2ちゃんねる ■掲示板に戻る■ 全部 1- 最新50    

■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

【小渕氏辞任】「オレは優子の代理だ」と意に沿わない人物を切り捨て、電話一本で小渕優子を呼びつけ…消えた金庫番と小渕家の「深い闇」

1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/11/04(火) 16:40:07.83 ID:???
★小渕優子をまるで子供扱い 消えた金庫番と小渕家の「深い闇」 
大特集 潮目は変わった!政界大動乱が始まる
2014年11月04日(火) 週刊現代 松田賢弥(ジャーナリスト)

■電話一本で呼びつける

その屈強そうな体躯の男は、まっすぐ前を見据えたまま記者の質問に応えた。

「解明は簡単なことではない。(刑事責任を問われ)身柄を拘束される可能性もある。とても町長はやれない」

10月20日午後、小渕家の地元・群馬県の上毛新聞に語ったこの言葉を最後に、
同県吾妻郡中之条町長・折田謙一郎(66歳)は行方をくらませた。

その後、彼の所在については「東京・赤坂のホテルニューオータニで自民党に缶詰めにされている」
「高崎市内の自身の事務所に戻っている」といった情報が流れ、カメラが彼の姿をとらえるチャンスも数回あった。
しかし折田は、取材を避けた。まるで、すべてを抱えて表舞台から消えようとしているかのようだった。

小渕優子経産相(40歳。以下、優子とする)が安倍総理に辞表を提出した20日朝、中之条町の役場に姿を現した
折田は「私が政治資金の実質的な総責任者です……」と言葉少なに語った。彼は、'00年5月に62歳で死去した
小渕恵三元総理、その後を継いだ娘・優子と、父子二人の私設秘書を約30年間の長きにわたって務めた人物である。

折田は'12年、人口約1万8000人の中之条町で町長選挙に立候補し、無投票で当選している。
この町長職の傍らでも、彼は優子の事務所に出入りし、小渕家の陰の「金庫番」という顔を持ち続けた。

「折田さんは、地元で優子さんに顔を出してほしい会合があれば、電話一本で彼女を呼びつけていました。
町長の仕事で出張先にいても、しょっちゅう優子さんに電話をかけて、ああしろこうしろと指示していた。
もう秘書ではないのに、優子さんの面倒を見続けていたんです」

中之条町役場関係者はそう明かす。また、恵三時代からの支援者もこう語った。

「優子さんは地元でも酒豪で知られていますが、ある会合の席で、酔った彼女が『私の酒を止められるのは、
折田さんしかいないわ』と言って持ち上げていたのを見たことがあります。

優子さんにとって、折田さんは父親代わりのような存在だった。地元のことが分かる秘書が他にはいなかったんです。
ただ、長年裏道を見歩きしてきた人だから、表に出れば『ホコリが出てくる』と囁かれていた」

折田は単なる秘書にとどまらず、優子の指南役であり、政治活動の師でもあった。しかし一方で、
古くからの恵三支援者や町政関係者らを別にすれば、町長選に出るまで一般町民にはそれほど知られた存在ではなかった。

「何しろ、普段は高崎にある事務所から連絡を入れて、支援者に指示を飛ばしていた。
中之条に頻繁に顔を出すような時間はなかったでしょう」(前出・恵三時代からの支援者)

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40959

地元住民の証言によると、中之条町出身の折田は、同地の中之条高校を経て群馬県立農林大学校(旧農業講習所)を卒業。
自動車のセールスマンをしていた頃に恵三の親族と出会い、地元秘書になったという。

当時、恵三の選挙区だった群馬第3区(現・第5区)は、福田赳夫、中曽根康弘の両総理経験者を輩出した
有数の激戦区で、恵三が「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲していたというのは有名な話だ。

恵三が所属していたのは、田中角栄率いる田中派だった。恵三の後援会元幹部によると、選挙を前に、
角栄が高崎駅の駅長室で恵三を叱咤し、恵三は首を垂れて涙を流したという逸話がある。

「何が谷間のラーメン屋だ。そんなことで悩む暇があったら、郷里を歩け。どこに川が流れていて、水捌けは大丈夫か、
土は痩せていないか、どの山のどこの家族に何人子供がいて、働き手はどうなっているのか。その足で歩いて見て来い」

恵三も、父の跡を継いだ世襲議員である。

一般に、世襲議員は東京育ちで地元を知らず、地元での選挙活動は「地元組」の秘書に頼りきりという人物が多い。
恵三も中学校から東京暮らしで、弱冠26歳で初当選したとはいえ、地元は秘書任せにしていた。
折田は、そうした「地元組」の秘書の一人だった。

「当時、選挙区内は福田系の家と中曽根系の家に分かれていて、『小渕ですが』と言って訪ねると、
『顔を洗って出直して来い!』と怒鳴られたものです。 >>2へ続く

2 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/11/04(火) 16:40:17.58 ID:???
>>1より

折田さんは、永田町の議員会館に詰めている東京の大学出の秘書に、『あいつら、地元の苦労を知らないくせに』と、
決していい感情を持っていなかった。恵三さん自身も、また東京で事務所を仕切っていた秘書も早稲田大学雄弁会の
OBですから、ずっと群馬で生きてきた折田氏にはコンプレックスもあったのだと思います」(前出・後援会幹部) 

■「オレは優子の代理だ」

その後、恵三が官房長官、そして総理大臣と出世するにつれ、地元住民を取りまとめる折田の存在感も増していった。
ところが周知の通り、総理の任期半ばにして恵三は脳梗塞に倒れ、世を去る。それは折田にとっても転機だった。

恵三の死のわずか1ヵ月余り後、総選挙に出馬することになった優子には、古くから地元を把握している秘書が、
もはや折田の他には残っていなかったのだ。

「優子さんの母・千鶴子さんも中之条出身ですが、恵三さんと結婚してからはずっと東京で、地元のことは分からない。
千鶴子さんは優子さんと相談し、『地元のことは、折田さんに頼みましょう』となった。
そこから折田さんはのし上がってきた」(前出と別の中之条町政関係者)

優子は、初陣となったこの総選挙で約16万票という大量の票を得た。恵三の弔い合戦だったこと、
'94年から導入された小選挙区制への移行も背景にあったが、これは何よりも折田の手腕を物語る結果だった。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40959?page=2

優子の事務所は、東京も群馬も折田の独壇場になっていった。優子の元後援会関係者が言う。

「折田さんは自分の意に沿わない秘書や、古参の支援者を切って遠ざけ、まるで『自分が優子の代理だ』という
我が物顔で振る舞うようになっていた。優子さんは3人兄弟の末っ子ですから、20歳以上離れた折田さんに
父親の影を見たとしても不思議ではありません」

やがて折田は、優子の知名度が高まるにつれ、自民党群馬県連でも采配を振るうようになっていった、
その影響力を示したのが、'07年7月の群馬県知事選である。このとき自民党の公認を得て当選した大澤正明(現職)は、
全国でも唯一の「政党公認県知事候補」として話題になった。

「この選挙の際、県連を陰で仕切ったのが折田さんだったと言われています。
もちろん、小渕(優子)氏本人の意向も働かなかったとは考えにくいですが」(全国紙政治部記者)

折田自身が中之条町長選挙で無投票当選した際にも、「対立候補が出ないように事前に根回しを行った」
というのが地元のもっぱらの見方だ。さらに、4600億円の工事費を注ぎ込み、中之条町と同じ吾妻郡内の
長野原町で工事が進められている八ッ場ダムの建設にも、折田が関与しているという話が囁かれている。

「群馬のゼネコンの間では、折田町長は『すぐに業者の優劣に口を出したがる』と評判が良くない。
しかし、どの業者もダムの関連工事は欲しい。だから、どこのゼネコンの人間も、町長とは頻繁に会っていたよ」(前出・町政関係者)

今回、最大の問題となっている「宙に浮いた」観劇会費用5000万円あまりの行方について、
優子は「何も知らない」と述べている。しかし、優子の元秘書の一人はこう言う。

「秘書は皆『小渕の代理で来ました』と言って、ワインなどの品物を有権者に渡していた。
優子さんが知らないはずはない。もちろん折田さんも、全てを背負い込む覚悟で町長の職を辞したのでしょうが、
それで決着がつくとは到底考えられません」

小渕家の抱える深い闇。その全容には、折田が全てを語ることでしか光は射さない。(文中一部敬称略)

まつだ・けんや/'54年岩手県生まれ。雑誌を中心に活動するジャーナリスト。
'12年、小沢一郎氏の妻の「離縁状」をスクープ。著書に『無情の宰相 小泉純一郎』『小沢一郎 淋しき家族の肖像』など

「週刊現代」2014年10月30日号より
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40959?page=3

3 :名無しさん@13周年:2014/11/04(火) 16:42:09.98 ID:EHxophtM4
なら、優子は辞任www

4 :名無しさん@13周年:2014/11/04(火) 17:47:18.17 ID:5fwSlk+cV
小渕優子さんは、普通のセレブ専業主婦でいいのでは?
小渕さんの辞職で、小渕家は政治家としては終わりは、時代の流れ。
柿右衛門じゃないのだから・・・

総レス数 4
8 KB
掲示板に戻る 全部 前100 次100 最新50
read.cgi ver.24052200