■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
【皇室】昭和天皇の戦後巡幸 名士より名もなき住民との交流重んじた
- 1 :◆CHURa/Os2M@ちゅら猫φ ★:2014/10/29(水) 14:06:28.64 ID:???
- ★昭和天皇の戦後巡幸 名士より名もなき住民との交流重んじた
2014.10.29 07:00
皇太子時代を含め、戦前は北海道や沖縄、台湾・南樺太まで行啓・行幸した昭和天皇。
しかし、戦後の全国巡幸はそれまでと全く違う意味を持っていた。
国家元首の比較研究を手がける西川秀和氏(大阪大学非常勤講師)が、
9月に公表された『昭和天皇実録』では見ることのできない、当時の写真を交えて解説する。
* * *
戦後の全国巡幸は単なる視察に終わらなかった。昭和天皇は訪問する先々で行政の長や土地の名士より、
名もなき住民との交流を重んじられた。
開墾場や漁港、炭鉱を訪れて農民、漁民や労働者を心から労い、訪れた病院や母子寮では引揚者や病者、
戦争で親を亡くした子供たちを激励した。敗戦後の占領という未曽有の逆境において、
国の復興に尽力する無名の人々に深い感謝の意を表明され続けた。
その実相を伝える当時の写真を吟味すると、「人間天皇」の御姿が強く印象に残る。
最も目を引くのは「笑顔」だ。かつて現人神とされ、神が笑う姿など想像できなかったが、
巡幸中は実に多くの場面で相好を崩しておられる。戦前は報道陣すら20m以上離れて撮影したが、
戦後はそうした禁令は全くなくなった。
福岡巡幸中、老婆がそれと知らず昭和天皇と並んで歩く写真がある。
戦前は「御車が60mの距離に近づいたら最敬礼を行なう」などの敬礼法があり、天皇陛下と並んで
歩くなど不敬罪に問われかねなかった。まさに世の変化を映す象徴的な一枚である。
群衆の中に占領軍兵士の姿が写っているものもある。戦後の混乱期、群衆にテロリストが紛れていても
不思議ではなかったが、昭和天皇は国民により近づくため、最小限の警備で巡幸を続けられた。
そうした事実から窺えるのは、昭和天皇の巡幸にかける強いご意思である。
全国津々浦々に赴いて直に国民を激励し、ひとりひとりの奮闘に光をあて、その場面が報道されることを
通じて全国民が復興への思いを強くする戦前の価値観が崩壊する中で、国民統合という日本にとって
極めて重要な政治的目的を、巡幸という非政治的な手段で達成された。
これは、政治的実権を取り上げられながらも国家元首として責任を果たそうという明確な意思の表われである。
そのご意思が全行程3万3000km、総日数165日に及ぶ全国巡幸を実現させたのだ。
※SAPIO2014年11月号
http://www.news-postseven.com/archives/20141029_280850.html
- 2 :名無しさん@13周年:2014/10/29(水) 16:14:22.68 ID:jsUAF5Tq8
- open01.open2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1398690561/
817 名前:おーぷん@名無しさん :2014/04/29(火)20:57:33 ID:1H30UW3Wk
「昭和の日」……いいお話なので、転載可能なこちらに投下します。
1945年5月、東京大空襲の折り、皇居も明治宮殿他27棟すべて焼け落ちた。
昭和天皇はその時にこうおっしゃられた。
「そっか焼けたか。
これでやっと皆と同じになった」
昭和天皇は地下深い防空壕に避難されておられたが、
戦後もずっとその防空壕にある一室で暮らされたそうだ。
防空壕は湿度が高く健康に悪影響を及ぼすほどの
悪環境であったそうだが、新しい御所を建てることを望まなかったとか。
そして、昭和34年、皇太子殿下と美智子妃のご成婚の時でさえ、
昭和天皇、香淳皇后は防空壕で暮らしておられた。
それから2年後、実に戦後16年後に吹き上げ御所が建てられ、
やっと住まいを移したそうだ。
そしてこうおっしゃられた。
「こんな良い家に住める様になったのも、
皆んな国民のお陰だ」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
国民はむしろもっと天皇陛下を知らなければいけないと思った。
より詳しくはhttp://nihonnooto.blog.fc2.com/blog-entry-363.htmlで
- 3 :名無しさん@13周年:2014/10/29(水) 16:16:10.09 ID:jsUAF5Tq8
- wikiから
・1949年(昭和24年)5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では、
天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が、
天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ
「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。
・天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と
言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。
別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
・行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。
行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の涼しくなってからでいいのでは、との反対を押し切り
「東北の農業は夏にかかっている」という理由で夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした[53]。
.
- 4 :名無しさん@13周年:2014/10/29(水) 16:20:41.40 ID:jsUAF5Tq8
- つづき
・アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、
「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。
皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、
吹上御所が完成する1961年(昭和36年)まで、天皇は戦時中防空壕として使用した
御文庫を引き続いて住まいとしていた。
・皇居の畑で芋掘りをしていた時、日本では滅多に見ることのできない
珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。
侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。
事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。
この時のヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
・香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(久邇宮家出身の女王であることに因む)。
一方、皇后は昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。夫婦仲は円満であった。
結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。
.
- 5 :名無しさん@13周年:2014/10/29(水) 16:25:23.69 ID:jsUAF5Tq8
- http://ywhc.ken-shin.net/kouza/syouwa_4.html
3.
我が国が終戦を迎えて数ヵ月が経ちましたが、空襲を受けた皇居の周辺は
手入れをされることもなく荒れ果てており、ところどころに草が生い茂っていました。
その様子を耳にした宮城県栗原郡の数十人の青年たちは
昭和20年の12月に上京して、皇居の護衛官に
「皇居周辺の草刈りやお掃除をさせてほしい」と申し出ました。
連絡を受けた宮内省(現在の宮内庁)の職員は感謝して
「せっかくですから、皇居の中も片付けていただけませんか」とお願いすると、
皇居内で奉仕できることを知った青年たちは喜びました。
そして迎えた作業開始の日の朝、青年たちは考えもしなかったサプライズを経験することになりました。
青年たちの前に、何と昭和天皇ご自身が歩いてこられたのです。
陛下は感謝のお気持ちを語られるとともに青年たちの身の上などをお尋ねになり、
最後に「何とぞ国家再建のために努力してほしい」と仰いました。
そして陛下がお帰りになられる際に、感極まった青年たちは
当時GHQによって禁止されていた国歌「君が代」を涙ながらに歌いました。
この話は全国へと伝わり、その後も各地から皇居への勤労奉仕に向かう人々が後を絶(た)ちませんでした。
この慣習は現在も「皇居勤労奉仕団」として続いており、奉仕した人々は延べ100万人以上に達しています。
.
総レス数 5
7 KB
掲示板に戻る
全部
前100
次100
最新50
read.cgi ver 2014.07.20.01.SC 2014/07/20 D ★