、聖書だけが違和感が無かったのと
教えに一種の効果が有ったという事ですね
そこで人間の作った人間が考えた言葉には決してひねり出せない、
福音、神・イエスの言葉の力というものを体感もしました

38 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 19:29:40.35 ID:89zk3qIN.net
>>33>>37は同じ人かな。コテつけてほしい。
なんらかの目印をつけないで好きなことを言っているのはズルイ。
議論する場合の礼儀だと思うけどw
 
>>37
あなたの体験は否定しないよ。
ただし、あなたの主張の根拠を具体的に示さないと説得力がない。
 
たとえば、肉の割礼とは何ですか、心の割礼とは何ですか。
具体的にわかりやすく答えられますか?
聖書の中心テーマですがw

39 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/24(火) 20:25:31.24 ID:89zk3qIN.net
聖霊体験とは何か。ほんの3秒ほどの体験ですよ。
神の雫がほんの一滴、頭の中、額の辺りに落ちてくる。
これが聖霊体験ですね。

それなのに人生が180度転回するw
神なんかいないと思っていたのに、神がいたわけだからビックリする。
唯物主義者から、一瞬にして神を認める有神論者ですね。
 
人生には、人格が一瞬にして変わることがあるのです。
自分の前の人間がそうかもしれない、という恐れは常に持つべきですね。
心のドラマであって、外見ではわからないからw

40 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/24(火) 21:11:18.87 ID:SywobOKJ.net
>>37

―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)

 神によると、全ての人間は全く信仰がないと神により造られた。 人間の信仰・宗教は、全て神に対して罪を犯したのである。  
        ―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない「女よ、あなたの信仰は見あげたものである (マタイ)

 人間は神により「土に帰る」「しばしの間たちまち消えいく霧にすぎない」者で、ここまま神に逢うことも無く、神により全ての人間が誰も何も信仰することなく、汚れの
 無い子として生まれた。

41 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/24(火) 21:24:11.05 ID:SywobOKJ.net
イスラエルの強欲な信仰にイエスはつかわされた。
 
 終わりの日のたとえで、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ・・・それまで誰も神に逢うことはできない。
  世の創も終わりも、今も、大自然などで何事も思い煩わない者のみが、神と永遠の命に通じ、肉である人間が何を信じても永遠にはつながらない。

 聖霊を汚す言葉はきたるべき世ではゆるされない
  盲人で口のきけない人をいやされた・・・人々の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとする者を悪魔だと非難する者は、きたるべき世ではない。

人間はからし種一粒ほどの信仰の無い者となり―律法を持たない異邦人が、自然のままで〜そのことを彼らの良心も共にあかしをして(ローマ)
 とあるように、人間はその良心に従い自由に歩むようにされたのが神。 そして、神に信仰ありと誰も自任することはゆるさない神である。

42 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/03/24(火) 22:10:42.49 ID:abykP9gw.net
>>33
現代日本の迷信ではなく、
「私に魂という本質があるのではなく、仮に型取られた儚い在り様」
としての輪廻ならどうなるか?
日本の一部仏教関係者も、
「(魂という本質を肯定した)輪廻が仏教の前提だ」
としているが、
そういう「特別な私」って意識は、平和ボケした現代日本特有の病だと思われる。
現にプトガラ派という一部の考えが中論で否定されたしね。
肥大した自我は、鏡に映らないし、比較も出来ないから言われても自覚出来ない人が多いが、
この点を踏まえて様々な輪廻観を見直すと、また違った見え方になる。

43 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/24(火) 22:36:10.80 ID:SywobOKJ.net
イエス―自分の命を憎め ⇒ いまだかって自分の命を憎む者はいなかった

 からし種一粒ほどの信仰のない に反し信じる強欲 ⇒ まだ汚れのない子が何も信じず生まれたように、全ての人間が自分を愛し生まれた
 思い煩い信仰・宗教に頼ろうとする者       ⇒ 世の創・終わりのたとえ、神が創造された大自然で何事も思い煩わないこと 聖霊に満ち荒野
                             心を清めようとして、大自然を楽しんで思い煩わないようにすることもある人
 自然災害や病気などで働けなくなったら? ⇒ 正しい者はいうであろう 主よいつ 何も信じなくとも 衣食住のない人々に衣食住をといって施す
                       国家・国民

 人間は土に帰るもので強欲信仰はゆるされない。しかし、ただ中にあるもので、ある時は日々の生活を離れて、神が創造された大自然で癒されよう、
 自分を愛するだけでなく、食べるもの飲むもの住む所が無い者に対し、あるようにしてあげよう⇒聖霊を受け入れる国家・国民

宗教・信仰は神には無い しかし、宗教を志す者があれば、騙すことなく、自分の命を憎むことなく生まれた人間を尊重することだ=宗教の役割で、
 殺さない・盗まない・他人のあやまちをゆるし自分についての行いを正しくすること・・・そういった役割しかないと、宗教が人を騙すことをゆるさな
  い。

  信じなく生まれた善い状態と誰も自分を愛していると認識できる知性と人間の宗教に頼らず、思い煩いがあれば大自然などで癒される健康を認めねば
  いけない。

44 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/24(火) 23:04:21.38 ID:SywobOKJ.net
―世界の終極に達しないで、苦しみから離脱することはあり得ない〜世界を知れる人、聡明な人、清らかな行いを修めた人〜この世もかの世をも望まない
(神々との対話)
―これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、
だれも知らない(マルコ)

 ―森に住み、心静まり、清浄な行者(神々との対話)五欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇りが悪しき者というのに対し、それらに対する耽溺を良いとせず、
 
―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ
よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば)
―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧
める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ)

 飲んだり食ったり快楽・享楽を貪ったり・・・子どもたちに対しても快楽を貪ることを善とせず、外で元気に遊んだり、スポーツで汗を流したり・・・清浄のみに生きるという
 両極端を捨てねばならないが、宗教の役割とは騙すことなく、自制をよしとして、他人に愛される者となれであり、地上で妙なことなど、神にとってもないのである。 

45 :神も仏も名無しさん:2015/03/25(水) 03:28:42.69 ID:wt/9FKtP.net
神はいないと信じ込んで思考停止している方が人間として異常。

46 :神も仏も名無しさん:2015/03/25(水) 04:37:00.79 ID:KxgU9ki+.net
神とは何か、これが定義されないでは議論出来ないよ

47 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 08:13:19.32 ID:Z9shECup.net
>>42
竜樹の空は、何もない無のことだから、絶対に体験できない。
空の信者は、絶対に体験できない空を、究極の境地だと思い込んでいる。
竜樹の妄想に洗脳されているから、空を批判することができない。
 
霊魂を肯定して輪廻を強調する仏教徒もいる。
しかし、かれらは霊魂を見たこともないし、前世を記憶してもいない。
ただ、仏典にそう書いてあるから、そうだと言ってるだけ。
 
空にしても輪廻にしても、その人自身に確たる根拠がない。
神学的主張の場合、体験に基づかない主張は、すべて信じるに値しない。
根拠なき主張に対しては判断を留保するのが正しい。

48 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 08:40:23.73 ID:Z9shECup.net
>>46
神は定義するものではなく、体験して直接理解する以外にない。
見たことも食べたこともない果物をどうやって定義できるだろうか。
体験によって神を知るのであり、その体験を聖霊体験という。
 
かりに神を体験したら、それをどうやって周囲に伝えたらいいいのだろう。
そのために聖書がある。なかでも創世記のヤコブの話は出色。
その意図は、読者自身に、聖書によって聖霊体験をさせることにある。
ただし、聖書は人間が書いたものであり、不完全なものだから、
自分の体験を土台にして考えながら読む必要がある。
 
神を言葉で伝え、それを信仰させることでは神を伝えたことにならない。
むしろ逆、信仰は聖霊体験を遠ざけてしまう。
その逆説的な関係から、釈迦は「信仰を捨てよ」と言っている。

49 :神も仏も名無しさん:2015/03/25(水) 12:08:00.41 ID:s7bqwShW.net
>>48
定義というのは別の何かでそれを説明するものだけど、
本質的なものって別の何かでなかなか説明できないもんね。

その点で超越的なものは体験するしかないというのは納得できる。

例えば「痛みとは」を定義する場合にはやはりこれは
体験するしかないということになる。

科学的に表現するなら脳への電気信号の伝達みたいな感じになるのかも
しれないけど、こういった説明はいくら繰り返しても痛みそのものには
到達できない。

つまりその点で我々の感覚は超越的であるということができるんじゃ
ないだろうか。

これはもう与えられたものであるとしか言えない。

神というのもそういうものなのかもしれない。
神が超越的なものであればそれを積極的に感じるには体験しかないんだろう。

俺は神というものを体験したことはないし、今で言えば消極的なアプローチで
それに近い存在があるはずなんだろうと漠然と思っているだけだ。

この宇宙を突き詰めればどうしても誰が?何のために?と意思の存在を考えずには
いられなくなる。

その点では神というのは人間の認識の限界をそのまま示すものなのかもしれないな。

まあ、こういったものが人間が人間をコントロールするために悪用されないことを願うわ。

50 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 13:22:58.48 ID:Z9shECup.net
>>49
わかりあえて何よりです。

>つまりその点で我々の感覚は超越的であるということができるんじゃ
>ないだろうか。

>これはもう与えられたものであるとしか言えない。

これにはまったく同感です。
わたしは霊魂体験もしたが、必要に応じて、視覚や聴覚や触覚が働いた。
霊魂は透明な球だから、眼や耳や肌があるわけではないが、外界との関係で
その都度そういった感覚が生じ、それを意識することもできた。
ただし、そこは匂いもなく、食べることもない世界だからなのか、
嗅覚と味覚は生じなかった。そういえば霊魂は呼吸をしていなかった。
それに霊魂の感覚は恐ろしいほど鋭敏で繊細だった。

51 :神も仏も名無しさん:2015/03/25(水) 14:31:17.23 ID:s7bqwShW.net
>>50
超越的な存在を感じるには結局理屈で考えるのではなくて
感覚を研ぎ澄ますしかないんだろうね。

俺は理屈でしか考えることはできないけど、それでも霊的な存在を
仮定することは非常識的なことではないと思う。

そもそも思考が脳の中にあると考えていること自体がひとつの大きな
思いこみである可能性もあるんじゃないかって最近よく考えたりする。

しかし例えばクラウドコンピューティングのように入力(感覚)は各端末からされて
処理(思考)は別の場所で集中的に処理されていたとしたらどうだろうか。

知覚が端末である肉体側にあれば処理としての思考が自らを肉体側に
存在するものと錯覚しやしないだろうか。(しかも視覚である目の知覚に)

こんなことを真面目に考えてしまう背景には、生物というのは高度に効率化
されたシステムであって人間が生み出した技術のうちで合理的なものは
ほとんど既に採用しているのではないかと最近よく考えるからだ。

または、量子力学で言う光と波のように肉体と魂は同じ存在の別の現れで
あるといった想像もしたりする。

おそらく非科学的であることを存在しない理由にする人達は単純に科学を
信奉する科学信者でしかないと思う。

科学についてある程度見識のある人は科学が存在そのものを問うものではなく、
存在するということを仮定した上でそれらの関係性を探るものにすぎないことを
よくわかっているものと思う。

だから著名な科学者たちもよく神という言葉を口にするのではないかと思う。

52 :神も仏も名無しさん:2015/03/25(水) 14:46:44.82 ID:GKzcR7XQ.net
私は私が見た夢では私が元々この世の者でなく心の世界の住人だったという事を
悟ったので有りまして、そこの者として自分というものが有ったと、
だから本質が全くそうでない皆さんとは違う訳です、
私の本質が魂か霊か心か知りませんが、そういう訳なのです
私が最初に見た異世界空間の夢ではそういう訳で、不思議な実感を
覚えた訳で、どこかで見た様などこかに有るような世界とも表現した訳です
これは自分がいた異次元の世界の記憶が私自身の心私自身の本質にあり
私がそれを覚えているという事に他ならないのであって、
異世界が確かに存在するという事に成る訳です

53 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 18:52:11.30 ID:Z9shECup.net
>>51
話の内容は明晰で論理的です。話の論点はいくつかあると思うが、
今はそのうち二つだけ取り上げたい。
 
>そもそも思考が脳の中にあると考えていること自体がひとつの大きな
>思いこみである可能性もあるんじゃないかって最近よく考えたりする。
・最終的にはおっしゃる通り、霊魂はアラヤ識に覆われているから 、
・アラヤ識に支配された思考は転倒し、全部さかさまになってしまう。
・アラヤ識を清算しないと真実が見えてこない。
 
>知覚が端末である肉体側にあれば処理としての思考が自らを肉体側に
>存在するものと錯覚しやしないだろうか。(しかも視覚である目の知覚に)
・これはプラトンの洞窟の比喩ですね。人間は自分の影を見ているだけ。
・しかし、ほんとうの姿は神を知らないとわからない。
・今は錯覚し、さかさまの自分を見ている。

54 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 19:20:36.01 ID:Z9shECup.net
>>52
あなたの話もわかりますよ。
でもほんとうは、夢の内容を具体的に知りたかったのですが、
その夢解きはあなた自身がやるべきなんでしょう。
 
わたしの場合は自分の体験の意味を解くのにずいぶんかかったw
それが本物かどうか、疑いますからね。
だから、聖書、仏教書、クルアーン、神道、儒教、道教など、
いろいろな本をたくさん読みましたよ。
 
わたしの印象としては、あなたの話は漠然としているが、
道筋としては間違っていないと思う。
夢も体験のうち、体験こそは心の財産ですね。

55 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/03/25(水) 21:07:53.16 ID:sSk+8Ifw.net
>>47
龍樹以後の中観派で説かれた空は無じゃあないよ。
概念の一種だから、体験云々は的外れ。
空が究極の境地なんて言い種は、カルトや勉強してないいい加減な仏教徒。
「龍樹の妄想に洗脳云々」はご隠居の妄想に洗脳された考え方。
空にしても、仏教の説く輪廻にしても、「体験する」様な事ではなく、概念を知るか知らないかってだけの話。
個人的体験、例えばキリスト教徒の言う様な「宗教体験」などは、
全く個人的主観でしかなく、信じるに値しない。
その様な「体験」をもたらす脳髄活動があったとは言えるが、間違っても「唯一神」だの「聖霊」だのが居る根拠にはなりません。

(^。^)アホかと。(笑)

56 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/25(水) 22:10:53.31 ID:Z9shECup.net
>>55
空は概念? 体験は主観? 
そんな意味不明なことを言ってるのは承狂さんぐらいですよ。
豆腐の角に頭ぶつけて死んでください ^^ 

57 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/03/25(水) 22:27:12.52 ID:sSk+8Ifw.net
>>56
エジョウロン曰「空と縁起と中道が同一の意義と説かれた仏陀に帰依する」
縁起とか中道が概念ってのは理解出来ますかね?(笑)
客観的な体験ってのがあると信じてるなら、君は精神病だよ。(笑)

(^。^)君の体験に関する考え方も、君の主観。(笑)

58 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 08:27:40.34 ID:sRlpDKO/.net
>>51
>こんなことを真面目に考えてしまう背景には、生物というのは高度に効率化
>されたシステムであって人間が生み出した技術のうちで合理的なものは
>ほとんど既に採用しているのではないかと最近よく考えるからだ。
・これについても同意するが、わたしは次のように考えている。
・命が命でしかないなら永遠に命のままである。
・同じように、物質が物質でしかないなら永遠に物質のままである。
・人間を含めた生物は、命と物質が合体した、矛盾した存在なのである。
・命には最初から、地上で生きるための知恵が100%備わっている。
 
>または、量子力学で言う光と波のように肉体と魂は同じ存在の別の現れで
>あるといった想像もしたりする。
・現象的には、命と物質は合体して肉体になっている。
・しかし実際には、命は霊魂(個体の命)として肉体に存在している。
・死ねば両者は分解し、霊魂は天に帰り、肉体は物質になって地に帰る。

59 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 08:48:13.10 ID:sRlpDKO/.net
>>51
>おそらく非科学的であることを存在しない理由にする人達は単純に科学を
>信奉する科学信者でしかないと思う。
・心霊現象は、肉眼ではなく、心眼で見る世界ですね。
・自分で個人的に体験する以外にない。科学者はこれが理解できない。

>科学についてある程度見識のある人は科学が存在そのものを問うものではなく、
>存在するということを仮定した上でそれらの関係性を探るものにすぎないことを
>よくわかっているものと思う。
・存在の仮定、という表現には妙に感心しました。

だから著名な科学者たちもよく神という言葉を口にするのではないかと思う。
・神とは命です。生き物には、個体の命が霊魂として宿っています。
・あなたの話にはほぼ賛成するし、ずいぶん教えられました。サンクス

60 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 09:06:06.89 ID:sRlpDKO/.net
>>57
>縁起とか中道が概念ってのは理解出来ますかね?(笑)
 
空も縁起も中道も概念なら、それらは頭の中の空想だってことだ。
キミはいつまでそんなものに拘っているのかw
 
>客観的な体験ってのがあると信じてるなら、君は精神病だよ。(笑)
 
作用と作用が作用する、などと言うキミの方がよっぽど変だな(^^) 
体験というのは、自分の六根で確認した事実を意味している。
しかし心霊現象は、心眼で個人的に確認する以外にない。
そういう区別をしないと理解できないw

61 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 13:20:29.44 ID:sRlpDKO/.net
わたしの主要な心霊体験は三つあり、
聖霊体験 → 霊魂体験 → 龍神体験、この順番で体験している。
 
聖霊体験は3秒程度、目が見えなくなり(1秒)、 漢字の「中」を
横倒しにした幻覚が見え(1秒)、頭の中、額のあたりに一滴の
しずくが落ちてくる(1秒)。それが神であることはすぐにわかった。
 
霊魂体験は坐禅中に起きた。霊魂になり神界を猛スピードで飛行する。
いつもは1h程度の坐禅だったが、その時は3hやっている。
魔境 → 想受滅 → 霊魂体験 → 地上に無事帰還という流れ。
 
龍神体験も座禅中に起きた。100mぐらいある巨大な龍の背中に乗り、
霊界を見させてもらった。眼下には大きな川が流れている。
龍神の背中に乗ったまま坐禅が終了。この時は1hぐらいの坐禅だった。

62 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 14:21:51.10 ID:sRlpDKO/.net
聖霊体験 → 半年後に霊魂体験 → さらに半年後に龍神体験
 
この三つを並べたのは、ヤコブの話とも絡め、この三つの順番と関係を
考えたいからだ。関係がないのではなく関係があるようなのだ。

63 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 14:36:28.89 ID:sRlpDKO/.net
悔い改めるから聖霊体験が起こる。悔い改めは、自分の罪に気づき、
自分で自分を断罪することである。この成り行きを注意深く観察すると、
二つの段階があるようなのである。
 
@ 最初の段階は、自分との戦いに勝ち、自分の罪を悔いる。
この罪の背後に、信じられないかもしれないが、本当にサタンがいる
可能性がある。いるとすれば、それが龍神様ではないか。
坐禅中、龍神様に出会う理由がそれ以外にまったく考えられない。
 
A 次の段階は、悔い改めをした後の、粉々に砕かれた心である。
心が砕け散ったままなら生きていけない。それが聖霊で救われるのだが、
その砕け散った状態が、想受滅ときわめてよく似ているのである。
坐禅では、想受滅の後に来るのが霊魂体験である。
つまり、聖霊体験をした時、無意識レベルで霊魂体験もやっているのか?
そう考えれば、短期間で霊魂体験ができた説明もつく。

64 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 18:14:33.55 ID:sRlpDKO/.net
このあたりの流れは、内容は少しずつ違うが、福音書にもある。
この中ではマタイが一番いい。龍神様は悪魔でもあり天使でもある。
福音書に書かれているのだから心強いw
 
マタイ3.16、4.1−11
聖霊体験 → 荒れ野で四十日間断食 → 悪魔の試練 → 天使が仕える
 
マルコ1.10−13
聖霊体験 → 荒れ野で四十日間、悪魔の試練を受ける
〜 その間、天使たちが仕える
 
ルカ3.22、4.13
聖霊体験 → 荒れ野の中を霊によって引き回され、悪魔の試練を受ける
→ 悪魔は誘惑を終えるとイエスを離れた

65 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 18:49:08.14 ID:sRlpDKO/.net
それでは、聖霊体験の後、霊魂体験、龍神体験をする意味は何か。
悔い改めは、
@まず自分に勝つ → サタンに勝たなければならない。
だから悔い改めができれば、ここですでにサタンに勝っている。
しかし、まだ無意識であり明示的ではない。
 
A次に心が粉々に砕けるが、これは坐禅中の想受滅に当たる。
想受滅ならば霊魂が姿を現すのに、これも無意識であり明示的ではない。
 
Bそこで聖霊体験(たった3秒)の意味を明確にするため、
聖霊体験の後、だれに教わるともなく、坐禅や瞑想に向かうのだろう。
 
わたしは坐禅経験がなかったが、最初からいきなり1hほど座れたよ。
そのころは聖書も読んでいた。自己流もいいところだったね(^^)

66 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/26(木) 19:23:03.79 ID:sRlpDKO/.net
わかりにくくなったので、話をわかりやすくしよう。
 
まず「上り」がある。
悔い改め <@ 自分に勝つ → A 砕かれた心> → 聖霊体験(天)
次に「下り」がある。
聖霊体験 → <A 霊魂体験 → @ 龍神体験> → 現実肯定(地)
 
霊魂体験から地上に帰還できたのは、神界ではなく地上を選んだからw
龍神体験で霊界を望んだが、龍神様がそれを許さなかったからw
坐禅の「下り」で教えられたのは、生きていろ、ということだろうか。
 
神はいるし、霊魂は不滅だし、神風も吹く。
そのためには、自分の罪に気づき、悔い改めなければならない。
あきらめなければ、だれでも聖霊体験ができる(^^) 

67 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/26(木) 20:00:03.77 ID:mvHL1z2k.net
>>45 >>46

神は地上のものに心を引かれぬ霊の国で実在しておられる。しかし、そこでつも一緒にいようとしなかったのが人間である。

 たとえば広大な大自然で何事も思い煩うことなく、神と一緒に喜び【山を移すほどの力・神通力】何でもできる神と喜んで信仰ありと喜んでいた。足りず、神と一
 諸に喜んでいるばかりを望みません・・・ 一切皆苦・苦しみ悶えた地 

 神は被造物・アートマン=自動車(人間という身体)を与えた。中にいるドライバーは、神といた時のように、信じることすらなく、自動車はメーカーを誇らせるよ
 うに造られた=全世界は悪しき者の配下・妄執という一つのものに一切のものが従属した。それが、ドライバーを信じさせるようにしたのだから、神は快く思わない。

―すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった(ローマ)
 イエスはこの世の者ではない、決して死を味わうことのない者としてイスラエルにつかわされ、釈迦は世捨て人・生きながら彼岸を目指す者が信仰とバラモンどもを
 戒めた。

68 :神も仏も名無しさん:2015/03/26(木) 20:03:20.98 ID:XXiAyCyS.net
>>1
それを強制する為にはオウムを堕落させるまで攻撃した。
目撃したのはそれだよ。

69 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/26(木) 20:32:17.07 ID:mvHL1z2k.net
■貪欲な信仰に対し自分の命を憎め 生きながら彼岸

―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ)―身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人〜悪魔の征服者です〜みずから彼岸に渡
り終わり〜善悪の両者に汚されません(ブッダのことば)

 その当時の宗教者に対して、神への正しい道を説かねばならなかった。

□神はからし種一粒ほどの信仰の無い者 として車社会をゆるした

 ―「神よ、わたしはほかの人たちのように」より〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ)
 ―「わたしには子がある〜」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である
 ―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己が愛しいのである(真理
 のことば・感興のことば)

 神は神により何も信じないで全ての者が生まれたが、実は、全ての自動車とドライバーを尊重している。異邦人の自然のままでの律法でもわかるように、ドライバー
 が目覚め、自動車社会に益があるようにするのが宗教の役割である。

70 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/26(木) 21:04:03.19 ID:mvHL1z2k.net
■賢い思考は悪魔=神を考える者は悪魔=自分の知恵で神を認める者はいない=全てのものの上にある

聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり清浄な行者=神は世と世にあるものとを一切創っておらず、地上のものに心を引かれない霊の国の者のように、大自然を神に近い者と
創られた。今でも、神は人間の欲得から離れ、何事も思い煩わない者を信仰ありと喜ばれている。親が子供に物欲・快楽・享楽を貪ることを良いとせず、外で元気に遊ぶ
子供、大人になっても快楽を貪り、また世のことにくよくよと思い煩っている者より、「よい天気ですね」と大自然を喜び、何事も思い煩わない者は聖霊に満ちた神に近
い。

―盲人で口のきけない人をいやす―「まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」〜人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す
言葉は、ゆるされることはない〜きたるべき世でもゆるされることはない(マタイ)
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない(神々との対話)

 修行完成者=崇高 でなくとも、他人の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとする者を悪魔だとか悪く言う者は、きたるべき世で、ゆるされることはない。

 神にとってもからし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれた人間の宗教的思いは害。異邦人の見上げた信仰のように、きたるべき世の人々が、他人の悩み苦しみ
 思い煩いを取り除いてあげようとすることを、決して悪魔のように悪者としない日が来るであろうとして、地もあるようにされた。

71 :神も仏も名無しさん:2015/03/26(木) 23:14:23.47 ID:PHJ/56bU.net
思考停止させたほうが、こっちとしては仕事がしやすいと思わないか?

72 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 06:22:53.22 ID:3etq+LA7.net
 
それぞれの人生だから好きなように生きればいい。
わたしの場合は、宗教など興味がなく、必死で生きていただけだよ。
そしたら偶然、聖霊体験をしたわけだが、
人格が一変、奇跡的に運がよくなり、生きるのが楽になった。
やるべきことをやった、という充実感がある。
 

73 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 07:25:39.97 ID:3etq+LA7.net
肉の割礼は聖霊体験を象徴している。
 
包皮は心の汚れや罪である。それに気づくことが悔い。自分の正体に
気づけば自分との勝負は終わる。→ サタンに勝つことでもある。
 
包皮を切り取ることは悔い改めである。心は粉々に砕かれ、心の汚れや罪が
消滅する。→ 坐禅における想受滅の前触れ
 
包皮がなくなれば亀頭が現れる。
無意識的だが、その人の霊魂が姿を見せている。→ 霊魂体験の前触れ
 
聖霊体験 〜 頭の中に神の雫が落ちてくる。
その人はこの雫を心眼で見ている。雫に心を奪われ、雫が心に広がる。
肉の割礼の意義はこの聖霊体験にある。

74 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 07:40:58.59 ID:3etq+LA7.net
ここで重大な結論が出てくる。
 
肉の割礼が聖霊体験を象徴するなら、それは女性には聖霊体験ができない
ことを教える。つまり、女性は本質的に神と出会えない。
女性は男性を通し、神を想像する以外にない。
 
なんでそうなるかと言えば、自分の心を粉々に砕く必要があるから。
女性の場合はそれに耐えられず発狂する。
本質的な領域における、男と女の役割の違いなのだろう。

75 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 13:58:18.23 ID:3etq+LA7.net
女性は出産し、子育てをしなければならない。
そのため、自分を守ってくれ、自分を愛してくれる男性が必要である。
夢など見ていられない。だから男性以上に、打算的・物質的である。
 
女性は愛されようと願うばかりだから、
自己愛の塊りであって、自分中心主義者ということになる。
女性はそれだけ、神から遠い存在であると言えよう。
 
では女性に救いはないのか。そんなことはない。
出産し育児を始めたら愛することを学ぶ。女性には子供が救いなのである。
母になり、愛される側から、愛する側に回ることで救われる。

76 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 14:17:59.58 ID:3etq+LA7.net
男の頭は神である。女の頭は男である。子供の頭は母である。
男の愛が女の愛になり、女の愛が子供の愛になる。
 
こういう流れがあるから、男性の愛がその家系の興亡を左右する。
国家の運命も同じ、愛情深い民族は栄え、薄情な民族はやがて滅びる。
 
地位や財産だけでなく、その男性がどんな愛を持っているのか。
女性はそれを見分ける必要もある。

77 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 15:27:30.85 ID:3etq+LA7.net
信仰の意味を考えてみよう。
 
悔い改めによって聖霊体験をすることは理解できたろうか。
信仰はこの悔い改めを省略、救われたような気持ちにさせてしまう。
ということは、聖霊体験を遠ざけてしまうわけである。
 
肉の割礼から言えば、信仰とはコンドームである。
包皮を切り取るのではなく、人口の包皮をさらに装着するわけである。
安心ではあるが、去勢されたような空虚さもある。
〜 比喩だからオギノ式とか言わないでね ^^
 
女性は感覚的だから、偶像などがないと信仰しずらいだろうね。
女性の信者が多くなると偶像依存度が高まりそう。

78 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/27(金) 17:47:12.30 ID:3etq+LA7.net
>>71
>思考停止させたほうが、こっちとしては仕事がしやすいと思わないか?
 
あーごめん>>72、何となくわかってきたw
仕事をしている間は、損得だけ機械的に考えた方が失敗しない。
ストレス社会で生き抜く知恵だよね。

79 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/27(金) 21:02:32.53 ID:8UfZCx9P.net
かっては自分も世の信者や世間の思い込みにより、思考停止状態で、思い込みで神などがいるかもしれないと信じていた。

しかしある時、―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない・・・が「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。 イエスにそのままはいと言わ
ず、更に良心により判断をした女。

きたるべき世は、悩み苦しみ思い煩っている者を、それらがなるべくないように(完全とはならない)が、してあげようとする者を悪魔と批判しない世。

―空腹のときに食べさせ、かわいていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ〜正しい者たちは言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは
(マタイ)
―信仰心あり、学び修めた賢明な人は〜飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」、かれは、天が雨を降らすごとくに、どの轟を発するのである
貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々〜施しとして与えよ(神々との対話)

80 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/27(金) 21:05:10.77 ID:8UfZCx9P.net
神は地上のものに心を引かれない国から、人類という演出のため、全くいないようにされていたのである。

 大震災でも、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し与える政府、義援金などをする人々、肉の欲、目の欲、持ち物の誇り、五欲とそれに基づく思考 六=666のTV
 局までもが、自粛して被災者のことを考えた。神は「平和になった」と直接言われた、喜ばれていたのである。

 神はどんな信仰もなく汚されずまだ汚れのない子として生まれさせ、人間は誰も自分を愛し生まれたということを無意識でもわかり、自然のまま、隣人である国民を大切
 に思うようになる=国民も衣食住の無い人々に衣食住をといって与える政府を支持しなければいけない。

■男と女も関係ない

 霊に無い男女の性差=身体の汚い所を、恥ずかしいと認識することにより、子供より善悪判断はできる。清浄=善は性差は全く無く、子供のようにあれやこれや考えるこ
 とも無く―或るものをああだろう、こうだろう〜愚者の考えは虚妄なるのである(ブッダのことば)
  素直な心で、誰も【人間でいたいと生まれたことを尊重】してあげればよいのだが、それがわかってきた政府や国民よりも、神にとって宗教は危険【悩み・迷える・
  他の人々より私は信仰ありと自任したい、最も下劣な者】な者たちの寄り集まりなのである。

81 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/27(金) 21:41:40.57 ID:8UfZCx9P.net
■あんぽんちんなことを適度(=耽溺してはいけない)にしていれば問題ないが

 ―「神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく より、おおよそ自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるで
 あろう(ルカ)

 地上のものに心を引かれぬ霊のみが神への信仰で、私たちはそこから離れ、何ひとつ信仰の無い者だと神に決められたまま、物質界に生まれた。
 ―自分を楽しませ〜妻子を楽しませ喜ばせ〜父母を喜ばせ楽しませ〜富んだ者が分かち与え〜愚劣な人が富を得ると、自ら用いることなく、他人にも与えない。健康な人・
 知恵ある人は、富を得たならば、自ら用い、またなすべきことをなす〜人から非難されることなく、天の場所におもむく(神々との対話)

 自然災害などで全てを失っても耐え立派な人々に対し、富があっても自ら楽しむこともなく妻子・父母を楽しませることなく、他人にも与えない人=金だけ欲して私利私
 欲のみに生きる人 でなく適度に自分を楽しませ、自分のみに執着することなく他者への配慮もある人間なら自然のままでゆるされるが、この世を批判したり、足りない
 で不満があったり、それらが得られない人々もいる。

 まだ汚れのない子・大自然で清々しい心・生きている限り苦難は当たり前 というように、衣食があれば足りるような暮らしで喜ぶ者か、この世は苦しいのは初めから当た
 り前か理解できるなら、どうしようもない獣のような者を人間の宗教で束縛することもない。 他人に従属するなという仏の教えに反し、他人に従属させる=獣のような者
 を。

82 :承狂 ◆TptLNQXPVWuJ :2015/03/28(土) 00:07:35.42 ID:J5Sy0eet.net
>>60
アホか。(笑)

83 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 07:28:11.86 ID:62r5x7J0.net
聖霊体験は簡単にはできない。
ヤコブは、家を追い出されてから、20年間も苦労に苦労を重ねる。
参考書を読むだけでは無理。もちろん参考書も必要だが、
実際に世の中で苦労しないと心が砕けない。
聖霊体験の前に、何らかの準備が欠かせないのである。
  
そのヒントは肉の割礼にある。
包皮を切り取る前に、縦に切れ込みを入れなければならない。
では縦に切れ込みを入れるとは何か。

84 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 08:15:54.19 ID:62r5x7J0.net
その答は、旧約・創3「蛇の誘惑」にある。
アダムとエバが、神によってエデンの園から追放される話だが、
ここには二人のほか、神と蛇と、善悪の知識の木と命の木とが登場する。
 
二人は、善悪の知識の木の実を食べたのでエデンの園から追放された。
そうすると善悪の知識の木、その実を食べるとは何かを知らないと、
自分の罪もわからないことになる。
 
命の木の実は聖霊体験のたとえである。この実を食べさせないために、
神は二人をエデンの園から追放し、命の木に到る道を守るために、
エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置いた。創3.24

85 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/28(土) 09:34:22.87 ID:UU/6ZLBr.net
□安かれ
―山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) 
―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(神々との対話)

□平安あれ
―イエスはさまざまの病苦と悪霊とに悩む人々をいやし、多くの盲人を見えるようにしておられたが(ルカ)
― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない。かれに道から外れることは存在しない(神々との対話)
―敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。あなたがたの父なる神が慈悲深
いように、あなたがたも慈悲深い者となれ―(ルカ)
―平安の境地に達して〜足ることを知り〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜母が己が独り子を命を賭けても護るように〜上に、下に、
また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし(ブッダのことば)

 神への信仰もこの世の者ではないしかできず、生きながら彼岸しかない。人間の愚かな宗教をなくするために、世捨て(山などで断食・わずかな食物で暮らす生活)を
 させた。

86 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/28(土) 09:35:32.11 ID:UU/6ZLBr.net
■宗教で人々を支配しようとする者どもよ聞け

―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ)―身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人〜悪魔の征服者です〜みずから彼岸に渡り終
わり〜善悪の両者に汚されません(ブッダのことば)

 聖霊に満ちて荒野で断食・森に住み心静まり清浄な行者・・・神もこの行いしか信仰ありと認めない、行いにより誰も義とされないのはこのことから。妙な御利益もな
 く宗教的行為・行事も何ひとつ益をもたらさない。
 
□他の人たちと同じ人間であると認めよ

 ―「神よ、わたしはほかの人たちのように」より〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ)
 ―「わたしには子がある〜」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である
 ―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己が愛しいのである(真理
 のことば・感興のことば)自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ)

        神により何ひとつ信仰なく生まれたように、他の人たちと同じ人間である・・・神が決めた法律。

87 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/28(土) 09:36:19.60 ID:UU/6ZLBr.net
□死者供養ですら無効

 葬儀は死者を粗末に扱わないため必要ではあるが、供養により死者に影響を与えることは全く無い。
 
 外で元気に遊ぶ子供、トレッキング、何もしなくとも静かに安静、散歩など・・・快楽・享楽・欲楽から離れている行為が、善い国に近い=無意識に正しい宗教

 誰も自分の命を憎んで生まれたのではなく、自分を愛する人・・・そのように、他人にとっても自己が愛しいという認識。それを決して無にしてはいけないのであり、
 自分を愛するように隣人を愛する戒めにより、人間でいたいと生まれた生存状態をまともにする。

    ―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)

  本来、何ひとつ信仰がない状態で、そういったことがわからねばいけないのであり、信仰は悩み・迷い・強欲からきていて、決して健康な者の心から信じるの
  ではない。―わたしがこのむのはあわれみであっていけにえではない(イエス)イスラエルの失われた羊につかわされ、強欲な人間の信仰・冷酷、残忍、無慈
  悲な者をしないようにするためにいけにえとなった。 弟子たちは、そういったことが理解できるようにと、異邦人の主であると伝えようとした。

     ―イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされてはいない・・・が「女よ、あなたの信仰は見あげたものである(マタイ)

  アートマン・被造物=自動車(たとえ)=信仰できないもの ドライバーが良識的に目覚めていれば、地上も順調よくいくようにされた。平和で足りる者でなく
  てはいけない=信仰は強欲。

88 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 09:37:36.05 ID:62r5x7J0.net
罪の発生 → 善悪の知識の木の実を食べること
 
ここには二つのテーマがある。
@ ひとつは善悪の知識とは何か → これがなぜ罪なのか
A もうひとつは食べること → 食欲や性欲がなぜ罪なのか
 
簡単には解けないが、これを考えることによって心に亀裂が入る。
この亀裂がやがて心の割礼を導く、縦の切れ込みになる。
 
個人的には、世の中で苦労をする以外、次の参考書を使った。
@ 唯物弁証法 〜 簡単なものでいい
A フロイト心理学 〜 精神衛生にもよい

89 :123:2015/03/28(土) 15:04:12.86 ID:tNkrOXzV.net
信じるということ。
それは信じる対象を設定するからして、思考放棄とならないものである。
思考放棄とは、信じる対象と一体化することである。
そこに宗教の秘密があることになる。
秘儀なんてものは、そんなものであることになる。
悟りも同じである。

90 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 16:35:24.78 ID:62r5x7J0.net
神を知らないのに、神の存在を事実だと信じるのが信仰だろう。
いったん信仰すれば、神をそれ以上探そうとしないから思考が停止する。
これがカルト宗教の狙いw カルトは金儲けしか考えてない。
 
この板でもよく見かけるが、信者は儲けるという字に化ける。
宗教信者は、悪徳教祖にとって札束なのである。

91 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 18:37:33.75 ID:62r5x7J0.net
ついでだから、創世記2〜3章のことにも触れよう。
 
 創2.7 「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
 その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
ここに人間が、命と物質が合体した存在だと明記されている。
これは二元論であり、人間は命と物質が合体した、矛盾した存在になる。
では神とは何か。命そのものだね。個体としての命が人間だね。
 
 創2.8 「主なる神は、東の方のエデンに園を設け・・・」
創世記はバビロン捕囚(BC586〜538)から解放された後に、
バビロンで知った神話を参考にして書かれている。
アブラハムの出身地メソポタミヤは、エルサレムから見れば東になる。
 
 創2.9 「園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生え出でさせ」
ふたつの木は、園の中央、目立つ所にあったわけだね。

92 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 19:09:34.32 ID:62r5x7J0.net
 創2.10−14 「エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、
 そこで分かれて、四つの川となっていた。」
ここにチグリス、ユーフラテスが出てくるから、エデンはメソポタミヤ、
それも河口近くにあったのではないかと推測できる。
大洪水伝説を持つシュメール文明が想定されていてもおかしくない。
 
 創2.17 「ただし、善悪の知識の木からは、決して食べては
 ならない。食べると必ず死んでしまう。」
これも変な話だよね。食べてダメなら、そんな木を生え出でさせるなよ。
しかも園の中央。まるで食べてくれと言わんばかりだw
 
 創2.19−20 
自然物の名前の由来だ。それらは人間が名づけたと言っている。

93 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/28(土) 23:44:51.72 ID:62r5x7J0.net
 創2.21−23 男のあばらの一部から女が造られる。
次のように考えることもできる。霊魂を想定すると、霊魂のレベルでは
男も女もない。どちらに生まれるかは神秘なのである。
男の場合もあれば女の場合もある。その話を逆にし、男から女が造られた
と表現することで、元をたどればひとつの霊魂に由来しているのだと
暗示する。この場合は、性別を超えた霊魂に重点がある。
 
 創2.24 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、
 二人は一体になる。」
これを言いたいがために、前段があったと解釈することもできる。
しかしこれだと、自分の片割れが結婚相手ということになり、結婚相手の
意味が強調され過ぎてしまう。世界中に一人しかいない相手を探す?
そんなことは現実的に不可能だ。カトリックの離婚禁止には無理がある。
ただ、そのくらいの気持ちでいれば、結婚することに慎重になり、
離婚することにも慎重になる。若気の至りを防止する教訓かもしれない。

94 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/29(日) 00:13:55.15 ID:DF9wm9HW.net
霊魂だが、これは創2.7にある「命の息」のことである。
 
霊魂体験をしないとわからないだろうが、 
それは「形ある命」であって、透明な球である。
透明な球だから男でもなく女でもなく、そこには性別がない。
そういった意味で、男にも女のような部分があり、
女にも男のような部分がある。〜 肉体的にも精神的にも。

95 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/29(日) 08:00:46.21 ID:cAkXBIcJ.net
1.無=山を移すほどの力  神通力・山を移すほどの力=人間はいない=自分の知恵で神を認めたり・信じることはできない=この世の者ではない・彼岸
                人間が思考できない、測り知ることもできない莫大な力で宇宙ができる=霊

2.宇宙・大自然 安かれ・安らぎは虚妄ならざる真理・平安あれ・平安の境地  神に最も近い=清浄なら神という名称・形態さえなくなる
                肉は特定の人間の思考=愚かな偶像崇拝も無く、進化

3.自動車=土に帰るアートマン に乗ろうとする幼な子・聖霊に満ち荒野、森に住み心静まり清浄から 善悪を知れる賢い人=神を信じる罪人

4.人間=自動車に乗る運転手と自動車 ―罪に定めるな、さばくな、ゆるしてやれ〜兄弟の目にあるちりを見ながら(ルカ)
                  ―世の中のどこにも、わたしは害いを見ない。それ故に、一切の生きとし生けるものどもを憐れみながら(悪魔との対話)

96 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/29(日) 08:02:55.55 ID:cAkXBIcJ.net
5.働こう―だれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力し働き続けた(テサロニケ)
     ―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話)

  過労をしない―あすのことを思いわずらうな〜一日の苦労は、その日一日だけで十分である(マタイ)
        ―未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことで暮らしている(神々との対話)

  公平・平等―公平とあわれみと忠実とを見のがしている(マタイ)苛酷なることなく、貪欲なることなく〜万物に対して平等(ブッダのことば)

  与えよ・わかち与え
 
 ―空腹のときに食べさせ、かわいていた時に飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ〜正しい者たちは言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは
(マタイ)
 ―信仰心あり、学び修めた賢明な人は〜飲食物をもって満足せしめよ。心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」、かれは、天が雨を降らすごとくに、どの轟を発するのである
 貧窮なる人々、旅行く人々、宿無き人々〜施しとして与えよ(神々との対話)

97 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/29(日) 08:40:13.29 ID:cAkXBIcJ.net
神はこの世の者ではない霊(神の右)にならないと誰も信仰ありとされない方
 イエスと一緒におれば信仰あり、弟子たちが信仰を増してください←からし種一粒ほどの信仰のない と神が決めた法律を教えた

人の子・生きながら彼岸を目指す姿で
 人の姿では、こういった行いが神の国に近いのだと、人々に信仰ありの姿を示して、天にあるもの地にあるもの一つ・中道を善い行いとして受け入れさせようとした

―律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくでも、彼らにとっては自分自身が律法なのである(ローマ)
―平安の境地に達して〜一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ(ブッダのことば)
―「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』
 (ルカ)

 霊はドライバー 自動車が信仰をする。しかし、何も信じないで、人々に負担をかけまいと働こう・ブラック企業は悪い・格差是正・大震災の時、正しい者が何も信じず
 とも、衣食住の無い人々に衣食住をといって施し与えたように、ドライバーが目覚めていれば、車社会も何でもできるようなパワーと共に在る。
  それが、神という名称の働き。

98 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 12:51:32.44 ID:79AVtPYU.net
性別のない霊魂は、男に生まれることもあり、女に生まれることもある。
男にも完全な霊魂があり、女にも完全な霊魂がある。
霊魂の片割れなどというものはない。
結婚したら一つの霊魂になるわけではなく、二つの霊魂のままである。
かりに一つの霊魂なら、相手が死ねば自分も死ぬことになる。
そんなことはありえないから、そこには二つの霊魂があることになる。
 
ではなぜ、創2.24「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、
二人は一体となる。」とあるのだろう。二人の子供に視点を移せば、
二人が一体になるのは子供の身体であることに気づく。
旧約では、こういったひっくり返し技法がしばしば用いられる。
人間は命と物質が合体した矛盾した存在であり、直線的な話では真理を
語り尽くせないからだろう。
次の創3「蛇の誘惑」にも、ひっくり返し技法が用いられている。

99 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 13:30:30.87 ID:79AVtPYU.net
 創3.1 「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは
 蛇であった。」
なぜ蛇なのか。それは実際の蛇ではない。蛇の形をしたサタンである。
サタンなどいないと思ったら、失楽園の話は理解できない。
信じられなければ、神がサタンを造ったと仮定しよう。
サタンは、エデンの園にいるのだから、神が造った天使でもある。
 
 創3.1 「蛇は女に言った。」
聖書の記述は、蛇の誘惑 → 女の誘惑 → 男の欲望 → 原罪の発生 
という順序になっている。この順序は、女がより感覚的・物質的である
ことから納得できる。女の方がサタンにだまされやすい。
男は女にだまされる。事件の背後には女がいる (^^)
サタンは天使だから、これが神の最初からの計画ということになる。

100 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 14:08:29.19 ID:79AVtPYU.net
 創3.3 創2.17 〜 善悪の知識の木の実を食べると死ぬ
 
エデンの園は神話であり、天上にあるわけだから、
エデンの園を追放されることで、人間は地上生活を開始することになる。
地上なら善悪の知識が必要だし、寿命があるから必ず死ぬ。
 
そうすると、原罪によって追放されたのではなく、命の息を泥人形に
吹き入れた時からの、神の計画が実行されただけになる。
命が地上に根付いて人間になる。それを神は「よし」とされた。
話がひっくり返しになっているね。
 
命と物質が合体した、矛盾した存在が人間なのである。
ここに人間の苦しみも楽しさもある。

101 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 17:57:44.58 ID:79AVtPYU.net
 創3.9−13 責任転嫁(アダム→エバ→蛇)
蛇は神に責任転嫁しない。サタンは天使だから神の奴隷である。

 創3.14 「主なる神は、蛇に向かって言われた。このようなことを
 したお前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものと
 なった。お前は生涯這いまわり、塵を食らう。」
人間は蛇を生理的に嫌う。不幸の元凶、サタンを愛する人はいない。
 
 創3.15 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意
 を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
お前の子孫とは、生物としての蛇の増殖ではなく、
人間の増殖によってサタンもまた増殖するという意味である。
どの人間にもサタンが住んでいる。サタンは人間の数と同じだけいる。
サタンは霊なので、分身の術を使うことができる。
 
女の子孫には、男もいれば女もいる。イエスだけを意味しない。

102 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 18:42:24.42 ID:79AVtPYU.net
 創3.15 「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意
 を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
彼はお前の頭を砕き → 女の子孫からサタンの頭を砕く者が現れる。
お前は彼のかかとを砕く → サタンは人をだまして人を倒す。
 
 創3.16 「神は女に向かって言われた。お前のはらみの苦しみを
 大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め、
 彼はお前を支配する。」
昔から出産は苦しみである。これは事実を語っているに過ぎない。
 
お前は男を求め → 女は愛される側に立つ。基本的に受身だよね。
彼はお前を支配する → 男が愛する側に立つ。

103 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 19:51:45.50 ID:79AVtPYU.net
 創3.17−19 「神はアダムに向かって言われた。・・・
 お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。・・・土に返るときまで。
 お前がそこから取られた土に。 塵にすぎないからお前は塵に返る。」
昔から、男が食べ物を獲得し、女が家事と子育てという相場だから、
前半で語られる男の苦労は罰ではなく、当たり前の話だよね。
 
問題は後半の、塵にすぎないからお前は塵に返る、という話にある。
食べ物の獲得は昔なら命がけの仕事だった。
昔の男は必然的に、命がけで女を愛することになるわけだね。
それなのに、塵に返ると宣言されたら、命がけになれないというか、
妻子のために死ぬことを躊躇するだろう。
だから死や愛や神を真剣に考える。
 
死んだら終わり(仏教では断見という)では、簡単には死ねないよね。
これは、エデンの園を追放される理由、命の木に関係している。

104 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 22:43:41.16 ID:79AVtPYU.net
 創3.20 「アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて
 命あるものの母となったからである。」
女性は感覚的で物質的だからこそ、女性の命が末広がりに広がる。
そう考えれば、母系社会の方が基本的なのかもしれないね。
 
男は女を愛するために、どうしても神を見つけ出さなければならない。
ヤコブは、神を見つけ出したがゆえに「漢」になることができたw
 
神から見れば、男と女のどちらも不可欠であって、そこに上下などない。
神に向かう男だけ、出産と育児に向かう女だけでは、人類が消滅する
男と女が協力することで人類は存続し発展することができる。
  
 創3.21「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」
神はやさしいね。これは、エデンの園からの追放が、神の計画であった
ことを暗示している。皮の衣は、もちろん人間が考えたものだが。

105 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/30(月) 23:00:07.07 ID:OafI1NnS.net
宗教がバカにされるのは 神 ではなく 人間 が 神に「はい」と受け入れることができないから  

106 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 23:14:32.24 ID:79AVtPYU.net
 創3.22 「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。
 今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となる
 おそれがある。」
神が人をおそれるわけがないw この神は複数だから、創世記を書いた
神官だろうと推測できる。聖書にある神の言葉は、神の言葉であるわけが
なく、神官が神の思いを想像して書いたものに過ぎない。
  
その神官がわざわざ、命の木から取って食べる可能性を示唆している。
命の木の実は食べることができるよ、と誘っているのである。
しかも、それを食べれば永遠の命を得ることができると。
そこまで誘われたら、もう何としてもその実を食べなくてはならない。
命の木の実を食べる 〜 これが聖霊体験だ。
 
塵にすぎないお前は塵に返ると宣告されたが、同時に
唯一の希望も書かれている。これが創世記3章のすごいところだね。

107 : ◆xGHO1E8e7M :2015/03/30(月) 23:45:43.72 ID:79AVtPYU.net
 創3.24「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、
 エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
神官は、命の木から食べる者が出てくるのを予想している。
むしろ「さあ来い」と挑発している。そのうえ、そこの番人の正体まで
明らかにしている。
 
ケルビムと剣の炎は火を吐く龍だね。またの名はサタン。
神の領域・エデンの園に汚れた、罪深い心が侵入するのを防いでいる。
サタンの誘惑はエデンの園を守るためにある。
サタンは天使なんだね。それも第一級の、最高の天使だ。
 
エデンの園の東とは、エルサレムから見て東の意味だろうと思う。
創2.8にある東も同じ、エルサレムから見て東の方か。

108 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/31(火) 22:54:07.02 ID:eCt4BnAy.net
―主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない
 (創世記)

われわれとは霊の人々。主なる神とは、霊の人々の主。肉は神のものではない。命の木はイエスの言葉―聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説き
あかされた(ルカ)

 神とは、この世の者ではない国でいる存在。私たちは神には何一つ信仰なく、人間の宗教一切に毒されることなく生まれた。霊ではなく、肉もある人間となったので
 ある。イエスが異邦人に対し見あげた信仰と言ったように、神もまた人間は何も信じないまま、心の中でコントロールして生きるべきものなのである。

創世記―地は青草と〜種類にしたがって〜水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類に従って・・・
ブッダのことば―草や木にも種類の区別あることを知れ〜水の中に生まれ水に棲む魚どもにも〜翼を乗り物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、種類の区別あることを知れ・・

109 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/31(火) 22:54:48.69 ID:eCt4BnAy.net
慈しみ
 ―この平安の境地に達して〜他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽で
 あれ〜いかなる生物生類であっても。怯えているものでも強剛なものでも〜長いものでも、大きなものでも〜一切の生きとし生けるものは、幸せであれ(ブッダのこ
 とば)

―御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない(ガラテヤ)

 ◎信仰はこの世の者でなくならない限り、誰も信仰できる者はいない
 ◎聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり清浄な行者 あわれみの行いを決して悪魔だと批判しないきたるべき世

―欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ、ああ、この世は滅びる、ああ、この世は消滅する(悪魔との対話)

 子も知らない、ただ父だけが知っておられる。

110 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/03/31(火) 22:55:34.30 ID:eCt4BnAy.net
宇宙ができる以前の莫大なパワー=エネルギーのみが物質界に影響を与える。人格神は、いつ滅びるか永久に生きるかもしれないか、わからない。

111 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 11:12:50.56 ID:XoWgs/mI.net
 創4.1 「さて、アダムは妻を知った。」
蛇はどこに消えたのだろうか。神話には、神と蛇とアダムとエバしか
登場しないから、命の木を守るケルビムは蛇だろうと考えられる。
これはこれとして、では追放されたはずの蛇はどこにいるのだろうか?
蛇は、アダムの心の中、エバの心の中に住みついている。
 
この神話は太古の一回限りの出来事なのではなく、
個々の人間の、心の中にある真実を表現したのではないだろうか。
そう考えれば、人間全員にサタンが住みついていることになる。
サタンが住んでるからこそ、人間は物質世界に根付くことができる。
いなければ欲が湧かず、あっさり死んでしまう。
  
でも、自分の中にサタンが住んでいるなんて思いたくない。
実際に見たことがないから、サタンを無視、サタンを忘れて生きている。
創世記の神話はこれを、それとなく思い出させるのだ。

112 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 11:35:03.62 ID:XoWgs/mI.net
 創3.15 「彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」
彼はお前の頭を砕き・・・とはいったいどういうことなのか。
わたしは大中小の龍神様を見ている。そこで胴や背中を見たが、龍神様の
頭や顔を見たことがない。
 
見たいとも思わないが、たぶん見ない方が正解なのだろう。
龍神様の頭や顔を見ることは、自分とは別の存在が自分に向き合っている
ことを意味する。これでは対決であり、恐怖で圧倒されることだろう。
それより、わたしが龍神様の頭や顔になった方がいい。
自分に勝つ、サタンに勝つことは、蛇の頭を砕くことなのだろう。

113 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 13:35:25.83 ID:XoWgs/mI.net
グノーシスとは何か。これについてはメッシーナ定義がある。
(1966年、イタリア、メッシーナにおける国際会議)
 
@ 反宇宙的二元論
A 人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
B 人間に自己の本質を認識させる救済啓示者の存在
 
わたしはこれを、@は反ユダヤ教 Aはプラトン流の霊魂肯定
Bはキリスト教の、イエス・キリスト信仰だと思った。
 
似ているようだが、@において大きく違うのではないだろうか。
わたしの場合、反宇宙的二元論の出所を問題にしている。

114 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 13:46:27.52 ID:XoWgs/mI.net
グノーシスには、ウァレンティノス派、パシレイデース、
マルキオンという、代表的流れが三つある。 
 
このうちマルキオンは、聖書からユダヤ教の影響を排除した
福音(ルカ福音書)と手紙(パウロの手紙)を自ら作成、
これを自派系教会の聖典とした。
 
異邦人であったマルキオンは、民族神のヤハウェとは縁のない、
「異邦の神」を至高神として登場させた。この神が無償の愛から、
人間を救済するという筋書きである。人間は罪で真っ黒。
〜原罪論・贖罪説がどうなっているかは不明。

キリスト教はユダヤ教の影響を色濃く受けている。マルキオンは
異邦人だったから、ユダヤ教の影響を排除したいと考えたのだろう。
その気持ちはわかるし、そこにかれの先見性、独自性がある。

115 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 13:51:47.31 ID:XoWgs/mI.net
グノーシス三代表のパシレイデースの説は興味深い。
 
「存在しない神」が、何か種子のようなものを投げ落とし、
下に置いた。この種は宇宙のあらゆる萌芽を自らの内に秘めていた。
ここから世界は創造される、というのである。
  
種からは三つの子性が生まれる。第一の子性は非常に軽微で、種を
出ると直ちに神のところに帰る。第二の子性は鈍重であり、
聖霊の力によって上昇するが、神のもとには到れない。そのため
上位世界と下位世界の境界として留まる。
第三の子性は非常に鈍重で下の世界に留まって浄化を必要とする。
物質世界にはそのほか、地上世界と天上世界が創造される。
 
さてここで、存在しない神からの介入がないのに、
聖霊から福音が生じ、順次下降し始める。

116 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 13:57:48.79 ID:XoWgs/mI.net
この福音で、天上世界の住民、地上世界の住民の回心が始まり、
イエスに福音が達したとき、福音の火が点火されて受難、
イエスの第三の子性がついに上昇を遂げる。
 
イエスの受難と救済が第三の子性の幕開けになる。
イエスの後を追って第三の子性が次々に「存在しない神」へと昇り、
やがてそのプロセスが終了する時が来る。
 
そのとき、上の世界に入ることのできない存在が居残るが、
神はかれらを憐れみ「大いなる無知」を与える。
何も知らないから残された者に妬みが生じることもなく、
こうして世界はハッピーエンド?で終了する。

117 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/01(水) 14:04:48.53 ID:XoWgs/mI.net
このパシレイデースのどこが興味深いかと言えば、
子性だとか福音だとかイエスだとかを全部削除してすっきりさせたら、
命と物質の二元論に似た話になるからだ。
 
「存在しない神」とは、非物質的な存在であって「命」そのもの。
「種子」とは、大地(物質)に宿った「命」であり、「形ある命」である。
「大いなる無知」とは、エデンの園を守る「龍神様」のことである。
 
「聖霊」は、イエスも福音も無関係、身体的なものと心魂的なものを、
自分から分離することによって体験できる。難しいけどね。
グノーシス三代表の中では一番気にいった。

118 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/02(木) 17:23:58.44 ID:7Rq2S1/u.net
ウァレンティノス派プトレマイオス 〜 筒井賢治著『グノーシス』より
  
まずプレーローマという充満領域、上位世界がある。
そこには30人の神々(アイオーン)が住み、その頂点に立つのが原父の
プロパトール(至高神)である。彼には妻エンノイアがいる。
この二人以下、男女の対で神々が順次並び、15組合計30人になる。
   
プロパトールはその子ヌース(叡智、理性、独り子)のみ認識できる。
しかし他のアイオーンには認識できない。ソフィア(知恵)は30番目の
アイオーンだが、父を知ろうという情熱に取りつかれ、その結果、
危うく中間界に落ちそうになる。それをプレーローマの番人ホロスに
辛うじて救われ、ソフィアは自分の思いを中間界に捨てる。

119 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/02(木) 17:35:29.75 ID:7Rq2S1/u.net
ソフィアの出来事の後、ヌースはその再発を防ぐために「キリスト」と
「聖霊」という新たな対を流出する。これでプレーローマは安定し、
その返礼に全プレーローマは一致団結、「イエス」とその護衛役である
天使たちを流出する。ただし、イエスと天使たちは対ではなく、男性格の
独り者である。イエスはソーテル(救い主)とも呼ばれる。
   
さて、ソフィアが中間界に捨てた思いが、女性格・アカモート(知恵)
である。これは「下なるソフィア」とも言われる。
アカモートは、キリストの憐れみによって、存在に基づくかたちを知った
とき、自分の惨めな境遇に動揺し、悲しみ、恐れ、落胆、無知といった
感情に取りつかれる。→ 物質的なものが成立
同時にキリストを通し、自分の出自がプレーローマであると知り、
アカモートに立ち返りという性向が生じる。→ 心魂的なものが成立
ついでソーテル(救い主)がアカモートに遣わされ、
感情から解放されたアカモートは喜びのあまり → 霊的なものを出産

120 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/02(木) 17:41:42.06 ID:7Rq2S1/u.net
ここから世界の創造が始まる。
アカモートが「心魂的なもの」から「デミウルゴス」を造る。
デミウルゴスが「心魂的なもの」と「物質的なもの」から天地を造る。
ただし人間は、「物質的」+「心魂的」+「霊的」になる。
 
霊的なものは、アカモートによってデミウルゴスに植えつけられる。
それもデミウルゴスにわからないように。
 
この霊的なものが完成するとき、アカモートは中間界を離れ、
プレーローマに入り、花婿であるソーテル(救い主)を受け入れる。
霊的な人々も心魂的なものを脱ぎ捨てて霊になり、プレーローマに入り、
ソーテルの従者である天使たちの花嫁になる。
 
これが花婿と花嫁であり、全プレーローマが「新婦の部屋」になる。
人間はすべて新婦、すなわち女性の側に位置づけられる。

121 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/02(木) 18:37:26.42 ID:7Rq2S1/u.net
プレーローマの真の安定は、人間がプレーローマに帰還することによって
初めて回復する。ソフィアの過失はその時に完全に償われる。
その時こそ、この世界に残された、心魂的なもの、物質的なものが、
すべて燃え尽きて無に帰する終わりの日だw 終わったねw
 
人間の救済は古い時代から、結婚に喩えられて来たようである。
新約聖書にも新婦の話があるよね。
聖なる結婚、ヒエロス・ガモス(ギリシャ語)は術語にもなっている。
これには真理の秘密に迫るような響きがある。

122 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/02(木) 19:18:24.89 ID:7Rq2S1/u.net
ヨハ8.14「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか・・・」
一コリ8・6「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」
 
神→神の一元論 ・・・ 地上で生きる意味が見えてこない。
人は地上で、なぜ苦しんでいるのかとw 

123 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/02(木) 23:21:24.68 ID:22oh/QEL.net
神からのメッセージ

 神はイエス・釈尊を通じて、『愛』『良識』を教えようとした。(聖書に書いてある聖霊に満ち荒野・・・神が直接言われない限り、新約聖書に書いて
 あるかわからない部分であった)

 解脱体験=決して死を味あわない国、生きながら彼岸(自分はイエスより、釈尊をよいとして書物を買い、山を移すほどの力で新約もそうだと聖書を買
 った)
   
  自分は神に、愛や良識が人間でいることの目的で、大自然を楽しみ思い煩わないことが神様と共に喜ばれることで(自然の中で神様と共に夕陽を喜ん
  んだこともある=神様はニルヴァーナの世界で、夕陽など喜ばずもっと上だろうが)

  妄執・悪しき者の配下で人間の思いを得たのに、妄執を乗り越えない『愛』『良識』が神への信仰ですか?

124 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/02(木) 23:22:05.08 ID:22oh/QEL.net
お前は「右か」「左か」と聞かれた。そして、イエスを信じて、(愛など悪いことを行わないなら右だろう)と右も左も聖書をしっかりと読まなかったの
「右」だと答えてしまった!

 神は言われた「地上のものに心を引かれぬ者」のみ「神の右」だと。そして、神への信仰は、地上のものに心を引かれぬ霊の者にならないと神への信仰
 はないと言い聞かされ、

 今、生存状態で離欲を達成しようとする釈尊と修行僧、イエスが貧しい人々に福音を聞かしたように、地上のものに心を引かれず信仰に生きる人々が、
 先に霊の国に生けること、そして、神はこのような方かと理解し、誰も自分の命を憎むことなく生まれたように、どの方向に心でさがし求めてみても、
 自己こそ愛しい者は存在しなかったように、そのように他人も愛しいと理解して生きる人々=他者への配慮もある人間は、人間らしい者であること。

 富への貪りや人々の肉の欲、目の欲、持ち物の誇りの貪欲にあくせくし思い煩い悩み苦しみ仕えても、神の左、滅びの者・悪魔の子として、神への信仰
 が全く無い者となっていること。

125 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/02(木) 23:32:59.67 ID:22oh/QEL.net
神にとって、神と共に地上のものに心を引かれぬ国で神とともにいれば、神への信仰であるが、
 今、修行僧や地上のものに心を引かれぬことに足りて喜ぶ行いをしない限り、また再び、人でありたいと地に生まれる=ほとんどの者の運命。

 しかし、人間でいたいと生まれる全ての者を尊重されているし(一切皆苦・苦しみ悶えた地=耐え忍び)
  この世の者でないように生まれたいなら、イエスのように地上のものに心を引かれぬ者とならないといけない、釈尊や修行僧のように世捨て、離欲を
   達成しないと、地上のものに心を引かれぬ離欲の国に安住することはできない。

 痛いやかゆいや、その他諸々の苦難・困難があり神を信じても、神にとって非常に罪深く、離欲と何事も思い煩わないことを喜ばないお前たちが悪い。
 
 私たちは生まれた時点では、神により何も信じないで生まれ、聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり、無所有でも何も思い煩うことない者をよしとしな
 いと、神を信じても責め立てられるだけである。

126 :神も仏も名無しさん:2015/04/03(金) 04:42:53.29 ID:qBv1nKpq.net
騙しだけが全てになったヤツが行き着くのは騙されてる人間への嫉妬と破壊行為だ

127 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 10:40:02.81 ID:TEpEmYgl.net
グノーシスにおける罪と救済
 
@マルキオン
 人間の心はなぜか真っ黒 → 至高神の無償の愛によって救済される
 キリストは、至高神から派遣された救済啓示者である。
 救済されるのは、霊魂のみであり、肉体は滅びる。
Aパシレイデース
 人間の心には鈍重なものがある → 福音によって回心、救済される
 イエスの受難によって、心魂的なもの、物質的なものが滅びる。
 霊的なものだけが救われる。
Bウァレンティノス派プトレマイオス
 ソフィアの過失 → それは「聖なる婚姻」で救済される
 心=心魂的なものと、物質的なものを脱ぎ捨てることにより、
 霊的なものだけが救われる。→ プレーローマにヌースが流出した対、
「キリスト」と「聖霊」が救済の基本型になる。

128 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 11:20:21.44 ID:TEpEmYgl.net
この世の罪や悪はどこから生じるのか?
 
世の中の貧病争を見れば、人間に罪や悪があることは認めざるを得ない。
キリスト教だけでなく、グノーシスも仏教もそれを認めている。
しかし、唯一の善なる神がこの世を創造したとすれば、
なぜ罪や悪が存在するのかを説明できない。
善なる神が、罪や悪を造り出す理由がまったくないからである。
 
キリスト教は、この世を否定、あの世に幸福を想像する。
グノーシスは、この世の創造神を否定、至高神のプレーローマを想像する。
仏教も似たようなものであり、死後に涅槃を想像している。
 
どれもこれも、生きるのではなく、死ぬことを目標している。
死ぬことが目標では病的だろう。どこかが間違っているのではないか。
どこが間違っているのだろうか。

129 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 12:30:20.84 ID:TEpEmYgl.net
普通、神の定義は次のようなものだろう
@ 神は唯一である
A 神は全知全能である
B 神は天地を創造した
C 神は善である
 
このうち、まずCが問題になる。
善なる神が、罪や悪を生じさせるわけがないからである。
結論から言えば、物質から罪や悪が生じている。
Bも誤り。神は命であり、物質宇宙を創造することはできない。
人間も含め生き物は、命と物質が合体した、矛盾した存在なのである。
Aも誤り。神は生き物を通じ、この地上に影響を与える。
 
@だけが正しい。神は命であり、命以外の神はどこにも存在しない。

130 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 13:11:35.19 ID:TEpEmYgl.net
では逆に、神を命とし、物質世界と切り離せば説明がつくか
@ 神は唯一である → ○
A 神は全知全能ではない。全知であっても全能ではない。
B 神は天地を創造していない。生き物を創造しただけである。
C 神は善である → ○
 
神が命なら、神の力はそれだけ小さくなる。
しかし、自己矛盾して、罪や悪の由来に苦しむことはなくなる。
罪や悪は、生き物が物質に依存することから生じる。
命と物質の二元論にすれば、罪や悪を矛盾なく説明できる。
 
ビッグバンで、命と物質宇宙が誕生したのである。
もともとひとつだったから、命と物質とは合体することができる。
それだけでなく、命は自分の片割れ、物質を目指している。
物質と合体することによって、形を持つことができるからである。

131 :123:2015/04/03(金) 16:51:24.94 ID:SfEaigNz.net
129.130.
神の定義。
定義しないのが正解である。
混乱するだけである。
1.神は唯一である。
だれが数えたのか。不明であることになる。
2.神は全知全能である。
それは神の属性の一である。全部ではない。
3.神は天地を創造した。
それも神の仕事の一部である。全部ではない。
4.神は善である。
それも神の一部である。全部ではない。
方法論なしで聖書を読んでも不毛であることになる。残念である。
その自覚がないことが問題となる。

132 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 17:17:48.16 ID:TEpEmYgl.net
ヨハ8.14「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか・・・」
一コリ8・6「万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」
 
神→神の【一元論だと】 ・・・ 地上で生きる意味が見えてこない。
人は地上で、なぜ苦しんでいるのかとw
神へ帰ることが目的なら、最初から神のところに居ればいいわけであり、
人間を地上に造る意味がなくなってしまう。バカじゃないかとw
 
しかし、命と物質の【二元論】だとしたらどうか。
神の目的は、命そのものがこの地上に登場することなのではないか。
それなら苦労のし甲斐がある。神と共に歩むわけだから。
どんなに苦労しても底抜けに苦労できる。
 
一元論は病的だが、二元論は健全だと思わないかw

133 :123:2015/04/03(金) 17:29:33.85 ID:SfEaigNz.net
132.
二元論は宗教の論理とならないものである。
命と物質との二元論か。
二つに分けるための方法論がダメである。
その分別の規準を明確にせよ。
いい加減であることが判明することになる。

134 :神も仏も名無しさん:2015/04/03(金) 17:37:02.56 ID:/ktOfUnS.net
物質に係わらない生命現象って何?

135 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/03(金) 18:14:17.28 ID:TEpEmYgl.net
>>131
ある程度定義しないと話にならない。イメージできないからね。
>>133
命そのものは聖霊体験で知る以外にない。スレの最初から読んでね。
>>134
あなたもスレの最初から読んでほしい。

136 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/03(金) 21:25:25.01 ID:vgZgOLc0.net
神という霊的人格はいる。しかし、自分は何も信じず、決して死を味あわない境地と妄執・全世界は悪しき者の配下だけなら、神に遭遇することはなかっ
た。神にとっても同じなのである。

□自己の沈黙を知るがまま

 ―思考の及ばない静かな境地は、苦しみの止滅であり〜そこには、すでに有ったものが存在せず〜太陽も輝かず、月も存在しないところのその境地を、わた
 くしはよく知っている(感興のことば)
 ―この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち〜これらの事が、ことごとく起こるまでは、この時代は滅びることがない。
 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だ
 けが知っておられる(マルコ)

  ―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント)
   無にならなければ、何でもできるようなものを知ることはできない。人には神を汚す言葉はゆるされるが、聖霊を汚す言葉はきたるべき世でもゆるさ
   れることはない。

137 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/03(金) 21:26:07.64 ID:vgZgOLc0.net
■宇宙ができる前の無=で人知では測り知ることのできない莫大な力があった

□偶像礼拝、神様という人格がいると思っても

 ―イエスは聖霊に満ちて〜荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず(ルカ)
 ―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが〜未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のことだけで暮らしている
 (神々との対話)
 ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え(ブッダのことば)
 ―何ものかを信ずることなく、作られざるものを知り〜善悪をなすによしくなく、欲楽を捨て去った人〜人のいない林は楽しい(真理のことば)
 ―山へ逃げよ〜昼のあいだは宮で教え、夜には出て行ってオリブという山で夜を過ごしておられた(ルカ)

 まだ何一つ信じなくとも、汚れの無い幼い子のように、世の欲得にあくせくせず、世の中の思い煩いを捨て去り、大自然などを楽しんだり、欲得から離れ
 静かなことに満足したり、「よい天気ですね」と挨拶したり・・清浄な状態では信じることもなくなるが、何も信じずとも何事も思い煩わないで喜ぶ心と
 悪から離れた者は、霊に近い。また、神といっても霊である。人の手で造られた必要な物を喜びながら、誰も神に信仰ありとされる者はいない=神の言

   私たちは、神にとって他の人たちと同じ運命なのである。   

138 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/03(金) 21:52:41.76 ID:vgZgOLc0.net
□人の手で造られた物を必要とし喜ぶ限り、他の人たちと同じ 人間でいたいと生まれた姿
 
 ―「神よ、わたしはほかの人たちのように」より〜おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう(ルカ)
 ―「わたしには子がある〜」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない〜もしも愚者がみずから愚であると考えれば、すなわち賢者である

 ―どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己が愛しいのである(真理
 のことば・感興のことば)
    自分自身を憎んだ者は、いまだかって、ひとりもいない(エペソ)

 他者信仰・人の手で作られた偶像、宗教的行為・行事など一切無く、『世の欲得な行為から一切離れ、何事も思い煩わない心』のみ神に近い=大自然を楽しむ聖霊
 に満ちた心・清浄な心こそ霊に近い。常にそうでなく、誰も自分の命を憎むことなく生まれた人間であり、自分を愛する者であることを理解し、他者への配慮もあ
 る良識的な人間で善悪を知る。また、快楽・享楽・欲楽を貪ることを善いように考えてもならない=神にとって滅びに至るかもしれない愚かな行為であり、自制の
 ほうが良い=霊に近い。また、滅びの者たちに対し敵意・怒り・憎しみを抱いてはならず、あやまちをゆるし、自分のことだけを見よ。

   他人のあやまちを見ることを決して喜ばれない方である。

139 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/04(土) 09:32:24.66 ID:iFBBfIwW.net
□神とは

 ―神を信じなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動ぎ出してと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら。そのとおりに成る
 であろう(マルコ)

 ―不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである(ローマ)
 ―欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す〜あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影と
 かいうものはない(ヤコブ)

              ―山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい(コリント)

  無にならないと神に義とされない、神は霊である。山を移すほどの力・神通力と一つ。人知を遥かに超えた莫大なパワーと一つ。偶像なるものは世に存在しな
  い。

140 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/04(土) 09:33:00.96 ID:iFBBfIwW.net
□自己の沈黙

 ―思考の及ばない〜そこでは月も照らさず、太陽も輝かない〜その境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、かたち無きものからも、
 一切の苦しみから全く解脱する(感興のことば)

 ―日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち 天地は滅びるがイエスの言葉は滅びることはない(マルコ)
 ―この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった(コリント)

    宇宙ができる前の無・人知を遥かに超えたパワー 平安の境地・安らぎは虚妄ならざる真理 平安あれ・そして安かれと言われた

 ―平安の境地に達して〜他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽で
 あれ(ブッダのことば)

 宗教的に貪欲な者の考えでもわからず、識者ならむしろわかる。宇宙ができる前は、平安に満ち安らぎに満ちた莫大なパワーが在った。肉はその莫大なパワー
 に従い、益をもたらしたり、苦難・困難や滅びを生み出す。

141 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 09:41:42.03 ID:Cqw0eLNS.net
+―――――+
|神は★妄想|
|宗教は欺瞞|
|教祖は糖質| 
+―――――+

142 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/04(土) 09:57:20.54 ID:iFBBfIwW.net
■人の子 一切の者が悩み苦しみ思い煩い無いように善を思うなら=神通力・山を移すほどの力ありとわからせる=物質以前は一切悩み苦しみ思い煩いも無い

 ―人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために
  ―盲人は見え〜貧しい人々は福音を聞かされている。わたしにつまずかない者は、さいわいである(マタイ)
 ― 一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに、罪過は存在しない(神々との対話)

 人の子が唯一の神ではなく、この世の者ではない・生きながら彼岸が山を移すほどの力(神の栄光)・神通力と共に在ること。しかし、それは地上のものに心を引
 かれないよう努め、何事も思い煩わない者でなくてはいけないこと。

    ―もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとしても、その言葉どおりになるであろう(ルカ)
  人間の宗教・信仰は無い。何ものかを信じることなくつくられざるものを知り=人間は信じられるものが何も無いを認めよ。

 大自然を楽しんだり、世のことに悩み苦しまない心のゆとりが、神通力・山を移すほどの力に近い。
  自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他人にとってもそれぞれ自己が愛しいのである(感興のことば)
  ―自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ(マルコ)イスラエルにこの世の者ではないが神への信仰と示し、誰も人間でいたいと生まれたことをわかれ。

143 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 10:01:07.13 ID:vOF+7rf+.net
信じさせる=騙す

つまり

信じる=騙されるってこと

信じる=疑わないから思考停止

逆に言えば思考停止だから疑わずに信じてしまうって訳

つまり人がいい者は単に考えようとしない人 常に楽をしようとする人

だから、いいように宗教に騙される

信ずる者は、足元をすくわれるだけだ

144 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 10:03:10.85 ID:vOF+7rf+.net
思慮 ◆AIOdk12HhuOj は受け売りのみ

思考停止者の典型

145 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 10:08:12.85 ID:vOF+7rf+.net
神も仏も悟りも真理も存在しない
香具師どもが、あるかのように断言してるだけ
聖書など矛盾に満ち溢れ到底信用置けない代物
神聖でも尊くもなんともない

146 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/04(土) 15:16:23.67 ID:mlDgOhYU.net
キリスト教の一元論が、悪魔サタンを生み出した! 
  
創1.1「初めに、神は天地を創造された。」
ここに、キリスト教における「一元論」の出発点がある。
善なる神が天地を創造した以上、地上に罪や悪が発生するわけがない。
でも実際には、罪や悪がはびこっている。
 
なぜなのか。創世記には、蛇がアダムとエバを誘惑し、二人はその結果、
神によってエデンの園を追放されたとある。
悪いのは蛇ではないか。こうして蛇に、罪や悪の責任を全部押しつける。
蛇は堕天使であり、悪魔ということにされたのである。
 
この考え方には、悪魔を神が造ったことにし、神はその悪魔をどうする
こともできないという、二重の冒涜が潜んでいる。

147 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/04(土) 15:32:51.94 ID:mlDgOhYU.net
神の問いに、アダムはエバに、エバは蛇に責任を転嫁しようとする。
蛇を悪魔と見なすのは、それと同じ態度ではないだろうか。
自分が悪いことには決して気づこうとしない。
それこそが罪であり悪なのに。
 
不思議なことに、蛇は責任を神に転嫁しない。
蛇は沈黙する。
  
ヨハネ1.1−3 「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。
万物は言葉によって成った。成ったもので言葉によらずに成ったものは
何一つなかった。」
これも創世記冒頭の「一元論」に基づいているね。

148 :123:2015/04/04(土) 18:33:03.84 ID:Xwgez1pR.net
一元論。
悪魔を神が作ったか。イエスなり。
蛇は堕落天使であり、悪魔とされたか。
その蛇を生産した者はだれか。それは神である。
よってして神は善悪の二を生産したことになる。
神の善から、悪が発生したことになる。
一から二が発生することになる。

149 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 18:40:13.58 ID:SwvsW0dO.net
おそろしいことに聖書にかいてあることは真実らしい。
人の脳は宇宙につながっていて、死後、光をみる。
つまり死後の世界はある。

150 :神も仏も名無しさん:2015/04/04(土) 19:22:46.05 ID:VfzCELFG.net
その蛇である堕落天使は神を恐れず、まだ悪に触れた事もないであろう
無垢な人間を何故騙したのか?何故騙したのかがわからない。何故何だろう?
一体何がしたかったのか?何を成し遂げたのか?蛇は幸せなのか?
そもそも幸せを望んでいないのか?
満足しているのか?後悔してるのか?

悪魔もいない時代に魔が差したってか?

151 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/04(土) 21:10:38.62 ID:mlDgOhYU.net
>>148
いちじくの木がオリーブの実を結ぶことはないし、
甘い水は塩水を作れない。
>>149
死ぬと火葬されて灰になる。その時、自分はどこにいるのだろう?

152 :123:2015/04/04(土) 21:18:46.37 ID:H+s7SKiC.net
151.
神は悪魔を生産した。簡単なる一元論であることになる。
150.
それは神が生産したものである。
よってして、その責任は神にあることになる。監督不足であったことになる。
そして、人間は自由を手にいれたことになる。選択の自由である。

153 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/04(土) 21:29:16.01 ID:mlDgOhYU.net
>>150
蛇、すなわち悪魔の誘惑は、人間の思いを物質に執着させることにある。
育ち盛りの子供に欲がなければ、あっさり死んでしまうだろう。
そうならないように、悪魔が子供の心を刺激して死なないようにする。
人間は悪魔がいるから地上に根付くことができる。
それゆえ、悪魔は神の目的(命と物質の合体)に仕えていることになる。
 
しかし、年齢的に下り坂になれば、死ぬことを学ばなければならない。
人間と悪魔との関係は、人生の途中で逆転する必要がある。
悪魔の誘惑から離れられるか否か。
これは自由意志だから、その人間の責任になる。
離れられなければ、悪魔的な性格が徐々に身につくだろう。

154 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/05(日) 01:31:41.34 ID:6Fbk+erA.net
                          【 人間は意見は無視でよい 】

月や太陽・星さえ無い=無 と 人知を超えたパワー 

◎まだ汚れの無い子供は人間の宗教一切に汚されず生まれた
◎誰も自分の命を憎むことなく、自分のことを愛する人間  自分も愛するが、他人も自分が愛しい・・・何も信じず良識的に生きれば、信仰なくて良かった 両者

 神が悪いのか? 地上のものに心を引かれぬ国で足ろうとしない者が悪い、地上で衣食があれば足り、何事も思い煩わないよう努めない人間が悪い。信じた者が
 悪い。

 >>150 欲界 ―食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから(創世記)この世の例え話。
 ―悪しき者にうち勝ったからである〜肉の欲、目の欲、持ち物の誇りは、父から出たものではなく、世から出たものである〜もし属する者であったなら、わたし
 たちと一緒にとどまっていただろう(ヨハネの第一)
 ―色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと〜これは、わたしに属するものではない(悪魔との対話)

     私たちはからし種一粒ほどの信仰の無い=何も信じることができない者として生まれた=何ものかを信じることもなく

155 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/05(日) 01:32:41.40 ID:6Fbk+erA.net
                           【 悪魔(ナムチ)の軍隊 】

1)かれらは希望し、称讃し〜献供する〜供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない  宗教者への布施 
2)いっさい誓ってはならない―(マタイ)― 一切の戒律や誓いをも捨て、世間の罪過あり或いは罪過なきこの宗教的行為をも捨て(ブッダのことば)
3)意識活動も全て無くなった者(亡くなった人)は、既に別の状態にある 葬儀などやるな―(ブッダ最後の旅)―死人を葬ることは、死人に任せておくがよい
 (マタイ)
4)多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ―(悪魔との対話)見えのために長い祈りをする。彼らはもっときびしいさばきを受けるであろう(ルカ)
   意味不明な言葉を唱えたりする者は、内心は汚物に汚さている。
5)献供をささげる〜梵天の召し上がる食物ではないのです―(悪魔との対話)―偶像は何かほんとうにあるものなのか〜人々の供える物は、悪霊ども、すなわち、神なら
 ぬ者に供えるのである(コリント)
6)無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも〜有益なことばを一つ聞く(感興のことば)
7)悪魔は、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる〜尊師は〜悪しき者よ(ブッダのことば)功徳=益は人々が働くことで生じる(神々との対話)
8)形ある信仰対象物を拝むことは悪魔のような心の持ち主 この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜これらはすべて悪魔ナムチの褒め称えるところである(神々
 との対話)
9)いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。偽り(詐偽)をもうけたそのバラモンは、呪詛の作法をして、恐ろしいことを告げた(ブッダのことば)
10)すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです(マルコ)功徳を得ようとして神をまつり犠牲をささげ〜慈しみの心の功徳の十六分の一にも及ばない(感興)

156 :神も仏も名無しさん:2015/04/05(日) 01:38:21.35 ID:cCaSiVMO.net
霊/物質二元論に質問

157 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/05(日) 01:56:08.60 ID:6Fbk+erA.net
神は無=地上のものに心を引かれぬ安らぎと平安
悪魔は物や快楽・享楽・貪りや貪欲な人間の宗教的行為・行事  人間はからし種一粒ほどの無い者=何も信じず生まれた者

                       【 宗教の役割は、人間でいたいと生まれた人間に仕えることのみ 】

―法にしたがって生き、恥を知り〜自分のなすべきことを行う人を、他人は好ましいと見なす。他人に愛される人は、また自分のためにもよいことをするのである〜他人を訓戒せ
よ、教えさとせ〜悪人と善人とは、死後には異なったところにおもむく。悪人は地獄〜善人は天上―(感興のことば)
―肉体を宿している間は主から離れていることを、よく知っている〜善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである〜人々に説き勧
める―(コリント)―主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい―(エペソ)

 悩み苦しみ思い煩ってすがっても無にならないと悩み苦しみ思い煩いの無い者となれない。御利益を望んでも、信仰対象物で御利益は無い。人間が死者供養しても、それは死
 者に影響を一切与えない・・

 きたるべき世で、他人の悩み苦しみ思い煩いを取り除いてあげようとする者を、それは悪魔だとしない存在。たとえば、被災者が衣食住も無く悩み苦しんでいた、それをある
 ようにしてあげようとする者を悪魔だと非難することのない世で善いものと共に在る。

158 :神も仏も名無しさん:2015/04/05(日) 03:04:33.32 ID:zmL8xuB9.net
霊と物質の間の情報交換、二元間相互作用はどうやってるの?

159 : ◆xGHO1E8e7M :2015/04/05(日) 06:39:30.39 ID:C3sDN/IM.net
>>152
>神は悪魔を生産した。簡単なる一元論であることになる。
 
キミがそう思うなら、キミは神を悪魔と言っていればいいw
 
>>158
>霊と物質の間の情報交換、二元間相互作用はどうやってるの?
 
命そのものは物質を超えた霊的存在だよ。
物質と物質の相互作用は科学が解き明かせるだろうが、
霊的存在は物質ではないから、霊的存在と物質との相互作用は神秘だw
それがわからなくても、相互作用した結果、生き物が存在する。
キミは命を物質から作れると思うわけ?

160 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/05(日) 10:49:17.03 ID:6Fbk+erA.net
誰にとっても信じない者は幸い

釈迦は、安らぎは虚妄ならざる真理で、人格神という存在を信仰の対象としない。イエスも、本来はそれであったが、信者が悪い。
 自分もキリスト教徒から偶像を抱いてしまった。

この世の者ではない国があり、私たちは、生存状態を目的として生まれてきた。全て、人間として生まれる者は、生存状態を目的として生まれ、別にそれは何も問題無い。
 非難というものは一切されない。 しかし、その人間に集中しておればよかったのだが、人間の宗教や神を信じられるものとする人間がいて、人々を迷わす。
 また、愛情深い神とか善い神=信じて人間を手助けする善い神という存在でもない。

神という名称(霊の人格)も人間も、誰にとっても生存状態を目的として生まれ、また尊重され、心の中で何事も思い煩わないことをよしとする霊を善いと受け入れるはずで、
 この世は五欲の喜びを満たせる所だからという、私の貪りをゆるさない方。

161 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/05(日) 11:01:20.04 ID:6Fbk+erA.net
人々の富への貪欲、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りへの貪りのためあくせく仕え、悩み苦しみ思い煩うことは、霊からすれば人間でいたいと生まれた目的ですらない と。
 信仰無く生まれる状態になったからといって、欲望に目覚め、それらを希求することは、神の愛に背く者であると。


しかし、自分は何も信じなければ、五欲の対象を享受しても、「『お前は、神がいるかもしれない』として信じたが、『そういったものの享受は私への愛がない者のすること
だ』」と叱られることはなかったし、神により何ひとつ信じないまま生まれたとしても、人間でいたいと生まれたことがわかり、自分を愛しこの世のことだけに集中しながら、
他人も自分を愛しているのだとわかり、無のように扱わない者もいる。

 ―学ぶことに生きがいを認め〜これは一つの極端説であると説かれる。「快楽は享受するべきであり、清らかである。快楽のうちに欠点は存在しない」とこのように見な
 す愚者どもがいる―これは第二の極端説であると説かれる〜世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中をかげろうのごとしと見よ〜身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろ
 うのごとしと見よ(感興のことば)

       生まれた限り、人の幸せを享受するべきである という執着さえなく、何事もこだわらないで生きている人々もいるのである。

162 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/07(火) 22:35:11.01 ID:eXizwzVo.net
人格神も仏も一緒

 ―この世で、心が暗くふさぎ込んだり眠くなるのを取り除いて、心を喜ばせ〜すべてを知りきわめた人・救い主〜諸々のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質の
 ものである〜それらの静まるのが、安楽である〜何の喜びがあろうか。何の歓びがあろうか?世間はこのように燃え立っているのに。汝らは暗黒に陥っていて、燈明を求めよ
 うとしない(感興のことば)

  その世界はあるが、敬虔なクリスチャン???どもが「神を信じて下さいと」 でも、神は地上のものに心を引かれぬ国のみでいるだけで、『平和になった』『愛や良識』
  だ。「それが神への信仰ですか?」と神に聞いた。そしたら、「お前は右か、左か」と聞かれ、(悪いことをしていないから右だろう)と右も左もわからないまま「右」だ
  と答えた。

 それから、神の説教があり、『地上のものに心を引かれない者・・・への説教』・・・まるで、釈尊がサボっている修行僧に離欲の説教を、どこへ行ってもついてきて説教
 するように、嫌な神に変わった。その国を思えばこそ、神に愛があってのことだとわかっているが、最初に聞いた「人間でいたいという目的で生まれた」「愛・良識」で
 「はいそうです」と言えば、全く信仰の無い者としてゆるされていただろうに・・・

163 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/07(火) 23:12:10.23 ID:eXizwzVo.net
神からの答え
 
 信じれば、地上のものに心を引かれぬ霊のみが神への信仰・・・少しでも信仰があると思う者は、地上のものに心を引かれず、ただ衣食があれば足る暮らしで喜び、何事も思
                              い煩わないよう日々努めるのみ。

 信じなければ、誰でも人間でいたいと生まれた者を尊重・・・ 愛や良識で生きること。この世での信仰対象は、大自然などで世と世にあるものから離れ何事も思い煩わない
                              者となったり、欲得な行いから離れても、何事も思い煩わない心でいる時を喜ぶ。

                    人々の金への貪欲、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りへの貪欲のため、あくせく仕え思い煩い悩み苦しんでいる者は、人以下の、獣の
                    ような者。快感や物欲のみに生きる者は、肉だけの者とされる。

 人間の信仰 ・・・偶像礼拝などや宗教的行為・行事は、肉だけの獣を束縛させる、世の益のためと否定はされない。いつか、この世の者でない者となることは獲る=釣る。
          
   自然のままで、自分をコントロールできない人間。苦しみ思い煩っても、大自然などを楽しみ癒されることしかないし、世の中では、物や金に執着しあくせくし思い煩う
   よりも、他人への配慮もある人間が、人間らしい存在であるということ。

164 :神も仏も名無しさん:2015/04/11(土) 16:19:59.19 ID:qYzpQ/9P.net
あの世詐欺

165 :123:2015/04/11(土) 17:05:20.66 ID:/KjqDVGh.net
生活論をやっているのは、宗教とならないものである。
生活は欲望の実現の問題である。
宗教は、そうならないものであるからである。

166 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/11(土) 20:08:27.70 ID:FmiAMZUh.net
信仰あり・・・別の次元 地上のものに心を引かれない霊・生きながら彼岸=他者信仰 神
ドライブ=身体・・・信仰無い、信仰無いドライバーが何も信じなくむしろ見あげた信仰をする構造=霊=霊になれば何も信じない・人間の宗教も一切無い=正常

獣のように肉だけの者の宗教
 >>155 のような人間の宗教

 宗教者への献金(自分に対しての何らかの御利益を求める心) 宗教的行為 死者供養により人間が何らかの影響を与えると思い込む 意味不明の言葉をくどくどと唱える、言
 う宗教的行為、形ある物を拝ませ宗教的意味のあるものだと思うこと 供え物 人間の宗教から離れることの罰・離れない者への御利益を教える宗教的詐欺 

もともと宗教は無い・信仰は無いというのが 聖霊に満ちた清浄な清い者=また信仰対象としたい神という名称の人格

167 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/11(土) 20:44:05.32 ID:FmiAMZUh.net
―在家の生活を営む人に〜もしもこの世に誠実、自制、わかち与え、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば〜父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり
混乱せぬこと―これがこよなき幸せである(ブッダのことば)

―この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう(ヨハネ)〜自分自身を憎んだ者は、いまだかってひとりもいない〜自分の妻を自分自身のように愛しなさ
い〜「あなたの父と母とを敬え」これが第一の戒めであって〜肉による主人に従いなさい、人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく(エペソ)

―この世では自己こそ自分の主である、他人がどうして自分の主であろうか〜賢者は、自分の身をよくととのえて、いろいろの幸せを得る(感興のことば)
 ―そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない(悪魔との対話)―だれにも負担をかけまいと、日夜、労苦して努力して働き続けた(テサロニケ)

 生活論を言うのが神という名称の霊である。しかも、信仰の無いドライバーとしてである。信仰ありと自任したい者はこの世の者でない=肉でない=自分の命を憎む=世間の
 欲得から一切離れ、ただ衣食があれば足り、わずかな食物で暮らす世捨て人のような者である=自分を主とせず他者を主とする者

168 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/11(土) 21:14:08.63 ID:FmiAMZUh.net
人間は何一つ信仰の無い者 と決められて生まれてきており、

 しかし、母が己が子に、例えば政府が国の利益のために、少子化を防ぐためにSEXをするべきだということを子供の頃から教育すべきだとしたとしよう。まだ汚れの無い幼
 い子として、そういったことから離れるべきとする人間の父母は正しいし、ゲームなどに耽溺し、ナンパをする中学生より、外で元気にスポーツする中学生のほうが健康・・

  そういったたとえでしか心のただ中にある健康的な信仰は説明できないが

     ―山へ逃げよ(マルコ)イエスは聖霊に満ちて〜荒野を〜そのあいだ何も食べず(ルカ)一日の苦労は、その日一日(マタイ) 
     ―森の住み、心静まり、清浄な行者たちは、日に一食を取るだけであるが、その顔色はどうしてあのように明朗(仏)
     ―今日われらは美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちもよく起き上がった(ブッダのことば)

 大自然を楽しむことでもよい、花よりだんごの逆の花を楽しむことでもよい、旅行で美味を貪るよりも、海や山、川など自然に接することも含めることでもよい、トレッキング
 でもよい、自然遊歩道を歩くことでもよい、公園でゲームなど刺激を楽しむより享楽から離れることでもよい・・・五欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇りから離れて楽しむ行為
 に、永遠につながる心がある。しかし、人間の信仰対象物・宗教的行為は、心の無い獣のような者を釣り殺すだけ、心ある健康的な者を人間の宗教に束縛してはならない。
 

169 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/13(月) 20:06:01.66 ID:biKvk5lR.net
人間はドライブしている間は何一つ信仰の無いこと=人間が勝手につくった宗教的行為・行事・思いは一切無いということ

 男と女とあるが、(無は在る=宇宙ができる以前の人知では測り知ることのできないパワーは在る)無から有になって、無に無いもの性差(汚い所)を恥ずかしいとして賢くなっ
 たこと(神の右の者は、性器をただの汚い所の違いだと言う)

からし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれたが、誰も自分の命を憎んで生まれなかったこと。『母が己が命を賭けても護るように、そのように一切の生けるものどもに対しても
慈しみのこころづかいをしっかりと保て、この世では崇高』誰でも人間でいたいと生まれたこと、それぞれの者が自分を愛しているということ、何ひとつ人間の宗教的思いに汚され
ず、自分を愛していることがわかり、他者への配慮もある人間は、私利私欲のみに生き、他人への配慮もない獣のような人間でないということ。

 汚れの無い子・・・など、汚れの無く清いは、世の欲得・金銭・快楽、情欲、享楽、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りから離れ、大自然を楽しみ何事も思い煩わない者でいること。
          美味しいものを食べ、自分は清い者だとしないこと、人間関係の一番深いこととしてSEXを清く正しいとしないこと・・・

170 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/13(月) 20:06:47.22 ID:biKvk5lR.net
人間はドライブしている間は何一つ信仰の無いこと=人間が勝手につくった宗教的行為・行事・思いは一切無いということ

 男と女とあるが、(無は在る=宇宙ができる以前の人知では測り知ることのできないパワーは在る)無から有になって、無に無いもの性差(汚い所)を恥ずかしいとして賢くなっ
 たこと(神の右の者は、性器をただの汚い所の違いだと言う)

からし種一粒ほどの信仰の無い者として生まれたが、誰も自分の命を憎んで生まれなかったこと。『母が己が命を賭けても護るように、そのように一切の生けるものどもに対しても
慈しみのこころづかいをしっかりと保て、この世では崇高』誰でも人間でいたいと生まれたこと、それぞれの者が自分を愛しているということ、何ひとつ人間の宗教的思いに汚され
ず、自分を愛していることがわかり、他者への配慮もある人間は、私利私欲のみに生き、他人への配慮もない獣のような人間でないということ。

 汚れの無い子・・・など、汚れの無く清いは、世の欲得・金銭・快楽、情欲、享楽、肉の欲、目の欲、持ち物の誇りから離れ、大自然を楽しみ何事も思い煩わない者でいること。
          美味しいものを食べ、自分は清い者だとしないこと、人間関係の一番深いこととしてSEXを清く正しいとしないこと・・・

171 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/13(月) 20:23:20.12 ID:biKvk5lR.net
 ◎人間はまだ何も信仰の無い者として、聖霊に満ち荒野・森に住み心静まり・・世と世にあるものとに思い煩わず「よい天気ですね」と何事も思い煩わない者は、まだ近いとされ
  た。人間の宗教一切を非難してもよい

 あなたがたは、たとえば景気のために子供たちを快楽・享楽・物欲を貪るように教える学校の先生をよからぬ者と思ってもよいし、快楽などに耽溺しないよう、外で元気にスポ
 ーツを奨励する先生をよからぬ者と批判してはいけないし、人間の手で作られたものを拝み、呪文のようにくどくどと祈ることを教える学校の先生をまともな生徒に育てると思っ
 てはいけない。

世間で病気の人が治るようにと宗教的行為を勧める者を非難してもよいが、身体の悩み苦しみ思い煩いを取り除こうとする医者を非難してはならず、病気の治療のために、世の欲得
から離れ、快楽を貪ることなく、安静にして病気の治療に役立とうとする者を非難してはいけない。

172 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/13(月) 20:51:21.17 ID:biKvk5lR.net
神が人間の状態を無神論にされたが(霊の国が神への信仰あり=地上のものに心を一切引かれない霊 と 人間でいたいと愚かな者の益のため)

 1)誰も、自分の命を憎むことなく生まれたということ、誰も自分を憎むことなく生まれたことの理解と、生まれた者への尊重
 2)人間がつくった信仰対象物、宗教的行為行事を批判しても、思い煩って信仰する者に対し、大自然などを楽しみ何事も思い煩わない者を決して汚れた者として批判してはなら
   ないこと
 3)人間の宗教はなく、働ける者は働かねばならないと思うことは基本だが、人々の富への貪欲・肉の欲、目の欲、持ち物の誇り(五欲の欲望の貪り)のため、あくせく仕え、思い
   煩い悩み苦しんでまともだと思う者たちは、地上の者に心を引かれぬ国の者からして、地の奴隷、肉だけの獣のような者だということ。神といっても地上のものに心を一切引か
   れぬ者だけが信仰ありの者だということ、天にあるもの地にあるもの一つ・中道とあるように、自制心あり適度にすることが、人間らしいということ。

  大震災の時に衣食住の無い人々に衣食住をといって施したり与えたり・・心ある人間らしい面も具え、反して金や物や快感、享楽、快感のためだけに生き、獣のような人間もい
  るということ。

173 :神も仏も名無しさん:2015/04/14(火) 03:25:07.39 ID:Zao/U+wF.net
バレたんだからさw

174 :神も仏も名無しさん:2015/04/14(火) 04:06:24.89 ID:nZtU4qjz.net
シコ汁

175 :思慮 ◆AIOdk12HhuOj :2015/04/17(金) 19:46:53.13 ID:PQZFDi7M.net
もう表裏も無い それが神であり、また釈迦である

 大自然を楽しみ、自然のままでの律法を喜べば、無信仰で何も問題ない地である。

 宗教として修行完成者の慈しみ・あわれみ、イエスの神のわざであわれみの行い・神は愛であるという、神の国はいつごろ→ただ中にある を宗教の教えと理解し、
  人間が勝手に作る宗教を、真実でないと理解できるなら、何も信じずとも、この欲界=神による下界の暗闇の中に閉じ込めておかれた からまともを理解でき肉だけの獣の滅びから
  離れることができる。

世の終わりまで、世の欲得に汚されずまだ汚れの無い子として生まれたことに変化はないし、「よい天気ですね」と無意識に大自然を喜び清々しい心を、汚れた者だと批判することはで
きない。

176 :神も仏も名無しさん:2015/04/22(水) 23:09:53.65 ID:ASAZ/Qce.net
ハゲルヤ

177 :神も仏も名無しさん:2015/04/23(木) 22:48:03.85 ID:Y5e1i2TN.net
ハゲハゲドン

178 :神も仏も名無しさん:2015/04/23(木) 23:57:33.36 ID:fjy5FSbS.net
サイコパスガスカバ豚も思考停止しているのと同じだ

179 :神も仏も名無しさん:2015/04/24(金) 19:43:28.58 ID:V41K5PT3.net
阿含宗桐山教祖の逮捕歴

昭和二十七年八月十六日詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署

十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署

二十八年八月酒税法違反私文書偽造容疑逮捕
警視庁防犯課

二十九年三月酒税法違反私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪

180 :神も仏も名無しさん:2015/04/24(金) 21:08:12.36 ID:X5BHUoGB.net
age

181 :神も仏も名無しさん:2015/04/25(土) 10:43:46.51 ID:LvvM4FYy.net
age

182 :神も仏も名無しさん:2015/04/27(月) 22:14:01.23 ID:OayQlNgY.net
台湾の葬式風景

https://www.youtube.com/watch?v=X990ltzamQw

183 :神も仏も名無しさん:2015/04/29(水) 11:25:29.72 ID:y6ktkITf.net
>■宇宙ができる前の無

安易に過ぎないか?
そのような無があったのか、観念上の創作ではないのか。

184 :神も仏も名無しさん:2015/06/28(日) 05:30:17.82 ID:1bMqIN0h.net
相談者の亡くなった肉親の霊と話すことやその肉親について他人が知り得ない事柄を言い当てたと聞いていますが、神宮司龍峰という祈祷師は本物なのでしょうか? http://jingu-ji.com

185 :おてんば私立学院総長 ◆Sh04QfwaGE :2015/06/29(月) 06:01:55.31 ID:Gdd05de5.net
>>1
疑われるのが煙たいからこそ「信じよ」と言う。

186 :神も仏も名無しさん:2015/10/05(月) 18:41:07.50 ID:i5xslS3k.net
疑っては実行力ないから

187 :神も仏も名無しさん:2016/03/10(木) 15:59:23.19 ID:JNBwhQJn.net
信仰、ねぇ。

188 :おてんば私立学院総長 ◆Sh04QfwaGE :2016/03/15(火) 08:35:23.01 ID:czQjModW.net
とにかくこの俺としては「信じる」ことしか能がない宗教家を心底軽蔑する。

総レス数 188
121 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200