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主イエス・キリストは父なる神 2014.9.03

785 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/01/28(水) 10:28:05.06 ID:0CClCmgvQ
(冒涜)
13.最悪の運命がこうしたことがそのもとに起こる人間を待っている

天界の秘義6348
他生では凡ての中でも最悪の運命がこうしたことがそのもとに起こる人間を待っているのである、(中略)
そこにいる者らは天使たちの目には殆どいかような生命も持たない骸骨のように見えるである。
それで善と真理との冒涜を防ぐため、自分自身が再生するに堪えないようなものである人間は
(そうしたことは主により先見されているが)信仰と仁慈から遠ざけられて、悪の中におり、
悪から誤謬の中にいることを許されているのである、なぜならそのときは彼は冒涜することは
出来ないからである。

786 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/01/29(木) 21:25:18.18 ID:TN4N5ViWi
(冒涜)
14.それ

神の摂理226[2]
「もし人間はその後でそれらを拒否し、反対の状態に陥るならば、彼は聖い物を冒涜する」。
 聖いものが冒涜されるには多くの方法があり、これは後の項目に取り扱われるであろう。
しかしこれは凡ての中で最も痛ましいものである。なぜならこの種の冒涜者は死後もはや
人間ではなくなり、実際生きてはいるが、しかし狂った妄想の不断の状態の中に生き、
自分自身では高いところを飛んでいるように見え、そしてそこにいる間は空しい思いつきで
自分自身を愚弄し、幻想的な外観と戯れて、それを現実と取り違えているからである。
彼らはもはや人間ではないため、彼、彼女とは呼ばれず、「それ」と呼ばれている。
実に彼らは天界の光の中で見られると、骸骨のように見え、或る者は骨の色を帯び、
或る者は火のように、或る者は焼け焦げているように見える。これが冒涜者の運命で
あることは世では知られていない、なぜならその原因は知られていないから。
その理由は、人間が最初神的な物を承認して、それを信じ、その後それに面を背けて、
それを否定するとき、聖い物と汚れた物とを混合し、かくてそれらのものは全的な
破滅によらない限り分離されることは出来ないということである。

787 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/02(月) 07:36:29.64 ID:Vr05ING2i
(続き)
しかしこれを明らかにするため、その主題を以下のように適当な順序で説明しなくてはならない。
(イ)凡て人間がその意志を自由に働かせ、考え、語り、為すものは、それが
   善であれ、悪であれ、彼の性質に取入れられて、彼の中に永遠的なものとなる。
(ロ)悪と善とは離れて、分離するように、主はその神的摂理により絶えず人間
   の状態を予見し、処理されている。
(ハ)このことはもし人間が先ず信仰の諸真理を承認し、それに従って生き、その
   後それを斥け、否定するならば不可能となる。
(ニ)彼はこうして善と悪を混合し、そのため両者は分離されることは出来ない。
(ホ)各々の人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中には両者は
   分離されることは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される。

788 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/04(水) 10:50:49.72 ID:arDLRCTmU
(冒涜)
14.それ
神の摂理227(ホ)
「凡ての人間の中に善と悪とは分離されねばならず、冒涜者の中にはそれらは分離される
ことは出来ないため、その真に人間的なものは凡て破壊される」。

 前述したように、各々の人間の真に人間的な要素は合理性から来ており、それは、もし彼が
欲するなら、真で善いものを認め、知ることが出来る能力と、またそれに従って自由に意志し、
考え、行動することが出来ることから成っている。しかしこの自主性と合理性は自分自身の中に
善と悪とを混合した者の中に破壊される、なぜなら彼らは善と悪が彼らの中に不可分離に結合
しているため、善から悪を見ることは出来ず、悪から善を見ることも出来ず、それ故彼らはもはや
合理性を実際的にも潜在的にも持たず、また自主性も何ら持たなくなるからである。この理由から
彼らは前述したように狂った想像から作り出された妖怪のようなものとなって、もはや人間の
ようには見えず、皮膚で包まれた骨のように見え、そのため彼らは口に出されるときは、彼または
彼女とは呼ばれないで、「それ」と呼ばれる。これがこのように聖い物と汚れた物とを混合する者の
運命である。しかしこれとは異なった多くの種類の冒涜があり、それらは次の項で論じられるであろう。

789 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/05(木) 22:44:36.19 ID:VrwjL7Z01
(冒涜)
14.それ
冒涜者について
霊界日記5950

冒涜者らは、西の非常な遠方に、南寄りに、そこの深い下に、その地獄を得ている。
彼らは冒涜者となると、もはや人間ではなくなる、なぜなら彼らは、天界の光の中では、
焦げ付いたミイラとなって現れるからであり、それで彼らは女性または男性として
話されはしないで、中性の「それ」として話されるのである。
(中略)
彼女はまた暗がりの中で、黒ずんだ顔をした人間として見られた。このように、
同じく、冒涜者らの顔は徐々に黒くなって行くのである。

790 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/07(土) 10:26:43.52 ID:iEkcP/SgK
(冒涜)
15.7種類の冒涜について

神の摂理231
「第1の種類の冒涜は聖言をまたは教会の神的の事柄を笑い草の題材にする者に
より犯される」。

「第2の種類の冒涜は神的真理を理解し、承認はするが、しかもそれらを無視し
て生きる者により犯される」。神的真理を単に理解するに過ぎない者の冒涜は軽
いが、それをまた承認もしている者の冒涜は重い、なぜなら理解は単に説教家の
ように教えるのみで、必ずしも意志と結合していないが、承認は意志と結合して
いるからである、それは何物も意志の同意がないなら承認されることは出来ない
ためである。しかしこの結合には多くの種類があり、生活が承認された真理に反
している時は、その冒涜はその結合の緊密さに応じて変化する。かくてもし何人
かが復讐、憎悪、姦淫、淫行、詐欺、詭計、涜神、虚言は神に対する罪であるこ
とを承認しつつも、それらを犯すならば、彼はこの重い種類の冒涜を犯すのであ
る、なぜなら主は、『主人の意志を知ってその意志を為さない僕は多くの笞で打
たれるであろう』(ルカ12・47)と語られ、また他の所では『もしあなた方
は盲目であったら、罪が無かったであろう、しかし今はあなた方は「私たちは見
る」と言っている、それゆえあなた方の罪は残っている』(ヨハネ9・41)と
語られている。しかし外観的な真理を承認することと純粋な真理を承認すること
とは異なっている。霊界では純粋な真理を承認しつつも、それに従って生活しな
い者は、その語調と言葉には生命の光と温かさとの無い、単なる無気力な生物と
してのみ現れている。

791 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/10(火) 14:42:52.02 ID:z2QODDf5/
(冒涜)
15.7種類の冒涜について

神の摂理231
「第3の種類の冒涜は聖言の文字的な意義を用いて悪い愛と誤った主義とを確認
する者により犯される」。

「第4の種類の冒涜は敬虔な聖い物について語り、またそれを愛する者の語調と
態度とを採用するものの、心ではそれを信じ愛しもしない者により犯される」。
これらの者の大半は偽善者、パリサイ人であって、彼らは死後凡ての真理と善と
を剥奪され、外の暗黒の中へ追われる。この種の冒涜により神的なものと聖言に
、また聖言の含む霊的真理に強固に反抗した者は、言葉を奪われて、その暗闇の
中で沈黙して坐り、世で行ったように、敬虔な聖い物について喋喋と弁じようと
しても、それはできない、なぜなら霊界では、偽善者はその思うことと違った
ことを語ろうとはするが、凡ての者はその思うままに語ることを強いられ、この
ため偽善者の言葉に障害が起り、彼らはただ口ごもることしかできないからである。
しかし偽善は神に対する人間の内的な不信仰とその人間が神に対する信仰を擁護
して述べる議論との間の不一致に応じ、或は重い罪ともなり、またそれほど重く
はない罪ともなる。

792 :神も仏も名無しさん:2015/02/13(金) 12:21:14.27 ID:s+CoGFAcw
ww

793 :神も仏も名無しさん:2015/02/14(土) 05:46:00.32 ID:RddBPRBkJ
南無阿弥陀仏(-ノ-)/Ωチーン

794 :小さなヨハネ ◆1oKmZSIAF.:2015/02/14(土) 07:18:05.30 ID:jz9Bgo+T3
(続き)
「第5の種類の冒涜は神的な物を自分自身に帰す者により行われる」。

「第6の種類の冒涜は聖言を承認しつつも、主の神性を否定する者により犯される」。
これらはこの世でソツニウス派、アリウス派と呼ばれている。両者の運命は父を呼んで、
主を呼ばず、絶えず父に天界に入れられるように祈り、或る者は御子の故に天界に
入れられるようにさえ祈ることである。しかし彼らは徒に呼び求めるにすぎず、ついには
救いの望みを凡て失い、地獄の神を否定する者の許へ送られる。これらのものは聖霊を
冒涜し、この世でも来るべき世でも罪を赦されない者により意味されている(マタイ12・32)。
その理由は、神は人格と本質において一つであって、その中に三一性が在り、主はこの神
であられ、主はまた天界であり、従って天界にいる者たちは主の中におり、主の神性を
否定する者は天界に入れられて主の中にいることは出来ないということである。主は
天界であられ、従って天界にいる者は主の中にいることは前述した。

「第7の種類の冒涜は先ず神的真理を承認し、それに従って生き、後に
それをはねつけて否定する者により犯される」。

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