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【産経新聞】夏目漱石 朝日新聞に入社…吾輩は“不幸”である 建仁寺
- 1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2015/06/02(火) 18:06:53.09 ID:???
- ★【福嶋敏雄の…そして、京都】(34)夏目漱石 朝日新聞に入社…吾輩は“不幸”である 建仁寺
2015.6.2 16:00
現在のJR京都駅は八条通りにあるが、かつては一条あがった七条通りにあった。
『漱石全集』(岩波書店刊)の「日記三」の、「明治四十年三月二十八日(木)」の
くだりを読んで、はじめて知った。こう書かれている。
「夜七条ニツク車デ下加茂ニ行ク。京都ノ first impression 寒イ」
夏目漱石はこの夜、しきりに寒がっていた。京の底冷えが残っていたのかもしれないが、
それだけではなかった。剣呑としたいらだちにみまわれ、それが京の冷気とかさなった。
エッセー「京に着ける夕」の一節−−
「突然と太古の京へ飛び下りた余は、恰(あたか)も三伏(さんぷく)の日に
照り附けられた焼石が、緑の底に空を映さぬ暗い池へ、落ち込んだ様なものだ」
通俗的にいえば、このとき40歳の漱石は人生の岐路に立っていた。
東京帝国大学の講師の職を投げうち、小説記者として朝日新聞社に入社するかどうかで、
最後まで迷いつづけた。
京都にやって来たのは、「大阪朝日」とのあいだで、正式入社を決めるためであった。
読売新聞(東京)からも誘いを受けていたが、大阪朝日は読売を上まわる月額200円の
好条件を提示した。大学講師としての年収が800円だったから、ざっと3倍にあたる。
読売はくやしがったが、あとの祭りだった。
念のために書くと、漱石が入社したのはあくまでも大阪朝日である。子会社の東京朝日は
現在とはちがい、購読層は中小企業主などが中心の二流新聞で、販売部数も他紙よりおとった。
それに対し、大阪朝日は大阪一の発行部数を誇る一流紙だった。
「京に着ける夕」は入社挨拶のようなエッセーで、4月はじめに掲載された。
15〜16年まえ、正岡子規と京都に遊んだころを回顧しながら、
「(子規も)よもや、漱石が教師をやめて新聞屋にならうとは思はなかつたろう」とも書いている。
漱石は4月11日まで京に滞在した。「日記三」を読むと、精力的に社寺や名所旧跡を
めぐっているが、どんな感想を抱いたのかは、さっぱり分からない。
記述がそっけないのだ。一部を引用すると、
三十一日(日)
×南禅寺。本堂再建中。松 疎水
×大極殿
×桜の馬場
×武徳会
四月一日(月)
○同志社 今手川通
○御所
寺町通
○京極−−見世物
○四条五条
といった調子である。「×」や「○」がどういう記号なのかも分からない。
「今手川通」はもちろん「今出川通」のまちがいである。
だが時たま、ちょっとした印象を添えたくだりもある。「○建仁寺」では、
「陰晴未定。時雨の如し。叡山の頂に雪を見る。旅に寒し春を時雨の京にして」と一句を詠んでいる。
−−漱石にならい、祇園の南側に広大な境内をかかえる臨済宗本山・建仁寺を訪れた。
開基は栄西、日本最古の禅寺である。
南側の勅使門から、池、三門、法堂(はっとう)、方丈と一直線につながった配置である。
三門は閉じられていたが、開けられたときの前後の直線の眺めは見事にちがいない。
漱石も三門のまえに立ったのかもしれない。ふと『門』のナゾめいた一節が浮かんできた。
「彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、
彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった」
漱石に不幸があったとすれば、「門」を通って朝日に入社してしまったことであろう。
『虞美人草』にはじまり、『明暗』(未完)にいたる小説群を残してはくれたが、
社員として小説執筆が義務づけられたため、宿痾(しゅくあ)の胃潰瘍をますます悪化させ、
わずか9年後に死んでしまったからだ。
http://www.sankei.com/west/news/150602/wst1506020013-n1.html
- 2 :名無しさん@13周年:2015/06/02(火) 18:59:00.65 ID:Y/j9Ep0WS
- 自分の立脚地からいうと感じのいい愉快の多いところへ行くよりも、
感じのわるい、愉快の少ないところにおってあくまで喧嘩をしてみたい。
これは決してやせ我慢じゃない。
⇒ 討ち死にしました。
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