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【京都「正論」懇話会】長谷川三千子氏講演詳報 「解釈変えるな」は憲法の自殺 [07/04]

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/07/04(土) 10:51:31.50 ID:???
★【京都「正論」懇話会】長谷川三千子氏講演詳報(上)「解釈変えるな」は憲法の自殺
2015.7.3 23:36

京都「正論」懇話会の第47回講演会が3日、京都市の国立京都国際会館で行われ、
埼玉大名誉教授の長谷川三千子氏が「間接統治の落とし穴−敗戦後70年をふり返る」
と題して講演した。講演の概要は次の通り。



今の日本国内の政治情勢から話をスタートしてみたい。国内では安保法制の論議
真っ盛りで、連日新聞をにぎわしている。私自身も含め共通した感覚ではないかと
思うが、どうもこの論議は分かりにくい。

憲法学者が「これまでの政府解釈を踏み出している」というが、一般の人間からすれば
憲法学者の憲法論議ほど退屈なものはない。だが、退屈な論議がある意味非常に危険だ。

この法案を作ると日本が戦争に巻き込まれるという没理論的な話と、専門的で複雑な
条文解釈の話が奇妙にドッキングして、自民党政権が議論を尽くしていないという
声まで聞こえてくる。こういう状況でどんな風に頭を整理すればいいのか。

今回問題になっている法制について、「集団的自衛権の問題は元々は憲法問題として
重箱の隅をつつく話ではない。これは国際関係論、安全保障の話で、こういう観点が
憲法論議という形でいわば覆い隠され、国民に正しい議論が見えてこないのが問題だ」
という指摘がある。

この問題の中心はいわゆる集団自衛権を認めるかどうか。これは、日本国憲法の条文の
解釈として考えたときは完全に認められているし、認めないといけない。

憲法第98条で「国際法規は、これを誠実に順守することを必要とする」と定められている。
わが国は国連に加盟している、国連の国連憲章はいってみれば確立された国際法だ。

もちろん国連という組織は本来、国際平和を達成するという大目的があり、
基本的には国連があらゆる紛争を解決するが、実際問題として、自分の国が攻撃されて
いるときに、「安全保障理事会で協議中です」といっても現実の武力攻撃に対しては力もない。

そのため、この国連憲章の第51条には、国連が駆けつけるまでの間、
「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」とはっきりと書かれている。

この固有の権利は英語でいうと「inherent」。これは人間が人間である限り
備わっているような、人間であることから切り離せないような権利をさす言葉。
つまり、国家があれば、その国家には個別的、集団的の自衛権は、切り離しがたく
認められなければいけないという考え方だ。ところが一連の議論の中では、
これまでの政府解釈から踏み出しているという論議がなぜか力を持ってしまっている。

付け加えると、憲法という物は柔軟性を持っていないといけない。これは憲法と
いうものの普遍的な原理原則といっていいかと思うが、もともと憲法は長年の
慣習法が共通の法となっていったようなプロセスで積み重ねられてきたもの。
憲法の考え方の一つは継承、つながっているということ。つまり国家がつながる
限りいきなり基本的な法則がかわれば国の政治はめちゃくちゃになるということ。
これは常識そのもの。

同時に人間の社会というのは時代によって変遷していく。そういう変遷する時代の中で、
柔軟に継承し続けるためには硬直した法では逆に継承が成り立たない。柔軟に変える
べき所を変えることができて初めて、根がつながった一本の木がすくすく育つことができる。
これは成文憲法の場合も同様だ。

一方で、わが国の日本国憲法は制定後一言一句変えていない。この時間が最も長い
憲法として世界最古の憲法だ。普通の国では成文憲法であってもその時代に合わない
部分は時代に合わせて小さく改正を重ねるという方法で基本はつながりながら、
しかし柔軟に変化に対応している。>>2へ続く

http://www.sankei.com/west/news/150703/wst1507030087-n1.html

2 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/07/04(土) 10:52:23.95 ID:???
>>1より

ところがわが国の憲法は一言一句変えていない。どう柔軟性を担保できるのかといえば、
これは解釈という形で柔軟にかえていく他はない。ことに問題になっている9条は、
もうわが国の内側の状況ではなく、世界の状況がかわるにつれ、柔軟性が最も大切に
なってくる条項だ。解釈を変えていけないといってしまえば、これは憲法の自殺と
いってもいい。成文憲法の文言を改正もせず、解釈も変えないとなると、これは
人間の生きた生活で使える憲法にはならないといわざるを得ない。

ところが、憲法学者は従来の政府解釈から踏み出しており、けしからんという。
なおこっけいなのは、そういう人が従来の政府解釈を称賛していたかというと
そうでもないという奇妙な状況がある。そういう異常な状況というものを考えてみると、
現在のわが国で国会で繰り広げられている安保法制論議は「分かりにくく
うんざりするね」と済ませているわけにはいかないような出来事ではないかと思う。

これこそまさにある意味わが国の戦後レジームというものがこういう形で
現れ出ているその一例といえるのではないか。ただうんざりする退屈な論議の展開が、
いかに異常か。もう一度、目を開いてみてみる必要があるのではないか。

わが国の憲法解釈で、集団的自衛権がOKとなるはずだという議論がなぜ通用しないのか。
そこにわれわれの戦後を縛ってきた大きなたががはまっているというべきではなかろうか。

そのたがが、たまに目に見える格好で出てくるが、それが共産党の志位和夫委員長が
ポツダム宣言を持ち出した5月の党首討論だ。これが大変おもしろい理論だった。

共産党は、極めてわかりやすい言い方で話をするのがうまい。この党首討論でも
「日本は悪い戦争をしたのか、いい戦争をしたのか」という言い方で論戦をスタートしている。

その中で、志位委員長はポツダム宣言の第6項を引用し、日本の戦争は間違った戦争だとしている。

6項では、日本の指導者は国民を欺瞞(ぎまん)し侵略戦争をさせたという
認識を語っている。つまり、明らかに日本の行った戦争は悪い戦争だとしている。

志位委員長はこれを取り上げ、「わが国の戦後はこの悪い戦争をしたという
その認識から出発しているのではないか。それなのに悪い戦争をしたという
ことを認めないのか」と、とくとくと語った。

★【京都「正論」懇話会】長谷川三千子氏講演詳報(下)「間接統治によって錯覚に陥っている」
2015.7.3 23:41

確かにわが国はこういう日本が悪いことをしたとして、敗戦後の道を歩き出した。
ただし、党首討論で共産党の志位和夫委員長が絶対に紹介しなければいけないのに
紹介しなかった条項がある。それは(ポツダム宣言の内容を受諾しなければ)
「迅速かつ完全なる壊滅あるのみ」とした第13項。これがポツダム宣言の
一番大事な本質だ。

たとえば、刑事事件の容疑者の取り調べでも、頭にピストルを突きつけて自白を
強要したら、容疑者が自白をしても、これは自白ではなく、脅迫に屈したと見るべきだ。

ポツダム宣言はまさにこういうこと。ポツダム宣言が示されたとき、少なくとも
アメリカ政府は原爆実験に成功し、この迅速かつ完全なる壊滅が決して脅しでは
ないことを確信していた。日本は8月6日の広島、9日の長崎への原爆投下により、
これが本当のことであることを知り、降伏をした。

こういう生々しい力と力のぶつかり合いの中で日本は侵略国ということを連合国に
認めさせられている。わが国が侵略国であり、悪い戦争をした国であるということは、
わが国はさまざまなメディアを通じて一番の基本認識としてすり込まれた。

わが国の安全保障について、日本だけは特別だ、日本さえ戦争をしなければこの世に
戦争はないというあり得ない妄想が、日本人の中にすり込まれている。
こうやってわが国の戦後70年は続いてきた。

しかも、わが国の憲法にはポツダム宣言の延長としてできあがっている。わが国の憲法は、
連合国軍総司令部(GHQ)が作成し、その指針として出されたのがマッカーサーノートだ。
そこにはわが国は自衛のための戦争も放棄するということがはっきり明記されていた。
そういう形で憲法はできあがっているが、これは当時、完全に隠蔽された。

 >>3

3 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/07/04(土) 10:52:35.25 ID:???
>>2より

当時のマスコミも、軍事政権の脅しに屈することなく真実をねじ曲げることなく
報道しなければいけなかったはずだが、「新憲法バンザイ」「わが国の国民が作る
憲法である」と、そういう宣伝の片棒を担いだ。

日本人が選挙で選んだ代表が、日本の国会で審議して、可決した日本国政府案が
日本国憲法だという形がしっかりと確立され、憲法はあたかもわれわれが作った
ような形で定着した。これが可能になったのが間接統治のわなだ。

GHQは、日本の整然たる降伏をみて、行政機関も立法府もそのままにしておこうとした。
ただし、主権はGHQのマッカーサー総司令官が握っている。天皇であろうと国会で
あろうと国民であろうとマッカーサーのいうことには従うとなっていたが、形の上で
は国会が機能しているように見えた。だから憲法制定の過程も日本の国会で審議した
ように見え安心した。

のちにこれは嘘だとわかるが、そのまま主権回復といいつつ、主権が失われた間に
作られた憲法をそのまま自国の憲法として使い続けて今にいたっている。
その憲法のなかには、日本が悪い戦争をしたというポツダム宣言が色濃く刻印されている。
一番端的に表れているのが、「陸海空その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は
これを認めない」という9条2項だ。こういう条項は普通の主権国家では絶対にあり得ない。

世界の国々のうち、コスタリカやパナマのように軍隊を持たないことを定めた
憲法もあると護憲派の人がいうが、これは違う。

たとえばコスタリカの憲法では、確かに常設の軍隊は禁止するとあるが、
国防のために必要なときは軍隊は持てるとある。コスタリカが常備軍を持たない理由は、
軍隊を持つとクーデターが起き主権が奪われるという危険性と隣り合わせだからだ。
国防の意識がないから常備軍を持たないのではない。

一方、パナマは軍隊を禁止するとなっているが、同時に、パナマの独立と領土保全の
ためにはパナマの国民は武器を取る義務があるとはっきりと国民の国防の義務を主張
している。わが国の9条2項は国際法上ちょっと考えられない常識外れだ。

わが国の平和がこれによって保たれたと胸を張って言う人もいる。確かに保たれているが、
どういう戦略で、どういう犠牲を払ってそれが保たれたのか。ここが一番大事なこと。

日本降伏当時アメリカは世界で唯一核兵器を所有し、使用し、戦争に勝った国。
戦後しばらく、アメリカ政府も軍部も核兵器に対する過剰な自信と期待があった。

日本統治についても、当時日本本土は間接統治だが、先にすさまじい闘いによって
屈服した沖縄に関してはすぐに軍事政権ができ、直接統治を行っていた。
軍事統治している沖縄を要塞化して、基地を作りこれを恒久化し核兵器を配備する。
これでソ連が抑えられるというのがマッカーサーの構想だった。

しかし、まもなく、アメリカ本土の考えがかわる。ソ連壊滅のためには核兵器が
200発程度必要なのに、実際は数十発しかない。戦略の転換が求められているのに、
マッカーサーは原爆幻想にとりつかれていた。

常識的に、アメリカ本国政府がきちんとマッカーサーを指導していればよかった。
マッカーサーは平和思考、平和主義ではない。彼は日本がどうなるかについては
どうでもよかった。極東においてソ連をたたく戦略が一番大事だった。
ついでに沖縄に核を配備すれば、仮に日本がアメリカに反旗を翻しても、
沖縄から核攻撃も可能ではないかと考えていた可能性もあると最近の研究者は指摘する。

わが国の憲法9条、ことに2項については、沖縄の軍事基地化、要塞化、
核の配備の理念でもって構想され現実に実行されたという条項だ。

われわれは間接統治によって憲法があたかもわれわれの構想でつくったような
錯覚に陥っている。これを取り除いて憲法がどういう構想でできているのか考えると、
本当に恐ろしいこと。これを考えると、憲法の問題は神学論争をやっている場合ではない。
今の状況の中でこういう背景を念頭に置いて、少なくともだからこそ憲法解釈に
よってなんとか普通の国になる。そういうための法制を作らないといけない。
それがわれわれの急務であると実感できるのではないか。

http://www.sankei.com/west/news/150703/wst1507030088-n1.html

4 :名無しさん@13周年:2015/07/04(土) 11:21:43.69 ID:0A2FwYwTx
原理主義者は危険だな。まあ取り合えずスパイラルアップと言っておく。

5 :名無しさん@13周年:2015/07/04(土) 11:28:31.58 ID:i3QMbxRTm
立憲民主主義では
合憲の範囲内で憲法解釈を変更可能だが、
違憲の解釈は禁止。
安保法制は違憲の解釈に基づく。

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